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源氏物語

「源氏物語」の先頭へ 各帖のあらすじ

松風(まつかぜ)

■東の院、完成

 東の院造りたてて、花散里(はなちるさと)と聞こえし、移ろはし給ふ。西の対、渡殿(わたどの)などかけて、政所(まどころ)家司(けいし)など、あるべきさまにし置かせ給ふ。東の対(たい)は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は、ことに広く造らせ給ひて、かりにてもあはれと思して、行く末かけて契り頼め給ひし人々、集ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせ給へるしも、なつかしう見どころありてこまかなり。寝殿は塞(ふた)げ給はず、時々渡り給ふ御住み所にして、さる方なる御しつらひどもし置かせ給へり。

【現代語訳】
 二条院の東の院を建造なさって、花散里と申し上げた方を住まわせられる。西の対の屋から渡殿などにかけて、政所(事務所)を設け、家司(家政を司る者)を適当に任じてお置きになる。東の対は明石の御方のためと決めておられる。北の対はとくに広くお造りになり、ほんの一時のお戯れからでも行く末のお約束をなさった方々を集めて一緒に住めるようにと、部屋をいくつも仕切ってお造りになったのも、好ましく見事ななさり方で、こまごまと御心が行き届いている。寝殿には女君をお置きにならず、時々ご自分がおいでになる時の御座所にして、それにふさわしい調度品などをお整えになっている。

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■明石の上、とまどう

 明石には御消息(せうそこ)絶えず、今はなほ上(のぼ)りぬべきことをば宣へど、女はなほわが身の程を思ひ知るに、「こよなくやむごとなき際(きは)の人々だに、なかなかさてかけ離れぬ御有様のつれなきを見つつ、物思ひ増さりぬべく聞くを、まして何ばかりの覚えなりとてかさし出で交らはむ。この若君の御面伏(おもてぶ)せに、数ならぬ身の程こそ現れめ。たまさかに這(は)ひ渡り給ふついでを待つことにて、人わらへにはしたなき事いかにあらむ」と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられ給はざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背(そむ)かず。親たちも「げにことわり」と思ひ嘆くに、なかなか心も尽きはてぬ。

 昔、母君の御祖父(おほぢ)、中務(なかつかさ)の宮と聞こえけるが領(らう)じ給ひける所、大堰(おほゐ)川のわたりにありけるを、その御後、はかばかしう相(あひ)継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの時より伝はりて宿守(やどもり)のやうにてある人を、呼び取りて語らふ。「世の中を今はと思ひはてて、かかる住まひに沈みそめしかども、末の世に思ひかけこと出で来てなむ、さらに都の住みか求むるを、にはかにまばゆき人中(ひとなか)いとはしたなく、田舎びにける心地も静かなるまじきを、古き所尋ねてとなむ思ひ寄る。さるべき物は上げ渡さむ。修理(すり)などして、形(かた)のごと、人住みぬべくは、繕(つくろ)ひなされなむや」と言ふ。

【現代語訳】
 明石には絶えずお便りをなさっている。「今はもう上京するように」とおっしゃるが、女(明石の上)はやはり自分の身の程を自覚しているので、「たいそう立派なご身分の方々でさえあまり顧みても下さらず、それでいて捨ててもおしまいにならないお仕打ちの辛さに、かえって気苦労がまさるということを聞いていますのに、まして私のような者がどれほどのご寵愛を頼みにして方々の中に入って暮していけようか。いやしい身分が露呈するだけで、この姫君のお顔汚しになりはしないか。ごく稀においで下さる機会を待つのでは、物笑いの種にされ、きまりの悪い思いをすることがどんなに多いだろう」と思い乱れるが、一方、姫君が明石のような田舎に生まれ出て、人の数にも入れていただけないのもひどく不憫なので、ひたすらお誘いをお断りするわけにもいかない。親たちもそれを「無理もない」と思い嘆くばかりで思案に余っている。

 その昔、明石の上の母君の御祖父で中務卿でいらっしゃった方がお持ちだった邸が、大堰川のあたりにあったのを、お亡くなりになった後は相続して管理する人もおらず、長年荒れるにまかせていたのを入道は思い出し、その当時から代々管理人のようにしている人を呼び寄せて相談する。入道は「現世はこれまでと見切りをつけてこんな田舎住まいに沈んで暮しているが、晩年になって思いがけないことが起こったので、改めて都の住みかを求めるのだが、急にまばゆいばかりの人中に出るのはひどく居心地が悪いし、すっかり田舎者になってしまって気持ちも落ち着かないと思うゆえ、古くから馴染みのある所を尋ねてみようと思いついたのだ。必要な物はそちらへ送るから、邸の修理などして、一通りに住めるように修繕してくれまいか」と言う。

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■明石の上ら、明石の浦を出立

 思ふ方の風にて、限りける日、違(たが)へず入り給ひぬ。人に見咎められじの心もあれば、道の程も軽(かろ)らかにしなしたり。家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、所変へたる心地もせず。昔のこと思ひ出でられて、あはれなること多かり。造り添へたる廊(らう)など、ゆゑあるさまに、水の流れもをかしうしなしたり。まだ細やかなるにはあらねども、住みつかば、さてもありぬべし。親しき家司(けいし)に仰せ給ひて、御設けのことせさせ給ひけり。渡り給はむことは、とかう思したばかる程に、日ごろ経ぬ。なかなか物思ひ続けられて、捨てし家居(いえゐ)も恋しうつれづれなれば、かの御形見の琴(きん)を掻き鳴らす。折のいみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけて少し弾くに、松風、はしたなく響き合ひたり。尼君、もの悲しげにて寄り臥し給へるに、起きあがりて、

 身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く

御方、

 ふる里に見し世の友を恋ひわびてさへづることをたれかわくらむ

 かやうにものはかなくて明かし暮らすに、大臣、なかなか静心なく思さるれば、人目をもえ憚りあへ給はで渡り給ふを、女君は、かくなむとたしかに知らせ奉り給はざりけるを、例の、聞きもやあはせ給ふとて消息聞こえ給ふ。「桂に見るべきこと侍るを、いさや、心にもあらでほど経にけり。とぶらはむと言ひし人さへ、かのわたり近く来ゐて待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂(みだう)にも、飾りなき仏の御とぶらひすべければ、二三日(ふつかみか)は侍りなむ」と聞こえ給ふ。

【現代語訳】
 順風に送られて、予定の日を違えず京にお入りになる。人に気づかれまいとの用心から、道中も質素な装いであった。大堰(おおい)の邸のようすも風情があって、長年過ごした明石の海辺に似ているので、土地が変った感じもしない。母尼君は、昔のことが思い出されて、しみじみと胸を打つことが多い。新たに建て増しした廊なども趣があり、遣水の流れも美しく造ってある。部屋の手入れはまだ十分に行き届いていないが、住みなれれば大丈夫だろう。源氏の君は親しい家司(家政を司る者)にお命じになって、到着を祝う宴の用意をおさせになった。しかしご自身がおいでになることは、あれこれと口実を考えていらっしゃるうちに日数が過ぎてしまった。明石の上は、なかなか物思いが絶えず、捨ててきた明石の家も恋しく、所在ないままに源氏の君のお残しになった琴を弾いてみる。折から秋の季節の寂しさが忍び難いので、人気のない部屋で気を許して少し弾くと、松風が迷惑なまでに響きあった。尼君は悲しげに物に寄りかかって横になっていらしたが、起きあがって、

 
尼の姿に身を変えて一人帰ってきた山里に、明石の浦で聞いたのと同じような松風が吹くことよ。

明石の上、

 
故郷で親しんだ人々が恋しくてたまらぬ気持ちでかき鳴らしている琴の音を、誰が聞き分けてくれるでしょうか。

 このように、頼りない状態で日を過ごしていると、源氏の大臣はかえって気がかりになられ、人目を気にしてばかりもいらっしゃれず大堰邸においでになるが、二条の女君(紫の上)にはまだこういう次第とはっきりお知らせではなかったので、例によって、他から聞き合わせることもあるかもしれぬと心配してご挨拶なさる。「桂の方に面倒を見るべきことがございますのを、不本意にもそのままにしておりました。訪ねる約束をしました人も近くに来て待っているそうですから、気の毒でしてね。嵯峨野の御堂にも、まだ飾りつけの済んでいない仏像のお見舞いをしなければなりませんので、ニ三日はかかりましょう」と仰せになる。

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薄雲(うすぐも)

■母娘の別れ

(一)
 雪霰(ゆきあられ)がちに、心細さまさりて、あやしくさまざまに物思ふべかりける身かな、とうち嘆きて、常よりもこの君を撫でつくろひつつ居たり。雪かきくらし降りつもる朝(あした)、来(き)し方行く末のこと、残らず思ひつづけて、例はことに端近(はしぢか)なる出で居などもせぬを、汀(みぎは)の氷など見やりて、白き衣(きぬ)どものなよよかなるあまた着て、ながめゐたる様体(やうだい)、頭(かしら)つき、後手(うしろで)など、限りなき人と聞こゆとも、かうこそはおはすらめ、と人々も見る。

 落つる涙をかき払ひて、「かやうならむ日、ましていかにおぼつかなからむ」と、らうたげにうち嘆きて、

 雪深み深山(みやま)の道は晴れずともなほふみかよへあと絶えずして

と宣へば、乳母(めのと)うち泣きて、

 雪まなき吉野の山をたづねても心のかよふあと絶えめやは

と言ひ慰む。

【現代語訳】
 雪や霰が降る日が多くて、心細さもいっそう募り、「どういうわけでも様々に気苦労を重ねなければならぬ身なのであろう」と嘆息しつつも、明石の上はいつにも増して姫君の髪を撫でたり労わったりしている。雪が空を暗くして降りつもった明くる日の朝、来し方行く末のことを際限なく思い続けて、いつもは滅多に縁先に出ていることなどないのに、池の汀の氷などを眺め、白い衣のやわらかなのを何枚も着重ねて、ぼんやり物思いにふけっている有様、頭つき、後ろ姿など、この上なく高貴な方と申し上げたとしても、明石の上以上の方はなかなかいないだろうと、女房たちも見ている。明石の上は落ちる涙を手で払って、「これから先、今日のような日はどれほど気になることでしょう」と、いたわしくため息をついて、

