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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持の歌

巻第8-1441・1446ほか

1441
うち霧(き)らし雪は降りつつしかすがに吾家(わぎへ)の園(その)に鶯(うぐひす)鳴くも
1446
春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋(つまご)ひに己(おの)があたりを人に知れつつ
1464
春霞(はるかすみ)たなびく山の隔(へな)れれば妹(いも)に逢はずて月そ経(へ)にける
 

【意味】
〈1441〉大空を霞(かす)ませるように雪が降りしきる。でも、我が家の庭には、春の到来を告げるかのようにウグイスが鳴いている。

〈1446〉春の野に餌をあさる雉は、妻を慕って鳴き、自分の居場所を狩人に知られてしまっている。

〈1464〉春霞がたなびく山に隔てられているために、いとしいあなたに逢うことがないままに月日が過ぎてしまった。

【説明】
 1441・1446は、天平4年(732年)前後、家持の最初期、14歳のころの作とされます。1441の「うち霧らし」の「うち」は接頭語。「しかすがに」は、しかしながら、そうはいうものの。「吾家(わぎへ)」は「わがいへ」の約音。冬から春への季節の移り変わりを、喜びをもっていっています。

 1446の「あさる」は、餌を求める。「妻恋」は、妻を恋しがる。「己があたり」は、自分のいる場所。春の野の人に見えない安全な所で餌を求めている雉が、高い鳴き声を立てるのを聞き、人に知られるではないかと危ぶみ、その鳴き声を妻恋しさのこととして隣れんでいる歌です。

 1464は、恭仁京にいる家持が、奈良の家にいる坂上大嬢に贈った歌。天平12年8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。家持は、内舎人として行幸に従っていました。「奈良の家」は、坂上の里にある母坂上郎女の家か。

巻第8-1477~1479

1477
卯(う)の花もいまだ咲かねば霍公鳥(ほととぎす)佐保(さほ)の山辺(やまへ)に来(き)鳴き響(とよ)もす
1478
我が宿の花橘(はなたちばな)のいつしかも玉に貫(ぬ)くべくその実なりなむ
1479
隠(こも)りのみ居(を)ればいぶせみ慰(なぐさ)むと出(い)で立ち聞けば来(き)鳴く晩蝉(ひぐらし)
  

【意味】
〈1477〉卯の花もまだ咲かないのに、ホトトギスが佐保の山辺に来て鳴きたてています。

〈1478〉私の家の庭先の花橘は、いつになったら珠として緒に通せるようにその実がなるのだろうか。

〈1479〉こもってばかりいると気鬱になるばかりで、外に出て立って聞いていると、近くに来ては鳴いてくれるヒグラシよ。

【説明】
 それぞれ「霍公鳥」「橘」「晩蝉」を詠んだ歌。1477の「佐保」は、家持の邸があった地。霍公鳥は、初夏、山からやって来て、一時期さかんに鳴き立てて、間もなく去っていきます。1478の「玉に貫くべく」とあるのは、五月五日の節句に用いる薬玉(くすだま)のこと。「花橘」は「橘」と同じで、日本橘や柑子みかんの類とされており、初夏に咲く花を「花橘」と呼んでいますが、「万両」だとする説もあります。

 1479の「隠りのみ」は、家に引き籠ってばかりで。「いぶせみ」は、鬱陶しいので。「晩蝉」は、その美しい鳴き声が古来愛されてきた蝉で、6月下旬から7月にかけて発生して、他のセミより早く鳴き始め、以後は9月の中ごろまで鳴き声を聞くことができます。鳴く時間帯は基本的に朝夕です。

巻第8-1485~1489

1485
夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らば移(うつ)ろひなむか
1486
我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)を霍公鳥(ほととごす)来(き)鳴かず地(つち)に散らしてむとか
1487
霍公鳥(ほととぎす)思はずありき木(こ)の暗(くれ)のかくなるまでに何か来(き)鳴かぬ
1488
いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥(ほととぎす)我家(わぎへ)の里(さと)に今日(けふ)のみぞ鳴く
1489
我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)は散り過ぎて玉に貫(ぬ)くべく実になりにけり
  

