巻第8-1441・1446ほか
1441 うち霧(き)らし雪は降りつつしかすがに吾家(わぎへ)の園(その)に鶯(うぐひす)鳴くも 1446 春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋(つまご)ひに己(おの)があたりを人に知れつつ 1448 我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む 1464 春霞(はるかすみ)たなびく山の隔(へな)れれば妹(いも)に逢はずて月そ経(へ)にける |
【意味】
〈1441〉大空を霞(かす)ませるように雪が降りしきる。でも、我が家の庭には、春の到来を告げるかのようにウグイスが鳴いている。
〈1446〉春の野に餌をあさる雉は、妻を慕って鳴き、自分の居場所を狩人に知られてしまっている。
〈1448〉私の家の庭に蒔いたナデシコの花は、いつになったら咲くのだろうか。その花を君だと思って眺めます。
〈1464〉春霞がたなびく山に隔てられているために、いとしいあなたに逢うことがないままに月日が過ぎてしまった。
【説明】
1441・1446は、天平4年(732年)前後、家持の最初期、14歳のころの作とされます。1441は「鶯の歌」。「うち霧らし」の「うち」は、接頭語。「霧らし」は、霧で空を曇らせて。「しかすがに」は、しかしながら、そうはいうものの。「吾家(わぎへ)」は「わがいへ」の約音。本来、山野で鳴くべき鶯が、自分の家の庭に来て鳴いていると誇らしげであり、冬から春への季節の移り変わりを、喜びをもっていっています。
1446は「雉の歌」。「あさる」は、餌を求める。「妻恋」は、妻を恋しがる意の名詞。「己があたり」は、自分のいる場所。「知れつつ」は、知られ知られする意。春の野の人に見えない安全な所で餌を求めている雉が、高い鳴き声を立てるのを聞き、人に知られるではないかと危ぶみ、その鳴き声を妻恋しさのこととして隣れんでいる歌です。
1448は、坂上家にいる大嬢に贈った歌。「やど」は、家の敷地、庭先。「いつしかも」の「し」は強意で、「か」は疑問。いつになったら、早く。「なそへ」は、大嬢になぞらえる意。この歌は「春の相聞」の冒頭に位置しており、ナデシコの秋の開花を待つ、すなわち大嬢の女性としての成長を待つ歌となっています。時は天平5年(733年)春であり、家持は早く結婚したかったと見えます。
1464は、恭仁京にいる家持が、奈良の家にいる大嬢に贈った歌。天平12年8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。この時の家持は、内舎人として行幸に従っており、その翌年春に詠んだ歌とみられます。「奈良の家」は、坂上の里にある母坂上郎女の家か。「逢はずて」は、逢わないまま。
巻第8-1477~1479
1477 卯(う)の花もいまだ咲かねば霍公鳥(ほととぎす)佐保(さほ)の山辺(やまへ)に来(き)鳴き響(とよ)もす 1478 我が宿の花橘(はなたちばな)のいつしかも玉に貫(ぬ)くべくその実なりなむ 1479 隠(こも)りのみ居(を)ればいぶせみ慰(なぐさ)むと出(い)で立ち聞けば来(き)鳴く晩蝉(ひぐらし) |
【意味】
〈1477〉卯の花もまだ咲かないのに、ホトトギスが佐保の山辺に来て鳴きたてています。
〈1478〉私の家の庭先の花橘は、いつになったら珠として緒に通せるようにその実がなるのだろうか。
〈1479〉こもってばかりいると気鬱になるばかりで、外に出て立って聞いていると、近くに来ては鳴いてくれるヒグラシよ。
【説明】
