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竹取物語

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帝の求婚

(一)
 さて、かぐや姫、かたちの世に似ずめでたきことを、帝(みかど)聞こし召して、内侍(ないし)中臣房子(なかとみのふさこ)にのたまふ、「多くの人の身を徒(いたづ)らになしてあはざなるかぐや姫は、いかばかりの女ぞと、まかりて見て参れ」とのたまふ。房子、承りてまかれり。竹取の家に、かしこまりて請(しやう)じ入れて、会へり。媼(おうな)に内侍のたまふ、「仰せ言(ごと)に、かぐや姫のかたち優(いう)におはすなり。よく見て参るべき由(よし)のたまはせつるになむ、参りつる」と言へば、「さらば、かく申し侍らむ」と言ひて入りぬ。

 かぐや姫に、「はや、かの御使(みつか)ひに対面し給へ」と言へば、かぐや姫、「よきかたちにもあらず。いかでか見ゆべき」と言へば、「うたてものたまふかな。帝の御使ひをばいかでおろかにせむ」と言へば、かぐや姫答ふるやう、「帝の召してのたまはむこと、かしこしとも思はず」と言ひて、さらに見ゆべくもあらず。生める子のやうにあれど、いと心恥づかしげに、おろそかなるやうに言ひければ、心のままにもえ責めず。媼、内侍のもとに帰り出でて、「口惜(くちを)しく、この幼き者は、こはく侍る者にて、対面すまじき」と申す。内侍、「必ず見奉りて参れと仰せ言ありつるものを、見奉らでは、いかでか帰り参らむ。国王の仰せ言を、まさに世に住み給はむ人の、承り給はでありなむや。言はれぬことなし給ひそ」と、ことば恥づかしく言ひければ、これを聞きて、まして、かぐや姫、聞くべくもあらず。「国王の仰せごとを背(そむ)かば、はや殺し給ひてよかし」と言ふ。

【現代語訳】
 さて、かぐや姫の器量が世に比類なくすばらしいことを、帝がお聞きあそばされ、内侍の中臣房子に「多くの者の身を滅ぼすほどに、かたくなに結婚を拒むというかぐや姫とはどれほどの女か、出かけていって見て参れ」とおっしゃった。房子は命令をお聞きして出かけていった。竹取の翁の家では恐縮して房子を招き入れ、対面した。媼に内侍がおっしゃるには「帝の仰せで、かぐや姫の器量が優れておられると聞きました。とく見て参れとのことでしたので参上しました」と言うと、「それならばそのように申して参りましょう」と言って奥へ入った。

 かぐや姫に「すぐにあの御使者に対面なされよ」と言うと、かぐや姫は「よい器量でもありませぬ。どうしてお目にかかれましょうか」と言ったので、「情けないことをおっしゃる。帝の御使いをどれほどおろそかになさるのか」と言うと、かぐや姫が答えるには、「たとえ帝がお召しになって仰られたとしても、恐れ多いとも思いません」と言って、いっこうに姿を見せようとしない。いつもは生んだ子のように素直なのに、この度はこちらがとても気後れするような気配でつっけんどんに言うので、媼は思うように責めたてることができない。内侍のもとに戻ってきて、「残念ながら、この幼い娘はものの判断もつかない者ですので、対面いたしますまい」と申し上げた。内侍は「必ずお会いして参れとの仰せでしたのに、お会いせずにどうして帰れましょう。国王の御命令を、この世に住んでおられる人がどうしてお受けせずにいられましょうか。道理に合わないことをなさいますな」と、媼が恥じるほどの言葉遣いで言ったので、これを聞いたかぐや姫はなおさら承知するはずもない。「国王の御命令に背いたというならば、早く殺してしまわれよ」と言った。

(注)内侍・・・内侍司(ないしのつかさ)という役所に勤務する高級女官。

(二)
 この内侍(ないし)帰り参りて、この由(よし)を奏(そう)す。帝(みかど)聞こし召して、「多くの人殺してける心ぞかし」とのたまひて止(や)みにけれど、なほおぼしおはしまして、「この女のたばかりにや負けむ」とおぼして、仰せ給ふ、「なむぢが持ちて侍るかぐや姫(ひめ)(たてまつ)れ。顔かたちよしと聞こし召して、御使ひを賜(た)びしかど、かひなく見えずなりにけり。かくたいだいしくや慣らはすべき」と仰せらるる。翁かしこまりて御返事(おほんかへりこと)申すやう、「この女(め)の童(わらは)は、絶えて宮仕へ仕うまつるべくもあらず侍るを、もてわづらひ侍り。さりとも、まかりて仰せごと賜はむ」と奏す。これを聞こし召して、仰せ給ふ、「などか、翁の手に生(お)ほし立てたらむものを、心に任せざらむ。この女もし奉りたるものならば、翁に冠(かうぶり)を、などか賜(たま)はせざらむ」

【現代語訳】
 この内侍は御所に戻って、このことの次第を奏上した。帝はお聞きあそばされて、「まさに多くの男を殺してきたような心であるよ」とおっしゃり、その時は沙汰やみになったが、それでもやはりかぐや姫をお思いになられ、「この女の心積もりに負けてなるものか」と、翁に御命じになった。「お前のかぐや姫を献上せよ。顔かたちがよいとお聞きし、御勅使を遣わしたが、その甲斐もなく会わずに終わってしまった。このようなけしからぬままでよいものか」とおっしゃった。翁は恐れ入ってお返事を申し上げるには、「この幼い娘は全く宮仕えできそうもなく、持て余し悩んでおります。そうは申しましても、戻りまして帝の仰せを娘に申し聞かせましょう」と奏上した。これをお聞きあそばされ、帝がおっしゃるには、「どうして、翁の手で育てたのに自分の自由にならないのか、わが子ならどうにでもなるだろうに。この女をもし献上するなら、翁に五位の位を授けるものを」
 

(三)
 翁喜びて、家に帰りて、かぐや姫に語らふやう、「かくなむ帝の仰せ給へる。なほやは仕うまつり給はぬ」と言へば、かぐや姫答へて言はく、「もはら、さやうの宮仕へ仕うまつらじと思ふを、強ひて仕うまつらせ給はば、消え失せなむず。御宮(みつかさ)・冠(かうぶり)仕うまつりて、死ぬばかりなり」。翁いらふるやう、「なし給ひそ。冠も、わが子を見奉らでは、何にかはせむ。さはありとも、などか宮仕へをし給はざらむ。死に給ふべきやうやはあるべき」と言ふ。「なほそらごとかと、仕うまつらせて、死なずやあると見給へ。あまたの人の、志おろかならざりしを、空(むな)しくしなしてしこそあれ。昨日(きのふ)今日(けふ)帝ののたまはむことにつかむ、人聞きやさし」と言へば、翁答へていはく、「天下のことは、とありとも、かかりとも、御命(みいのち)の危ふさこそ、大きなる障(さは)りなれば、なほ仕うまつるまじきことを、参りて申さむ」とて、参りて申すやう、「仰せの事(こと)のかしこさに、かの童(わらは)を、参らせむとて仕うまつれば、宮仕へに出(い)だし立てば死ぬべし、と申す。造麻呂(みやつこまろ)が手に生ませたる子にもあらず。昔、山にて見つけたる。かかれば、心ばせも世の人に似ず侍り」と奏(そう)せさす。

