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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第7)~その1

巻第7-1069~1072

1069
常(つね)はさね思はぬものをこの月の過ぎ隠(かく)らまく惜(を)しき宵(よひ)かも
1070
大夫(ますらを)の弓末(ゆずゑ)振り起(おこ)し狩高(かりたか)の野辺(のへ)さへ清く照る月夜(つくよ)かも
1071
山の端(は)にいさよふ月を出(い)でむかと待ちつつ居(を)るに夜(よ)ぞ更(ふ)けにける
1072
明日(あす)の宵(よひ)照らむ月夜(つくよ)は片寄りに今夜(こよひ)に寄りて夜(よ)長からなむ
 

【意味】
〈1069〉普段は決して思うこともないのに、目の前の月が空を渡っていき、このまま見えなくなるのが惜しい今夜だ。

〈1070〉勇者が弓の先を振り起こして狩りをする狩高の野辺さえ、清らかに照らす月夜だ。
 
〈1071〉山の端にいつ顔を出すかと、ためらう月を待っているうちに夜が更けてしまった。
 
〈1072〉明日の宵に照る月が今夜の方に寄ってきて、今夜の月夜が長くあってほしい。

【説明】
 「月を詠む」歌。1069の「さね」は、原文「常者曽」で「かつて」と訓むものもあります。ちっとも、全くの意の、打消しを強調する副詞。「この月」は、今見えている月。「隠らまく」は「隠る」の名詞形で、隠れること。「かも」は、詠嘆。窪田空穂は、「月下で楽しい宴を張っていて、興の尽きないのに月は傾いてきた頃、その席の主人である人が客に対して挨拶として詠んだ歌と思われる」として、「素朴な、おおらかな、品のある歌である」と評しています。

 1070の「弓末」は、弓を立てた時の上部。「振り起し」は、弓を構える動作。上2句は、猟をする意で「狩高」を導く譬喩式序詞ですが、叙景の要素が強いものです。「狩高」は地名で、奈良市東南の高円山あたり。「野辺さへ」の「さへ」は、添加の副助詞で、作者の立っている所はもとより遠い野辺さえも、の意。「月夜」は、月とも取れますが、ここは月夜(月のある夜)か。窪田空穂は、「歌柄が大きく、働きのあるものとなっている。この山地の月の清らかさをあらわし得ている歌である」と評しています。

 1071の「山の端」は、山のふち。「いさよふ」は、躊躇している、ためらう意で、陰暦16日以後の出るのが遅い月を擬人化しています。月の出を鑑賞するというより、妻の許へ通おうとして月が出るのを待っている男の歌です。男が女の許に通うのは夜と決まっていましたが、夜であればいつでもいいというのではなく、夜道を照らす月の光が必要でした。さらには、月の妖しい光を浴びることで、不思議な力を身につけることができると考えられていたようです。

 1072の「月夜」は、ここは月のこと。「片寄りに」は「偏り」で、現在の口語と同じ。明日の宵に照るであろう月が、明日には照らなくてもよいから、今夜に寄って加わってほしいという意。「夜長からなむ」は「夜長くあらなむ」で、「なむ」は、他に対しての願望を表す終助詞。無理と思いながら希求する場合に多く用いられ、理知的に戯れつつ月を賞する新趣向の歌となっています。また、1069の歌に答えたような趣きの歌になっています。

作者未詳歌

 『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
 
 7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。
 

巻第7-1073~1076

1073
玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の間(ま)通しひとり居て見る験(しるし)なき夕月夜(ゆふづくよ)かも
1074
春日山(かすがやま)押して照らせるこの月は妹(いも)が庭にも清(さや)けかりけり
1075
海原(うなはら)の道(みち)遠(とほ)みかも月読(つくよみ)の明(あかり)少なき夜(よ)は更けにつつ
1076
ももしきの大宮人(おほみやひと)の罷(まか)り出て遊ぶ今夜(こよひ)の月のさやけさ
 

【意味】
〈1073〉家のすだれの隙間ごしに、ただ一人で見ていると、甲斐のない思いをする、この夕月よ。

〈1074〉春日山の一面に照り渡っているこの月は、私の恋人の庭にもさやかに照っていることだよ。
 
〈1075〉海原を渡ってくる道が遠いせいか、月の光が少ししか届かない。夜はもう更けてきたというのに。
 
〈1076〉大宮人たちが宮中から退出して楽しんでいる今夜の月の、何と清く美しいことか。

【説明】
 「月を詠む」歌。1073の「玉垂の」の「玉垂」は、玉を緒に貫いて垂らしたもので、意味で「緒」と続き、「小簾」の枕詞(修飾語と見る説もあります)。「小簾」の「小」は接頭語、「簾」は、すだれ。上代の簾は、竹を小さく切って緒で貫き、それを並べて垂らしたとされます。「見る験なき」は、見る甲斐がない。「夕月夜」は、夕月。夕方の空にかかっている月で、15日よりも前の月。「かも」は、詠嘆。夫の来訪を待ちながら、一人月を見ている女の歌とみえます。

 1074の「春日山」は、奈良市東部にある山で、今の春日山・御蓋山・若草山などの総称。「押して照らせる」は、光が上から押すように強く照らしているさま。「この月は」は、この今宵の月は。「清けかりけり」の「清けし」は、鮮明なさまから生じるさやかな情感。「けり」は、詠嘆。一帯を照らす月明かりの中、愛しい女の家にやって来たら、その庭にも月の光がさやかに差し込んでいた、その感慨を詠んだ歌です。女の家は、春日山の裾、春日野のあたりにあったようです。この歌について窪田空穂は、「おおらかな詠み方をしながらも、おのずからに微細な感をも織り込み得ていて、平面感に終わっていない歌である。この味わいは実感に即するところからのもので、技巧からのものではない」と述べています。

 1075の「遠み」は「遠し」のミ語法で、「み」は、形容詞の語幹に付いて理由や原因を表す接尾語。「遠みかも」の「かも」は疑問で、遠いからか。「月読」は、もと月を神格化した表現で、転じて月そのもの。月が遠い海原を渡ってこの国土にやって来るというのは、月は海のものとする上代からの信仰にもとづく表現です。「明少なき」は、月が出ようとしてなかなか出てこないことを言っているもの。「夜は更けにつつ」は、倒置法で、夜が更けてしまったのに月が出てこないのを嘆いています。

 1076の「ももしきの」は、百(もも:多く)の石(し)や木(き)でできた大宮の意で「大宮」に掛かる枕詞。「罷り出て」は、宮中から退出して。「遊ぶ」は、詩歌や歌舞を伴う遊宴のことで、もともとは祭りの場に来臨する神を歓迎するものでしたから、宴は月夜を選んで行われていました。「さやけさ」は「さやけし」の語幹「さやけ」に接尾語「さ」が付いたもの。体言止めに似た結句によって、詠嘆を余韻にこもらせ、月の清明さを讃嘆しています。

巻第7-1077~1081

1077
ぬばたまの夜(よ)渡る月を留(とど)めむに西の山辺(やまへ)に関(せき)もあらぬかも
1078
この月のここに来たれば今とかも妹(いも)が出(い)で立ち待ちつつあるらむ
1079
まそ鏡(かがみ)照るべき月を白栲(しろたへ)の雲か隠せる天(あま)つ霧(きり)かも
1080
ひさかたの天(あま)照る月は神代(かみよ)にか出(い)で反(かへ)るらむ年は経(へ)につつ
1081
ぬばたまの夜(よ)渡る月をおもしろみ我(わ)が居(を)る袖(そで)に露(つゆ)ぞ置きにける
 

【意味】
〈1077〉夜空を渡る美しい月を押し留めるために、西の山辺に関所でもないものだろうか。

〈1078〉今照っている月がここまで来たので、妻は外に出て、今か今かと私が来るのを待っているだろう。
 
〈1079〉鏡のように美しい月が、もう照ってもよさそうなのに、白い雲が隠しているのか、それとも天に立つ霧が隠しているのか。
 
〈1080〉空に照る月は、神代の昔に帰ってはまた出直してくることを繰り返しているのだろうか。年は経っていくばかりなのに。
 
〈1081〉夜空を渡っていく月が趣き深いので、寝ずに楽しんでいるうちに、私の袖は露に濡れてしまった。

【説明】
 「月を詠む」歌。1077の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「留めむに」は、留めるために。「ぬかも」は、願望。月を道行く人に見立て、それを引き留める関所を西の山あたりに置いて、西方へ姿を隠すことを留めることができたら、と擬人化しているものです。この歌の発想は後世にも取り入れられ、たとえば在原業平が惟喬親王とともに狩に出た折、酒にうち興じているうち親王が酔ってしまい、奥へ引っこもうとしたため、業平が引き留めようとして即興で詠んだ、「飽かなくにまだきも月のかくるるか山の端にげて入れずもあらなむ」(『古今集』)という歌があります。「山の端が逃げて、月(親王)を山陰に入れないでくれ」と言っています。

 1078の「この月の」は、今照っている月が。「ここに来たれば」の原文「此間来者」で、「このまに来れば」と訓むものもあります。「今とかも」の「と」は、と思って。「かも」は疑問の係助詞。今来るか今来るかと待つ気持ちを表わす用字。「あるらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。「かも」の係り結びで、連体形。1079の「まそ鏡」は白銅製の鏡で、よく澄んだ鏡が光を反射して照り輝くところから、譬喩による「照る月」の修飾。「照るべき月を」の「を」は、ものを、であるのに。「白栲の」の「白栲」は、楮(こうぞ)などの樹皮の繊維で織った白い布。それで作った衣類の意で、衣・袖・紐などに掛かる枕詞ですが、ここは譬喩による修飾。「雲か」の「か」は、疑問。「天つ霧」は、天の霧。

 1080の「ひさかたの」は、語義も掛かり方も未詳ながら「天」の枕詞。「出で反る」は、出ることを繰り返す。「らむ」は、現在推量の助詞。疑問の「か」の係り結びで、連体形。「つつ」は、詠嘆または逆接。1081の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「おもしろみ」は「おもしろし」のミ語法で、「み」は、形容詞の語幹に付いて理由や原因を表す接尾語。(月が)趣き深いので。「ける」は「ぞ」の係り結び。夫の来訪を待ちわびて月夜の戸外に立っている歌の類想は多いものの、窪田空穂は、「この歌は完全に自然観賞のもので、その意味で新味のあるものとなっている。詠み方が素朴で、大柄でもあるので、四、五句は相応の味わいのあるものとなっている」と評しています。

巻第7-1082~1086

1082
水底(みなそこ)の玉さへ清(さや)に見つべくも照る月夜(つくよ)かも夜(よ)の更けぬれば
1083
霜曇(しもぐも)りすとにかあるらむひさかたの夜(よ)渡る月の見えなく思へば
1084
山の端(は)にいさよふ月を何時(いつ)とかも我(あ)が待ち居(を)らむ夜(よ)は更けにつつ
1085
妹(いも)があたり我(わ)が袖(そで)振らむ木(こ)の間より出(い)で来る月に雲なたなびき
1086
靫(ゆき)懸(か)くる伴(とも)の男(を)広き大伴(おほとも)に国(くに)栄(さか)えむと月は照るらし
 

