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源氏物語

「源氏物語」の先頭へ 各帖のあらすじ

明石(あかし)

■源氏、明石に渡る

(一)
 終日(ひねもす)にいりもみつる雷(かみ)の騒ぎに、さこそいへ、いたう困(こう)じ給ひにければ、心にもあらずうちまどろみ給ふ。かたじけなき御座所(おましどころ)なれば、ただ寄り居給へるに、故院ただおはしましし様(さま)ながら、立ち給ひて、「などかくあやしき所にはものするぞ」とて、御手を取りて引き立て給ふ。「住吉の神の導き給ふままに、はや舟出(ふなで)してこの浦を去りね」と宣はす。いとうれしくて、「かしこき御影に別れ奉りにしこなた、さまざま悲しき事のみ多く侍れば、今はこの渚に身をや棄て侍りなまし」と聞こえ給へば、「いとあるまじきこと。これはただいささかなる物の報いなり。我は位に在りし時、過(あやま)つことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終(を)ふるほど暇(いとま)なくて、この世を顧(かへり)みざりつれど、いみじき愁(うれ)へに沈むを見るに、堪へ難くて、海に入り、渚に上り、いたく困(こう)じにたれど、かかるついでに内裏(だいり)に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」とて、立ち去り給ひぬ。

【現代語訳】
 一日じゅう激しく吹き荒れた雷の騒ぎに、あのように源氏の君は気強く構えていらしたとはいっても、ひどくお疲れになったので、ついうとうととなさる。畏れ多くも粗末な御座所なので、ただ物に寄りかかってお休みになっておられると、亡き桐壺院が、ご生前そのままのお姿でお立ちになり、「どうしてこんな見すぼらしい所にいるのだ」とおっしゃって、源氏の君の御手を取ってお引き立てになる。「住吉の神のお導きに従って、早々に舟出してこの浦を去りなさい」と仰せになる。源氏の君はたいそう嬉しくて、「父上の尊いお姿にお別れ申してからというもの、さまざまに悲しい事ばかり多くございますので、今はもうこの渚に身を捨ててしまいとう存じます」と申し上げると、院は、「とんでもないことだ。これはほんのちょっとした事の報いなのだ。自分は位にあった時に過ちはなかったが、知らず知らず犯した罪があったので、その罪を償う間は暇がなくて、この世を顧みることができなかったが、そなたが悲しみに沈んでいるのを見るに堪え難くて、海に入り渚に上がり、ひどく疲れたが、この機会に帝に奏上しなくてはならないこともあるので、これから急いで都へ上るのだ」とおっしゃって、立ち去られた。

(二)
 飽かず悲しくて、「御供に参りなむ」と泣き入り給ひて、見上げ給へれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢の心地もせず、御けはひとまれる心地して、空の雲あはれにたなびけり。年ごろ夢の中(うち)にも見奉らで、恋しうおぼつかなき御様を、ほのかなれど、さだかに見奉りつるのみ面影におぼえ給ひて、「我がかく悲しびを極め、命尽きなむとしつるを、助けに翔(かけ)り給へる」とあはれに思すに、「よくぞかかる騒ぎもありける」と、なごり頼もしう、嬉しうおぼえ給ふこと限りなし。胸つと塞(ふた)がりて、なかなかなる御心まどひに、現(うつつ)の悲しき事もうち忘れ、夢にも御答(いら)へを今少し聞こえずなりぬることと、いぶせさに、「またや見え給ふ」と、ことさらに寝入り給へど、さらに御目も合はで、暁方(あかつきがた)になりにけり。

【現代語訳】
 源氏の君は、あっけなくお別れすることが悲しく、「私も御供に参ります」と泣き入りながらお見上げになると、人影はなく、月の顔だけがきらきらと輝き、夢の心地もなさらない。まだそこらに御気配が残っている気がして、空の雲がしみじみとした風情でたなびいている。何年も夢の中にさえ御姿を拝せず、恋しく気がかりに存じ上げていた御姿を、ほんの少しながらもはっきりと拝見したことだけが、いつまでも目の前に幻となって感じられ、「自分がこんなに悲しみに沈み命が尽きようとしているのを、助けに天を翔っていらっしゃったのだ」と、しみじみ有難くお思いになり、「よくもこんな暴風雨もあってくれたものだ」と、夢の名残も頼もしく感じられ、嬉しくお思いになる。胸がいっぱいになり、故院を夢に拝見したがゆえにかえって落ち着かず、目の前の悲しさもお忘れになり、夢の中でいま少しお話し申し上げなかったことが心残りで、「またお逢いできるのではないか」と、もう一度わざと寝入ろうとなさるが、まったくお眠りになれず、明け方になってしまった。

(三)
 渚に小さやかなる舟寄せて、人二三人ばかり、この旅の御宿りをさして来(く)。「何人(なにびと)ならむ」と問へば、「明石の浦より、前(さき)の守(かみ)新発意(しぼち)の、御舟よそひて参れるなり。源少納言侍ひ給はば、対面(たいめ)して事の心とり申さむ」と言ふ。良清驚きて、「入道はかの国の得意にて、年ごろあひ語らひ侍りつれど、私(わたくし)にいささかあひ恨むること侍りて、ことなる消息(せうそこ)をだに通はさで、久しうなり侍りぬるを、浪の紛れに、いかなることかあらむ」とおぼめく。君の、御夢なども思し合はすることもありて、「はや会へ」と宣へば、舟に行きて会ひたり。「さばかり烈(はげ)しかりつる波風に、いつの間にか舟出しつらむ」と、心えがたく思へり。

 「去(い)ぬる朔日(ついたちのひ)の夢に、さま異なる者の告げ知らすること侍りしかば、信じ難きことと思う給へしかど、『十三日にあらたなるしるし見せむ。舟、装(よそ)ひ設(まう)けて、必ず、雨風止まばこの浦にを寄せよ』と、かねて示すことの侍りしかば、こころみに舟の装ひを設けて待ち侍りしに、いかめしき雨風、雷(いかづち)の驚かし侍りつれば、他(ひと)の朝廷(みかど)にも、夢を信じて国を助くるたぐひ多う侍りけるを、『用ゐさせ給はぬまでも、このいましめの日を過ぐさず、この由を告げ申し侍らむ』とて、舟出(い)だし侍りつるに、あやしき風細う吹きて、この浦に着き侍ること、まことに神のしるべ違(たが)はずなむ。ここにも、もし知ろし召すことや侍りつらむとてなむ。いと憚(はばか)り多く侍れど、この由申し給へ」と言ふ。

【現代語訳】
 岸に小さな舟を寄せて、人がニ、三人ほど、このかりそめの御宿に向かってやって来る。「誰だろうか」と人々が尋ねると、「明石の浦から、前の播磨国守で最近仏道に入られた方が、お舟を用意して参ったのです。源少納言(良清)がおいでなら、お目にかかって事の仔細をお話しましょう」と言う。良清は驚いて、「入道は播磨国で懇意にしている方で、長年親しくしておりましたが、私事で少しいさかい事がございまして、格別に手紙さえ交わさなまま長くなっておりますのに、この荒浪にまぎれていらっしゃるとはどんな事情があるのでしょう」と、不審がる。源氏の君は御夢のことなども思い合わされるふしもあって、「早く会え」とおっしゃるので、良清は舟に行って入道に会った。あれほど激しかった波風なのに、いつの間に船出したのだろうと、不思議な気がする。

 入道は、「去る朔日の夢に、異形の者が現れて告げ知らせることがございましたので、信じがたい事と存じましたが、『十三日に霊前あらたかなる験(しるし)を見せよう。舟の用意をして、雨風が止んだら必ずこの浦に漕ぎ寄せよ』とのことでございましたので、ためしに舟の用意をして待っていましたら、激しい雨風、雷が起こりましたので、よその国にも夢を信じて国を救う例が多くございましたから、『たとえお取り上げくださらぬまでも、お告げにあった日を見過ごさず、この由を申し上げよう』と存じて、舟を出しましたところ、不思議な風が一筋吹いてこの浦に着きましたことは、まことに神の導きに間違いはございません。もしやこちらにも、何かお心当たりの事がおありかと存じ、まことに恐縮でございますが、このことを君に言上してください」と言う。