 
雪が深く奥山の道は晴れないとしても、それでもせめて文を通わせておくれ。途絶えることなく。

とおっしゃると、乳母は泣いて、

 
雪の晴れ間もない吉野の奥山を捜してでも、私の心の通いが途絶えることがありましょうか、ありはしません。

と言って慰めている。

(二)
 この雪すこしとけて渡り給へり。例は待ち聞こゆるに、さならむとおぼゆることにより、胸うちつぶれて、人やりならずおぼゆ。「わが心にこそあらめ。辞(いな)び聞こえむを強ひてやは。あぢきな、とおぼゆれど、軽々しきやうなり」とせめて思ひかヘす。いとうつくしげにて前に居給へるを見給ふに、「おろかには思ひがたかりける人の宿世(すくせ)かな」と思ほす。この春より生(お)ほす御髪(みぐし)、尼そぎの程にて、ゆらゆらとめでたく、つらつき、まみの薫れる程など、いへばさらなり。よそのものに思ひやらむ程の心の闇(やみ)推しはかり給ふに、いと心苦しければ、うち返し宣ひ明かす。「何か。かく口惜(くちを)しき身の程ならずだに、もてなし給はば」と聞こゆるものから、念じあへず、うち泣くけはひあはれなり。

【現代語訳】
 この雪が少し解けたころに、源氏の君が大堰邸においでになった。明石の上はいつもなら待ち焦がれているのに、あの話のことだと思うせいで胸がつぶれるが、誰も咎めようがない。「もともと私の気持ち次第であるものを、もしお断りしたら無理に姫君を連れていくとはおっしゃるまい。つまらないことをしたと思うが、一度承諾したことを今更お断りしては軽々しい」と強いて思い返している。姫君がたいそう可愛らしく目の前に座っていらっしゃるのを源氏の君が御覧になり、「おろそかには思えない宿縁のある人かな」とお思いになる。この春から伸ばし始めた御髪が、尼そぎくらいになってゆらゆらと美しくゆれて、顔だち、目元が美しく色づいているのなど、言うまでもなく素晴らしい。この姫君を人出に渡すことになる親心をお察しになるとたいそう心苦しいので、繰り返しお諭しになる。明石の上は「いいえ。せめて私のような賤しい者の子でないようにお取り扱いくださいましたら」と申し上げつつも、こらえきれずに泣き出す様子は気の毒である。

(三)
 姫君は何心もなく、御車に乗らむことを急ぎ給ふ。寄せたる所に、母君みづから抱きて出で給へり。片言の、声はいとうつくしうて、袖をとらへて、「乗り給へ」と引くも、いみじうおぼえて、

 末遠き二葉(ふたば)の松に引き分かれいつか木(こ)高き影を見るべき

えも言ひやらず、いみじう泣けば、「さりや、あな苦し」と思して、

生ひそめし根もふかければ武隈(たけくま)の松に小松の千代をならべむ

のどかにを」と、慰め給ふ。さることとは思ひ静むれど、えなむ堪ヘざりける。乳母(めのと)、少将とてあてやかなる人ばかり、御佩刀(みはかし)、天児(あまがつ)やうの物取りて乗る。副車(ひとだまひ)によろしき若人(わかうど)、童(わらは)など乗せて、御送りに参らす。道すがら、とまりつる人の心苦しさを、いかに罪や得らむと思す。

 暗うおはし着きて、御車寄するより、華やかにけはひ異なるを、田舎びたる心地どもは、はしたなくてやまじらはむと思ひつれど、西面(にしおもて)をことにしつらはせ給ひて、小さき御調度ども、うつくしげに整へさせ給へり。乳母の局(つぼね)には、西の渡殿の北に当れるをせさせ給へり。

 若君は、道にて寝給ひにけり。抱(いだ)きおろされて、泣きなどはし給はず。こなたにて御くだもの参りなどし給へど、やうやう見めぐらして、母君の見えぬを求めて、らうたげにうちひそみ給へば、乳母召し出でて、慰め紛らはし聞こえ給ふ。山里のつれづれ、ましていかに、と思しやるはいとほしけれど、明け暮れ思すさまにかしづきつつ見給ふは、ものあひたる心地し給ふらむ。

【現代語訳】
 姫君は、ただ無邪気にお車に早く乗ろうとなさる。御車を寄せた所に、母君みずから抱いて出ていらした。姫君の片言の声はたいそう可愛くて、母の袖をとらえて、「お母様も早くお乗りなさい」と引っ張るのも、たまらなく悲しく感じられて、

 
行く末遠い二葉の松(幼い姫君)と別れて、いつまた立派になられたお姿を見ることができるのでしょうか。

と、最後まで言うことができず激しく泣くので、源氏の君は「無理もない、ああ辛いことよ」とお思いになられて、

生まれてきた前世からの因縁も深いのだから、私たちは、将来ある姫君を幸福にしてあげましょう。

どうか安心してお待ちなさい」とお慰めになる。女君は「その通りだ」とは思って気を取り直すのだが、やはり堪え難いのだった。乳母と少将という身分の高い女房の二人だけが、御佩刀、天児(人形)といったような物を持って御車に同乗する。お供の車にはしっかりした若女房や女の童などを乗せて御送りに参らせる。道すがら、後に残るとどまる人の心苦しさを、源氏の君は「何と罪作りなことをしていることか」とお思いになる。

 暗くなった頃に二条院にお着きになり、御車を御殿に寄せると、打って変わって華やかな気配がするので、田舎びたお付きの人々などは、居心地悪く奉公するのではと心配したが、西向きの座敷を別にご用意になって、小さな調度品などがかわいらしげに揃えておありだった。乳母の部屋には、西の渡殿の北にあたる所をお当てになる。

 姫君は道の途中で寝てしまわれたが、抱きおろされても泣きなどはなさらない。こちら(紫の上の御殿)にお連れしてお菓子などをお上げになると、ようよう辺りを見回して、母君の姿が見えないのを捜して、可愛らしいお顔にべそをお掻きになるので、乳母を召し出して姫君を慰め紛らわせてさしあげなさる。ましてあちらの山里の所在なさはどれほど辛いであろうと思いやられるにつけても気の毒ではあるが、こちらの御邸で明け暮れ思いのままに可愛がりつつお育てなさることは、女君(明石の君)もよいことだとお感じになるだろう。

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■藤壺宮、崩御

(一)
 大臣(おとど)は、公(おほやけ)方さまにても、かくやむごとなき人の限り、うち続き亡(う)せ給ひなむことを思し嘆く。人知れぬあはれ、はた限りなくて、御祈りなど思し寄らぬことなし。

 年ごろ思し絶えたりつる筋さへ、いま一たび聞こえずなりぬるがいみじく思さるれば、近き御几帳のもとに寄りて、御ありさまなど、さるべき人々に問ひ聞き給へば、親しきかぎりさぶらひて、こまかに聞こゆ。「月ごろ悩ませ給へる御心地に、御行ひを時の間もたゆませ給はず、せさせ給ふつもりの、いとどいたうくづほれさせ給ふに、この頃となりては、柑子(かうじ)などをだに、触れさせ給はずなりにたれば、頼みどころなくならせ給ひにたること」と、泣き嘆く人々多かり。

 「院の御遺言にかなひて、内裏(うち)の御後見(うしろみ)仕うまつり給ふこと、年ごろ思ひ知り侍ること多かれど、何につけてかは、その心寄せ異なるさまをも漏らし聞こえむとのみ、のどかに思ひ侍りけるを、今なむ、あはれに口惜しく」と、ほのかに宣はするも、ほのぼの聞こゆるに、御答(いら)へも聞こえやり給はず、泣き給ふさま、いといみじ。

 「などかうしも心弱きさまに」と、人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさまを、おほかたの世につけても、あたらしく惜しき人の御さまを、心にかなふわざならねば、かけとどめ聞こえむ方なく、言ふかひなく思さるること限りなし。「はかばかしからぬ身ながらも、昔より御後見(うしろみ)仕うまつるべきことを、心のいたる限り、おろかならず思ひ給ふるに、太政大臣(おほきおとど)の隠れ給ひぬるをだに、世の中心あわただしく思ひ給へらるるに、またかくおはしませば、よろづに心乱れ侍りて、世に侍らむことも残りなき心地なむし侍る」と聞こえ給ふほどに、燈火(ともしび)などの消え入るやうにてはて給ひぬれば、いふかひなく悲しきことを思し嘆く。

【現代語訳】
 源氏の大臣は、公の立場からしても、このように貴い方々ばかりが次々とお亡くなりになるのをお嘆きになる。人知れぬ悲しみの深さは、また限りもなく、ご祈祷などは行き届かぬということがない。

 この年月、あきらめていらした藤壺の宮への思いさえ、もう一度申し上げずじまいになってしまったのがたまらなく無念なので、おそば近くの御几帳の所に寄ってご病状などをお尋ねになると、お側に残らずお仕えしている親しい女房たちがこまかに申し上げる。「ずっとご気分を悪くしていらっしゃいますのに、お勤めを少しもお休みになりませんでしたので、ひどくご衰弱なさいまして、もうこの頃は柑子などさえお口になさらず、ご回復の望みもなくなっておしまいになりました」と、誰もが泣き嘆く。

 藤壺の宮は「故院のご遺言どおりに今上のご後見役をお務めいただいていますことは、前々から感謝申し上げておりますが、どのような折に深い感謝の気持ちをお伝え申し上げようかとばかり思いながら、ついそのままにしておりましたのが、今となってはつくづく無念で」と、かすかにおっしゃるのが聞こえ、源氏の君はお答えもできずにお泣きになり、そのお姿はまったくおいたわしい。

 「どうしてこんなにも気弱になっているのだろう」と、人目が恥ずかしく気を取り直そうとなされるが、昔からの藤壺の宮のお人柄を思ってごらんになると、個人的な事情は抜きにしても、もったいなく惜しくあり、この世にお引きとめ申そうにもすべがなく、はてしもなく情けないお気持ちになる。

