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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第7)~その2

巻第7-1185~1186ほか

1185
朝なぎに真楫(まかぢ)漕(こ)ぎ出(で)て見つつ来(こ)し御津(みつ)の松原(まつばら)波越(なみご)しに見ゆ
1186
あさりする海人娘子(あまをとめ)らが袖(そで)通(とほ)り濡(ぬ)れにし衣(ころも)干(ほ)せど乾(かわ)かず
1188
山越えて遠津(とほつ)の浜の岩つつじ我(わ)が来るまでにふふみてあり待て
1189
大海(おほうみ)に嵐(あらし)な吹きそしなが鳥(どり)猪名(ゐな)の港(みなと)に舟(ふね)泊(は)つるまで
  

【意味】
〈1185〉朝なぎの海に左右の櫂を貫いて舟を漕ぎ出して、ずっと見続けてきた御津の松原が、今はもう波の向こうに見える。
 
〈1186〉藻を刈っている海人の娘らの、袖を通してぐしょ濡れになった衣は、干してもなかなか乾かない。

〈1188〉山を越えて遠く行く遠津の浜の岩つつじよ、私が再びここに帰って来るまで、つぼみのまま待っていてくれ。

〈1189〉大海に嵐よ吹くな、猪名の港にわれらの舟が着くまで。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1185の「真楫」の「真」は美称で、船の両舷に付ける櫂。「見つつ」は、目じるしとして見続けて。「御津」は、難波津を尊んでの称。「御津の松原」は、船の位置を知る目じるしになる海岸の地で、また、喜びや悲しみを誘う対象物だったとみえます。「波越しに見ゆ」は、波の向こうの彼方に見える。なお歌の解釈は、船が難波の港を離れていく心細さを歌ったものとしましたが、反対に、帰ってきて難波に近づいた時の喜びを歌っていると解するものもあります。

 1186の「あさり」は、ここでは海辺で藻や貝をとること。食料を捜し求める意の動詞アサルの名詞形。「海人娘子」は、海で漁をするおとめたち。海辺の漁師は海人(あま)とよばれ、元来、一族で集団的な力を持っていて、大和朝廷がわの人間からは、かなり特異な目で見られていました。ここでは、海辺を旅する京の人が、衣を濡らしている海人の娘らの光景を珍しく思って歌っています。

 1188の「山越えて」は、山を越えて遠くの意で「遠」にかかる枕詞。「遠津の浜」は、所在未詳。「岩つつじ」は、岩に間に咲いているつつじ。「ふふみて」は、つぼみのままで。「あり待て」は、存在して待っていよ、で命令。公務を帯びて旅する京の官人が、帰路で再び遠津の浜を通る時のことを思って歌っています。1189の「な吹きそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「しなが鳥」は、カイツブリの古名。雌雄相伴うことから「率(い)る」と同音の「猪名」に掛かる枕詞。「猪名の港」は、猪名川の河口、尼崎市の長洲あたり。海上にあって、港に着くまでの平穏を祈っています。

巻第7-1190~1193

1190
舟(ふね)泊(は)ててかし振り立てて廬(いほ)りせむ名児江(なごえ)の浜辺(はまへ)過ぎかてぬかも
1191
妹(いも)が門(かど)出入(いでいり)の川の瀬を早(はや)み我(あ)が馬(うま)つまづく家(いへ)思ふらしも
1192
白栲(しろたへ)ににほふ真土(まつち)の山川(やまがは)にわが馬なづむ家(いへ)恋ふらしも
1193
背(せ)の山に直(ただ)に向(むか)へる妹(いも)の山(やま)事(こと)許せやも打橋(うちはし)渡す
  

【意味】
〈1190〉舟を泊め、かしを振り立てて繋ぎ、ここで旅の宿りをしよう。この名児江の浜辺をこのまま通り過ぎるはできないことだ。

〈1191〉妻が門を出入りするという、その入(いり)の川の瀬が早くて、私の乗っている馬がつまずいた。家の妻が私のことを思っているのだろう。
 
〈1192〉白く映える真土の山川の険しさに、私の馬は行き悩んでいる、家の妻が私を恋しがっているらしい。

〈1193〉背の山に向かい立つ妹の山は、背の山の求婚を承諾したのだろうか。隔てる川に打橋が渡してある。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1190の「舟泊てて」は、舟を泊まらせて。「かし」は、船を繋ぎとめる棒杭。「廬り」は、旅の宿り。仮小屋を建てて泊まること。「名児江の浜」は、住吉の名児の入江(1153・1155)の浜か。「過ぎかてぬかも」の「かてぬ」は不能の意で、通り過ぎはできないことよ。前歌の結句「舟泊つるまで」を受けており、前歌が摂津の西方の猪名の港であるのに対し、この歌は南方の名児江であり、だんだんと大和に近づいていることが窺えます。

 1191からは陸路の旅の歌になります。「妹が門出」は、出入りする意で「入」に続け、地名の「入の川」を導く序詞とされます。「入の川」は、所在未詳。ただ、川の名が「出入の川」か「入の川」か不明で、その序詞も「妹が門」か「妹が門出」までか、明らかではありません。「瀬を早み」は「~を~み」のミ語法で、瀬が早いので。「家思ふらしも」の「らし」は、確かな根拠に基づく推量。「も」は、詠嘆。家の妻が旅先の夫を案じると、その心が通って、夫の乗馬が躓き、あるいは行き悩むということは、当時の信仰であったとみえ、それに触れている歌が少なくありません。

 1192の「白妙ににほふ」は、まっ白に輝くの意で、地名の「真土」を褒める譬喩式序詞。「真土の山川」は、真土山の中を流れる川で、今の落合川。真土山は、大和と紀伊の国境にある山で、今も奈良県と和歌山県の県境になっています。「馬なづむ」は、馬が急流によって渡り悩んでいること。「家恋ふらしも」の「らし」は、確かな根拠に基づく推量。「も」は、詠嘆。前歌と同様の信仰によって歌っています。大和から旅立つ都人にとって、北が奈良山を越えて渡る泉川(木津川)が、家郷との別れを示す場所だったように、南は真土山を越えて渡る落合川がそれだったようです。

 1193の「背の山」は、和歌山県伊都郡かつらぎ町の西端にあり、大化の改新の詔によって畿内国の南限と定められた標高168mの山。「妹の山」は、古くは名のない山で、紀の川の南岸の「背山」に向き合う山として名付けられたといいます。この「背の山」または「妹の山」は『万葉集』に15首も詠まれており、当時の旅人は、紀伊の国の睦まじい2つの山を見て郷愁に駆られたようです。「直に向へる」は、直接に向かい合っている。「事許す」は、求婚を承諾する意。「打橋」は、板を架け渡しただけの仮の橋、あるいは2つの山の中間の、紀の川の川中島である船岡山のことと解するものもあります。

巻第7-1196~1198

1196
つともがと乞(こ)はば取らせむ貝(かひ)拾(ひり)ふ我(わ)れを濡(ぬ)らすな沖つ白波(しらなみ)
1197
手に取るがからに忘ると海人(あま)の言ひし恋(こひ)忘れ貝(がひ)言(こと)にしありけり
1198
あさりすと礒(いそ)に棲(す)む鶴(たづ)明けされば浜風(はまかぜ)寒(さむ)み己妻(おのづま)呼ぶも
  

【意味】
〈1196〉お土産はと乞われたら渡そうと思って貝を拾っている。その私を濡らさないでおくれ、沖から寄せてくる白波よ。

〈1197〉手に取っただけで物思いを忘れられると海人の言った恋忘れ貝は、言葉だけにすぎなかった。

〈1198〉餌を求めて磯に棲み着いている鶴も、明け方になると浜風が寒いのか、自分の妻を呼んで鳴いている。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1196の「つともがと」の「つと」は、お土産、「もが」は、願望の終助詞。「乞はば」は、乞うたならば。「取らせむ」は、渡そうと思う。「沖つ白波」は、沖の方の白波。海岸にある美しい小石や貝が家に残る妻への土産となったのは、それらに海の霊威が宿るものと信じられていたためとされ、また、旅先で妻のために石や貝を拾うというのは、当時の官人にとって理想的な楽しさだったようです。

 1197の「からに」は、ただ~するだけで、の意の接続助詞。「恋忘れ貝」は、恋の苦しさを忘れられることができるという、二枚貝の貝殻の片方、または一枚貝。「言にしあり」は、言葉でいうだけで実がない意。実際に恋を忘れさせてくれる力のない、名前だけの貝だったということ。1198の「あさり」は、食料(餌)を捜し求める意の動詞アサルの名詞形。「明けされば」は、夜の明け方になると。「寒み」は、寒いので。「己妻」は原文「自妻」で、熟語として用例が見られるもの。「も」は、詠嘆。

 いずれの歌も、地名のない、都からの旅人の海辺での作ですが、ここの歌の前にある藤原卿の作(1196・1197)に付随した歌群として資料を同じくしていたとすれば、3首とも紀伊の国の海辺で詠まれたものになります。そしてこの歌群はさらに続きます。

巻第7-1199~1202

1199
藻刈(もか)り舟(ぶね)沖漕(こ)ぎ来(く)らし妹(いも)が島(しま)形見(かたみ)の浦に鶴(たづ)翔(かけ)る見ゆ
1200
我(わ)が舟は沖ゆな離(さか)り迎(むか)へ舟(ぶね)片待ちがてり浦ゆ漕(こ)ぎ逢はむ
1201
大海(おほうみ)の水底(みなそこ)響(とよ)み立つ波の寄らむと思へる礒(いそ)のさやけさ
1202
荒磯(ありそ)ゆもまして思へや玉の浦の離れ小島(こじま)の夢(いめ)にし見ゆる
  

【意味】
〈1199〉藻を刈り取る海人の舟が沖の方から漕いで来るらしい。妹が島の形見の浦に鶴が飛び交っているのが見える。

〈1200〉我が舟よ、沖の方に離れないでおくれ。迎えの舟をひたすら待ちながら、浦を漕いで行き逢おう。
 
〈1201〉大海の水底までもとどろかせて立つ高波が寄ろうとしている、この磯の何たるすがすがしさよ。

〈1202〉荒磯の景色も素晴らしいが、よりも勝っていると思うからか、玉の浦の離れ小島が夢に見えることだ。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1199の「藻刈り舟」は、海人が沖の海藻を刈り取る舟。「妹が島」は、和歌山市加太町の沖にある今の友ヶ島の古名かといいます。「形見の浦」は、妹が島が友ヶ島だとすると、加太の瀬戸を挟んだ対岸の入江。2つは別の地ではあるものの、やや遠く離れて見渡して一続きのものとして言っているようです。また、妹とそれに関係する形見ということを意識しているようでもあります。「鶴翔る見ゆ」は、浜にいた鶴の群れが、舟の近づくのに驚いて飛び立ったらしく、それが見えるという意。

 1200の「沖ゆな離り」の「ゆ」は、動作の起点・経由点を示す格助詞。「な」は、懇願的な禁止。沖の方へは離れて行くな、の意。「片待ちがてり」の「片待ち」は、ひたすら待ち。「がてり」は、しながら、がてら。「浦ゆ」は、浦を通過して、で、上の「沖ゆ」に対させたもの。地名はありませんが、「浦」は前歌の「形見の浦」でしょうか。「我が舟」は、前歌の「藻刈り舟」に対比していて、藻刈り舟は沖を漕いでいるけれども、我が舟は・・・と言っているようでもあります。