それぞれ「霍公鳥」「橘」「晩蝉」を詠んだ歌。1477について、卯の花は霍公鳥の飛来とともに咲く花とされ、霍公鳥は、初夏のころに山から来て一時期さかんに鳴き立てて、間もなく去っていきます。「佐保」は、家持の邸があった地。「山辺」は、そこの佐保山の辺り。1478の「宿」は、家の敷地、庭先。「いつしかも」は、いつになったら。「玉に貫くべく」とあるのは、五月五日の節句に用いる薬玉(くすだま)のこと。「花橘」は「橘」と同じで、日本橘や柑子みかんの類とされており、初夏に咲く花を「花橘」と呼んでいますが、「万両」だとする説もあります。「なりなむ」は、なるのであろうか。
1479の「隠りのみ」は、家に引き籠ってばかりで。「いぶせみ」は、鬱陶しいので。「晩蝉」は、その「かなかなかな」という美しい鳴き声が古来愛されてきた蝉で、6月下旬から7月にかけて発生して他のセミより早く鳴き始め、以後は9月の中ごろまで鳴き声を聞くことができます。鳴く時間帯は基本的に朝夕で、ここは夕方と見られます。
巻第8-1485~1489
1485 夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らば移(うつ)ろひなむか 1486 我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)を霍公鳥(ほととごす)来(き)鳴かず地(つち)に散らしてむとか 1487 霍公鳥(ほととぎす)思はずありき木(こ)の暗(くれ)のかくなるまでに何か来(き)鳴かぬ 1488 いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥(ほととぎす)我家(わぎへ)の里(さと)に今日(けふ)のみぞ鳴く 1489 我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)は散り過ぎて玉に貫(ぬ)くべく実になりにけり |
【意味】
〈1485〉夏を待ってやっと咲いたはねずの花は、雨が降ったら色褪せてしまうのではないだろうか。
〈1486〉我が家の庭に咲いた花橘は、ホトトギスが来て鳴かないまま、いたずらに地面に散らそうとするのだろうか。
〈1487〉ホトトギスよ、思いもかけないことだ。橘が茂ってこんなに暗くなるまで、なぜやって来て鳴かないのか。
〈1488〉どこかではとっくに鳴いていただろうに、ホトトギスは、今日になって初めて我が家の里で鳴いた。
〈1489〉我が家の庭の花橘はすっかり散り果てて、今玉として緒を通せるほどに実がなってしまった。
【説明】
1485は「唐棣花(はねず)」の歌。唐棣花はバラ科の庭梅で、晩春から初夏にかけて薄紅色の花を咲かせます。「夏まけて」は、夏を待ち受けて。「移ろふ」は、変化する、色褪せる、衰える。ここは色褪せる意。1486・1487は「霍公鳥の晩(おそ)く鳴くを恨むる」歌。1486の「宿」は、家の敷地、庭先。「散らしてむとか」は、散らそうとするのか。1487の「思はずありき」は、思いもかけなかった。「木の暗」は、木々が茂って暗いこと。「何か来鳴かぬ」の「か」は疑問で、なぜ来て鳴かないのか。
1488は「霍公鳥を懽(よろこ)ぶる」歌。「いづくには」は、どこかでは。「鳴きにもしにけむ」の「けむ」は過去推量で、鳴いていただろう。「今日のみぞ鳴く」の「今日のみぞ」は「今日」を強める意で、今日初めて鳴く。ホトトギスをこよなく愛した家持が詠んだホトトギスの歌は64首あり、集中のホトトギスの歌の約4割を占めています。1489は「橘の花を惜しむ」歌。「玉に貫く」は、紐を通して薬玉(くすだま)にすること。薬玉は五月の節句に邪気を払うために用いられました。「実になりにけり」の「けり」は、詠嘆。
巻第8-1490・1491・1494ほか