【意味】
〈1485〉夏を待ってやっと咲いたはねずの花は、雨が降ったら色褪せてしまうのではないだろうか。

〈1486〉我が家の庭に咲いた花橘は、ホトトギスが来て鳴かないまま、いたずらに地面に散らしてしまうのだろうか。

〈1487〉ホトトギスよ、思いもかけないことだ。橘が茂ってこんなに暗くなるまで、なぜやって来て鳴かないのか。

〈1488〉どこかではとっくに鳴いていただろうに、ホトトギスは、今日になって初めて我が家の里で鳴いた。

〈1489〉我が家の庭の花橘はすっかり散り果てて、今玉として緒を通せるほどに実がなってしまった。

【説明】
 1485は「唐棣花(はねず)」の歌。唐棣花は、バラ科の庭梅。「夏まけて」は、夏を待ち受けて。「移ろふ」は、変化する。ここは色褪せる意。1486・1487は「霍公鳥の晩(おそ)く鳴くを恨むる」歌。1487の「思はずありき」は、思いもかけなかった。「木の暗」は、木々が茂って暗いこと。

 1488は「霍公鳥を懽(よろこ)ぶる」歌。「今日のみぞ鳴く」の「今日のみぞ」は今日を強める意で、今日初めて鳴く。ホトトギスをこよなく愛した家持が詠んだホトトギスの歌は64首あり、集中のホトトギスの歌の約4割を占めています。1489は「橘の花を惜しむ」歌。「玉に貫く」は、紐を通して薬玉(くすだま)にすること。薬玉は五月の節句に邪気を払うために用いられました。

巻第8-1490・1491・1494ほか

1490
霍公鳥(ほととぎす)待てど来(き)鳴かず菖蒲草(あやめぐさ)玉に貫(ぬ)く日をいまだ遠(とほ)みか
1491
卯(う)の花の過ぎば惜(を)しみか霍公鳥(ほととぎす)雨間(あまま)も置かずこゆ鳴き渡る
1494
夏山(なつやま)の木末(こぬれ)の繁(しげ)に霍公鳥(ほととぎす)鳴き響(とよ)むなる声の遥(はる)けさ
1495
あしひきの木(こ)の間(ま)立ち潜(く)く霍公鳥(ほととぎす)かく聞きそめて後(のち)恋ひむかも
1496
わが屋前(やど)のなでしこの花盛りなり手折(たを)りて一目(ひとめ)見せむ児(こ)もがも
 

【意味】
〈1490〉ホトトギスを待っているのに来て鳴かない。菖蒲の根を薬玉にまじえて貫く日が、まだ遠いせいなのだろうか。
 
〈1491〉卯の花が散り過ぎてしまうのを惜しんでいるのか、ほととぎすは雨の降る間も休まず鳴きまわっている。
 
〈1494〉夏山の梢の茂みでホトトギスが鳴いている。その透き通った声は、はるか彼方まで響いている。
 
〈1495〉山の木の間を飛びくぐっては鳴く霍公鳥の声を、このように聞き初めて、後になっても恋しく思うであろうかなあ。

〈1496〉わが家のなでしこの花が盛りとなっている。花を手折って一目でも見せてやれる女がいてほしいものだ。

【説明】
 1490の「菖蒲草玉に貫く日」は、菖蒲に邪気を払う力があるとして、根を刻んで、五月五日の節句の薬玉にまじえて貫くことをいっています。1491の「雨間」は、雨が降っている間。「こゆ鳴き渡る」の「こゆ」は、ここを通って。1494の「木末」は、梢。1495は1494との連作。「あしひきの木の間」の「あしひきの」は、山の枕詞であるのを、山そのものの意に転用しています。