 源氏の君が、「ふがいない身ながらも、昔から、ご後見申し上げるべきことを思いつく限りはと考えてまいりましたが、太政大臣がお亡くなりになったことさえ世の無常を思わされますのに、その上こういうご容態であられますので、千々に心が乱れまして、私までが残り少ない命のように存ぜられます」と申し上げるうちに、燈火などが消え入るようにお亡くなりになったので、どうしようもない悲しみにくれてお嘆きになる。

(二)
 かしこき御身のほどと聞こゆる中にも、御心ばへなどの、世のためにもあまねくあはれにおはしまして、豪家(がうけ)にこと寄せて人の憂へとある事などもおのづからうち交じるを、いささかもさやうなる事の乱れなく、人の仕うまつる事をも、世の苦しみとあるべき事をばとどめ給ふ。功徳(くどく)の方とても、勧むるにより給ひて、厳(いかめ)しうめづらしうし給ふ人など、昔のさかしき世に皆ありけるを、これはさやうなる事なく、ただ、もとよりの財(たから)物、え給ふべき年官(つかさ)、年爵(かうぶり)、御封(みぶ)のものの、さるべき限りして、まことに心深き事どもの限りをしおかせ給へれば、何とわくまじき山伏(やまぶし)などまで惜しみ聞こゆ。

 をさめ奉るにも、世の中響きて悲しと思はぬ人なし。殿上人など、なべて一つ色に黒みわたりて、ものの栄(はえ)なき春の暮れなり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ。「今年ばかりは」と独りごち給ひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂にこもり居給ひて、日一日(ひひとひ)泣き暮らし給ふ。夕日はなやかにさして、山際(やまぎは)の梢あらはなるに、雲の薄く渡れるが鈍色(にびいろ)なるを、何ごとも御目とどまらぬ頃なれど、いとものあはれに思さる。

 入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる

人聞かぬ所なればかひなし。

【現代語訳】
 貴いご身分のお方の中でも、藤壺の宮のご性分は、世のためにもすべてご慈愛深くいらっしゃって、権勢をかさに着て人々の迷惑となるような事なども自然とまじってくるものだが、いささかもそのようなお振舞いがなく、下々がご奉仕する事においても、世間の迷惑となるようなことはお差し止めになる。仏事供養においても、昔の聖代には人が勧めるままに盛大に派手なことをなさった方などはいくらもあったのに、この宮はそうしたことをなさらず、ただ伝来の宝物とか、年ごとに決まってお受けになる年官や年爵(年給)、お后としてのお手当(御封)などの中から、差支えない分だけで真にお心を込めて尽くされたので、何の道理もわきまえないような山伏などまでがお悔やみ申し上げる。

 ご葬儀の時も、国じゅうが憂いに沈み、泣き悲しまぬ人はない。殿上人などがみな喪服の黒一色になって、晴れやらぬ春の暮れである。源氏の君は、二条院の庭前の桜をご覧になっても、かつての花の宴の折のことなどを思い出される。「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染(すみぞめ)に咲け」と独り言に古歌を口ずさまれ、あまりに悲しむと人が不審がるので、お念誦堂にこもられて一日中泣き暮らしていらっしゃる。夕日が華やかにさして、山際に並ぶ梢がはっきりと見えるところに薄雲がたなびいて鈍色に見えるのを、何事にも興をお覚えにならない折ではあるが、胸をしめつけられる思いがなさる。

 
夕日がさす峰にたなびく薄雲の色は、悲しみ嘆く私の喪服の袖の色に似ていようか。

 誰も聞いていない所なので、せっかくのお歌も甲斐のないことである。

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■帝、出生の秘密を知る

(一)
 上(うへ)、「何事ならむ。この世に怨み残るべく思ふことやあらむ。法師は聖(ひじり)といへども、あるまじき横さまのそねみ深く、うたてあるものを」と思して、「いはけなかりし時より、隔て思ふ事なきを、そこにはかく忍び残されたることありけるをなむ、つらく思ひぬる」と宣はすれば、「あなかしこ。さらに仏のいさめ守り給ふ真言(しんごん)の深き道をだに隠しとどむることなく広め仕うまつり侍り。まして心に隈(くま)あること、何事にか侍らむ。これは来(き)し方行く先の大事と侍ることを、過ぎおはしましにし院、后(きさい)の宮、ただ今世をまつりごち給ふ大臣(おとど)の御ため、すべて、かへりてよからぬ事にや漏り出で侍らむ。かかる老法師(おいほふし)の身には、たとひ憂ヘ侍りとも、何の悔(くい)か侍らむ。

 仏天(ぶつてん)の告げあるによりて奏し侍るなり。わが君孕(はら)まれおはしましたりし時より、故宮の深く思し嘆くことありて、御祈り仕うまつらせ給ふゆゑなむ侍りし。くはしくは法師の心にえ悟り侍らず。事の違(たが)ひ目ありて、大臣(おとど)横さまの罪に当たり給ひし時、いよいよ怖(お)ぢ思しめして、重ねて御祈りども承り侍りしを、大臣も聞こしめしてなむ、またさらに事加へ仰せられて、御位に即(つ)きおはしまししまで仕うまつる事ども侍りし。その承りしさま」とて、くはしく奏するを聞こしめすに、あさましうめづらかにて、恐ろしうも悲しうも、さまざまに御心乱れたり。

 とばかり御答(いら)へもなければ、僧都、「進み奏しつるを便(びん)なく思しめすにや」とわづらはしく思ひて、やをらかしこまりてまかづるを、召しとどめて、「心に知らで過ぎなましかば、後の世までの咎めあるべかりけることを、今まで忍び籠(こ)められたりけるをなむ、かへりてはうしろめたき心なりと思ひぬる。またこのことを知りて漏らし伝ふる類(たぐひ)やあらむ」と宣はす。

 「さらに。なにがしと王命婦(わうみやうぶ)とより外(ほか)の人、この事のけしき見たる侍らず。さるによりなむ、いと恐ろしう侍る。天変しきりにさとし、世の中静かならぬはこの気(け)なり。いときなく物の心知ろしめすまじかりつる程こそ侍りつれ、やうやう御齢(よはひ)足りおはしまして、何事もわきまへさせ給ふべき時に至りて、咎をも示すなり。よろづの事、親の御代よりはじまるにこそ侍るなれ。何の罪とも知ろしめさぬが恐ろしきにより、思ひ給へ消(け)ちてし事を、さらに心より出だし侍りぬること」と、泣く泣く聞こゆる程に、明けはてぬればまかでぬ。

【現代語訳】
 帝は、「いったい何事か。この世に怨みが残りそうに思う心配事でもあるのだろうか。法師というものはいかに聖僧といっても、道に外れた邪念が深くて嫌なものだから」とお思いになって、「幼少の時から隔てなく思っているのに、御坊におかれてはそんなふうに隠し事をしていたのを恨めしく思いますぞ」と仰せになると、僧都は「これは恐れ入ります。仏が秘密として禁じておられる真言の深い道さえも、私は隠し申さずお伝え申し上げました。まして心に隔てなど、何がございましょう。これは過去未来を通じての重大事でございますが、すでにお隠れになった院(桐壺院)、后宮(藤壺)、また今の世の政を執っておられます源氏の大臣の御ために、このまま隠しておいてはかえってよろしからぬ噂が漏れ出たりしますまいか。この老法師の身には、たとえ申し上げたために禍いを得ましても、何の後悔がございましょうか。

 このことは、仏天のお告げがありましたので申し上げるのでございます。お上がまだご胎内にいらした時から、亡き宮様(藤壺)が深くご心配なさることがあり、私に御祈祷をお命じになるいきさつがございました。詳しい事は法師の心では存じかねます。不慮の事によって源氏の大臣が無実の罪にあわれました時、宮様はますますご心配なさり、重ねて数々の御祈祷を私に仰せつけられましたが、源氏の大臣もそれをお聞きになられ、また更に加えてご祈祷をお命じになり、お上が御即位あそばすまでいろいろとお勤め申し上げることがございました。その承りました事情と申しますのは・・・」と、詳しく申し上げるのを帝がお聞きあそばすと、呆然として、あり得ないことと思われ、恐ろしくも悲しくも、さまざまに御心を乱していらっしゃる。

 しばらくお返事もないので、僧都は、進んで奏上したのをけしからぬと思ぼし召されたのかと気まずく思い、そっと恐縮して退出しようとするのを、帝はお呼び止めになり、「もしそのことを知らずに過ごしていれば、後の世までの罪を得るところであったが、これほどのことを今まで秘密にしておられたのは、かえって恨めしく思いますぞ。他にこのことを知っていて漏らし伝えるような人はあるだろうか」と仰せになる。

 僧都は「いえいえ、私と王命婦以外に知っている者はございません。だからこそひどく恐ろしいのでございます。天変がしきりにあり、世の中が静かでないのはこのせいでございます。お上がまだ御幼少で物の情理をお分かりあそばされないうちはともかくも、ようやくご成長なさって何事もおわきまえなさる時になりまして、天もお咎めを示すのでございます。万事は親の御時から始まるのでございます。お上が何の罪ともご存知ないのが恐ろしいものですから、いったんは忘れ去ろうとしてまいりましたことを、今さらながら口外いたした次第です」と、泣く泣く申し上げるうちに、すっかり夜が明けたので、僧都は退出した。

(二)
 上は、夢のやうにいみじき事を聞かせ給ひて、色々に思し乱れさせ給ふ。故院の御ためもうしろめたく、大臣(おとど)の、かくただ人にて世に仕へ給ふも、あはれにかたじけなかりけること、かたがた思し悩みて、日たくるまで出でさせ給はねば、かくなむと聞き給ひて、大臣も驚きて参り給へるを御覧ずるにつけても、いとど忍びがたく思しめされて、御涙のこぼれさせたまひぬるを、おほかた故宮(こみや)の御ことを干(ひ)る世なく思しめしたるころなればなめり、と見奉り給ふ。

