源氏物語~各帖のあらすじ
第1部 | 1.桐壺(きりつぼ)/ 2.帚木(ははきぎ)/ 3.空蝉(うつせみ)/ 4.夕顔(ゆうがお)/ 5.若紫(わかむらさき)/ 6.末摘花(すえつむはな)/ 7.紅葉賀(もみじのが)/ 8.花宴(はなのえん)/ 9.葵(あおい)/ 10.賢木(さかき)/ 11.花散里(はなちるさと)/ 12.須磨(すま)/ 13.明石(あかし)/ 14.澪標(みおつくし)/ 15.蓬生(よもぎう)/ 16.関屋(せきや)/ 17.絵合(えあわせ)/ 18.松風(まつかぜ)/ 19.薄雲(うすぐも)/ 20.朝顔(あさがお)/ 21.乙女(おとめ)/ 22.玉鬘(たまかずら)/ 23.初音(はつね)/ 24.胡蝶(こちょう)/ 25.蛍(ほたる)/ 26.常夏(とこなつ)/ 27.篝火(かがりび)/ 28.野分(のわき)/ 29.行幸(みゆき)/ 30.藤袴(ふじばかま)/ 31.真木柱(まきばしら)/ 32.梅枝(うめがえ)/ 33.藤裏葉(ふじのうらは) |
第2部 | 34.若菜(わかな)上 / 35.若菜下 / 36.柏木(かしわぎ)/ 37.横笛(よこぶえ)/ 38.鈴虫(すずむし)/ 39.夕霧(ゆうぎり)/ 40.御法(みのり)/ 41.幻(まぼろし)/ 雲隠・・・この巻は存在せず |
第3部 | 42.匂宮(におうのみや)/ 43.紅梅(こうばい)/ 44.竹河(たけかわ)/ 45.橋姫(はしひめ)/ 46.椎本(しいがもと)/ 47.総角(あげまき)/ 48.早蕨(さわらび)/ 49.宿木(やどりぎ)/ 50.東屋(あずまや)/ 51.浮舟(うきふね)/ 52.蜻蛉(かげろう)/ 53.手習(てならい)/ 54.夢浮橋(ゆめのうきはし) |
⇒ 本文・現代語訳へ
1.桐壺(源氏誕生から12歳まで)
いつの御代であったか、帝のご寵愛を一身に集めていた更衣(こうい)がいた。その女性は故大納言の娘、桐壺(きりつぼ)であった。宮中の桐壺に部屋を与えられていたのでそう呼ばれる。ほかの妃たちは、身分の高くない更衣が寵愛を受けるのに嫉妬し迫害したが、更衣はやがて玉のような美しい皇子(源氏)を産んだ。
帝は愛する更衣が産んだ皇子を溺愛した。そのため、弘徽殿女御(こきでんのにょうご:右大臣の娘)ほか多くの女御更衣たちの嫉妬と迫害はますます激しくなり、皇子が3歳になった年の夏、更衣は、心労のために病を得て里に下がり、再び宮中に戻ることなく死去した。帝は深く悲しみ、野分(のわき)のころ、更衣の里に命婦を遣わし、更衣の母をお見舞いになった。
翌年、先に生まれていた第一皇子(後の朱雀帝)が東宮(皇太子)に立たれ、母の弘徽殿女御は安堵した。一方、更衣の皇子(源氏)は7歳で教育を受け始め、比類のない美しさと才能を具えて成長していった。帝は、皇子の尋常でない資質ゆえにかえってその将来を案じ、高麗の相人の占いに従って、臣籍にくだして源姓を与えた。
間もなく先帝の四宮、藤壺(ふじつぼ))が入内した。この人は亡き更衣に生き写しであった。世の人は、源氏を「光る君」、藤壺を「輝く日の宮」と申し上げた。源氏は、母に似ているといわれるこの人に、幼心にも憧れの気持ちを持つようになった。
やがて12歳なった源氏は元服し、その日のうちに左大臣の姫君、葵の上(あおいのうえ)と結婚した。彼女は4歳年上で、源氏は、とりすました葵の上に親しみが持てず、心のうちでは藤壺を深く思慕した。そのころ、帝は、亡き更衣の里邸を改築して二条院とし、源氏はそこに移った。
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2.帚木(源氏17歳)