1490 霍公鳥(ほととぎす)待てど来(き)鳴かず菖蒲草(あやめぐさ)玉に貫(ぬ)く日をいまだ遠(とほ)みか 1491 卯(う)の花の過ぎば惜(を)しみか霍公鳥(ほととぎす)雨間(あまま)も置かずこゆ鳴き渡る 1494 夏山(なつやま)の木末(こぬれ)の繁(しげ)に霍公鳥(ほととぎす)鳴き響(とよ)むなる声の遥(はる)けさ 1495 あしひきの木(こ)の間(ま)立ち潜(く)く霍公鳥(ほととぎす)かく聞きそめて後(のち)恋ひむかも 1496 わが屋前(やど)のなでしこの花盛りなり手折(たを)りて一目(ひとめ)見せむ児(こ)もがも |
【意味】
〈1490〉ホトトギスを待っているのに来て鳴かない。菖蒲の根を薬玉にまじえて貫く日が、まだ遠いせいなのだろうか。
〈1491〉卯の花が散り過ぎてしまうのを惜しんでいるのか、ほととぎすは雨の降る間も休まず鳴きまわっている。
〈1494〉夏山の梢の茂みでホトトギスが鳴いている。その透き通った声は、はるか彼方まで響いている。
〈1495〉山の木の間を飛びくぐっては鳴く霍公鳥の声を、このように聞き初めて、後になっても恋しく思うであろうかなあ。
〈1496〉わが家のなでしこの花が盛りとなっている。花を手折って一目でも見せてやれる女がいてほしいものだ。
【説明】
1490は「霍公鳥の歌」。「菖蒲草玉に貫く日」は、菖蒲に邪気を払う力があるとして、根を刻んで、五月五日の節句の薬玉にまじえて貫くことをいっています。霍公鳥はその日にやって来るとされました。1491は「雨の日に霍公鳥の鳴くを聞ける歌」。「雨間」は、雨が降っている間。「こゆ鳴き渡る」の「こゆ」は、ここを通って。1494・1495は「霍公鳥の歌」の連作。1494の「木末」は、梢。1495の「あしひきの木の間」の「あしひきの」は、山の枕詞であるのを、山そのものの意に転用しています。「立ち潜く」は、間をくぐる。
1496は「なでしこの歌」。なでしこは、わが国在来の野生の河原撫子。巻第3-464に、家持が亡き妾を悲しんで詠んだ「秋さらば見つつ偲(しの)へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも」の歌があり、この時が天平11年、この巻が天平13年ころを終わりとしているので、ここにいう「児」はその妾のことかもしれません。「児」は、女の愛称。「もがも」は、願望。
巻第8-1507~1509
1507 いかといかと ある我(わ)がやどに 百枝(ももえ)さし 生(お)ふる橘(たちばな) 玉に貫(ぬ)く 五月(さつき)を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝(あさ)に日(け)に 出(い)で見るごとに 息(いき)の緒(を)に 我(あ)が思ふ妹(いも)に まそ鏡 清き月夜(つくよ)に ただ一目(ひとめ) 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 我(わ)が守(も)るものを うれたきや 醜(しこ)ほととぎす 暁(あかとき)の うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに 地(つち)に散らせば すべをなみ 攀(よ)ぢて手折(たを)りつ 見ませ我妹子(わぎもこ) 1508 望(もち)ぐたち清き月夜(つくよ)に我妹子(わぎもこ)に見せむと思ひしやどの橘(たちばな) 1509 妹(いも)が見て後(のち)も鳴かなむ霍公鳥(ほととぎす)花橘(はなたちばな)を地(つち)に散らしつ |
【意味】
〈1507〉どうなったか、どうなったかと、いつも心にかけている我が家の庭に、枝をいっぱい伸ばして生い茂っている橘は、薬玉に貫く五月が近くなり、こぼれるほどに花を咲かせました。朝となく昼となく庭に出て見るたびに、命がけで思いを寄せるあなたに、清らかな月夜に一目なりと見せたいからと、決して散るなよと願い、こんなにも気をつけて見守っているのに、何といまいましいことか、ホトトギスが、明け方のもの悲しい時に、追っても追ってもやって来て鳴いて、むやみに花を散らせてしまうので、しかたなく引き寄せて手折ったのです。ご覧になってください、あなた。