 1201の「水底響み」は、水底までとどろかせて。「立つ波の」は「寄らむと思へる」の主語。「磯」は、石の多い海岸。1202は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町あたりの歌。「荒磯ゆも」の「荒磯」は、岩石が現れた海岸、「ゆも」は、比較の対象を示す助詞。~よりも。「玉の浦」は、那智勝浦町の粉白(このしろ)の西南の入海、あるいは玉津島か。「夢にし見ゆる」の「し」は、強意の副助詞。「見ゆる」は、上の「や」の係り結び。夢に見えるという「離れ小島」を、別れて来た妻や、妻以外の意中の女の譬喩とする見方もあります。

巻第7-1203~1207

1203
礒(いそ)の上(うへ)に爪木(つまき)折り焚(た)き汝(な)がためと我(わ)が潜(かづ)き来(こ)し沖つ白玉(しらたま)
1204
浜清み礒(いそ)に我(わ)が居(を)れば見る人は海人(あま)とか見らむ釣りもせなくに
1205
沖つ楫(かぢ)やくやくしぶを見まく欲(ほ)り我(わ)がする里の隠(かく)らく惜しも
1206
沖つ波(なみ)辺(へ)つ藻(も)巻き持ち寄せ来(く)とも君にまされる玉寄せめやも〈一に云ふ 沖つ波 辺波(へなみ)しくしく寄せ来(く)とも〉
1207
粟島(あはしま)に漕ぎ渡らむと思へども明石(あかし)の門波(となみ)いまだ騒(さわ)けり
  

【意味】
〈1203〉磯の上で、冷えた体を小枝を折って焚いて暖めては、おまえに渡そうと私が海に潜って取ってきた沖の真珠だ、これは。

〈1204〉浜が清らかなので、それを愛でて一人で磯に立っていると、見る人は私のことを海人と思うだろうか。釣りなどしていないのに。

〈1205〉沖を漕ぐ舟の櫂はしだいに鈍ってきたけれども、私がいつまでも見たいと思っている里は遠ざかり、波間に隠れてしまうのが残念だ。
 
〈1206〉沖の波が岸辺の藻を巻きこんで寄せて来ようとも、あなた以上にすばらしい玉の寄せることがありましょうか。(沖の波や岸辺の波がしきりに寄せて来ようとも)

〈1207〉粟島に漕ぎ渡ろうと思っているが、明石の海峡の波はまだ騒いでいる。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1203の「磯」は、石の多い海岸または岩礁。「爪木」は、爪折った木で、たきぎにするための小枝。「沖つ白玉」の「沖つ」は、沖の。「白玉」は、真珠。旅から帰宅した夫が、妻への真珠の贈り物に添えて詠んだ歌とみえます。贈物に添える歌は、その物を自身が苦労して得たものだということを詠むのが型となっていました。

 1204の「浜清み」の「浜」は、岩石の多い「磯」に対する語。「清み」は「清し」のミ語法で、清いので。「見る人は」の原文「見者」で、「者」をヒトと訓む例が他にないため、「人」の字が脱落したかと言われます。「は」は、読み添え。「釣りもせなくに」は、釣りをしてもいないのに。1205の「沖つ楫」は、沖を漕ぐ舟の櫓や櫂。「やくやくしぶを」の原文は「漸々志夫乎」で、「やくやく」は、次第に。「しぶをは、未詳の語。鈍ってきたのに、の意とする説が有力です。馴染んできたけれど、と解するものもあります。海近い里に住む官人が船で出立したときの歌とみえます。

 1206はの「辺つ藻」は、海辺寄りに生えている藻。「巻き持ち」は、抱き込むようにして持って。「寄せめやも」の「や」は反語で、寄って来ようか、来はしない。「も」は、詠嘆。前の歌を受けて、沖へ去り行く男に歌いかけた歌。官人の旅中の宴席での、遊行女婦の作か。「一に云ふ」の「しくしく」は、しきりに。1207の「粟島」は、明石周辺または淡路島の西にあった島とされますが、現在、それに該当する島は海上に見当たりません。「明石の門」は、明石海峡。潮待ちの舟の歌で、騒いでいる波は満潮の時に立つ波でしょう。西へ向かう舟は満潮の潮の流れに乗って航行しますが、海峡を横断する舟は波の鎮まるのを待つ必要がありました。

巻第7-1208~1212

1208
妹(いも)に恋ひ我(あ)が越え行けば背(せ)の山の妹に恋ひずてあるが羨(とも)しさ
1209
人ならば母の最愛子(まなご)ぞ麻(あさ)もよし紀(き)の川の辺(へ)の妹(いも)と背(せ)の山
1210
我妹子(わぎもこ)に我(わ)が恋ひ行けば羨(とも)しくも並び居(を)るかも妹(いも)と背(せ)の山
1211
妹(いも)があたり今ぞ我(わ)が行く目のみだに我(わ)れに見えこそ言(こと)問はずとも
1212
足代(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花(さくらばな)散らずもあらなむ帰り来るまで
  

【意味】
〈1208〉妻を恋しく思いつつ山を越えて行くが、背の山は、妹の山と並んで、恋い焦がれることもなく立っているのが羨ましい。

〈1209〉もし人であったなら、母の最愛の子である。紀の川のほとりに立っている妹と兄の山は。

〈1210〉妻のことを恋しい思いで旅路を行くと、羨ましくも一緒に並んでいる、妹の山と背の山は。
 
〈1211〉妹(の山)の近くを今まさに過ぎて行こうとしている。せめて顔だけでも見せてほしい、言葉は交わさなくとも。

〈1212〉足代(あて)を過ぎてさしかかった糸鹿(いとか)の山の桜花よ、帰って来るまで散らずにいておくれ。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1208~1210にある「背の山」と「妹(の山)」は、大和国から紀伊国へ向かう要路、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山で、紀の川を挟んで北岸に「背の山」、南岸に「妹の山」が並んでいます。川を堰き止めるような地形になっており、南海道を往来する人々の目標となる山でした。当時の行程では、飛鳥からここまで2日、奈良からは3日かかりましたから、ここを通る京の旅人の多くは、二つの山の名に、旅愁、妻恋しさを感じたようです。この地を詠んだ歌は『万葉集』中14首あります。

 1208の「妹」は、京にいる妻。「越え行けば」は、紀伊から京への帰路と見えます。「恋ひずて」は、恋いずして。背の山は妹の山をすぐそばに見ているから恋い焦がれることもなくて、の意。「羨しさ」は、形容詞に「さ」が付いて名詞化したもの。

 1209の「人ならば」は、妹と背の山に対する仮想。「母が最愛子」は、母の最愛の子。両親ではなく「母が」となっているのは、夫妻同居せず、子は母といるだけだったことが背景にあるとされます。「麻もよし」は、麻を紀伊の特産とするところから「紀」の枕詞。作者は妹の山と背の山を見て、夫婦ではなく、若い兄妹を連想しています。窪田空穂は、「親の子に対する歌は比較的少ないので、その意味で特色のあるものである。美しく明るく、奈良京の人の歌とみえる。愛する子どもをもっており、心に懸かっているところからの連想であろう」と言っています。あるいは、母に許されて可愛がられている若い夫婦にみなした表現とも。

 1210の「我が恋ひ行けば」は、恋しく思ってそちらへ向かって行けば。「羨しくも」は、うらやましいことに。「も」は、感動的に強調する助詞。1208と全く同想の歌です。1211の「妹があたり」は、本来は「恋人の住む家の近くを」の意ですが、ここは「妹の山あたり」の意に転用しています。「目のみだに」は、せめて顔だけでも。「見えこそ」の「こそ」は、願望。「言問はずとも」は、物を言わなくても。1212の「足代」は、有田市・有田郡。「糸鹿の山」は、有田市糸我町の南にある山。「散らずもあらなむ」の「なむ」は、他に対する願望の終助詞。大和より逸早く咲く熊野路の峠の桜への感動と愛惜の思いをうたっています。山桜は葉と花とが同時に開きますが、今も、3月下旬ごろには、糸我峠の付近は、あちらこちらに山桜の開花が見られます。あるいは「桜花」は、その地の女性を譬えたものとも言われます。

巻第7-1213~1217

1213
名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり我(あ)が恋ふる千重(ちへ)の一重(ひとへ)も慰(なぐさ)めなくに
1214
安太(あだ)へ行く小為手(をすて)の山の真木(まき)の葉も久しく見ねば蘿(こけ)生(む)しにけり
1215
玉津島(たまつしま)よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問(と)はばいかに
1216
潮(しほ)満(み)たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手(て)渡る海人娘子(あまをとめ)ども
1217
玉津島(たまつしま)見てし良(よ)けくも我(わ)れはなし都に行きて恋ひまく思へば
  

【意味】
〈1213〉名草山はただ名前だけの山だったよ。私の恋心の、幾重にも積もったその一つでさえも慰めてくれないのだから。
 
〈1214〉安太に通じる小為手の山の立派な杉や檜も、久しく見ないうちに古木となって苔生していた。

〈1215〉玉津島の景色をよくご覧になっていらっしゃいませ。奈良のお家の方から様子を尋ねられたら、どうお答えになりますか。

〈1216〉潮が満ちて来たらば、どうするつもりなのだろうか。海神の手の上で行動している海人の娘たちは。

〈1217〉玉津島を見ても、よいことは私にはない。都に帰ったら、ここを恋しくなるだろうと思うと。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1213の「名草山」は、和歌山市南部の紀三井寺がある山。紀ノ川の南岸に沿って東西に延びる龍門山系の西端に位置する標高229mの山で、山頂からは『万葉集』に詠まれた「和歌の浦」「玉津島山」「雑賀崎」が眺望できます。「言にしあり」は、名だけのことで実が伴わない。「けり」は、詠嘆。「千重の一重も」は、千分の一も。名草山の「なぐさ」める山とは名ばかりで、逆にますます恋の苦しみが増してくる、と言っていますが、実のところは、優しく穏やかな名草山の佇まいに心惹かれ、旅愁を慰められたらしく、歌の内容に反して、明るく軽やかな調子で詠まれています。

 1214の「安太」は、1212の「足代」と同じ地か。「安太へ行く」は、安太の方へ行く途中にある、の意。「小為手の山」は、和歌浦方面から有田川へ出るまでの間にある山とされますが、未詳。「真木の葉も」の「真木」は、杉・檜などの立派な木。「も」には、真木だけでなく、その地の人も、という暗示があるようです。「蘿」は、ここではサルオガセ。針葉樹の古木の幹や枝に付着して糸状に伸びる地衣類の植物。時には数メートルも垂れ下がりますが、水分と光合成だけで生長し、他から栄養を奪うことはありません。

 1215の「玉津島」は、和歌山市和歌浦、玉津島神社の背後の山。古代はこの一帯は海であり、神社のある奠供(てんぐ)山を中心として、その東の鏡山、妹背山はもとより、北方の雲蓋(うんがい)山、妙見山、船頭山なども、当時はすべて海上の島でした。「いませ」は「行く」の尊敬語「います」の命令形。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「奈良なる人」は、京で旅人の帰りを待っている人。「待ち問はば」は、あなたを待ち受けて尋ねたら。土地の人(女性か)が旅行者に呼びかけているような歌です。