源氏は17歳になり、位も中将に進んだ。五月雨の降り続くある夏の夜、宿直で宮中の自室にこもっていた源氏のもとに、親友の頭中将(とうのちゅうじょう:葵の上の兄)や左馬頭(さまのかみ)、藤式部丞(とうしきぶのじょう)が訪れ、一晩中、それぞれの女性経験談や女性論に花を咲かせた。いわゆる「雨夜の品定め」の場面である。とくに左馬頭は、上の品(上流階級)の女より、意外性のある中の品(中流階級)の女のほうがおもしろいと持論を語り、頭中将も「中の品の女のほうが一番よい」としたうえで、子までもうけながら正妻からの嫉妬を受けて姿を消した女の話をした。それらを聞いた源氏は、中の品の女に強く心を動かされた。
その翌日、源氏は方違え(かたたがえ※)にかこつけて、中川の紀伊守(きのかみ)邸に泊まった。そこに伊予介(いよのすけ:紀伊守の父)の年若い後妻、空蝉(うつせみ)が来合わせており、夜が更けてから、源氏はその後妻の寝所に忍び込み、半ば強引に関係を結んだ。
その後も空蝉を忘れられない源氏は、空蝉の弟の小君(しょうくん)を手なずけて再びの逢瀬をはかる。しかし空蝉は、源氏に心惹かれながらも、身分の釣り合わない立場であるのをわきまえ、決して靡くまいと決意し、源氏の再訪を拒む。女心の機微に疎い源氏は、初めて女の拒否にあい、当惑してしまう。
(※)方違え・・・凶とされる方角を避けるため、前夜に違う方角に行って泊まり、改めて目的地に向かうこと。陰陽道の方位による吉凶説から生じた風習。
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3.空蝉(源氏17歳)
源氏は、空蝉(うつせみ)の冷たい仕打ちを憎らしいと思うものの、あきらめることができず、いっそう恋慕の炎を燃え上がらせた。空蝉の弟の小君に案内させ、人目を忍んで紀伊守邸に入り込み、そこで源氏は、空蝉が軒端萩(のきばのおぎ:紀伊守の妹、空蝉の継娘)と碁を打っている姿を垣間見る。
空蝉は、身体の線が細くそれほどの美人というわけではないが、振る舞いに趣深い雰囲気を漂わせている。反対に軒端荻は奔放で明け透けな様子で、ややはしたない感じがするが、若くてに肉づき豊かな美人であることもあり、これはこれで興味を惹かれる女だと源氏は感じた。
その夜が更けて、空蝉と軒端萩が寝ている部屋に忍び込んだが、空蝉はとっさに小袿(こうちぎ)を脱ぎ捨て逃げてしまった。源氏は、軒端萩が空蝉ではないと気づいたが、今さら人違いとも言えず、そのまま軒端萩と一夜を明かした。翌朝、源氏は、空蝉の残した小袿を持ち帰り、空蝉に歌を贈った。空蝉は返歌を書かなかったが、自分が人妻の身でなかったならと、やるせない思いに煩悶する。一方、軒端萩は、人違いされたとは気づかないまま、何の便りもよこさない源氏を訝る。
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4.夕顔(源氏17歳)
源氏は、六条に住む愛人の六条御息所(ろくじょうみやすどころ)のもとへ通う途中、かつて乳母だった人の病気見舞いのため五条の家に立ち寄る。その折、偶然にも隣家に住む女(夕顔)と和歌を贈答した。それがきっかけとなり、従者の惟光(これみつ:乳母の子)のはからいで、自分の素性を隠したまま夕顔のもとへ通うようになる。女も素性を明かさない。お互いの正体を知らないという謎めいた恋に源氏はのめりこんでいく。
八月の十五夜、源氏は夕顔の家に泊まり、その翌朝、近くの荒廃した某院に夕顔を連れ出し、薄気味悪い邸で半日を過ごす。しかしその夜、二人の枕元に妖しい女の物の怪が現れ、夕顔はあっけなく死んでしまう。惟光が夕顔の亡骸をひそかに東山の寺に移した。二条院に戻った源氏は、悲嘆のあまり病床に臥した。物の怪の正体は、六条御息所の生霊ともいわれる。