【現代語訳】
 翁は喜び、家に帰ってかぐや姫に相談し、「このように紛れもなく帝は仰せになられた。それでもやはりお仕え申し上げないのか」と言うと、かぐや姫が答えて言うには、「一切そのような宮仕えはしないと思っておりますので、無理にお仕えさせようとなさるならば消え失せてしまうつもりです。官位を授かるようにして差し上げ、私は死ぬばかりです」。翁が答えて、「そんなことをおっしゃるな。官位も、わが子を見られなくなっては何になろうか。それにしても、どうして宮仕えなさらないのか。死ななければならない理由があるものか」と言う。「それなら嘘かどうか、お仕えさせ死なずにいるか試してごらんなさい。私への志が並大抵でなかった多くの方々を破滅させてしまったのに、昨日今日に帝がおっしゃったことに従ったのでは、人々に対して恥となります」と言うと、翁は、「世間がどうあろうと、あなたの命こそが私にとって重大事であるので、やはり宮仕えいたしかねることを参内して申し上げよう」と言い、参内して、「仰せのお言葉のもったいなさに、あの娘を帝の御元に参上させようとあれこれ尽力いたしましたが、宮仕えに差し出すなら死ぬと申します。造麻呂の手で生ませた子でもありませぬ。昔、山で見つけた子なのです。そのため、気性が世の普通の人に似ていないのでございます」と奏上してもらった。 

(四)
 帝(みかど)仰せ給ふ、「造麻呂(みやつこまろ)が家は、山もと近かなり。御狩(みか)り行幸(みゆき)し給はむやうにて、見てむや」とのたまはす。造麻呂が申すやう、「いとよきことなり。何か心もとなくて侍らむに、ふと行幸(みゆき)して御覧ぜむに、御覧ぜられなむ」と奏すれば、帝にはかに日を定めて、御狩りに出で給うて、かぐや姫の家に入り給うて見給ふに、光満ちて清(けう)らにて居(ゐ)たる人あり。「これならむ」とおぼして、近く寄らせ給ふに、逃げて入(い)る袖(そで)をとらへ給へば、面(おもて)をふたぎて候(さぶら)へど、初めて御覧じつれば、類(たぐひ)なくめでたくおぼえさせ給ひて、許さじとすとて、率(ゐ)ておはしまさむとするに、かぐや姫答へて奏す、「おのが身は、この国に生まれて侍らばこそ使ひ給はめ、いとゐておはしましがたくや侍らむ」と奏す。帝、「などかさあらむ。なほ率(ゐ)ておはしまさむ」とて、御輿(みこし)を寄せ給ふに、このかぐや姫、きと影になりぬ。はかなく、口惜しとおぼして、「げにただ人にはあらざりけり」とおぼして、「さらば御供(おほんとも)には率て行かじ。もとの御かたちとなりたまひね。それを見てだに帰りなむ」と仰せらるれば、かぐや姫もとのかたちになりぬ。

 帝、なほめでたくおぼしめさるることせきとめ難(がた)し。かく見せつる造麻呂を喜びたまふ。さて仕うまつる百官の人々、あるじいかめしう仕うまつる。帝、かぐや姫を留めて帰り給はむことを、飽かず口惜しくおぼしけれど、魂を留めたる心地してなむ、帰らせ給ひける。

【現代語訳】
 帝が仰せになるには、「造麻呂の家は山の麓に近いと聞く。御狩りの行幸の体で、かぐや姫を見ることができるだろうか」と。造麻呂が申し上げるには、「たいへん結構なことです。何の何の、かぐや姫がぼんやりしているようなときに、不意に行幸なさり御覧になられたら、きっと大丈夫でしょう」と奏上するので、帝は急に日を決めて、御狩にお出かけになり、かぐや姫の家にお入りになってご覧になると、光に満ちて坐っている人がいた。帝は、かぐや姫というのはこの人であろうとお思いになって近くにお寄りになり、奥へ逃げ入ろうとするかぐや姫の袖をとらえなさると、顔を隠したものの、帝は初めてご覧になり、類なく美しくお思いになって、奥に入るのを許さず、連れていらっしゃろうとする、それにかぐや姫が答えて申し上げるには、「私の身は、この国に生まれておりましたら召使としてお使いにもなれましょうが、そうではないので、連れていらっしゃるのはたいそう難しいことでしょう」と申し上げた。帝は、「どうしてそのようなことがあろうか。やはりどうしても連れていく」と言ってお輿を寄せられると、このかぐや姫は急に姿が消えて影になってしまった。帝は惨めで情けなく無念にお思いになり、まことに普通の人ではなかったと思われ、「それならば御供には連れて行くまい。元の姿におなりなさい。せめてそれを見るだけにして帰ろう」と仰ったので、かぐや姫は元の姿に戻った。

 帝は、なおさら素晴らしい女だとの思いが抑えがたい。このようにかぐや姫を見せてくれた造麻呂の取り計らいを嬉しくお思いになった。さて、御供の諸役の人々に、翁はもてなしを盛大にしてさしあげた。帝は、かぐや姫を残してお帰りになるのを残念にお思いになったが、魂はとどめている気持ちで実はお帰りになられたのだ。 

(五)
 御輿(みこし)に奉りて後に、かぐや姫に、

 還(かへ)るさのみゆきものうく思ほえてそむきてとまるかぐや姫ゆゑ

 御返事(おほんかへりこと)を、

 葎(むぐら)はふ下にも年は経ぬる身の何かは玉のうてなををも見む

 これを帝(みかど)御覽じて、いとど還(かへ)り給はむそらもなくおぼさる。御心は、更に立ち還るべくもおぼされざりけれど、さりとて夜を明かし給ふべきにもあらねば、還らせ給ひぬ。常に仕うまつる人を見給ふに、かぐや姫の傍(かたは)らに寄るべくだにあらざりけり。異人(ことひと)よりはけうらなりとおぼしける人の、かれに思しあはすれば人にもあらず、かぐや姫のみ御心(みこころ)にかかりて、ただ一人住みし給ふ。由(よし)なくて御方々にもわたり給はず、かぐや姫の御許(みもと)にぞ御文(おほんふみ)を書きて通はさせ給ふ。御返りさすがに憎からず聞こえ交(か)はし給ひて、おもしろく木草(きくさ)につけても、御歌を詠みて遣はす。