 1216の「いかにせむとか」は、どうしようとするだろうか。「海神」は、海の神。海を見馴れていない都の人が、海人の娘たちが干潮時にの沖の岩礁で漁りをしているのを眺め、海の怖ろしさから岩礁を海神の手と見て、もし満潮となってきたならばどうするだろうと心配している歌です。なお、「海神が手渡る」の「手」は「戸」の誤字だとして、「海の神の海峡を渡る」と解する説もあります。「海神(わたつみ)」は、わた・つ・みの3語からなり、「わた」は渡る意で、古来、海の彼方は他界と考えられており、「つ」は「天つ空」と同様「の」、「み」は「祇(み)」で神霊を意味します。『万葉集』では「海の神」または「海」そのものの意味に使い分けられています。

 1217の「見てし」の「し」は、強意の副助詞。「良けく」は「良し」のク語法で名詞形。良いこと。「恋ひまく」は「恋ひむ」のク語法で名詞形。玉津島に恋い焦がれるだろうこと。その苦しみを思うとそれを見ても良いことは一つもない、という言い方で玉津島の風光の素晴らしさを褒めています。1216・1217とも、1215の「玉津島よく見ていませ」という問いかけに歌い返したような歌です。

巻第7-1223~1226

1223
海(わた)の底(そこ)沖(おき)漕ぐ舟を辺(へ)に寄せむ風も吹かぬか波立てずして
1224
大葉山(おほばやま)霞(かすみ)たなびきさ夜(よ)更(ふ)けて我(わ)が舟(ふね)泊(は)てむ泊(とま)り知らずも
1225
さ夜(よ)更(ふ)けて夜中(よなか)の方(かた)におほほしく呼びし舟人(ふなびと)泊(は)てにけむかも
1226
三輪(みわ)の崎(さき)荒磯(ありそ)も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避(よ)き道(ぢ)はなしに
  

【意味】
〈1223〉沖を漕いでいるわが舟を、岸に向けて吹き寄せる風が吹いてくれないだろうか、波は立てないで。
 
〈1224〉大葉山に霞がかかり、夜も更けてきたというのに、われらの舟を泊める港が分からない。

〈1225〉夜が更けてきて夜中近くに、聞き取れないような声で呼び合っていた舟人たちは、どこかよい所に舟を泊めただろうか。

〈1226〉三輪崎は、荒磯も隠れて見えないほどに波が高くなってきた。どこを通って行けばよいのか、避けて行く道はないのに。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1223の「海の底」は、海の底の「奥(おき:水の深い所)」の意で「沖」に掛かる枕詞。「沖漕ぐ舟」は、上掲の解釈では作者自身の乗っている舟としていますが、岸にいて沖を漕ぐ舟を見ている人の心だとして、さらに寄りつかない男に譬え、「辺に寄せむ」と、こちらに来させるように仕向けてほしいとの寓意を含む女の歌とする見方もあります。「風も吹かぬか」の「ぬか」は、希求の意。

 1224の「大葉山」は、紀伊国の山とされますが、所在未詳。海に近く、航海の目標になった山と見られます。一方、近江国の琵琶湖西岸の山とする説もあり、巻第9-1732重出歌(碁師の歌)が、近江国の高島郡・滋賀郡で詠まれた歌と並んでいるので、あるいは琵琶湖の西岸付近を航行する時の作かもしれません。「さ夜」の「さ」は、接頭語。「霞」は、ここは夜霧。「知らずも」の「も」は、詠嘆。

 1225の「夜中の方に」は、夜中近くになって。近江国高島郡の地名とする説もあり、『人麻呂歌集』の「高島にて作る歌」と題する「旅なれば夜中をさして照る月の高島山に隠らく惜しも」(巻第9-1691)の「夜中」と同じ地ではないかといいます。「おほほしく」は、はっきりしない。「呼びし舟人」を、助けを求めている舟人だとして、その声が聞こえなくなって、どうしたのだろう、無事に泊めることができたのだろうかと心配している歌とも解せます。

 1226の「三輪の崎」は、和歌山県新宮市三輪崎か。「荒磯」は、岩石の多い海岸。「いづくゆ」の「ゆ」は、動作の起点・経由点を示す格助詞。「避き道」は、避けて行く道、回り道。窪田空穂はこの歌について、「海辺生活の実際に即したもので、文芸性を念としたものではない。しかし一首の歌としての感の上からいうと、文芸性を志した歌よりもかえって感の強いものがある。ここにわが和歌の性格の一面がある」と述べており、1225の歌もその例だと言っています。

巻第7-1227~1231

1227
礒に立ち沖辺(おきへ)を見れば藻(め)刈り舟(ぶね)海人(あま)漕ぎ出らし鴨(かも)翔(かけ)る見ゆ
1228
風早(かざはや)の三穂(みほ)の浦廻(うらみ)を漕ぐ舟の舟人(ふなびと)騒(さわ)く波立つらしも
1229
我(わ)が舟は明石の水門(みと)に漕ぎ泊(は)てむ沖辺(おきへ)な離(さか)りさ夜(よ)更けにけり
1230
ちはやぶる金(かね)の岬を過ぐれどもわれは忘れじ志賀(しか)の皇神(すめかみ)
1231
天霧(あまぎ)らひ日方(ひかた)吹くらし水茎(みづくき)の岡(をか)の水門(みなと)に波立ちわたる
  

【意味】
〈1227〉磯に立って沖を見れば、海藻を刈り取る舟を海人が漕ぎ出したらしい。それに驚いて鶴が空高く飛ぶのが見える。
 
〈1228〉風の激しい三穂の浦あたりを漕いでいる舟の舟人たちが騒ぎ立てている。波が立ち始めたのだろうか。

〈1229〉この舟は明石の水門に停泊しよう。沖の方へ漕ぎ離れるなよ、夜はもう更けた。

〈1230〉神威の強い金の岬を無事に過ぎて行こうとも、私は忘れまい、志賀島の神様のおかげであることを。
 
〈1231〉空は一面に霧がかかったように曇り、東風が吹いているのか、岡の港に波が押し寄せてきた。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1227の「磯」は、石の多い海岸または岩礁。「沖辺」は、沖の方、沖のあたり。「藻刈り舟」は、海人が沖の海藻を刈り取る舟。「漕ぎ出(づ)らし」のヅはイヅの縮まったもの。「らし」は、確信的な推量の助動詞。「立ち・・・見れば・・・見ゆ」と、国見歌、国褒め詞章の伝統的な形式を用いています。1228の「風早の」は、風が激しく吹く地である、という意で「三穂」に掛かる枕詞。「三穂の浦廻」は、和歌山県日高郡美浜町三尾付近の海岸。「らしも」の「も」は、詠嘆。

 1229の「明石の水門」は、明石市明石川河口の船着場。「ミト」は「ミナト」と同じ。「な離り」の「な」は禁止で、船頭に命じている形になっています。なお、この歌とそっくりで地名だけ異なる歌が巻第3-274にあります。「高市連黒人の覊旅の歌」のうちの一首で、こちらは琵琶湖西岸の比良の港。高市黒人の歌の方が先に作られたもので、この有名な歌人の旅の歌が、後の人々に愛誦され、地名だけ入れ替えた替え歌を生ませたものと考えられています。この明石の舟旅の一首を起点として、次に筑紫の舟旅の歌が続きます。

 1230の「ちはやぶる」は、神意を強く表す意で枕詞に使われますが、ここは枕詞ではなく、「金の岬」の状態を表現したもの。「金の岬」は、福岡県宗像郡鐘の岬で、玄界灘に面する航海の難所。「過ぎぬとも」は、たとい通り過ぎることができても、の意。「志賀」は、福岡市東区志賀島。「皇神」は、尊い神で、そこに祀ってある海神社の三座の神。1231の「天霧らひ」は、空一面に霧がかかって、空が曇って。「日方」は、日の方から吹く風で、東南風とされますが、異説もあります。「水茎の」は、瑞々しい茎が生えている意で「岡」の枕詞。「岡の水門」は、福岡県の遠賀川河口の港。大船が停泊できる良港で、古代から機械船ができる前まで要港として栄えたといいます。

巻第7-1232~1236

1232
大海(おほうみ)の波は畏(かしこ)ししかれども神を斎祀(まつ)りて舟出(ふなで)せばいかに
1233
娘子(をとめ)らが織(お)る機(はた)の上を真櫛(まぐし)もち掻上(かか)げ栲島(たくしま)波の間(ま)ゆ見ゆ
1234
潮(しほ)早み磯廻(いそみ)に居(を)れば潜(かづ)きする海人(あま)とや見らむ旅行く我(わ)れを
1235
波高しいかに楫(かぢ)取り水鳥(みづどり)の浮き寝やすべきなほや漕(こ)ぐべき
1236
夢(いめ)のみに継ぎて見えつつ小竹島(しのしま)の磯(いそ)越す波のしくしく思ほゆ
  

【意味】
〈1232〉大海の荒波に遭遇するのは恐ろしいけれど、海の神を祭って無事をお祈りをして舟出したらどうだろう。
 
〈1233〉乙女たちが機を織るときに、立派な櫛で上糸をくしけずってたくしあげる、それを名とした栲島(たくしま)が波の間に見える。
 
〈1234〉潮が速いので、磯辺にいると、人々は水に潜る海人と見るだろうか、この旅行く私を。

〈1235〉波が高いな、おいどうだい船頭さん、しばらく水鳥のように波に身を任せて浮き寝をしようか、それとももっと漕ぎ続けようか。

〈1236〉夢ばかりに続いて現れてくるあの人、小竹島の磯を越えてくる白い波が、しきりに思われます。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1232の「畏し」は、恐ろしい。「神を斎祀りて」は、忌みつつしんで神を祭って。「いかに」は、いかにあらんの意。船出に際し、船頭などに問いかけた言葉なのでしょう。1233の「真櫛」の「真」は、接頭語。「掻上げ」は、カキアゲの縮まったもの。「娘子らが~掻上げ」までが、機(はた)にかけた織糸をすき上げ整える意の「たく」と同音で、「栲島」を導く序詞。「栲島」は所在未詳ながら、松江市の大根島であるとの説があります。大根島は、中海に浮かぶ小さな火山島です。「波の間ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞で、波間を通して。

 1234の「潮早み」は、潮が速いので。「磯廻」は、入江。「潜きする」は、水中に潜って魚介などをとること。「海人とや見らむ」の「や」は、疑問の助詞。1235の「いかに」は、舵取り(船頭)にいかにせんと問いかけた言葉。「水鳥の」は「浮き寝」に掛かる比喩的枕詞。「浮き寝」は、水上に浮かんで寝ること。「や」は、疑問の助詞。「なほ」は、さらに、もっと。航路にあっても夜は上陸して寝るものでしたが、日が暮れて波高く、危険で岸に近づけなかったと見えます。こうした差し迫った状況下で、事の相談を歌でする例は多くあります。

 1236の「夢のみに」は、夢ばかりに。「継ぎて見えつつ」の「つつ」は、反復の助詞。「小竹島」は所在不明で、愛知県の知多半島先端にある篠島とする説がありますが、続きの歌の配列から、近江の湖辺ではないかとされます。「磯越す波」は、岸の石を越えて寄せる波。「しくしく」は、しきりに。重なる意の動詞「しく」を二つ重ねてできた副詞。「思ほゆ」は、思われる。

巻第7-1237~1241

1237
静(しづ)けくも岸には波は寄せけるかこれの屋(や)通し聞きつつ居(を)れば
1238
高島(たかしま)の安曇(あど)白波(しらなみ)は騒(さわ)けども我(わ)れは家思ふ廬(いほ)り悲しみ
1239
大海(おほうみ)の礒(いそ)もと揺(ゆす)り立つ波の寄せむと思へる浜の清(きよ)けく
1240
玉櫛笥(たまくしげ)見諸戸山(みもろとやま)を行きしかば面白くしていにしへ思ほゆ
1241
ぬばたまの黒髪山(くろかみやま)を朝越えて山下(やました)露(つゆ)に濡(ぬ)れにけるかも
 

