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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

遊行女婦、児島が大伴旅人に贈った歌

巻第6-965~966

965
凡(おほ)ならばかもかも為(せ)むを恐(かしこ)みと振りたき袖(そで)を忍びてあるかも
966
倭道(やまとぢ)は雲隠(くもがく)りたり然(しか)れどもわが振(ふる)る袖(そで)を無礼(なめ)しと思ふな
 

【意味】
〈965〉貴方様がふつうのお方であったなら、なんなりともいたしましょうが、御身分を考え恐れ多いことと、振りたい袖をおさえています。

〈966〉大和路ははるばると続いて雲の彼方に隠れています。振るまいと思いましたが堪えきれず、どうか私の振る袖を無礼だとお思いにならないでください。

【説明】
 「冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時に、娘子の作る歌二首」。左注によれば、大宰府に赴任していた大伴旅人が、大納言遷任となり、大和へ旅立つ日、水城(みずき)を吹き渡る冷たい風の中にはかすかに雪の香りも漂い、大勢の見送りの役人たちに混じって、美しい遊行女婦、児島(こしま)の姿がありました。居並ぶ役人の面前で、彼女が詠んだというのが、この2首の送別歌です。実際には、その地で開かれた別離の宴席での歌らしく、左注に書かれているエピソードは、旅人が筑紫を離任するときの模様を美化したもののようです。旅人の、大宰府の長官としての滞在は3,4年に及ぶものでした。

 965の「凡ならば」は、平凡とか普通とかの意味。相手の大伴旅人がもし普通の人であったなら、の意と解されていますが、自分がこんな立場の人間でなかったら、ともとれます。「かもかも」は「かもかくも」と同じで、とにもかくにも、ああでもこうでも。966の「倭道」は、大和へ向かう道。「雲隠りたり」は、その道がはるばると遠いことを具象的に言ったもの。「然れども」は逆接の接続詞ですが、上2句との繋がりがありません。2首連作であるところから、前の歌の「振りたき袖を忍びてあるかも」から繋がっていると見られます。「無礼し」は、無礼だ。娘子は、別れがいともたやすく、再会が困難なことを悲しんでいます。

 窪田空穂はこれらの歌を評し、「その心の赤裸々に現われている歌で、娘子の全幅を髣髴させるものである。おそらく長く愛顧を蒙った帥との別れに臨み、その当時の風に従って記念になるべきことをああこうと思ったが、自身の身分を省みて一切を遠慮してさしひかえ、今見送りをすると路の上に立っても、きわめて普通にする袖を振ることも、したくて堪らないのをじっと怺えて、ただ帥を見詰めている心の躍動の現われである。言っている言葉そのものは一遊行婦としての心であるが、それを通して正直な、わきまえの十分にある、しかも情熱と感激に富んだ女の心の動きの跡が現われている」と述べています。

 当時は別れに際して必ず歌を贈るという習慣がありました。『万葉集』の例を見ても、とくに女性が歌を餞(おく)ることは、必要な儀礼だったと見られます。本来は妻の役目だったのが、やがて妻の立場の女性と代わることとなります。

大伴旅人が遊行女婦、児島の歌に答えた歌

巻第6-967~968

967
倭道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こじま)を過ぎて行かば筑紫(つくし)の児島(こじま)思ほえむかも
968
大夫(ますらを)と思へる吾(われ)や水茎(みづくき)の水城(みづき)のうへに涕(なみだ)拭(のご)はむ
 

【意味】
〈967〉大和路の吉備の児島を過ぎる時には、きっと筑紫の児島を思い出すことだろう。

〈968〉立派な男子だと思っているこの私が、お前との別れに、水城の上で涙を拭うとは・・・。

【説明】
 大伴旅人が、遊行女婦、児島が詠んだ2首の送別歌(965・966)に答えて作った歌です。こちらの歌も同様に、送別の宴席で詠まれた気配があります。967の「吉備の児島」は、備前国児島郡で、今は倉敷市に編入されている児島のこと。地名と人名を重ね合わせて、女への惜別の情と旅愁とをうまく溶け合わせて表現しています。968の「大夫」は、勇気のある立派な男子。「吾や」の「や」は、疑問。「水茎の」は、音の類似性から「水城」にかけた枕詞。

