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暴君!?徳川吉宗

 江戸幕府7代将軍・家継が夭折し、城中で急ぎ8代将軍を定める会議が開かれました。候補に上がったのは、尾州候(徳川継友)と紀州候(徳川吉宗)の二人です。老中の大久保加賀守が、二人に将軍就任の意志をたずねました。まず尾州候は、謙譲の美徳を発揮して、心ならずも「我、徳薄くしてその任にあらず」と答えました。

 次に紀州候に同様の意を通じると、彼もまた「我、徳薄くしてその任にあらず」と切り出したので、一同はこれも辞退の弁かと思うと、すぐに続けて、「とはいえども、天下万民のためとあらば就任いたすべし」と言ってあっさり引き受けてしまったのです。尾州候はほぞをかむ思いで後悔しましたが、後の祭り。・・・という逸話が落語『紀州』にありますが、顛末の真相はいかに?

 そうして将軍に就任した吉宗はすぐに、財政再建をかかげて幕政改革を開始しました(享保の改革)。自ら粗末な着物を着て、玄米等の粗末な食事をし、質素倹約を実践したといいます。その結果、傾いていた財政を見事に再建、そのため彼は”幕府中興の英主”とたたえられ、後の寛政・天保の改革のモデルとされました。

 しかし、吉宗が名君とされたのは、あくまで幕府の側から見た評価であり、農民にとってはむしろ暴君だったといっていいでしょう。享保以前の年貢率は、毎年の米の作柄によって決定されていたのが(検見法)、吉宗はそれを作柄に関係なく一定にしました(定免法)。つまり凶作の年でも年貢が全く減免されなくなったのです。また、それまで低く抑えられてきた畑の租税も重くし、さらに税が免除されていた河川敷の土地にも課税をしました。

 新田開発もさかんに行ったというものの、実は開発された土地の大半はもともと農村の入会地(共有地)だった所です。入会地からは豊富な草肥や薪、山の芋が調達できていたのに、これらを失った農民は大変な損失をこうむりました。そうした結果、実質的な税負担は5割増にのぼったといわれます。

 農民にとってはまさに圧政というべき「享保の改革」以降、百姓一揆が続発し、何より深刻だったのが、江戸時代のはじめから順調に増加してきた日本の人口がピタリと停滞してしまったことです。当時の農民に避妊や受胎調節の知識などなかったわけですから、生まれる子が減ったというのではなく、生まれた子の多くは捨てられるか殺されるかしたのです。

 これらはどのように評価したらいいのでしょう。「経世済民」の観点からは、明らかに大失政、生きた経済がまるでわかっていなかったと言わざるを得ません。ところが、中学や高校の歴史教科書などでは、江戸幕府の農民に対する施策は何かにつけて批判されているのに、吉宗の施政に限ってはそうした記述が見られず、むしろ好意的なトーンに終始しています。吉宗だけでなく他の人物や政治家についてもいえることですが、「質素倹約」「清廉・清貧」でありさえすれば、その人の人物・業績評価の大体が肯定されがちであることには、大いに疑問を感じるところです。

徳川宗春の生き方

 徳川宗春といえば、8代将軍・徳川吉宗に真っ向から歯向かったとされる御三家筆頭の尾張7代藩主です。「享保の改革」を推し進める吉宗の緊縮政策に対抗し、多くの規制を緩和、遊興や祭りを奨励し、ひたすら消費の拡大をはかった宗春。そのおかげで尾張名古屋は全国から芸人や商人が集まるほどに活況を呈し、地元では今も宗春の功績を評価する向きもあるとか。しかし、幕府と藩という舞台の違いはあるにせよ、同じ時代にありながら、二人はなぜかくも対照的なリーダーシップを取り得たのでしょうか。

 吉宗は、宗春より12歳年上ですが、二人の生い立ちは非常に近似しています。吉宗は紀州藩主・光貞の4男、宗春は尾張藩主・綱誠の20番目の男子として生まれ、ともに部屋住みの身分として若き日を過ごしました。それが、兄たちの相次ぐ死亡などの運命のいたずらで、将軍や藩主にまで登りつめたのです。