(注)新発意・・・新たに仏道に入った人。明石入道をさす。

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■源氏、明石の上と契る

(一)
 造れるさま木深(こぶか)く、いたき所まさりて、見所ある住まひなり。海のつらは厳(いかめ)しう面白く、これは心細く住みたる様、「ここに居て、思ひ残すことはあらじとすらむ」と思しやらるるに、ものあはれなり。三味堂(さんまいだう)近くて、鐘の声松風に響き合ひて、もの悲しう、巌(いは)に生ひたる松の根ざしも、心ばへある様なり。前栽(せんざい)どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこの有様など御覧ず。女(むすめ)住ませたる方は、心ことに磨きて、月入れたる真木(まき)の戸口、けしきばかりおし開けたり。

 うちやすらひ何かと宣ふにも、「かうまでは見え奉らじ」と深う思ふに、もの嘆かしうて、うちとけぬ心ざまを、「こよなうも人めきたるかな。さしもあるまじき際(きは)の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるにあなづらはしきにや」と、妬(ねた)うさまざまに思し悩めり。

【現代語訳】
 岡辺の家の作りざまは、木々が深く、数寄を凝らした見どころのある住まいである。海辺の方は堂々として興をひく建て方だったが、こちらはいかにもはかない様子で、「ここで暮らしたら、あらゆる風雅を味わい尽くすだろう」と住む人の心も想像され、しみじみと胸に迫る。入道が勤行する三昧堂が近いので、鐘の音が松風と響きあってもの悲しく、岩に生えた松の根の延びているのも情緒ありげである。庭の植え込みには秋の虫がいっせいに鳴いている。源氏の君は、あちらこちらの有様をご覧になる。娘を住まわせている一棟は、特に念入りに美しくこしらえてあって、月の光がさしこんだ木戸口が、少しばかり押し開けてある。

 源氏の君は中にお入りになり、ためらいがちにあれこれおっしゃるが、娘は、「こんなに近しくお目にかかりたくはない」と固く思い決めているので、何となく悲しくなり、打ち解けぬ気構えを、「たいそう一人前ぶっていることよ。近づきがたい身分の女でさえ、これほどまでに言い寄れば、そう強情を張らないのが今までの例であったのに、このように落ちぶれているのを侮っているのだろうか」と、いまいましくもあり、さまざまに思い悩んでいらっしゃる。

(注)三昧堂・・・念仏修行をする堂。

(二)
 「情なうおし立たむも、事の様に違(たが)へり。心くらべに負けむこそ人わろけれ」など、乱れ恨み給ふ様、げに物思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ。近き几帳(きちやう)の紐(ひも)に、箏(さう)の琴(こと)のひき鳴らされるも、けはひしどけなく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしければ、「この聞きならしたる琴をさへや」など、よろづに宣ふ。

(源氏)むつごとを語りあはせむ人もがなうき世の夢もなかばさむやと

(娘)明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ

 ほのかなるけはひ、伊勢の御息所(みやすどころ)にいとよう覚えたり。何心もなくうちとけてゐたりけるを、かう物覚えぬに、いと理(わり)なくて、近かりける曹司(ざうし)の内に入りて、いかで固めけるにかいと強きを、しひてもおし立ち給はぬ様なり。されどさのみもいかでかあらむ。人ざまいとあてにそびえて、心恥づかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契りを思すにも、浅からずあはれなり。御心ざしの近まさりするなるべし、常は厭(いと)はしき夜の長さも、とく明けぬる心地すれば、人に知られじと思すも、心あわただしうて、こまかに語らひ置きて出で給ひぬ。

【現代語訳】
 源氏の君は、「情けもなく無理強いするのも、今の場合はふさわしくないし、かといって意地の張り合いに負けるのは体裁が悪い」など、やきもきなさっているご様子は、全く物の情けを知る人に見せたいものであった。女の近くの几帳の紐に箏の琴が当たって音が鳴ったりする気配もしどけなく、「いつも父君からお話に聞いている琴までも聞かせてくださらぬのか」など、言葉を尽くして思いを訴えられる。

 親しい言葉を語り合う相手がほしいのです。憂き世のつらい夢も、半ば覚めるのではないかと思いまして。

 長夜の闇に迷っている私の心には、何が夢で何が現か、どう分かって語ることができましょうか。


 かすかに感じられる娘の気配は、伊勢におられる六条の御息所にとてもよく似ている。何も知らずにくつろいでいたところに、こうして不意の来訪を受けたことにわけが分からなくなって、近くの部屋に逃げ込み、どうやって閉めたのかたいそう固く戸を閉ざしているのを、源氏の君は無理じいはなさらぬご様子である。しかし、そうばかりもしておられようか。この娘の人柄は実に上品で、すらりとして、こちらが引け目を感じるほどな姿である。源氏の君は、こんな無理やりの契りを思うにつけても、前世からの縁が浅からぬことにしみじみと感慨をもよおされる。お逢いになればひとしお愛しさが深く感じられるのだろう、いつもは飽き飽きなさる秋の夜長が、今夜は早く明けてしまう気がするので、人に知られまいとお思いになって気がせいて、心を込めたお言葉を残してお帰りになった。

(三)
 御文いと忍びてぞ今日はある。あいなき御心の鬼なりや。ここにも、かかる事いかで漏らさじとつつみて、御使ことごとしうももてなさぬを、胸いたく思へり。かくて後は、忍びつつ時々おはす。ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言ひさがなき海人(あま)の子もや立ちまじらんと思し憚(はばか)るほどを、さればよと思ひ嘆きたるを、げにいかならむと、入道も極楽の願ひをば忘れて、ただこの御気色を待つことにはす。今さらに心を乱るも、いといとほしげなり。

【現代語訳】
 今日はたいそうこっそりと御文を届けられる。源氏の君は、わけもなく御心が咎められたのだろうか。入道の方でも昨夜の事はなんとか外に漏らすまいと用心して、御使を大げさにもてなせないことを心苦しく思っている。それから後は、源氏の君はおりおり忍んで娘のもとにお通いになる。場所も少し離れているので、自然と口さがない海人の子などに行き会いはしないかと、ついお控えになる夜が続くと、娘は早くも捨てられたと思って嘆くのを、「お前の嘆きはもっともだ。それで源氏の君のお気持ちはどうなのだろう」と、入道も極楽の願いも忘れて、ひたすらご来訪を待ってばかりいる。今さら心を乱しているのが、たいそう気の毒だった。

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■源氏に赦免の宣旨下る

 年かはりぬ。内裏(うち)に御薬のことありて、世の中さまざまにののしる。当帝(たうだい)の御子は、右大臣の女(むすめ)、承香殿の女御の御腹に男御子(をとこみこ)生まれ給へる、二つになり給へば、いといはけなし。春宮にこそは譲り聞こえたまはめ、朝廷(おほやけ)の御後見(うしろみ)をし、世をまつりごつべき人を思しめぐらすに、この源氏のかく沈み給ふ事いとあたらしうあるまじき事なれば、つひに后の御諫めを背きて、赦され給ふべき定め、出で来ぬ。去年(こぞ)より、后も御物の怪に悩み給ひ、さまざまの物のさと頻(しき)り、騒がしきを、いみじき御つつしみどもをし給ふしるしにや、よろしうおはしましける御目の悩みさへこのごろ重くならせ給ひて、もの心細く思されければ、七月(ふみづき)二十余日のほどに、また重ねて京へ帰り給ふべき宣旨下る。

 つひの事と思ひしかど、世の常なきにつけても、「いかになり果つべきにか」と嘆き給ふを、かうにはかなれば、うれしきに添へても、また「この浦を今はと思ひ離れむ事」を思し嘆くに、入道、「さるべき事」と思ひながら、うち聞くより胸ふたがりて覚ゆれど、「思ひのごと栄え給はばこそは、わが思ひの叶ふにはあらめ」など思ひ直す。

