巻第8-1428
おしてる 難波(なには)を過ぎて うちなびく 草香(くさか)の山を 夕暮(ゆふぐれ)に 我(わ)が越え来れば 山も狭(せ)に 咲ける馬酔木(あしび)の 悪(あ)しからぬ 君をいつしか 行きてはや見む |
【意味】
難波を過ぎて、草香の山を夕暮れに越えて来ると、山も狭しと咲いている馬酔木、その名のように悪(あ)しくなどとはとても思えない優しいあなたに、いつになったらお逢いできるかと、早く行ってお目にかかりたい。
【説明】
「草香山の歌」。「草香山」は、生駒山の西側一帯で、難波と大和を結ぶ道中にある山。ここは難波から大和に向かって越す山として言っています。左注には「作者の微(いや)しきによりて、名字を顕(あらは)さず」とあり、この巻の歌はすべて都の廷臣の歌のみであり、それとの釣合いがとれないために「顕さず」としたようです。作歌の年代からここに置くべきものとしたらしく、わざわざこうした断りを添えているのは、編者がこの歌を捨てるに忍びなかったと見えます。
「おしてる」は、一面に照り輝く意で「難波」を讃える枕詞。「うちなびく」は、草木がしなやかに靡く意で「春」の枕詞に多く用いられますが、ここは「草香山」の枕詞。「山も狭に」は、山も狭いと感じられるほどに。「馬酔木」は、ツツジ科の常緑低木。その漢字名は、葉にグラヤノトキシンなどの有毒成分が含まれており、馬が葉を食べれば毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからついたとされます。「山も狭に咲ける馬酔木の」の2句は、「馬酔木」の「あし」を、同音の「悪し」に続け、その序詞としています。「悪しからぬ」は、悪しくない、やさしい。「君」はふつう女性から男性を指す語ですが、ここでは男性から身分の高い女性あるいは身分の高い男性に向けた歌のようです。「いつしか」の「し」は、強意の副助詞。いつになったらそのようになるだろうか、早くそのようにしたいと待ち望む気持ちを表す表現。
巻第8-1429~1430
1429 娘子(をとめ)らが かざしのために 風流士(みやびを)の 縵(かづら)のためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに 1430 去年(こぞ)の春(はる)逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも |
【意味】
〈1429〉娘子たちの挿頭(かざし)のためにと、また風流な男子の髪飾りのためにと、天皇がお治めになる国の果てまで咲く、桜の花の色の何と美しいこと。
〈1430〉去年の春にお逢いしたあなたに恋い焦がれて、桜の花はあなたをお迎えに来ているようです。
【説明】
「桜花の歌」。左注に、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)が口誦したとある長歌と反歌で、宴席で誦した歌のようです。若宮年魚麻呂は伝未詳ですが、よく山部赤人の歌に並んで載っていることから、赤人と何らかの関りがあった人かもしれません。また、巻第3-388、389の誦詠者でもあり、歌の伝誦に長けた人であったようです。
1429の「風流士」の原文「遊子」で、高尚な風流を解する男子。「挿頭」は、髪や冠り物に挿した草木の花や枝のことで、本来は草木の生命力にあやかったものでした。挿頭にするものとして、『万葉集』には、他に、もみじ、萩、梅、柳、ナデシコなどがあります。「縵」は、頭に巻く植物の輪状の髪飾り。「敷きませる」は、天皇がお治めになっている。「はたて」は、果て、極限。「にほひ」は、色の現れる意。「はも」は、詠嘆。「あなに」は、ああ、本当にの意の感動詞。
1430の「逢へりし君」は、桜の花自身が逢った君で、桜の花を擬人化したもの。「恋ひにてし」の「し」は強意の副助詞で、恋い慕って。「迎へけらしも」は、迎えに来たらしい。「国文学者の窪田空穂は、「謡い物にふさわしい奇抜な言い方」であり、「新風を高度に示している」と言っています。