【意味】
〈1082〉川の水底の玉さえはっきり見えるほどに照り輝く月だ。夜も更けてしまったので。
 
〈1083〉霜が降ろうとして曇っているのあろうか、夜空を渡る月が見えないのを思うと。
 
〈1084〉山の稜線で出るのをためらっている月、いつ出ると思って私は待っていたらいいのだろうか。夜が更けていくのに。
 
〈1085〉妻(恋)のいるあたりに向かって袖を振ろう。木の間から出て来る月に、雲よたなびかないでおくれ。
 
〈1086〉靫(ゆき)を背負う伴の男たちが大勢いる大伴の地に、いよいよ栄えていけとばかりに月が照り輝いているらしい。

【説明】
 「月を詠む」歌。1082の「玉」は、貝や美しい小石。「清に」は、はっきりと。「見つべくも」の「つ」は完了の助動詞の強調の用法。「べく」は可能の助動詞。「も」は詠嘆の助詞。見ることができるほどに。「月夜」は、月。1083の「霜曇り」は名詞で、霜の降る前に水蒸気が空に漲って曇ること。「すとにかあるらむ」は、するというのであろうか。「ひさかたの」は「夜」の枕詞。「見えなく」は「見えぬ」のク語法で名詞形。見えないことを。

 1084の「山の端」は、山のふち。「いさよふ」は、躊躇する、ためらう。「何時とかも」は、いつ出ると思って。なかなか来ない恋人を待つ歌、あるいは宴席に来ない人を待つ歌とされます。1085の「妹があたり」は、妻のいる家の辺り。「袖振らむ」は、袖を振ろう。袖を振るのは、衣服の袖には魂が宿っていると信じられており、離れた者との間で相手の魂を呼び招く呪術的行為でした。「雲なたなびき」の「な」は、禁止で、動詞の連用形で結びます。わが袖を振るのを妻に見せようとするがために言っています。

 1086の「靫」は、矢を入れて背負う武具。「懸くる」は、背負う。「伴の男」は、朝廷に仕える男たち。「広き」は、同族の多い。以上2句は「大伴」を導く譬喩式序詞。「大伴」は、大伴氏発祥の地で、大阪市から堺市にかけての海岸一帯。「照るらし」の「らし」は、確信的な推量の助詞。大伴一族が、月の照る夜に集まって酒宴を開き、その席上で詠まれた歌とされます。武の誉れ高い大伴氏は、時代の流れと共にその勢力が衰えていくものの、結束力は高かったとみえます。

巻第7-1089~1091

1089
大海(おほうみ)に島もあらなくに海原(うなばら)のたゆたふ波に立てる白雲(しらくも)
1090
我妹子(わぎもこ)が赤裳(あかも)の裾(すそ)のひづつらむ今日(けふ)の小雨に我(わ)れさへ濡(ぬ)れな
1091
通るべく雨はな降りそ我妹子(わぎもこ)が形見の衣(ころも)我(あ)れ下(した)に着(け)り
  

【意味】
〈1089〉大海には島一つ見えないことよ、そして漂う波の上には白雲が立っている。

〈1090〉妻の赤い裳裾を今ごろ濡らしているだろう今日の小雨に、私も濡れて行こう。

〈1091〉下着まで通るほど雨よ降らないでくれ。愛しい彼女の形見の衣を下に着ているのだから。

【説明】
 1089は、左注に「伊勢従駕作」とありますが、いつの行幸かは不明。「大海に島もあらなくに」の「あらなく」は「あらず」のク語法で名詞形。「に」は、詠嘆で、島もないことよ。「たゆたふ」は、揺れて定まらないさま、漂う。「立てる白雲」は、立ち昇っている白雲。大和国にばかり住んでいて、雲といえば山に立つものと思っていた人の最初の驚異だったようです。窪田空穂はこの歌について、「怪しいまでに印象のはっきりした歌である。作者の驚異の感が伝わって来るためである」と述べ、斎藤茂吉は、「調子に流動的に大きいところがあって、藤原期の人麿の歌などに感ずると同じような感じを覚える。ウナバラノ・タユタフ・ナミニあたりに、明らかにその特色が見えている。普通従駕の人でなおこの調べをなす人がいたというのは、まことに尊敬すべきことである」と述べています。

 1090・1091は「雨を詠む」歌。1090の「我妹子」は、ワガイモコの縮まったもの。「裳」は女性が腰から下に着るスカート状の衣服。その赤いのは元々魔除けの呪術的意味をもち、行幸供奉の女官や神事を行う少女らが身につける礼装だったものです。「ひづつ」は、ぐしょ濡れになる、泥がかかる。「らむ」は、現在推量の助動詞。「我れさへ濡れな」の「我れさへ」は、我までも。「な」は、自身に対しての希望の終助詞。小雨の降りつづいている日に、夫である男が、離れて住んでいる妻を思いやった歌です。

 1091の「通るべく」は、雨が着物を濡れ通るほど。「な降りそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「形見」は、その人のことを思い出させてくれる大事な品物のこと。「形見の衣」は、夫婦や恋人が離れている間、互いに交換して身につけた下着。それによって無事を祈り、再会を期し、相手を偲び合ったのです。下着といっても今のような下着とは違い、当時は「裳」のようなものだったので、それほど抵抗なく交換することができたのでしょう。「下に着り」の「下」は、目に見えないところの意。「着り」は「着あり」の縮まったもの。

巻第7-1095~1098

1095
三諸(みもろ)つく三輪山(みわやま)見れば隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の桧原(ひはら)思ほゆるかも
1096
いにしへのことは知らぬを我(わ)れ見ても久しくなりぬ天(あま)の香具山(かぐやま)
1097
我が背子(せこ)をこち巨勢山(こせやま)と人は言へど君も来まさず山の名にあらし
1098
紀路(きぢ)にこそ妹山(いもやま)ありといへ玉櫛笥(たまくしげ)二上山(ふたかみやま)も妹(いも)こそありけれ
  

【意味】
〈1095〉神を祀る奥深い三輪山の檜原を見ると、渓谷深く同じように繁っている初瀬の檜原を思い出す。

〈1096〉昔のことは何も知らないが、天の香具山よ、私が見始めてからでも、ずいぶんと年月を経たものだ。
 
〈1097〉私の夫をこちらに来させるという名の巨勢山、人はそう言うけれど、あなたは一向においでにならない。名前ばかりの山なのだろう。
 
〈1098〉紀州には妹山という名高い山がある、という人の噂だが、大和の二上山にだって男山と女山が並んでいて、女山はあるのだ。

【説明】
 「山を詠む」歌。1095の「三諸つく」は、神の降臨する場所を設けて神を祭る意で、「三輪山」に掛かる枕詞。三輪山は奈良県桜井市の南東にそびえる標高467mの山で、別に真穂御諸山(まほみもろやま)といいます。「隠口の」は「泊瀬」の枕詞。「こもりく」は、奥まった所の意とも、霊魂のこもる所の意とも言われます。「初瀬」は、古代大和朝廷の聖地であり、葬送の地でもありました。天武天皇の時代に長谷寺が創建され、今なお信仰の地であり続けています。「桧(ひ)」は、ヒノキが略されたもので、もとは「火の木」の意味です。大昔の人がこの木をこすり合わせて火を起こしたことに由来します。日本特産の常緑樹で、山林の代表です。三輪山の東方に、巻向、泊瀬と桧原が続いていたといいます。「かも」は、詠嘆。
 
 1096の「いにしへのこと」は、香具山についての神話や伝説。「知らぬを」は、知らないが。「天の」は、神聖な山としての称。「香具山」は、大和平野の南部に横たわる大和三山の一つ。香具山に登ると、耳成山(みみなしやま)と畝傍山(うねびやま)が左右に見えます。1097の「我が背子をこち」の「こち」は、こちらで、「巨勢山」を導く7音の同音反復式序詞。「巨勢山」は、奈良県御所市古瀬付近の山。「来す」の命令形「こせ」を、地名の「巨勢」に転じさせています。「来まさず」は、敬語。「あらし」は「あるらし」の略で、あるのだろう。女の立場での歌です。
 
 1098の「紀路」は、大和から紀伊の国へ行く道。ここは、その紀伊の国へ入ったばかりの所。「妹山」は、古くは名のない山だったのが、紀の川の南岸の「背山」に向き合う山として名付けられたといいます。「玉櫛笥」は、立派な櫛笥の蓋の意で、同音の「二上山」に掛かる枕詞。「二上山」は、大和国原の真西、奈良県と大阪府の境界をなす葛城連峰にある山で、標高517mの雄岳(おだけ)と標高474mの雌岳(めだけ)の二つの峰からなります。フタカミは元は二つの神の意で、「あめのふたかみ」と呼び、「天二上嶽」と書きます。古くから神の山としてあがめられていました。非業の死を遂げた大津皇子の墓があるのは雄岳です。「妹こそありけれ」の「妹」は「妹山」で、二上山の雌岳を指します。「ありけれ」の「けれ」は「こそ」の係り結びで、已然形。

巻第7-1099・1102~1104

1099
片岡(かたをか)のこの向(むか)つ峰(を)に椎(しひ)蒔(ま)かば今年の夏の蔭(かげ)にならむか
1102
大君(おほきみ)の御笠(みかさ)の山の帯(おび)にせる細谷川(ほそたにがは)の音のさやけさ
1103
今しくは見めやと思ひしみ吉野(よしの)の大川(おほかは)淀(よど)を今日(けふ)見つるかも
1104
馬(うま)並(な)めてみ吉野川を見まく欲(ほ)りうち越え来てぞ滝(たき)に遊びつる
  

【意味】
〈1099〉片岡の向かいの丘に椎の種を蒔いたなら、今年の夏には陰になるだろうか。

〈1102〉御笠山が、帯のように引きまわしている細い谷川、その川音があざやかに聞こえてくる。
 
〈1103〉当分はとても見ることができないと思っていた吉野の大川の淀を、幸い今日はっきりと見られた。
 
〈1104〉吉野川をぜひ見たいと思って、馬を連ねて山を越えてきて、滝のほとりでゆったり遊んだことだ。

【説明】
 1099は「丘を詠む」歌。「片岡」は、片方に裾長く傾斜した丘のこと、または奈良県王寺町から香芝市志都美地方にかけての地域ではないかとされます。「向つ峰」は、向かいの正面にある峰。「峰」は、丘の高い所。「椎蒔かば」は、椎の種を蒔いたら。本来、春に撒いた椎の種がその年の夏に木陰を作るほどになるのは不可能ですが、強い欲求と憧れからこのように歌ったようです。あるいは「椎蒔かば」は、恋の種を蒔くという寓意で、「蔭にならむか」は、恋愛の成就を意味しているかとも言われます。