【現代語訳】
 帝は、夢のようなとんでもない事をお聞きになって、さまざまに心乱れておられる。ご自分を実子と信じて愛情を注がれた故桐壺院に対しても気がお咎めになるし、実父である源氏の大臣が臣下としてお仕えなさっているのももったいないことと、様々に思い悩まれて、日が高くなるまで御寝所をお出にならないので、それをお聞きになった源氏の大臣も驚いて参内なさるが、それをご覧になるにつけてもいよいよ堪えられなくなられ、御涙がはらはらとこぼれるのを、源氏の大臣は「きっと故宮(藤壺)の御ことを涙の乾く間もなく追慕していらっしゃるのだろう」とのみ察しておられる。

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■帝譲位の意

 秋の司宮(つかさめし)に、太政大臣になり給ふべきこと、うちうちに定め申し給ふついでになむ、帝、思し寄する筋のこと漏らし聞こえ給ひけるを、大臣(おとど)、いとまばゆく恐ろしう思して、さらにあるまじきよしを申し返し給ふ。「故院の御心ざし、あまたの皇子(みこ)たちの御中に取り分きて思し召しながら、位を譲らせ給はむことを思しめし寄らずなりにけり。何か、その御心改めて、及ばぬ際(きは)には上(のぼ)り侍らむ。ただ、もとの御掟(おき)てのままに、朝廷(おほやけ)に仕うまつりて、今すこしの齢(よはひ)重なり侍りなば、のどかなる行ひに籠(こも)り侍りなむと思ひ給ふる」と、常の御言(こと)の葉に変らず奏し給へば、いと口惜しうなむ思しける。

 太政大臣になり給ふべき定めあれど、しばしと思す所ありて、ただ御位添ひて、牛車(うしぐるま)(ゆる)されて参りまかでし給ふを、帝、飽かずかたじけなきものに思ひ聞こえ給ひて、なほ親王(みこ)になり給ふべきよしを思し宣はすれど、「世の中の御後見(うしろみ)し給ふべき人なし。権中納言、大納言になりて、右大将かけ給へるを、「いま一際(ひときは)(あが)りなむに、何ごとも譲りてむ。さて後に、ともかくも静かなるさまに」とぞ思しける。

 なほ思しめぐらすに、故宮の御ためにもいとほしう、また、上のかく思し召し悩めるを見奉り給ふもかたじけなきに、誰かかる事を漏らし奏しけむ、とあやしう思さる。

【現代語訳】
 秋の司召(定期の人事異動)に、源氏の君を太政大臣に任ずるよう内々にお決めなさったついでに、帝がご譲位したい旨をお口に出されると、源氏の大臣は目もくらむほど恐ろしくお思いになって、全くもってあり得ないことと反対なさった。「故院(桐壺院)のお志は、多くの皇子たちの御中でとりわけ私をご寵愛下さりながら、ご譲位あそばすなどとはお考えにもならなかったのです。どうしてそのご遺志にそむいて及びもつかない御位に上りましょうか。故院のご意向のままに朝廷にお仕え申し上げ、もう少し年をとりましたら、心静かに仏道修行いたしたいと存じます」と、いつものお言葉に変わりなく奏上なさるので、帝は残念にお思いになった。

 源氏の君を太政大臣に任ずるとの正式なご沙汰があったが、今しばらくはとお考えになるところがあって、ただ位階が昇進し牛車を許されて宮中にお出入りなさるだけなのを物足りなく勿体ないともお思いになり、やはり親王におなりになるようにと仰せになるが、源氏の君は「政治のご後見をなさるべき人が他にいない。権中納言が大納言になって右大将を兼任しておられるが、もう一段昇進なさったら万事お譲りしよう。その後に政治から離れて暮らそう」とお思いになるのだった。

 それはさておき、帝が秘密をご存じなら、故藤壺の宮の御ためにもお気の毒で、また帝がこのように思い悩んでいらっしゃるのを拝見するのも畏れ多いので、いったい誰がこんなことをお耳にお入れしたのか、と不審にお思いになる。

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■春秋優劣論

 「はかばかしき方の望みはさるものにて、年の内ゆきかはる時々の花紅葉(はなもみぢ)、空の気色(けしき)につけても、心の行く事もし侍りにしがな。春の花の林、秋の野の盛りを、とりどりに人あらそひ侍りける、そのころのげにと心寄るばかりあらはなる定めこそ侍らざなれ。唐土(もろこし)には、春の花の錦(にしき)に如(し)くものなしと言ひ侍るめり。やまと言の葉には、秋のあはれをとり立てて思へる、いづれも時々につけて見給ふに、目移りてえこそ花鳥(はなとり)の色をも音(ね)をもわきまへ侍らね。狭(せば)き垣根の内なりとも、その折の心見知るばかり、春の花の木を植ゑわたし、秋の草をも掘り移して、いたづらなる野辺の虫をもすませて、人に御覧ぜさせむと思ひ給ふるを、いづ方にか御心寄せ侍るべからむ」と聞こえ給ふに、いと聞こえにくき事と思せど、むげに絶えて御答(いら)へ聞こえ給はざらむもうたてあれば、「ましていかが思ひ分き侍らむ。げにいつとなき中に、あやしと聞きし夕(ゆふべ)こそ、はかなう消え給ひにし露のよすがにも思ひ給へられぬべけれ」と、しどけなげに宣ひ消(け)つるもいとらうたげなるに、え忍び給はで、

君もさはあはれをかはせ人知れずわが身にしむる秋の夕風

忍び難き折々も侍りかし」と聞こえ給ふに、いづこの御答(いら)へかはあらむ、心得ずと思したる御気色なり。このついでに、え籠(こ)め給はで恨み聞こえ給ふ事どもあるベし。今すこし、ひがこともし給ひつべけれども、いとうたてと思いたるもことわりに、わが御心も若々しうけしからずと思し返して、うち嘆き給へるさまの、もの深うなまめかしきも、心づきなうぞ思しなりぬる。

【現代語訳】
 源氏の君が、「そうした一門の望み(皇子誕生と繁栄)はともかくとして、一年の内に移り変わる四季折々の花や紅葉、空のけしきについても、思う存分楽しみたいものです。春の花の林、秋の野の盛りのどちらが勝っているかについて昔から人々が様々に論争しておりますが、なるほどこれこそと納得できる結論はないようです。唐土では、春の花の錦に及ぶものはないと言っているそうですし、こちらの和歌では秋の風情を格別にとりあげていますが、いずれもその時々の様子を見ますと、目移りがして、花の色も鳥の声もとても優劣をつけることはできません。せめて狭い邸の内へでも、その折々の風情が味わえるように春の花の木をも植え並べ、秋の草をも掘って移して、聞く人もない野辺の虫を放したりして、皆さんにも御覧いただこうと思うのですが、春と秋のどちらに御心を寄せていらっしゃいますでしょうか」と仰せになると、女御(六条御息所の姫)はたいそうお返事しづらいこととお思いになるが、まるきり何もお答えしないのも具合が悪いので、「まして私などにどうして分かりましょう。仰せのように、特にどちらがよいということはございませんが、『あやし』と古歌に申します秋の夕べこそ、はかなく露のようにお亡くなりになった母上(六条御息所)のよすがとも思われるようでございます」と、あどけなくおっしゃって途中から口をつぐんでおしまいになるのもたいそう可愛らしく、源氏の君は我慢できず、

 
ならばあなたも私としみじみとした思いを私と交わしてください。人知れず私の身には秋の夕風がしみることです。

恋しさを忍び難い折々もございます」とのお言葉には、女御は「どんなお返事ができよう、何のことか分からない」というご様子である。源氏の君はこの機会に包み隠しておくことがおできにならず、何かと恨み言をお聞かせになるようである。もう少し深入りしてけしからぬ事もなさりそうなところであったが、女御がひどく当惑していらっしゃるのも道理だし、ご自身としてもこんな若者のような振る舞いはけしからぬことと思い直されてため息をついていらっしゃるが、そのしっとりとしたなまめかしいご様子を、女御はただ疎ましくお感じになる。

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朝顔(あさがお)

■朝顔の姫君との贈答

 心やましくて立ち出で給ひぬるは、まして寝覚めがちに思し続けらる。とく御格子まゐらせ給ひて、朝霧をながめ給ふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれに這ひまつはれて、あるかなきかに咲きて、にほひもことに変れるを、折らせ給ひて奉れ給ふ。「けざやかなりし御もてなしに、人わろき心地し侍りて、後手(うしろで)も、いとどいかが御覧じけむとねたく。されど、

 見しをりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらむ

年ごろの積もりも哀れとばかりは、さりとも思し知るらむやとなむ、かつは」など聞こえ給へり。おとなびたる御文の心ばへに、「おぼつかなからむも、見知らぬやうにや」と思し、人々も御硯(すずり)とりまかなひて聞こゆれば、

 「秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔

似つかはしき御よそへにつけても、露けく」とのみあるは、何のをかしき節もなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。

【現代語訳】
 お心残りがあるままに立ち帰りなさった源氏の君は、まして夜も寝られずに、このことばかり思い続けていらっしゃる。朝早く御格子を上げさせなさって、ぼんやりと朝霧をながめていらっしゃる。枯れた多くの花の中に、朝顔があれこれの物に這いまつわって、あるかなきかの風情に咲いて色合いも格別に珍しいのを折らせなさって、姫君(朝顔)のもとにに差し上げなさる。「あまりにきっぱりとした御もてなしに、体裁の悪い気持ちで退出しましたが、後ろ姿をどう御覧になられただろうと悔やまれまして。ですが、

 
お目にかかった時のことがちっとも忘れられません。あの朝顔の、花の盛りは過ぎてしまったのでしょうか。

長い年月あなたをお慕い続けておりますことを、かわいそうにぐらいは思ってくださるだろうと、一方で期待してしています」などおっしゃるのであった。大人らしいお手紙の趣旨なので、お答えしないのも心ないとお思いになって、おそばの者もお硯をととのえてお勧め申し上げるので、