巻第8-1469
あしひきの山霍公鳥(やまほととぎす)汝(な)が鳴けば家なる妹(いも)し常(つね)に偲(しの)はゆ |
【意味】
人里離れた山のホトトギスよ、お前が鳴けば、家にいる妻のことが、絶えず思い出されてならない。
【説明】
沙弥(さみ)が霍公鳥を詠んだ歌。「沙弥」は、仏門に入って十戒を受けたばかりの修行中の僧のことですが、この沙弥が誰であるかは分かりません。大宰府の筑紫観世音寺の別当、沙弥満誓とも推測されますが、定かではありません。仏道修行のため山に籠っているものの、その寂しさに堪えかね、霍公鳥の声を聞くと家の妻が思い出されると言っています。僧侶であっても沙弥という立場では、俗人と同様に妻帯した者は少なくなくなかったとみられています。「あしひきの」は「山」の枕詞。「偲はゆ」の「ゆ」は自発で、思い出される。
巻第8-1530~1531
1530 をみなへし秋萩(あきはぎ)交(まじ)る蘆城(あしき)の野(の)今日(けふ)を始めて万世(よろづよ)に見む 1531 玉櫛笥(たまくしげ)蘆城(あしき)の川を今日(けふ)見ては万代(よろづよ)までに忘らえめやも |
【意味】
〈1530〉おみなえしと秋萩が入り交じって咲いている蘆城の野を、今日を始めとして幾度もやってきて見よう。
〈1531〉蘆城の川を今日見たからには、後々までどうして忘れられようか。
【説明】
題詞に「大宰府の諸卿大夫あはせて官人等、筑前国の蘆城の駅家(うまや)にして宴(うたげ)する歌」とある作者未詳歌。「諸卿大夫」は、高官。「諸卿」は帥、大弐、「大夫」は国守、少弐を指します。「官人等」は、下位の役人たち。ここの歌は、新任の大宰府下僚の歌ではないかとみられています。「蘆城の駅家」は、大宰府の東南、今の筑紫野市阿志岐付近にあった駅家。「駅家」は、馬屋の意で、公務で往来する官人のために馬を準備していた宿駅の館。
1530の「をみなへし」は、秋の七草の一つで、秋に小粒の黄色の花を咲かせる多年草。「今日を始めて」は、今日を始めとして。1531の「玉櫛笥」は、櫛を納める立派な箱を讃えて言ったもので、それを開ける意で、類音の「あしき(蘆城)」の枕詞としたもの。「忘らえめやも」の「え」は自発、可能の助動詞「ゆ」の未然形。「やも」は、疑問的反語。いずれの歌も、駅家のある蘆城野を賛美した歌です。
巻第8-1633~1635
1633 手もすまに植ゑし萩(はぎ)にやかへりては見れども飽(あ)かず心 尽(つく)さむ 1634 衣手(ころもで)に水渋(みしぶ)付くまで植ゑし田を引板(ひきた)我が延(は)へ守れる苦し 1635 佐保川(さほがは)の水を堰(せ)き上げて植ゑし田を刈(か)れる初飯(はついひ)はひとりなるべし |
【意味】
〈1633〉手も休めずに苦労して植えた萩だからだろうか、見ても見ても見飽きることがなく、かえって気になって仕方がなくなるようだ。
〈1634〉着物の袖に水垢がつくまでに苦労して稲を植えた田を、今は、鳴子の縄を張り巡らせて鳥獣から守らなければならないのが辛い。
〈1635〉佐保川の水を引いて苦労して稲を植えた田、その田で刈り取った最初の新米を食べるのは、ただ一人です。
【説明】
1633・1634は、ある人が尼に贈った歌2首。「ある人」は誰だか分からないのですが、巻第8は作者の明らかな歌の集であり、また年代順に配列してあるので、編者には分かっており、あえて名前や官位などを書き記さなかったと思われます。「尼」も同様です。
1633の「手もすまに」は、手も休めずに。「かへりては」は、かえって。「見れども飽かず」は、最大の讃め言葉の常套句。「心尽くさむ」は、気を揉む。1634の「衣手」は、着物の袖。「水渋付くまで」は、水垢がつくまで苦労して、の意。「引板」は、田を荒らしに来る鳥獣を追うための鳴子をつけた板で、縄につるして遠くからその縄を引っ張って鳴らす仕掛けの道具。「我が延へ」は、長く張り渡して。「守れる」は、監視番をする。