【現代語訳】
 帝は、帰りの輿に乗ってから、かぐや姫に歌を贈った。

 
帰り道が辛くて、振り返っては立ち止まる。それは、私の命令に背いて留まるあなたのせいだ。

 かぐや姫も返歌を詠み、

 
雑草の茂るような卑しい家に育った私は、玉で飾られた宮殿を見て暮らすような身ではありません。

 返歌をご覧になった帝は、ますます宮中に戻る気をなくした。さりとてこのまま夜を明かすわけにもいかないので、しぶしぶ宮中に帰って行った。いつも側に仕えている女官たちを見れば、とてもかぐや姫のそばに寄れそうもないほど見劣りする。特別に美人だと思っていた女性も、かぐや姫に比べたら同じ人間とも思えない。かぐや姫のことだけが心にかかり、ただ一人で夜を過ごした。理由を告げることなく、妃たちのもとにも通わなくなった。かぐや姫のもとにだけ手紙を書いて贈った。姫も、さすがに帝の気持ちに応え、手紙のやり取りをした。帝は、四季折々の木や草花をつけて歌を届けた。 

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かぐや姫の告白

(一)
 かやうに、御心(みこころ)を互ひに慰め給ふほどに、三年(みとせ)ばかりありて、春の初めより、かぐや姫、月の面白う出(い)でたるを見て、常よりももの思ひたるさまなり。ある人の、「月の顔見るは忌(い)むこと」と制しけれども、ともすれば、人間(ひとま)にも月を見ては、いみじく泣き給ふ。七月(ふみづき)十五日(もち)の月に出(い)で居(ゐ)て、切(せち)にもの思へる気色(けしき)なり。近く使はるる人々、竹取の翁に告げて言はく、「かぐや姫の、例も月をあはれがり給へども、この頃となりては、ただごとにも侍らざめり。いみじくおぼし嘆くことあるべし。よくよく見奉らせ給へ」と言ふを聞きて、かぐや姫に言ふやう、「なんでふ心地すれば、かく、ものを思ひたるさまにて、月を見給ふぞ。うましき世に」と言ふ。かぐや姫、「見れば、世間(せけん)心細くあはれに侍る。なでふものをか嘆き侍るべき」と言ふ。

 かぐや姫のある所に至りて見れば、なほもの思へる気色なり。これを見て、「あが仏、何事思ひたまふぞ。おぼすらむこと何事ぞ」と言へば、「思ふこともなし。ものなむ心細く覚ゆる」と言へば、翁、「月な見給ひそ。これを見給へば、ものおぼす気色はあるぞ」と言へば、「いかで月を見ではあらむ」とて、なほ、月出づれば、出で居(ゐ)つつ、嘆き思へり。夕やみには、もの思はぬ気色なり。月のほどになりぬれば、なほ、時々はうち嘆きなどす。これを、使ふ者ども、「なほものおぼすことあるべし」とささやけど、親をはじめて、何とも知らず。

【現代語訳】
 このように、帝はかぐや姫と御心をお互いに慰め合っていらっしゃるうちに、三年ばかりたって、春の初めころから、かぐや姫は月が趣きをもって出ているのを見て、いつもより物思いにふけるようすになった。側に仕えている人が、「月の顔を見るのは忌むことです」と制するが、ともすれば人のいない間にも月を見ては、ひどく泣く。七月十五日の月には、奥から出てきて座り込み、ひたすら何かに思い悩んでいるようすである。近くの侍女たちが竹取の翁に告げて言うには、「かぐや姫は、ふだんから月をしみじみと御覧になっていますが、このごろではただ事ではございません。ひどく思い嘆かれることがおありに違いありません。よくよくご注意なさってください」と言うものだから、翁がかぐや姫に、「どういう心地で、そのように思い悩んで月を御覧になるのか。けっこうな世の中なのに」と言う。かぐや姫は、「月を見ると、世の中が心細くしみじみと悲しく感じられるのです。どうして何かを嘆きましょうか」と言う。

 ある夜、かぐや姫のいる所に行って見ると、それでもやはり何か思いつめている様子でいる。これを見て、「私の大切な君よ、何事を思い悩んでおられるのか。思いつめておられるのは何事か」と尋ねると、「思いつめることなどありません。何となく心細いだけです」と言うので、翁は、「月を御覧になるな。御覧になるから物思いをするようになってしまう」と言うと、「どうして月を見ずにいられましょうか」と言って、やはり、月が出ると出て行って座っては嘆いて思い悩んでいる。月の出ない夕闇の時分には思わないようである。でも、月の出るころになると、やはりしきりに思い嘆く。召使いたちは「やはり思い悩むことがあるに違いない」とささやくが、親を始め誰もが訳がわからない。

(二)
 八月(はづき)十五日(もち)ばかりの月に出で居(ゐ)て、かぐや姫いといたく泣き給ふ。人目も、今はつつみ給はず泣き給ふ。これを見て、親どもも、「何ごとぞ」と問ひ騒ぐ。かぐや姫泣く泣く言ふ、「先々(さきざき)も申さむと思ひしかども、必ず心惑はし給はむものぞと思ひて、いままで過ごし侍りつるなり。さのみやはとて、うち出で侍りぬるぞ。おのが身は、この国の人にもあらず。月の都の人なり。それを昔の契りありけるによりてなむ、この世界にはまうで来たりける。今は帰るべきになりにければ、この月の十五日(もち)に、かの本(もと)の国より、迎へに人々まうで来(こ)むず。さらずまかりぬべければ、思(おぼ)し嘆かむが悲しきことを、この春より思ひなげき侍るなり」と言ひて、いみじく泣くを、翁、「こは、なでふことのたまふぞ。竹の中より見つけ聞こえたりしかど、菜種(なたね)の大きさおはせしを、わが丈(たけ)立ち並ぶまで養ひ奉りたるわが子を、何人(なにびと)か迎へ聞こえむ。まさに許さむや」と言ひて、「われこそ死なめ」とて、泣きののしること、いと耐へ難げなり。

 かぐや姫の言はく、「月の都の人にて、父母(ちちはは)あり。片時の間とて、かの国よりまうで来(こ)しかども、かく、この国にはあまたの年を経ぬるになむありける。かの国の父母のことも覚えず、ここには、かく久しく遊び聞こえて、ならひ奉れり。いみじからむ心地もせず。悲しくのみある。されどおのが心ならず、まかりなむとする」と言ひて、もろともにいみじう泣く。使はるる人々も、年頃ならひて、立ち別れなむことを、心ばへなどあてやかにうつくしかりつることを見慣らひて、恋しからむことの耐へ難く、湯水(ゆみづ)飲まれず、同じ心に嘆かしがりけり。