【意味】
〈1237〉実に静かに波は寄せているものだ。この旅宿の部屋の壁越しに外の音を聞いていると。
 
〈1238〉高島の安曇川の白波が騒がしいけれども、私はただ家のことばかりを思っている、旅寝の床が悲しくて。
 
〈1239〉大海の岩礁の根元を揺り動かさんばかりに波が打ち寄せる浜の、何と美しいこと。

〈1240〉御室処山(みむろとやま)を行けば、神秘的であり、はるか神代のことが思われる。
 
〈1241〉黒髪山を朝越えして、山かげに落ちてくる露にしとどに濡れてしまったよ。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1237の「静けくも」は、実に静かに。「寄せけるか」の原文「縁家留香」はヨリケルカとも訓まれますが、波にはヨスの方が通例。「か」は、詠嘆の助詞。「これの屋通し」は、この旅宿(仮小屋)の壁越しに。危険の多い旅をしながら、夕刻になって陸地に上がり、夜のしじまの中で、岸を打つ浪音に耳を傾けています。前後が近江国の歌なので、琵琶湖で詠んだ歌とされます。窪田空穂は、「取材としてはじつに平凡きわまるものであり、詠み方も素朴に自然にいってあるだけで何の奇もないのであるが、この歌はじつに魅力をもったものである。・・・時代を超えうる作である」と評しています。

 1238の「高島の安曇」は、滋賀県高島市の安曇川。「騒けども」は、川の波が騒がしいけれども。「家」は、家郷の妻。「廬り」は、旅人が夜寝るために設ける仮小屋。「悲しみ」は、悲しいので。この歌は、人麻呂関係の旅の歌に2首(巻第2-133、巻第9-1690)の類歌・類想歌を持っています。1239の「磯もと」は、磯の岩礁の根元。「寄せむ」は「寄らむ」と訓むものもありますが、波の場合は「寄す」の方が通例。「清けく」は、形容詞「清し」のク語法で名詞形。

 1240の「玉櫛笥」の「玉」は美称で、「見」の枕詞。櫛笥には身(み)と蓋とがあり、立派な櫛笥の身の意で、同音の「見」に掛かります。「見諸戸山」は、奈良県桜井市の南東にそびえる三輪山とされます。「行きしかば」は、行ったところ。「面白くして」は、感興の深い意。「思ほゆ」は、思われる。明日香から吉野方面への旅の歌と見られます。1241の「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「黒髪山」は、奈良市黒髪佐保山にある小山。「山下露」は、山の木の下露。「濡れにけるかも」は、濡れたことだなあと強く詠嘆したもので、黒髪山の趣を褒めながらも、旅の労苦を嘆いています。

巻第7-1242~1246

1242
あしひきの山行き暮(ぐ)らし宿(やど)借らば妹(いも)立ち待ちて宿貸さむかも
1243
見わたせば近き里廻(さとみ)をた廻(もとほ)り今ぞ我(わ)が来る領巾(ひれ)振りし野に
1244
娘子(をとめ)らが放(はな)りの髪を由布(ゆふ)の山(やま)雲なたなびき家のあたり見む
1245
志賀(しか)の海人(あま)の釣舟(つりぶね)の綱(つな)堪(あ)へなくに心に思ひて出(い)でて来にけり
1246
志賀の海人の塩焼く煙(けぶり)風をいたみ立ちは上らず山にたなびく
 

【意味】
〈1242〉山路を一日歩き暮らし、宿を借りようとしたら、若く美しい娘が門に立って待っていて、宿を貸してくれるだろうか。

〈1243〉見渡せば間近に見える里のあたりなのに、ぐるりと回って今ようやく旅を終えてたどり着いた。出かける時に妻が領巾を振って別れを惜しんだ野に。
 
〈1244〉乙女たちが解き放った髪を結うという、その名の由布の山に、雲よたなびかないでくれ。我が家のあたりを見ていたいから。
 
〈1245〉志賀の漁師の釣り舟を引き留める綱が荒波に耐えられないほどに、別れに堪え難く思いながら家を出てきてしまった。
 
〈1246〉志賀の漁師が藻塩を焼く煙が、風が激しく吹くので、上にのぼらず山の方へたなびいている。

【説明】
 「覊旅(たび)にして作れる」歌。1242の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山行き暮らし」は、山を旅して日暮れを迎えて。「宿」は、旅宿りする場所。「妹」は、妻や恋人の意ながら、ここでは宿の未知の女。「立ち」は、門に出で立ち、の意。「かも」は、疑問。空想している歌ですが、山中に仙女が住んでいて、人界の男と結婚するという当時の神仙思想が影響していると見られます。

 1243の「里廻を」は、里のあたりなのに。「た廻り」の「た」は接頭語、「廻り」は、回り道をして、行ったり来たりして。「今ぞ」の「ぞ」は、係助詞。「領巾」は、女性が襟から肩にかけた細長い白布。原文「礼巾」とあるのは、それが古くは呪術儀礼にも用いられたので、この字を当てているとされます。遠い旅路からようやく帰って来て、妻との別れをした野に近づいた時の感慨を歌ったもので、本来は人目を避けて隠り妻を訪れる時の歌だったかもしれません。

 1244の「放りの髪」は、15、6歳ごろまでの童女の、髪を垂らした髪型。成人するとそれを結い上げることから、上2句は、同音の掛けことばで「由布」を導く序詞。「由布の山」は、大分県の別府温泉の西方にある由布岳(標高1,583m)。「雲なたなびき」の「な」は、禁止。豊後の国から東へ旅立つ人の、家郷のシンボルとしての由布岳見納めようとする歌です。また序詞からは、放りの髪を彷彿させる若妻が里にあることが察せられます。ここから3首は九州の歌となっています。

 1245の「志賀」は、博多湾に浮かぶ志賀島。現在は砂州で陸続きになっています。上2句は、釣り舟の綱が玄界灘の荒波に切れないでいることができないように、の意で「堪へなくに」を導く譬喩式序詞。「堪へなく」は「堪へず」のク語法で名詞形。原文「不堪」で、アヘカテニと訓むものもあります。窪田空穂は、「京の官人の志賀の地へ来ての歌と取れる。それだと『出でて来にけり』は京のわが家で、故郷を思った心である」と言っています。

 1246の「風をいたみ」は「~を~み」のミ語法で、風がひどいので。「塩焼く煙」は、塩を取るために火を燃やす煙。土器や土釜に入れた海水を煮沸して塩を取り出すため、長時間にわたって薪を燃やし続ける必要がありました。志賀は、製塩で有名だったといいます。なお、この歌の左注に「右の件の歌は、古集の中に出づ」とあります。古集がどういう集か不明で、他に「古歌集」とあるのと同一かどうかも不明です。また「右の件の歌」がどの範囲を指すかについても明らかではありません。

 

巻第7-1251~1255

1251
佐保川(さほがは)に鳴くなる千鳥(ちどり)何しかも川原(かはら)を偲(しの)ひいや川(かは)上(のぼ)る
1252
人こそばおほにも言はめ我(わ)がここだ偲(しの)ふ川原を標(しめ)結(ゆ)ふなゆめ
1253
楽浪(ささなみ)の志賀津(しがつ)の海人(あま)は我(あ)れなしに潜(かづ)きはなせそ波立たずとも
1254
大船(おほふね)に楫(かぢ)しもあらなむ君なしに潜(かづ)きせめやも波立たずとも
1255
月草(つきくさ)に衣(ころも)ぞ染(そ)むる君がため斑(まだら)の衣(ころも)摺(す)らむと思ひて
  

【意味】
〈1251〉佐保川で鳴いている千鳥よ、いったいなぜそんなに川原を慕って、ますます上流に上っていくのでしょう。

〈1252〉他人は何でもない川原のように言うけれど、私がこんなにも恋い慕っている川原なのです。標など結って入れないようには決してしないでください。
 
〈1253〉楽浪の志賀津の海人よ、私が一緒にいないときは水に潜るなよ。たとえ波が立たずに穏やかであっても。

〈1254〉大船とそれを動かす櫂がほしい。それがあったら、あなたがいない時に水に潜って漁などするものですか。たとえ波が立たなくても。

〈1255〉露草で衣を摺り染めにしている。あの方のため、斑模様の美しい着物に仕立てようと思って。

【説明】
 1251から1267までは「右の十七首、古歌集に出づ」とあり、1251と1252は「鳥を詠む」問答歌。1251の「佐保川」は、奈良市・大和郡山市を流れる川。「何しかも」の「し」は強意、「か」は疑問、「も」は詠嘆の助詞。どうして~なのか。「偲ひ」は、思慕して、賞美して。「いや」は、ますます。1252の「人」は、他人。「おほに」は、おおよそに、いい加減に。「ここだ」は、こんなにも甚だしく。「標結ふ」は、自分の領分であることを示すため、標識として杭を打ち縄を張ることで、それがある物は犯すことができないものでした。「な」は、禁止の助詞。「ゆめ」は、決して。この問答は実は恋の歌であり、人に憚るところがあるためか、男を千鳥に、女を川原に譬えて表現しています。川原である女が、千鳥である男の気持ちを訝るのに対し、千鳥である男は、自分の強い気持ちを訴え、標を結うようなことは決してしないでくれと言っています。
 
 1253と1254は「海人を詠む」で、小舟で漁をする海人と、その安全を気遣う保護者的立場の人との問答歌。1253の「楽浪」は、琵琶湖の西岸から南岸にかけての地。「志賀津」は、近江の大津にあった船着き場。「潜き」は、水に潜って漁をすること。「なせそ」は、するな。「波立たずとも」は、たとい波が立たなくとも。1254の「楫」は、船を漕ぎ進めるための櫓、櫂などの道具。「し・も」は、ともに強意の助詞。「あらなむ」の「なむ」は、願望。「潜きせめやも」の「や」は反語で、潜きをしようか、しない。男女関係の寓意があると見られ、1253は「海人」を女に喩え、勝手なふるまい(浮気)をしないでほしいと訴えた男の歌で、1254は、女が「大船」と「楫」を男に譬え、安心できる深い愛がほしい、つまり夫婦同棲を望んでいる歌だとされます。同じ作者によって作られた問答という見方もあり、宴席などで寓意を込めて詠まれたものだったのかもしれません。

 1255は「時に臨む」歌、すなわち、その時々に臨んで思いを述べた歌。「月草」は、ツユクサ(露草)の古名。日本各地の道ばたや畑地などのやや湿った所に群生する一年草で、夏に藍色の花が咲き、色が美しく、衣に摺る染料にしました。「斑の衣 」は、原文「綵色衣」で訓みが定まらず、「いろどりごろも」と詠むものもあります。窪田空穂は、「上代は身分のある女も、夫の衣はすべて自身で織り、仕立て、また染めもしたので、露草の季節に美しい藍色に摺るということは、妻としての喜びだったのである。『月草に衣ぞ染むる』と力を籠めて言い出しているのは、その喜びの表現である」と述べています。女が、そこで何をしているのかと、問いかけられて答えているような歌です。