夕顔に仕えていた右近という女房によると、夕顔の正体は実は、雨夜の品定めで頭中将が話した愛人の「常夏の女」であった。さらに夕顔は、頭中将の正妻に脅迫されて身を隠していたこと、そして頭中将との間にできた、3歳になる女の子(玉鬘:たまかずら)がいることが分かった。
間もなく空蝉は、夫の伊予介に伴われて伊予国へ下ることになった。空蝉は未練が残る心の内を和歌に託して源氏へ贈り、源氏もまた歌を返すやりとりをしたが、実際に会うことはなかった。また、源氏に人違いされた、空蝉の妹の軒端萩は、蔵人(くらうど)の少将と結婚したという。
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5.若紫(源氏18歳)
源氏は「わらは病(おこり)」にかかり 、その治癒のための加持祈祷を受けに北山の聖(ひじり)を訪ねた。治療の合間に山中をそぞろ歩きし、眼下の小さな庵室で、10歳くらいの美しい少女(若紫)を見出した。その少女には藤壺の面影があった。それも道理、その少女は、藤壺の兄(兵部卿宮:ひょうぶきょうのみや)の姫君で、母が亡くなり、今は祖母(尼君)と暮らしていた。源氏は少女を引き取って世話をしたいと申し出るが、「まだ幼すぎるので」とやんわりと断られる。
源氏は北山から帰京したものの、相変わらず正妻の葵の上とはしっくりいかない。そんな頃、藤壺がちょっとした病気のために宮中から里邸(三条宮)に下がった。これを絶好の機会ととらえた源氏は、王命婦(おうみょうぶ:藤壺の侍女)の手引で、藤壺に近づき強引に迫った。夢のような密事の後、藤壺は源氏の子(のちの冷泉帝)を身籠ってしまう。帝はお喜びになるが、藤壺は苦悩し、源氏も自らの深い罪におののく。
その年の秋、紫の上を養育していた祖母(尼君)が亡くなった。父の兵部卿が若紫を引き取ろうと考えるが、源氏は、その寸前に、盗み出すようにして、若紫と乳母の少納言を自邸の二条院に迎えた。最初は恐がっていた若紫も、華やかな二条院の様子に心ときめかせ、源氏の細やかな気配りに、次第に打ち解けてきた。こうして源氏のもとで理想の女性となるべく養育されることになった少女は、のちに紫の上と呼ばれる。
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6.末摘花(源氏18~19歳)
同じ年のこと、源氏は、夕顔に代わる女性を探していたが、乳母子の大輔(たいふ)の命婦から、常陸宮(ひたちのみや)の姫君(末摘花:すえつむはな)が両親と死別して一人寂しく暮らしていることを聞き、興味をそそられる。ある春の夜、命婦の手引で末摘花邸を訪れ、そこで彼女の琴の音を聞く。荒れた邸にひっそりと暮らす姫君は、夕顔のことを思い出させた。しかし、文を遣ったものの返事は来ない。
源氏が邸から帰ろうとすると、親友でありライバルでもある頭中将に見つけられる。源氏がどこに行くのかと跡をつけてきたのだった。源氏は頭中将にからかわれながらも、仲良く帰る。以後、二人は、姫君を自分のものにしようと手紙を出して競い合うが、秋の頃、源氏はついに彼女との逢瀬にこぎつける。ところが、姫君は恥ずかしいのか、一言も口を聞こうとしない。飽き足らない思いで帰り、しばらく訪れなかったが、久しぶりに姫君を訪ねた。