【現代語訳】
 八月十五日近くの月に縁側に出て、かぐや姫はたいそうひどく泣いておられる。今では人目も気にかけずお泣きになる。これを見て、親たちも「何ごとか」と大騒ぎして尋ねる。かぐや姫が泣く泣く言うには、「以前にも申し上げようと思いましたのですが、お話すればきっと心をお惑わしになると思い、今までずっと黙って過ごしてきたのでございます。けれどもそうしてばかりもいられないので、打ち明けます。私はこの国の人ではないのです。月の都の人です。前世からの約束によってこの世界に参りました。でも、もう帰らなければならない時になり、この月の十五日に、あのもとの国から迎えがやってくるでしょう。避けることもできず、お二人がこのことを聞けば思い嘆きになることが悲しく、そのことをこの春先から思っては嘆いていたのでございます」と言ってひどく泣くので、翁は、「これは何ということをおっしゃる。竹の中から見つけて、菜種ほどの大きさでいらしたのを、私の背丈に立ち並ぶまでに養い申し上げたわが子を、いったい何者がお迎えするというのか。そんなことをどうして許せようか」と言い、「まずこの私が死のう」と泣き騒ぎ、ひどく堪え難い様子となった。


 かぐや姫が言うには、「私には、月の都の人である父母がいます。ほんの少しの間ということで、あの国からやって参りましたが、このようにこの国で長い年月を経てしまいました。今ではあの国の父母のことも思い出さず、ここでこのように長い間過ごさせていただき、お爺様お婆様に慣れ親しみ申し上げました。月の国に帰るといって嬉しい気持ちはなく、ただ悲しいばかりです。それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げるのです」と言って、いっしょになって激しく泣く。召使いたちも、長年慣れ親しみながらそのまま別れてしまうのでは、気立てなどに気品があり愛らしかった、その見慣れた姿をこれから恋しく思うであろうことが堪え難く、湯水ものどを通らず、翁や嫗と同じ心で悲しがった。

(三)
 このことを帝(みかど)聞こし召して、竹取が家に御使(みつか)ひ遣(つか)はさせ給ふ。御使ひに竹取出で会ひて、泣くこと限りなし。このことを嘆くに、ひげも白く、腰もかがまり、目もただれにけり。翁、今年は五十(いそぢ)ばかりなりけれども、もの思ふには、片時になむ老いになりにけると見ゆ。御使ひ、仰せ言とて翁に言はく、「いと心苦しくもの思ふなるは、まことにか」と仰せ給ふ。竹取泣く泣く申す。「この十五日(もち)になむ、月の都より、かぐや姫の迎へにまうで来(く)なる。尊(たふと)く問はせ給ふ。この十五日は、人々賜はりて、月の都の人まうで来(こ)ば捕へさせむ」と申す。御使ひ帰り参りて、翁のありさま申して、奏しつる事ども申すを聞こし召して、のたまふ、「一目(ひとめ)見給ひし御心だに忘れ給はぬに、明け暮れ見慣れたるかぐや姫をやりては、いかが思ふべき」

 かの十五日の日、司々(つかさづかさ)に仰せて、勅使、少将(せうしやう)高野大国(たかののおほくに)といふ人をさして、六衛(りくゑ)の司(つかさ)合はせて二千人の人を、竹取が家に遣(つか)はす。家にまかりて、築地(ついぢ)の上に千人、屋(や)の上に千人、家の人々いと多かりけるに合はせて、あける暇(ひま)もなく守らす。この守る人々も弓矢を帯(たい)して、母屋の内には、女どもを番に居(を)りて守らす。媼(おうな)、塗籠(ぬりごめ)の内に、かぐや姫を抱(いだ)かへて居(を)り。翁、塗籠の戸を鎖(さ)して、戸口に居り。翁の言はく、「かばかり守る所に、天(あめ)の人にも負けむや」と言ひて、屋の上に居(を)る人々に言はく、「つゆも、物空に翔(かけ)らば、ふと射殺(いころ)し給へ」。守る人々の言はく、「かばかりして守る所に、はり一つだにあらば、まづ射殺して、外(ほか)にさらさむと思ひ侍る」と言ふ。翁これを聞きて、頼もしがりけり。

【現代語訳】
 このことを帝がお聞きあそばして、竹取の翁の家に御使者を遣わされた。御使者に竹取の翁は出て会ったが、ただ泣くばかりである。あまりの嘆きに、ひげも白くなり、腰もかがまり、目もただれてしまった。翁は、今年は五十歳ばかりであるのに、思い悩み、まことにわずかな間で老人になってしまうものと見える。御使者が、帝の仰せごととして、「周りの者がたいそう心苦しく思うほど思い悩んでいるというのはまことか」とおっしゃる。竹取の翁は泣く泣く申し上げる。「この十五日に、実は月の都からかぐや姫の迎えがやって来るのです。もったいなくもよくお尋ねくださいました。この十五日は、御家来衆を派遣くださり、月の都の人がやって来たら捕らえさせていただけないものか」。御使者は帰り参上して、翁の様子と翁が奏上したことなどを申し上げた。帝はそれをお聞きあそばしておっしゃるには、「一目見た私の心でさえかぐや姫のことを忘れられないのに、明け暮れ見慣れてきたかぐや姫を月の都にやっては、翁はどれほど辛く思うであろうか」

 その十五日、役所役所に命じて、勅使少将高野の大国という人を任命し、六衛府の武官あわせて二千人の人を、竹取の翁の家にお遣わしになった。家にやって来て、築地の上に千人、屋根の上に千人、翁の家の召使いたちの多人数にあわせて、あいている隙間もなくかぐや姫を守らせた。この守護する召使いたちも、男は弓矢を携え、母屋の内では女どもに番をさせて守らせた。嫗は、塗籠の中にかぐや姫を抱きかかえている。翁は、塗籠の戸を閉ざして戸口に待機している。翁が言うことは、「これほど守りを固めたら天人にも負けるものか」と、そして屋根の上にいる人々に言うには、「少しでも何か空を飛んだら、すぐに射殺してくだされ」。守る人々は、「これほどにして守っている所に、針一本でも飛んできたら、射殺してさらしてやろうぞ」と言う。翁はこれを聞いて頼もしく思った。


(注)「翁、今年は五十ばかりなりけれど」とあるのは、「貴公子たちの妻問い」の章に「翁、年七十に余りぬ」とある記述と矛盾する。

(四)
 これを聞きて、かぐや姫は、「さしこめて守り戦ふべき下組みをしたりとも、あの国の人を、え戦はぬなり。弓矢して射られじ。かくさしこめてありとも、かの国の人来ば、みな開きなむとす。相(あひ)戦はむとすとも、かの国の人来なば、猛(たけ)き心つかふ人も、よもあらじ」。翁の言ふやう、「御迎へに来む人をば、長き爪(つめ)して、眼(まなこ)をつかみつぶさむ。さが髪を取りて、かなぐり落とさむ。さが尻をかき出(い)でて、ここらの公人(おほやけびと)に見せて、恥を見せむ」と腹立ち居(を)り。