巻第7-1256~1261

1256
春霞(はるかすみ)井(ゐ)の上ゆ直(ただ)に道はあれど君に逢はむとた廻(もとほ)り来(く)も
1257
道の辺(へ)の草深百合(くさぶかゆり)の花笑(はなゑ)みに笑みしがからに妻と言ふべしや
1258
黙(もだ)あらじと言(こと)のなぐさに言ふことを聞き知れらくは悪(あ)しくはありけり
1259
佐伯山(さへきやま)卯(う)の花持ちし愛(かな)しきが手をし取りてば花は散るとも
1260
時ならぬ斑(まだら)の衣(ころも)着欲(きほ)しきか島(しま)の榛原(はりはら)時にあらねども
1261
山守(やまもり)の里(さと)へ通ひし山道(やまみち)ぞ茂(しげ)くなりける忘れけらしも
  

【意味】
〈1256〉水汲み場から家にまっすぐ道は通じていますが、あなたにお逢いしたいと思って回り道をしてやって来ました。

〈1257〉道のほとりの繁みに生えている百合の花が咲くように、ちょっと微笑みかけたからといって、妻とは決めてかからないでください。
 
〈1258〉黙っていてはまずいだろうと口先だけの気休めに言う言葉を、そうと知りつつ聞いているのは気持ちの悪いものです。

〈1259〉佐伯山で卯の花を手にしていた可愛いあの子の手を握ることができたら、花は散ってもかまわない。

〈1260〉時季外れの斑模様の衣だが、ぜひ着てみたいものだ。島の榛の林はまだ実をつける時期ではないけれども。

〈1261〉山守が里へと通っていた山道は、草が茂ってしまった。妻を忘れてしまったのだろうか。

【説明】
 1251から1267までは「右の十七首、古歌集に出づ」とあり、ここの1256~1261は「時に臨む」すなわち、その時々に臨んで思いを述べた歌。

 1256の「春霞」は、春霞がかって「いる(動かない)」の意で、同音の「井(ゐ)」にかかる枕詞。「井」は、泉や流水から水を汲みとるところ。「井の上ゆ」の「ゆ」は、~から、~を通って。「直に」は、まっすぐに。「た廻り」の「た」は、接頭語、「廻り」は、回り道をして、迂回して。窪田空穂は、「上代は飲用水を汲むのは娘の役と定まっていたので、この作者もそれをしているのである。歌は、水を汲んで家へ帰る途中の心で、井から家へまっすぐに道は続いているのであるが、その娘は同じ部落の中に言い交わしている男があるので、ひょっと顔が見られようかと頼んで、わざと男の家のあるほうの道へと、まわり道をして行くというのである。外出の自由でなかった若い女としてはきわめて自然な、可憐な心である」と解説しています。

 1257の「道の辺」は、道のほとり、道ばた。「草深百合」は、草丈の長い繁みで咲く百合。万葉の歌に出てくる百合は、こんにちのヤマユリです。その花は目立ちますが、草の繁みに生えているので、たやすく摘み取ることはできません。「花笑みに笑みし」は、原文「花咲尓咲之」で、花が咲くことを笑みの比喩にしているもの。「からに」は、ちょっと~だけで。「言ふべしや」の「や」は反語で、言ってよいだろうか、言うべきではない。男の求婚にはっきり承諾したわけでもないのに、ちょっと微笑みかけただけで勘違いし、なれなれしく振舞う男に、女が贈った歌です。ただ、「笑みしがからに」ではなく「笑まししからに」と訓んで、「相手の女が道の辺の草深百合の花が開いたように、にっこりとお笑いになっただけで、その人を妻と呼べようか」と、反語、不安疑問を意味する男の歌と解する説もあります。

 1258の「黙あらじと」は、黙っていてはまずいだろうと思って。「黙」は、だまっていること。「言のなぐさ」は、口先だけの気休め。「聞き知れらくは」は、聞き知っていることは。「知られく」は「知れり」のク語法で名詞形。「悪しくはありけり」は、よい気持ちのしないことであった。ただし、「悪しく」の原文「少可」の訓はさまざまあり、ツラク、カラクなどと訓む説があります。男の口先だけの気休めの言葉に気づいた時の、女の歌ですが、男の歌と見るものもあります。

 1259の「佐伯山」は所在未詳ながら、安芸(広島市佐伯区廿日市市あたり)、あるいは摂津(大阪府池田市)の山かと言われます。「持てる」は、持っている。「愛しきが手」の「が」は所有格の助詞で、愛しい人の手。「散るとも」は、散ろうとも、で、かまわぬの余意を含んでいます。初夏のころ、卯の花をかざす歌垣で女を得ようとする男の歌とされます。

 1260の「時ならぬ」は、時季はずれの。第4・5句によると、まだ榛の木の実の時季には早い、の意。「斑の衣」は、濃淡の一様でない衣で、花汁で斑に摺った衣。「着欲しきか」の「か」は詠嘆の助詞で、着たいことだなあ。「島の榛原」は、奈良県明日香村島の庄にあった榛(ハンノキ)の原。「時にあらねども」は、まだ榛の実の熟する秋ではないが。相手の女がまだ婚期に達していないことの隠喩となっており、それでも我がものにしたいと言っている男の歌です。

 1261の「山守」は山の番人のことですが、ここでは男を呼んでそう言っています。山を越えて通ってくるからでしょう。「茂くなりける」は、山道に草が生い茂ったことに気づいての詠嘆。「忘れけらしも」の「けらし」は、過去の事実に基づく確実性の高い推定。「も」は、詠嘆。男が里にいる妻と疎遠になったため、その道に草木が茂ってしまったと言って恨んでいます。

巻第7-1262~1267

1262
あしひきの山椿(やまつばき)咲く八(や)つ峰(を)越え鹿(しし)待つ君が斎(いは)ひ妻(づま)かも
1263
暁(あかとき)と夜烏(よがらす)鳴けどこの岡の木末(こぬれ)の上はいまだ静けし
1264
西の市(いち)にただ独り出でて目並(めなら)べず買ひてし絹の商(あき)じこりかも
1265
今年行く新島守(にひしまもり)が麻衣(あさごろも)肩のまよひは誰(た)れか取り見む
1266
大船(おほふね)を荒海(あるみ)に漕(こ)ぎ出(で)や船たけ我(わ)が見し児(こ)らが目見(まみ)はしるしも
1267
ももしきの大宮人(おほみやひと)の踏みし跡(あと)ところ 沖つ波(なみ)来(き)寄らずありせば失(う)せずあらましを
  

【意味】
〈1262〉山椿が咲く峰々を越えて鹿を狙っているあなた。その帰りの無事を祈って待つ身の妻なのですね、私は。
 
〈1263〉もう暁だと夜烏がしきりに鳴くが、この山の木々の梢は。いまだしんと静まりかえっている。
 
〈1264〉西の市にたった一人で出かけて、見比べもせずに自分だけで見て買ってしまった絹の、買い損ないだよ。

〈1265〉今年送られていく新しい防人の麻の衣の肩のほつれは、いったい誰が繕ってやるのだろうか。
 
〈1266〉大船を荒海に漕ぎ出して一心に漕いでいるけれど、その間にも、私が見たあの子のまなざしが鮮やかに浮かんでくる。

〈1267〉ここはかつて大宮人たちが踏んだ跡がある所よ。沖の波が寄せて来なかったならば、その跡が消え失せることはなかったのに。

【説明】
 1251から1267までは「右の十七首、古歌集に出づ」とあり、ここの1262~1266は「時に臨む」すなわち、その時々に臨んで思いを述べた歌。1267は「就所発思」、すなわち場所において思いを述べた歌。旋頭歌形式になっています。
 
 1262の「あしひきの」は「山」の枕詞。原文「足病之」で、足のひきつる病アシナヘを「あしひく」の名詞形でアシヒキとも言ったので、こう書いているもの。「山椿」は、山にある椿。「八つ峰」は、多くの峰。「鹿待つ」は、鹿を狩ろうとして待ち構える意。「斎ひ妻」は、夫の無事を祈って家で潔斎する妻の意。「かも」は、疑問的詠嘆。猟師の間で、猟の幸運を神に祈るために斎戒し妻との共寝を断つことが行われていて、危険が多く、また幸不幸も多い職業である狩猟であるがゆえに、こうした信仰が伴っていたとされます。一方では、「八つ峰越え鹿待つ君」は、浮気な男の譬えで、「斎ひ妻」を帰って来ない男をひたすら待つ女を譬えたものとする見方もあります。

 1263の「暁」は、未明。「夜烏」は、ここは、カラスに似た声で鳴く五位鷺(ゴイサギ)かともいわれます。五位鷺が夜行性の鳥であるのに対し、カラスが鳴き始めるのは、空が明るくなってからです。「木末」は、木の枝の先。昨夜通って来た夫が、夜明け前に帰ろうとするのを、妻が、まだ早いからとて引き留めている心の歌とされますが、斎藤茂吉は次のように述べています。「烏等は、もう暁天(あかつき)になったと告げるけれども、あのように岡の森はまだ静かなのですから、も少しゆっくりしておいでなさい、という女言葉のようにも取れるし、あるいは男がまだ早いからも少しゆっくりしようということを女に向かって言ったものとも取れるし、あるいは男が女の許から帰る時の客観的光景を詠んだものとも取れる。いずれにしても、暁はやく二人がまだ一緒にいる時の情景で、こういうことをいっているその心持と、暁天の清潔とが相まって、快い一首を仕上げている」。

 1264の「西の市」は、平城京の西の市。「目並べず」は、目を並べず、よく見て吟味せず。「商じこり」は、商売上の失敗、買いそこないの意。「安物買いの銭失い」だったのか、よく確かめもせずに買い物をしたことを嘆いている歌ですが、買った「絹」は女の譬喩であり、周りの意見をよく聞かずに結婚し、やっぱり失敗だったと嘆いている男の後悔の歌だともいわれます。平城京には、「西の市」「東の市」の物品売買のための市があり、山の民、海の民、里の民が集う「市」で、恋が芽生えることも多かったようです。つまり、「市」はナンパの名所でもあり、「歌垣」とよばれる集団見合いのような行事も行われていました。なお、この歌を、クズ男と結婚して後悔する女の歌との見方もあるようです。

 この平城京の西の市・東の市は、自由市場ではなく、政府が管理する公設市場であり、左右京職の下にいる東西の市司(いちのつかさ)が、物品の価格や品質などについてこまかく統制を加えていました。毎月15日以前は東の市が開き、その後は西の市が開き、まず政府側の取引が先に行われ、その売買が終わった後で、一般の人々が取引が行われました。扱われる品は、米穀・野菜・果物・海藻・魚介類、調味料・食器・布団・衣類などの日用品から、瑠璃玉や白檀などの貴重品まで種々様々でした。養老の関市令によると、市は正午に集まり、日没前には解散するとされていました。

 1265の「島守」は「防人」と同じ。「今年行く新島守」とあるのは、3年の任期が満了して交替する今年に、新しく徴発されて筑紫に派遣される防人のこと。何年に当たるかは不明。「肩のまよひ」は、衣の肩のあたりの糸のほつれ。「誰か取り見む」は、誰が世話するのだろうか。ここは、ほつれを繕うこと。作者は、難波津から船に乗って出発する防人を見送っている官人などの第三者とみられ、3年間の苦役に従事しなくてはならない男を思いやっています。ただ、詩人の大岡信は、「他のことは言わず、肩のほつれのことを想いやって言っているこまやかさは、女でなければなるまい」と言っています。

