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枕草子

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頭の中将の~第八二段

(一)
 頭の中将の、すずろなるそらごとを聞きて、いみじう言ひ落とし、「何しに人とほめけむ」など、殿上(てんじやう)にていみじうなむのたまふと聞くにも、恥づかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞き直したまひてむ」と笑ひてあるに、黒戸の前など渡るにも、声などするをりは、袖をふたぎて、つゆ見おこせず、いみじう憎みたまへば、ともかうも言はず、見も入れで過ぐすに、二月(きさらぎ)つごもり方、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌みに籠(こも)りて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひやらまし』となむ、のたまふ」と人々語れど、「世にあらじ」など答(いら)へてあるに、日一日(ひとひ)、下(しも)にゐ暮らして参りたれば、夜の御殿(おとど)に入らせたまひにけり。

 長押(なげし)の下(しも)に火近く取り寄せて、さしつどひて扁(へん)をぞつく。「あなうれし。とくおはせ」など、見つけて言へど、すさまじき心地して、何しに上(のぼ)りつらむと覚ゆ。炭櫃(すびつ)のもとに居たれば、そこにまたあまた居て、物など言ふに、「なにがしさぶらふ」と、いとはなやかに言ふ。「あやし、いづれの間に、何事のあるぞ」と問はすれば、主殿司(とのもりづかさ)なりけり。「ただここもとに、人づてならで申すべきこと」など言へば、さし出でて問ふに、「これ、頭(とう)の殿の奉らせたまふ。御返りごと、とく」と言ふ。

【現代語訳】
 頭の中将が、私についてのとりとめもない噂を聞いて、私をひどくけなし、「どうして清少納言を人並みにほめたのだろう」などと、殿上の間でひどくおっしゃる、と聞くにつけ、恥ずかしいけれども、「事実ならしようがないが、間違いなのだからそのうちきっと誤解を解かれるだろう」と笑っていたが、頭の中将は黒戸の前などを通る時も、私の声がすれば、袖で顔を隠して少しもこちらを見ず、ひどく憎んでいらっしゃる。私は何も言わず、気にもしないで過ごしているうち、二月の末ごろ、ひどく雨が降って退屈なときに、頭の中将が御物忌みに籠っていて、「『やはり何だか物足りない。清少納言に何か言ってやろうか』とおっしゃっている」と人々が私に話すが、「そんなことはよもやないでしょう」などと答え、一日中自分の部屋にいて、夜になって中宮様の所に参上したところ、中宮様はもう御寝所にお入りになっていた。


 下長押の近くに、宿直の女房たちが灯灯りを引き寄せて、扁つきをしている。「まあ、よいところにいらしたわ。早くお入りなさい」などと、私を見つけて言うけれど、つまらない気がして、お寝みになられたのに、どうして伺候したのかと悔やまれる。炭櫃の近くに座っていると、そこに女房たちが大勢寄ってきて、おしゃべりなどしていると、「誰それはいらっしゃるか」と、よく透る声で取次ぎを頼む者がいる。「おかしいわ。いつの間にか何かあったのか」と侍女に尋ねさせると主殿司であった。「直接ご本人に、人を介せず申し上げたいことがございます」と言うので、出て行って聞くと、「これは頭の殿からあなたに差し上げるお手紙です。すぐにお返事をください」と言う。
 
(注)頭の中将・・・藤原斉信(ただのぶ)。後に四納言の一人に数えられた貴公子。
(注)扁つき・・・漢字の扁を示してつくりを付ける、またはその逆のことをする遊び。

(二)
 いみじく憎みたまふに、いかなる文(ふみ)ならむと思へど、ただ今、急ぎ見るべきにもあらねば、「往(い)ね。今聞こえむ」とて、ふところに引き入れて入りぬ。なほ人の物言ふ、聞きなどする、すなはち立ち帰り来て、「『さらば、そのありつる御文を賜はりて来(こ)』となむ仰せらるる。とくとく」と言ふが、あやしう、いせの物語なりやとて、見れば、青き薄様(うすやう)に、いと清げに書きたまへり。心ときめきしつるさまにもあらざりけり。

 蘭(らん) 省ノ 花ノ 時 錦 帳ノ 下

と書きて、「末はいかに、末はいかに」とあるを、いかにかはすべからむ、御前(ごぜん)おはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末を知り顔に、たどたどしき真名(まんな)に書きたらむも、いと見苦しと、思ひまはすほどもなく責め惑はせば、ただその奥に、炭櫃に消えたる炭のあるして、

 草の庵(いほり)を誰(たれ)か尋ねむ

と書きつけて、取らせつれど、また返りごとも言はず。

【現代語訳】
 とても憎んでおられるはずなのに、どんな手紙なのだろうと思うが、今すぐに急いで見るほどでもないから、「行ってください。すぐお返事を申し上げます」と言って、手紙をふところに入れて中に入った。そのまま女房たちが話しているのを聞いたりしていると、主殿司がすぐに引き返してきて、「『それなら、さっきのお手紙をいただいて来い』とおっしゃっています。お返事を早く早く」と言うが、どうもおかしいので、伊勢の物語なのかなと思い、見ると、青い薄手の紙に、とてもきれいに書いていらっしゃる。どんな文かと胸がときめいたが、それほどのものではなかった。


 蘭省の花の時錦帳の下

と書いて、「この後の句はどうか、どうだったか」とあるのを、どうしたらよいだろう、中宮様がいらっしゃれば御覧に入れることもできるのに、この下の句を知ったかぶりに、おぼつかない漢字で書いたら、さぞ見苦しいと思うが、思案するひまもなくしきりに急き立てるので、その手紙のあとに、炭櫃に火が消えた炭があるのを使い、

 草の庵をたれかたづねむ

と書きつけて渡したが、頭の中将から再びの返事はない。

(三)
 皆寝て、つとめて、いととく局(つぼね)に下(お)りたれば、源中将の声にて、「ここに草の庵やある」と、おどろおどろしく言へば、「あやし。などてか、人げなきものはあらむ。玉の台(うてな)と求めたまはましかば、答(いら)へてまし」と言ふ。「あなうれし。下(しも)にありけるよ。上にてたづねむとしつるを」とて、昨夜(よべ)ありしやう、「頭の中将の宿直所(とのゐどころ)に、少し人々しき限り、六位まで集まりて、よろづの人の上、昔、今と語りいでて言ひしついでに、『なほこの者、むげに絶え果てて後こそ、さすがにえあらね。もし言ひいづることもやと待てど、いささかなにとも思ひたらず、つれなきもいとねたきを、今宵(こよひ)(あ)しともよしとも定めきりてやみなむかし』とて、皆言ひ合はせたりしことを、『ただ今は見るまじ、とて入りぬ』と、主殿司(とのもづかさ)が言ひしかば、また追ひ返して、『ただ、袖を捕らへて、東西せさせず乞ひ取りて、持て来ずは、文を返し取れ』と戒めて、さばかり降る雨の盛りにやりたるに、いととく帰りたりき。『これ』とて、さし出でたるが、ありつる文なれば、返してけるかとて、うち見たるに、あはせてをめけば、『あやし。いかなることぞ』と、皆寄りて見るに、『いみじき盗人(ぬすびと)を。なほ、えこそ捨つまじけれ』とて見騒ぎて、『これが本(もと)、つけてやらむ。源中将、付けよ』など、夜ふくるまで付けわづらひてやみにしことは、行く先も必ず語り伝ふべきことなり、などなむ、皆定めし」など、いみじうかたはらいたきまで言ひ聞かせて、「今は、御名をば、草の庵(いほり)となむ、付けたる」とて、急ぎ立ちたまひぬれば、「いとわろき名の、末の世まであらむこそ、口惜しかなれ」と言ふほどに、修理(すり)の亮則光(すけのりみつ)、「いみじき喜び申しになむ、上にやとて、参りたりつる」と言へば、「なんぞ、司召(つかさめし)なども聞こえぬを、何になりたまへるぞ」と問へば、「いな、まことにいみじううれしきことの、昨夜(よべ)はべりしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目(めいぼく)なることなかりき」とて、初めありけることども、中将の語りたまひつる、同じことを言ひて、