 かぐや姫言はく、「声高(こわだか)になのたまひそ。屋の上に居(を)る人どもの聞くに、いとまさなし。いますかりつる志どもを思ひ知らで、まかりなむずることの口惜しう侍りけり。長き契りのなかりければ、ほどなくまかりぬべきなめりと思ひ、悲しく侍るなり。親たちの顧(かへり)みをいささかだに仕うまつらで、まからむ道も安くもあるまじき。日ごろも出(い)で居(ゐ)て、今年ばかりの暇(いとま)を申しつれど、さらに許されぬによりてなむ、かく思ひ嘆き侍る。御心をのみ惑はして去りなむことの、悲しく耐へがたく侍るなり。かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなく侍るなり。さる所へまからむずるも、いみじくも侍らず。老い衰へ給へるさまを見奉らざらむこそ、恋しからめ」と言ひて、翁、「胸痛きこと、なし給ひそ。うるはしき姿したる使ひにも障(さは)らじ」と、ねたみ居(を)り。

【現代語訳】
 これを聞いてかぐや姫は、「私を閉じ込めて守り戦う準備をしたところで、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢でもってしても射ることはできないでしょう。このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦おうとしても、あの国の人が来たら、勇ましい心をふるう人もきっといなくなるでしょう」。翁は、「あなたをお迎えに来るその人をば、長い爪で眼をつかみつぶそう。そやつの髪の毛を取って、かきむしって落としてやろう。そやつの尻をひんむいて、大勢の役人たちに見せて恥をかかせてやろう」と腹を立てている。


 かぐや姫が言うには、「声高におっしゃいますな。屋根の上にいる人たちが聞くと、たいそう具合が悪い。お爺さん、お婆さんのこれまでの心尽くしを思い知らないかのようにお別れするのが、何とも残念でございます。この世に長くとどまるという前世からの宿縁がなかったために、まもなくお別れしなくてはならないのが悲しゅうございます。親へのお世話をわずかも致さず帰っていくその道中も、私の心は安らかにはなりますまい。この幾日かの間も、端近に出て座って、今年いっぱいの猶予を願ったのですが、どうしても許されず、思い嘆いています。お爺さん、お婆さんの御心をばかり悩まして去ってしまうのが、悲しく耐え難く思います。あの月の都の人はたいそう華やかで美しくて、老いることは実はないのです。思い悩むこともありません。そのような所へ戻りましても、殊更に嬉しくもございません。お爺さん、お婆さんが老い衰える姿をみて差し上げられないのが何よりも心残りで、恋しゅうございましょう」と言うと、翁は、「胸が痛くなることをおっしゃいますな。立派な姿の月の国の使者であろうと、じゃまはできまい」と、いまいましがった。

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月からの使者

(一)
 かかるほどに、宵(よひ)うち過ぎて、子(ね)の時ばかりに、家の辺り昼の明(あか)さにも過ぎて光りわたり、望月(もちづき)の明さを十(とを)合はせたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空より、人、雲に乗りて下り来て、地(つち)より五尺ばかり上がりたるほどに、立ち連ねたり。これを見て、内外(うちと)なる人の心ども、物に襲(おそ)はるるやうにて、相(あひ)戦はむ心もなかりけり。からうじて思ひ起こして、弓矢を取り立てむとすれども、手に力もなくなりて、なえかかりたり。中に心さかしき者、念じて射むとすれども、外(ほか)ざまへ行きければ、あれも戦はで、心地ただ痴(し)れに痴れて、まもりあへり。立てる人どもは、装束(さうぞく)の清らなること、物にも似ず。飛ぶ車一つ具したり。羅蓋(らがい)さしたり。

【現代語訳】
 こうしているうちに、宵の時刻が過ぎ、午前0時ごろに家の周りが昼の明るさ以上に一面に光りわたり、満月の明るさを十倍にしたようになり、そこにいる人の毛穴まで見えるほどになった。空から人が雲に乗って降りてきて、地面から五尺ほど上がったところに立ち並んでいる。これを見て、家の内外にいる人々の気持ちは物の怪に襲われるようで、戦おうとする気持ちも失せてしまった。何とか思い起こして弓矢を取って矢をつがえようとするが、手に力が入らず萎えてしまった。その中で心のしっかりした者が恐怖をこらえて矢を放とうとしたが、あらぬ方向へ飛んでいってしまい、荒々しく戦うこともなく、ただ茫然として、お互いに見つめ合っている。立っている人たちは、衣装の美しく華やかなこと、比類がない。空飛ぶ車を一台ともなっている。車には薄絹を張った天蓋(てんがい)が差しかけてあった。 

(二)
 その中に王とおぼしき人、家に、「造麻呂(みやつこまろ)、まうで来(こ)」と言ふに、猛(たけ)く思ひつる造麻呂も、ものに酔(ゑ)ひたる心地して、うつぶしに伏せり。言はく、「汝(なんじ)、幼き人、いささかなる功徳(くどく)を翁つくりけるによりて、汝が助けにとて、片時のほどとて降(くだ)ししを、そこらの年頃、そこらの金(こがね)賜ひて、身を変へたるがごと成りにけり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤(いや)しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪の限(かぎり)果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能(あた)はぬことなり。はや出(いだ)し奉れ」と言ふ。翁答へて申す、「かぐや姫を養ひ奉ること廿余(にじふよ)年に成りぬ。片時とのたまふにあやしくなり侍りぬ。また、異所(ことどころ)に、かぐや姫と申す人ぞおはすらむ」と言ふ。「ここにおはするかぐや姫は、重き病をし給へば、え出(い)でおはしますまじ」と申せば、その返事(かへりごと)はなくて、屋の上に飛ぶ車を寄せて、「いざ、かぐや姫。きたなき所にいかでか久しくおはせむ」と言ふ。立てこめたる所の戸、すなはち、ただ開(あ)きに開きぬ。格子どもも、人はなくして開(あ)きぬ。媼いだきてゐたるかぐや姫、外(と)に出(い)でぬ。えとどむまじければ、たださし仰ぎて泣き居(を)り。

【現代語訳】
 その行列の中で王と思われる人が、家に向かって、「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しくふるいたっていた造麻呂も、何か酔ったような心地がして、うつぶせにに伏してしまった。王が言うには、「お前、愚か者よ。ちょっとした善行があったから、お前の助けにとわずかな間ということでかぐや姫を地上に降ろしたのに、多くの年月、多くの黄金を得て、身を変えたようになってしまった。かぐや姫は罪をおつくりになったために、このように卑しいお前の所にしばらくいらっしゃったのだ。今は罪を償う期限も終わったのでこのように迎えにきているのに、翁は泣いている。できないことだ、かぐや姫を早くお出し申し上げろ」と言う。翁が答えて申すには、「かぐや姫を養育申し上げて二十年余りになった。それを『わずかな間』とおっしゃるので訝しく思います。また、別の所にかぐや姫という人がいらっしゃるだろう」と言う。そして「ここにおられるかぐや姫は重い病気をなさっているので、お出になれますまい」と申し上げると、その返事はなく、屋根の上に飛ぶ車を近づけて、「さあ、かぐや姫。汚れた所にどうして長くおられるのか」と言う。締め切っていた戸が、突然ずんずん開いていく。格子なども、人がいないのに開いていく。お婆さんが抱きかかえて座っていたかぐや姫は、外に出てしまう。留めることができそうもなく、翁たちはただ空をさし仰いで泣いている。
 