 1266の「荒海(あるみ)」は、アラウミの縮まったもの。「や船たけ」の「や」は、いよいよ、「たけ」は船を漕ぎ煽る。「目見」は、目もと、まなざし。「しるしも」は、はっきりと目に浮かぶ。防人の船団が難波津から漕ぎ出して行く時に、船に乗っている防人が家郷の妻を偲んでいる歌でしょうか。1267は、かつて行幸があった海辺の地の人が、到来した大宮人を尊敬し懐かしんで詠んだものです。紀伊国の和歌の浦あたりでしょうか。「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「踏みし跡ところ」は、踏んだ足のあと、足跡。「来寄らずありせば」の原文「來不依有勢婆」で、「来寄らざりせば」「来よせずありせば」などと訓むものもあります。「・・・ませば~まし」は、反実仮想(もし・・・だったら~だろうに)。

 なお、「古歌集に出づ」とあるこれら17首(1251~1267)について、窪田空穂は次のように述べています。「資料としての古歌集は、他の巻にも出ているが、以上を見てもそのいかに注意すべきものであるかが思われる。十七首中の一首、『西の市に』は、明らかに奈良時代のものと知られるが、他はわからない。問答の『海人を詠める』は、大津宮時代のものかとも思われるが、明らかではない。詠み方の幅が広く、一方にはおおらかに稚拙で、古風を思わせるものがあると思う、他方には微細に繊細で、新風を思わせるものがある。また明らかに庶民の歌もあって、わずかに十七首であるが変化に富んでいる。最も注意されることは、際立った秀歌のまじっていることである。心を引かれる資料である」。

巻第7-1270

こもりくの泊瀬(はつせ)の山に照る月は満ち欠けしけり人の常(つね)なき

【意味】
 あの泊瀬の山に照る月は、満ちたり欠けたりしている。人もまた不変ではない。

【説明】
 題詞に「物に寄せて思ひを発(おこ)す」とある歌。「こもりくの」は、奥まった所の意とも、霊魂のこもる所の意ともいわれ、「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、奈良県桜井市初瀬の山で、死者を葬る場所でもありました。月は満ち欠けを繰り返すことから、死と再生、すなわち不老不死と結びつけられる一方で、常に形が変化するため、無常を示すものともされました。この歌は、当時、葬地だった泊瀬のイメージを重ねつつ、泊瀬山に照る月の満ち欠けに、人の世の無常を詠んでいます。「常なき」は、仏典の漢語「無常」を和訓書きしたもの。連体形止めで余情をこめた表現になっています。窪田空穂は、「深い思い入れが引締った調べによって生かされていて、一種のさびた感のあるものとなっている」と評しています。左注に、この一首は、古歌集に出ている、とあります。

巻第7-1295

春日(かすが)なる御笠(みかさ)の山に月の舟(ふね)出(い)づ遊士(みやびを)の飲む酒杯(さかづき)に影に見えつつ  

【意味】
春日の三笠の山に、船のような月が出た。みやび男たちが飲む酒杯の中に、その影を浮かべながら。

【説明】
 「春日なる」は、春日にある。「御笠の山」は、平城京から見て東にある山なので、月の出を待つ山。「月の舟」は、三日月の比喩。月の形が舟に似ているところから。「遊士」は、都風の風雅を解する人。「影に見えつつ」は、姿を見せ続けている。月を歓迎する酒宴の歌と見えますが、巻第7の「旋頭歌」の部の最後におかれたこの一首は、『柿本人麻呂歌集』からの歌や作者未詳歌が多い中にあって異彩を放つ歌となっています。庶民生活の味わいが濃く出ていた人麻呂歌集の歌とは違い、繊細美を愛する貴族趣味が横溢しています。詠まれた時代も奈良時代であり、歌の趣きからも明らかです。大伴家持の周辺の人々を思わせるもので、あるいは家持の作かもしれないといわれています。

 都(みやこ)にあって、都のもつ雰囲気や情緒を備えたものが「みやび」とされ、都会的文化を象徴する言葉になってきます。それは人にもあてはまり、「みやび」を備えた男を『万葉集』では「みやびを」と呼んでいます。この歌も、船のかたちに見える月の影を杯に浮かべて飲もうというのですから、実に風流な宴会をやったものです。

巻第7-1311~1315

1311
橡(つるはみ)の衣(ころも)は人皆(ひとみな)事なしと言ひし時より着欲(きほ)しく思ほゆ
1312
おほろかに我(わ)れし思はば下(した)に着てなれにし衣(きぬ)を取りて着めやも
1313
紅(くれなゐ)の深染(ふかそ)めの衣(きぬ)下に着て上に取り着ば言(こと)なさむかも
1314
橡(つるはみ)の解(と)き洗ひ衣(きぬ)のあやしくもことに着欲(きほ)しきこの夕(ゆふへ)かも
1315
橘(たちばな)の島にし居(を)れば川遠みさらさず縫(ぬ)ひし我(あ)が下衣(したごろも)
 

【意味】
〈1311〉橡で染めた着物は、皆が着やすくてよいと言うのを聞いてから、着てみたいと思うようになったよ。

〈1312〉いい加減な気持で私が思っているのだったら、下に着た古びた着物をもう一度取り出して着たりするものか。
 
〈1313〉濃い紅色に染め上げた着物を下に隠すように着たあとで、改めてそれを外着のしたら、たちまち人の評判になるだろうか。
 
〈1314〉黒い橡染めで、解いて洗った古い着物を、不思議にもいつもと違って着てみたくてならない、今夜であるよ。
 
〈1315〉川から遠い橘の島に住んでいるので、十分に水にさらしもしないで縫った私の下着なのです。

【説明】
 「衣(きぬ)に寄する」歌。1311の「橡の衣」の「橡」はクヌギの木で、どんぐりを煮た汁で衣を染めた橡染めは、庶民の着物に使われました。ここは、身分の賤しい女の喩え。「事なし」は、面倒がないこと、心配事がないこと。「着欲し」は、妻にしたい、共寝をしたい、の意を寓しています。身分の低い女を妻にしたら物思いもなくなると聞いた男が心を動かす、あるいは身分の高い女性を妻にした男が、気苦労の多さにぼやいてる歌ともいいます。「橡の衣」は、むしろ普通の妻・堅気の妻を譬えたものかもしれません。

 1312の「おほろかに」は、おろそかに、いい加減に。「我れし思はば」の「し」は、強意の副助詞。「下に着てなれにし衣」は、下着として着慣れて垢じみた衣で、人に知られないようにして長年なじんできた内縁の妻の譬え。「取りて着るめやも」の「や」は反語で、下着を取り出して上着として着ようか、そんなことをするはずがない、の意。「取りて着は、その妻を表立って家に迎える、すなわち正式の妻にする意の譬喩。女に対し、我が情愛が並々ならぬことを示している男の歌です。

 1313の「紅の深染めの衣」の「紅」は、代表的に美しい染料、「深染めの衣」は、それを色濃く染めた着物。深く馴染んだ女、世間の目を引く女の譬え。「下に着て上に取り着ば」は、下着に着ていて上着として着たならば。「下に」は、忍んで、「上に」は、表立って、公にして、の意の譬え。「言なさむかも」の「言なす」は、言い騒ぐ、噂を立てる。「かも」は、疑問。男が懸念している歌ですが、窪田空穂は、「この懸念は軽いもので、むしろ興味に近いものであることは、『紅の深染め』という譬喩でわかる。自然で、明るさと美しさのある歌である」と言っています。

 1314の「橡の解き洗ひ衣」の「解き洗ひ衣」は解いて洗った着物で、昔なじんだことのある身分の低い女の譬え。「あやしくもことに」は、不思議なほどいつもと違って。「着欲し」は、共寝をしたい意の譬え。「この夕」は、今夜。「かも」は、詠嘆。現在の恋が辛いからか、昔から関係していた身分の低い女をふと思い出し、懐かしんでいる歌とされます。

 1315の「橘の島にし居れば」の「橘の島」は、草壁皇子の宮地であった奈良県明日香村島庄。「し」は、強意の副助詞。「川遠み」は、川が遠いので。「さらさず縫ひし」は、布をさらさないで衣に縫ってしまった。衣を仕立てる前にはその布を必ずさらすことになっていたのに、それをしなかったというもの。「我が下衣」は、内縁の結婚相手の譬え。十分に確かめずよく洗練されていない相手を選んでしまったことを言っています。男女どちらの歌とも解されますが、「縫ひし」とあるので、女の歌でしょうか。

巻第7-1316~1320

1316
河内女(かふちめ)の手染めの糸を繰り返し片糸(かたいと)にあれど絶えむと思へや
1317
海(わた)の底(そこ)沈(しづ)く白玉(しらたま)風吹きて海は荒(あ)るとも採(と)らずはやまじ
1318
底清み沈(しづ)ける玉を見まく欲(ほ)り千(ち)たびぞ告(の)りし潜(かづ)きする海人(あま)
1319
大海(おほうみ)の水底(みなそこ)照らし沈(しづ)く玉(たま)斎(いは)ひて採(と)らむ風な吹きそね
1320
水底(みなそこ)に沈(しづ)く白玉(しらたま)誰(た)が故(ゆゑ)に心尽して我(わ)が思はなくに
 

【意味】
〈1316〉河内の国の女たち手で染めて、何度も巻きなおした糸は、片糸だけれども、切れるようには決して思えない。
 
〈1317〉海の底に沈んでいる真珠は、どんなに風が吹き海は荒れても、手に採らずにおくものか。
 
〈1318〉海の底がきれいなので、沈んでいる真珠が見える。それを手に取って見たいと思い、何度も何度もそれを採ってくるように言ったことだ、水に潜ろうとする海人に。
 
〈1319〉大海の水底に沈んで光っている真珠を、わが身を清めて採りに行こうと思う。風よ、どうか吹かないでくれ。
 
〈1320〉水底に沈んでいる真珠よ。私はお前の他の誰に対しても、こんなに心を尽くして思ったりはしていないのに。

【説明】
 1316は「糸に寄する」歌。「河内女」は、河内国の女。この地は古来帰化人が多く住み、早くから製糸・染色などの先進技術が発達していました。「繰り返し」は、染めた糸を糸巻き(くるべき)にかけて何度も巻き返し、の意。「片糸」は、二本を縒り合せず一本だけで縒った弱い糸で、女の片思いに譬えています。「絶えむ思へや」の「絶ゆ」は、糸が切れる。「や」は、反語。絶えようと思おうか思わない。

 1317以降は「玉に寄する」歌。いずれも玉(真珠)を深窓の美女に譬えている男の歌です。1317の「沈く」は、水底に沈んでいる。作歌の田辺聖子は、1317の歌が好きだとして、次のように評しています。「”採らずはやまじ”という強い表現が、むきだしで飾りけなくていい。民謡風な平明な歌で、ことさら深い味わいの名歌というのではないが、譬喩の真珠と、たくましい海人の男とのとり合せが好もしい。花束を持つのは女より男のほうが似合わしく、お茶の席で男がかしこまって座っているのも、女のそれより好ましい。すべて柔と剛、硬と軟のとり合せはイメージを触発してたのしい」

 1318の「底清み」は、底が清いので。「沈ける玉」は、沈んでいる玉で、深窓に育った美女の喩え。「見まく欲り」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。手に取って見たいと思い。「潜き」は、水に潜ってする漁。「海人」を仲介者に喩え、娘との仲介を催促している男の歌とされます。