 1102~1104は「河を詠む」歌。1102の「大王の」は、天皇の王座に天蓋があることから、「御笠」に掛かる枕詞。「御笠の山」は、春日の三笠山。「帯にせる」は、山の麓をめぐって川が流れているさまを、山が川を帯にしているという、擬人法による表現。「細谷川」は、流れの細い谷川の意の普通名詞であり、春日、御笠山を中心にして、能登川、率(いざ)川、吉城(よしき)川、佐保川の4つの川があり、いずれもみそぎの川で、この歌は能登川を詠んだ歌とされます。

 1103の「今しくは」は「今」を形容詞化した「今し」の名詞形で、当分は、今のところは。「見めや」は、反語。どうして見られようか、みられまい。「み吉野」の「み」は、美称。「川淀」は、川幅が広がり、流れが緩やかになっているところ。「かも」は、詠嘆。この歌から1106までの4首は、吉野の川ぼめ歌の一組となっています。1104の「馬並めて」は、乗馬を連ねて。「見まく欲り」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。見ることを欲して。「うち越え来てぞ」の「うち」は、接頭語。「滝」は、吉野町宮滝。「遊びつる」の「つる」は「ぞ」の係り結びで、連体形。この歌から、作者は乗馬で吉野を遊覧する官人たちの一行であったと見られます。

巻第7-1105~1108

1105
音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川(よしのがは)六田(むつた)の淀(よど)を今日(けふ)見つるかも
1106
かはづ鳴く清き川原(かはら)を今日見てはいつか越え来て見つつ偲(しの)はむ
1107
泊瀬川(はつせがは)白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ瀬を清(さや)けみと見に来しわれを
1108
泊瀬川(はつせがは)流るる水脈(みを)の瀬を早みゐで越す波の音(おと)の清(さや)けく
  

【意味】
〈1105〉評判に聞いているばかりでまだ一度も見たことのなかった、吉野川の六田の大淀を、今日初めて見たよ。
 
〈1106〉河鹿の鳴き声がする清らかな川原、今日このすばらしい川原を見たからには、またいつの日にかやってきて楽しみたいものだ。

〈1107〉泊瀬川は、白い木綿の花が咲いたように白波を立てて流れる瀬が清らかだと、私は見に来ました。

〈1108〉泊瀬川の流れが速く、堰(せき)を越えていく波の音がすがすがしくて。

【説明】
 「河を詠む」歌。1105の「音に聞き」は、評判に聞き。「六田の淀」の「六田」は、奈良県吉野町の六田で、現在は「むだ」と呼ばれています。「淀」は、川幅が広がり、流れが緩やかになっているところ。1103の「み吉野の大川淀」と同じ。「今日見つるかも」の「かも」は、詠嘆。南北の山あいをゆっくり流れる吉野川は、この辺りで一段と川幅が広くなっており、大和平野では決して見ることのない景観には、さぞ心奪われたと見えます。1106の「かはづ」は、カジカガエル。渓流の岩の間に棲み、夏から秋に澄んだ美しい声で鳴きます。「川原」は、下の「越え来て」の語から、1103~1105と同じ吉野川と察せられます。「見つつ偲はむ」の「偲ふ」は、賞美する意。

 1107の「泊瀬川」は、奈良県桜井市、三輪山のそばを流れる初瀬川で、大和川の上流。「初瀬」は、古代大和朝廷の聖地であり、葬送の地でもありました。天武天皇の時代に長谷寺が創建され、今なお信仰の地であり続けています。「白木綿花に」は、白い木綿の花のように。「たぎつ」は、水が激しい勢いで流れる。「瀬を清けみと」の「~を~み」は「~が~ので」と理由を表すミ語法。「見に来しわれを」の「を」は、詠嘆。

 1108の「水脈」は、水の勢いよく流れる川筋。「瀬を早み」はミ語法で、瀬が速いので。「ゐで」は、流れをせき止める設備。堰(せき)。「音の清けく」の「清けく」は、連用形で中止して余情を込めています。キヨケクと訓んでキヨシのク語法として、音が清らかであることだ、と解する説もありますが、キヨシは音について言う例は少なく、水の音に用いられるときは「瀬の音」という語の場合に限られるとされます。

巻第7-1109~1112

1109
さ檜隈(ひのくま)檜隈川(ひのくまがは)の瀬を速み君が手取らば言(こと)寄せむかも
1110
斎種(ゆだね)蒔(ま)く新墾(あらき)の小田(をだ)を求めむと足結(あゆ)ひ出(い)で濡(ぬ)れぬこの川の瀬に
1111
古(いにしへ)もかく聞きつつか偲(しの)ひけむこの布留川(ふるかは)の清き瀬の音(と)を
1112
はねかづら今する妹(いも)をうら若みいざ率川(いざかは)の音のさやけさ
  

【意味】
〈1109〉檜隈、そこを流れる檜隈川の流れが速いので、あなたの手に引かれて歩めば、あれこれと世間に噂されるでしょうか。
 
〈1110〉祈り清めた籾(もみ)を蒔くための、新しく開墾する田を求めて家を出立してきたが、その足結を濡らしてしまった、この川の瀬で。

〈1111〉遠い昔にも、このように耳を傾けて聞いただろうか、この布留川の清らかな瀬音を。

〈1112〉はねかづらをつけた彼女の初々しさに、さあおいでと誘ってみたい、その”いざ”という名の率川(いざかわ)の川音の清々しいこと。

【説明】
 「河を詠む」歌。1109の「さ檜隈」の「さ」は接頭語で、「檜隈」は、明日香村の檜前(ひのくま)付近の地名。当時は渡来人が多く住み、異国文化と活気にあふれた地だったといいます。「檜隈川」は、高取川の支流。「瀬を速み」の「速し」のミ語法で、流れが速いので。「言寄せむかも」は、噂が集まるだろうか。農作業を終えた夕刻、帰り支度をして、思いを寄せる男の手につかまって川を渡る、そんな初々しい乙女の姿が彷彿とされます。

 1110の「斎種」は、神事に用いるために斎(い)み清めた稲の種。「新墾」は、新しく開墾すること。「小田」の「小」は、美称。豊作を予祝する農耕儀礼として、新しい神田を開墾して斎種を蒔いたことが知られます。「足結」は、活動しやすいように袴の膝下あたりを結んだ紐。ここでは、神事を行うための装束だったかもしれません。「出で」は、斎種を蒔く田を探しに出かけて。

 1111の「かく聞きつつや」の「かく」は、このように。「や」は、疑問的詠嘆。「偲ひけむ」の「偲ふ」は、ここは賞美すること。過去推量の助動詞「けむ」は「や」の係り結びで、連体形。「布留川」は、原文「古川」で、天理市の布留の地を流れる布留川とするのが通説となっていますが、文字通りに「古い川」と解するものもあります。

 1112の「はねかづら」は、年ごろに達した若い娘がつける髪飾りとされます。「今する」は、初めて用いる意。成年の儀式でもあったのかもしれません。「うら若み」の「うら若し」のミ語法で、うら若いので、初々しいので。「うら」は、心。上3句は「率川」を導く序詞。情事を誘う「いざ」と「率川(いざがは)」を掛けています。「率川」は、春日山を発し佐保川に合流する小さな川。開化天皇の皇居が「率川の宮」と呼ばれ、「率川の社」では毎年4月に三枝祭(さいぐさまつり)が行われるなど、古くから知られた由緒ある川です。窪田空穂はこの歌を、「人の行為と自然とが、生き生きとした状態において微妙に調和している」と評しています。

巻第7-1113~1117

1113
この小川(をがは)霧(きり)ぞ結べるたぎちゆく走井(はしりゐ)の上に言挙(ことあ)げせねども
1114
我(わ)が紐(ひも)を妹(いも)が手もちて結八川(ゆふやがは)またかへり見む万代(よろづよ)までに
1115
妹(いも)が紐(ひも)結八河内(ゆふやかふち)をいにしへのみな人(ひと)見きとここを誰(た)れ知る
1116
ぬばたまの我(わ)が黒髪に降りなづむ天(あめ)の露霜(つゆしも)取れば消(け)につつ
1117
島廻(しまみ)すと磯(いそ)に見し花(はな)風吹きて波は寄すとも採(と)らずはやまじ
  

【意味】
〈1113〉この小川に白い霧が立ち込めている。たぎり落ちる湧き水のところで、言挙げなどしていないのに。
 
〈1114〉私の着物の下紐をあの子が結い固める、その”結う”の名がついた結八川、この川をまた訪ねて眺めよう、いついつまでも。

〈1115〉あの子が下紐を結うという名の結八川、その河内の景色を昔の人も眺めていたというが、それを誰が知ろう。

〈1116〉私の黒髪に空から降りかかってきては溜まる露霜を、手に取っても取ってもすぐに消えてしまう。
 
〈1117〉島をめぐっていたら磯辺に花が咲いていた。風が吹いて波が激しく寄せてこようと、あの花を手に入れずにおくものか。

【説明】
 1113~1115は「河を詠む」歌。1113の「この小川」は、いま目の前を流れる小川に、の意。「たぎちゆく」は、激しく流れている。原文「瀧至」を、タギチイタルを縮めてタギチタルと訓むものもあります。「走井」は、勢いよく湧き出る泉。「言挙げ」は、言葉に出して言うこと。言挙げをすれば霧が立つという信仰を踏まえた歌とみられ、また、この歌から「井」が言挙げ、すなわち誓いの言葉を言う場であったことが窺えます。『古事記』『神代記』にも、天(あま)の真名井(まない)で天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約を行ったという記事があります。この歌は、願っているだけで言挙げをしないのに霧が立ち込めたのを喜んでいるものです。山の雲や川の霧がさかんに立つことは、農耕に必要な豊かな水が得られる前兆とされました。だから、「この小川」に願い通りの霧が立ち込めたことが、今年の豊作のために喜ばれたのです。農耕儀礼の場での歌とされます。

 1114の上2句は、我が紐を妹の手で結うと続け、同音の地名の「結八川」を導く序詞。男女が交わったあと、互いに相手の衣の紐を結んで再び逢うまで解かないと誓い合った習俗を、序詞の形で言っているものです。「結八川」は、大和国内の川とみられるものの所在未詳。「またかへり見む」の対象は、結八川。ただし、窪田空穂は、「それとしては言いかたが事々しい。妹を関係させていっているものと取れる」と言っています。

 1115の「妹が紐」は「結八」の枕詞。前の歌の序詞と同じ習俗に基づいており、男の立場から、愛する女の紐を「結ふ」と掛けています。「結八河内」は、結八河の河内で、「河内」は川の両岸一帯、あるいは川そのもの。「ここを誰れ知る」の「ここ」は「いにしへのみな人見き」を指します。「誰れ知る」は、誰が知っているだろうか、たとい誰が知らなくても、立派な由緒ある川なのだ、の意。前の歌と同じ作者とされ、女の家を出て、女の住む結八川の河内を眺め、しみじみと女を可愛く思う心から詠んだものです。