(朝顔)
秋が暮れ、霧のかかった垣根に取り残され、あるかなきかの姿で色あせてしまった朝顔、それが私です。

この身にふさわしい朝顔の御たとえをいただき、袖に涙がこぼれます」とだけのお返事で、何の面白い趣向もないが、どういうわけか、源氏の君はいつまでもお手から離さず御覧になっておられる。

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■紫の上と婦人評を交わす

(一)
 「一年(ひととせ)、中宮の御前(おまへ)に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、なほめづらしくもはかなき事をしなし給へりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。いと気(け)遠くもてなし給ひて、くはしき御有様を見ならし奉りしことはなかりしかど、御まじらひの程に、うしろやすきものには思したりきかし。うち頼みきこえて、とある事かかる折につけて、何事も聞こえ通ひしに、もて出でて、らうらうじきことも見え給はざりしかど、言ふかひあり、思ふさまに、はかなき事わざをもしなし給ひしはや。世にまたさばかりの類(たぐひ)ありなむや。やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたる所の、並びなくものし給ひしを、君こそは、さいへど紫のゆゑこよなからずものし給ふめれど、すこしわづらはしき気(け)添ひて、かどかどしさのすすみ給へるや苦しからむ。前斎院(ぜんさいゐん)の御心ばへは、またさま異(こと)にぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞こえ合はせ、我も心づかひせらるべき御あたり、ただこの一所(ひとところ)や、世に残り給へらむ」と宣ふ。

「尚侍(ないしのかみ)こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は人にまさり給へれ。浅はかなる筋など、もて離れ給へりける人の御心を、あやしくもありける事どもかな」と宣へば、「然(さ)かし。なまめかしう容貌(かたち)よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけすきたる人の、年つもり行くままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはこよなき静けさと思ひしだに」など、宣ひ出でて、尚侍(かむ)の君の御ことにも涙すこしは落し給ひつ。

【現代語訳】
 源氏の君は、「先年、中宮(藤壺)の御前で雪の山をお作りになったのは、世間にありふれた遊びですが、ちょっとしたことでもやはり珍しく趣深いことをなさったものですよ。何の折々につけても、お亡くなりになったのが残念で寂しいことですね。全くおそばにはお近づけ下さらず、詳しいご様子を拝したことはありませんでしたが、宮中でお過ごしの頃は私を頼りになる者とお思いになって下さいました。私もまたお頼り申しあげ、何かとご相談申しあげましたが、表に出して才気をお示しにはならなかったものの、その実ちょっとした事などもなかなか行き届いてなさいました。世間に他にあれほどの方があるでしょうか。物腰やわらかく、おっとりしていらっしゃる反面、深いご思慮がおありなのは比類なくいらっしゃいました。あなたこそは、何といっても宮(藤壺)のゆかりの方(姪)で、宮とひどく違ってはいらっしゃらないようですが、少し厄介なところがあって、利かぬ気が勝っているのが困りものです。前斎院(朝顔)のご気性はまた違ったご様子です。寂しい折などに、用事はなくてもお話相手にさせていただき、こちらも自然と気遣いしてしまうような御方は、今はこのお方一人だけになりました」とおっしゃる。

 紫の上が、「尚侍(朧月夜)こそは、ご利発で奥ゆかしい点ではどなたにも勝っていらっしゃいます。浮ついたところなど全然おありにならなかった方ですのに、不思議に妙な噂が立った事がございました」とおっしゃると、源氏の君は「そうなのです。優美で顔立ちのよい女性の例としては、やはり引き合いに出されてよい御方です。そう思うとお気の毒で残念なことが多かったようです。まして浮気性の男であれば、年を取るにつれてどれほど後悔することが多いでしょうか。他の人よりはずっと物静かだと思っている私でさえそうなのですから」などとお口に出され、尚侍の君の御事になると涙を少し落とされる。

(二)
 「この数にもあらず貶(おとし)め給ふ山里の人こそは、身の程にはややうち過ぎ、物の心など得(え)つべけれど、人よりことなるべきものなれば、思ひあがれるさまをも見消(みけ)ちて侍るかな。いふかひなき際(きは)の人はまだ見ず。人は、すぐれたるは難(かた)き世なりや。東の院にながむる人の心ばへこそ、古(ふ)り難くらうたけれ。さはたさらにえあらぬものを。さる方につけての心ばせ人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひ侍る」など、昔今(むかしいま)の御物語に夜更けゆく。

 月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。女君、

 こほりとぢ石間(いしま)の水はゆきなやみ空すむ月のかげぞながるる

(と)を見出だして、すこし傾き給へる程、似る物なくうつくしげなり。かんざし、面様(おもやう)の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとりかさねつべし。鴛鴦(をし)のうち鳴きたるに、

 かきつめてむかし恋しき雪もよにあはれを添ふる鴛蒼(をし)のうきねか

【現代語訳】
 「あの、物の数にも入らないと蔑んでいらっしゃる山里の人(明石の上)こそは、身分の割には過ぎるほど物の道理もわきまえているようですが、やはり他の方々と同列には置けませんので、あのように気位の高いのを疵だと思っています。あまり卑しい身分の人にはまだ逢ったことがありませんが、すぐれた女というのは滅多にいないものですね。東の院で寂しく暮らしている人(花散里)の気立てこそ、今も昔も変わりなくいじらしいものです。ああはなかなかできないものですが、そういう気立てのよいのを見染めてから今になるまで、ずっと同じ態度で遠慮しつつ過ごしています。今となってはもうお互いに離れられないほど深く愛しいと思っています」などと、昔今の物語に夜が更けてゆく。

月がいよいよ澄んで、静かで美しい。女君(紫の上)、

 
氷に閉ざされた石間の水は流れかねていますが、空には澄んだ月が西に流れてゆきます(私は閉じ込められて苦しんでいるので、嘘をついていろいろな女性と交際なさっているあなたのお顔を見ると泣けてきます。)

 外の方を御覧になって少し頭を傾けていらっしゃるお姿は、他に似るものなく可愛らしい。髪の具合や顔立ちが、ふと恋しい方(藤壺)の幻かと思われるほどお美しいので、いささか他の女性たちに向いていらしたご愛情も取り戻されたに違いない。折から鴛鴦(おしどり)が鳴いているので、

(源氏)
あれやこれやが一緒になって、昔のことがしきりに思われる雪の夜に、いっそう哀れを添える鴛鴦の悲しげな声よ。

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乙女(おとめ)

■源氏の教育観

 「ただ今かうあながちにしも、まだきにおひつかすまじう侍れど、思ふやう侍りて、大学の道にしばし習はさむの本意(ほい)侍るにより、いま二三年(ふたとせみとせ)をいたづらの年に思ひなして、おのづから朝廷(おほやけ)にも仕うまつりぬべき程にならば、いま人となり侍りなむ。みづからは九重(ここのへ)の内に生ひ出で侍りて、世の中の有様も知り侍らず。夜昼(よるひる)御前に侍ひて、わづかになむはかなき書(ふみ)なども習ひ侍りし。ただかしこき御手より伝へ侍りしだに、何事も広き心を知らぬ程は、文(ふみ)の才(ざえ)をまねぶにも、琴笛の調べにも、音(ね)たらず、及ばぬところの多くなむ侍りける。

 はかなき親に、かしこき子のまさるためしは、いと難(かた)き事になむ侍れば、まして次々伝はりつつ、隔たりゆかむ程の、行く先いとうしろめたなきによりなむ、思ひ給へおきて侍る。高き家の子として、官爵(つかさかうぶり)心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむ事は、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯(たはぶ)れ遊びを好みて、心のままなる官爵(くわんざく)にのぼりぬれば、時に従ふ世人(よひと)の、下には鼻まじろきをしつつ、追従(ついしよう)し、気色(けしき)とりつつ従ふ程は、おのづから人とおぼえて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世おとろふる末には、人に軽め侮(あなづ)らるるに、かかり所なき事になむ侍る。なほ、才(ざえ)をもととしてこそ、大和魂(やまとだましひ)の世に用ゐらるる方も強う侍らめ。さし当りては、心もとなきやうに侍れども、つひの世のおもしとなるべき心おきてをならひなば、侍らずなりなむ後(のち)もうしろやすかるべきによりなむ。ただ今は、はかばかしからずながらも、かくてはぐくみ侍らば、せまりたる大学の衆とて、笑ひ侮(あなづ)る人もよも侍らじと思う給ふる」

【現代語訳】
 「今のうちから無理に大人の扱いをするべきではございませんが、考えもございまして、しばらく大学で学問をさせようと存じますので、もう二三年は回り道をさせまして、朝廷にもお仕えするような年になれば、じきに立身もいたしましょう。私自身は宮中の奥深くで育ちましたので世の中の有様も存じませず、夜昼、帝の御前にお仕えし、易しい書物などを少々習っただけでございます。畏れ多くも帝の御手から教えられました場合でさえ、心のいたらぬ年頃でございましたから、学問にせよ琴や笛にせよ、力が足らず未熟で終わってしまったところが多いのでございます。

 賢い子であっても、愚かな親を追い越す例は滅多にないものでございますし、まして代々伝わっていく子孫の将来がひどく気がかりですので、こう思い定めたのでございます。高貴な家柄の子息として、官位も思いのままになり栄華をほしいままにして驕る癖がついてしまうと、学問の苦労など必要ないと思うようになりましょう。遊戯に耽り、思うままに官位も昇進するとなれば、時勢に従う者どもが、内心ではせせら笑いつつ、うわべは追従し機嫌をとりつつ従いますから、その当座はひとかどの人物のよう思えて偉そうに見えますが、時勢が移り、後ろ盾になっていた人に先立たれて落ちぶれた末には、世間の人に軽蔑され、身の置き所もなくなってしまいます。やはり学問を基礎にしてこそ、才覚が世に用いられるようになるのは確かでございましょう。当分の間はもどかしいようですが、ゆくゆくは国家の重鎮となるべき修養を積みますれば、私が亡くなった後も安心ですから、大学に入れることを決めたのでございます。当面はぱっとしなくても、私がこうして保護者になっておりますれば、貧乏な大学生(だいがくしょう)だと馬鹿にする人もあるまいと存じます」