 968について窪田空穂は、「この歌は言外にじつに深い味わいをもっている。それはこの歌の調べで、豊かに清らかで、旅人その人の全幅を思わせるものがある。思うにこの際の旅人の心は、単に児島に限られたものではなく、大宰府在任期間の感がおのずからに綜合されてきて、それが、この歌に流れ込み、こうした調べをなしたのではないかと思われる。旅人の作を通じても代表的な一首である」と述べています。

 また、これらの歌のやり取りについて、斎藤茂吉は、「当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である」と述べています。旅人と児島との私的な関係を云々する見方もないではないのですが、ここの旅人は、国の高官として、身分の上下や職業の貴賤などにいっさいかかわらずすべての民草を天皇の「おほみたから」であるとする根幹の形にのっとり、その気持ちや思いをしっかりと受けとめているのです。
 
 
※水城とは
  博多湾からやって来る外敵を防ぐために、堤を築き、前面に水をたたえた堀のこと。特に、白村江の戦(663年)の敗北後の天智天皇3年(664年)、新羅に対する大宰府防衛のために設けられたものをさし、福岡県太宰府市水城に土塁堤防状遺構、東西の門址・礎石などが残っています。大宰府が筑紫平野の内陸部にあるのも、戦争に備える必要があったからです。水城は国の特別史跡に指定されています。
 

葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)の歌ほか

巻第4-576~578

576
今よりは城山(きやま)の道はさぶしけむ我(わ)が通(かよ)はむと思ひしものを
577
我(あ)が衣(ころも)人にな着せそ網引(あびき)する難波壮士(なにはをとこ)の手には触(ふ)るとも
578
天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家(いえ)の庭(にわ)はも
  

【意味】
〈576〉あなたがお帰りになったこれから先、城山の道はきっと寂しくなるでしょう。お会いできるのを楽しみにせっせと通うつもりでしたのに

〈577〉私がお贈りした着物は、他の人に着せてはいけません。網を引く難波男の手に触れるのは仕方ないとしても。

〈578〉天地の続く限りいつまでも住み続けようと思っていた、この家の庭であったのに。

【説明】
 576は、大伴旅人が都に上った後に、筑後守の葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)が、嘆き悲しんで作った歌。葛井連大成は、梅花の宴の上席の一員だった人です。「城山」は、大宰府の真南にあり、肥前、筑後から大宰府に出るには越えなければならなかった山。その道を、もう楽しい思いで通うことはないだろうと言っています。窪田空穂は「感傷の言を漏らしていないところにかえってあわれがある。国守として長官なる旅人に、その全幅を披瀝した歌といえる」と述べています。
 
 577は、大伴旅人が、新しい袍(うえのきぬ)を摂津大夫高安王(せっつのだいぶたかやすのおおきみ)に贈った歌。「袍」は、男子の礼装の上衣。「摂津大夫」は、摂津職の長官。「高安王」は、長皇子の孫で、天平11年(739年)に大原真人の姓を賜わって臣籍に下った人。旅人が袍を贈ったのは、大宰府から帰って受けた接待に対する謝礼とされます。「な着せそ」の「な~そ」は、禁止。親しい間柄だったとみえ、他ならぬあなたに贈るのだという親愛の情に溢れ、また「網引する難波壮士」と言って、戯れに高安王を漁師に見立てています。
 
 578は、大伴宿祢三依(おおともおすくねみより)が別れを悲んだ歌。三依は旅人の従兄。この歌は、どこの「家」を離れるのかが不明で、旅人が亡くなったその家を離れる時の挽歌とする見方もありますが、巻第4はすべて相聞歌なので、やや無理があるようです。三依は筑紫に赴任したことが知られているので、自身が住み慣れた奈良の自邸を離れる際に詠んだものとみられています。