 1116は「露を詠む」歌。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「降りなづむ」の「なづむ」は、滞る、溜まる。ここは降ってきて留まる意。「露霜」は、冷たい露または露が凍って霜になったもの。ここは霙(みぞれ)か。「取れば」は、取ろうとすると決まって、の意。「消につつ」の「つつ」は、詠嘆。若い女が、自分の髪に露の置くような寒い夜更けに、戸外に立って通って来る夫を待ち続けている歌とみられます。

 1117は「花を詠む」歌。「島廻」は、島めぐり。「磯」は、岩の多い海岸。磯辺で見かけた花を土地の美少女に喩え、「風吹きて波は寄すとも」と、得難いことを言っており、「採らずはやまじ」と、手に入れないではおかないぞ、と言っています。旅先の宴席での歌と見えます。

巻第7-1120~1124

1120
み吉野の青根(あをね)が峰(みね)の蘿席(こけむしろ)誰(た)れか織(お)りけむ経緯(たてぬき)なしに
1121
妹(いも)らがり我(わ)が通ひ道(ぢ)の細竹薄(しのすすき)我(わ)れし通はば靡(なび)け細竹原(しのはら)
1122
山の際(ま)に渡る秋沙(あきさ)の行きて居(ゐ)むその川の瀬に波立つなゆめ
1123
佐保川(さほがは)の清き川原に鳴く千鳥(ちどり)かはづと二つ忘れかねつも
1124
佐保川に騒(さは)ける千鳥さ夜(よ)更けて汝(な)が声聞けば寝(い)ねかてなくに
  

【意味】
〈1120〉吉野の青根が岳の美しい蘿(こけ)のむしろは、いったい誰が織り上げたのだろう、縦糸と横糸もなしに。
 
〈1121〉妻のもとへと私が通う道に生い茂っている細竹の群れよ、せめて私が通るときには靡いて平らかになれ、細竹の原よ。

〈1122〉山あいを鳴き渡る秋沙鴨が飛んで行って降り立つのだろう。その川瀬に波よ立つな、決して。

〈1123〉佐保川の清らかな川原に鳴く千鳥、そしてカジカガエルの鳴く声は、どちらも忘れられない。
 
〈1124〉佐保川で小走りに鳴き騒いでいる千鳥よ、夜も更けてきてお前が妻を呼んで鳴く声を聞いたら、寝ようにも寝られない。

【説明】
 1120は「蘿(こけ)を詠む」歌。「み吉野」の「み」は、美称。「青根が峰」は、吉野離宮のあった宮滝の南方にある山で、この辺りの最高峰(標高858m)。宮滝から約4kmを隔てて、青い三角錐の秀峰が見えると言います。山に密生する蘿を席(敷物)に喩え、その美しさを讃えています。「経緯」は、機織りの縦糸と横糸。飛鳥時代以来、吉野山には仙女が住んでいると信じられており、この歌は、機織りをする仙女の存在を背景に詠んだものと見られます。新しい文学的趣向による山ほめの歌であり、また、大津皇子の歌に「経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね」(巻第8-1512)があり、その影響を受けているともいわれます。

 1121は「草を詠む」歌。「妹らがり」の「ら」は、親しみを表す接尾語。「がり」は「が在り」の約で、いる所。「細竹薄」は、小竹の群生で、呼びかけているもの。「我れし」の「し」は、強意の副助詞。「靡け」は、平らかになって私を通せ、の意。「細竹原」は「細竹薄」の語を変えての繰り返しで、呼びかけ。その葉で脚などが切れるような危険な道なき道であるため、このように言っています。
 
 1122~1124は「鳥を詠む」歌。1122の「山の際」は、山と山の間、山あい。「秋沙」は、鴨の一種のミコアイサで、秋に来て春に去る渡り鳥。「波立つなゆめ」の「ゆめ」は、決して、の意の副詞。「立つな」へかかる倒置法。1123の「佐保川」は、春日山に発し奈良市北部を西へ流れ、やがて南流し大和川へ注ぐ川。「千鳥」は、水辺に棲むチドリ科の鳥。「かはづ」は、カジカガエル。「忘れかねつも」の「かぬ」は、できない意の補助動詞。「つ」は、完了の助動詞。「も」は、詠嘆の助詞。

 1124の「騒ける千鳥」は、原文では「小驟千鳥」となっており、「小驟」の訓みが定まらず、上掲の訓みの他、「をさどる」「さばしる」などとも訓まれます。小走りに鳴き騒ぐ、または飛び跳ねる意。「寝ねかてなくに」は、眠ることができない。「かて」は、補助動詞「かつ」の連用形で、~することができる、の意。「なく」は、打消の助動詞「ぬ」のク語法。「に」は、詠嘆。

巻第7-1125~1129

1125
清き瀬に千鳥(ちどり)妻呼び山の際(ま)に霞(かすみ)立つらむ神なびの里(さと)
1126
年月(としつき)もいまだ経(へ)なくに明日香川(あすかがは)瀬々(せぜ)ゆ渡しし石橋(いはばし)もなし
1127
落ちたぎつ走井(はしりゐ)水の清くあれば置きては我(わ)れは行きかてぬかも
1128
馬酔木(あしび)なす栄(さか)えし君が掘りし井の石井(いはゐ)の水は飲めど飽かぬかも
1129
琴(こと)取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋(したひ)に妻や隠(こも)れる
  

【意味】
〈1125〉その清らかな瀬では千鳥がやさしく妻を呼び、山あいには霞がたちこめていることだろう、ああ、わが故郷よ。
 
〈1126〉遷都の後、まだどれほどの年月も経っていないのに、明日香川を往来したあの石橋もなくなってしまった。

〈1127〉勢いよく落下して来る滝の水があまりにもすがすがしいので、後に残しては立ち去りがたい。

〈1128〉馬酔木の花々のように栄えていた君が掘った井戸の水は、おいしくていくら飲んでも飽きることがない。
 
〈1129〉琴を弾こうと手にすると、先ず嘆きが先に立つ。ひょっとして亡き妻が下樋の中にこもっているのであろうか。

【説明】
 1125・1126は「故郷(明日香の旧都)を思う」歌。1125の「清き瀬」は、明日香についていっているので、明日香川の清い瀬。「千鳥」は、水辺に棲むチドリ科の鳥。「山の際」は、山と山の間、山あい。明日香には山が多いので、何れの山とも分かりません。「神なびの里」の「神なび」は、神が天から降りてくる山や森。「里」は、明日香。春の初めに、奈良の都にあって、故京となった明日香の里を懐かしんでいる歌です。

 1126の「経なくに」の「なくに」は、打消の「ぬ」のク語法に助詞「に」が添った形。「明日香川」は、明日香地方を流れ、大和川に合流する川。「瀬々ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「石橋」は、川の瀬に飛び石を並べて渡れるようにしたもの。前の歌が、遠く故郷の山川を思いやったのに対し、この歌は目の当たりに故郷を見てその昔を思い、人事のはかなさを嘆いています。

 1127・1128は「井を詠む」歌。1127の「走井」は、水が激しく湧き出したり流れたりしているところに水の汲み場所を設置したもの。「置きては」は、後に残しては、放置しては。「行きかてぬかも」の。「かて」は、補助動詞「かつ」の連用形で、~することができる、の意。「ぬ」は、打消の助動詞。「も」は、詠嘆。1128の「馬酔木なす」は、馬酔木のように。「君」は、作者の亡くなった主人、あるいは地元の有力者を敬意をもって呼んだものか。「掘りし井の石井」の「の」は「掘りし井」と「石井」とが同格であることを示す格助詞。地下水まで掘り下げて作った、石で囲んである井戸。

 1129は、題詞に「倭琴(やまとごと)を詠む」とあり、男やもめの歌とみられます。「琴取れば」は、琴を手に取って弾こうとすると、の意。「けだしくも」は、ひょっとして。「下樋」は、表から見えない所の意で、琴の表板と裏板の間にある共鳴槽としての空洞部分。「妻や隠れる」の「や」は、疑問の係助詞。古代、物が空洞になっているところには霊魂がこもると信じられており、作者は、亡き妻が愛用していた琴を弾こうとする時に、それを感じたようです。

 万葉学者の伊藤博は、「『嘆き』は単に悲嘆、哀傷の意ではあるまい。その心情をもこめつつ、音色にいたく引かれてしまう切実な感動をいうのであろう。格別に気高い音色をだす琴なのだが、妻との思い出がこもるので弾く前にいっそう感極まってしまうという心。つまりは、きわめて複雑微妙な形で琴をほめている」と説明しています。また、窪田空穂は、「心理が自然で、詠み方が甚だ老熟しており、老境の人の思われる作である。品が高く味わいのある歌である」と評しています。琴を持つのは上流階級の人に限られており、この歌の作者を、妻を亡くした大伴旅人と推定する見方もあるようです。歌にある「琴取れば嘆き先立つ」の語句は、後の歌人たちに好まれ、さまざまな変化が加えられながら、常套的な文学表現として受け継がれていきました。

巻第7-1130~1134

1130
神(かむ)さぶる岩根(いはね)こごしきみ吉野の水分山(みくまりやま)を見れば悲しも
1131
皆人(みなひと)の恋ふるみ吉野 今日(けふ)見ればうべも恋ひけり山川(やまかは)清み
1132
夢(いめ)のわだ言(こと)にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば
1133
すめろきの神の宮人(みやびと)ところづらいや常(とこ)しくに我(わ)れかへり見む
1134
吉野川 巌(いは)と柏(かしは)と常磐(ときは)なす我(わ)れは通はむ万代(よろづよ)までに
  

【意味】
〈1130〉神々しい大岩がごつごつと固まっている吉野の水分山は、仰ぎ見ると悲しいまでに身が引き締まる。
 
〈1131〉人が皆、恋いこがれるという吉野にやってきてみると、なるほど皆が憧れるのはもっともだ、山や川が清らかなので。

〈1132〉夢のわだとは言葉だけのことであったよ。現にこの目で見てきたのだから。ずっと願い続けて、ようやく。

〈1133〉代々の天皇にお仕えする宮人たちと同じように、私もいつまでもやって来て、この吉野を見よう。
 
〈1134〉吉野川に根を張る岩や柏の木が変わりなく続くように、私もここに通ってこよう、いついつまでも。

【説明】
 「吉野で作る」歌。1130の「神さぶる」は、神々しい。「岩根こごしき」は、大きな岩がごつごつと凝り固まっている意。「み吉野」の「み」は、美称。「水分山」は、水を配る山の意で、分水嶺。吉野山の水分神社のある山。1131の「皆人」は、身の周りのすべての人。「うべも」は、なるほど、もっともなことに。「山川清み」の「清み」は「清し」のミ語法で、山も川も清いので。1132の「夢のわだ」は、吉野町宮滝にある、象(きさ)の小川(喜佐谷川)が吉野川に流れ込むあたりの深い淵。「わだ」は、湾形した地形。「言にしありけり」は、言葉だけのことであった。「うつつ」は、夢に対する現実。「思ひし思へば」の「し」は、強調の副助詞。思いに思っていれば。夢でなくては見られないと思っていたのに、現実に見られたことを喜んでいる歌です。