【現代語訳】
 みんな寝て、翌朝、自分の部屋にたいそう早く下がっていると、源中将の声で、「ここに草の庵はいますか」と仰々しく言うので、「変ですね。どうしてそのような人間らしくない名前の者がおりましょうか。玉の台とお尋ねでしたら、お返事もいたしましょうに」と言った。頭の中将は「ああ嬉しい、下の局にいたのですね。上の局に尋ねようとしていました」と言って、昨夜あったことを語った、「頭の中将の宿直所に、少し身分のある者が皆、六位の蔵人までが集まって、色々な人の昔や今のことを語り、頭の中将があなたのことを『やはりこの人は、まったく絶交したものの、そのまま放ってはおけない。ひょっとして向こうから言い出すかと待っているが、少しも気にかけず平気でいるのもずいぶんしゃくなので、今夜、良かれ悪しかれ、どうするか決めてしまおう』と言って、皆で相談したあの手紙を、『今すぐは見ないといって引っ込んだ』と主殿司が伝えたので、また追い返して、『とにかく袖をつかまえてでも、有無を言わさず返事をもらって来い。そうでなければ手紙を取り返せ』と強く言い聞かせて、あれほど降る雨のなかを遣ったところ、えらく早く帰ってきた。『これです』と言って差し出したのがさっきの手紙で、返事が来たのだなと思い、頭の中将がちらっと見たと同時に叫び声をあげた、『おや、どうしたのか』と皆でそばに寄って見ると、頭の中将が『たいした奴よ。やはりあの女を捨て置くことはできない』と言うので、皆が手紙を見て騒ぎ、『これ(草の庵をたれかたづねむ)の上の句をつけて贈ろう。源中将つけてみろ』などと、夜が更けるまで悩んだあげく、つけることができずに終わってしまい、将来にきっと語り伝えるべき話だ、などと皆で評定しましたよ」などと、ずいぶんきまりが悪くなるほど私に言い聞かせ、「あなたのお名前を、今では草の庵とつけています」と言って、急ぎ立ってしまわれた。私は「とてもみっともない名が後世まで伝わるのは残念」と言っていると、修理の亮則光が「すばらしいお祝いを申し上げるために、上の御局におられるかと思って参上していました」と言うので、「何ですか。司召の除目などがあったとも聞きませんが、何におなりになったのですか」と尋ねると、「いやもう、まことにすばらしく嬉しいことが昨夜ありましたのを、早くお知らせしたいと待ち遠しく夜を明かしましたよ。あれほど名誉なことはありませんでした」と言って、最初からのいきさつを、源中将がお話になったのと同じことを言い、
 
(注)修理の亮則光・・・橘則光。清少納言の夫で、日ごろ兄妹と呼び合っていた。長徳2年に修理亮(修理職の次官)となる。長男の則長は清少納言との間にできた子といわれる。 

(四)
 「『ただ、この返りごとに従ひて、こかけをしふみし、すべて、さる者ありきとだに思はじ』と、頭の中将のたまへば、ある限りかうやうしてやりたまひしに、ただに来たりしは、なかなかよかりき。持て来たりしたびは、いかならむと胸つぶれて、まことに悪からむは、せうとのためにも悪かるべしと思ひしに、なのめにだにあらず、そこらの人のほめ感じて、『せうと、こち来(き)。これ聞け』とのたまひしかば、下ごこちはいとうれしけれど、『さやうの方(かた)に、さらにえさぶらふまじき身になむ』と申ししかば、『言(こと)加へよ、聞き知れとにはあらず。ただ、人に語れとて聞かするぞ』とのたまひしなむ、少し口惜しきせうとの覚えにはべりしかども、本(もと)付けこころみるに、言ふべきやうなし。『ことに、またこれが返しをやすべき』など言ひ合はせ、『悪しと言はれては、なかなかねたかるべし』とて、夜中までおはせし。これは身のため、人のためも、いみじき喜びにははべらずや。司召に少々の司(つかさ)得てはべらむは、何とも覚ゆまじくなむ」と言へば、げにあまたしてさることあらむとも知らで、ねたうもあるべかりけるかなと、これになむ胸つぶれて覚えし。このいもうと、せうとといふことは、上まで皆しろしめし、殿上にも、司の名をば言はで、せうととぞ付けられたる。

 物語などしてゐたるほどに、「まづ」と、召したれば、参りたるに、このこと仰せられむとなりけり。上(うへ)渡らせたまひて、語り聞こえさせたまひて、男(をのこ)ども皆、扇に書きつけてなむ持たる、など仰せらるるにこそ、あさましう、何の言はせけるにか、と覚えしか。

 さて後(のち)ぞ、そでの几帳(きちやう)など取り捨てて、思ひ直りたまふめりし。

【現代語訳】
 「『この返事の次第によっては、今後きっぱりと相手をしないことにする。そんな者がいたとも思うまい』と頭の中将がおっしゃるので、そこにいた皆で考えて手紙をおやりになったのだが、使者が手ぶらで帰ってきたのは、かえってよかった。二度目に返事を持ってきたときはどうなることかと胸がどきどきして、本当に出来が悪かったら、この兄にとっても不面目になると思ったが、並々どころでなく大勢の人がほめて感心し、『兄貴よ、こっちへ来い。これを聞け』とおっしゃったので、内心はとても嬉しくも、『そうした詩歌のほうは、一向にお相手できるほどの身ではございません』と申し上げたところ、『批評しろとか理解しろというのではない。ただ、当人に話せというので聞かせるのだ』とおっしゃり、兄としてちょっと情けない思われ方だったが、皆さんが上の句をつけようとしても適当な文句が見つからない。『ことさらに、またこの句の返事をすべきだろうか』などと話し合い、『つまらない返事だと言われては、かえって無念だ』などと、夜中まで思案していらっしゃった。この一件は私にとってもあなたにとっても大変な祝い事ではないか。司召に少しばかりの官職を得たとしても、これに比べれば何とも思われない」と言う。なるほど大勢でそんな計画があったとも知らず、下手な返事をしていたらさぞ恥をかくところだったと、今更ながらに胸がどきどきした。この私と則光を兄妹と呼ぶのは、主上(一条天皇)まですっかりご存知で、殿上でも、則光の官名ではなく「せうと」とあだ名されていた。


 則光といろいろ話しているうちに、中宮様が「ちょっと」とお召しになったので参上したところ、この一件についてお話下さろうというのだった。主上が中宮様の所においでになってお話しあそばし、殿上人たちは皆、あの句のやり取りを扇に書きつけて持っているとのことで、あきれて、あの時、何が私にあの句を言わせたのかしらと思われた。

 それから後は、頭の中将も、袖で几帳のように顔を隠すのをやめて、機嫌をお直しになったようだった。

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里にまかでたるに~第八四段

 里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、やすからずぞ、人々言ひなすなる。いと有心(うしん)に、引き入りたるおぼえ、はた、なければ、さ言はむもにくかるまじ。また、昼も夜も来る人を、なにしにかは、「なし」とも、かがやき帰さむ。まことにむつましうなどあらぬも、さこそは来(く)めれ。あまりうるさくもあれば、このたび出でたる所をば、いづくとなべてには知らせず。左中将 経房(つねふさ)の君、済政(なりまさ)の君などばかりぞ、知り給へる。

 左衛門(さゑもん)の尉(じよう)則光(のりみつ)が来て、物語などするに、「昨日宰相の中将の参り給ひて、『いもうとのあらむ所、さりとも知らぬやうあらじ。言へ』と、いみじう問ひ給ひしに、さらに知らぬよしを申ししに、あやにくに強(し)ひ給ひしこと」など言ひて、「あることあらがふは、いとわびしくこそありけれ。ほとほと笑(ゑ)みぬべかりしに、左の中将の、いとつれなく知らず顔にて居給へりしを、かの君に見だにあはせば、笑ひぬべかりしに、わびて、台盤(だいばん)の上に布(め)のありしを取りて、ただ食ひに食ひまぎらはししかば、中間(ちゆうげん)にあやしの食ひ物やと、人々見けむかし。されど、かしこう、それにてなむ、そことは申さずなりにし。笑ひなましかば、不用ぞかし。まことに知らぬなめりと思したりしも、をかしくこそ」など語れば、「さらに、な聞こえ給ひそ」など言ひて、日ごろ久しうなりぬ。