〈1508〉十五夜過ぎの清らかな月の夜に、あなたにぜひ見て欲しいと思った、我が家の庭の橘です。
〈1509〉あなたがご覧になって後に鳴いてくれたらよいのに、ホトトギスが、橘の花を地面に散らしてしまいました。
【説明】
「橘の花を攀(よ)ぢて、坂上大嬢に贈る」歌。「攀づ」は、引き寄せて折る意。1507の「いかといかと」は、どうなっているかと心にかける。または、広大なさま、茂ったさまと解する説があります。「百枝さし」は、多くの枝が伸びて。「玉に貫く」は、五月の節句に紐を通して薬玉にすること。「あえぬがに」は、こぼれるほどに。「息の緒に」は、命がけで。「まそ鏡」は「清き」の枕詞。「ここだく」は、こんなにも。「うれたきや」は、忌々しい。「醜」は、対象を卑しめ罵る語。「すべをなみ」は、仕方がないので。
1508の「望ぐたち」は、十五夜過ぎの。「くたち」は、盛りを過ぎること。1509の「鳴かなむ」の「なむ」は、願望。
1554 大君(おほきみ)の三笠の山の黄葉(もみちば)は今日の時雨(しぐれ)に散りか過ぎなむ 1563 聞きつやと妹(いも)が問はせる雁(かり)がねはまことも遠く雲隠(くもがく)るなり 1565 我(わ)が宿(やど)の一群萩(ひとむらはぎ)を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも |
【意味】
〈1554〉大君の御笠である三笠の山の黄葉は、今日の時雨で散り果ててしまうだろう。
〈1563〉あなたが鳴くのを聞いたかとお尋ねの雁は、まことにも遠く、雲の間に隠れています。
〈1565〉私の庭に群れて咲く萩の花を、あやうく恋しい人に見せないまま散らしてしまうところでした。
【説明】
1554の「大君の」は「三笠」の枕詞。三笠山は春日大社の裏山。この歌は、叔父の大伴宿禰稲公(おおともすくねいなきみ)の歌「しぐれの雨 間なくし降れば三笠山
木末あまねく色づきにけり」(しぐれの雨が絶え間なく降るので、三笠山は、梢があまねくも色づいたことであるよ)(1553)に和したものです。
1563は、巫部麻蘇娘子(かむなぎべのまそのおとめ:伝未詳)の「誰(たれ)聞きつこゆ鳴き渡る雁がねの妻呼ぶ声のともしくもあるを」(どなたかお聞きでしょうか、ここから鳴き渡って行く雁の妻を呼ぶ声を。うらやましいことです)(1562)の歌に返した歌です。「まことも」は、まことにも。娘子が家持に疎遠にされていることを嘆き、雁のように妻呼ぶ声を聞かせてもらいたいとの意を込めているのに対し、家持の歌は焦点をずらしたというか、ずいぶんつれない返事になっています。窪田空穂は、「家持はあくまでも正直な人であったが、女性に対しては相応に我儘な人だったと見え、それが歌の上に少なからず現われている。これもそれである」と評しています。巫部麻蘇娘子は、巻第4-703・704にも家持に贈ったとみられる歌があります。
1565は、曰置長枝娘子(へおきのながえおとめ:伝未詳)の「秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも」(秋になると、尾花の上に置く露のように、私ははかなく消えてしまいそうになります。あなたが恋しくて)(1564)の歌に返した歌です。「宿」は、家の敷地、庭先。「ほとほとに」は、もう少しのところで。娘子の恋の訴えに対し、家持はもっぱら秋のあわれを言っています。詩人の大岡信は、応答の歌としては少々ピンボケ気味で、純情可憐な乙女の恋の告白も、これではちょっとかわいそうだと指摘しています。
巻第8-1566~1569