 その頃は夜離(よが)れなく語らひ給ふ。六月(みなづき)ばかりより心苦しき気色ありて悩みけり。かく別れ給ふべき程なれば、あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれに思して、「あやしう物思ふべき身にもありけるかな」と思し乱る。女はさらにもいはず思ひ沈みたり。いと道理(ことわり)なりや。思ひの外に悲しき道に出で立ち給ひしかど、「遂には行きめぐり来なむ」と、かつは思し慰めき。この度はうれしき方の御出で立ちの、「またやは帰りみるべき」と思すに、あはれなり。

【現代語訳】
 年が改まった。都では帝のご病気のことがあって、世間がさまざまに騒いでいる。今上帝の御子は、右大臣のむすめ、承香殿(じょうきょうでんの)女御の御腹に男御子がお生まれなさいましたのが、まだ二歳になられたばかりで、とても幼くていらっしゃる。将来、東宮に御位を譲り申し上げることは問題ないとしても、朝廷の御後見をして、政を執り行う人をお求めになると、あの源氏の君が逆境に立たされていらっしゃるのは惜しいことで、不都合でもあるので、ついに帝は、大后(弘徽殿)のお諌めをも背いて、源氏の君をお許しになる評定を仰せ出される。去年から大后も御物の怪にお悩みになり、さまざまなお告げが多く、世の中が騒がしかったが、厳重な物忌などをなさったおかげで一時は少しよくなっていらした御目の病までも、最近はまた重くおなりで、もの心細く思われるので、七月二十日すぎごろに、また重ねて京にご帰還なさるようにとの宣旨が下る。

 源氏の君は、いつかはこうなると思っておられたが、世の無常につけても、最後にはどうなる運命であろうかと嘆いていらしたところ、こうまで急に赦免ということになれば、嬉しいにつけても、一方ではこの明石の浦を今を限りと離れることになるのを悲しんでいらっしゃると、入道は、こうなるのは当然と思いながら、そうはいってもご帰京と聞くとすぐに胸がつぶれる思いがするが、思う存分にお栄えになってこそ、わが思いが叶うのであるなどと、考え直す。

 その頃は、一晩も欠かさず明石の君とお逢いになる。女君は六月あたりからただならぬ兆しがあって苦しんでいた。こんな具合にお別れせねばならない時であるので、かえって女君への執着が出てこられたのだろうか、前よりひとしお愛しくお思いになって、「不思議にも、私は物思いを尽くさねばならない身の上であることよ」と感慨深くなられる。

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澪標(みおつくし)

■明石の姫君誕生
 まことや、かの明石に心苦しげなりし事は、「いかに」と思し忘るる時なければ、公私(おほやけわたくし)忙しき紛れに、え思(おぼ)すままにも訪(とぶら)ひ給はざりけるを、三月(やよひ)朔日(ついたち)の程、「この頃や」と思しやるに、人知れず、あはれにて、御使ありけり。とく帰り参りて、「十六日になむ。女にて、たひらかにものし給ふ」と告げ聞こゆ。めづらしきさまにてさへあなるを思すに、おろかならず。「などて、京に迎へてかかることをも、せさせざりけむ」と、口惜しう思さる。

 宿曜(すくえう)に、「御子三人、帝、后、必ず並びて、生まれ給ふべし。中の劣りは、太政大臣(おほきおとど)にて、位を極むべし」と、勘(かむが)へ申したりしこと、さしてかなふなめり。おほかた上(かみ)なき位にのぼり、世を政(まつ)りごち給ふべきこと、さばかり賢かりしあまたの相人(さうにん)どもの聞こえ集めたるを、年頃は、世のわづらはしさにみな思し消(け)ちつるを、当帝(たうだい)の、かく位にかなひ給ひぬることを、思ひのごとうれしと思す。

 自らは、もて離れ給へる筋は、「さらにあるまじき事」と思す。「あまたの御子たちの中にすぐれてらうたきものに思したりしかど、ただ人に思しおきてける御心を思ふに、宿世(すくせ)遠かりけり。内裏(うち)のかくておはしますを、「あらはに人の知る事ならねど、相人の言(こと)空しからず」と、御心の中(うち)に思しけり。今行く末のあらましごとを思すに、「住吉の神のしるべ、まことに、かの人も世になべてならぬ宿世にて、ひがひがしき親も、及びなき心をつかふにやありけむ。さるにては、かしこき筋にもなるべき人の、あやしき世界にて生まれたらむはいとほしう、かたじけなくもあるべきかな。この程過ぐして迎へてむ」と思して、東の院、急ぎ造らすべきよし、もよほし仰せ給ふ。

【現代語訳】
 そういえば、あの明石でいたいたしく思ったあの明石の上はその後どうなったろうと、源氏の君はお忘れになる時がないのだが、公私ともお忙しいのに紛れて、思うままにお尋ねにもなれなかった。三月朔日ごろ、お産もこの頃かと遠く思いやると、人知れずいたたまれなくなり、使者をお立てになった。使者はすぐに帰って来て、「十六日でございまして。女の御子で、ご安産でいらっしゃいます」と報告する。久しぶりの御子のご誕生である上に、珍しくも女君であるとお聞きになると、たまらない。「どうして、京に迎えてお産をさせなかったのか」と、残念にお思いになる。

 いつぞや宿曜(占星術)の占いで「御子は三人お生まれになります。一人は帝に、一人は后にお立ちになります。いちばん低い方は太政大臣として、人臣の位を極めるでしょう」と予言されていたことが、そのまま叶うようである。大体、源氏の君が最上の位にのぼって世をお治めになるだろうことは、あれほど賢かった多くの相人たちがこぞって申していたことだが、ここ数年は世間がうるさいので心の中で打ち消していらしたのを、今上帝(冷泉帝)がこのようにご即位できたことを、源氏の君は思いが叶ったと嬉しくお思いになる。

 源氏の君ご自身は、帝の位につこうなどとは、決してあるまきこととお思いである。「自分は、多くの御子たちの中でも、格別に故院のご寵愛を蒙ったが、臣下の位に下すようお定めなさった叡慮を思うと、帝位には前世から縁の遠い身だったのだ。今上がこうして御位にあられることは、露わに人の知ることではないが、相人の予言は嘘ではなかったのだ」と御心の中にお思いになった。今から将来を予想してごらんになると、「住吉の神のお導きで、あの明石の人も世にまたとない宿世があり、それであの偏屈な父親も分不相応な望みを抱いたのだろうか。そうだとしたら、后の位にもつくべき人が、見すぼらしい田舎で生まれたのは、気の毒でもあり畏れ多いことよ。ぜひそのうちに都へお迎えしよう」とお思いになって、東の院の修繕を急ぐように仰せになる。

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■紫の上の嫉妬

 女君には、言(こと)に表してをさをさ聞こえ給はぬを、「聞き合はせ給ふ事もこそ」と思して、「さこそあなれ。怪しうねぢけたるわざなりや。さもおはせなむと思ふあたりには心もとなくて、思ひの外(ほか)に口惜しくなむ。女にてさへあなれば、いとこそものしけれ。尋ね知らでもありぬべき事なれど、さはえ思ひ捨つまじきわざなりけり。呼びにやりて見せ奉らむ。憎み給ふなよ」と聞こえ給へば、面(おもて)うち赤みて、「怪しう、常にかやうなる筋(すぢ)宣ひつくる心の程こそ、我ながら疎ましけれ。物憎みはいつ習ふべきにか」と怨(ゑん)じ給へば、いとよくうち笑(ゑ)みて、「そよ、誰(た)が習はしにかあらむ。思はずにぞ見え給ふや。人の心より外(ほか)なる思ひやりごとして、もの怨(ゑ)じなどし給ふよ。思へば悲し」とて、果て果ては涙ぐみ給ふ。