冬の夜の寒々とした邸の様子から、宮家の困窮ぶりが窺えた。その夜もまた、姫君は無口で愛嬌の一つもなく、打ち解けないまま明け方を迎えた。降り積もる雪明かりに、源氏は姫君の姿を見て仰天した。鼻の先が末摘花(紅花)のように赤く、象のように長く垂れている。おまけに体格は胴長で角ばっており、衣装も若い女性には不似合いなほど古風だった。源氏の落胆は大きかったが、しかしかえってそんな姫君を不憫に思い、面倒を見ようと決心した。
二条院に戻った源氏は、紫の上と、鼻の赤い女の絵を書いて遊んだ。自分の鼻に紅をつけて、「私がこんなふうになったらどうしますか」と問うと、紫の上は、「そんなのいやです」と言って、あわててそばへ来て拭き取ろうとする。
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7.紅葉賀(源氏18~19歳)
同じ年の10月、桐壺帝の朱雀院行幸に先立って、懐妊中で祝賀会に出席できない藤壺のために宮中で試楽が催され、源氏は頭中将と共に青海波(せいがいは:雅楽の曲名)を舞った。容姿も舞いぶりもすぐれた頭中将だったが、源氏の美しさはこの上なく、帝をはじめ人々は涙を落とした。弘徽殿女御だけは忌々しく思い、「神が魅入って命をさらってしまいそう」などと憎まれ口を叩く。また、源氏の子を宿す藤壺は、心が晴れない。
翌年2月、藤壺は出産予定を2か月も遅れて皇子(のちの冷泉帝)を出産した。のちの冷泉帝(れいぜいてい)である。だが、その子の容貌は源氏にそっくりだった。帝をはじめ人々は喜ぶばかりで源氏との子であることに気づかないが、藤壷は、罪が露見するのではないかと、心はますます塞がれる。源氏も宮中で若宮の顔を見て驚く。源氏に瓜二つとの帝の言葉に、いよいよ罪の意識にさいなまれる。
4月、若宮が参内する。桐壷帝は、若宮を愛らしく思い大切に扱う。源氏も藤壷の宮も、恐ろしくも複雑な気持ちを隠すのがやっとの状態であった。そんな折、源氏は57、8歳の好色の女官(源典侍:げんのないしのすけ)とたわむれることがあった。現場に頭中将に踏み込まれ、弱みを握られて口止めする。
7月、藤壺は、東宮の母である弘徽殿女御を超えて中宮(皇后)に、また、源氏は参議にそれぞれ昇進した。立場が下となった弘徽殿女御は苦々しさを隠せない。帝は、若宮を東宮(皇太子)にするため、譲位を決意する。一方、源氏になついた若紫は、日に日に大人びていく。そんな若紫の噂を聞きつけた葵の上は、ますます源氏に冷たく当たる。
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8.花宴(源氏20歳)
紅葉賀のあった翌年2月下旬、宮中の南殿(紫宸殿)で桜花の宴が催され、人々は探韻(たんいん※)を賜わって詩を作った。源氏は春鶯囀(しゅんおうでん)、頭中将は柳花宴(りゅうかえん)という舞を舞う。宴はさながら二人の独壇場であり、人々を魅了する。
宴がはてた夜、酒の酔いの醒めぬ源氏は、藤壺に会えないかと思い、宮中の庭をさまよい歩く。たまたま戸口の開いていた弘徽殿の細殿に忍び込み、そこで「朧月夜に似るものぞなき」と歌いながら来る女(朧月夜:弘徽殿女御の妹)と共に夜を過ごす。あわただしい一夜が明けた朝、二人は互いの名前も明かさず、扇だけをとりかわして別れた。翌日の宴の時、源氏は、惟光に昨夜の女の素性を探らせ、右大臣の娘、弘徽殿女御の妹だと分かる。
3月下旬、右大臣邸で藤の花の宴が催され、政敵である源氏も招待された。源氏は宴のはてた深夜に、朧月夜を探し出して再会し、彼女が、近く東宮(後の朱雀帝)のもとに入内する予定であることを知る。源氏にとってはいつもの恋愛の一つであったが、後にこの朧月夜との関係が発覚し、窮地に追い込まれていくことになる。
(※)探韻・・・詩会で列席者が韻にする字を出し、くじ引きで1字ずつをもらい受け、漢詩を作ること。