 1133の「すめろき」は、皇祖以来を継承された代々の天皇の意。「神の宮人」は、神の宮に仕える人で、官人の職を尊んでの称。「ところづら」は、山芋の一種の”ところ”の蔓のことで、その蔓の長さから「常しく」に掛かる枕詞。「いや」は、いよいよ。「常しく」は、永久に。「かへり見む」は、戻って来て見よう、で、対象は吉野宮。1134の「柏」は、ブナ科の落葉高木。「常磐なす」の「常磐」は、常に変わらない岩の意から転じて、永久不変そのものの意。「なす」は、~のように。

 これらの歌は、朝廷の任を帯びて奈良の京からやって来た旅人(たびびと)の作のようであり、そんな彼らにとっても、吉野の地は神聖な憧れの土地だったとみえます。

巻第7-1135~1139

1135
宇治川(うぢがは)は淀瀬(よどせ)なからし網代人(あじろひと)舟呼ばふ声をちこち聞こゆ
1136
宇治川に生(お)ふる菅藻(すがも)を川(かは)早(はや)み採(と)らず来にけりつとにせましを
1137
宇治人(うぢひと)の譬(たと)への網代(あじろ)我(わ)れならば今は寄らまし木屑(こつみ)来(こ)ずとも
1138
宇治川(うぢがは)を舟渡せをと呼ばへども聞こえざるらし楫(かぢ)の音(おと)もせず
1139
ちはや人(ひと)宇治川(うぢがは)波を清みかも旅行く人の立ちかてにする
  

【意味】
〈1135〉この宇治川にはゆるやかな浅瀬が無いらしい。網代人たちの、舟を操ったまま呼び合う声があちこちから聞こえる。

〈1136〉宇治川に生えていた菅藻を採って帰りたかったが、川の流れが早いので採らずじまいになってしまった。家へのみやげにすればよかったのに。

〈1137〉宇治人の譬えのようにいわれる網代に、私が女だったらとっくに引っかかっていように。木屑なんかやって来なくても。

〈1138〉宇治川を舟で渡してくれと大声で呼んでも、いっこうに聞こえないらしい。櫓の音すらしてこない。
 
〈1139〉宇治川の波があまりに清らかだからか、旅行く人が、みなここを立ち去りかねている。

【説明】
 「山背(やましろ)で作る」歌。「山背」は、山城の国(京都府南部)。1135の「宇治川」は、琵琶湖から発する瀬田川の京都府に入ってからの名。水量の豊富な急流。「淀瀬」は、歩いて渡れるような、緩やかな流れの浅瀬。「網代人」は、川の中に簀(す)を設けて漁をする人。「網代」は、川瀬の両側に杭を打ち、竹や柴を編んで並べて魚を捕る仕掛け。「呼ばふ」は、呼び続ける。「をちこち」は、遠く近く、あちらこちらで。

 1136の「菅藻」は、菅に似た食用の藻か。「川早み」は、川の流れが速いので。「つと」は、みやげ。「せましを」の「まし」は、事実に反して仮想する助動詞。「を」は、逆接的に詠嘆する助詞。1137の「宇治人の譬への」は、宇治人を譬える意。「寄らまし」の原文「王良増」は訓義が確定しておらず、「居らまし」と訓み、「ここで待っています」のように解するものもあります。「木屑」は、つまらない女の譬えか。自分から網代に引っ掛かりたいと、女の立場で戯れた歌、あるいは、宇治人を、女を引っかける男としてからかった歌ではないかとされます。宴席での遊行女婦の歌かもしれません。

 1138の「舟渡せをと」の「を」は、詠嘆。「呼ばへども」は、大声で呼び続けるけれども。「楫」は、舟を漕ぎ進める道具、櫓。この歌について斎藤茂吉は、「たぶん夜の景であろうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいような、寂しいような変な気持ちを起こさせる歌である。これは、『呼ばへども聞こえざるらし』のところにその主点があるためである」と言っています。1139の「ちはや人」は、勢い猛き人の氏(うじ)の意で、同音の「宇治」にかかる枕詞。「清み」は「清し」のミ語法で、清いので。「かも」は、疑問。「立ちかてにする」の「かてに」は、~することができないで、~しかねて。

巻第7-1140~1144

1140
しなが鳥(どり)猪名野(ゐなの)を来れば有馬山(ありまやま)夕霧(ゆふぎり)立ちぬ宿(やど)りはなくて [一本云 猪名の浦みを漕ぎ来れば]
1141
武庫川(むこがは)の水脈(みを)を早みと赤駒(あかごま)の足掻(あが)く激(たぎ)ちに濡(ぬ)れにけるかも
1142
命(いのち)をし幸(さき)く吉(よ)けむと石走(いはばし)る垂水(たるみ)の水をむすびて飲みつ
1143
さ夜(よ)更(ふ)けて堀江(ほりえ)漕(こ)ぐなる松浦舟(まつらぶね)楫(かぢ)の音(おと)高し水脈(みを)早みかも
1144
悔(くや)しくも満(み)ちぬる潮(しほ)か住吉(すみのえ)の岸の浦廻(うらみ)ゆ行かましものを
  

【意味】
〈1140〉猪名野をはるばるやって来ると、有馬山に夕霧が立ちこめてきた。宿る所もないというのに。

〈1141〉武庫川の流れが速いからか、乗っている赤駒の足掻く水しぶきで、衣が濡れてしまった。
 
〈1142〉我が命が長く無事でめでたくあれと願い、激しくを流れる滝の水を両手にすくって飲んだよ。

〈1143〉夜更けに難波の堀江を漕いでいる松浦舟、その櫓の音が高く響いている。水の流れが早いからであろうか。
 
〈1144〉残念なことに満ち潮になってきてしまった。住吉の岸辺を浦伝いに行こうと思っていたのに。

【説明】
 「摂津にて作れる」歌。摂津は、大阪府の北西部と兵庫県の東南部。大和への海の玄関口としての港があり、副都としての難波宮がありました。1140の「しなが鳥」すなわち鳰鳥(におどり)は、居並ぶの居と猪が同音であることから「猪名野」に掛かる枕詞。「猪名野」は、猪名川周辺の野。猪名川は、兵庫県と大阪府の府県境付近を流れる川。「有馬山」は、六甲山または有馬温泉付近の山。『万葉集』には2か所にしか歌われていませんが、後に紫式部の娘・大弐三位(藤原賢子)が「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」と詠んだように、歌の名所になった山です。

 1141の「武庫川」は、猪名川の西、尼崎市と西宮市の境を流れる川。「水脈を早みと」の「水脈」は、水の流れる筋、水流。「~を~み」は、「~が~ので」と理由を表します。「赤駒」は、栗毛の馬。「足掻く」は、掻くようにしてさかんに足を動かす。「激ち」は「たぎつ」の名詞形で、馬の足掻きによって起こる水しぶき。速い流れの飛び散るしぶきに濡れたことを言うのは、武庫川の水量の豊かさへの賛美であり、川を褒めながらも、旅の衣服が濡れたことを嘆いています。
 
 1142の「幸く」は、無事で。「吉けむと」は「吉からむと」と同じ。「石走る」は、岩の上を激しく流れ飛び散る意で、「垂水」に掛かる枕詞。「垂水」は、滝または流れが激しい所をいいますが、ここでは地名(大阪府吹田市垂水町)あるいは垂水神社とする説もあります。当地は千里丘陵からの湧水が豊富だったらしく、垂水神社には、難波宮に水を供給した功により垂水公の姓を賜わったという伝承があります。「むすびて」は、水を手ですくいとって。そのようにして水を飲む行為は、滝や水の持っている力を自らの体内に取り込み、自分の健康を祈る呪術の一つとされていたようです。

 1143の「さ夜」の「さ」は、接頭語。「堀江」は、海上の船が入れるようにした難波の堀で、今の天満川とされます。「漕ぐなる」は、漕ぐ音が聞こえる、の意で、「なる」は動詞の終止形につく助動詞「なり」の連体形で、目で見てはいないが耳で聞いたことを表しています。「松浦舟」は、肥前国の松浦の地で造られた舟。「伊豆手の船」(巻第20-4460)とともに、東西から参集する貨物運搬船の代表だったと見られます。「水脈早みかも」は、満潮または干潮になる前に水の流れが速くなることを言っており、自問しながらの詠嘆。

 1144の「悔しくも満ちぬる潮か」の「か」は、上の「も」と呼応しての詠嘆。巻第3-265の「苦しくも降り来る雨か」や、巻第9-1721の「苦しくも暮れ行く日かも」などと同じ。「住吉の岸」は、大阪市住吉区、住吉大社あたりの海岸。「浦廻」は、海岸が湾曲して入り組んだところ。「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。~を通って。「行かましものを」の「ものを」は、逆接的に詠嘆する終助詞。行こうと思っていたのに。

巻第7-1145~1149

1145
妹(いも)がため貝を拾(ひり)ふと茅渟(ちぬ)の海に濡(ぬ)れにし袖(そで)は干(ほ)せど乾(かは)かず
1146
めづらしき人を我家(わぎへ)に住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)を見むよしもがも
1147
暇(いとま)あらば拾(ひり)ひに行かむ住吉(すみのえ)の岸に寄るといふ恋忘(こひわす)れ貝(がひ)
1148
馬(うま)並(な)めて今日(けふ)我(わ)が見つる住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)を万代(よろづよ)に見む
1149
住吉(すみのえ)に行くといふ道に昨日(きのふ)見し恋忘れ貝(がひ)言(こと)にしありけり
  

【意味】
〈1145〉妻のために貝を拾おうと、茅渟の海岸で濡らしてしまった着物の袖は、干してもいっこうに乾かない。

〈1146〉愛すべき人と我が家に住みたい、そう思わせるここ住吉の岸の埴生を見る手だてがあればよいのに。
 
〈1147〉暇があったら拾いに行きたい。住吉の岸に打ち寄せられるという恋忘れの貝を。

〈1148〉馬を連ねて今日われらが見た住吉の岸の埴生を、いついつまでも繰り返し見たいものだ。

〈1149〉住吉に行く道で、昨日見つけた恋忘れ貝は、名前だけのことで、恋しい人を忘れることなどできない。

【説明】
 「摂津にて作れる」歌。1145の「茅渟の海」は、住吉あたりから南の海。「茅渟」は、もと河内国だったのが、霊亀2年(716年)から和泉国となった、堺市から岸和田市にかけての地。濡れた袖を「干せど乾かず」と誇張して言っているのは、貝を拾う苦労の並々でなかったことを言い、妻への感傷の思いを訴えています。