【現代語訳】
 源氏の君は、女君(紫の上)には、明石の上の件をはっきり口に出しておっしゃらなかったので、「よそから耳に入ることがあっては」とご心配になって、「そのような次第で、妙にうまくいかないものだ。できてほしいと思う御方にはできそうもなくて、意外なところにできて、残念です。その上、女だそうだから、ひどくつまらない。放っておいてもかまわないのだが、そうは思い捨てることもできそうにない。いずれ呼びにやってお見せしましょう。お憎みになりますな」と申されると、女君は顔をぱっと赤くして、「妙ですこと。いつもそのようなご注意をいただきます自分の性分が、我ながら嫌になります。他人を憎むということは、いつ身につくものでしょうか」と恨み言をおっしゃると、源氏の君はにっこりお笑いになり、「それ、それですよ。誰が教えるのだろう。あなたらしくないご様子をなさるものですよ。私が思いもよらなかった勝手な思い込みをして恨み言などおっしゃる。そう思うと悲しい」といって、最後には涙ぐまれる。

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■住吉参詣

 かの明石の舟、この響きにおされて、過ぎぬることも聞こゆれば、知らざりけるよ、とあはれに思す。神の御しるべを思し出づるもおろかならねば、「いささかなる消息をだにして心慰めばや。なかなかに思ふらむかし」と思す。

 御社(みやしろ)立ち給ひて、所々に逍遥(せうえう)を尽くし給ふ。難波(なには)の御祓(はらへ)など、殊によそほしう仕(つか)まつる。堀江のわたりを御覧じて、「今はた同じ難波なる」と、御心にもあらでうち誦(ず)じ給へるを、御車のもと近き惟光(これみつ)、承りやしつらむ、「さる召しもや」と、例にならひて懐に設けたる柄(つか)短き筆など、御車とどむる所にて奉れり。「をかし」と思して、畳紙(たたうがみ)に、

 みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな

とて賜へれば、かしこの心知れる下人(しもびと)してやりけり。駒(こま)(な)めてうち過ぎ給ふにも、心のみ動くに、露ばかりなれど、いとあはれにかたじけなく覚えて、うち泣きぬ。

 数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ

田蓑(たみの)の島に禊(みそぎ)仕うまつる御祓(はらへ)のものにつけて奉る。日暮れ方になりゆく。夕潮満ち来て、入江の鶴(たづ)も声惜しまぬほどのあはれなる折りからなればにや、人目もつつまずあひ見まほしくさへ思さる。

 露けさのむかしに似たる旅ごろも田蓑の島の名にはかくれず

【現代語訳】
 あの明石の舟が、この騒ぎに気圧されて、参詣もせず立ち去ってしまったことも惟光が申し上げると、源氏の君は、「少しも知らなかった」と不憫にお思いになる。これも神の御導きとお思いになるにつけても、おろそかには思われないので、「せめて一言の便りだけも遣って心を慰めたい。来合わせてかえって悲しく思っているに違いない」とお思いになる。

 源氏の君は住吉の御社をご出発になり、方々残らず遊覧にお立ち寄りになる。難波の御祓などは、格別立派にお勤めなさる。堀江のあたりをご覧になって、「今はた同じ難波なる」と、何気なくお口ずさみになるのを、御車の近くに控えている惟光が耳にしたのであろうか、このようなご用もあろうかと、いつものように懐に準備していた柄の短い筆などを、御車を停めた所で差し上げた。源氏の君は惟光の気が利くのに感心なさって、畳紙に、

 
身を尽くして恋しく思う甲斐があって、澪標のあるこの難波まで来て巡り会った。私たち宿縁は深いのだな。

と書いて惟光にお与えになったので、明石方の事情に通じている下人に命じて届けさせた。女君は、源氏の君一行が馬を並べて通って行かれるのを見ると、心が乱れるばかりだったのに、ほんの一言とはいえ、こうして文をいただけることは、嬉しく勿体ないことに思えて、涙がこぼれた。

 
物の数にも入らない、何事もあきらめている私なのに、どうして身を尽くして君を思い始めてしまったのでしょう。

源氏の君が田蓑の島で禊をお勤めする、その御祓に使うための木綿(ゆう)につけてこの歌を差し上げる。日も暮れ方になってゆく。夕潮が満ちてきて、入江の鶴も声を惜しまず鳴き渡る、情緒のある折からだろうか、源氏の君は、人目もはばからず、女君と逢って語りたいとさえお思いになる。

 
明石の海辺をさすらったあの頃のように私の旅衣は涙で濡れている、田蓑の島というのにその蓑にも隠れることができずに。

(注)「今はた同じ難波なる」・・・「わびぬれば今はた同じなるみをつくしても逢はむとぞ思ふ」(拾遺集)

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蓬生(よもぎう)

■源氏、末摘花邸を通りかかる

 卯月(うづき)ばかりに、花散里(はなちるさと)を思ひ出で聞こえ給ひて、忍びて、対(たい)の上に御暇(いとま)聞こえて出で給ふ。日ごろ降りつる名残の雨少しそそきて、をかしき程に月さし出でたり。昔の御歩(あり)き思し出でられて、艶(えん)なる程の夕月夜(ゆふづくよ)に、道のほどよろづの事思し出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立茂く森のやうなるを過ぎ給ふ。

 大きなる松に藤の咲きかかりて、月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなき香りなり。橘(たちばな)にはかはりてをかしければ、さし出で給へるに、柳もいたうしだりて、築地(ついひぢ)もさはらねば、乱れ伏したり。「見し心地する木立かな」と思すは、はやうこの宮なりけり。いとあはれにて押しとどめさせ給ふ。例の、惟光はかかる御忍び歩きに後(おく)れねば、さぶらひけり。召し寄せて、「ここは常陸(ひたち)の宮ぞかしな」「しか侍り」と聞こゆ。「ここにありし人は、まだやながむらむ。とぶらぶべきを、わざとものせむも所(ところ)(せ)し。かかるついでに入りて消息(せうそこ)せよ。よく尋ね寄りてを、うち出でよ。人違(たが)へしてはをこならむ」と宣ふ。

【現代語訳】
 四月の頃、源氏の君は花散里のことを思い出されて、紫の上に御暇を申しあげて、こっそりお出になる。ここ何日か降り続いていた雨の名残が少しぱらついて、風情のある空に月が出ている。昔のお忍び歩きも思い出されて、優艶な夕月に、道中、さまざまの事を思い浮かべになりながらたどっていらっしゃると、見るかげもなく荒れた家に、木立が茂って森のような所をお通り過ぎになる。

 大きな松に藤が咲きかかり、月の光になよなよと揺れている。風に吹かれてさっと匂ってくるのがなつかしく、ほんのりとした香りである。橘の花とはまた違って趣深いので、源氏の君が御車から顔を出してご覧になると、柳の枝が長く垂れて、築地も崩れて邪魔をしないので、乱れかかっている。「見覚えのある木立だ」とお思いになるのもそのはず、常陸宮のお邸なのであった。源氏の君は、たいそう感慨深く、御車を停めさせなさる。いつものように、惟光はこのような御忍び歩きには欠かさずお供をしているので、今日もお付き添い申していた。お召しになり、「ここは常陸宮の邸であったな」「さようでございます」と申し上げる。源氏の君は、「ここにいた人は、まだ物思いにふけって暮していようか。訪ねてやるべきだが、わざわざ行くのもことごとしい。この機会に入って案内を請うてみよ。よく確かめて口を聞くようにせよ。人違いをしては笑い草になろうから」とおっしゃる。

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■末摘花邸に入る

 「などかいと久しかりつる。いかにぞ。昔の跡も見えぬ蓬(よもぎ)の繁さかな」と宣へば、「しかじかなむたどり寄りて侍りつる。侍従が叔母の少将と言ひ侍りし老人(おいびと)なむ、変らぬ声にて侍りつる」と、有様聞こゆ。いみじうあはれに、「かかる繁き中に、何(なに)心地して過ぐし給ふらむ。今までとはざりけるよ」と、わが御心の情なさも思し知らる。「いかがすべき。かかる忍び歩(あり)きも難(かた)かるべきを。かかるついでならではえ立ち寄らじ。変はらぬ有様ならば、げにさこそはあらめと推しからるる人ざまになむ」とは宣ひながら、ふと入り給はむこと、なほつつましう思さる。