1633は、預かって保護者として養育した尼を萩の花に譬え、面倒を見てきた尼が成長して萩の花のごとく美しくなり、悪い虫がつくのではないかと気にかかって苦労の種になったと言っており、1634は、成長した尼を秋の田の稲に、また、尼に言い寄る男を鳥獣に譬え、監視する立場の苦しさをうたっています。戯れ半分の歌ですが、一人の男として、女盛りになった尼に異性としての魅力を感じている歌でもあります。といっても、尼よりだいぶ年長者だったらしく、言い寄り方に気品と余裕が感じられます。
1635は尼が答えた歌。「初飯」は、その田で刈り取った最初の飯。原文「早飯」で「わさいひ」と訓むものもあります。題詞に、頭句(上3句)を尼が作り、大伴家持が尼に頼まれて末句(下2句)を作ったとあり、尼は、保護者のいわれる通りに自分を稲に譬え、保護者の労苦によって今の身となり得たことをいおうとしたものの、その続きが詠めずに、家持に頼んだようです。家持は一応、尼の気持ちを確かめてこの下の句をつけたのでしょうが、意味深長であり、「ひとりなるべし」の「ひとり」が誰を指すのかによって大きく解釈が分かれるところです。家持ほどの名手が、何という中途半端な句を付けたのかと批判する向きもあるようです。
尼の保護者である「ある人」は家持とも親しかったとみえ、また、この尼は、歌の内容から佐保に住んでいることが察せられ、作歌が不得手だったところから、新羅から帰化して大伴家に寄住していた理願尼(りがんに)ではないかと想像されています。そうすると「ある人」は、大伴家の誰かだったことになります。なお、理願尼は、はるか遠く天皇の聖徳に感じてわが国に帰化した人で、天平7年に急病で死去した時に、大伴坂上郎女がその死を有馬の温泉で療養中の母に知らせた歌が載っています(巻第3-460~461)。
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巻第9-1665~1667
1665 妹(いも)がため我(わ)れ玉(たま)拾(ひり)ふ沖辺(おきへ)なる玉寄せ持ち来(こ)沖つ白波(しらなみ) 1666 朝霧(あさぎり)に濡(ぬ)れにし衣(ころも)干(ほ)さずしてひとりか君が山路(やまぢ)越ゆらむ 1667 妹(いも)がため我(あ)れ玉求む沖辺(おきへ)なる白玉(しらたま)寄せ来(こ)沖つ白波(しらなみ) |
【意味】
〈1665〉妻のために私は玉を拾おう。沖にある玉をこの海辺まで届けよ、沖の白波よ。
〈1666〉朝の霧に濡れた衣を乾かすこともなく身につけたまま、あなたはひとり山道を今ごろ越えておられるのでしょうか。
〈1667〉妻へのみやげにしようと、玉を求めている。沖の白波よ、どうかその玉をこの海岸まで打ち寄せてくれ。
【説明】
1665と1666は、斉明4年(658年)10月に、斉明天皇が紀伊の国に幸(いでま)す時の歌ですが、作者は未詳です。1665は旅行く夫の歌、1666は家で待つ妻の歌という組み合わせになっており、2首とも作者は従駕の官人で、宴で詠まれた歌ではないかとみられています。1665の「玉」は、海岸にある美しい小石や貝。「拾ふ」はヒリフと訓み、ヒロフとある仮名書き例は東歌(巻第14-3400)にあるのみです。「玉」が家に残る妻へのみやげとなったのは、海の霊威が宿るものと信じられていたためとされ、また、妻のために玉を拾うというのは、当時の官人にとって理想的な楽しさだったようです。
1666の「朝霧に濡れにし衣干さずして」は、早朝の出発で、夜霧や朝霧に着衣がしっとり湿ってしまったのを乾かす暇もないという旅立ちの有様を歌っています。「ひとりか君が」とあるのは行幸従駕であるので大勢いたはずですが、妻が旅中の夫を思う慣用表現であり、実際とは無関係とされます。
1667から1679までの13首は、大宝元年(701年)の冬10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊の国に幸(いでま)す時の歌とされます。巻第1-54~56にもこの行幸時の歌があり、柿本人麻呂も従駕したことが知られています(巻第2-146)。1667の「沖辺なる」は、沖辺にある。「白玉」は、真珠。左注に「右の一首は、上に見ゆること既に畢(をは)りぬ。但し歌辞少し換り、年代相違ふ。因りて累(かさ)ね載(の)す」とあり、1665の別伝とされます。1665の歌には「玉拾ふ」とあったのが、この歌では「玉求む」となっており、「拾ふ」の方が情景が具体的に描かれてよいと評されます。