 1496について、巻第3-464に、家持が亡き妾を悲しんで詠んだ「秋さらば見つつ偲(しの)へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも」の歌があり、この時が天平11年、この巻が天平13年ころを終わりとしているので、ここにいう「児」はその妾のことかもしれません。「児」は、女の愛称。「もがも」は、願望。

巻第8-1507~1509

1507
いかといかと ある我(わ)がやどに 百枝(ももえ)さし 生(お)ふる橘(たちばな) 玉に貫(ぬ)く 五月(さつき)を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝(あさ)に日(け)に 出(い)で見るごとに 息(いき)の緒(を)に 我(あ)が思ふ妹(いも)に まそ鏡 清き月夜(つくよ)に ただ一目(ひとめ) 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 我(わ)が守(も)るものを うれたきや 醜(しこ)ほととぎす 暁(あかとき)の うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに 地(つち)に散らせば すべをなみ 攀(よ)ぢて手折(たを)りつ 見ませ我妹子(わぎもこ)
1508
望(もち)ぐたち清き月夜(つくよ)に我妹子(わぎもこ)に見せむと思ひしやどの橘(たちばな)
1509
妹(いも)が見て後(のち)も鳴かなむ霍公鳥(ほととぎす)花橘(はなたちばな)を地(つち)に散らしつ
 

【意味】
〈1507〉どうなったか、どうなったかと、いつも心にかけている我が家の庭に、枝をいっぱい伸ばして生い茂っている橘は、薬玉に貫く五月が近くなり、こぼれるほどに花を咲かせました。朝となく昼となく庭に出て見るたびに、命がけで思いを寄せるあなたに、清らかな月夜に一目なりと見せたいからと、決して散るなよと願い、こんなにも気をつけて見守っているのに、何といまいましいことか、ホトトギスが、明け方のもの悲しい時に、追っても追ってもやって来て鳴いて、むやみに花を散らせてしまうので、しかたなく引き寄せて手折ったのです。ご覧になってください、あなた。

〈1508〉十五夜過ぎの清らかな月の夜に、あなたにぜひ見て欲しいと思った、我が家の庭の橘です。

〈1509〉あなたがご覧になって後に鳴いてくれたらよいのに、ホトトギスが、橘の花を地面に散らしてしまいました。

【説明】
 「橘の花を攀(よ)ぢて、坂上大嬢に贈る」歌。「攀づ」は、引き寄せて折る意。1507の「いかといかと」は、どうなっているかと心にかける。または、広大なさま、茂ったさまと解する説があります。「百枝さし」は、多くの枝が伸びて。「玉に貫く」は、五月の節句に紐を通して薬玉にすること。「あえぬがに」は、こぼれるほどに。「息の緒に」は、命がけで。「まそ鏡」は「清き」の枕詞。「ここだく」は、こんなにも。「うれたきや」は、忌々しい。「醜」は、対象を卑しめ罵る語。「すべをなみ」は、仕方がないので。

 1508の「望ぐたち」は、十五夜過ぎの。「くたち」は、盛りを過ぎること。1509の「鳴かなむ」の「なむ」は、願望。

巻第8-1554・1563・1565

1554
大君(おほきみ)の三笠の山の黄葉(もみちば)は今日の時雨(しぐれ)に散りか過ぎなむ
1563
聞きつやと妹(いも)が問はせる雁(かり)がねはまことも遠く雲隠(くもがく)るなり
1565
我(わ)が宿(やど)の一群萩(ひとむらはぎ)を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも
 

【意味】
〈1554〉大君の御笠である三笠の山の黄葉は、今日の時雨で散り果ててしまうだろう。

〈1563〉あなたが鳴くのを聞いたかとお尋ねの雁は、まことにも遠く、雲の間に隠れています。

〈1565〉庭に群れて咲く萩の花を、あやうく恋しい人に見せないまま散らしてしまうところでした。

【説明】
 「大君の」は「三笠」の枕詞。三笠山は春日大社の裏山。この歌は、叔父の大伴宿禰稲公(おおともすくねいなきみ)の歌「しぐれの雨 間なくし降れば三笠山 木末あまねく色づきにけり」(しぐれの雨が絶え間なく降るので、三笠山は、梢があまねくも色づいたことであるよ)(1553)に和したものです。
 