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かぐや姫の昇天

(一)
 竹取、心惑ひて泣き伏せる所に寄りて、かぐや姫言ふ、「ここにも心にもあらでかくまかるに、昇(のぼ)らむをだに見送り給へ」と言へども、「何しに、悲しきに見送り奉らむ。われを如何(いか)にせよとて捨てては昇り給ふぞ。具して率(い)ておはせね」と泣きて伏せれば、心惑ひぬ。「文を書き置きてまからむ。恋しからむ折々、取り出(い)でて見給へ」とて、うち泣きて書く詞(ことば)は、

「この国に生まれぬるとならば、嘆かせ奉らぬほどまで侍らで過ぎ別れぬること、返す返す本意(ほい)なくこそ覚え侍れ。脱ぎ置く衣(きぬ)を形見と見給へ。月の出(い)でたらむ夜は、見おこせ給へ。見捨て奉りてまかる空よりも、落ちぬべき心地する」と書き置く。

 天人(てんにん)の中に持たせたる箱あり。天(あま)の羽衣(はごろも)(い)れり。またあるは不死の薬入れり。一人の天人言ふ、「壺(つぼ)なる御薬(おほんくすり)奉れ。きたなき所のもの聞こし召したれば、御心地(おほんここち)(あ)しからむものぞ」とて持て寄りたれば、わづかなめ給ひて、少し形見とて脱ぎおく衣(きぬ)に包まむとすれば、ある天人包ませず、御衣(みぞ)を取りいでて着せむとす。その時に、かぐや姫、「しばし待て」と言ふ。「衣(きぬ)着せつる人は、心(こころ)(こと)になるなりといふ。もの一言(ひとこと)言ひおくべきことありけり」と言ひて、文(ふみ)書く。天人、「遅し」と心もとながり給ひ、かぐや姫、「物知らぬことなのたまひそ」とて、いみじく静かに、公(おほやけ)に御文(おほんふみ)奉り給ふ。あわてぬさまなり。

【現代語訳】
 竹取の翁が心乱れて泣き伏しているところに近寄って、かぐや姫が、「私も心ならずこのように出て参りますので、せめて天に上っていくのだけでもお見送りください」と言うものの、「いったい何のために、ただでさえこんなに悲しいのにお見送りできるというのか。私にどうせよというおつもりで捨ててお上りになるのか。ぜひ連れて行ってください」と泣き伏すので、かぐや姫も心乱れてしまう。「手紙を書き置いて参りましょう。恋しく思ってくださる折々に、取り出して御覧になってください」と言って、泣きながら書いたことばは、

「この国に生れたのであれば、お爺様お婆様を悲しませない頃までごいっしょに過ごさせていただくべきですが、それもできずお別れすることは、重ね重ねも不本意で残念に思います。脱いで残しておく着物を私の形見と思って御覧ください。月が出る夜には御覧になってください。お二人をお見捨てして参ります空から、落ちてしまいそうな気がいたします」と書き置く。


 天人の中の一人に持たせた箱がある。天の羽衣が入っている。またもう一つの箱には不死の薬が入っている。一人の天人が、「壺に入っている御薬をお飲みなさい。汚れた所のものを召し上がっていたので、きっとご気分が悪いに違いない」と言って、壺を持って寄ってきた。かぐや姫はほんのわずか御薬をなめて、少しを形見として脱ぎ置いた着物に包もうとすると、天人は御薬を包ませず、お召し物を取り出して着せようとした。その時、かぐや姫は「しばらく待ってください」と言う。「羽衣を着せてしまった人は、心が変わってしまうといいます。その前に何か一言、申し上げておかなくてはならないことがありました」と言って、手紙を書き始めた。天人は、遅いとじれったがり、一方かぐや姫は、「わけのわからないことをおっしゃらないで」と言って、とても静かに、朝廷に差し上げる御手紙をしたためた。とてもゆったりとした様子であった。

(二)
 「かくあまたの人を賜ひて留(とど)めさせ給へど、許さぬ迎へまうで来て、取り率(ゐ)てまかりぬれば、口惜しく悲しきこと。宮仕へ仕うまつらずなりぬるも、かく煩(わづら)はしき身にて侍れば。心得ずおぼし召されつらめども、心強く承らずなりにしこと、なめげなる者におぼしめしとどめられぬるなむ、心にとどまり侍りぬる」とて、

 今はとて天の羽衣(はごろも)着るをりぞ君をあはれと思ひいでける

とて、壺の薬添へて、頭中将(とうのちうじやう)呼び寄せて奉らす。中将に、天人取りて伝ふ。中将取りつれば、ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしとおぼしつることも失(う)せぬ。この衣着つる人は、もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して昇りぬ。

【現代語訳】
 「こんなに大勢の人をお遣わしくださり、私をお引きとどめようとあそばされましたが、拒むことのできない迎えが参り、私を連れて行ってしまいますのを、無念で悲しく思います。宮廷に出仕できずに終わってしまいますのも、このように面倒な身でございますので。ご納得できずお思いあそばされましたでしょうけれど、帝のお言葉を強情にお受けせず、無礼な者とお思いになり御心におとどめなさっていると、心残りになっております」と書き、

 
今はお別れと天の羽衣を着るときになってはじめて、あなた様をしみじみ思い出します。

と書き加え、壺の薬を添えて、頭中将を呼び寄せて献上させようとした。頭中将に天人が手渡した。頭中将が受け取ると、天人がいきなりさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫の、これまで翁をいたわしく愛しいと思っていた気持ちがたちまち消えてしまった。羽衣を着たかぐや姫は憂い悩むことがなくなってしまい、そのまま車に乗り、百人ばかりの天人を引き連れて、天に昇ってしまった。

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ふじの煙

 そののち、翁・媼、血の涙を流して惑へどかひなし。あの書き置きし文を読み聞かせけれど、「何せむにか命も惜しからむ。誰(た)がためにか。何事も用もなし」とて、薬も食はず、やがて起きも上がらで、病み臥せり。中将、人々引き具して帰りまゐりて、かぐや姫を、え戦ひ留(と)めずなりぬること、こまごまと奏す。薬の壺に御文(おほんふみ)添へて参らす。広げて御覧じて、いといたくあはれがらせ給ひて、物も聞こし召さず、御遊びなどもなかりけり。大臣(だいじん)上達部(かんたちべ)を召して、「いづれの山か、天に近き」と問はせ給ふに、ある人奏す、「駿河(するが)の国にあるなる山なむ、この都も近く、天も近く侍る」と奏す。これを聞かせ給ひて、