 夜いたくふけて、門(かど)をいたうおどろおどろしう叩けば、なにのかう心もなう、遠からぬ門を高く叩くらむと聞きて、問はすれば、瀧口(たきぐち)なりけり。「左衛門の尉の」とて、文(ふみ)を持て来たり。みな寝たるに、火取り寄せて見れば、「明日、御読経(みどきやう)の結願(けちぐわん)にて、宰相の中将、御物忌(ものいみ)に籠り給へり。『いもうとのあり所申せ、いもうとのあり所申せ』と責めらるるに、ずちなし。さらにえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせ奉るべき。いかに。仰せに従はむ」と言ひたる返りごとは書かで、布を一寸ばかり紙に包みてやりつ。

 さて後、来て、「一夜(ひとよ)は責めたてられて、すずろなる所々になむ、率(ゐ)てありき奉りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御返りはなくて、すずろなむ布の端(はし)をば包みて賜へりしぞ。あやしの包み物や。人のもとに、さる物包みておくるやうやはある。とりたがへたるか」と言ふ。いささか心も得ざりけると見るがにくければ、物も言はで、硯(すずり)にある紙の端に、

 かづきするあまのすみかをそことだにゆめ言ふなとやめを食はせけむ

と書きてさし出でたれば、「歌詠ませ給へるか。さらに見侍らじ」とて、扇(あふぎ)返して逃げて去(い)ぬ。

 かう語らひ、かたみの後見(うしろみ)などするうちに、なにともなくて、すこし仲あしうなりたるころ、文おこせたり。「便(びん)なきことなど侍りとも、なほ契り聞こえし方(かた)は忘れ給はで、よそにても、さぞとは見給へ、となむ思ふ」と言ひたり。常に言ふことは、「おのれを思さむ人は、歌をなむ詠みて得さすまじき。すべて仇敵(あたかたき)となむ思ふ。今は限りありて絶えむと思はむ時にを、さることは言へ」など言ひしかば、この返りごとに、

 崩れ寄る妹背(いもせ)の山の中なればさらに吉野の川とだに見じ
 
と言ひやりしも、まことに見ずやなりけむ、返しもせずなりにき。さて、かうぶり得て、遠江(とほたあふみ)の介(すけ)といひしかば、にくくてこそやみにしか。

【現代語訳】
 里に退出していると、殿上人などが訪れて来るのを、何かと穏やかでない噂を人々は言い立てるもののようだ。でも私は、かなり思慮深く行動しており、むやみに引きこもっている女だという評判もないから、そんな風に言われても、特段腹は立たない。それに、昼も夜も尋ねて来る人を、どうしてそうそう「不在です」などと言って、恥をかかせて帰らせることができようか。それほど親しくない人でも、そんなふうにしょちゅう尋ねて来る。あまりにも煩わしくもあるので、この度の退出では、どこにいるとは広く知らせずに、左中将の源経房の君、済政の君といった人たちだけがご存じだった。

 そこで、左衛門の尉の橘則光が尋ねて来て、世間話などをしていたら、「昨日、宰相の中将(藤原斉信)がおいでになって、『妹の居所を、いくらなんでもお前が知らぬはずはあるまい。教えよ』と、しつこく聞いてこられたが、全く存じませんと申し上げたのに、無理やりに白状させようとなさるので、困ってしまった」などと言い、「知っていることを隠し立てするのは、とても苦しいことでした。もうちょっとで笑いそうになりましたが、左の中将(源経房)が澄ました顔で素知らぬふりをしておられたので、もしあの方と目が合ったらそれだけで吹き出してしまいそうでした。台盤(食卓)の上に海藻があったのを掴み取ってむしゃむしゃ食べてごまかしたものだから、食事時でもないのに変な物を食べていると、他の人は見ていたことでしょう。でも、そのおかげで、あなたの居場所を白状しないですみました。あそこで吹き出していたら、全くのぶち壊しでしたよ。本当に知らないらしいとうまく信じ込ませられたのは、愉快でした」などと話すので、「絶対に話さないで下さい」と念押しをしてから、数日が経った。

 夜がたいそう更けてから、門をとても強く叩く者があるので、いったい何者がこうも不遠慮に、広くもない屋敷の門を音高く叩くのだろうと思い、人をやって聞きに行かせたら、滝口の武士だった。「左衛門の尉(橘則光)からです」と言って手紙を持って来ている。もう皆寝てしまった中で、灯りを取り寄せて見ると、「明日は御読経の結願の日ということで、そのために宰相の中将(藤原斉信)が宮中の物忌みで籠ってらっしゃる。『妹の居場所を言え、妹の居場所を言え』と、きつく責められるので、どうしようもありません。もうこれ以上は隠し通せないので、どこにいるかお教えしてもよいでしょうか。如何ですか。仰せの通りにします」という手紙には返事は書かず、布(昆布)を一寸ほど紙に包んで持たせた。

 後日になって、則光が来て、「あの日の晩は、宰相の中将に責め立てられ、でたらめな場所へお連れして回りました。本気になって私をお叱りになるので、ひどい目にあいました。ところで、なぜあの時どうしろというお返事はなくて、あんな布(昆布)の切れ端なんかを包んで送ってきたのですか。妙な包み物もあったものです。人にあんな物包んで送るということがありますか。何かの間違いでしたか」と言う。全くこちらの気持ちが伝わらなかったのかと憎らしく思い、返事もせず、硯箱の中にあった紙の端に、

「海に潜る海女のように姿を隠してる私の住みかを、そこだと絶対に言わないでと目配せ(布を食わせ)したのに」

と書いて差し出したら、「歌をお詠みになったのですか。絶対に拝見しませんよ」と言って、その紙を扇で扇ぎ返して帰ってしまった。

 このように語り合い、お互いに世話を焼いたりしているうちに、何がきっかけというでもなく少し仲が悪くなった頃に、則光が手紙をよこして来た。「不都合なことなどありましても、夫婦の約束を交わしたことは忘れないで、別の場所に離れていても、ああ、あれが則光だなと思うくらいには思っていただきたいものです」と。いつも言うことは、「私を思ってくれる人なら、どうか歌だけは詠んで寄こさないでいただきたい。歌を寄こしたら、すべて仇敵だと思います。もうこれが最後だと思った時なら、その時こそ歌を詠んで寄こしたらいいでしょう」などと言ってきたから、この返事に、

「崩れてしまって妹背山の間を流れる吉野川は川に見えなくなってしまう、これと同じに、壊れた妹と兄の私たちだから、もはや、川を見ることなんてできません」

と詠み送ったのだが、それも見ないでしまったのか、とうとう返事もしてこなかった。そうしてこの後、則光は五位の叙爵して遠江の介になったので、会う機会もなく、仲違いのままになってしまった。

(注)橘則光・・・清少納言の夫。周りの人々は、兄・妹と呼んでいた。
 

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なまめかしきもの~第八九段

 なまめかしきもの。ほそやかに清げなる君達の直衣(なほし)姿。をかしげなる童女(どうぢよ)の表(うへ)の袴(はかま)などわざとにはあらで、ほころびがちなる汗衫(かざみ)ばかり着て、卯槌(うづち)薬玉(くすだま)など長くつけて、高欄のもとに、扇(あふぎ)さし隠して居たる。

