吉田松陰の教え

長州藩士の吉田松陰は、安政の大獄で捕縛され、後に処刑されますが、長州に幽閉されていた時期、松下村塾(しょうかそんじゅく)という私塾を開いて、塾生の指導にあたりました。彼は、塾生一人一人の長所を見抜き、それを本人に伝え励ましてやることで自信をつけさせる指導方法をとりました。また、一方的に松陰が塾生たちに教えるのではなく、一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳、時には竹を使った西洋銃の稽古も行うという「生きた学問」だったといわれます。
また、決して当時の先進的な学問を教えたわけはでなく、また綿密なカリキュラムが組まれていたわけでもありませんでした。いわば、松陰の話を聞く、松陰と会話することが勉強だったのです。昼夜の区別もなかったようで、夜になってひょっこりやってくる塾生もいました。ふだんの松陰は「まるで婦人のよう」といわれるほど温和で、話し方も優しく、「勉強なさりませ」というのが口癖だったといいます。
ただ、そんな松陰が、教えのなかでしばしば強く説いていたのが、常に情報を収集し将来の判断材料にしなさいということでした。いわゆる「飛耳長目(ひじちょうもく)」が肝要であるとの主張です。そんな松陰の指導はたった2年間にすぎませんでしたが、集まった門人は80人にもおよび、彼の熱心な指導のもと、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、幕末維新の原動力となる若者を輩出しました。
やがて教え子らは、尊皇攘夷・公武合体の思想をかかげ朝廷内に進出、過激な攘夷行動に出ました。外国人を殺傷したり公使館を襲撃したり、外国船を砲撃したりしました。あまりの過激さに、時の孝明天皇と幕府は、朝廷から長州勢力の公家7人を追放する事態に至りました(1863年の「8月18日の政変」)。それに怒った長州藩は、翌年大挙して京都に乱入、しかし、朝廷を警護する会津・薩摩藩と衝突して敗北しました(禁門の変)。
朝廷は、長州藩が御所へ向かって発砲を行ったことを理由に長州を朝敵とし、幕府に長州征伐の勅命を下します。これを受けて幕府は長州征伐(第1次)を決行、列強諸国も同時に海上から長州を砲撃。そのため藩内の尊攘派は一時勢力を失い、保守派が台頭、幕府に屈服してしまいます。
ところが、すぐに高杉晋作がクーデターを起こして政権を奪回。事態を知った幕府は第2次長州征伐を行いますが、このとき長州は密かに薩摩藩と同盟を結び、薩摩からゲベール銃やミニエー銃など最新兵器を大量に購入、奇兵隊ほかの近代歩兵部隊を結成して、幕府軍を撃退しました。これによって幕府の権威は大きく失墜、一気に明治維新に突入することになります。

将軍家に嫁いだ和宮
和宮(かずのみや)は仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹、明治天皇の叔母にあたります。幼少時に有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、江戸幕府は公武合体政策の目玉として、14代将軍・徳川家茂への降嫁を画策。これに孝明天皇は強く反対、本人も固辞しましたが、幕府側の強い要請と岩倉具視の助言によって、鎖国体制への復帰を条件に降嫁が決まりました。
16歳で家茂に嫁ぐことになるまでは、京都の御所から一歩も外に出た経験もなく、まして許婚者もあり江戸で暮らすなど想像もしなかった和宮です。それが突如、歴史の表舞台に引きずり出され、数奇な運命に翻弄されてしまうことになったのです。
1861年10月、京都を出発した和宮の行列は、尊王攘夷派による奪回をおそれ、また川留めなどによる遅延を避けるため、東海道ではなく中山道を進みました。警護のために動員された諸藩は29藩、人足などを含めると動員された人数は総勢3万人、華やかな花嫁行列の長さは延々50キロにもおよび、およそ1か月かけての江戸への行程でした。