 会ふこともなみだに浮かぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ

 かの奉る不死の薬に、また、壺(つぼ)具して、御使ひに賜はす。勅使には、調岩笠(つきのいはかさ)といふ人を召して、駿河の国にあなる山の頂(いただき)に持てつくべき由(よし)仰せ給ふ。嶺(みね)にてすべきやう教へさせ給ふ。御文、不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべき由(よし)仰せ給ふ。その由承りて、兵(つはもの)どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。その煙(けぶり)いまだ雲の中へ立ち上るとぞ言ひ伝へたる。

【現代語訳】
 その後、翁も嫗も血の涙を流して悲嘆にくれたものの、何の甲斐もなかった。あのかぐや姫が書き残した手紙を読んで聞かせても、「どうして命が惜しかろうか。いったい誰のためにというのか。何事も無用だ」と言って、薬も飲まず、そのまま起き上がりもせず、病に伏せっている。頭中将は家来たちを引き連れて帰り、かぐや姫を戦いとどめることができなかったことを事細かに奏上した。薬の壺にかぐや姫からのお手紙を添えて差し上げた。帝は手紙を御覧になって、たいそう深くお悲しみになり、食事もお取りにならず、詩歌管弦のお遊びなどもなかった。大臣や上達部をお呼びになり、「どこの山が天に近いか」とお尋ねになると、お仕えの者が奏上し、「駿河の国にあるという山が、この都にも近く、天にも近うございます」と申し上げた。これをお聞きになり、


 もう会うこともないので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何の役に立とう。

 かぐや姫が献上した不死の薬に、また壺を添えて、御使いの者にお渡しになった。勅使に対し、つきの岩笠という人を召して、駿河の国にあるという山の頂上に持っていくようお命じになった。そして、山の頂でなすべきことをお教えあそばした。すなわち、お手紙と不死の薬の壺を並べ、火をつけて燃やすようにとお命じになった。その旨をお聞きし、兵士らを大勢連れて山に登ったことから、実はその山を「富士の山(士に富む山)」と名づけたという。そのお手紙と壺を焼いた煙が今も雲の中へ立ち上っていると言い伝えている。

(注)上達部・・・高級官僚

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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かぐや姫のモデル

実在の人物に擬せられた5人の貴公子ばかりでなく、かぐや姫のモデルになったのではないかされる女性が、日本神話に登場する。

『古事記』に、第12代垂仁天皇の妃として記載される「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」を挙げる説がある。父親は、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)で、その弟に「讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)」がいる。『古事記』によると、この兄弟は、開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売(たかのひめ)」を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。大筒木垂根王という名にしても、「大筒木」は筒状の木を意味し、「垂根」は、竹の中には枝が垂れて地面に接地することで根に変化する品種があるとされる。

また、『日本書紀』には開化天皇妃の「丹波竹野媛(たにわのたかのひめ)」の記述の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。 一方、『竹取物語』由縁の地と名乗る地域が日本各地にあり(京都府向日市、奈良県広陵町、広島県竹原市など)、竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまちづくりを行っている。

物語文学の変遷

「物語文学」とは、平安〜鎌倉期に盛行した、仮名散文による虚構の創作文学の総称。貴族社会の成熟と仮名の発達につれ、飛躍的に発展した。その起源は、古代の氏族社会における氏族の始祖の神々の事跡を語る神聖な古言(ふるごと)であり、古代国家の形成過程において、氏族の祭祀基盤が崩れ、やがて民間に流伝する口誦の文芸と化したとされる。その語り口は約束事として強固に保持され、語り手と聞き手とによって共有される語りの場において、時代や社会の変遷に伴う新しい生活感情や思考を託す媒体となった。

「物語文学」は、『竹取物語』に始まるとされ、この作り物語の流れは、伝奇的なものから次第に写実性を獲得した。一方、貴族社会でもてはやされた和歌の詞書から発展して『伊勢物語』『平中物語』『大和物語』などの「歌物語」が成立。さらに作者の経験に即した、『土佐日記』『蜻蛉日記』などのような日記文学の系譜があり、これも物語の一種と呼ぶことができる。

これらを発展的に総収して継承したのが巨大な長編である『源氏物語』で、『源氏物語』以後は、『狭衣(さごろも)物語』『堤中納言物語』等の長編・短編が数多く書かれたが、いずれも『源氏物語』と異なる別の領域をひらくにはいたらず、中世の「擬古物語」にうけつがれてゆく。仮名文で書かれ、女性を主な読み手としたこれらの物語の退潮と並行して、『大鏡』などの歴史物語、『今昔物語集』以下の説話文学が登場する。

鎌倉時代になって登場した「懐古物語」は、武士政権の現実を遮断し、総じて『源氏物語』や『狭衣物語』などの世界を憧憬し模倣することに汲々としたがゆえに、一途に衰退の道を歩んだ。室町時代になると、新しい読者層に迎えられた、いわゆる「御伽草子」にとって代わられることになる。

なお、平安時代から鎌倉時代にかけてつくられた物語作品は無数にあり、現存するものは秀逸であるがゆえに後世に伝えられたとみられている。

その他の物語文学

宇津保物語
 清原俊蔭は遣唐使として唐へ渡る途中、波斯国(ペルシア)に漂着した。そこで天人から琴の秘曲を習い、23年後に帰国し、娘にその秘曲を伝授して亡くなった。その後、娘は太政大臣の子息・藤原兼雅と結婚し仲忠を生むが落ちぶれてしまい、母子は森の木の空洞(うつほ)に住むことになる。やがて、琴をめぐる数奇な運命によって母子は兼雅と再会を果たし幸福になる。
 そのころ、絶世の美女である貴宮を、春宮(皇太子)、仲忠、源涼(みなもとのすずし)、源実忠、源仲純、上野宮、三春高基など十数人が求婚する。求婚者たちが次々と脱落する中、仲忠と源涼の二人が見事な琴の勝負を繰り広げたが、結局、貴宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになる。
 仲忠は女一宮と結ばれ、娘の犬宮(いぬみや)をもうける。政界では、皇位継承争いがおこり、貴宮の第一皇子が東宮(皇太子)となる。仲忠は、娘の犬宮へ琴を伝授する。犬宮は嵯峨院と朱雀院の二人の上皇にその腕を披露し、深い感動を与える。

落窪物語
 主人公は中納言源忠頼の娘(落窪の姫)。母と死別した落窪の姫は継母のもとで暮らすことになったが、継母からは冷遇を受けて落窪の間に住まわされ不幸な境遇にあり、味方は女房のあこきと末弟の三郎君だけだった。
 そこに現われた貴公子、右近の少将道頼に見出され、姫君に懸想した道頼は彼女のもとに通うようになった。しかしそれを知った継母に幽閉され、さらには貧しい典薬の助の元へ嫁がされそうになるが、そこを道頼とあこき達に救出され、二人は結ばれる。
 道頼は姫君をいじめた継母に復讐を果たし、中納言一家は道頼の庇護を得て幸福な生活を送るようになった。