1566 ひさかたの雨間(あまま)もおかず雲隠(くもがく)り鳴きそ行くなる早稲田(わさだ)雁(かり)がね 1567 雲隠(くもがく)り鳴くなる雁の行きて居(ゐ)む秋田の穂立(ほたち)繁(しげ)くし思(おも)ほゆ 1568 雨隠(あまごも)り情(こころ)いぶせみ出(い)で見れば春日(かすが)の山は色づきにけり 1569 雨晴れて清く照りたるこの月夜(つくよ)またさらにして雲なたなびき |
【意味】
〈1566〉久方の雨の晴れ間も休みなく、雲に隠れては現れて鳴いていく、早稲田の雁が。
〈1567〉雲に隠れて鳴いている雁が降り立つ秋の田の稲穂が繁っているように、あの人のことがしきりに思われる。
〈1568〉雨にこもって心も沈んでいたが、外に出てみると、春日山はすっかり色づいている。
〈1569〉雨が晴れて清く照り渡ったこの月夜。雲よ、どうかこのままたなびかないでおくれ。
【説明】
「秋の歌」。ここの4首は天平8年9月、家持19歳の作。無位の内舎人(うどねり)として聖武天皇に近侍していた頃にあたります。内舎人は、天皇の国事や後宮関係の事務を司る中務省(なかつかさのしょう)に属し、帯刀して禁中の宿衛(とのい)や行幸の際の警備が主な任務とされました。家持は20代の多くの歳月を、内舎人として宮廷に仕えています。
1566の「ひさかたの」は、天を雨に通わせての枕詞。「早稲田雁がねの「雁がね」は雁で、早稲田を「刈る」とを掛けています。1567の「鳴くなる」の「なる」は、推定。「居む」の「む」は、推量。1568の「いぶせみ」は、鬱々とした思いで心が晴れないので。9月は5月とともに長雨の月ですが、稲作にとっては大切な、神の来臨を迎える聖なる月とされていました。人々は物忌みのため家に籠り、男女関係も原則ご法度とされていたのです。それを古来「雨隠り」と呼んでいました。1569の「雲なたなびき」の「な」は、禁止。
巻第8-1572
我(わ)が宿(やど)の尾花(をばな)が上の白露(しらつゆ)を消(け)たずて玉に貫(ぬ)くものにもが |
【意味】
我が家の庭の尾花に付いている白露を、消さずにそのまま玉(真珠)のように貫けるものであったらなあ。
【説明】
「白露の歌」。「尾花」は、ススキ。「もが」は、願望。本来はできるはずのない「露の玉を糸に通す」ことを願望する空想の歌です。
巻第8-1591
黄葉(もみちば)の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか |
【意味】
黄葉が散ってしまうのを惜しみ、気の合う仲間同士で遊んでいる今夜は、このまま明けなければいいのに。
【説明】
この歌は、天平10年(738年)10月17日、右大臣・橘諸兄の旧宅で開かれた宴会で詠まれた歌11首とある中の1首です。従三位・大納言の地位にあった橘諸兄は、この年の正月に正三位・右大臣へと昇格していました。また、大伴一族の大伴道足が参議に就き、同じく大伴牛養が従四位の地位に昇りました。道足は、かつて旅人が太宰帥として筑紫にあったとき勅使として派遣され、太宰帥の家で饗宴を共にした人で、一族の有力な一員でした。また牛養も翌年に参議になってから、道足が死去した後も一族を代表する立場にありました。
「過ぎまく」は「過ぎむ」の名詞形で、散り去ること。「思ふどち」は、気心の知れた仲間。「明けずもあらぬか」の「~も~か」は、願望。この時の家持の肩書は、天皇の付き人である「内舎人(うどねり)」で、宴席には奈良麻呂以下、久米女王、長忌寸娘、三手代人名、秦許遍麻呂、県犬養吉男、県犬養持男とともに、大伴池主、大伴書持も集っていました。これは家持にとって、橘諸兄・奈良麻呂父子と政治的な立場を同じくする交流行動となり、この政治的出会いが、家持のその後の人生にとって決定的な意味をもつことになります。
巻第8-1596
妹(いも)が家の門田(かどた)を見むとうち出(い)で来(こ)し心もしるく照る月夜(つくよ)かも |