 1563は、巫部麻蘇娘子(かむなぎべのまそのおとめ:伝未詳)の「誰(たれ)聞きつこゆ鳴き渡る雁がねの妻呼ぶ声のともしくもあるを」(どなたかお聞きでしょうか、ここから鳴き渡って行く雁の妻を呼ぶ声を。うらやましいことです)(1562)の歌に返した歌です。「まことも」は、まことにも。娘子が家持に疎遠にされていることを嘆き、雁のように妻呼ぶ声を聞かせてもらいたいとの意を込めているのに対し、家持の歌はずいぶんつれない返事になっています。窪田空穂は、「家持はあくまでも正直な人であったが、女性に対しては相応に我儘な人だったと見え、それが歌の上に少なからず現われている。これもそれである」と評しています。
 
 1565は、曰置長枝娘子(へおきのながえおとめ:伝未詳)の「秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも」(秋になると、尾花の上に置く露のように、私ははかなく消えてしまいそうになります。あなたが恋しくて)(1564)の歌に返した歌です。「ほとほとに」は、もう少しのところで。娘子の恋の訴えに対し、家持はもっぱら秋のあわれを言っています。詩人の大岡信は、応答の歌としては少々ピンボケ気味で、純情可憐な乙女の恋の告白も、これではちょっとかわいそうだと指摘しています。

巻第8-1566~1569

1566
ひさかたの雨間(あまま)もおかず雲隠(くもがく)り鳴きそ行くなる早稲田(わさだ)雁(かり)がね
1567
雲隠(くもがく)り鳴くなる雁の行きて居(ゐ)む秋田の穂立(ほたち)繁(しげ)くし思(おも)ほゆ
1568
雨隠(あまごも)り情(こころ)いぶせみ出(い)で見れば春日(かすが)の山は色づきにけり
1569
雨晴れて清く照りたるこの月夜(つくよ)またさらにして雲なたなびき
 

【意味】
〈1566〉久方の雨の晴れ間も休みなく、雲に隠れては現れて鳴いていく、早稲田の雁が。

〈1567〉雲に隠れて鳴いている雁が降り立つ秋の田の稲穂が繁っているように、あの人のことがしきりに思われる。

〈1568〉雨にこもって心も沈んでいたが、外に出てみると、春日山はすっかり色づいている。
 
〈1569〉雨が晴れて清く照り渡ったこの月夜。雲よ、どうかこのままたなびかないでおくれ。

【説明】
 「秋の歌」。ここの4首は天平8年9月、家持19歳の作。無位の内舎人(うどねり)として聖武天皇に近侍していた頃にあたります。内舎人は天皇の国事や後宮関係の事務を司る中務省(なかつかさのしょう)に属し、帯刀して禁中の宿衛(とのい)や行幸の際の警備が主な任務とされました。家持は20代の多くの歳月を、内舎人として宮廷に仕えています。
 
 1566の「ひさかたの」は、天を雨に通わせての枕詞。「雁がね」は、雁。1568の「いぶせみ」は、鬱々とした思いで心が晴れないので。9月は5月とともに長雨の月ですが、稲作にとっては大切な、神の来臨を迎える聖なる月とされていました。人々は物忌みのため家に籠り、男女関係も原則ご法度とされていたのです。それを古来「雨隠り」と呼んでいました。