(注)大和魂・・・学問以外の才、応用の才、世才のこと。

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■夕霧、勉学に励む

 うちつづき、入学といふ事せさせ給ひて、やがてこの院の内に御曹司つくりて、まめやかに、才(ざえ)深き師に預け聞こえ給ひてぞ、学問せさせ奉り給ひける。大宮の御許(おもと)にも、をさをさ参(ま)うで給はず。夜昼(よるひる)うつくしみて、なほ児(ちご)のやうにのみもてなし聞こえ給へれば、かしこにては、え物習ひ給はじとて、静かなる所に籠(こ)め奉り給へるなりけり。一月(ひとつき)に三度(みたび)ばかりを、参り給へとぞ、許し聞こえ給ひける。

 つと籠もり居給ひて、いぶせきままに、殿を、「つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐらるる人はなくやはある」と思ひ聞こえ給へど、大方の人柄まめやかに、あだめきたる所なくおはすれば、いとよく念じて、「いかでさるべき書(ふみ)どもとく読みはてて、まじらひもし、世にも出でたらむ」と思ひて、ただ四五月(よつきいつつき)のうちに、史記などいふ書(ふみ)は、読みはて給ひてけり。

 今は寮試(れうし)受けさせむとて、まづわが御前(おまへ)にて試みさせ給ふ。例の大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかりして、御師の大内記(だいないき)を召して、史記の難(かた)き巻々、寮試受けむに、博士のかヘさるべきふしぶしを引き出でて、ひとわたり読ませたてまつり給ふに、至らぬ句もなくかたがたに通はし読み給へるさま、爪(つま)じるし残らず、あさましきまであり難ければ、さるべきにこそおはしけれど、誰(たれ)も誰も涙落し給ふ。大将は、まして、「故大臣おはせましかば」と聞こえ出でて、泣き給ふ。

【現代語訳】
 源氏の大臣は、引き続いて入学の儀式をおさせになり、そのままこの東院の中に若君(夕霧)のお部屋をつくり、学識の深い師にお預けになって真面目に学問をおさせになる。今はもう祖母である大宮の所にも滅多においでにならない。あちらでは大宮が夜も昼もつきっきりで若君を可愛がってきて、元服してもなお子供扱いしていらっしゃるので、とても勉強にはならないと、静かな所に閉じ込めておしまいになったのだ。それでも一月に三度くらいは祖母君のもとにお伺いなさいと、お許しになられた。

 若君はじっとお部屋に籠もっていらして、気が晴れないので、「ひどい仕打ちをなさるものだ。こんなに苦しまなくても、高い位にのぼり、世に用いられる人もいるではないか」とお恨みになるが、元来が真面目で浮ついたところがないお人柄なので、よく我慢なさって、「何とかして必要な書物を読み終えて、官途につき出世もしよう」と思い立ち、わずか四、五か月のうちに史記などの書物は読み終えてしまわれた。

 今は寮試を受けさせようというので、まず父大臣がご自分の前で模擬試験を受けさせなさる。一座には右大将、左大弁、式部大輔、左中弁などばかりで、御師の大内記をお呼び出しになり、史記の難しい巻々、寮試の時に博士から質問がありそうないくつかの箇所を引き出し、一通り読ませてごらんになると、あやふやな句もなく諸説を心得ていらっしゃり、爪じるしをつけるべき難点も残らず解明なさり、驚くほど類まれな成績をあげられ、やはり天分がおありだったと誰も誰も涙をお流しになる。まして右大将は、「故太政大臣(夕霧の母方の祖父。葵の上の父)がご存命であったら」とお言葉に出してお泣きになる。

(注)寮試・・・大学寮の試験。史記や漢書のうちから3問を課し、2問に通れば及第とされる。

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■夕霧と雲居雁

 冠者(くわざ)の君、物の後(うしろ)に入り居て見給ふに、人の咎(とが)めむも、よろしき時こそ苦しかりけれ、いと心細くて、涙おし拭(のご)ひつつおはする気色(けしき)を、御乳母(めのと)いと心苦しう見て、宮にとかく聞こえたばかりて、夕まぐれの人のまよひに、対面せさせ給へり。かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、物も言はで泣き給ふ。「大臣(おとど)の御心のいとつらければ、さばれ思ひ止みなむと思へど、恋しうおはせむこそ理(わり)なかるべけれ。などて、すこし隙(ひま)ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」と宣ふさまも、いと若うあはれげなれば、「まろも然(さ)こそはあらめ」と宣ふ。「恋しとは思しなむや」と宣へば、すこしうなづき給ふさまも、幼げなり。

 御殿油(おほむとなぶら)まゐり、殿まかで給ふけはひ、こちたく追ひののしる御前駆(さき)の声に、人々、「そそや」など怖(お)ぢ騒げば、いと恐ろしと思してわななき給ふ。さも騒がればと、ひたぶる心に、許し聞こえ給はず。御乳母(めのと)参りてもとめ奉るに、気色を見て、「あな心づきなや。げに宮知らせ給はぬことにはあらざりけり」と思ふに、いとつらく、「いでや、憂かりける世かな。殿の思し宣ふことはさらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせ給はむ。めでたくとも、物の初めの六位宿世(すくせ)よ」とつぶやくも、ほの聞こゆ。ただこの屏風(びやうぶ)の後(うしろ)に尋ね来て、嘆くなりけり。

 男君、我をば位なしとて、はしたなむるなりけり、と思すに、世の中恨めしければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。「かれ聞き給へ、

 くれなゐの涙にふかき袖の色をあさみどりにや言ひしをるべき

恥づかし」と宣へば、

(雲居)「いろいろに身のうきほどの知らるるはいかに染めける中の衣ぞ

と宣ひはてぬに、殿入り給へば、わりなくて渡り給ひぬ。

【現代語訳】
 冠者の君(夕霧)は物陰に隠れて姫君を御覧になっているが、いつもなら人が見咎めるのは辛いだけだったが、今はただ心細くて涙を拭いていらっしゃる様子を御乳母(宰相)が見てお気の毒に思い、大宮にあれこれ相談して、夕方で人が行き来する紛れを見計らって姫にお逢わせした。お互いに何となく恥ずかしくて胸がつぶれる思いで、何も言わずにお泣きになる。夕霧は「内大臣のお考えがあんまりなので、いっそ諦めてしまおうかと思いましたが、やはりあなたが恋しくてたまらない。今より自由な時になぜもっと逢わずに離れていたのでしょうか」とおっしゃる様子も、若々しく胸を打つものがあるので、雲居雁(くもいのかり)も「私も同じでございます」とおっしゃる。夕霧が「恋しいと思ってくださるか」とおっしゃると、姫君が少しうなずかれる様もあどけない。

 灯火のともる頃、内大臣が宮中からお帰りになる様子で、ものものしく先払いする声が聞こえ、女房たちが「それ、お帰りですよ」とぴりぴりして立ち騒ぐので、姫君(雲居雁)も恐ろしさに震えていらっしゃる。しかし若君は、見咎められて騒がれるなら望むところだと、姫君をお放しにならない。乳母が姫君を捜しに来たが、この有様を見て、「まあけしからぬこと。いかにも大宮がご存知ないことではなかったのですね」と、いまいましく思って、「ほんとに情けないことですよ。内大臣様のお腹立ちは申すまでもないとして、大納言様もどう思われましょうか。いかに立派なお方とはいっても、ご結婚のはじめが六位ふぜいがお相手では」とつぶやくのもかすかに聞こえる。屏風のつい後ろまでやって来て、そう嘆いているのだった。

 夕霧は「自分を位が低いからといって馬鹿にしているのだな」と思うと、世間が恨めしく、姫君へのお気持ちも少し冷める心地がして憤慨した。「あれをお聞きなさい、

 
紅の涙に深く染まっている私の袖の色を、浅い緑(六位の服の色)だといってけなしてよいものでしょうか。

きまりが悪い」とおっしゃると、

(雲居雁)
いろいろなことでわが身の運のつたなさが思い知られますが、どう定められているあなたとの仲なのでしょうか。

と最後までおっしゃる前に、内大臣がお邸に入ってこられたので、姫君は仕方なくお部屋にお戻りになった。

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■夕霧、進士に及第

 かくて大学の君、その日の文(ふみ)うつくしう作り給ひて、進士(しんじ)になり給ひぬ。年積もれるかしこき者どもを選(え)らせ給ひしかど、及第の人わづかに三人なむありける。秋の司召(つかさめし)に、かうぶり得て、侍従(じじゆう)になり給ひぬ。かの人の御こと、忘るる世なけれど、大臣の切(せち)にまもり聞こえ給ふもつらければ、わりなくてなども対面し給はず。御消息(せうそこ)ばかり、さりぬべき便りに聞こえ給ひて、かたみに心苦しき御仲なり。

【現代語訳】
 かくして大学に学ぶ君(夕霧)は、その試験の日の漢詩文を見事にお作りになって、進士(文章生)になられた。長年にわたって修行した優れた者だけが選ばれたが、及第したのはわずかに三人であった。秋の司召(人事異動)には従五位に叙せられて、侍従におなりになった。あの姫君(雲居雁)のことは忘れる時とてないが、内大臣がひたすら監視なさっているので、無理してまで会おうとはなさらない。お手紙だけを適当な折にお届け申しあげるだけで、お互いにお気の毒な御仲である。

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■六条院成る

 八月にぞ、六条院造りはてて渡り給ふ。未申(ひつじさる)の町は、中宮の御旧宮(ふるみや)なれば、やがておはしますべし。辰巳(たつみ)は、殿のおはすべき町なり。丑寅(うしとら)は、東(ひむがし)の院に住み給ふ対(たい)の御方、戌亥(いぬゐ)の町は、明石の御方と思しおきてさせ給へり。もとありける池山をも、便(びん)なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山のおきてをあらためて、さまざまに、御方々の御願ひの心ばへを造らせ給へり。