 薄様(うすやう)の草子。柳の萌(も)えいでたるに、青き薄様に書きたる文(ふみ)付けたる。三重(みへ)がさねの扇。五重(いつへ)はあまり厚くなりて、もとなどにくげなり。いと新しからず、いたうもの古(ふ)りぬ檜皮葺(ひはだぶき)の屋に、長き菖蒲(さうぶ)うるはしう葺きわたしたる。青やかなる簾(す)の下より、几帳(きちやう)の朽木形(くちきがた)いとつややかにて、紐(ひも)の吹きなびかされたる、いとをかし。

 白き組の細き。帽額(もかう)のあざやかなる。簾(す)の外(と)、高欄に、いとをかしげなる猫の、赤き首綱(くびつな)に白き札(ふだ)つきて、いかりの緒(を)、組の長きなどつけて引きありくも、をかしうなまめきたり。

 五月の節(せち)の菖蒲(あやめ)の蔵人(くらうど)。菖蒲(さうぶ)のかづら、赤紐(あかひも)の色にはあらぬを、領巾(ひれ)、裙帯(くたい)などして、薬玉(くすだま)、親王(みこ)、上達部(かむだちめ)の立ち並みたまへるに奉れる、いみじうなまめかし。取りて、腰にひきつけつつ、舞踏(ぶたふ)し、拝したまふも、いとめでたし。

 紫の紙を包み文にて、房(ふさ)長き藤に付けたる、小忌(をみ)の君たちも、いとなまめかし。

【現代語訳】
 優雅なもの ほっそりと痩せている貴公子の直衣姿。可愛らしげな童女が、表の袴などをことさららしく着けないで、縫い合わせの少ない汗衫(かざみ)だけを着て、卯槌や薬玉の飾り糸を長くして身につけて、簀子(すのこ)の高欄のもとに、扇で顔を隠して座っている様子。

 薄い紙で作った草子。柳の芽吹いた枝に、青い薄紙に書いた手紙を付けたの。三重がさねの扇。五重になると厚くなり過ぎて、手元の所が格好悪い。新し過ぎず古ぼけてもいない檜皮葺の家に、長い菖蒲をきれいに葺き揃えた様。青々とした簾の下から、几帳の帷子(かたびら)の朽木形の模様がつやつやと覗き、紐が風に吹かれてなびいてる様は、たいそう美しい。

 白い組糸の細いの。帽額(もこう)が色鮮やかなの。御簾の外、高欄のあたりに、たいそう可愛らしげな猫が、赤い首輪に白い札をつけて、重りの紐や組糸の長いのをつけて引きずって歩くのも可愛らしく優美だ。

 五月の端午の節句の菖蒲の蔵人。菖蒲の鬘を髪につけて、赤紐の地味な色なのをつけて、領布や裙帯ねどを身にまとい、薬玉を、親王や上達部が立ち並んでいらっしゃるのに献上する様子は、とても優雅で上品に思われる。薬玉を受け取り、その緒を腰に巻いて、舞いを舞って拝礼される作法も、素晴らしい限りだ。

 紫の紙を使って包み文にして、房の長い藤の枝につけたもの。小忌役の貴公子方が、これまたたいそう優美だ。

(注)汗衫・・・衵(あこめ:束帯や女房装束に用いられた下着の一種)の上に着る童女の服。
(注)帽額・・・簾の上辺に横につけた布。
(注)領布・・・正装の時、肩にかける装飾用の帯状の布。
(注)裙帯・・・腰に結び垂らす紐。
(注)小忌の君・・・新嘗祭や豊明節会の神事に奉仕する。

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無名と言ふ琵琶の御琴を~第九三段

 無名(むみやう)といふ琵琶(びは)の御琴(おんこと)を、上の持て渡らせ給へるに、見などしてかき鳴らしなどいへば、弾くにはあらで、緒(を)などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と、宣(のたま)はせたるは、なほいとめでたしとこそ覚えしか。

 淑景舎(しげいさ)などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろが元に、いとをかしげなる笙(しやう)の笛こそあれ。故殿(ことの)の得させ給へりし」と宣ふを、僧都(そうづ)の君、「それは隆円(りゆうゑん)に賜(たま)へ。おのが元に、めでたき琴(きん)侍り。それに換へさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、異事(ことこと)を宣ふに、答(いら)へせ奉らむと、あまたたび聞こえ給ふに、なほものも宣はねば、宮の御前(おまへ)の、「いな、換へじ、とおぼしたるものを」と、宣はせたる御気色(みけしき)の、いみじうをかしきことぞ限りなき。

 この御笛(おんふえ)の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただ恨めしうおぼいためる。これは、職(しき)の御曹司(みざうし)におはしまいしほどのことなめり。上の御前(おまへ)に、「いなかへじ」と言ふ御笛も、候(さぶら)ふなり。

 御前(ごぜん)に候ふものは、御琴も御笛も、みな珍しき名つきてぞある。

 玄上(げんじやう)、牧馬(ぼくば)、井手(ゐで)、渭橋(ゐけう)、無名(むみょう)など。また和琴(わごん)なども、朽目(くちめ)、塩釜(しほがま)、二貫(ふたぬき)などぞ聞こゆる。水竜(すいろう)、小水竜(こすいろう)、宇多(うだ)の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)、なにくれなど多く聞きしかど、忘れにけり。

 「宜陽殿(ぎやうでん)の一の棚(たな)に」といふ言(こと)くさは、頭(とう)の中将こそし給ひしか。

【現代語訳】
 無名(むみょう)という名の琵琶を、帝が持って中宮のお部屋にいらしゃったので、女房たちが見て、弾くわけではなく、弦をいじって遊んで、「この琵琶の名は、何というのでしょう」と申し上げると、中宮様は「ただ、何ということもなく、名もないのよ」とお答えになられたのは、さすがに素晴らしく思われた。

 中宮様の妹君の淑景舎の方がいらっしゃって、お話のついでに、「私のところにとてもよい笙(しょう)の笛があります。亡くなったお父様が下さったものなのです」とおっしゃるのを、中宮様の弟君の隆円僧都が、「それを私に下さいませんか。私のところに素晴らしい琴がございます。それと交換してください」と申し上げたが、淑景舎の方は全くお聞きにならなずに違う話をなさるのを、隆円様は何とか承知いただこうと、何回も申し上げるのだが、それでも返事をなさらないので、中宮様が「いなかへじ(交換したくありません)、とお思いになっておられるので」と、代わりにおっしゃってあげた。その才気に溢れるご様子は、たいへん素晴らしいものであった。

 その御笛の名を、隆円様もお知りにならなかったので、ただ恨めしくお思いになっていたようだ。これは、確か中宮の職の御曹司がご滞在中のことだったように記憶する。帝のお手元には、「いなかへじ」という名の御笛があったのである。

 帝がお持ちの楽器には、御琴にも御笛にも、みな珍しい名前がついている。玄上(げんじょう)、牧馬(ぼくば)、井手(いで)、渭橋(いきょう)、無名(むみょう)など。また、和琴にも、朽目(くちめ)、塩釜(しおがま)、二貫(ふたぬき)など。水龍(すいろう)、小水龍(こすいろう)、宇多の法師、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)など、他にも色々聞いたけれど、忘れてしまった。

 楽器をほめて、「それは宜陽殿の第一の棚に置くべき名器だ」というのは、頭の中将(藤原斉信)の口癖だった。
 

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あさましきもの~第九七段

 あさましきもの。指櫛(さしぐし)すりて磨くほどに、物に突き障(さ)へて折りたる心地。車のうちかへりたる。さるおほのかなる物は、所(ところ)(せ)くやあらむと思ひしに、ただ夢の心地して、あさましうあへなし。

 人のために、はづかしうあしきことを、つつみもなく言ひゐたる。かならず来(き)なむと思ふ人を、夜一夜(ひとよ)起き明かし待ちて、暁がたに、いささかうち忘れて寝入りにけるに、烏(からす)のいと近く、かかと鳴くに、うち見上げたれば、昼になりにける、いみじうあさまし。

 見すまじき人に、ほかへ持て行く文(ふみ)見せたる。むげに知らず見ぬことを、人のさし向かひて、争(あらが)はすべくもあらず言ひたる。ものうちこぼしたる心地、いとあさまし。