巻第8-1572

我(わ)が宿(やど)の尾花(をばな)が上の白露(しらつゆ)を消(け)たずて玉に貫(ぬ)くものにもが

【意味】
 我が家の庭の尾花に付いている白露を、消さずにそのまま玉(真珠)のように貫けるものであったらなあ。

【説明】
 白露の歌。「尾花」は、ススキ。「もが」は、願望。本来はできるはずのない「露の玉を糸に通す」ことを願望する空想の歌です。

巻第8-1591

黄葉(もみちば)の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか

【意味】
 黄葉が散ってしまうのを惜しみ、気の合う仲間同士で遊んでいる今夜は、このまま明けなければいいのに。

【説明】
 この歌は、天平10年(738年)10月17日、右大臣・橘諸兄の旧宅で開かれた宴会で詠まれた歌11首とある中の1首です。従三位・大納言の地位にあった橘諸兄は、この年の正月に正三位・右大臣へと昇格していました。また、大伴一族の大伴道足が参議に就き、同じく大伴牛養が従四位の地位に昇りました。道足は、かつて旅人が太宰帥として筑紫にあったとき勅使として派遣され、太宰帥の家で饗宴を共にした人で、一族の有力な一員でした。また牛養も翌年に参議になってから、道足が死去した後も一族を代表する立場にありました。

 「思ふどち」は、気心の知れた仲間。「明けずもあらぬか」の「~も~か」は願望。この時の家持の肩書は、天皇の付き人である「内舎人(うどねり)」で、宴席には奈良麻呂以下、久米女王、長忌寸娘、三手代人名、秦許遍麻呂、県犬養吉男、県犬養持男とともに、大伴池主、大伴書持も集っていました。これは家持にとって、橘諸兄・奈良麻呂父子と政治的な立場を同じくする交流行動となり、この政治的出会いが、家持のその後の人生にとって決定的な意味をもつことになります。

巻第8-1596

妹(いも)が家の門田(かどた)を見むとうち出(い)で来(こ)し心もしるく照る月夜(つくよ)かも

【意味】
 愛しい人の家の門前に広がる田を見ようと家を出てきた。その心の甲斐があって、こうこうと照り渡る月だよ。

【説明】
 娘子の家の門まで来て作った歌。「妹」が誰であるかは不明。「門田」は、門に続いているところの田。「心もしるく」は、心の甲斐が著しくあって。

巻第8-1597~1599ほか

1597
秋の野に咲ける秋萩(あきはぎ)秋風に靡(なび)ける上に秋の露(つゆ)置けり
1598
さを鹿(しか)の朝立つ野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)に玉と見るまで置ける白露(しらつゆ)
1599
さを鹿(しか)の胸別(むなわ)けにかも秋萩(あきはぎ)の散り過ぎにける盛(さか)りかも去(い)ぬる
1602
山彦(やまびこ)の相(あひ)響(とよ)むまで妻恋(つまご)ひに鹿(か)鳴く山辺(やまへ)に独(ひと)りのみして
1603
このころの朝明(あさけ)に聞けばあしひきの山呼び響(とよ)めさを鹿(しか)鳴くも
 

【意味】
〈1597〉秋の野に咲いている秋萩が秋風になびいていて、その上には秋の露が降りている。

〈1598〉朝、牡鹿が佇んでいる野辺の秋萩に、白玉(真珠)と見まごうばかりの白露が置いている。

〈1599〉牡鹿が胸で押し分けて通ったせいで、秋萩が散ってしまったのだろうか。それとも、花の盛りを過ぎているためだろうか。

〈1602〉やまびこが響き合うほどに、妻を求めて鹿が鳴き立てる山辺に、この私もたった一人だけでいて。

〈1603〉このごろの明け方に聞くと、山に呼びかけ響かせて牡鹿が鳴くことだ。

【説明】
 1597~1599は、天平15年(743年)8月、家持26歳の時に、恭仁京にいて秋の風物を見て作った歌。秋萩を主要な題材にしています。1598の「玉」は、真珠。1599の「胸別けにかも」は、鹿が萩原を歩く様子を言ったもの。「かも」は、疑問。「散り過ぎ」は、散り終わる。

 1602~1603は、同じ月に詠んだ「鹿鳴の歌」。1602の「山彦の相響むまで」は、やまびこが反響するまでに。「独りのみして」は、奈良に残している妻の大嬢を思って言っています。1603の「あしひきの」は「山」の枕詞。