巻第9-1668~1672
1668 白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかぢ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む 1669 南部(みなべ)の浦(うら)潮な満ちそね鹿島(かしま)なる釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む 1670 朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ出て我(わ)れは由良(ゆら)の崎(さき)釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む 1671 由良(ゆら)の崎(さき)潮(しほ)干(ひ)にけらし白神(しらかみ)の磯の浦廻(うらみ)をあへて漕ぐなり 1672 黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれなゐ)の玉裳(たまも)裾(すそ)ひき行くは誰(た)が妻 |
【意味】
〈1668〉白崎よ、今の美しい姿のままで待っていてくれ。大船に多くの梶を取りつけて、また帰りにお前を眺めるから。
〈1669〉この南部浦に、そんなに潮は満ちないでほしい。鹿島で釣りをしている漁師を見て帰って来たいから。
〈1670〉朝早く漕ぎ出して、由良の崎で釣りをしている漁師を見て帰って来よう。
〈1671〉由良の崎ではもう潮が引いてしまっているらしい。白神の磯の海岸を精一杯に漕いでいる。
〈1672〉潮が引いている黒牛潟を、鮮やかな紅の裳裾姿で行き来している宮廷婦人は、いったい誰の思い人だろう。
【説明】
上の1667からの続きで、大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊国へ行幸なさったときの歌13首のうちの5首。いずれも作者未詳。
1668の「白崎」は、和歌山県日高郡由良町にある岬。「幸く」は、変わることなく。「あり待て」は、待ち続けていよ。「真梶しじ貫き」は、左右の艪を多く取り付けての意で、官船を讃えていったもの。「またかへり見む」は成句で、見飽かない心をいったもの。1669の「南部の浦」は、南部町の海岸。「潮な満ちそね」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「ね」は、願望。「鹿島」は、南部の沖にある島。1670の「朝開き」は、夜明けを待って船出する意の語。「由良の崎」は、由良港付近の岬。「白神の磯」は所在地未詳。1671の「白神の磯」は、由良の崎に近い海岸。「あへて」は、無理をおかして。この歌は、作者が白神の磯の海岸にいて漕ぐ舟を見ているのか、あるいは自身がその舟中にいるのか解釈が別れるところです。
1672の「黒牛潟」は、海南市にある黒江湾で、黒牛に似た大岩が干満とともに見え隠れしたための名といいます。「玉裳」の「玉」は美称。「裳」は、女性の腰から下、足元までを覆うスカート状の衣装。「行くは誰が妻」は、行幸に供奉する女官を指して言っています。窪田空穂はこの歌を評し、「潮干の浦へ出て遊んでいる従駕の女官を、同じく従駕の官人として、やや距離を置いて眺めていての心である。黒牛潟は和歌浦湾の一部で、海のきわめて美しい所で、それを背景としての女官の姿は画のごとく印象的であったろうと想像されるが、この歌はそれを『黒牛潟』の『黒』と『紅』との対照によって、それにも劣らずきわやかに鮮明に印象づけている。『行くは誰が妻』と、羨望をとおして官能的にその美を暗示しているのは、きわめて巧妙である。一首全体として相応に官能的であるが、余裕をもって自然にいっているので、そうした歌に伴いやすい厭味がいささかもない、手腕ある作である」と述べています。