 南の東は山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさま面白くすぐれて、御前近き前栽(せんざい)、五葉(ごえふ)、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅(いはつつじ)などやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑで、秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり。中宮の御町をば、もとの山に、紅葉(もみぢ)の色濃かるべき植ゑ木どもを植ゑて、泉の水遠くすまし、遣水(やりみづ)の音まさるべき厳(いはほ)たて加へ、滝落して、秋の野を遙(はる)かに作りたる、その頃にあひて、盛りに咲き乱れたり。嵯峨(さが)の大堰(おほゐ)のわたりの野山、むとくに気(け)おされたる秋なり。

 北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭(かげ)によれり。前近き前栽、呉竹(くれたけ)、下風(したかぜ)涼しかるべく、木(こ)高き森のやうなる木ども木(こ)深く面白く、山里めきて、卵の花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘(はなたちばな)、撫子(なでしこ)、薔薇(さうび)、木丹(くだに)などやうの、花のくさぐさを植ゑて、春秋の木草、その中にうちまぜたり。東面(ひむがしおもて)は、分けて馬場(うまば)の殿(おとど)つくり、埒(らち)結ひて、五月(さつき)の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲(さうぶ)植ゑ茂らせて、むかひに御廐(みまや)して、世になき上馬(じやうめ)どもを整ヘ立てさせ給へり。

 西の町は、北面(きたておもて)(つ)き分けて、御倉町(みくらまち)なり。隔ての垣に松の木しげく、雪をもてあそばむたよりによせたり。冬のはじめの朝霜むすぶべき菊の籬(まがき)、我は顔なる柞原(ははそはら)、をさをさ名も知らぬ深山木(みやまぎ)どもの、木(こ)深きなどを移し植ゑたり。

【現代語訳】
 八月に、六条院の造営が終わったので、人々はそちらにお移りになる。西南の町は前々から秋好中宮(梅壺中宮)の御邸なので、そのままそちらにお住まいになる。東南は源氏の殿がお住まいになる町である。東北は東の院にお住まいの対の御方(花散里)、西北の町は明石の御方とお決めになっていらっしゃる。元からあった池や山も、不都合な所は崩して造りかえ、池の趣や山のたたずまいなどを新しくして、お住まいになる御方々のご希望に叶うように様々にお造りになった。

 東南のお邸は築山を高くして、春の花の木を無数に植え、池の様もすばらしく風情があって、お庭先の植え込みには五葉の松、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などといった春の木草をもっぱら植え、所々に秋の草花の植え込みを一むらずつ、さりげなくあしらってある。秋好中宮のお住まいは、元の築山に色濃く紅葉する木々を植え、清らかな泉の水を遠くまで流し、遣水の音が響くような岩を立て、滝を造って水を落とし、見渡すかぎり秋の野の趣にしている、今がまさに秋なので、盛んに秋草が咲き乱れている。嵯峨の大堰のあたりの野山も、見るかげもなく圧倒されるような秋の風情である。

 北東のお邸には涼しげな泉があって、夏の木陰を考えて繁らせている。庭先の植え込みは呉竹の下を吹き通る風が涼しそうで、高い木が森のように繁っていて風情があり、山里めいて卯の花の垣根をわざわざ周囲にめぐらして、昔の人が偲ばれる花橘、撫子、薔薇(ばら)、りんどうといった様々な花を植えて、春秋の木草をその中にまぜている。その東側は、敷地の一部を割いて馬場殿をつくり柵を設けて五月の端午の御遊び所にして、池の岸に菖蒲を植え繁らせて、その対岸に御廐を建てて世に珍しい名馬どもを何頭も繋がせていらっしゃる。

 西北の明石の御方のお住まいは、北面を築地で仕切ってお倉がずらりと並んでいる。境となる垣根には松の木を繁らせ、それに積もる雪を鑑賞するのに都合よくしてある。冬のはじめに朝霜を結ばせようと菊の垣根があり、得意顔に色づく柞原(ははそはら)、その他あまり名も知らない奥山の木々の鬱蒼としているのを移し植えてある。

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(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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「松風」のあらすじ

(源氏 31歳)
(明石の上 22歳)
(明石の姫君 3歳)


秋、二条院の東院が造営され、源氏は西の対(たい)に花散里(はなちるさと)を、東の対に明石の上を迎え入れたいと思った。側近の者たちを明石に迎えに遣わしたが、明石の上は身分違いに引け目を感じ、東の対には入らず、母尼君と姫君をつれて、京の大堰(おおい)にある父入道の別邸に移った。入道は明石に残り、「自分が死んだと聞いても心を動かすな」と、覚悟を決めて娘を送り出した。

明石の上の上京を待ちわびていた源氏だったが、紫の上を憚って容易に大堰を訪問することができない。秋の末になってようやく再会でき、二人はあれこれと語り合いながら夜を過ごす。二人の間に生まれた姫君はたいそう可愛くなっており、源氏はこれまでの長い別居を悔やむとともに、せめてこの子だけでも引き取りたいと考える。

二条院に戻ると、紫の上は、予定より長く大堰にいた源氏を恨むが、源氏は紫の上に事情を打ち明け、明石の姫君を二条院に引き取りたいと相談した。明石の上に対する嫉妬心に苦しむ紫の上だったが、子供好きの紫の上は素直にそれに同意した。源氏はしかし、明石の君の気持ちを思いやって悩む。


※巻名の「松風」は、明石の尼君の歌「身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く」や本文の記述が由来となっている。

「薄雲」のあらすじ

(源氏31~32歳)
(冷泉帝13~14歳)
(藤壺36~37歳)
(明石の上22~23歳)
(明石の姫君3~4歳)


冬の寒い朝、幼い明石の姫君は、大堰(おおい)の明石の上の元から二条院に引き取られることになった。迎えの車に乗るため、母君がみずから抱いて出た。「母上も早く乗りなさい」と片言で言う声に、明石の上は堪えきれずにすすり泣いた。悲しい母子の別れであった。二条院にやって来た姫君は紫の上によくなつき、明石の上は、姫君が可愛がられていると聞いて、安心した。袴着(はかまぎ)の式は盛大に行われた。紫の上は、姫君の可愛らしさに、以前ほど嫉妬することもなくなった。

年が明けて、舅の太政大臣(葵の上の父)が死去し、まもなく藤壺も重い病で世を去った。37歳であった。帝に対する後見へのお礼が、源氏へ向けた藤壺からの最後の言葉だった。源氏の悲嘆はこの上もなく、念誦堂(ねんずどう)に籠って一日中泣き暮らした。女院の四十九日の法要が終わったころのある夜、冷泉帝は、夜居(よい)の僧から、実父は源氏であるという秘密を明かされた。帝はあまりのことに動揺し、父が臣下でいることが心苦しく、源氏に譲位しようとしたが、源氏は固辞した。源氏は秘事が漏れたことに気づいた。

秋になり、梅壺の女御(六条御息所の娘)が二条院に里下りしてきた。源氏は亡き御息所のことなどを話しかけながら、恋心を告白する。女御は源氏のすき心をいやなことに思って気が塞ぐ。にべもなくふられた源氏は、自分がすでに色恋沙汰を起こすような年齢ではないことを痛感する。しいて真面目顔になり、より父親ぶって世話をする。女御は、春秋の優劣論で秋を好むと答えたことから、のち秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)と呼ばれるようになった。


※巻名の「薄雲」は、源氏が藤壺の死を悲しんで詠んだ歌「入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖の色やまがへる」が由来となっている。

「朝顔」のあらすじ

(源氏 32歳)
(紫の上 24歳)


そのころ、桐壺院の弟の桃園式部卿(ももぞのしきぶきょう)の宮も世を去った。その娘である朝顔の斎院は父の喪に服するため役を退き、旧邸の桃園宮に帰った。以前から朝顔に関心のあった源氏は、朝顔と共に暮らす叔母・女五(おんなご)の宮の見舞いにかこつけて桃園宮を訪れたが、朝顔は会おうとしなかった。それでも源氏が熱心に桃園宮を訪れていたため、それが世間の噂となり、「朝顔の姫君こそ源氏の正妻にふさわしい」との評判まで広がり始めた。

朝顔は決して源氏を嫌っているわけではない。源氏への思いを美しいまま胸の奥底に封じ込めようと思い決めたのであり、それを貫くことが彼女の愛のあり方なのだった。しかし、紫の上は、この一件だけには強く煩悶し、日々泣いて暮らす。朝顔の君は世評の高い前斎院であるのに対し、自分には、源氏の君の愛情のほかに頼るものがない。ある雪の夜、源氏と紫の上は童たちに雪山をつくらせながら、今まで関りのあった藤壺・朝顔・明石の上・花散里たちの人物評をした。藤壺の宮のこよなき美質を語り、その上で源氏は紫の上を大切にしていると伝えるが、紫の上の気持ちは晴れない。

その夜、源氏の夢の中に亡き藤壺が現れ、秘密をもらした源氏のはしたなさが恨めしいと語る。源氏は返事をしようとするが、紫の上に揺り起こされて、自分が夢の中で泣いていたことに気づく。そして、藤壺が永遠に手の届かないところへ行ってしまったことを実感、藤壺が成仏できるよう、心の中で念じる。


巻名の「朝顔」は、源氏と朝顔の姫宮との贈答歌などが由来となっている。源氏「見し折の露忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ」。朝顔の姫宮「秋はてて霧のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔」。

「乙女」のあらすじ

(源氏 33~35歳)
(夕霧 12~14歳)
(雲居雁 14~16歳)
(秋好中宮 24~26歳)


源氏は朝顔の前斎院への思いを断ち切れず、また叔母の女五の宮もそれを望んでいるが、前斎院の決心は変わらない。一方、源氏の嫡男で亡き葵の上が生んだ夕霧は12歳で元服した。大臣の息子なので四位になれるはずだったが、源氏は夕霧を六位の身分にとどめ、官吏養成機関である大学寮に入れて厳しく教育することにした。身分の高い家の子弟が大学に学ぶ例はあまりなく、異例の教育方針だった。そのころ、源氏の養女である梅壺は中宮(秋好中宮)となり、源氏は太政大臣、右大将(頭中将)は内大臣に昇進した。