 1146の「めづらしき人」は、愛すべき人で、ここは女から男を指して言っているもの。上2句は、通って来る愛すべき男を女が自分の家に住まわせる、の意で「住吉」を導く序詞。「埴生」は、赤黄色の粘土。住吉の海岸には埴生が大きく露われており、それを用いて白い衣を染めるところから、珍しい物として名所となっていました。「見むよしもがも」の「よし」は方法、「もがも」は願望。都に住み、旅する機会のない女が、難波に行っている夫のことを思い、住吉の岸の埴生への憧れとともに詠んだ歌とされます。

 1147の「暇あらば」、難波に供奉している官人の公務の時間的ゆとりがあれば、の意。「恋忘れ貝」は、恋の苦しさを忘れられることができるという、二枚貝の貝殻の片方、または一枚貝。1148の「馬並めて」は、馬を連ねて。同輩らと共に難波宮から出かけたようです。1149の「行くといふ道に」は、わざと仰々しく言っているもの。「言にしありけり」は、単に言葉だけのもので、その実のないことよの意の成句。「し」は、強意の副助詞。「けり」は、詠嘆。

巻第7-1150~1154

1150
住吉(すみのえ)の岸に家もが沖(おき)に辺(へ)に寄する白波(しらなみ)見つつ偲(しの)はむ
1151
大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜辺(はまへ)をうちさらし寄せ来る波の行(ゆ)くへ知らずも
1152
楫(かぢ)の音(おと)ぞほのかにすなる海人娘子(あまをとめ)沖つ藻(も)刈(か)りに舟出(ふなで)すらしも [一云 夕されば楫の音すなり]
1153
住吉(すみのえ)の名児(なご)の浜辺(はまへ)に馬立てて玉(たま)拾(ひり)ひしく常(つね)忘らえず
1154
雨は降る仮廬(かりほ)は作るいつの間(ま)に吾児(あご)の潮干(しほひ)に玉は拾(ひり)はむ
  

【意味】
〈1150〉住吉の岸辺に我が家があったらよいのに。そうしたら、沖や岸辺に寄せる白波をいつも眺めていられるのに。

〈1151〉大伴の御津の浜辺を、洗いさらすように打ち寄せてくる波は、いったいどこへ去っていくのだろう。
 
〈1152〉櫓の音がほのかに聞こえてくる。海人娘子たちが沖の藻を刈るために舟出しているようだ。(夕方になると、櫓を漕ぐ音が聞こえる)

〈1153〉住吉の名児の浜辺に馬をとどめて、玉を拾ったことがずっと忘れられない。

〈1154〉雨は降るし、仮小屋は作らねばならない。いつ暇を見つけて、この吾児の干潟に玉を拾いに出られるのだろう。

【説明】
 「摂津にて作れる」歌。1150の「家」は、定住する住居。「もが」は、願望の終助詞。「沖に辺に」は、沖のほうに、岸のほうに。「偲はむ」は、賞美しよう。1151の「大伴の御津」は、難波近くの港。「大伴」は、大阪市の東部から南方にかけての一帯で、大伴氏の所領であったところからの地名とされます。集中、「難波津」「住吉の御津」などが出てきますが、いずれも同じ場所とされます。「うちさらし」の「うち」は、接頭語。「さらす」は、布などを水洗いしたり日光に当てたりすることで、波が砂浜に寄せるさまを具象的にいったもの。「行くへ知らずも」の「も」は、詠嘆。人麻呂の宇治川での作歌(巻第3-264)にも同じ表現があります。

 1152の「ほのかに」は、かすかに、うっすらと。「すなる」は、目では見ていないが耳で聞いたことを表す助動詞「なり」の連体形。「沖つ藻」は、沖の藻。「舟出すらしも」の「らし」は、根拠に基づく確信的な推量の助動詞。「も」は、詠嘆の終助詞。1153の「名児の浜辺」は、所在未詳ながら、今の大阪市道頓掘の南、今宮、木津、難波の辺りの総名ではないかともいわれますが、摂津国兎原郡住吉郷(神戸市東灘区)の浜とする説もあります。「馬立てて」は、馬をとどめて、馬から降りて。「玉」は、貝や美しい小石。「拾ひしく」の「しく」は、過去の助動詞「き」のク語法で、名詞形。「忘らえず」は、忘れることができない。「え」は、可能の助動詞。

 1154の「仮廬」は、旅先で寝起きする仮小屋。官人の旅であっても、身分の低い者は自身で作ったといわれますが、多くの場合は駅などを利用したはずで、必ずしも歌の表現通りに、実際に仮廬で一夜を過ごしたわけではないといいます。「仮廬」は、旅先での不自由で不安な宿を表す語として、いわゆる歌語として浸透していったのではないかとされます。「いつの間に」は、いつ暇を見つけて。「吾児」は、上の名児と同じ地で、所在未詳。「潮干」は、潮が引いたあとの干潟。

巻第7-1155~1159

1155
名児(なご)の海の朝明(あさけ)のなごり今日(けふ)もかも磯(いそ)の浦廻(うらみ)に乱れてあるらむ
1156
住吉(すみのえ)の遠里小野(とほさとをの)の真榛(まはり)もち摺(す)れる衣(ころも)の盛(さか)り過ぎゆく
1157
時つ風(かぜ)吹かまく知らず吾児(あご)の海の朝明(あさけ)の潮(しほ)に玉藻(たまも)刈りてな
1158
住吉(すみのえ)の沖つ白波(しらなみ)風吹けば来(き)寄する浜を見れば清(きよ)しも
1159
住吉(すみのえ)の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ
1160
難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)に立ちて見わたせば淡路(あはぢ)の島に鶴(たづ)渡る見ゆ
  

【意味】
〈1155〉名児の海の夜明けの潮だまりよ、今日もまた、浦のあたりの磯にはさまざまな海の物が散乱していることであろうか。

〈1156〉住吉の遠里小野の榛の木で染めた着物が、だんだん色あせてくる。
 
〈1157〉潮の満ちる風が吹いてくるかも知れないから、吾児の海の明け方の潮干のうちに藻を刈ろう。

〈1158〉住吉の沖の白波、風が吹くとその白波が寄せられてくる浜は、見れば見るほど清らかなことだ。

〈1159〉住吉の岸の松の根元を洗い、打ち寄せてくる波の音の、何とすがすがしいことか。

〈1160〉難波潟の潮の引いた海岸に立って見渡すと、淡路島に向かって飛んでゆく鶴が見える。

【説明】
 「摂津にて作れる」歌。1155の「名児の海」の「名児」は所在未詳で、今の大阪市道頓掘の南、今宮、木津、難波の辺りの総名ではないかともいわれますが、摂津国兎原郡住吉郷(神戸市東灘区)とする説もあります。「朝明のなごり」は、明け方の潮が引いたあとい残っている海水や藻、貝類などのこと。「今日もかも」の「かも」は、疑問の「か」と詠嘆の「も」。「浦廻」は、海岸が湾曲して入り組んだところ。「乱れてあるらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。

 1156の「遠里小野」は、住吉南方の地で、今は「遠里小野(おりおの)」という町名になっています。大阪の難読地名としてしばしば登場しますが、もとは「ハリノオヌ」や「ウリノ」「瓜生野(うりうの)」と呼ばれ、それが訛って「遠里小野」に変ったともいわれます。「真榛」の「真」は、接頭語。「榛」は、カバノキ科の落葉高木ハンノキ。1157の「時つ風」は、時を定めて吹く風で、ここでは満潮に先立つ風。「吹かまく知らに」の「吹かまく」は「吹かむ」のク語法で、名詞形。吹くかもしれない。「吾児の海」は、所在未詳。「玉藻刈りてな」の「な」は、誘う意。

 1158の「沖つ白波」は、沖の白波。「清しも」の「も」は、詠嘆の終助詞。1159の「うちさらし」の「うち」は、接頭語。「さらす」は、布などを水洗いしたり日光に当てたりすることで、波が砂浜に寄せるさまを具象的にいったもの。「さやけさ」は、原文「清羅」で、「清らに」と訓む(ニは読添え)ものもあります。1160の「難波潟」は、大阪湾の一部、淀川河口付近の海。「見ゆ」は、見える。

巻第7-1161~1164

1161
家離(いへざか)り旅にしあれば秋風の寒き夕(ゆふへ)に雁(かり)鳴き渡る
1162
円方(まとかた)の港の洲鳥(すどり)波立てや妻呼びたてて辺(へ)に近づくも
1163
年魚市潟(あゆちがた)潮(しほ)干(ひ)にけらし知多(ちた)の浦に朝(あさ)漕(こ)ぐ舟も沖に寄る見ゆ
1164
潮(しほ)干(ふ)れば共(とも)に潟(かた)に出(い)で鳴く鶴(たづ)の声遠ざかる磯廻(いそみ)すらしも
  

【意味】
〈1161〉家を離れて旅に過ごしていると、秋風が寒く吹くこの夕暮れ時に、雁が鳴きながら渡っていく。
 
〈1162〉円方の港の洲にいる鳥たちが、沖の波が高くなってきたからか、妻を呼び立てて岸の方に近づいてくる。

〈1163〉年魚市潟は引き潮になったのだろう。知多の浦で朝方漕いでいた舟が、沖に向かって漕ぎ出して行くのが見える。

〈1164〉潮が引くといっせいに干潟に来て鳴いている鶴の、その鳴き声が今は遠ざかっていく。磯めぐりをするのだろう。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。これまでの吉野・山背・摂津など土地の明らかな歌に続く、それ以外の覊旅歌が大きな一群となって配列されています(90首)。土地の分類はなく、中には地名のないものもあります。明らかな中では、紀伊国の歌が最も多く、また旅の追憶もあります。なお「覊旅」の「覊」は、馬の手綱を意味します。

 1161の「旅にしあれば」の「し」は、強意の副助詞。「雁」は、北方からの渡り鳥。雁が鳴いて渡るという寂しい情景は『万葉集』に多くの類例が見られますが、雁はまた、雁信の故事を踏まえて、恋しい人への伝言を運ぶ使者とされることがあります。ここにもそうした連想が働いているかもしれません。覊旅歌の冒頭をかざる1首であり、家を離れた旅の嘆きを普遍的に歌っています。窪田空穂は、「古風な品のある歌」と評しています。

 1162の「円方」は、三重県松坂市東黒部町のあたり。「洲鳥」は、港(河口)にある砂州や水の浅い所に棲んでいる鳥の総称。「波立てや」の「や」は、疑問。後世の「立てばや」の古格。「近づくも」の「も」は、詠嘆。1163の「年魚市潟」は、名古屋市熱田区、南区あたりの海岸。年魚市は、尾張の国の郡名。「潮干」は、ここは朝の干潮。「けらし」は「けるらし」の縮まったもの。「知多の浦」は、知多半島北西部の海。「見ゆ」は、見える。1164の「共に」は、鶴が連れ立って。「磯廻す」は、磯のあたりをめぐって漁をすること。