【現代語訳】
 驚きあきれるもの。指櫛をこすって磨くうち、物にぶつかって折れた時の気持ち。牛車がひっくり返ったの。あんな大きな物は、どっしりしているだろうと思っていたのに、ただ夢のような気がして、驚きあきれる。

 当人にとって、恥ずかしく具合の悪いことを、遠慮もなく言っているの。必ず来るだろうと思う男を、一晩中起きて待っていて、明け方につい気が緩んで寝入ってしまい、烏がすぐ近くで「かあかあ」と鳴くので、ふと見上げたら、昼になってしまっているのは、たいそう驚きあきれる。

 見せてはならない人に、他へ持って行く手紙を見せてしまったの。こちらが全く知らず見もしないことを、人が面と向かって、反論もできないほど一方的にしゃべること。何かをひっくり返してこぼした時の気持ち、たいそうがっかりする。

(注)指櫛・・・端午の節会のときにかんざしのように頭に挿す菖蒲。

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二月つごもりごろに~第一〇六段

 二月(きさらぎ)つごもりごろに、風いたう吹きて空いみじう黒きに、雲少しうち散りたるほど、黒戸(くろと)に主殿司(とのもづかさ)来て、「かうてあぶらふ」と言へば、寄りたるに、「これ、公任(きんたふ)の宰相殿の」とてあるを見れば、懐紙(ふところがみ)に、

 少し春あるここちこそすれ

とあるは、げに、今日(けふ)のけしきにいとよう合ひたるも、これが本(もと)はいかでかつくべからむ、と思ひわづらひぬ。「誰(たれ)たれか」と問へば、「それそれ」と言ふ。皆いと恥づかしき中に、宰相の御答(いら)へを、いかで事なしびに言ひいでむ、と心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして大殿(おほとの)籠りたり。主殿司(とのもづかさ)は、「とくとく」と言ふ。げに、遅うさへあらむは、いと取り所なければ、さはれとて、

 空寒み花にまがへて散る雪に

と、わななくわななく書きて取らせて、いかに思ふらむと、わびし。これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじと覚ゆるを、「俊賢(としかた)の宰相など、『なほ内侍(ないし)に奏してなさむ』となむ定め給ひし」とばかりぞ、左兵衛(さひやうゑ)の督(かみ)の中将におはせし、語り給ひし。

【現代語訳】
 二月の末ごろ、風がひどく吹いて空がとても黒く、そのうえ雪が少し散らついている時に、黒戸に主殿司が来て、「ごめんください」と言うので、近寄れば、「これは、公任の宰相殿からです」と差し出すのを見ると、懐紙に「少し春になった趣ですね」と書いてあり、いかにも今日の天気に合っているので、この歌の上の句はどう付けたらよいかと思い悩んだ。「殿上の間にはどなた方がいらっしゃるの」と尋ねると、「誰それです」と言う。どなたも皆こちらがたいそう気後れするような立派な方なので、宰相へのお返事は通りいっぺんのものにはできないと、自分だけでは苦しいので中宮様にお目を通していただこうとするが、中宮様は主上がおいでになってお休みになっていらっしゃる。主殿司は「早く早く」と言う。たしかに返事まで遅くては、いかにも取り柄がないので、どうにもなれと思い、「空が寒いので、花に似せて散る雪に」と、震え震えして書いて渡したが、どう思われるかと情けなくなる。このお返事の批評を聞きたいと思うが、もしけなされているなら聞きたくないと思っていると、「俊賢の宰相などが、『やはり主上に奏上してあなたを内侍にしたい』と批評しておられた」とだけ、左兵衛の督の中将だった方が話してくださった。
 

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無徳なるもの~第一二五段

 無徳(むとく)なるもの。潮干(しほひ)の潟(かた)にをる大船(おほふね)。大きなる木の、風に吹き倒されて根をささげて横たはれ伏せる。えせ者の、従者(ずさ)(かうが)へたる。人の妻(め)などの、すずろなるもの怨(ゑん)じなどして隠れたらむを、必ず尋ね騒がむものぞと思ひたるに、さしもあらず、ねたげにもてなしたるに、さてもえ旅立ちゐたらねば、心と出(い)で来たる。

【現代語訳】
 
さまにならないもの。潮が引いた潟に乗り上げてる大きな船。大木が風に吹かれて倒されて、根を上に向けて横倒しになったの。くだらない者が従者を叱るの。人妻が、つまらぬ嫉妬なんかして身を隠し、夫がきっと大騒ぎして探すだろうと思ったのにそうならず、憎ったらしくも平然と過ごしてるので、いつまでも家を空けてもいられず、自らのこのこ出てきたの。

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はしたなきもの~第一二七段

 はしたなきもの。異人(ことひと)を呼ぶに、我ぞとて、さし出(い)でたる。物など取らするをりはいとど。おのづから人の上などうち言ひそしりたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに言ひ出でたる。

 あはれなることなど、人の言ひ出で、うち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。泣き顔つくり、けしき異(こと)になせど、いと甲斐(かひ)なし。めでたきことを見聞くには、まづただ出で来(き)にぞ出でくる。

【現代語訳】
 きまりの悪いもの。他の人を呼んだのに、自分かと思って出しゃばった時。何かをくれるときは、いっそうきまりが悪い。何となく人の噂話などして悪く言ったことを、幼い子どもが聞き覚えていて、その人の前でしゃべってしまった時。


 悲しいことなどを人が話し出して、ふと泣いたりするのに、まことにたいそう可哀相だと思って聞いていながらも、涙がすぐに出てこないのは、ひどくきまりが悪い。泣き顔をつくり、悲しそうな顔つきをしてみても、全く甲斐がない。それとは反対にすばらしいことを見たり聞いたりして、真っ先に涙がやたらに出てくるのも困ったものだ。

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関白殿、黒戸より~第一二九段

 関白殿、黒戸(くろど)より出でさせ給ふとて、女房のひまなくさぶらふを、「あないみじのおもとたちや。翁(おきな)をいかに笑ひ給ふらむ」とて、分け出でさせ給へば、戸に近き人々、いろいろの袖口(そでぐち)して、御簾(みす)引き上げたるに、権(ごん)大納言の御沓(くつ)取りてはかせ奉り給ふ。いとものものしく清げに、装(よそほ)しげに、下襲(したがさね)の裾(しり)長く引き、所(ところ)(せ)くてさぶらひ給ふ。あなめでた、大納言ばかりに沓(くつ)取らせ奉り給ふよ、と見ゆ。山の井の大納言、その御次々のさならぬ人々、黒きものを引き散らしたるやうに、藤壺の塀(へい)のもとより、登花殿(とうくわでん)の前まで居並みたるに、細やかにいみじうなまめかしう、御佩刀(はかし)などひき繕はせ給ひて、休らはせ給ふに、宮の大夫(だいぶ)殿は、戸の前に立たせ給へれば、居させ給ふまじきなめりと思ふほどに、少し歩み出でさせ給へば、ふと居させ給へりしこそ、なほいかばかりの昔の御行ひのほどにかと見奉りしに、いみじかりしか。

 中納言の君の、忌日(きにち)とてくすしがり行ひ給ひしを、「賜(たま)へ、その数珠、しばし。行ひして、めでたき身にならむ」と借るとて、集まりて笑へど、なほいとこそめでたけれ。御前に聞こしめして、「仏になりたらむこそは、これよりはまさらめ」とて、うち笑(ゑ)ませ給へるを、まためでたくなりてぞ見奉る。大夫殿の居させ給へるを、かへすがへす聞こゆれば、例の思ひ人と笑はせ給ひし、まいて、この後(のち)の御有様を見奉らせ給はましかば、ことわりとおぼしめされなまし。