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9.葵(源氏22~23歳)
花の宴から2年後、源氏の父、桐壺帝が譲位され、弘徽殿女御を母とする源氏の異母兄の朱雀帝(すざくてい)が即位、藤壺の皇子(実は源氏との子、のちの冷泉帝)が新東宮に、朱雀帝の母・弘徽殿女御は皇太后(大后)になった。また、六条御息所の娘が伊勢の斎宮に、弘徽殿女御の女三宮が賀茂の斎院にそれぞれ立たれた。近衛大将に昇進していた源氏は東宮の後見役となり、内心恥じ入りながらも喜ぶ。
年上の恋人の六条御息所は、源氏の愛情が冷める一方であり、亡き東宮との間に生まれた姫君が今度伊勢の斎宮に立ったので、自分も一緒に伊勢に下ろうかと考えている。しかし、源氏への思いは断ち切れず、伊勢下向を止めようとしない源氏を恨めしく思っていた。そうしたところに葵の上の懐妊を知り、嫉妬の思いにかられる。
賀茂の新斎院の御禊(ごけい)の日、源氏も行列に加わった。この日、見物に来ていた葵の上の車と六条御息所の車が、大群衆の雑踏の中で車を置く場所を争い、御息所の車は散々な目にあった。プライドを傷つけられた六条御息所は、自分に気づくことなく通り過ぎて行く源氏の姿を車の中から見送りながら悔し涙に暮れ、魂が遊離するような状態に陥る。
その後、懐妊中の葵の上は物の怪に悩まされるようになり、源氏は、物の怪の正体が六条御息所の生霊(いきりょう)であることを知り驚愕する。葵の上は苦しみつつ、男の子(夕霧)を産んで急死した。源氏は、いつかは睦まじい仲になることもあろうと、互いの命をのんびり当てにしていた愚かさを悔やみ、葵の上の実家である左大臣邸で喪に服す。
葵の上の忌みがあけて、源氏は二条院で紫の上と新枕を交わした。14歳の美しい妻である。翌年正月、源氏は左大臣邸を訪れ、亡き葵の上の思い出話をして過ごした。一方、六条御息所は、己の嫉妬心が葵の上を取り殺したと思い込み、つれない源氏にも絶望して、都を去る決意を固める。
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10.賢木(源氏23~25歳)
世間では、葵の上のあとに源氏の北の方になるのは六条御息所だろうと噂するものの、源氏との結婚をあきらめた六条御息所は、斎宮に選ばれた娘とともに伊勢下向を決意した。源氏は、あの生霊事件以来、気まずく思っていたが、そのことを聞いてさすがに名残り惜しく感じ、晩秋のある日、嵯峨の野宮(ののみや)に御息所を訪ね、別れを惜しんだ。
11月、源氏の父である桐壺院が重態となり、まだ若い朱雀帝に、東宮と源氏のことをくれぐれも重んずるようにと遺言し、年も押し迫って崩御された。これによって藤壺は三条宮に下がり、政権は朱雀帝の外祖父である右大臣方に移った。年が明けて、右大臣方の圧迫は露骨になり、源氏には官位の昇進もなく、源氏の義父にあたる左大臣は辞職し、源氏は詩を作って憂さを紛らす日々を送るようになる。
朧月夜(弘徽殿大后の妹)が尚侍(ないしのかみ:女官の最高位)になり、弘徽殿に住んだ。帝に寵愛されるが、今も源氏との危険な仲は続いている。五壇の御修法(みずほう)が行われた夜、源氏は朧月夜のもとに忍び入った。
藤壺は、東宮の後見役である源氏を信頼しながらも、その後も続く激しい求愛に心を悩ます。そして、故桐壺院の一周忌に、藤壺は法華八講(ほっけはっこう)を営み、その後にわかに出家した。源氏は、自分を避けての出家だと思い込み、悲しさにうち沈む。