狭衣物語
 狭衣大将は、従妹の源氏宮に想いを寄せているが東宮も彼女に懸想しており、叶わぬ恋であった。ある時、仁和寺の僧にさらわれそうになっていた飛鳥井姫を救出し契りを結ぶ。やがて彼女は身売りされ、瀬戸内海で入水したが救われて出家、狭衣の子を産んで病死。一方で狭衣は女二の宮と誤って契りを結び、宮は彼の子を生んで尼となった。東宮が即位した後、源氏宮は神託により賀茂神社の巫女となる。全ての愛人を失った狭衣は年上の女一の宮との結婚を余儀なくされる。狭衣は出家を望むが、神託により帝位につくことになる。

浜松中納言物語
 式部卿宮の一人息子は容貌・才能に優れ、両親も周囲もその将来を期待していた。元服して源姓を賜り、帝もいずれは内親王の降嫁もと考えるほどであった。ところが父・式部卿宮が死去してしまい、息子は出家も考えたが留まり、失意の内に暮らしていた。
 しばらくすると母は父と住んでいた家に左大将を迎え再婚した。息子は母を嫌い、亡き父を慕うようになっていった。義父となった左大将は死んだ先妻との間に生まれた娘二人の姫を連れてきており、上の娘である大君と息子とを結ばせようとした。息子は美しい大君に心を引かれるものの相手にしなかった。
 やがて息子は中納言となった。人々の噂と夢のお告げで父が唐の国の太子に転生したことを知り、どうしても会いたいと思ったが、気ままに外国に赴くこともままならなかった。最初は諦めていたものの、帝に願い出て、遣唐使として三年の間、唐国へ渡る許しを得た。
 中納言は出発する直前に、帝の皇子と結納していた大君と関係を結んでしまう。中納言が渡航した後に大君の懐妊が明らかになり、そのため大君と皇子との結納は解消され、代わって妹の中の君が皇子のもとへ行くこととなった。大君は中納言の母邸で剃髪し、中納言の娘を出産した。

夜半の寝覚
 左大臣の長男、中納言は、太政大臣の娘、大君と結婚するが、その妹である中の君(寝覚上)と契り、中の君は女の子を産む。彼女は姉の大君に遠慮して父の元に姿を隠し、やがて老関白の後妻となり男児を産む(実は中納言の子)。
 一方、中納言は大君病死後に後妻として帝の妹女一宮を迎える。
 老関白の娘が入内し中の君も後見として宮中に入るが、帝は娘より中の君に言い寄る。現世に嫌気がさした中の君は出家を思うが、その後も息子が帝の女二宮と恋愛騒動を起すなどで出家が叶わない。

とりかへばや物語
 関白左大臣の二人の子はそれぞれ男女逆として育てられる。男装の「若君」は男性として宮廷に出仕し、また、女装の「姫君」も女性として後宮に出仕を始める。
 その後、「若君」は右大臣の娘と結婚するが、妻は宰相中将と通じて懐妊、夫婦仲は破綻する。その「若君」も宰相中将に女と知られ、彼の子を妊娠。一方、「姫君」は主君女東宮に恋慕し密かに関係を結んで妊娠させてしまう。
 進退窮まった「若君」は、宰相中将に匿われて女の姿に戻り、密かに出産する。一方「姫君」も元の男性の姿に戻り、行方知れずとなっていた「若君」を探し当てて宰相中将の下からの逃亡を手助けする。その後2人は、周囲に悟られぬよう互いの立場を入れ替える。
 本来の性に戻った2人は、それぞれ自らの未来を切り開き、関白・中宮という人臣の最高位に至った。

堤中納言物語
 10編の短編物語および1編の断片からなる短編小説集。ただし、10編の物語の中のいずれにも「堤中納言」という人物は登場せず、この表題が何に由来するものなのかは不明。複数の物語を散逸しないように包んでおいたため「つつみの物語」と称され、それがいつの間にか実在の堤中納言(藤原兼輔)に関連づけられ『堤中納言物語』となった、など様々な説がある。

今昔物語集
 日本のアラビアンナイトと呼ばれる説話集。全31巻ながら8巻・18巻・21巻は欠けている。編纂当時には存在したものが後に失われたのではなく、未編纂に終わり、当初から存在しなかったと考えられている。また、欠話・欠文も多く見られる。
天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の三部で構成され、約1000余りの説話が収録されている。各部では先ず因果応報譚などの仏教説話が紹介され、そのあとに諸々の物話が続く体裁をとっている。それぞれの物語はいくつかの例外を除いて、いずれも「今は昔」という書き出しの句で始まり、「となむ語り伝へたるとや」という結びの句で終わる。

宇治拾遺物語
 『今昔物語集』と並んで説話文学の傑作とされる。全15巻、197話からなる。日本にみならず、天竺(インド)、大唐(中国)の三国を舞台とし、「あはれ」な話、「をかし」な話、「恐ろしき」話など多彩な説話を集めたものであると解説されている。ただ、オリジナルの説話は少なく、『今昔物語集』など先行する様々な説話集と共通する話が多い。
 貴族から庶民までの幅広い登場人物、日常的な話題から珍奇な滑稽談など幅広い内容の説話を含む。

古典文学を学ぶ意義

まず第一に、数多くある古典文学作品は日本文化や歴史の貴重な証拠です。 源氏物語や古今和歌集などは、平安時代の風俗や人々の生活を詳細に描いており、当時の社会や人間関係についての洞察を窺うことができます。更に、更級日記などの日記や徒然草などの随筆は、中世の庶民の日常生活や心情を伝えています。

第二に、古典文学は日本語の美しさと独自性を体現しています。古代の歌や物語は、音韻やリズムにこだわり、豊かなイメージや比喩を用いて表現されています。また、古い時代の文学作品は、日本独自の美意識や価値観を反映しており、それらを理解していることで日本文化の一端を垣間見ることができます。

第三に、古典文学は現代の文学や芸術にも大きな影響を与えています。多くの作家や詩人が、古典文学のテーマや形式を借りて新たな創作を展望しています。それにより、現代の文学作品をより深く味わう力を培うことができます。

総じて言えば、古い日本文学を学ぶことは、日本文化や歴史時代を俯瞰し、日本語の美しさや独自性を体感する機会を提供してくれますし、それらのつながりを確認することもできます。古典文学は、私たちの文化的な認識を形成するための重要な要素であり、その価値は今後も間違いなく継続していくでしょう。

だから古典は面白い (幻冬舎新書)

参考文献

日本の古典をよむ 竹取物語ほか
~片桐洋一ほか/小学館

新明解古典シリーズ 竹取物語ほか
~桑原博史/三省堂

新版 竹取物語
~室伏信助/角川ソフィア文庫

ビギナーズ・クラシックス日本の古典 竹取物語
~角川書店

現代語訳 竹取物語
~川端康成/河出文庫

現代語訳 竹取物語 (河出文庫) 川端康成 訳

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