祖母の大宮(葵の上と内大臣の母)のもとで養育されていた従姉弟同士の夕霧と雲居雁(くもいのかり:内大臣の娘)は、いつしか相思の仲になった。しかし、内大臣は、雲居雁を東宮(後の今上)へ嫁がせようと望んでいたので、二人の噂を耳にして雲居雁を自邸に引き取り、二人の仲を裂いてしまう。一方、源氏も夕霧を花散里に預けた。翌春、朱雀院の行幸があり、帝の御前の試みに、夕霧は進士(しんじ)に及第し、秋の司召で五位・侍従となった。

そのころ、源氏は六条御息所の旧邸を修理して、六条院の造営にかかり、翌年8月に落成した。邸内を四季の庭を配する4つ御殿に分かち、源氏と紫の上は春、花散里は夏、秋好中宮は秋の景色を配した御殿に住み、少し遅れて、明石の上が冬の景色の御殿に移り住んだ。


※巻名の「乙女」は、 源氏が筑紫の五節の君に贈った歌と、夕霧が惟光の娘(五節)に贈った歌が由来となっている。源氏「をとめ子も神さびぬらし天つ袖ふるき世の友よはひ経ぬれば」。夕霧「日かげにもしるかりけめやをとめ子が天の羽袖にかけし心は」

貴族の一生

出産・誕生
 平安時代、出産は不浄とされたので、住居とは別に産室・産屋を設けた。また、どれほど天皇の寵愛の厚い后であっても、里邸(実家)に退出して出産した。当時は産婦の命を奪うことも多かったため、吉日を選んで加持・祈禱が行われた。
 子供が生まれると、御湯殿の儀(産湯を使わせる)、邪気を払うための読書(漢籍のめでたい一節を読む)、鳴弦(弓の弦を鳴らす)が行われる。誕生の3日、5日、7日、9日目の夜には産養(うぶやしない:親族などが食物や衣服などを贈り祝う)があり、また、50日、100日目には餅を子供の口に含ませる五十日(いか)の祝百日(ももか)の祝も行われた。

幼児から成人へ
 3歳から7歳までの間に、初めて袴を着ける袴着(はかまぎ)の儀を行う。元服前の男児には、童殿上(わらわてんじょう:名家の子弟が清涼殿の殿上の間に伺候を許され、作法を習得する)、読書始め(ふみはじめ:文章博士が漢籍の読み方を教授する)などの儀式がある。
 男子の成人式である元服は、12歳から16歳ごろに行われる。大人の衣服を着け、角髪(みずら)という子供の髪型を改め、冠を被るので初冠(ういこうぶり)ともいう。
 女子の成人式は裳着(もぎ)といい、13、4歳ころに腰結(こしゆい:裳を着せる人)に腰紐を結んでもらって、初めて裳を着た。また、それまでの垂髪(うない)を改めて、髪上げをする。この裳着・髪上げは、娘を結婚させようとする親の意志表示でもあった。

結婚
 男性が、噂に聞いたり垣間見したりした女性に感心を抱くと、まず手紙(和歌)を贈る。女性側は、はじめは侍女(女房)が代筆して返事を書く。次に本人同士の文の贈答へと進み、男性が女性の家を訪ねる。取次ぎの女房を通じて対面することになるが、女性は御簾・几帳・屏風のかげにいたり、扇で顔を隠していたりしていたため、衣ずれの音や香の匂いなどによって、男性は女性の姿を想像することも多かった。
 二人が結ばれると、男性は夜明け前に帰宅し、女性あてに後朝(きぬぎぬ)の文を贈る。三日間通って、所顕わし(ところあらわし)という女性側の親による披露の宴が行われて、正式な結婚と見なされた。

算賀
 長寿の祝いを算賀(さんが:または賀の祝い)といい、まず40歳になると老人と見なされ、四十の賀を祝った。そして、以後10年ごとに長寿を祝う賀が行われた。


 亡くなると、近親者は、黒ずくめの装束を着て、適当な部屋の板敷を取り除いて土間とし、そこに居た。死者を沐浴し入棺させると、鳥辺野(鳥辺山)や化野(あだしの)の辺りに霊屋(たまや)を作って棺を安置した。野辺送りは、棺を牛車に載せ、近親者は徒歩で従った。この時代は火葬する場合が多かった。
 死後49日間は、中有(ちゅうう)または中陰(ちゅういん)といって、死者の霊魂が迷っていると考えられたため、初七日に始まって7日ごとに供養をし、七七日(しちしちにち:49日)には満中陰(まんちゅういん)として盛大な法会を営んだ。遺族などは服喪と称して、一定期間こもり、喪服を着て死者を追悼し慎んだ。

貴族の教養

男子
 唐文化模倣の律令体制下にあっては、中国に発達した文化を学ぶことが学問の第一とされ、男子にとって、漢詩文の習得が必須とされた。次いで、習字(漢字と平仮名)・音楽・和歌が一般的教養として求められた。音楽では得意とする楽器以外に、弦楽器や横笛・笙(しょう)などのうち、幾つかの心得が必要であった。また、平安時代の中ごろから絵画の教養も身につけるようになり、専門の絵師だけでなく素人も絵をたしなむようになった。

女子
 女子が修めるべき教養は、学問ではなく、情操を養う宮廷文化的な技能としての、習字・和歌・音楽であった。習字は女手(おんなで)といわれる平仮名で、その筆蹟は人の手に渡り、歌と共に教養の程が直接表れる。和歌は人との応答に用いる言葉でもあったため、作歌の勉強には、古今集をはじめとする秀歌を覚え、それを手本に言葉遣い、歌の調べ、題材の扱い方などを会得する必要があった。音楽では、筝(そう)・琴(きん)などの弦楽器に習熟することが求められた。そのほか、和歌を書くのにふさわしい紙の色や質、墨の色の工夫、季節ごとの衣服の色目などを選ぶ洗練された感覚、すぐれた香の合わせ方の工夫、日常の起居動作についての心得も重要であった。

平安時代の遊戯・楽器

遊戯

韻塞ぎ(いんふたぎ)
詩の韻を踏んでいる文字を隠して、それを詩の内容から推測して埋める遊び。左右に分かれて、それぞれ詩集をもとに出題した。漢詩文の知識が求められた。

歌合(うたあわせ)
物合せの一つで、左右の2組に分かれ、詠んだ歌を1首ずつ出して組み合わせ、 判者が批評し、その優劣を競う遊戯。 平安後期には歌人の実力を争う場となった。

絵合(えあわせ)
物合せの一つで、左右の2組に分かれ、それぞれ持ち寄った絵を出し合い、優劣を競う遊び。その判定は、物語の内容から装丁にまで及んだ。
この絵合については、『源氏物語』以前に行われた記録がないため、『源氏物語』をきっかけに宮中で行われるようになったとも考えられた。

薫物合(たきものあわせ)
物合せの一つで、各自が独自に調合した薫物を持ち寄って、その優劣を競う遊び。

競馬(くらべうま)
2頭または数頭の馬を走らせて勝負を争う競技。神事の側面が強く、現在も京都の上賀茂神社では「賀茂競馬(かものくらべうま)」が行われている。

蹴鞠(けまり)
鹿のなめし皮で作った鞠を地面に落とさないように蹴り上げ続ける遊び。4人、6人や8人で行い、鞠を受けた人は、次の人に渡すまで3回蹴るルールがあった。

碁(ご)
中国伝来の遊びで、2人の競技者が碁盤に白黒の石を交互に置き、広く自分の石を置いた方が勝ちとなる。現在の囲碁とほぼ同じ。

小弓引(こゆみひき)
小型の弓を用いて小さな的を射る競射の一つ。

双六(すごろく)
木製の盤に白と黒の駒を15個ずつ並べ、出たサイコロの目によって駒を進め、早く相手の陣地に並べると勝ちとなる。

打毬(だきゅう)
2組に分かれて騎乗し、紅白の毬をスティックですくい取り、自分のゴール(毬門)に投げ入れる遊び。騎乗しない場合もある。

雛遊び(ひいなあそび)
紙などで小さく作った人形を使う遊び。

楽器

琴(きん)の琴(こと)
7本の弦を張った楽器。単純に「琴(きん)」とも呼ぶ。作中では光源氏や末摘花、女三の宮などが演奏するが、一条期の頃はすでに見られなくなっていた。

筝(そう)の琴
13本の弦を張った楽器。最も一般的に親しまれるようになった。構造は現在の琴とほとんど同じだが、指にはめる爪は異なり、絃も太いものを使用している。

和琴(わごん)
6本の弦を張った楽器。「東琴(あずまごと)」や「大和琴」などとも呼ばれる。作中では頭中将と柏木のほか、光源氏、玉鬘、紫の上、夕霧、薫、冷泉院などが奏する場面がある。現在ではほとんど演奏されない。

琵琶(びわ)
4本の弦を張った楽器。撥(ばち)を用いて演奏する。後世の平家琵琶や薩摩琵琶と異なるため、「楽琵琶(がくびわ)」とも呼ぶ。

六条院

光源氏は、六条御息所から秋好中宮に伝えられた土地を取り込み、およそ一年がかりで六条院を造営した。四町からなる広大な邸宅で、総面積はおよそ6万3500平方メートル(約1万9千坪)もあったとされる。4つの町には四季それぞれの風情が 配され、その季節に応じて女君たちが据えられた。

それぞれに神殿と対の屋があり、敷地は町ごとに壁で仕切られているが、互いに廊で繋がり往来は可能だった。モデルとして、源融の河原院ほか、東三条殿や土御門殿など実在した邸宅が挙げられている。

4つの町については、南東は光源氏と紫の上の住まいで、春を好んだ紫の上に合わせて春の花木が植えられた。南西は紅葉や滝が美しい秋の風情がある邸で、秋を好んだ秋好中宮が里帰りの際の御座所となった。北東は夏の景色を配して花散里の住まいとし、北西には冬の景色を配して明石の君を招き入れた。

豪華絢爛なこの邸宅は、光源氏の栄華を象徴し、この後の物語の舞台の中心となる。


(六条院の模型)

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