翌年の夏、朧月夜は病気で里に下がった。ある雷雨の明け方、源氏が朧月夜のもとに忍び込んでいるところを、彼女の父である右大臣に発見され、これを聞いた姉の太后は、憤怒し、これを口実として源氏を一気に陥れようと決心した。
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11.花散里(源氏25歳)
いやなことばかり続き、失意の底にあった源氏だったが、5月のある日のこと、源氏はふと思い出したように故桐壺院の女御の一人だった麗景殿(れいけいでん)女御の邸宅を訪れた。この女御は、桐壺院が亡くなって後は、妹の三の君と一緒に、源氏の庇護をたよりにひっそりと暮していた。
二人は懐かしい話をして、桐壺院のことなどを語り合い、和歌を詠み交わす。そして、かつて宮中などで逢瀬を重ねたことのある三の君(花散里)もさりげなく訪ね、心を通わせ合う。女君は久しぶりの対面であるうえ、源氏のたぐいない美しさに、長い途絶えの恨みも忘れ、やさしく語り合う。この人は、温和な人であった。
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12.須磨(源氏26~27歳)
源氏は、みずから京を離れ、須磨に退居する決意をする。右大臣方の圧迫は次第に強まり、また、朧月夜との密会が発覚した以上、何らかの処分を覚悟しなければならない身だった。出発に先立ち、父桐壺帝の御陵に詣で、紫の上や花散里、入道宮(藤壺)にも別れを告げ、3月下旬、わずかのお供を連れて須磨に下った。心残りは多く、何より紫の上との別れが悲しかった。
須磨の住居は、昔、在原行平(ありわらのゆきひら)中納言が蟄居したという閑居近くである。都を離れての侘び住まいに、右大臣方を憚って須磨を訪れる人はなく、源氏にとっては、都の人々と便りを交わすことだけが慰みであった。やがて秋となり、ひとしお寂しさを増した8月の十五夜、源氏はお供の者と月を眺め、道真の詩句を誦じて懐旧の情にふけった。
一方、明石の入道(もと播磨守で、桐壺更衣の従兄弟)は、源氏の須磨下向の噂を聞き、最愛の娘(明石の上)を源氏に奉りたいと思った。妻の懸念をよそに、念願の実現に踏み出す。入道の娘は、特に美人というわけではないものの、優しくて品があり、都の姫君たちにもひけをとらない女性だった。
翌年2月、今は宰相となった頭中将が、はるばると訪ねてきた。二人は泣きつ笑いつ日ごろのことを語り合い、詩を作って、旧交を温めつつ夜を明かした。
3月の上巳(じょうし)の日(桃の節句)、源氏は海岸に出て開運のための禊(みそぎ)をしていた。すると、のどかな日和であったのが、急に空がかき曇って暴風雨となり雷鳴が轟き、人々はあまりのことに生きた心地もせずうろたえた。その夜、源氏は異形のものを夢に見た。
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13.明石(源氏27~28歳)
風雨は一向に止まず数日を経過、源氏の閑居の一部が落雷にあって炎上した。その夜、源氏のうたたねの夢に故桐壺院があらわれ、住吉の神の導くままに早くこの浦を去れ、とお告げになった。翌朝、これもまた夢のお告げだと称して、明石から明石入道が舟を用意して迎えに来ていた。夢の内容が一致するので、不思議な縁に導かれるまま、源氏は明石の浦に移った。明石は須磨と比べ、はなやかな感じの所である。
明石入道は、かねがね一人娘(明石の上)の婿に源氏をと願っており、娘の話を切り出す。源氏は入道の人柄に好感を持ち、やがて源氏はこの娘と消息(手紙)を交わすようになった。そして8月13日の月夜、源氏を岡辺の宿に迎え、二人は結ばれた。娘は心高い性質の女であり、当初は身分差を憚り、打ち解けようとしなかったが、次第に心を開き、二人の仲は深まっていった。しかし、源氏は人目を憚り、このような時でも紫の上のことを思い出して、足繫くは通わない。明石の上は煩悶する。