【現代語訳】
 関白殿(藤原道隆)が黒戸からお帰りになるというので、女房たちがぎっしり並んで伺候しているのをご覧になり、「ああ、何とすばらしいご婦人がたよ。この老人をどれほどお笑いになるだろう」と言って、女房たちをかき分けて出てこられた。戸口に近い女房たちが、色とりどりの袖口をのぞかせて御簾を引き上げると、そこに控えていた権大納言(藤原伊周)がお沓を取って関白殿におはかせになる。権大納言はたいそういかめしく立派なご様子で、装いをこらし、下襲の裾を長く引き、辺りが狭く感じられるほど堂々としていらっしゃる。ああすばらしい、大納言ほどのお方に沓を取らせなさるとは、と思われる。山の井の大納言(藤原道頼)や、これに次ぐ官位でお身内ではない方々が、黒いものを散らしたように、藤壺の塀の際から登花殿の前まで居並んでいる所に、関白殿がほっそりと優雅に御佩刀などをお直しになりながら佇んでいらっしゃると、中宮の大夫殿(藤原道長)は、戸の前に立たれているので、ひざまずきはなさるまいと思っていると、関白殿が少し歩まれて行かれると、すっとひざまずかれたのは、やはり関白殿の前世での善業がいかばかりであったかと拝見し、大いに感動したことだ。


 女房の中納言の君(道隆の従妹)が、命日だとして奇特なようすで勤行しておられたのを、他の女房が「その数珠をしばらく貸してください。私もお勤めをして関白のようなけっこうな身分になりたい」と、集まってきて笑うが、それにしても関白殿の御威勢はまことにすばらしい。中宮様がそれをお聞きになって、「いっそ仏になれば、もっとよいでしょうに」とおっしゃって微笑なさるのを、これまたすばらしくお見申し上げる。中宮の大夫様がひざまずかれたことを繰り返し申し上げると、いつもごひいきの人ねとお笑いになったが、まして、もし中宮様がその後の道長様の御繁栄ぶりをご覧になったならば、私が申し上げるのももっともなこととお思いになっただろうに。
 
(注)黒きもの・・・当時の四位以上の人の袍が、すべて黒色だった。
(注)御佩刀・・・貴人が身につける太刀の尊称。

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殿などのおはしまさでのち~第一四三段

(一)
 殿などのおはしまさで後、世の中に事(こと)(い)で来(き)、騒がしうなりて、宮も参らせ給はず、小二条殿といふ所におはしますに、何ともなく、うたてありしかば、久しう里に居たり。御前(おまへ)渡りのおぼつかなきにこそ、なほ、え絶えてあるまじかりける。

 右中将おはして、物語し給ふ。「今日(けふ)、宮に参りたりつれば、いみじうものこそあはれなりつれ。女房の装束(さうぞく)、裳(も)、唐衣(からぎぬ)、折にあひ、たゆまで候(さぶら)ふかな。御簾(みす)のそばの開(あ)きたりつるより見入れつれば、八、九人ばかり、朽ち葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑(しをん)、萩(はぎ)など、をかしうて居並みたりつるかな。御前(おまへ)の草のいと茂(しげ)きを、『などか、かき払はせてこそ』と言ひつれば、『ことさら露(つゆ)置かせて御覧(ごらん)ずとて』と、宰相(さいしやう)の君の声にて答(いら)へつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居(おんさとゐ)いと心憂し。かかる所に住ませ給はむほどは、いみじきことありとも、必ず候ふべきものに思し召されたるに、甲斐(かひ)なく』と、あまた言ひつる。語り聞かせ奉れ、となめりかし。参りて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。対(たい)の前に植ゑられたりける牡丹(ぼうた)などの、をかしきこと」など宣ふ。「いさ、人のにくしと思ひたりしが、またにくくおぼえ侍りしかば」と答(いら)へ聞こゆ。「おいらかにも」とて笑ひ給ふ。

 げにいかならむ、思ひ参らする。御気色(みけしき)にはあらで、候(さぶら)ふ人たちなどの、「左の大殿方(おほとのがた)の人、知る筋にてあり」とて、さし集(つど)ひものなど言ふも、下(しも)より参る見ては、ふと言ひやみ、放ち出でたる気色なるが、見ならはず、にくければ、「参れ」など、たびたびある仰せ言(ごと)をも過ぐして、げに久しくなりにけるを、また、宮の辺(へん)には、ただあなた方に言ひなして、虚言(そらごと)なども出で来(く)べし。

【現代語訳】
 道隆公がお亡くなりになって後、世間に事件が起こり、物情騒然となって、中宮様も参内されず、小二条殿という所にいらっしゃるころ、私は、なんとなく面白くない気分だったので、長い間、里に下がっていた。しかし、中宮様のご身辺が気がかりなので、やはりそのまま出仕しないままではいられそうもなかった。

 そんな頃、右中将がたずねていらして、お話をなさった。「今日、中宮様の御所に参りましたところ、たいそうお寂しいご様子でした。女房の装束は、裳も唐衣も時節に調和し、さすがにきちんとしてお仕えしております。御簾の隙間から中をのぞいたところ、八、九人ほど、朽ち葉の唐衣を着、薄紫色の裳に、紫苑や萩など、趣がある様子で並んで侍っていたことでした。お庭の草がたいそう茂っているので、『どうしてそのままにしておいでなのですか、刈り取らせなさればよろしいのに』と言うと、『わざわざ露を置かせて御覧になるとおっしゃって』と、宰相の君の声で答えたのが、趣深くも思われました。女房たちが、『あなたのお里下がりが、本当に情けない。こうした所にお住みになるような時には、どんなことがあっても、必ずおそばを離れないものと中宮様はお思いになっているのに、その甲斐もなく』と言っていました。私があなたに話してお聞かせするようにいうことのようですよ。とにかく、参上して、御様子を見てご覧なさい。しみじみとした御殿の様子ですよ。対の屋の前に植えられていた牡丹などの、すばらしいこと」などとおっしゃる。私は、「さあ、気が進みません。皆さんが私のことを憎らしいと思っていたことを、こちらも同じように憎らしく思われましたので」とお答え申しあげる。右中将は、「ぬけぬけとおっしゃることだ」と言ってお笑いになる。

 なるほど、御所はどのようであろうか、と思い申しあげる。中宮様は少しも思っていらっしゃらないことなのだが、おそばの女房たちなどが、私が左大臣(藤原道長)方の人と親しくしている、と言って、集まって話などをしている場合でも、私が局から参上するのを見ると、突然話をやめ、のけ者にしている様子が、今までにないことで、憎らしいので、中宮様からの、「参上しなさい」などとたびたびいただく御伝言もそのままにして、本当に参上しなくなって長くなってしまったが、それをまた、中宮様の周囲では、私のことを、左大臣方についてしまったように言いたてて、あらぬ噂なども出てくるに違いない。

(二)
 例ならず、仰せ言などもなくて日ごろになれば、心細くてうち眺むるほどに、長女(をさめ)、文(ふみ)を持て来たり。「御前(おまへ)より、宰相の君して、忍びて賜はせたりつる」と言ひて、ここにてさへ、ひき忍ぶるも、あまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれて、疾(と)く開けたれば、紙には、ものも書かせ給はず。山吹(やまぶき)の花びら、ただ一重(ひとへ)を包ませ給へり。それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日ごろの絶え間(ま)嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女(をさめ)もうちまもりて、「御前には、いかが、ものの折ごとに思(おぼ)し出で聞こえさせ給ふなるものを。誰(たれ)も、あやしき御長居(おんながゐ)とこそ、侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて参らむ」と言ひて去(い)ぬる後、御返言(おんかへりこと)書きて参らせむとするに、この歌の本(もと)、さらに忘れたり。「いとあやし。同じ古言(ふること)と言ひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひ出でられぬは、いかにぞや」など言ふを聞きて、小さき童(わらは)の前に居たるが、「下ゆく水、とこそ申せ」と言ひたる、など、かく忘れつるならむ。これに教えらるるも、をかし。

 御返(おんかへ)り参らせて、少しほど経て参りたる、いかがと、例よりはつつましくて、御几帳(みきちやう)に、はた隠れて候ふを、「あれは、今参りか」など、笑はせ給ひて、「にくき歌なれど、この折は、さも言ひつべかりけりとなむ思ふを、おほかた見つけでは、しばしも、えこそ慰むまじけれ」など宣(のたま)はせて、変はりたる御気色(みけしき)もなし。