 1319の「大海の水底照らし沈く玉」は、世間で評判の深窓に育てられた美女の譬え。「斎ひて」は、心身を清め慎んで。「風な吹きそね」の「な~そ」は禁止、「ね」は、他に対しての願望の終助詞。1320の「沈く」は、水底に沈んでいる。「誰が故に」は、下に打消を伴い、誰のゆえにでもなく。「心尽して」は、心も消え失せるほどにあれこれ思う意。

巻第7-1321~1325

1321
世の中は常(つね)かくのみか結びてし白玉(しらたま)の緒(を)の絶(た)ゆらく思へば
1322
伊勢の海の海人(あま)の島津(しまつ)が鰒玉(あはびたま)採(と)りて後(のち)もか恋の繁(しげ)けむ
1323
海(わた)の底(そこ)沖(おき)つ白玉(しらたま)よしをなみ常(つね)かくのみや恋ひわたりなむ
1324
葦(あし)の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒(を)といはば人(ひと)解(と)かめやも
1325
白玉(しらたま)を手には巻かずに箱のみに置けりし人ぞ玉(たま)嘆(なげ)かする
 

【意味】
〈1321〉世の中とは、いつもこんなにはかないものなのか、堅く結んでおいたはずの真珠の紐がぷつんと切れてしまうことを思うと。

〈1322〉伊勢の海の漁師が採る志摩の真珠を手中にしても、まだまだしきりに恋しさがつのるだろうか。
 
〈1323〉海の底深くに沈んでいる真珠。それを採る手立てがなく、いつもこうして遠くから恋続けるよりほかにないのだろうか。
 
〈1324〉葦(あし)の根のようにしっかり結び合わせた真珠の紐だとあなたが言ったら、それを他人が解ける筈はあるまい。
 
〈1325〉白玉を手に巻くことなく、箱の中にしまいっぱなしの人が、その白玉を嘆かせていることです。

【説明】
 「玉に寄する」歌。1321の「世の中」の原文「世間」は、仏教用語。「かくのみか」は、こんなふうに無常なのか。「結びてし白玉の緒」は、白玉と白玉とを貫いて一つに結び合わせておいた緒のことで、固く約束してあった夫婦の仲の譬え。「絶ゆらく」は「絶ゆ」のク語法で名詞形。相手の心変わりで縁が切れることの譬え。恋人に捨てられた人の嘆きで、女の歌でしょうか。

 1322の「島津」は不明で、「志摩」とする説のほか、人名とする説や島人が転じたとする説があるようです。人名とする場合、この当時に知られていた伝説の人物か。「鰒玉」は、鰒から採れる真珠で、美しい女の喩え。「採りて後もか」は、逢った後でも・・・か、の意。「繁けむ」は、疑問の係助詞「か」の結びで連体形。女と逢った後、すなわち我がものになったら、いっそう恋心が募るだろうかと想像している男の歌です。

 1323の「海の底沖つ白玉」は、深い所にある真珠で、母親の監視が厳しくて容易に逢うことのできない美女の喩え。「よしをなみ」は、採るべき手段がないので。「常かくのみや」の「や」は、疑問の係助詞で、いつもこのように~だけか。「渡りなむ」は、係り結びの連体形。

 1324の「葦の根の」は、葦が細かく入り組んだ根を張ることから、「ねもころ」の枕詞。「ねもころ」は、ねんごろに、心を込めての意。「玉の緒」は、玉を貫き通す紐のことで、固い夫婦の契りの喩え。「人解かめやも」の「人」は他人、「解く」は二人の仲を裂く意、「やも」は反語で、解こうか解きはしない。契りを結んだものの、他人の邪魔によって関係が絶えはしないかと不安に思っている女を励ましている男の歌です。

 1325の「白玉」は、若い女(妻)の喩え。「手には巻かずに」は、共寝をすることもなく、の意。「箱のみに置けりし」は、人目に触れさせずに大切にしながら、少しも顧みることをしなかった、の意の譬喩。「人」は、夫である男。「玉嘆かする」は、玉を嘆かせることだ。愛を示さない夫を恨む妻が詠んだ歌で、自身を「白玉」と言っているのは、妻としてのプライドからの譬喩とされます。一方、若い娘に恋している男が、娘の母親のあまりの厳格さを恨み、嘆いている歌とする見方もあります。

巻第7-1326~1330

1326
照左豆(てるさづ)が手に巻き古(ふる)す玉もがもその緒(を)は替(か)へて我(わ)が玉にせむ
1327
秋風は継(つ)ぎてな吹きそ海(わた)の底(そこ)沖(おき)なる玉を手に巻くまでに
1328
膝(ひざ)に伏(ふ)す玉の小琴(をごと)の事(こと)なくはいたくここだく我(あ)れ恋ひめやも
1329
陸奥(みちのく)の安達太良真弓(あだたらまゆみ)弦(つら)着(は)けて引かばか人の我(わ)を言(こと)なさむ
1330
南淵(みなぶち)の細川山(ほそかはやま)に立つ檀(まゆみ)弓束(ゆづか)巻くまで人に知らえじ
 

【意味】
〈1326〉照左豆(てるさず)が手に巻き古している真珠を欲しいものだ。その紐を取り替えて私の真珠にしたい。

〈1327〉秋風よ、そんなに次々と吹かないでおくれ。深い海の底にある真珠を採って私の手に巻くまでは。

〈1328〉膝の上に載せて弾く小さな美しい琴が、もし無事であったなら、私はこんなにも激しく恋しい思いなどしないのに。

〈1329〉陸奥の安達太良産の弓に弓弦(ゆづる)を張って引くようなことをすれば、人は私のことをあれこれ噂するだろうか。

〈1330〉南淵の細川山に立っている檀の木よ、弓に仕上げて弓束を巻くまでは、人に知られないようにしよう。

【説明】
 1326・1327は「玉に寄する」歌。1326の「照左豆」は、語義未詳ながら、作者の知人の名であり、「照左豆が手に巻き古す玉」は、照左豆の妻の譬喩とする見方があります。その妻を美女だと思って羨み、自分の妻にしたいと言っているというのです。「もがも」の「もが」は願望の終助詞、「も」は詠嘆。「その緒は替へて」は、夫婦関係を結び替えての譬喩。1327の「継ぎて」は、続いて。「な吹きそ」は、吹くな。「海の底」は「沖」の枕詞。「沖なる玉」は、深い所にある玉(真珠)で、深窓の美女に譬えています。

 1328は「日本琴(やまとこと)に寄する」歌。日本古来の倭琴(やまとごと)には、小型の板作りの琴と大型の檜作りの琴があり、ここは小型のもの。「玉の小琴」の「玉の」は美称で、膝に抱く小琴は、愛する女(妻)の譬えになっています。「事なくは」は、変事がなかったならば、無事だったら。「いたくここだく」は、副詞を2つ重ねて強調しており、はなはだ多く、の意。「恋ひめやも」の「や」は反語で、恋いようか恋いはしない。女に変事があったために逢うことができず、その女を強く恋い焦がれる気持ちを歌っています。

 窪田空穂は、「事」は「妻の死」を意味するとして、「日本琴を膝に載せて弾いていると、それが生前の妻を連想させるものとなり、妻を思うとともに甚しい思慕の情が起こってきて、その情の強さに我と訝かりを感じたのである。そしてまたそれに対しても反省も起こってきて、妻が亡き者とならなかったらこのように強い思慕は起こらなかったろうと思ったのである」と述べ、さらに「歌としては、心は極度に枯れきっていて、老体の感情であるが、形は反対に甚しく自由で、洗練を極めているものである。詠風からみて大伴旅人を思わせずにはおかないものである。編者がわざと作者名を秘したのではないかとも思われる」とも述べています。
 
 1329・1330は「弓に寄する」歌。1329の「安達太良真弓」は、福島県二本松市の西部にある安達太良山(標高1700m)で産した檀の木で作った弓。相手の女の譬え。「弦着けて」は、弓に弦を張って。平常は弦を張らないで使用する際に張るので、このように言っています。「引かばか」は、弦を引くのと、女を誘う意の引くとを掛けています。「か」は、疑問の係助詞。「人」は、周囲の人々。「言なさむ」は、言いはやす、噂をするだろう。

 1330の「南淵の細川山」は、奈良県明日香村稲淵の細川に臨む山。「檀」は、山野に自生するニシキギ科の落葉高木。上代にはこの木で弓を作ったので、マユミの名があります。ここは目をつけた娘の譬え。「弓束」は、弓の中央の、弓を引く時に握る部分。「弓束巻くまで」は、弓束に革や桜の皮を巻きつけて弓を仕上げるまで、の意で、娘が成人して我がものになるまでの譬喩。「知らえじ」は、知られまい。意中の女と結婚するまでは、人に知られまいという男の願いを歌っています。

巻第7-1331~1335

1331
磐畳(いはたたみ)恐(かしこ)き山と知りつつも吾(わ)れは恋ふるか同等(なみ)ならなくに
1332
岩が根の凝(こご)しき山に入り初(そ)めて山なつかしみ出(い)でかてぬかも
1333
佐保山(さほやま)を凡(おほ)に見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ
1334
奥山の岩に苔生(こけむ)し畏(かしこ)けど思ふ心をいかにかもせむ
1335
思ひあまりいたもすべ無(な)み玉たすき畝傍(うねび)の山に我れ標(しめ)結(ゆ)ひつ
  

【意味】
〈1331〉岩がごつごつと露出した恐ろしい山だと知ってはいても、私は恋い焦がれている、たやすく登れる山ではないのに。

〈1332〉岩が厳しく凝り固まっている山に足を踏み入れてみると、その山に心ひかれてならず、出るに出られない気持ちだ。
 
〈1333〉これまでは佐保山を大して気にも留めずにいたが、あらためて見ると親しみやすくて心ひかれる山だ。風よ吹かないでくれ、決して。
 
〈1334〉奥山の岩は苔が生えていて恐ろしいけれど。そんな奥山を思う私の心をどうしたらいいのだろう。
 
〈1335〉恋しさに堪えかね、あまりのやるせなさに、神の領せられる畝傍山に標を張ってしまった。

【説明】
 「山に寄する」歌。いずれの歌も、身分違いの相手との恋路の困難さを背景にしています。1331の「磐畳」は、岩がごつごつと露出した恐ろしい山。普通名詞として解釈されますが、『備中誌』には、岡山県総社市秦の石畳神社にまつわる歌であると伝えられています。ここは高貴な(または神聖な)相手の譬え。「同等ならなくに」の「同等」は「並ぶ」の名詞形で、同等、同列の意。「ならなくに」は、ならぬことなのに。自分の登る力に見合った山ではないのに、の意ですが、自分と同じ程度の身分の相手ではないのに、の意を寓しています。身の程知らずの恋の悩みを訴えており、男の歌とも女の歌とも取れます。

 1332の「岩が根の凝しき山」の「岩が根」は、岩。「根」は、大地にどっしりと固定し根を張っている物につける接尾語。「凝しき」は、凝り固まっている。前の歌と同様に、身分違いの高貴な相手の譬え。「山なつかしみ」は、山に心がひきつけられて。「かてぬ」の「かて」は可能、「ぬ」は打消で、できない。「かも」は、詠嘆。その高貴な相手と関係ができてからは、相手がよくてならず、関係を絶ち難いと言っています。こちらも男の歌とも女の歌とも取れますが、「入り初めて」という行動は男の立場を示しているようではあります。