巻第7-1165~1169

1165
夕(ゆふ)なぎにあさりする鶴(たづ)潮(しほ)満てば沖波(おきなみ)高み己妻(おのづま)呼ばふ
1166
いにしへにありけむ人の求めつつ衣(きぬ)に摺(す)りけむ真野(まの)の榛原(はりはら)
1167
あさりすと礒(いそ)に我(わ)が見しなのりそをいづれの島の海人(あま)か刈るらむ
1168
今日(けふ)もかも沖つ玉藻(たまも)は白波(しらなみ)の八重(やへ)をるが上(うへ)に乱れてあるらむ
1169
近江(あふみ)の海(うみ)港(みなと)は八十(やそ)ちいづくにか君が舟(ふね)泊(は)て草結びけむ
  

【意味】
〈1165〉夕なぎ時に餌をあさっている鶴たちは、潮が満ちてくると沖の波が高くなるので、わが妻を呼んで鳴き立てている。

〈1166〉ここが、昔の人々が実を探し求めては、衣の染料にしていたという真野の榛原です。
 
〈1167〉刈り取ろうとして私が見つけたなのりそなのに、どこの島の海人が刈り取ってしまったのだろう。

〈1168〉今日もまた、沖の玉藻は、押し寄せる白波に幾重にも折れて乱れているのであろうか。

〈1169〉近江の海にはたくさんの港があるけれど、あなたはいったいどこに舟を泊めてお泊まりになったのでしょう。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1165の「夕なぎ」は、夕方の海面の静かなさま。「あさり」は、餌をとること。「呼ばふ」は、呼ぶの連続。1166の「いにしへにありけむ人」は、古の人を広く指したもの。ただ、高市黒人夫妻のことを思い浮かべているのではないかとする見方もあります(巻第3-280・281)。「真野」は、神戸市長田区の東尻池町、酉尻池町、真野町一帯。「榛原」は、ハンノキの生えている原。

 1167の「あさり」は、ここは人のする漁の意。「なのりそ」は、ホンダワラの古名。「な告りそ(人に告げるな)」を掛けて、他人には教えない女性に譬えています。旅先で出会って情を交わした女性でしょうか。「海人か刈るらむ」の「海人」は、見知らぬ他の男、「刈る」は、女と情を交わす、の寓意。「らむ」は、現在推量。つまり、他の男に取られてしまったと言って嘆いています。

 1168の「今日もかも」の「かも」は、疑問。今日もまた前のように。「沖つ玉藻」は、沖の玉藻。「玉」は美称。旅先の海辺で親しんだ女性の譬えとする見方もあります。「八重」は、幾重にも重なって。「折る」は、波が海面に立っては崩れるさま。「乱れてあらむ」の「あらむ」は、推量。1169の「近江の海」は、琵琶湖。「八十ち」は、たくさんある。「ち」は、数を数える助数詞。「草結び」は、旅寝する。身の無事を祈るまじないと解するものもあります。

巻第7-1170~1174

1170
楽浪(ささなみ)の連庫山(なみくらやま)に雲(くも)居(ゐ)れば雨ぞ降るちふ帰り来(こ)我(わ)が背(せ)
1171
大御船(おほみふね)泊(は)ててさもらふ高島(たかしま)の三尾(みを)の勝野(かつの)の渚(なぎさ)し思ほゆ
1172
いづくにか舟乗(ふなの)りしけむ高島の香取(かとり)の浦ゆ漕ぎ出来(でく)る舟
1173
飛騨人(ひだひと)の真木(まき)流すといふ丹生(にふ)の川(かは)言(こと)は通へど舟ぞ通はぬ
1174
霰(あられ)降り鹿島(かしま)の崎(さき)を波(なみ)高み過ぎてや行かむ恋しきものを
   

【意味】
〈1170〉楽浪の連庫山に雲がかかると雨が降るといいます。早く帰っていらっしゃい、あなた。
 
〈1171〉大君のお召しの船が泊まって風待ちをした、高島の三尾の勝野の渚が思いやられる。

〈1172〉どこから舟出してきたのだろう。高島の香取の浦を漕ぎ出してやってくるあの舟は。
 
〈1173〉飛騨の人が立派な材木を流すという丹生の川。両岸から声を掛け合うことはできるが、舟は往来できない。
 
〈1174〉鹿島の崎を、波が高いからといって見過ごして行くことはできない、どうしようもなく心惹かれているのに。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1170の「楽浪」は、琵琶湖西南岸地方を言い、また近江国の古名でもあります。「楽浪の」は「滋賀」「大津」「長等」「比良」など近江各地の地名に冠して枕詞のように用いられ、ここの「連庫山」も同じです。ただし「連庫山」がどの山を指したのかは不明で、比良山や比叡山とする説があります。「降るちふ」の「ちふ」は「といふ」の転。「帰り来」は、早く帰っていらっしゃい、の意。作者は琵琶湖東岸に住んでいる女性で、夫は湖上で漁をする漁夫でしょうか。連庫山に雲がかかると雨になるという言い伝えがあったようで、あるいは湖岸に伝わる謡いものだったかもしれません。

 1171の「大御船」は、天皇の乗る船を尊んでの称。天智天皇の大御船か。「さもらふ」は、待機する。「高島」は、琵琶湖西北岸の滋賀県高島市。「三尾」は、同市の安曇川町三尾里。「勝野」は、同市勝野。「渚し」の「し」は、強意の副助詞。「思ほゆ」は、思われる。近江朝時代の歌で、天皇が、高島の三尾の勝野を目指しての船での遊覧があり、供奉できずに宮にとどまっている人が、思いやって作った歌とされます。1172の「舟乗り」は、舟に乗って漕ぎ出すこと。「香取の浦」は、高島にある浦。「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。官人の旅の宴席の記録か、高市黒人の覊旅歌の強い影響を受けていると見られます。

 1173の「飛騨人」は、飛騨国(岐阜県の北部)の人。古代、その地の人は庸調を免除され、飛騨の工匠(たくみ)と呼ばれて、建築や工作の技術者、木樵(きこり)として知られていました。「真木」は、ヒノキなどの良質の木材となる木。「丹生の川」は、所在未詳。「言は通へど」は、川幅が狭いので両岸から言葉を掛け合うことができること。「舟ぞ通はぬ」は、下流からここまで上ってくることができない、あるいは急流な上に上流からは木材が流れてくるので渡し舟が通わない意。覊旅の歌というより、丹生地方で謡われていた民謡のようであり、旅人が興味を持って採録したものかもしれません。

 1174の「霰降り」は、その降る音がかしましいの意で「鹿島」に掛かる枕詞。「鹿島の崎」は、常陸国(茨城県)鹿島郡の南端にあり、国土開発の建御雷神(たけみかづちのかみ)を祀る鹿島神宮のある地。鹿島神宮は常陸一の宮として古来きこえた社であり、こんにちも広大な自然林の中に鬱蒼とした神域を保っています。「波高み」は、波が高いので。「過ぎてや行かむ」の「や」は、疑問。寄らずに通り過ぎて行くのだろうかと、遺憾に思う心。「恋しきものを」は、恋しいところであるのに。公務で東国に下り、鹿島の海を船で渡る時の歌で、上陸して鹿島の神に奉斎しようとしていたのに、荒い波のためにできないと言って嘆いています。

巻第7-1175~1179

1175
足柄(あしがら)の箱根(はこね)飛び越え行く鶴(たづ)の羨(とも)しき見れば大和し思ほゆ
1176
夏麻(なつそ)引く海上潟(うなかみがた)の沖つ洲(す)に鳥はすだけど君は音(おと)もせず
1177
若狭(わかさ)なる三方(みかた)の海の浜(はま)清(きよ)みい往(ゆ)き還(かへ)らひ見れど飽かぬかも
1178
印南野(いなみの)は行き過ぎぬらし天伝(あまづた)ふ日笠(ひかさ)の浦に波立てり見ゆ [一云 飾磨江(しかまえ)は漕ぎ過ぎぬらし]
1179
家にして我れは恋ひむな印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)が上に照りし月夜(つくよ)を
  

【意味】
〈1175〉足柄の箱根の山を飛び越えて行く鶴の、その羨ましいのを見ると、大和が恋しく思われる。
 
〈1176〉海上潟の沖の砂州に鳥たちは群がって鳴き立てているけれど、あなたからは音沙汰もありません。

〈1177〉若狭にある三方湖の浜は清らかで、行きも帰りも見続けるが、見飽きることがない。
 
〈1178〉印南野はもう通り過ぎたようだ。はるか向こうの日笠の浦が波立っているのが見える。
 
〈1179〉家に帰ってからも私は恋しく思い出すだろう、印南野で見た、浅茅の上に照っていた月の光を。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1175の「足柄」は、神奈川県と静岡県の県境にある足柄山や足柄峠付近の地。「箱根」は足柄の地に属し、険阻で、難所とされました。当時は、険しい箱根山を迂回するため、その北側にある足柄峠越えの道が使われ、そこには「荒ぶる神が住む」といって恐れたといいます。「羨し」は、羨ましい。「大和し」の「し」は、強意の副助詞。「思ほゆ」は、恋しく思われる。『万葉集』には、足柄・箱根の歌が17首収められており、峠の恐ろしい神を詠んだ歌や、行き倒れになって死んだ人を悼む長歌も残されています。この歌のように、旅の途上で、恋しい家の方へ飛んでいく鳥を見て羨む歌は類想の多いものです。作者は、おそらく鶴と反対方向の東国に下っていたのでしょう。当時は、旅と言っても官命を帯びたものが殆どでしたから、この歌もその折に詠まれたものでしょう。言葉の様子や未練から考えて、高い地位の役人ではなく、その随行者あたりの人かとされます。

 1176の「夏麻引く」は「海上潟」の枕詞。「夏麻」は、網引をする時などに用いる網とされます。「海上潟」は、千葉県の地名。古代には、上総の国と下総の国とに海上郡がありました。「沖つ洲」は、沖にある洲。「すだけど」は、群がって鳴き立てているが。「音もせず」は、便りもない、訪れもない。海上潟に住み、男からの便り、訪れを待つ女の立場の謡い物かと言われます。1177の「若狭なる」は、若狭にある。「三方の海」は、福井県にある三方五湖のうち、最も南にある淡水湖の三方湖とされます。「浜清み」の「清み」は「清し」のミ語法で、浜が清らかなので。「い往き還らひ」の「い」は、接頭語。「還らひ」は、還ルの継続。行ったり来たりしながら。公務で若狭に下った京の人が、初めて三方五湖を見て詠んだ歌です。