巻第9-1673~1675
1673 風莫(かざなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに [一云 ここに寄せ来(く)も] 1674 我(わ)が背子(せこ)が使(つかひ)来(こ)むかと出立(いでたち)のこの松原を今日(けふ)か過ぎなむ 1675 藤白(ふぢしろ)のみ坂を越ゆと白栲(しろたへ)のわが衣手(ころもで)は濡れにけるかも |
【意味】
〈1673〉風莫の浜の静かな白波は、ただ空しく寄せてくるばかりだ。見る人もいないままに。
〈1674〉私の夫のお使いが来ないかと、門口に出で立つという名の出立の松原、待つその人を思わせるこの松原を、今日は通り過ぎてしまうのだろうか。
〈1675〉悲しい事件があった藤白の坂を越えると、私の白い衣は涙に濡れてしまった。
【説明】
上からの続きで、大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊国へ行幸なさったときの歌13首のうちの3首。いずれも作者未詳。
1673の「風莫」は所在不明ながら、1672の「黒牛潟」の別称ではないかとされます。あるいは「莫」は誤写だとして「風早(かざはや)」すなわち「風の強い浜」と解するものもあります。しかしながら、この歌から受ける印象は、静謐で物寂しい趣きです。なお、左注には、山上臣憶良の類聚歌林には、「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が天皇の詔(みことのり)にお応えして作った」とあります。類聚歌林は、山上憶良が、歌を内容上から分類して配列した歌集ですが、現存しません。巻第1に5か所、巻第2に3か所、いずれも左注に引用されてその名が出ています。
1674の「我が背子が使来むかと」は、当時の妻問い婚にあって、夫が訪れることを前もって使いを出して知らせることを言っており、「出立」を導く譬喩式序詞になっています。「出立」は、田辺市西部の海岸。イデタチシと訓んで地名ではなく実景と見る説があり、その場合は、「夫からの使いが来るかと思って、家を出て立って待っていたこの松原を、今日は通り過ぎて行くのだろうか」のように解し、ある女官が心の中でひそかに思ったことを詠んだものと見ています。「過ぎなむ」は、通り過ぎるのだろう。地名に興味を惹かれて用いた序であるならば、必ずしも女性の作である必要はなくなります。
1675の「藤白のみ坂」は、今の和歌山県海南市藤白で、謀叛の疑いをかけられた有間皇子が追手によって絞殺された場所。「み坂」の「み」は、接頭語。「白妙の」は「衣手」の枕詞。「衣手」は、衣の袖。有間皇子が亡くなったのはこの時より40余年前の出来事ですが、藤白や磐代は当時既に歌枕になっていたと見られ、都からこの地に来た人は、感を新たにして、皇子を悲しむ歌を詠んでいます。
(関連歌)⇒有馬皇子の歌(巻第2-141~142)ほか
巻第9-1676~1679
1676 背(せ)の山に黄葉(もみち)常敷(つねし)く神岡(かみをか)の山の黄葉は今日(けふ)か散るらむ 1677 大和には聞こえも行くか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈り敷き廬(いほ)りせりとは 1678 紀の国の昔(むかし)弓雄(ゆみを)の鳴り矢もち鹿(しし)取り靡(な)べし坂の上(うへ)にぞある 1679 紀の国にやまず通はむ妻(つま)の杜(もり)妻寄し来(こ)せね妻といひながら [一云 妻賜はにも妻といひながら |
【意味】
〈1676〉背の山にもみじ葉はいつも散り敷いているけれど、神岡の山のもみじは、今日あたり散っているのだろうか。
〈1677〉大和にいる妻は知っているだろうか、ここ大我野で竹葉を刈り取って敷き、一人わびしく仮寝しているのを。