 ゆゑある御消息(せうそこ)もいと聞こえまほしけれど、見給ひしほどの口遅さもまだ変はらずは、御使ひの立ちわづらはむもいとほしう、思しとどめつ。惟光も、「さらにえ分けさせ給ふまじき蓬の露けさになむ侍る。露少し払はせてなむ、入らせ給ふべき」と聞こゆれば、

 たづねてもわれこそとはめ道もなく深きよもぎのもとのこころを

と独りごちて、なほ降り給へば、御さきの露を、馬(むま)の鞭(むち)して払ひつつ入れ奉る。雨(あま)そそきも、なほ秋の時雨めきてうちそそけば、「御傘(みかさ)さぶらふ。げに木の下露は、雨にまさりて」と聞こゆ。御指貫の裾は、いたうそぼちぬめり。昔だにあるかなきかなりし中門など、まして形もなくなりて、入り給ふにつけても、いと無徳(むとく)なるを、立ちまじり見る人なきぞ心安かりける。

【現代語訳】
 源氏の君が、「どうしてこんなにも長くかかったのだ。どうだった。昔の面影もなく蓬の茂りようであるな」とおっしゃるので、惟光は、「これこれの次第で、探って参りました。侍従の叔母で少将と言いました老女房が、昔と変わらぬ声でございました」と、その様子を申し上げる。源氏の君はたいそう不憫にお思いになって、「このような草深い中に、どんな気持ちで過ごしておいでか。今まで訪れもしないで」と、ご自身の冷淡さを自覚なさる。「どうしたものか。このような忍び歩きも難しいだろうし、こんな機会でないと立ち寄ることはできまい。姫君が以前と変わらないならば、なるほど、そのようでありそうなお人柄であるよ」とはおっしゃりながらも、すぐにお入りになるのは、やはり気が引けると思っていらっしゃる。

 趣のある御消息も申し上げたいが、あの頃の姫君の口重さもまだ変わっていなければ、お使いの者が待ちくたびれるのも気の毒で、お止めになった。惟光も、「とてもお入りになれそうにない蓬の露の多さでございます。露を少し払わせてからお入りなさいませ」と申し上げると、源氏の君は、

 
探り尋ねてこちらからお見舞いしよう。人の通う道もないほど深く茂った蓬の宿の、昔のままの姫君の心を。

と独り言をおっしゃって、やはり車からお降りになったので、惟光は、お足元の露を馬の鞭で払いつつお入れ申し上げる。雨の雫も、やはり秋の時雨めいて木々の枝から降り注ぐので、惟光は、「お傘がございます。なるほど木の下露は、雨にももまさるものでございまして」と申し上げる。御指貫の裾はひどく濡れてしまったようだ。以前でさえあるかないか分からないようだった中門などは、まして今は形もなくなっていて、お入りになられるにつけても、何の役にも立たないのだが、その場に立ち会って見る人のないのが気楽なことであった。

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■末摘花の生活を援助

 祭、御禊(ごけい)などの程、御いそぎどもにことつけて、人の奉りたる物いろいろに多かるを、さるべき限り御心加へ給ふ。中にもこの宮には、こまやかに思しよりて、睦まじき人々に仰せ言賜ひ、下部(しもべ)どもなど遣はして、蓬(よもぎ)払はせ、めぐりの見苦しきに、板垣といふものうち堅め繕はせ給ふ。かうたづね出で給へりと聞き伝へむにつけても、わが御ため面目なければ、渡り給ふことはなし。御文いとこまやかに書き給ひて、二条院いと近き所を造らせ給ふを、「そこになむ、渡し奉るべき。よろしき童(わらはべ)など、求めさぶらはせ給へ」など、人々の上まで思しやりつつ、とぶらひ聞こえ給へば、かくあやしき蓬のもとには置き所なきまで、女ばらも空を仰ぎてなむ、そなたに向きて喜び聞こえける。

 なげの御すさびにても、おしなべたる世の常の人をば目とどめ耳たて給はず、世に少しこれはと思ほえ、心地にとまるふしあるあたりを尋ね寄り給ふものと人の知りたるに、かくひき違(たが)へ、何事もなのめにだにあらぬ御有様をものめかし出で給ふは、いかなりける御心にかありけむ。これも昔の契りなめりかし。

 今は限りとあなづり果てて、さまざまに競(きほ)ひ散りあかれし上下(うへしも)の人々、我も我も参らむと争ひ出づる人もあり。心ばへなど、はた、埋(うも)れいたきまでよくおはする御有様に、心やすくならひて、殊なることなきなま受領(ずりやう)などやうの家にある人は、習はずはしたなき心地するもありて、うちつけの心みえに参り帰る。

 君は、いにしへにもまさりたる御勢(いきほひ)の程にて、物の思ひやりもまして添ひ給ひにければ、こまやかに思しおきてたるに、匂ひ出でて、宮の内やうやう人目見え、木草の葉もただすごくあはれに見えなされしを、遣水(やりみづ)かき払ひ、前栽(せんざい)の本立ちも涼しうしなしなどして、ことなる覚えなき下家司(しもげいし)の、ことに仕へまほしきは、かく御心とどめて思さるることなめり、と見取りて、御気色給はりつつ、追従(ついしよう)し仕うまつる。

【現代語訳】
 賀茂祭や斎院の御禊などの頃、その準備などにことよせて、人々が献上した品物がいろいろと多いのを、源氏の君は、しかるべき婦人方に御心をこめてお贈りになる。中でもこの常陸宮邸には、こまごまと御心遣いをなさって、親しい家臣たちに仰せ言を賜り、下人たちなどを遣わして、蓬を払わせ、邸の周囲が見苦しかったので、板垣というものを造り固めて修繕させなさる。このように源氏の君が常陸宮の姫君(末摘花)を探し出されたと世間が噂するのは、ご自分にとっては不名誉なので、お渡りになることはない。お手紙を情こまやかにお書きになり、二条院のごく近くに建物をお造らせになって、「そこにお移し申しましょう。適当な童たちなどを探してお使いください」など、姫君にお仕えする人々のことまでお心遣いなさってお世話下さるので、こんな見すぼらしい蓬の家には喜びの置きどころもない程に、女房たちも空を仰ぎ、二条院の方に向いてお礼を申し上げる。

 源氏の君は、かりそめの御遊びであっても、ありふれた世間の普通の女には注意もお払いにならず、多少なりともこれはと思われ、心にとまるところがあるような女にお近づきになるものと皆は思っているのに、こんなにまで違って、何ごとも並の人にさえ及ばない姫君を一人前の人らしくお扱いになるのは、どういう御心なのだろう、これも前世からのお約束事というものであろうか。

 姫君のことを、もう先が見えた見くびって、先を争うようにあちこちに散っていった上下の召使いたちの中には、我も我もと争って戻ってこようとする者もある。姫君のご気性は、内気すぎるほどによくできていらっしゃるお方ゆえ、それまで気楽な宮仕えに馴れていて、つまらぬ受領などの家に鞍替えしていた人たちは、それまで経験したことのない居心地の悪さもあって、現金な心をあけすけに戻って参る。

 源氏の君は、以前にもまさる御威勢で、人に対する思いやりも、前より深くなられ、こまごまとお指図をなさったので、常陸宮邸は活気が出て、邸内はしだいに人の出入りが多くなり、木や草の葉も荒れ放題だったのを、遣り水の流れをよくし、植込みの下草もさっぱり手入れしたりして、特に目をかけてもらえない下家司で、何とかしかるべき御方にお仕えしたいと思う者は、このように、源氏の君の姫君へのお心こめてのご寵愛だと見て取って、姫君のご機嫌をうかがいながら、追従してお仕え申し上げる。

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関屋(せきや)