巻第8-1605・1649・1663

1605
高円(たかまと)の野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)このころの暁露(あかときつゆ)に咲きにけむかも
1649
今日(けふ)降りし雪に競(きほ)ひて我(わ)がやどの冬木(ふゆき)の梅は花咲きにけり
1663
沫雪(あわゆき)の庭に降りしき寒き夜を手枕(たまくら)まかず独(ひと)りかも寝む
 

【意味】
〈1605〉高円の野辺の萩の花は、この幾日かに降り出した明け方の露で、もう咲いたことだろう。

〈1649〉今日降った雪に負けまいと、わが家の冬枯れの梅の木が花を咲かせた。

〈1663〉沫雪が庭に降り続く、寒い夜です。それなのにあなたの手枕をすることもなく、一人で寝るのでしょうか。

【説明】
 1605の「高円山」は、奈良の春日山と地獄谷を挟んで南方の標高462mの山。聖武天皇の時代には、狩りが行われたり、季節の野遊びが行われたりしていました。1649の「雪に競ひて」は、雪と競争して。

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古典に親しむ

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万葉時代の年表

629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌

ホトトギスの故事

霍公鳥(ホトトギス)は、特徴的な鳴き声と、ウグイスなどに托卵する習性で知られる鳥で、『万葉集』には153首も詠まれています(うち大伴家持が65首)。霍公鳥には「杜宇」「蜀魂」「不如帰」などの異名がありますが、これらは中国の故事や伝説にもとづきます。

長江流域に蜀(古蜀)という貧しい国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興、やがて帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の治水に長けた男に帝位を譲り、自分は山中に隠棲した。杜宇が亡くなると、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来ると、鋭く鳴いて民に告げた。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは、ひどく嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐くまで鳴いた。ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。

万葉の植物

ウツギ
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。

ウメ
バラ科の落葉低木。中国原産で、遣唐使によって 日本に持ち込まれたと考えられています(弥生時代に渡ってきたとの説も)。当時のウメは白梅だったとされ、『万葉集』では萩に次いで多い119首が詠まれています。雪や鶯(うぐいす)と一緒に詠まれた歌が目立ちます。

オミナエシ
秋の七草のひとつに数えられ、小さな黄色い花が集まった房と、枝まで黄色に染まった姿が特徴。『万葉集』の時代にはまだ「女郎花」の字はあてられておらず、「姫押」「姫部志」「佳人部志」などと書かれていました。いずれも美しい女性を想起させるもので、「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説があります。

ショウブ
『万葉集』では菖蒲草(あやめぐさ)と呼ばれている菖蒲(しょうぶ)はショウブ科の多年草で、初夏に長い葉の途中から、棒状の黄緑色の小花をびっしりとつけます。葉は香り高く薬効があり、昔から邪気を払い疫病を除くと云い伝えられてきました。アヤメ科の菖蒲(あやめ)や花菖蒲(はなしょうぶ)とは異なります。

タチバナ
古くから野生していた日本固有の柑橘の常緑小高木。『古事記』『日本書紀』には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った霊薬を持ち帰らせたという話が記されています。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

モミジ
「もみじ」は具体的な木の名前ではなく、赤や黄色に紅葉する植物を「もみじ」と呼んでいます。現代では「紅葉」と書くのが一般的ですが、『万葉集』では殆どの場合「黄葉」となっています。これは、古代には黄色く変色する植物が多かったということではなく、中国文学に倣った書き方だと考えられています。さらに「もみじ」ではなく「もみち」と濁らずに発音していたようで、葉が紅や黄に変色する意味の動詞「もみつ」から生まれた名だといいます。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

ヨメナ
『万葉集』では「うはぎ」と詠まれているヨメナは、野原や道端に生えるキク科の植物。当時から代表的な春の摘み草であり、柔らかい葉や茎を食用にしていました。薄紫色の花が、夏の終わりから秋の終わりごろまで咲き続けます。

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