〈1678〉その昔、紀の国に武勇の者がいて、鳴り矢をうならせて鹿猪(しし)を退治し一帯を平定したという、ここがその坂の上であるぞ。
〈1679〉この紀の国にはいつも通い続けよう。妻の杜の神よ、妻をお授けください。妻という名をお持ちなのですから。
【説明】
上からの続きで、大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊国へ行幸なさったときの歌13首のうちの4首。いずれも作者未詳。
1676の「背の山」は、和歌山県かつらぎ町にある標高168mの山。紀の川の右岸にある山で、大和国より紀伊国に行く要路にあたります。対岸には妹山(いもやま:標高124m)があり、一対の妹背の山として名高く、『万葉集』にも多く詠まれています。「常敷く」は、絶えず散り敷いている。「神岡の山」は、奈良県明日香村の雷丘、または天橿丘。「散るらむ」の「らむ」は、現在推量。
1677の「大和」は、妻のいる家。「聞こえも行くか」は、噂が人から人へ伝わっていくだろうか。原文「聞徃歟」で「聞こえゆかぬか」と訓む説もあります。「大我野」は、所在未詳。「竹葉刈り敷き」は、竹の葉を刈って敷いて。行幸の従駕の下級官人の野営の有様と見えます。1678の「昔弓雄」は、伝説上の英雄または弓の名手、弓を持った猟師とする説があります。「鳴り矢」は、うなりを立てて飛ぶかぶら矢。「鹿」は、悪神の化身。ここは鹿を獲物として獲るのではなく、坂の神として平定したという伝説を歌ったものとされます。「坂の上」は、所在不明。
1679の「妻の杜」は、橋本市妻の神社。「寄し来せね」の「ね」は、願望。「妻といひながら」は、妻というその名のままに、妻という名を持っているのだから。3・4・5句とも「妻」の語を入れて繰り返しており、戯れ心で詠んだ歌でしょうか。なお、左注に「右の一首は、或は云ふ、坂上忌寸人長(さかのうえのいみきひとなが)が作れり」とあります。坂上忌寸人長は他に作歌はなく、伝未詳。
巻第9-1680~1681
1680 あさもよし紀伊(き)へ行く君が真土山(まつちやま)越ゆらむ今日(けふ)ぞ雨な降りそね 1681 後(おく)れ居(ゐ)て我(あ)が恋ひ居(を)れば白雲(しらくも)のたなびく山を今日(けふ)か越ゆらむ |
【意味】
〈1680〉紀伊の国に付き従ったあの方が、いよいよ今日は国境の真土山を越える日です。雨よ降らないでください。
〈1681〉あとに残って私があなたを恋しく思っているのに、あの方は、白雲たなびく山を今日越えておられるのでしょうか。
【説明】
題詞に「後(おく)れたる人の歌二首」とあり、前の行幸従駕の13首に続いて、共に旅に出ずに残った人の歌2首。帰京後の宴の場で、待つ妻の立場で詠まれたのではないかとされます。1680の「あさもよし」は、麻裳よしの意で「紀伊」に掛かる枕詞。「真土山」は、大和国と紀伊国の国境の山。「雨な降りそね」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「ね」は、他に対する願望。1681の「白雲のたなびく山」も真土山とみられます。
巻第9-1712~1714
1712 天(あま)の原(はら)雲なき夕(よい)にぬばたまの夜(よ)渡る月の入(い)らまく惜(を)しも 1713 滝の上の三船(みふね)の山ゆ秋津(あきつ)べに来鳴(きな)きわたるは誰呼子鳥(たれよぶこどり) 1714 落ち激(たぎ)ち流るる水の磐(いは)に触(ふ)り淀(よど)める淀に月の影(かげ)見ゆ |
【意味】
〈1712〉見渡すかぎり雲のないこの夕暮れに、夜空を渡り月が沈んでいくのは残念だ。
〈1713〉吉野川の滝の上にそびえる御船山から、秋津野にかけて鳴き渡ってくるのは、誰を呼んでいる呼子鳥なのか。
〈1714〉勢いよくたぎって流れてきた水が、巌石に突き当たって淀んでいる。その淀みに月の姿が映っている。
【説明】