 1178の「印南野」は、兵庫県の明石市から加古川市にかけての東播磨地域。西国への交通の要所として栄えた場所です。「行き過ぎぬらし」は、通り過ぎたようだ。「天伝ふ」は、空を伝いわたる意で「日」の枕詞。「日笠の浦」は、高砂市曾根町にある日笠山南の海岸ではないかとされます。「見ゆ」は、見える、目に入る。「飾磨江」は、姫路市飾磨川の河口付近の入江。公務で西方に赴いていた官人が、その帰途で、船が難波津に近づこうとする時の感と見られます。

 1179の「家にして」は、わが家にあって、家に帰ったら。旅にあって思う家郷。「恋ひむな」は、恋うことだろうよ。「な」は、詠嘆の終助詞。「浅茅」は、低く生えている茅草。「月夜」は、月。大和の家に向かおうとして、印南野を離れる時に名残を惜しんだ歌でしょうか。

巻第7-1180~1184

1180
荒磯(ありそ)越す波を畏(かしこ)み淡路島(あはじしま)見ずか過ぎなむここだ近きを
1181
朝霞(あさがすみ)止(や)まずたなびく龍田山(たつたやま)舟出(ふなで)せむ日は我(あ)れ恋ひむかも
1182
海人(あま)小舟(をぶね)帆(ほ)かも張れると見るまでに鞆(とも)の浦廻(うらみ)に浪立てり見ゆ
1183
ま幸(さき)くてまた還(かへ)り見む丈夫(ますらを)の手に巻き持てる鞆(とも)の浦廻(うらみ)を
1184
鳥じもの海に浮き居(ゐ)て沖つ波(なみ)騒(さわ)くを聞けばあまた悲しも
  

【意味】
〈1180〉荒磯を越していく波が恐ろしくて、淡路島を見ずに通り過ぎてしまうのだろうか。こんなに近い島なのに。
 
〈1181〉いつも朝霞がたなびいている龍田山。いよいよここを発って舟出する日には、さぞかしあの山を恋しく思うだろうなあ。
 
〈1182〉漁師の小舟が帆を張っているのかと見えるほど、鞆の浦に波が立っているのが見える。

〈1183〉無事に帰ってきてまた見よう、立派な男子が弓を射るとき手に巻いて持つ鞆、その名のとおりの鞆の浦よ。

〈1184〉鳥でもないのにまるで水鳥のように海に浮かびながら、沖の波が風に揺れている音を聞くと、悲しくてならない。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1180の「荒磯(ありそ)」は、アライソの約。磯は石の多い海岸。「波を畏み」は、波が恐ろしいので。「~を~み」は「~が~ので」と理由を示すミ語法。「見ずか過ぎなむ」は、見ずに通り過ぎてしまうのか。「ここだ」は、甚だしく、こんなにも。「近きを」の「を」は、詠嘆。明石海峡を航行中に詠まれた歌らしく、当時の船は櫂や櫓を用いた手漕ぎの船だったので、万葉人にとって明石海峡はまさに魔の海峡であり、その潮流を乗り切ることは容易でなかったとみられます。

 1181の「龍田山」は、生駒山地の最南端、信貴山の南に連なる大和川北岸の山々。「恋ひむかも」の「かも」は、詠嘆。作者が、大和の都から難波津へ向かい、西へ向けての船旅に出ようとして龍田山を越えている時の歌です。大和川に沿った龍田道を通って難波へ出るときに、龍田山は大和との別れをする山だったのです。峠あたりまで送ってきた人との挨拶の歌だったかもしれません。

 1182の「海人小舟」は、漁師が乗っている小舟。「帆かも張れる」の「かも」は疑問で、帆を張っているのだろうか。「鞆」は、現在の広島県福山市鞆町で、かつて瀬戸内海航路の要港で、潮待ちの港として栄えました。港の形が巴(ともえ)形をしていることから巴津(ともえつ)とも呼ばれたようです。当時の山陽道は海岸から十数キロ離れたところを通っていましたから、これらの歌は海上から見た景を詠んだとみられます。「浦廻は、入江の湾曲した所。「見ゆ」は、見える。国土を褒め称える国見歌には「・・・見れば~見ゆ」という表現様式があり、この歌も完全ではないものの、その様式を踏まえています。海人の舟が出漁し賑わうさまは、豊穣な海の証であり、これは見立てによってこの地を称えた土地褒めの歌です。

 1183の「ま幸くて」の「ま」は、接頭語。無事であって。「丈夫の手に巻き持てる」の2句は、「鞆」が弓を射る時に左手首に巻く皮の防具であることから「鞆(の浦)」を導く序詞。褒め言葉となっており、通過する土地を褒めながら海路の無事を祈っている歌です。1184の「鳥じもの」の「鳥」は水鳥。「じもの」は、まるで~のように、の意の接尾語。「沖つ波」は、沖の方の波。「あまた」は、非常に、甚だしく。「悲しも」の「も」は、詠嘆。地名はありませんが、備後の国から船出しての歌と見られます。当時の未発達な造船技術では風波を凌ぎ難かったため、聞こえる波音に対して大きな不安を抱いています。

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各巻の主な作者

巻第1
雄略天皇/舒明天皇/中皇命/天智天皇/天武天皇/持統天皇/額田王/柿本人麻呂/高市黒人/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/志貴皇子/長皇子/長屋王

巻第2
磐姫皇后/天智天皇/天武天皇/藤原鎌足/鏡王女/久米禅師/石川女郎/大伯皇女/大津皇子/柿本人麻呂/有馬皇子/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/倭大后/額田王/高市皇子/持統天皇/穂積皇子/笠金村

巻第3
柿本人麻呂/長忌寸意吉麻呂/高市黒人/大伴旅人/山部赤人/山上憶良/笠金村/湯原王/弓削皇子/大伴坂上郎女/紀皇女/沙弥満誓/笠女郎/大伴駿河麻呂/大伴家持/藤原八束/聖徳太子/大津皇子/手持女王/丹生王/山前王/河辺宮人

巻第4
額田王/鏡王女/柿本人麻呂/吹黄刀自/大伴旅人/大伴坂上郎女/聖武天皇/安貴王/門部王/高田女王/笠女郎/笠金村/湯原王/大伴家持/大伴坂上大嬢

巻第5
大伴旅人/山上憶良/藤原房前/小野老/大伴百代

巻第6
笠金村/山部赤人/車持千年/高橋虫麻呂/山上憶良/大伴旅人/大伴坂上郎女/湯原王/市原王/大伴家持/田辺福麻呂

巻第7
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第8
舒明天皇/志貴皇子/鏡王女/穂積皇子/山部赤人/湯原王/市原王/弓削皇子/笠金村/笠女郎/大原今城/大伴坂上郎女/大伴家持

巻第9
柿本人麻呂歌集/高橋虫麻呂/田辺福麻呂/笠金村/播磨娘子/遣唐使の母

巻第10~13
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第14
作者未詳

巻第15
遣新羅使人等/中臣宅守/狭野弟上娘子

巻第16
穂積親王/境部王/長忌寸意吉麻呂/大伴家持/陸奥国前采女/乞食者

巻第17
橘諸兄/大伴家持/大伴坂上郎女/大伴池主/大伴書持/平群女郎

巻第18
橘諸兄/大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/久米広縄/大伴坂上郎女

巻第19
大伴家持/大伴坂上郎女/久米広縄/蒲生娘子/孝謙天皇/藤原清河

巻第20
大伴家持/大原今城/防人等


(大伴家持)

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万葉の植物

オミナエシ
秋の七草のひとつに数えられ、小さな黄色い花が集まった房と、枝まで黄色に染まった姿が特徴。『万葉集』の時代にはまだ「女郎花」の字はあてられておらず、「姫押」「姫部志」「佳人部志」などと書かれていました。いずれも美しい女性を想起させるもので、「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説があります。

ケヤキ
ニレ科の落葉高木で、ツキ(槻)とも呼ばれます。幹が太くまっすぐに伸びて、先の方で枝が大きく広がり、成長すると、ほうきを逆さまに立てたような樹形になります。そうした樹形が好まれ、植栽や街路樹にも使われています。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

ススキ
秋の七草の一つであるススキはイネ科の 多年草で、十五夜の月見の際にハギと共に飾られます。古来、ススキの穂を動物の尾に見立てて「尾花」と呼び、『万葉集』では他に「はた薄」とか「はだ薄」と詠んでいる場合があります。また「茅(かや)」とも呼ばれ、農家で茅葺屋根の材料に用いたり、家畜の餌として利用したりしていました。

センダン
センダン科の落葉高木で、古名は「あふち」「おうち」。生長が早く、大きくなると20mにもなり、夏には大きな木陰を提供してくれます。初夏に淡紫色の花が咲き、 秋には多くの黄色い実をつけます。なお、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」の諺にある栴檀は、これとは異なる木です。

チガヤ
イネ科の草で、日当たりのよい場所に群生します。細い葉を一面に立て、白い穂を出します。新芽には糖分が豊富に含まれており、昔は食用にされていました。 チガヤの「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味で名付けられた名です。

ツユクサ
ツユクサ科の1年草で、道ばたなどでよく見られます。秋に可憐な青花を咲かせますが、朝に咲いて、昼過ぎにはしぼんでしまう短い命です。また、昔はツユクサで布を染めましたが、すぐに色褪せるため、移ろう恋心に例えられました。「月草」はツユクサの古名です。

ヌバタマ
アヤメ科の多年草。平安時代になると檜扇(ひおうぎ)と呼ばれるようになりました。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来します。そこから、和歌で詠まれる「ぬばたまの」は、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

ヤブコウジ
山橘(やまたちばな)ともいわれるヤブコウジは、夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。その実が美しいので、鑑賞用に栽培もされます。

和歌の修辞技法

枕詞
 序詞とともに万葉以来の修辞技法で、ある語句の直前に置いて、印象を強めたり、声調を整えたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする。序詞とほぼ同じ働きをするが、枕詞は5音句からなる。
 
序詞(じょことば)
 作者の独創による修辞技法で、7音以上の語により、ある語句に具体的なイメージを与える。特定の言葉や決まりはない。
 
掛詞(かけことば)
 縁語とともに古今集時代から発達した、同音異義の2語を重ねて用いることで、独自の世界を広げる修辞技法。一方は自然物を、もう一方は人間の心情や状態を表すことが多い。
 
縁語(えんご)
 1首の中に意味上関連する語群を詠みこみ、言葉の連想力を呼び起こす修辞技法。掛詞とともに用いられる場合が多い。
 
体言止め
 歌の末尾を体言で止める技法。余情が生まれ、読み手にその後を連想させる。万葉時代にはあまり見られず、新古今時代に多く用いられた。
 
倒置法
 主語・述語や修飾語・被修飾語などの文節の順序を逆転させ、読み手の注意をひく修辞技法。
 
句切れ
 何句目で文が終わっているかを示す。万葉時代は2・4句切れが、古今集時代は3句切れが、新古今時代には初・3句切れが多い。
 
歌枕
 歌に詠まれた地名のことだが、古今集時代になると、それぞれの地名が特定の連想を促す言葉として用いられるようになった。

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