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「得意淡然」「失意泰然」

 「得意淡然」「失意泰然」――。私の大好きな言葉です。それぞれ、「とくいたんぜん」「しついたいぜん」と読みます。「得意のときに驕(おご)り高ぶることなく、失意の時にはゆったりと構えていなさい」というような意味で、もとは明代の中国の崔後渠という人物による『六然(りくぜん)』にある言葉です。

 これで思い出すのが、1996年に放映されたNHK大河ドラマ『秀吉』の、ある場面です。詳しくは覚えていないのですが、何かの理由で秀吉が主君・信長の怒りを買い、干されてしまいます。意気消沈しているところへ、ライバルの明智光秀の居城を信長が訪問する、という情報が入ってきます。それを聞いた秀吉はもう居ても立ってもいられなくなり、すぐさま光秀の城へ出向き、信長の御機嫌伺いをしようとします。

 それを見た、沢口靖子さん扮する妻のおねが、「みっともないからやめなさい」と言って秀吉を止めるのです。「こんな時こそ悠然と構えるべき」と秀吉を諭します。立派な妻ですね。まさに「糟糠(そうこう)の妻」、この妻あればこその秀吉だったのでしょうね。

 なぜだか、この場面だけがとても強く印象に残っているのですが、実は、私らサラリーマンの世界でも、こういうことはよくあります。仕事で何をやってもうまくいくとき、反対に何をやってもうまくいかないとき、また上下関係や人間関係がうまくいかなくて思い悩むときなど、さまざまに得意と失意の場面がやってきます。得意なときはつい高慢になりやすく、失意のときは何かと焦り慌てるものです。

 この、秀吉が焦りまくるシーンと妻おねの言葉は、当時の私にとって、とても身につまされるものでありました。それ以来、「得意淡然」「失意泰然」を、座右の銘に加えております。

戦国の妻たち

 戦国時代といえば武将たちの活躍ぶりだけが注目されがちですが、陰で彼らを支えていた女性の存在を忘れてはなりません。というより、忘れることのできない女性が少なくありません。

 夫唱婦随で有名な夫婦といえば、何といっても前田利家と松(まつ)。NHKの大河ドラマでも二人の名前がそのまま題名になっていましたね。力を合わせながら織田信長や豊臣秀吉に仕えて昇進し、やがて徳川家康が天下を取ると、松は、加賀百万石を守るために自ら人質として江戸に赴いています。

 この前田夫妻と一緒に出世していったのが、秀吉と寧々(ねね)。寧々と松は仲のよい友達で、下積み時代の夫を支えています。天下を取った後の秀吉は、高貴な女性をはべらせるようになりますが、寧々は正室の立場をわきまえ、堂々と振舞い、秀吉の部下となった大名やその妻たちから絶大な信頼を得ています。これが秀吉政権を盤石にした一因にもなったのは間違いないでしょう。

 やがて秀吉の側室の淀殿が子をもうけると、一躍、淀殿が豊臣家の中心の位置を占めるようになります。しかし、それでも周囲の寧々への信頼は揺らぐことはありませんでした。関ヶ原の合戦から大坂の陣にいたる過程では、秀吉の子飼いの大名たちが寧々を慕い、それが淀殿と秀頼から離反する結果ともなりました。

 一方で夫の犠牲になった女性もいます。細川忠興の妻ガラシャは、明智光秀の娘だったために、一時は夫から離別され、そのためにクリスチャンになっていました。関ヶ原の合戦では忠興が徳川方に味方したために、大坂方の人質になる前に逃走できたにもかかわらず、命を絶つ道を選んだのです。

 ところで淀殿の妹・江与(えよ)は、徳川家康の子の秀忠に嫁いでいます。そのため姉妹が敵対する関係になるのですが、それを嘆き悲しんだという話は聞かれません。女はいったん嫁いだら、その家と産んだ子を盛り上げるのが当然のふるまいであり、また自分の存在を高めることになるのを自覚していたのでしょう。そのため、たとえ姉妹が敵対関係になっても、それぞれの家を守ることに懸命になった。妻という立場、存在のしたたかさ?を感じないではいられません。

 したたかといえば、明智光秀の重臣・斉藤利三(としみつ)の娘は、徳川家康に見出されて、孫の家光の乳母になっています。かの春日局です。春日局は、秀忠の正室の江与と張り合った末に、家光を将軍につけたばかりか、将軍の世継を絶やさぬために大奥制度をつくっています。やがては老中をも凌ぐ権力を握り、朝廷から従二位の位も授かりました。

 こうして見ると、戦国の女性は、弱々しいどころか、極めて逞しい生き方をしていたと感じられます。現代の女性と比べても決して負けていない、いや、もっと強かったんじゃないでしょうか。
 

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豊臣秀吉の略年譜

1537年
誕生
1551年
今川家の家臣、松下之綱に士官
1554年
織田信長に小者として仕える
1561年
おねと結婚
1562年
足軽百人組の頭となる
1566年
墨俣城を築く
1570年
金ヶ崎の戦い
1573年
浅井・朝倉氏攻略、浅井氏の旧領、江北三郡を与えられる
羽柴秀吉に改名
1574年
長浜城主となる
1582年
本能寺の変
清須会議
1583年
賤ヶ岳の戦い
大阪城築城
1585年
関白宣下
1586年
豊臣に改姓
1588年
茶々を側室に迎える
1592年
文禄の役
1593年
秀頼が生まれる
1596年
慶長の役
1598年
秀頼を五大老に託し、死去

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いぬのきもち

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