【現代語訳】
 いつもと違ってお便りもなくて何日か経ったので、心細い思いでぼんやりとしている頃、使いの者がお手紙を持って来た。「中宮様から、宰相の君にお命じになって、そっと下されました」と言って、この私の家に来てまでも、人目を避ける様子であるのも、あんまりだ。代筆させたお手紙ではないようであると、胸がどきどきして急いで開けたところ、中の紙には何もお書きになっていない。山吹の花びらをただ一ひら、お包みになっている。その花びらに、「言はで思ふぞ(口では言わなくても、思っていますよ)」とお書きになっている。たいそう感動し、ここ何日かお便りのなかった悲しみもすっかり晴れたようで嬉しく、使いの者も、私をじっと見つめて、「中宮様には、どんなにか、何かにつけてあなた様を思い出していらっしゃるそうで、女房方の誰もが、どうして長く里に下がったままでいらっしゃるのか、とお噂しているようです。どうして参上なさらないのですか」と言って、「この近所にちょっと寄ってから、すぐにまた参上しますから」と言って去った後、その間に、中宮様に御返事を書いて差しあげようとするけれど、「言はで思ふぞ」の歌の上の句を全く忘れてしまった。「本当におかしい。同じ古歌でも、こんな有名な歌を知らない人があろうか。もう口もとまで出かかっているのに出てこないのは、どういうわけであろうか」などとうのを聞いて、前に座っている童女が、「下ゆく水、と申します」と言ってくれたが、どうしてこんなにきれいに忘れてしまったのであろう。こんな子に教えられるのも、おかしい。

 お返事を差しあげて、しばらく日がたってから参上したが、中宮様のご様子はどうであろうといつもよりは気がひけて、御几帳に半分隠れるように侍っている私の姿をご覧になり、「あれは、新参の者か」などとお笑いになって、「あの歌は気に入らない歌だけれども、ああいう時にはぴったりした歌だと思いました。それにしても、いつもあなたの顔を見ないでは、心が慰められません」などとおっしゃって、前と変わったご様子もない。

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碁をやむごとなき人の打つとて~第一四六段

 碁をやむごとなき人の打つとて、紐うち解き、ないがしろなるけしきにひろく置くに、劣りたる人の、居ずまひもかしこまりたるけしきにて、碁盤よりはすこし遠くて、及びて、袖の下は、いま片手して控へなどして打ちゐたるも、をかし。

【現代語訳】
 碁を、身分の高い人が打つときに、直衣の紐を解き、無造作な感じで碁石を盤上のあちこちに置くのに対して、身分の下の人は、かしこまった態度で、碁盤より少し離れ、及び腰で、袖の下をもう片方の手でおさえなどして打っているのも、面白い。

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胸つぶるるもの~第一五〇段

 胸つぶるるもの。競馬(くらべむま)見る。元結(もとゆひ)(よ)る。親などの心地あしとて、例ならぬ気色(けしき)なる。まして、世の中など騒がしと聞こゆるころは、よろづのことおぼえず。また、物言はぬ児(ちご)の泣き入りて、乳も飲まず、乳母(めのと)の抱くにも止(や)まで、久しき。

 例の所ならぬ所にて、殊(こと)にまたいちじるからぬ人の声聞きつけたるは道理(ことわり)、異人(ことひと)などの、その上など言ふにも、まづこそつぶるれ。いみじう憎き人の来たるにも、またつぶる。あやしくつぶれがちなるものは、胸こそあれ。昨夜(よべ)来始めたる人の、今朝の文(ふみ)の遅きは、人のためにさへ、つぶる。

【現代語訳】
 はらはらどきどきするもの。競馬の見物。元結のこよりを縒る時。親などが具合が悪いといって普段と違う様子の時。まして、世間で疫病が流行って不穏になると、もう何も手につかなくなる。また、口の聞けない赤ん坊が泣いてばかりで乳も飲まず、乳母が抱いてもずっと泣き止まない時。

 思いがけない所で、特にまだ相手の心をはっきり確かめていない人の声を聞きつけた時は当然のこと、他の人がその噂などをしても、たちまち胸がどきどきする。ひどく嫌な人が来た時もまたどきどきする。不思議にどきどきして縮みっぱなしなのが心臓というもの。昨夜通い始めた男の今朝の手紙が遅いのは、人ごとでもはらはらする。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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中宮定子について

中宮(天皇の后の最高位、皇后)定子(ていし/さだこ)は、中関白と称せられた藤原道隆(ふじわらのみちたか)を父とし、漢詩人として名高い貴子を母として誕生。正暦元年(990年)に一条天皇の後宮に入内し、中宮となった。(この時、天皇11歳、定子15歳)
 
清少納言が始めて出仕したとされる正暦4年のころは、中関白家が栄華を極めていた時期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々だった。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だった。その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けた。
 
しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去、次いで定子の叔父の道兼が急死すると、その栄華は一転した。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周(これちか)や弟の隆家(たかいえ)は失脚させられた。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となった。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれた。それでも天皇のご寵愛は続き、内親王と親王を出産した。
 
長保2年に皇后となったが、2人目の内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。その後、道隆の中関白家は没落の一途をたどり、定子の生んだ 敦康(あつやす)親王は、后腹の第一皇子でありながら即位できなかった。


 

 

後宮について

後宮
皇后や妃などや、その子、またそれらに仕える女官たちが住まう宮中奥向きの宮殿。一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなかった。後宮の女性の人数は全部で数百人、多い時には千人を越えた。

皇后
天皇の正妻。「きさき」または「きさきのみや」とも呼ぶ。もとは皇族から立たれたが、光明皇后から人臣から出るようになった。
 
中宮
皇后と同資格をもつ后。皇后が二人立てられたときの名残の異称で、2番目以降の者をさす場合が多かった。「中宮」の本来の意味は「皇后の住居」。転じて、そこに住む皇后その人を指して中宮と呼ぶようになった。
 
女御
「皇后」「中宮」の次位で、「更衣」の上位。 摂政・関白・大臣の娘から出るのがふつうだった。 桓武天皇のときに始まり、初めは地位が低かったが、次第に高くなり、醍醐天皇の女御の藤原穏子(ふじわらのおんし)以後は、女御から皇后にあがるようになった。
 
更衣
もとは天皇の着替えの役目をもつ女官の職名だったが、後に天皇の妻の呼称となる。大納言およびそれ以下の家柄の出身の女で、女御に次ぐ地位。ふつう四、五位だったが、後に女御に進む者も出た。
 
御息所
女御・更衣を漠然とした言い方。また皇太子妃を指す場合もある。

女官・女房
尚侍(ないしのかみ)・・・後宮の役所である内侍司の長官。摂関家の娘などがなる。
典侍(ないしのすけ)・・・内侍司の次官。
掌侍(ないしのじょう)・・・内侍司の三等官。
その他・・・宮廷に仕える女官のほか、貴人に仕える女房がいた。