余明軍が大伴家持に与えた歌

巻第4-579~580

579
見まつりていまだ時だに変はらねば年月(としつき)のごと思ほゆる君
580
あしひきの山に生(お)ひたる菅(すが)の根のねもころ見まく欲しき君かも
 

【意味】
〈579〉お世話をさせていただいた時から、まだどれほども時は経っていないのに、長い年月を経たように思ってしまう君です。

〈580〉山に生えている菅の長く伸びた根のように、心を込めてねんごろにお世話申し上げたいと思う我が君です。

【説明】
 余明軍(よのみょうぐん)が大伴家持に贈った歌。余明軍は百済の王族系の人で、帰化して大伴旅人の資人(しじん:付け人)になった人です。主人の旅人が亡くなった時に作った歌が巻第3-454~458にあります。旅人が亡くなった時の家持はまだ11歳という幼さであり、ここの歌は、明軍が1年間の服喪を終え、解任されて式部省に送られることになった際に、家持に与えた歌とされます。彼がいつから旅人の資人になっていたのかははっきりしませんが、歌の内容は、家持の幼少時代から親しく仕えてきた年月も夢のように過ぎ、なおも末永く仕えたいとの思いは切実なのに、それが叶わぬ無念の辛さを披瀝しているものです。亡き旅人の晩年の心中を察する時、明軍としてはその後継者である家持との別離はなおさら堪え難かったのでしょう。

 579の「見まつりて」は、お見上げして、お世話をさせていただいて。「君」は、家持のこと。580の「あしひきの」は「山」の枕詞。上3句は「ねもころ」を導く序詞。「ねもころ」は、心を込めて。明軍は『万葉集』に8首の短歌を残しており、資人、また男性とは思えないほど微細で嬋娟(せんけん)な作風であると評されます。

→ 余明軍の歌(巻第3-394

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大伴旅人の従者の歌

巻第17-3890~3894

3890
我(わ)が背子(せこ)を我(あ)が松原(まつばら)よ見わたせば海人娘子(あまをとめ)ども玉藻(たまも)刈る見ゆ
3891
荒津(あらつ)の海(うみ)潮(しほ)干(ひ)潮(しほ)満(み)ち時はあれどいづれの時か我(わ)が恋ひざらむ
3892
礒(いそ)ごとに海人(あま)の釣舟(つりふね)泊(は)てにけり我(わ)が船(ふね)泊(は)てむ礒(いそ)の知らなく
3893
昨日(きのふ)こそ船出(ふなで)はせしか鯨魚取(いさなと)り比治奇(ひぢき)の灘(なだ)を今日(けふ)見つるかも
3894
淡路島(あはぢしま)門(と)渡(わた)る船の楫間(かぢま)にも我(わ)れは忘れず家をしぞ思ふ
 

【意味】
〈3890〉あなたが私を待つという名の、その松原から見わたすと、海人娘子たちが玉藻を刈っているのが見える。

〈3891〉荒津の海では、引き潮、満ち潮それぞれに決まった時があるけれど、私は、いつになったら恋しくならないでいられるのだろう。

〈3892〉どこの磯にも海人の釣舟が泊まっている。我らの船はどこの磯に停泊することだろう。

〈3893〉船出したのは昨日のことだと思っていたのに、もう比治奇の灘にさしかかって、もう今日は、その灘を見ている。

〈3894〉淡路島の瀬戸にさしかかって、梶をせわしく漕ぐその間にも、私は家のことばかり思っている。

【説明】
 題詞に「天平2年(730年)冬の11月、太宰帥(だざいのそち)大伴卿が大納言に任ぜられて都に上ったとき、従者たちは、別途海路によって入京した。その旅を悲傷(かな)しんで、各々が思いを述べて作った歌10首」の旨の記載があり、巻第17の冒頭に並べられている歌です。当時、身分の高い人は陸路を、低い人は海路をとるのが決まりでしたから、従者の一部は船で京に向かいました。11月は旅人の大納言遷任が発せられた月、大宰府を出発したのは12月でした。

 3890の作者は、三野連石守(みののむらじいしもり:伝未詳)、残り9首は作者未詳。3890の「我が背子を我が」は「待つ」と続き、それを「松」に転じて「松原」を導く7音の序詞としたもの。3891の「荒津の海」は、博多湾内の福岡市西公園の海上。大宰府からの起点となった港。3893の「鯨魚取り」は「比治奇の灘」の枕詞。「比治奇の灘」は、山口県西方の響灘か。3894の「門」は、明石海峡のこと。「家」は、家にいる妻を言い換えたもの。