 1333の「佐保山」は、奈良市の北の丘陵地。ここは、見馴れてきた女、または幼馴染の女に喩えており、固有名詞になっているのは、女がそこに住んでいるためかもしれません。「凡に見しかど」は、おおよそに見ていたけれども、平凡だと思っていたけれども。「今見れば山なつかし」は、今見ると心惹かれる。「風吹くなゆめ」の「ゆめ」は、強い禁止の副詞。私が相手の女に近づくのを邪魔するな、の意の譬喩になっています。

 1334の「奥山の岩に苔生し」は、高い身分の女の譬喩。神秘な奥山の岩に苔が生えるといっそう神秘さが増して恐ろしく感じられるので、「畏けど」と言っています。上2句を「畏けど」を導く序詞とする説がありますが、ここは譬喩と見ています。「思ふ心」は、奥山の岩を思う心、そこへ行きたいと思う心。「いかにかもせむ」の「かも」は疑問で、どうしたらいいのだろうか。

 1335の「思ひあまり」は、恋しい思いが心に余って。「いたも」は、甚だしくも。「すべ無み」は、方法が無くて。「玉たすき」の「玉」は、美称。たすきを項(うなじ)にかけたことから、同音の「うね」にかかる枕詞。「畝傍の山」は、奈良県橿原市にあり、大和三山の一つである畝傍山(標高199m)。「標結ひつ」の「標」は、占有のしるしで、それを結びつけるのは、世間に示すこと。自分の恋人であることを公にしたことの譬喩。畝傍山は長く裾野を引いた引いた姿が優雅であり、作者は、神聖なこの山を人妻か高貴な女性に譬え、こらえきれなくてその女と関係を結んだと言っています。

巻第7-1336~1340

1336
冬ごもり春の大野(おほの)を焼く人は焼き足らねかも我(あ)が情(こころ)焼く
1337
葛城(かづらき)の高間(たかま)の茅野(かやの)早(はや)知りて標(しめ)指(さ)さましを今ぞ悔しき
1338
我(わ)が屋前(やど)に生(お)ふる土針(つちはり)心ゆも思はぬ人の衣(きぬ)に摺(す)らゆな
1339
月草に衣(ころも)色どり摺(す)らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ
1340
紫の糸をぞ我が搓(よ)るあしひきの山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)かむと思ひて
  

【意味】
〈1336〉こんなに胸が熱く燃えて仕方ないのは、あの春の大野を焼く人たちが焼き足らないので、私の心をこんなに焼くのかしら。

〈1337〉葛城の高間山の上にある茅野ではないが、いちばん先に標をつけた人の物となるように、自分もあの人を早く知って手に入れておいたらよかったが、もう遅い。
 
〈1338〉庭に生えているつちはりよ、お前は、真心から思ってくれていない人に着物を染められてはいけないよ。
 
〈1339〉露草で着物を美しい青に染めようとは思うけれど、あれはすぐに褪せる色だと人が言うにつけ、心が苦しくなる。
 
〈1340〉紫の糸を、私は撚(よ)ります。山橘の実をこの糸に通そうと思って。

【説明】
 「草に寄する」歌。1336の「冬ごもり」は「春」の枕詞。大野を焼くのは「焼き畑」のこと。春に野原に火を入れて木や草を焼き、その灰を肥料とする農耕前の作業です。「焼く人」は、恋する相手の喩え。「焼き足らねかも」の「ね」は「ねば」と同じ、「か」は疑問で、焼き足らないからだろうか。「我が情焼く」は、自分の心が恋の思いに焦がれるのは、焼き畑をする人が、その火をつけて、この心を焼くのだ、の意。相手を好きで好きでたまらない気持ちを歌っています。

 1337の「葛城の高間(高天)」は、奈良県御所市高天、金剛山の東側の中腹から山頂に至る地域。葛城地方で最も高所にあるので、高天という地名が付いたという説があります。「茅」は、ススキ、チガヤなどイネ科やカヤツリグサ科の草本の総称で、屋根葺き材料や飼料、燃料などに利用されました。「茅野」は、人目につかない所にいた良い女の譬喩。「標指す」は、自分の所有のしるしの標を立てること。「ましを」の「まし」は、事実に反して仮想する助動詞。「を」は、逆接的に詠嘆する助詞。手遅れになったのを悔やんでいる男の歌です。

 1338の「屋前」は、家の敷地、庭先。「土針」は、ユリ科のツクバネソウまたはシソ科のメハジキではないかとされ、自分の家で育てている娘を譬えています。「心ゆも思はぬ人」は、(土針を)真心から思っていない人。「衣に摺らゆな」は、求婚に応じてはならない意。結婚について娘を戒めた母の歌であり、子を思う親心の哀れ深い歌です。

 1339は、女が結婚しようとする男の移り気を心配している歌。「月草」は露草で、男の比喩。藍色の可憐なこの花は、着物を染めるのに愛用されましたが、色が褪せやすく、水に濡れたりすればすぐに消えてしまう欠点がありました。「衣色どり摺らめ」は、男の求婚を承諾する意の喩え。「うつろふ」は、色が褪せる、色が変わるで、男の移り気な心の喩え。窪田空穂は、「当時の結婚にあっては、男に真実の心が足りないと、完全に破綻するのであるから、女の警戒心の強く働くのは当然であった。また男の人柄は、他人の噂によって知るよりほかはなかったので、『言ふが』もこの場合重いものである。十分に譬喩になっている可憐な歌である」と評しています。

 1340は、女が愛する男の心を留めようとしている歌。「紫の糸」は、この時代、紫は最高の色とされていたので、ここは最上の糸を意味しています。「ぞ」は、係助詞。「搓る」は、何本かの糸をねじって絡み合わせ、1本の太い糸にする。一心に準備していることの譬え。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山橘」は、山地に自生する常緑低木のヤブコウジの古名で、夏に開花し、冬になると真っ赤な実がなります。「貫かむ」は、結婚したいという意志の譬喩で、その結婚にふさわしい糸にしようと、自らの女としての心づもりを歌っています。

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古典に親しむ

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作者未詳歌

『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
 
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。

旧国名比較

【南海道】
紀伊(和歌山・三重)
淡路(兵庫)
阿波(徳島)
讃岐(香川)
土佐(高知)
伊予(愛媛)
 
【西海道】
豊前(福岡・大分)
豊後(大分)
日向(宮崎)
筑前(福岡)
筑後(福岡)
肥前(佐賀・長崎)
肥後(熊本)
薩摩(鹿児島)
大隅(鹿児島)
壱岐(長崎)
対馬(長崎)
 
【山陰道】
丹波(京都・兵庫)
丹後(京都)
但馬(兵庫)
因幡(鳥取)
伯耆(鳥取)
出雲(島根)
隠岐(島根)
石見(島根)
 
【機内】
山城(京都)
大和(奈良)
河内(大阪)
和泉(大阪)
摂津(大阪・兵庫)
 
【東海道】
伊賀(三重)
伊勢(三重)
志摩(三重)
尾張(愛知)
三河(愛知)
遠江(静岡)
駿河(静岡)
伊豆(静岡・東京)
甲斐(山梨)
相模(神奈川)
武蔵(埼玉・東京・神奈川)
安房(千葉)
上総(千葉)
下総(千葉・茨城・埼玉・東京)
常陸(茨城)
 
【北陸道】
若狭(福井)
越前(福井)
加賀(石川)
能登(石川)
越中(富山)
越後(新潟)
佐渡(新潟)
 
【東山道】
近江(滋賀)
美濃(岐阜)
飛騨(岐阜)
信濃(長野)
上野(群馬)
下野(栃木)
岩代(福島)
磐城(福島・宮城)
陸前(宮城・岩手)
陸中(岩手)
羽前(山形)
羽後(秋田・山形)
陸奥(青森・秋田・岩手)

万葉の植物

ウツギ
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

ショウブ
『万葉集』では菖蒲草(あやめぐさ)と呼ばれている菖蒲(しょうぶ)はショウブ科の多年草で、初夏に長い葉の途中から、棒状の黄緑色の小花をびっしりとつけます。葉は香り高く薬効があり、昔から邪気を払い疫病を除くと云い伝えられてきました。アヤメ科の菖蒲(あやめ)や花菖蒲(はなしょうぶ)とは異なります。

ツツジ
ツツジ科ツツジ属の植物の総称で、春から初夏にかけて鮮やかなピンクの花が咲きます。 漢字で「躑躅」と書き、「見る人が足を止めるほどに美しい」という謂れに由来します。「躑」「躅」はいずれも、たちどまる、たたずむ、の意。古来愛されてきた花木で、最も樹齢の古い古木は、1000年に及ぶと推定されています。

ツユクサ
ツユクサ科の1年草で、道ばたなどでよく見られます。秋に可憐な青花を咲かせますが、朝に咲いて、昼過ぎにはしぼんでしまう短い命です。また、昔はツユクサで布を染めましたが、すぐに色褪せるため、移ろう恋心に例えられました。「月草」はツユクサの古名です。

ヌバタマ
アヤメ科の多年草。平安時代になると檜扇(ひおうぎ)と呼ばれるようになりました。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来します。そこから、和歌で詠まれる「ぬばたまの」は、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

モミジ
「もみじ」は具体的な木の名前ではなく、赤や黄色に紅葉する植物を「もみじ」と呼んでいます。現代では「紅葉」と書くのが一般的ですが、『万葉集』では殆どの場合「黄葉」となっています。これは、古代には黄色く変色する植物が多かったということではなく、中国文学に倣った書き方だと考えられています。さらに「もみじ」ではなく「もみち」と濁らずに発音していたようで、葉が紅や黄に変色する意味の動詞「もみつ」から生まれた名だといいます。

ヤマブキ
バラ科の落葉低木。山野でふつうに見られ、春の終わりごろにかけて黄金色に近い黄色の花をつけます。そのため「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」といわれることがあります。 万葉人は、 ヤマブキの花を、生命の泉のほとりに咲く永遠の命を象徴する花と見ていました。ヤマブキの花の色は黄泉の国の色ともされます。

ヨメナ
『万葉集』では「うはぎ」と詠まれているヨメナは、野原や道端に生えるキク科の植物。当時から代表的な春の摘み草であり、柔らかい葉や茎を食用にしていました。薄紫色の花が、夏の終わりから秋の終わりごろまで咲き続けます。

和歌の修辞技法

枕詞
 序詞とともに万葉以来の修辞技法で、ある語句の直前に置いて、印象を強めたり、声調を整えたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする。序詞とほぼ同じ働きをするが、枕詞は5音句からなる。
 
序詞(じょことば)
 作者の独創による修辞技法で、7音以上の語により、ある語句に具体的なイメージを与える。特定の言葉や決まりはない。
 
掛詞(かけことば)
 縁語とともに古今集時代から発達した、同音異義の2語を重ねて用いることで、独自の世界を広げる修辞技法。一方は自然物を、もう一方は人間の心情や状態を表すことが多い。
 
縁語(えんご)
 1首の中に意味上関連する語群を詠みこみ、言葉の連想力を呼び起こす修辞技法。掛詞とともに用いられる場合が多い。
 
体言止め
 歌の末尾を体言で止める技法。余情が生まれ、読み手にその後を連想させる。万葉時代にはあまり見られず、新古今時代に多く用いられた。
 
倒置法
 主語・述語や修飾語・被修飾語などの文節の順序を逆転させ、読み手の注意をひく修辞技法。
 
句切れ
 何句目で文が終わっているかを示す。万葉時代は2・4句切れが、古今集時代は3句切れが、新古今時代には初・3句切れが多い。
 
歌枕
 歌に詠まれた地名のことだが、古今集時代になると、それぞれの地名が特定の連想を促す言葉として用いられるようになった。

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