『枕草子』の各段②

  1. いみじう心づきなきもの
  2. わびしげに見ゆるもの
  3. 暑げなるもの
  4. はづかしきもの
  5. 無徳なるもの
  6. 修法は
  7. はしたなきもの
  8. 八幡の行幸のかへらせ給ふに
  9. 関白殿、黒戸より出でさせ給ふ
  10. 九月ばかり、夜一夜
  11. 七日の日の若菜を
  12. 二月、官の司に
  13. 頭の弁の御もとより
  14. などて、官得はじめたる
  15. 故殿の御ために
  16. 頭の弁の、職にまゐり給ひて
  17. 五月ばかり、月もなういとくらきに
  18. 円融院の御はての年
  19. つれづれなるもの
  20. つれづれなぐさむもの
  21. とり所なきもの
  22. なほめでたきこと
  23. 殿などのおはしまさで後
  24. 正月十よ日のほど
  25. きよげなる男の
  26. 碁を、やむごとなき人のうつとて
  27. おそろしげなるもの
  28. きよしと見ゆるもの
  29. いやしげなるもの
  30. 胸つぶるるもの
  31. うつくしきもの
  32. 人ばへするもの
  33. 名おそろしきもの
  34. 見るにことなることなきものの
  35. むつかしげなるもの
  36. えせものの所得るをり
  37. 苦しげなるもの
  38. うらやましげなるもの
  39. とくゆかしきもの
  40. 心もとなきもの
  41. 故殿の御服のころ
  42. 弘徽殿とは
  43. むかしおぼえて不用なるもの
  44. たのもしげなきもの
  45. 読経は
  46. 近うて遠きもの
  47. 遠くて近きもの
  48. 井は
  49. 野は
  50. 上達部は
  51. 君達は
  52. 受領は
  53. 権の守は
  54. 大夫は
  55. 法師は
  56. 女は
  57. 六位の蔵人などは
  58. 女の一人住む所は
  59. 宮仕へ人の里なども
  60. ある所になにの君とかや
  61. 雪のいと高うはあらで
  62. 村上の前帝の御時に
  63. 御形の宣旨の
  64. 宮に初めて参りたるころ
  65. したり顔なるもの
  66. 位こそ猶めでたき物はあれ
  67. かしこきものは
  68. 病は
  69. 十八九ばかりの人の
  70. 八月ばかりに、白き単
  71. すきずきしくて
  72. いみじう暑き昼中に
  73. 南ならずは東の
  74. 大路近なる所にて聞けば
  75. ふと心おとりとかするものは
  76. 宮仕人のもとに
  77. 風は
  78. 八九月ばかりに雨にまじりて
  79. 九月つごおり、十月のころ
  80. 野分のまたの日こそ
  81. 心にくきもの
  82. 五月の長雨のころ
  83. ことにきらきらしからぬ男の
  84. 島は
  85. 浜は
  86. 浦は
  87. 森は
  88. 寺は
  89. 経は
  90. 仏は
  91. 書は
  92. 物語は
  93. 陀羅尼はあかつき
  94. あそびは秋
  95. あそびわざは
  96. 舞は
  97. 弾くものは
  98. 笛は
  99. 見ものは
  100. 賀茂の臨時の祭
  101. 行幸にならぶものは
  102. 祭のかへさ
  103. 五月ばかりなどに山里にありく
  104. いみじう暑きころ
  105. 五月四日の夕つかた
  106. 賀茂へまゐる道に
  107. 八月つごもり
  108. 九月廿日あまりのほど
  109. 清水などにまゐりて
  110. 五月の菖蒲の

※底本は、三巻本に属する柳原紀光自筆本による。本によって章段の分量や順序が異なっている。

おもな登場人物

一条天皇(いちじょうてんのう)
第66代天皇。円融天皇の第一皇子。7歳で即位し、外祖父の藤原兼家が摂政を務め、その後も兼家の息子の道隆や道兼が相次いで摂政・関白を、道長が内覧を務めるなど、藤原氏が全盛へと向かう時期を過ごした。

右近内侍(うこんのないし)
伝不詳。一条天皇に仕えた女房で、藤原定子との関りも深かったらしく、定子のもとによく出入りしていたことが確認できる。

小兵衛(こひょうえ)
清少納言と同じく定子に仕えていた女房。清少納言は小兵衛のことを「年若き人」と書いており、定子に仕えて間もない10代半ばから後半くらいの新米女房だったのではないかと見られている。

宰相の君(さいしょうのきみ)
藤原重輔の娘。位の高い女房(上臈)だった人物。『枕草子』では、教養に優れ、字の美しい女性として描かれている。

橘則光(たちばなののりみつ)
清少納言の初婚の相手。陸奥守などを務めた。性格の不一致から離婚したが、その後も兄妹のような関係が続いた。

中納言の君
藤原定子の父・道隆の叔父の娘。位の高い女房(上臈)だった人物。小柄で太っていたという。

藤原原子(ふじわらのげんし)
定子の妹。『枕草子』では「淑景舎(しげいしゃ)」や「中の姫君」という呼称で登場する。一条天皇の東宮・居貞親王(のちの三条天皇)の妃となった。

藤原伊周(ふじわらのこれちか)
定子の兄。父の道隆が亡くなった後、叔父の道長との政争に敗れ、京から追放される。翌年には帰京したが、政治的に力を得ることはできなかった。

藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
定子と伊周の弟。武勇に優れた人物として知られる。花山上皇を矢で射ろうとしたという事件により、兄・伊周とともに配流されたが、のちに帰京して中納言までのぼった。

藤原斉信(ふじわらのただのぶ)
漢詩や和歌に精通した人物で、政務にも優れた有能な人物だった。藤原道長の信頼厚く、一条天皇期の四納言に挙げられる。

藤原定子(ふじわらのていし)
藤原道隆と高階貴子の娘。兄に伊周、弟に隆家がいる。一条天皇に入内し、藤原道長の娘・彰子が中宮となったときに、自身は中宮から皇后になった。中関白家の不遇後も天皇の寵愛は続いたが、2人目の内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。なお、『枕草子』には、定子の身辺について詳しく記しているものの、定子の不遇に関しては、ほとんど触れていない。

藤原道隆(ふじわらのみちたか)
藤原兼家と時姫の息子。同母の兄妹に道兼・道長・超子・詮子がいる。子に道頼・伊周・定子・隆家・原子など。一条天皇が即位し、父・兼家が権力を握ると、自らも昇進を重ね、父の死後、摂政に就き、のちに関白になった。娘の定子を一条天皇に、原子を三条天皇に入内させるなど、中関白家の栄華を築いた。病気になり、関白の位を伊周に譲ろうとしたが、果たせぬまま亡くなった。

藤原行成(ふじわらのゆきなり)
一条天皇や藤原道長からの信頼も厚く、四納言に挙げられる。能筆で知られ、「三蹟」の一人。清少納言とも親しかった。

御匣殿(みくしげどの)
藤原道隆の四女。実名は不詳。母を同じくする長姉の定子に御匣殿(裁縫する場所)別当として仕える。

隆円(りゅうえん)
伊周・定子・隆家の弟。「隆円」は出家後の名で、実名は不詳。『枕草子』には「僧都の君」の名で登場する。権大僧都までのぼった。

三大随筆の比較

枕草子
 
1002年に成立。作者は清少納言。「山は」「川は」などの類聚的な段、自然と人事についての随想的な段、宮仕え中に体験・見聞した日記・自伝的な段などの諸段からなる。自然や人生の美をとらえようとする精神にあふれ、「をかし」の文学と呼ばれる。体言止め・連体形止め・省略などを用いた簡潔な文章で、ほぼ300段からなっている。
 
方丈記
 1212年に成立。作者は鴨長明。前半は、作者の体験した安元の大火・治承の大風、同年の福原遷都・養和から寿永と続いた飢饉・元暦の大地震などの天災地変について記し、後半は自身の閲歴を述べ、続いて草庵での閑寂生活を綴っている。全編を通じて無常観と隠者としての厭世思想が主軸となっている。簡潔な和漢混交文。『枕草子』や『徒然草』のように分段形式はとらず、一貫して流れる筋を一気呵成に展開させている。
 
徒然草
 1330年に成立。作者は兼好法師(吉田兼好)。200数十段からなり、多種多様の随想・見聞を綴っている。有職故実の知識や深い学問教養に基づく趣味論や、無常観に根ざす人生論、また仏教的思想の叙述や過去の回想的記述もある。無常観を基盤に鋭い批判をこめた、さまざまな文体からなっている。

参考文献

新明解古典シリーズ 枕草子
~桑原博史/三省堂

新版 枕草子(上・下)
~石田穣二/角川ソフィア文庫

枕草子
~池田亀鑑/岩波文庫

ビギナーズ・クラシックス日本の古典 枕草子
~角川書店

ヘタな人生論より枕草子
~萩野文子/河出文庫

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