巻第17-3895~3899

3895
玉映(たまは)やす武庫(むこ)の渡りに天伝(あまづた)ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ
3896
家にてもたゆたふ命(いのち)波の上(へ)に浮きてし居(を)れば奥処(おくか)知らずも [一云 浮きてし居れば]
3897
大海(おほうみ)の奥処(おくか)も知らず行く我(わ)れをいつ来まさむと問ひし子らはも
3898
大船(おほぶね)の上にし居(を)れば天雲(あまくも)のたどきも知らず歌ひこそ我(わ)が背(せ)
3899
海人娘子(あまをとめ)漁(いざ)り焚(た)く火のおほほしく角(つの)の松原(まつばら)思ほゆるかも
 

【意味】
〈3895〉武庫の渡し場で、あいにく日が暮れていくものだから、いっそう家のことが思われてならない。

〈3896〉家にいてさえ揺れ動くわが命なのに、波の上に揺られて思うに、これから先どうなるのやら不安でならない。

〈3897〉大海の、行き着く果てもしれずに出かけていく私なのに、今度はいつおいでになりますかと尋ねた、あの女は、ああ。

〈3898〉大船の上にいると、空を流れる雲のようによるべも分からず、どうか歌を歌ってください、親しい君よ。

〈3899〉海人娘子たちが焚く漁り火がぼんやり霞んで見えるように、心が晴れずに角の松原が思い出される。

【説明】
 上に続く5首。3895の「玉映やす」は「武庫」の枕詞。「武庫」は、兵庫県尼崎市から西宮市にかけての沿岸。「天伝ふ」は「日」の枕詞。3896の「家にても」の「家」は、この作者にとって、あとにしてきた九州にあるのか、それとも4年ぶりに帰ろうとする大和にあるのか、この歌からは分かりません。「たゆたふ」は、定まらず、漂う。「浮きてし」の「し」は、強意の助詞。「奥処」は、将来、果て。「知らずも」は、知られないことよ。3897の「子ら」は女の愛称で、「ら」は接尾語。ここの「子」は、家郷にいる作者の妻ではなく、筑紫で馴れ親しんだ女のことかもしれません。詩人の大岡信は、3896と3897の歌は同じ作者ではないかと言っています。3898の「天雲の」は「たどきも知らず」の枕詞。「たどき」は、頼りどころ。3899の「おほほしく」は、かすかに、ぼんやりと。「角の松原」は、西宮市松原町付近にあった松原。

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大伴旅人の略年譜
710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下に
715年 従四位上・中務卿に
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位に
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子、立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月) 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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遊行女婦

娘子(おとめ)と呼ばれ、万葉集に秀歌を残している人たちの多くは遊行女婦(うかれめ)たちだろうといわれています。その殆どは出身国の名がつくだけで、どのような生い立ちの女性であるか定かではありません。当時は、身分の高い女性のみ「大嬢」とか「郎女」「女郎」などと呼ばれ、その上に「笠」「大伴」などの氏族名がつきました。

遊行女婦は、官人たちの宴席で接待役として周旋し、華やぎを添えました。ことに任期を終え都へ戻る官人のために催された餞筵(せんえん)で、彼女たちのうたった別離の歌には、多くの秀歌があります。

その生業として官人たちの枕辺にもあって、無聊をかこつ彼らの慰みにもなりました。しかし、そうした一面だけで遊行女婦を語ることはできません。彼女たちは、「言ひ継ぎ」うたい継いでいく芸謡の人たちでもありました。

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月の異名と二十四節気

月の異名

1月 睦月(みつき)
2月 如月(きさらぎ)
3月 弥生

4月 卯月(うづき)
5月 皐月(さつき)
6月 水無月(みなづき)

7月 文月(ふづき/ふみづき)
8月 葉月(はづき)
9月 長月(ながつき)

10月 神無月(かんなづき)
11月 霜月(しもつき)
12月 師走(しわす)

二十四節気
1月
立春(りっしゅん)
雨水(うすい)
2月
啓蟄(けいちつ)
春分(しゅんぶん)
3月
清明(せいめい)
穀雨(こくう)
4月
立夏(りっか)
小満(しょうまん)
5月
芒種(ぼうしゅ)
夏至(げし)
6月
小暑(しょうしょ)
大暑(たいしょ)
7月
立秋(りっしゅう)
処暑(しょしょ)
8月
白露(はくろ)
秋分(しゅうぶん)
9月
寒露(かんろ)
霜降(そうこう)
10月
立冬(りっとう)
小雪(しょうせつ)
11月
大雪(たいせつ)
冬至(とうじ)
12月
小寒(しょうかん)
大寒(だいかん)

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