あの暴風雨は都でも続いた。ある日、帝の夢に故桐壺院が現れ、帝を睨みつけながら源氏を追いやったことを叱責した。その後、帝は眼を病まれ、母の大后も病気がちになった。帝は、源氏を苦しめた報いに違いないと考え、大后の強い反対を押し切って、7月、源氏召還の宣旨を下された。源氏の家臣らはみな喜んだが、入道は涙がちに日を過ごす。源氏は、懐妊中の明石の上を残して帰京し、8月15日夜、久しぶりに参内した。そして、員外の権大納言となり政界中央に返り咲いた。
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14.澪標(源氏28~29歳)
帰京した源氏は、久しぶりに兄の帝としみじみ語り合って心を通わせる。そして、政権の座を固めるために様々な布石を打っていく。源氏は、故桐壺院の菩提を弔うために法華八講を営んだ。帝はご病気が重く、翌春、11歳の東宮に譲位され、冷泉帝(故桐壺院の子、実は源氏の子)が即位された。源氏は内大臣に、致仕の左大臣(葵の上の父)は太政大臣に昇進、源氏方に再び春がめぐってきた。また、頭中将は権中納言となった。
3月、明石の上は女の子(明石の姫君)を産んだ。源氏はしかるべき女を選んで乳母として明石へ遣わし、五十日の祝いにはさまざまな品を贈った。紫の上にはこのことは知らせてあったが、明石からの文を見ている源氏を、紫の上は横目に睨む。秋、明石の上は住吉明神に詣でる源氏一行と会ったが、その行列の盛大さに身分の隔たりを強く感じ、源氏に会わずに明石に帰った。このことを聞き知った源氏は、消息を送って慰め、姫君とともに上京するよう勧めた。
六条御息所は、娘の前斎宮(のちの秋好中宮:あきこのむちゅうぐう)とともに伊勢から帰京したが、重い病にかかり、娘の行く末を源氏に託して世を去った。源氏は、この婦人との過去の悲しい関係に思いを馳せ、せめて残された姫君を十分に後見しようと決心、朱雀院がこの姫君を懇望するのをしりぞけ、自分の養女とした。そして、冷泉帝に入内させようと、藤壺の女院に諮った。
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15.蓬生(源氏28~29歳)
源氏が須磨・明石に退居していた間、援助を失った末摘花(すえつむはな)のわび住まいは、ますます困窮をきわめた。邸内は荒廃して狐狸の住処となり、侍女たちは次々に去り、受領の妻である叔母は、末摘花を自分の娘たちの召使いにしようと企てた。言うことを聞こうとしない末摘花に嫌味を言い、乳母子を彼女から引き離した。しかし、末摘花は苦しさに堪え、源氏との再会を信じていた。
須磨から帰京した源氏は末摘花のことは忘れていた。ある日、源氏が花散里(はなちるさと)を訪ねる途中、偶然に末摘花邸を見つけて思い出し、立ち寄って末摘花と再会した。そして、邸の荒廃や貧窮に同情するとともに、自分のこれまでのつれない仕打ちを悔いて、生活を援助し、邸を修理した。そして2年後、二条院に引き取った。彼女の願いは、彼女の真心によって実現したのだった。
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16.関屋(源氏29歳)