■空蝉、源氏一行と行き合う

(一)
 伊予介(いよのすけ)と言ひしは、故院かくれさせ給ひてまたの年、常陸(ひたち)になりて下りしかば、かの帚木(ははきぎ)もいざなはれにけり。須磨の御旅居もはるかに聞きて、人知れず思ひやり聞こえぬにしもあらざりしかど、伝へ聞こゆべきよすがだになくて、筑波嶺(つくばね)の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて、年月重なりにけり。限れる事もなかりし御旅居なれど、京に帰り住み給ひて、またの年の秋ぞ、常陸は上りける。

 関(せき)入る日しも、この殿、石山に御願(ぐわん)はたしに詣(まう)で給ひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)など言ひし子ども、迎へに来たる人々、「この殿かく詣で給ふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁(あかつき)より急ぎけるを、女車多く、所せうゆるぎ来るに、日たけぬ。

 打出(うちいで)の浜来るほどに、「殿は粟田山(あはたやま)越え給ひぬ」とて、御前の人々、道も避(さ)りあへず来こみぬれば、関山にみな下(お)りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかきおろし、木隠(こがく)れに居かしこまりて過ぐし奉る。車など、かたへは後(おく)らかし、前(さき)に立てなどしたれど、なほ類(るい)ひろく見ゆ。車、十(とを)ばかりぞ、袖口、物の色あひなども漏り出でて見えたる、田舎びず由ありて、斎宮の御下り、何ぞやうの折りの物見車思し出でらる。殿もかく世に栄え出で給ふ珍しさに、数もなき御前ども、みな目とどめたり。

【現代語訳】
 伊予介であった人は、故院がお隠れになった翌年、常陸介になって任国に下ったので、あの箒木(空蝉)も伴われて一緒に下っていた。源氏の君が須磨で詫び住まいされていることもはるか遠国で聞いて、人知れずおしのび申し上げないではなかったが、お伝え申し上げるべき手立てもなく、筑波山のあたりからの風のお便りでは不確かな心地がして、少しの噂も聞かないまま月が重なってしまった。いつまでと期限の決まった侘住まいではなかったが、京にお帰りになって翌年の秋に、常陸介も帰京したのだった。

 常陸介一行が逢坂の関に入るその日に、源氏の君は、ご祈願成就のお礼に石山寺に参詣なさった。京からは、あの紀伊守などいった子供たちや、迎えに来た人々が、この源氏の君がご参詣になる由を告げたので、道中騒がしくなるだろうと、まだ暁のうちに急いだが、女車が多く、道をいっぱいに塞いでゆっくり進むので、昼になってしまった。

 打出の浜に来るころに、「殿は粟田山をお越えになった」といって、前駆の人々が、道も避けられないほど大勢入り込んできたので、関山にみな車から降りて、あちこちの杉の下に多くの車を入れて、木隠れに座り畏まって、源氏の君の御行列をお通し申し上げる。車などは一部は後ろにし、一部は先に立たせなどしているが、それでもやはり一族は多い感じである。十台ほどの車から、女房たちの袖口や衣の色などもこぼれ出でて見えるのが、田舎びず、趣きがあって、斎宮の御下向何かの折の物見車が思い出される。源氏の君もこうして世に栄えていらっしゃることとて、数知れないお供が仕えているが、先駆の者たちが、皆この女車に目をとどめている。

(二)
 九月(ながつき)晦日(つごもり)なれば、紅葉(もみぢ)の色々こきまぜ、霜枯(しもがれ)の草むらむら、をかしう見えわたるに、関屋よりさとくづれ出でたる旅姿どもの、いろいろの襖(あを)のつきづきしき縫ひ物、括(くく)り染めのさまも、さる方にをかしう見ゆ。御車は簾(すだれ)おろし給ひて、かの昔の小君、今は右衛門佐(うゑもんのすけ)なるを召し寄せて、「今日の御関迎へは、え思ひ棄て給はじ」など宣ふ御心の中(うち)、いとあはれに思し出づる事多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とり返してものあはれなり。

 「行くと来(く)とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ

え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。

【現代語訳】
 九月の末なので、紅葉がさまざまな色にまじりあい、霜枯の草が、濃く薄く一面に見渡せるところに、関屋からさっと現れ出てきた源氏の行列の旅装束の色とりどりの狩衣は、それにふさわしい刺繍やしぼり染めを施し、場所がら風情あるものに見える。源氏の君の御車は簾をお下ろしになって、あの昔の小君が今は右衛門佐になっているのをお召しになり、「今日、私が逢坂関までお迎えに参った私の志を、おろそかには思われますまい」などとお伝えになる。御心の中にたいそうしみじみと思い出されることが多いけれども、ありきたりの言付けしかできず、甲斐のないことである。女(空蝉)も、人知れず昔のことを忘れず思い出して、しみじみと胸を打たれる。

 
(空蝉)行く時も帰ってくる時も、せきとめることができない涙を、人は絶えず流れる関の清水だと見るでしょう。

この気持を、源氏の君はご存じにならないだろう、と思うと、ひどく甲斐のないことである。

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■空蝉、夫と死別、出家

 かかる程に、この常陸守(ひたちのかみ)、老いの積もりにや、悩ましくのみして、もの心細かりければ、子どもに、ただこの君の御事をのみ言ひおきて、「よろづの事、ただこの御心にのみ任せて、ありつる世に変らで仕うまつれ」とのみ、明け暮れ言ひけり。女君、「心憂き宿世(すくせ)ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれ惑ふべきにかあらむ」と思ひ嘆き給ふを見るに、命の限りあるものなれば、惜しみとどむべき方もなし。「いかでか、この人の御ために残し置く魂もがな。わが子どもの心も知らぬを」と、うしろめたう悲しきことに言ひ思へど、心にえとどめぬものにて、亡(う)せぬ。

 しばしこそ、「さ宣ひしものを」など情けづくれど、うはべこそあれ、つらき事多かり。とあるもかかるも世の道理(ことわり)なれば、身一つの憂きことにて嘆き明かし暮らす。ただ、この河内守(かうちのかみ)のみぞ、昔より好き心ありて少し情けがりける。「あはれに宣ひおきし、数ならずとも、思し疎(うと)まで宣はせよ」など、追従(ついそう)し寄りて、いとあさましき心の見えければ、「憂き宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはては珍しき事どもを聞き添ふるかなと、人知れず思ひ知りて、人にさなむとも知らせで、尼になりにけり。

 ある人々、いふかひなしと思ひ嘆く。守(かみ)もいとつらう、「おのれを厭(いと)ひ給ふほどに、残りの御齢(よはひ)は多くものし給ふらむ、いかでか過ぐし給ふべき」などぞ。「あいなのさかしらや」などぞ侍るめる。

【現代語訳】
 こうした間に、常陸守は、老いが重なったせいだろうか、病気がちになって、何となく心細くなってきたので、子供たちに、ただこの女君(空蝉)のことばかりを言い残して、「万事、ただこの方のお心のままにしてあげて、私が生きていた時と変わらずお仕え申せ」と、そればかり明けても暮れても言っていた。女君は、「自分は辛い運命のもとにあり、この人にまで先立たれては、どんなに落ちぶれ路頭に迷うことになるのだろうか」と、思い悩まれるのを見ながら、命には限りがあるものだから、どんなに惜しんでもとどめる方法がない。どうにかして、この人のためにわが魂を残しておくことができないか、自分の子供とはいえ、その心は将来どうなるかわからないし」と、それが気がかりで、悲しいと言い、また思うけれど、自分の意思では命をとどめることはできず、ついに亡くなった。

 しばらくの間こそ、子供らは父君がああおっしゃったのだからと、女君に対して情け深くふるまっていたが、それはうわべだけのことで、心ない仕打ちが多かった。女君は、それもこの世の道理だとして、我が身一つの不運として嘆きながら暮していた。ただ、この河内守だけは、昔から色好みであって、少し親切なそぶりを見せるのだった。「父君がしみじみとご遺言なさったことですから、私など物の数ではないといっても、心隔てをなさらず何でもおっしゃってください」などとへつらい寄って、ひどく呆れた下心が見えたので、女君は、「辛い宿世の身の上で、こうして生き残って、最後にはとんでもないことまでも聞かされることだ」と、人知れず決心して、人にも知らせずに、尼になってしまった。