【意味】
愛しい人の家の門前に広がる田を見ようと家を出てきた。その心の甲斐があって、こうこうと照り渡る月だよ。
【説明】
娘子の家の門まで来て作った歌。「妹」が誰であるかは不明。「門田」は、門に続いているところの田。「見むと」は、見ようと思って。「うち出で来し」の「うち」は、接頭語。「心もしるく」は、心の甲斐が著しくあって。
巻第8-1597~1599ほか
1597 秋の野に咲ける秋萩(あきはぎ)秋風に靡(なび)ける上に秋の露(つゆ)置けり 1598 さを鹿(しか)の朝立つ野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)に玉と見るまで置ける白露(しらつゆ) 1599 さを鹿(しか)の胸別(むなわ)けにかも秋萩(あきはぎ)の散り過ぎにける盛(さか)りかも去(い)ぬる 1602 山彦(やまびこ)の相(あひ)響(とよ)むまで妻恋(つまご)ひに鹿(か)鳴く山辺(やまへ)に独(ひと)りのみして 1603 このころの朝明(あさけ)に聞けばあしひきの山呼び響(とよ)めさを鹿(しか)鳴くも |
【意味】
〈1597〉秋の野に咲いている秋萩が秋風になびいていて、その上には秋の露が降りている。
〈1598〉朝、牡鹿が佇んでいる野辺の秋萩に、白玉(真珠)と見まごうばかりの白露が置いている。
〈1599〉牡鹿が胸で押し分けて通ったせいで、秋萩が散ってしまったのだろうか。それとも、花の盛りを過ぎているためだろうか。
〈1602〉やまびこが響き合うほどに、妻を求めて鹿が鳴き立てる山辺に、この私もたった一人だけでいて。
〈1603〉このごろの明け方に聞くと、山に呼びかけ響かせて牡鹿が鳴くことだ。
【説明】
1597~1599は、天平15年(743年)秋8月、家持26歳の時に、恭仁京にいて秋の風物を見て作った歌。秋萩を主要な題材にしています。1598の「玉」は、真珠。1599の「胸別けにかも」の「胸別け」は胸で押し別ける意で、鹿が萩原を歩く様子を言ったもの。「かも」は、疑問。「散り過ぎ」は、散り終わる。
1602~1603は、同じ月に詠んだ「鹿鳴の歌」。1602の「山彦の相響むまで」は、やまびこが反響するまでに。「独りのみして」は、奈良に残している妻の大嬢を思って言っています。1603の「あしひきの」は「山」の枕詞。
巻第8-1605・1649・1663
1605 高円(たかまと)の野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)このころの暁露(あかときつゆ)に咲きにけむかも 1649 今日(けふ)降りし雪に競(きほ)ひて我(わ)がやどの冬木(ふゆき)の梅は花咲きにけり 1663 沫雪(あわゆき)の庭に降りしき寒き夜を手枕(たまくら)まかず独(ひと)りかも寝む |
【意味】
〈1605〉高円の野辺の萩の花は、この幾日かに降り出した明け方の露で、もう咲いたことだろう。
〈1649〉今日降った雪に負けまいと、わが家の冬枯れの梅の木が花を咲かせた。
〈1663〉沫雪が庭に降り続く、寒い夜です。それなのにあなたの手枕をすることもなく、一人で寝るのでしょうか。
【説明】
1605の「高円山」は、奈良の春日山と地獄谷を挟んで南方の標高462mの山。聖武天皇の時代には、狩りが行われたり、季節の野遊びが行われたりしていました。「暁露」は、明け方の露。「咲きにけむかも」の「けむ」は過去推量、「かも」は詠嘆。1649は「雪の梅の歌」。「雪に競ひて」は、雪と競争して。
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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