9月末、源氏の一行が石山詣でに出かけた帰り、逢坂(おうさか)の関を通っていると、東(あずま)に下っていた常陸介(ひたちのすけ)が任期を終え、妻の空蝉(うつせみ)をつれて京に戻るのに出会った。源氏は空蝉のことをしみじみと思い出し、弟の右衛門佐(うもんのすけ:昔の小君)を召して空蝉にことづてをした。小君はかつて源氏に仕えていたが、源氏が須磨に下る際、それには従わず常陸国へ下っていたのだった。
源氏と出会った空蝉の心は再び揺れ動くが、その関係が進展することはなかった。その後、夫の常陸介が老病となり、子どもたちに空蝉のことを頼みおいて亡くなった。しかし、継子である子どもたちが示した彼女への情はうわべだけであり、中でも河内守(かわちのかみ)はあからさまに言い寄ってきた。空蝉は世をはかなんで出家した。周りの女房たちは、「まだ若いのに・・・」と嘆く。ただし、のちに源氏によって二条東院に引き取られることになる。
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17.絵合(源氏31歳)
亡き六条御息所の娘である前斎宮(さきのさいぐう)は、源氏の養女となり、さらに冷泉帝に入内し、梅壺に局(つぼね)を賜わった。以前から彼女を思う朱雀院は大いに落胆したが、入内の日にはさまざまな贈り物を贈った。源氏は院の胸中を思うと心を痛めた。冷泉帝は絵がお好きであった。梅壺も絵が巧みだったので、おのずから帝の愛情は、先に入内していた弘徽殿女御(頭中将の娘。朱雀帝の母・弘徽殿大后とは別人)から梅壺の方へ移っていった。そのことを知った負けず嫌いの権中納言(もとの頭中将)は、物語絵を弘徽殿に贈り、源氏もまた由緒ある絵を梅壺に贈った。
こうして後宮に絵論議の熱が高まり、3月、中宮の御前で左右に分かれての「絵合(えあわせ)」が催された。梅壺方と弘徽殿方の勝負はなかなかつかず、決着は後日の冷泉帝の御前に持ち越され、最後に源氏の「須磨の絵日記」が出るに及んで、皆が感動して梅壺方の勝ちとなった。ただしこの勝利は、源氏の苦しい日々を記した絵日記を誰も批判できないのを見越した上での作戦だった。
その夜、源氏は弟の蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや:故桐壺院の息子)と、学問・絵画・書道について論じた。源氏は身の栄華につけても世の無常を思い、ひそかに出家を志し、山里に御堂を建てたいと考えた。
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18.松風(源氏31歳)
秋、二条院の東院が造営され、源氏は西の対(たい)に花散里(はなちるさと)を、東の対に明石の上を迎え入れたいと思った。側近の者たちを明石に迎えに遣わしたが、明石の上は身分違いに引け目を感じ、東の対には入らず、母尼君と姫君をつれて、京の大堰(おおい)にある父入道の別邸に移った。入道は明石に残り、「自分が死んだと聞いても心を動かすな」と、覚悟を決めて娘を送り出した。
明石の上の上京を待ちわびていた源氏だったが、紫の上を憚って容易に大堰を訪問することができない。秋の末になってようやく再会でき、二人はあれこれと語り合いながら夜を過ごす。二人の間に生まれた姫君はたいそう可愛くなっており、源氏はこれまでの長い別居を悔やむとともに、せめてこの子だけでも引き取りたいと考える。
二条院に戻ると、紫の上は、予定より長く大堰にいた源氏を恨むが、源氏は紫の上に事情を打ち明け、明石の姫君を二条院に引き取りたいと相談した。明石の上に対する嫉妬心に苦しむ紫の上だったが、子供好きの紫の上は素直にそれに同意した。源氏はしかし、明石の君の気持ちを思いやって悩む。
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