宿場となる村には、和宮に見苦しい建物を見せてはいけないとの通達が出され、多くの建物が改造されました。沿道では、住民の外出や商売が禁じられたほか、行列を高いところから見ること、寺院の鐘を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴き声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれました。そして、他の土地を知らない和宮の心をなぐさめるため、道中の名勝にさしかかかるたびに輿を停め、添番がいちいち説明をしたといいます。そのときに和宮がつくった歌があります。
落ちていく 身を知りながら 紅葉ばの 人なつかしく こがれこそすれ
江戸に嫁いでからは、皇女という立場もあり、江戸城大奥での生活は、習慣の違いや家茂の養母・天璋院との不和などで、たいへん苦労が多かったといいます。とくに、和宮は大奥でも京都御所風の生活を続けようとしますが、天璋院はこれを認めず、あくまで武家風の生活をするよう説き伏せます。その当時、天璋院付きと和宮付きの奥女中はともに200数十人おり、大奥内での両者のいざこざは絶えなかったといいます。
しかし、和宮にとって唯一幸せだったのは、同い年の夫・家茂が、たいへん心の優しい青年であり、折につけ和宮をいたわってくれたことでした。和宮も、家茂の上洛のたびに道中の安全を願い芝の増上寺でお百度参りを行うなど、家茂と徳川家に対して献身的に尽くしました。
ある日のこと、家茂と天璋院が庭へ降りようとしたとき、家茂の草履(ぞうり)が地面に落ちているのに気がついた和宮は、裸足で庭に降り、家茂の草履を置きなおしました。ふだんは身の回りの一切を奥女中に任せていた和宮のこの行動に、周囲の人たちはたいへん驚いたといいます。そのころの和宮の作とされる「惜しなじま君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」の歌からは、当時の和宮のけなげで一途な心境をうかがい知ることができます。
ところが、長州征伐のために大阪へ赴いていた家茂が、突如、病気で亡くなってしまいます。まだ21歳の若さでした。江戸に帰ってきた夫の亡骸とともに、和宮のもとに届けられたのは、西陣織物でした。これは、家茂が大阪へ出立する際に「土産は何がよいか」と尋ねられたのに対し、和宮が「西陣織を」とねだったものだったのです。
形見となってしまった西陣織を抱きしめた和宮は、つと立ち上がり奥へ入っていき、そこで突っ伏して心行くまで泣き叫びました。心優しい家茂との、わずか4年半という短い結婚生活でした。
家茂の死後、朝廷は和宮に京へ帰るように勧めました。しかし、和宮はそれに応じようとせず、出家して静寛院となり、江戸城で静かに最愛の夫の菩提を弔っていました。ところが、その悲しみに追い討ちをかけるように同年12月、兄の孝明天皇が崩御。家茂の死の前年に、江戸に同行していた母も亡くしていた和宮は、相次ぐ肉親の死にさすがに心打ちひしがれます。しかし、そんな彼女に、まだまだ辛い運命が待ち構えていました。
1868年、徳川家は朝敵の烙印を押され、薩摩・長州を中心とする軍隊が江戸へ向かって進撃してきました。皮肉にも征討軍の最高責任者は、かつて許婚者だった熾仁親王でした。和宮は事の非情に悩み苦しみながらも、徳川家と運命を共にする決意をします。そして、徳川家の家名を存続させ、江戸を戦火から救うために、朝廷に対し必死の嘆願を続けました。東海道先鋒総督に宛てられた手紙には、次のように書かれています。
「官軍差し向けられ、御取り潰しに相成り候わば、私、一命は惜しみ申さず」
結局、西郷隆盛と勝海舟の話し合いによって、江戸の無血開城が実現しましたが、和宮が果たした役割は決して小さくはなかったでしょう。
1877年、和宮は、脚気治療のため療養していた箱根で、32歳の若さで波瀾万丈の生涯を終えました。苛酷な運命に晒され、それに逆らうこともできず、しかしそれに果敢に立ち向かい、ひたむきに生きた、若き日々の和宮。「将軍のお傍に」という遺言のとおり、亡骸は芝の増上寺に眠る家茂の隣に葬られました。
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