 仕える女房たちは、情けないことなってしまったと思い嘆く。河内守もたいそう辛がって、「私をお嫌いになってのことだとしても、残りの御寿命は長くていらっしゃるのに、どうやって暮らしていかれるのだろう」などと言っていた。いらぬ世話だ、などと人々の評判であるようだ。

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絵合(えあわせ)

■帝の御前での絵合
 召しありて、内大臣(うちのおとど)権中納言参り給ふ。その日、帥(そち)の宮も参り給へり。いとよしありておはするうちに、絵を好み給へば、大臣の下にすすめ給へるやうやあらむ、ことごとしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて、御前に参り給ふ。この判(はん)仕うまつり給ふ。いみじうげに描きつくしたる絵どもあり。さらにえ定めやり給はず。(中略)

 左はなほ数ひとつあるはてに、須磨の巻出で来たるに、中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、はての巻は心ことにすぐれたるを選(え)りおき給へるに、かかるいみじき物の上手の、心の限り思ひ澄まして静かに描き給へるは、たとふべき方なし。親王(みこ)よりはじめ奉りて、涙とどめ給はず。その世に、心苦し悲しと思ほしし程よりも、おはしけむありさま、御心に思しけむ事ども、ただ今のやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々磯の隠れなく描きあらはし給へり。草(さう)の手に仮名の所々に書きまぜて、まほのくはしき日記(にき)にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかしく、誰も他(こと)ごと思ほさず、さまざまの御絵の興、これに皆移りはてて、あはれにおもしろし。よろづ皆おしゆづりて、左勝つになりぬ。

【現代語訳】
 帝のお召しがあって、内大臣(源氏)と権中納言(頭の中将)が参内される。その日は、帥の宮も参内なさった。趣味がお広い中でも、とくに絵を好まれるので、源氏の大臣が内々におすすめになったのであろうか、表立ったお召しではなく、たまたま殿上の間にいらしたのを、帝からの仰せ言があって、御前にお上りになる。この絵合の判者をお勤めになる。どれも見事で、技巧の限りを尽くした絵が多く、帥の宮もまったく優劣の判定がおできにならない。


 左方の斎宮女房方から、まだ番数がひとつ残っているという最後になって、須磨の巻が出てきたので、権中納言のお心は動揺した。右の方でも心して、最後の巻は格別に優秀な絵を選び残しておられたのに、こんな見事な名手が心ゆくまで思いすまして静かにお描きになったものは、たとえようもない。帥の宮をはじめ、どなたも感涙をおとどめにならない。あの当時、須磨に下向した源氏の君のことを、都の人々がお気の毒だ、悲しいとお思いになったよりも、源氏の君のいっそう侘しいお暮らしのご様子やお気持ちなどが、まさに目前のことのように見え、その地の景色や実際に見たことのない浦々や磯の様子を漏れなく描き表していらっしゃる。草体の漢字に仮名を所々に書きまぜてあって、正式の詳しい日記ではなく、しみじみと胸を打つ歌なども書き入れたもので、この残りの巻々も見たくてたまらず、もう誰も他の絵のことはお思いにならない。いろいろな絵に対する興味もこの絵日記に皆すっかり移ってしまって、しみじみと心打たれるおもしろさである。全部がこれに奪われて、左が勝つことになった。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

「明石」のあらすじ

(源氏 27~28歳)
(藤壺 32~33歳)
(紫の上 19~20歳)
(明石の上 18~19歳)


風雨は一向に止む気配がなく、雷鳴がとどろき、源氏の閑居の一部が落雷にあって炎上した。その夜、源氏のうたたねの夢に故桐壺院があらわれ、住吉の神の導くままに早くこの浦を去れ、とおっしゃった。翌朝、これもまた夢のお告げだと称して、明石から明石入道が舟を用意して迎えに来ていた。夢の内容が一致するので、源氏はすぐ明石の浦に移った。明石は須磨と比べ、はなやかな感じの所である。

明石入道は、かねがね一人娘(明石の上)の婿に源氏をと願っており、娘のことを切り出す。源氏は入道の人柄に好感を持ち、やがて源氏はこの娘と消息を交わすようになった。そして8月13日の月夜、源氏を岡辺の宿に迎え、二人は結ばれた。娘は心高い性質の女であったが、源氏は人目を憚り、このような時でも紫の上のことを思い出して、足繫くは通わない。明石の上は煩悶する。

あの暴風雨は都でも続いた。ある日、帝の夢に故桐壺院があらわれ、その後、帝は眼を病まれた。帝は、源氏を苦しめた報いに違いないと考え、母弘徽殿の強い反対を押し切って、7月、源氏召還の宣旨を下された。源氏の家臣はみな喜んだが、入道は涙がちに日を過ごす。源氏は、懐妊中の明石の上を残して帰京し、8月15日夜、久しぶりに参内した。そして、員外の権大納言となり政界中央に返り咲いた。

「澪標」のあらすじ

(源氏 28~29歳)
(冷泉帝 10~11歳)
(紫の上 20~21歳)
(明石の上 19~20歳)
(六条御息所 35~36歳前)
(秋好中宮 19~20歳)


帰京した源氏は、故桐壺院の菩提を弔うために法華八講を営んだ。帝はご病気が重く、翌春、11歳の東宮に譲位され、冷泉帝が即位された。源氏は内大臣に、致仕の左大臣(葵の上の父)は太政大臣に昇進、源氏方にふたたび春がめぐってきた。また、頭の中将は権中納言となった。

3月、明石の上は女の子を産んだ。源氏はしかるべき女を選んで乳母として明石へ遣わし、五十日の祝いにはさまざまな品を贈った。紫の上にはこのことは知らせてあったが、明石からの文を見ている源氏を、紫の上は横目に睨む。秋、明石の上は住吉で源氏一行と会ったが、その行列の盛大さに身分の隔たりを強く感じ、源氏に会わずに明石に帰った。このことを聞き知った源氏は、消息を送って慰め、姫君とともに上京するよう勧めた。

六条御息所は娘の前斎宮(秋好中宮:あきこのむちゅうぐう)とともに伊勢から帰京したが、重い病にかかり、娘の行く末を源氏に託して世を去った。源氏は、この婦人との過去の悲しい関係に思いを馳せ、せめて残された姫君を十分に後見しようと決心、朱雀院がこの姫君を懇望するのをしりぞけ、自分の養女とした。そして、冷泉帝に入内させようと、藤壺の女院に諮った。

「蓬生」のあらすじ

(源氏28~29歳)
(末摘花 年齢不明)


源氏が須磨・明石に退居していた間、援助を失った末摘花(すえつむはな)のわび住まいはますます貧をきわめた。邸内は荒廃して狐狸の住処となり、侍女たちは次々に去り、受領の妻である叔母は、末摘花を自分の娘たちの召使いにしようと企てた。言うことを聞こうとしない末摘花に嫌味を言い、乳母子を彼女から引き離した。しかし、末摘花は苦しさに堪え、源氏との再会を信じていた。

須磨から帰京した源氏は末摘花のことは忘れていた。ある日、源氏が花散里(はなちるさと)を訪ねる途中、偶然に末摘花邸を見つけて立ち寄り、末摘花と再会した。そして、邸の荒廃や貧窮に同情するとともに、我がつれない仕打ちを悔いて、生活を援助し、邸を修理した。そして2年後、二条院に引き取った。彼女の願いは、彼女の真心によって実現した。

「関屋」のあらすじ

(源氏 29歳)
(空蝉 年齢不明)
(右衛門の佐 24,25歳)