 そのころは経済がひどく沈滞していた時期で、将軍となった吉宗は自ら粗末な衣服を身に着け、美食を避け、質素倹約の範を示し、新田開発を奨励しました。ところが尾張藩主・宗春は吉宗と対照的に、贅沢を好み、消費経済を促進、規制緩和によって民間活力を刺激する政策をとりました。「倹約ばかりで民衆を苦しめても何にもならない」「へたに規制を増やせば、違反者を増やすだけ」と公言してはばかりませんでした。

 二人のこのような正反対の政治姿勢には、その出自が影響しているとする見方もあります。吉宗の母は農家の出身だったのに対し、宗春の母は商家の出身でした。つまり自然に農民に目が向く吉宗に対し、商人の世界に親近感がわく宗春だったということでしょうか。

 しかし、宗春の吉宗への反抗ぶりは尋常ではありませんでした。江戸藩邸において、嫡子・万五郎の節句で色とりどりの五月のぼりを多く立て、しかも町民たちを招き入れたために、藩邸は大賑わいとなりました。幕府は、5月の節句に際して五月人形や金銀などの華美な飾り物を禁止していましたが、のぼりについては触れていなかったので、宗春はそこをついてきたのでした。さすがに怒った吉宗は、使者を派遣し、3か条のお咎めを突きつけました。

(1) 領国での遊山、遊楽は構わないが、江戸は諸大名が集まるところ。御三家ならば公儀に歩調を合わせるべきなのに、尾張家だけ物見遊山にふけっているのはどういうわけか。
(2) 出生の届けすらしていない万五郎のために、しかも町民を呼び入れ、東照公の御旗を飾るのは軽率きわまりない。
(3) 倹約令を発布して1年経つのに、一向に守っていない。
 
 宗春はいったんは反省の色を示すものの、その後もまったく改めようとはしませんでした。そういえば宗春が藩主になる前、尾張家は将軍職争いで紀州の吉宗に負けています。そうした恨みが彼をしてそのような態度を取らせたのでしょうか。しかし、いくら歯向かったところで相手は将軍、勝ち目がないのは明らかです。彼のほんとうの信念とは何だったのでしょう。

 そのあたりは、彼が著した『温知政要』に出てくる「仁」や「慈」という言葉から窺い知ることができます。生涯、正室を持たなかった宗春は、側室の身分だった生母を見ながら育ち、弱い立場の人間を大切にしたとされます。当時は極刑とされていた男女の心中未遂事件に対しても、事情をくんで無罪放免にするなど、9年の治世の間、一人の死罪も出しませんでした。

 そして極めつけは、彼が残した言葉、「民と共に世を楽しむ」「好色は、本心の真実より出るゆえ、飯食いと同じことなり」。要するに、「泣いても笑っても一生は一生、我慢してもしなくても一生は一生、それならせめて人間らしく生きようよ」ということではなかったでしょうか。

 ところが、宗春44歳のとき、とうとう幕府から蟄居・謹慎を命ぜられてしまいます。町人から幕府に抗議文が寄せられるほどの人気の高い殿様でしたが、死後は遺体に網籠がかけられるほどに幕府からは忌避されました。
 

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徳川将軍15代

初代 徳川家康
2代  徳川秀忠
3代  徳川家光
4代  徳川家綱
5代  徳川綱吉
6代  徳川家宣
7代  徳川家継
8代  徳川吉宗
9代  徳川家重
10代 徳川家治
11代 徳川家斉
12代 徳川家慶
13代 徳川家定
14代 徳川家茂
15代 徳川慶喜


(徳川綱吉)

徳川吉宗が生きた時代

1684年
紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれる
1696年
江戸城で5代将軍・綱吉に謁見する
1697年
越前国丹生郡に3万石の領地を与えられる
1705年
父、兄たちの相次ぐ死により紀州藩主となる
1716年
8代将軍に就任
1717年
大岡忠相を江戸町奉行に任ずる
1720年
江戸町火消しをつくる
1720年
キリスト教以外の漢訳洋書を解禁
1721年
目安箱を設置
1722年
上げ米の制を行う
1722年
小石川薬園に養生所を設置
1723年
足高の制を実施
1727年
青木昆陽がさつまいもの栽培を始める
1729年
象を見物
1730年
田安家を創立
1732年
尾張藩主・徳川宗春の贅沢を叱る
1732年
享保の大飢饉
1733年
江戸に打ちこわしが起こる
1740年
一橋家を創立
1742年
公事方御定書を出す
1745年
将軍職を長男の家重に譲り、大御所となる
1751年
死去(享年68歳)
 

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