9月末、源氏の一行が石山詣でのために逢坂山(おうさかやま)を通っていると、東(あずま)に下っていた常陸介(ひたちのすけ)が任期を終え、妻の空蝉(うつせみ)をつれて上京してくるのに出会った。源氏は空蝉のことをしみじみと思い出し、弟の右衛門佐(うもんのすけ:昔の小君)を召して空蝉にことづてをした。小君はかつて源氏に仕えていたが、源氏が須磨に下る際、それには従わず常陸国へ下ったのだった。

 源氏と出会った空蝉の心はふたたび揺れ動くが、その後、常陸介が老病となり、子どもたちに空蝉のことを頼みおいて亡くなった。しかし、子どもたちが示した情はうわべだけであり、義理の息子の河内守(かわちのかみ)はあからさまに言い寄ってきた。空蝉は世をはかなんで出家した。周りの女房たちは、「まだ若いのに・・・」と嘆く。

「絵合」のあらすじ

(源氏 31歳)
(朱雀院 34歳)
(藤壺 36歳)
(冷泉帝 13歳)
(梅壺女御 22歳)
(弘徽殿女御 14歳)
(紫の上 23歳)


亡き六条御息所の娘である前斎宮(さきのさいぐう)は、源氏の養女となり、さらに冷泉帝に入内し、梅壺に局(つぼね)を賜わった。以前から彼女を思う朱雀院は大いに落胆したが、入内の日にはさまざまな贈り物を贈った。源氏は院の胸中を思うと心を痛めた。冷泉帝は絵がお好きであった。梅壺も絵が巧みだったので、おのずから帝の愛情は、弘徽殿女御(頭の中将の娘)から梅壺の方へ移っていった。そのことを知った負けず嫌いの権中納言(もとの頭の中将)は、物語絵を弘徽殿に贈り、源氏もまた由緒ある絵を梅壺に贈った。

 3月、中宮の御前で絵合(えあわせ)が催された。梅壺方と弘徽殿方の勝負はなかなかつかず、決着は後日の冷泉帝の御前に持ち越され、最後に源氏の須磨の絵日記が出るに及んで、梅壺方の勝ちとなった。その夜、源氏は弟の蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや:故桐壺院の息子)と、学問・絵画・書道について論じた。

 源氏は身の栄華につけても世の無常を思い、ひそかに出家を志し、山里に御堂を建てたいと考えた。

語 句

あいなし
 気に入らない。不快である。つまらない。不似合いだ。「あいなく」は、わけもなく。

あえかなり
 か弱い。華奢だ。繊細だ。

あくがる
 心が体から離れてさまよう。うわの空にある。どこともなく出歩く。心が離れる。疎遠になる。

あさまし
 驚くばかりだ。意外だ。情けない。興ざめだ。あきれるほどひどい。見苦しい。

あだあだし
 浮気だ。移り気だ。うわべだけで誠意がない。

あだめく
 浮気っぽく振舞う。うわつく。

あなかしこ
 ああ恐れ多い。ああ慎むべきだ。

あながちなり
 無理だ。身勝手だ。強引だ。ひたすらだ。ひたむきだ。
はなはだしい。ひどい。

あはあはし
 いかにも軽薄だ。浮ついている。

あらましごと
 予測される事柄。予想。

あらまほし
 望ましい。理想的だ。

ありありて
 このままでいて。生き長らえて。その果てに。

いかで
 どうして。どういうわけで。どうにかして。ぜひとも。

いとど
 いよいよ。いっそう。

いぶせし
 気が晴れない。うっとうしい。気がかりである。不快だ。気詰まりだ。

いまいまし
 慎むべきだ。縁起が悪い。不吉だ。憎らしい。癪にさわる。

今めく
 現代風である。

いみじ
 甚だしい。並々でない。よい。すばらしい。ひどい。恐ろしい。

うしろめたし
 先が気がかりだ。どうなるか不安だ。やましい。うしろぐらい。

うしろやすし
 気安い。先が安心だ。心配がない。

うたて
 ますますはなはだしく。いっそうひどく。

うちつけなり
 あっという間だ。軽率だ。ぶしつけだ。

うつたへに
 ことさら。まったく。

うるはし
 壮大で美しい。立派だ。きちんとしている。端正だ。きまじめで礼儀正しい。親密だ。誠実だ。色鮮やかだ。正しい。

うれたし
 しゃくだ。いまいましい。つれない。自分には辛い。

えならず
 何とも言えないほどすばらしい。

おとなぶ
 大人になる。一人前になる。大人らしくなる。大人びる。

おのがじし
 各自それぞれ。思い思いに。

おほとのごもる
 おやすみになる。

おほやけ
 朝廷。天皇。公的なこと。

かごと
 言い訳。不平。恨み言。

かしこ
 あそこ。かのところ。

かたはらいたし
 きまりが悪い。気恥ずかしい。腹立たしい。苦々しい。みっともない。気の毒である。

形見(かたみ)
 遺品。遺児。遠く別れた人の残した思い出となるもの。

くすし
 神秘的だ。不思議だ。堅苦しい。窮屈だ。

くたす
 腐らせる。無にする。やる気をなくさせる。非難する。

けしうはあらず
 そう悪くない。まあまあだ。

げに
 なるほど。いかにも。本当に、まあ。

けらし
 ・・・たらしい。・・・たようだ。・・・たのだなあ。

心もとなし
 じれったい。待ち遠しい。不安で落ち着かない。気がかりだ。ほのかだ。かすかだ。

ことごとし
 仰々しい。いかにも大げさだ。

ことわりなり
 もっともだ。道理だ。

才(ざえ)
 学識。教養。才能。

さかしがる
 小賢しく振舞う。利口ぶる。

さはれ
 えい、ままよ。どうともなれ。それはそうだが。しかし。

さぶらふ
 お仕えする。参上する。(貴人のそばに)ございます。あります。

さらぬ
 そうではない。そのほかの。大したことではない。

消息(せうそこ)
 手紙。便り。

そこはかとなし
 どことはっきりしない。とりとめもない。何ということもない。

たいだいし
 不都合だ。もってのほかだ。

たぶ
お与えになる。下さる。

つきづきし
 似つかわしい。ふさわしい。調和が取れている。

つきなし
 取り付くすべがない。手掛かりがない。ふさわしくない。

つとめて
 早朝。翌朝。

つれなし
 素知らぬふうだ。平然としている。冷淡だ。薄情だ。ままならない。

とぶらひ
 訪問すること。見舞い。

長押(なげし)
 柱の側面に取り付けて、柱と柱との間を横につなぐ材。鴨居に添える「上長押」、敷居に添える「下長押」がある。

なつかし
 心が引かれる。親しみが持てる。昔が思い出されて慕わしい。

なづさふ
 水に浮かんで漂っている。
なれ親しむ。慕い懐く。

はかなし
 頼りない。むなしい。あっけない。ちょっとしたことだ。幼い。粗末だ。

ひがひがし
 ひねくれている。素直でない。情緒を解さない。

ひたぶるなり
 ひたすらだ。一途だ。いっこうに。まったく。

びんなし
 具合が悪い。都合が悪い。不便だ。感心できない。かわいそうだ。いたわしい。

ほだし
手かせ。足かせ。妨げ。

まいて
 まして。なおさら。いうまでもなく。

みづら
 男性の髪型の一つで、髪を頭の中央で左右に分け、耳のあたりで束ねて結んだもの。上代には成年男子の髪型で、平安時代には少年の髪型となった。

むくつけき
 異様で不気味だ。恐ろしい。ひどく無骨だ。

やむごとなし
 よんどころない。格別に大切だ。この上ない。高貴だ。尊ぶべきだ。

やるかたなし
 心を晴らしまぎらす方法がない。普通でない。とてつもない。

ゆゆし
 恐れ多い。はばかられる。不吉だ。忌まわしい。甚だしい。とんでもない。すばらしい。立派だ。

らうたし
 かわいらしい。いとおしい。世話してやりたくなる。

わりなし
 仕方がない。むやみやたらだ。無理やりだ。言いようがない。ひどい。この上ない。

をこなり
 間が抜けている。馬鹿げている。

をさをさ
 ほとんど。あまり。めったに。なかなかどうして。