1712は、「筑波山に登りて月を詠める」歌。「天の原」は、広々と広がっている大空。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜渡る月」は、夜空を渡る月。「入らまく」は「入らむ」のク語法で名詞形。この歌について、筑波山上に見た月の特徴としては格別に表現されていないとする評がある一方、窪田空穂は、「大景を単純に捉えて、充実したものとしている。・・・感動の足りない憾(うら)みはあるが、安らかに詠んで大景をこれほどに支配し得ている手腕は、非凡というべきである」と評しています。
1713・1714は、吉野離宮行幸の時の歌とあり、養老7年(723年)の元正天皇の行幸ではないかとされます。1713の「滝」は、激流。「三船の山」は、吉野離宮の上流にある標高487mの山。集中に7例あり、うち4例が「滝の上の」を冠して歌われています。「秋津辺」は、離宮のある秋津野の辺り。「誰呼子鳥」は、誰を呼ぶ呼子鳥かで、呼子鳥は今のカッコウとする説が有力。あちらこちらに場所を変えながら鳴くカッコウの声は人を探して呼んでいるように聞こえるので相応しいと言えますが、集中に、春の歌、それも鶯の歌などにまじっているのは季節に合いません。
1714の「落ち激ち」は、激しく流れ落ちて水しぶきをあげる様子。「月の影」は、月の光。水面が明るく静かに光っていることを表しています。印象の鮮明な歌であり、作家の田辺聖子は、烈しさと静けさをなだらかに移行させたおもしろい歌であると言い、窪田空穂は、「人麿のただちに自身の気分の奥所に強く食い入ろうとしたのとは対蹠的に、事象と自身の気分とを繋ぎ合わせ、柔らかに融かし合おうとする、客観的傾向のものとなっている」と述べています。一方、賀茂真淵は、これら2首の風格からして、人麻呂の作ではなかろうかと言っています。
巻第9-1784
海神(わたつみ)のいづれの神を祈らばか行くさも来(く)さも船の早(はや)けむ |
【意味】
海を支配するどの神にお祈りをすれば、行きも帰りも、より早く船が進むことができるでしょうか。
【説明】
題詞に「入唐使に贈る歌」とありますが、左注には「渡海した年紀は未詳」とあり、いつの遣唐使出発の際の歌か分からず、作者も不明です。「海神(わたつみ)」は、わた・つ・みの3語からなり、「わた」は渡る意で、古来、海の彼方は他界と考えられており、「つ」は「天つ空」とツと同様で「~の」、「み」は「祇(み)」で神霊を意味します。『万葉集』では「海の神」または「海」そのものの意味に使い分けられています。ここは原文「海若」と書かれているので前者の意とされます。「海若」は漢籍に見える語で、「若」は神託を受けた者、転じて神の意。「いづれの神」は、海神といわれる神には種類が多く、阿曇氏の祭る綿津見の神、津守氏の祭る住吉の神などがあり、いずれの神が最も神威が強いかと迷っているものです。「行くさも来さも」の「さ」は接尾語で、動詞について「~する時」の意。行く時も帰る時も。
作者について、窪田空穂は、「遣唐使に直接関係をもった人の歌で、おそらく女性の歌と思われる。それは相手と対等な地歩を占め、圏内にあっての不安をいったものであり、心弱いものだからである」と言っています。歌の内容はいずれの時にも使える一般的なもので、代々の遣唐使出発の送別の宴席で歌い継がれたものかもしれません。
巻第9-1790~1791
1790 秋萩(あきはぎ)を 妻問う鹿(か)こそ 独子(ひとりご)に 子持てりといへ 鹿児(かこ)じもの わが独子の 草枕 旅にし行けば 竹珠(たかだま)を しじに貫(ぬ)き垂(た)り 斎瓮(いはひべ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて 斎(いは)ひつつ わが思ふ吾(あ)が子 真幸(まさき)くありこそ 1791 旅人の宿(やど)りせむ野に霜(しも)降らば我(あ)が子(こ)羽(は)ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら) |
【意味】
〈1790〉秋萩を妻として訪れる鹿は一人の子を持つと言うが、その鹿の子のように、私にはたった一人しかいない息子が旅立ってしまうので、竹玉を緒いっぱいに通して垂らし、斎瓮に木綿を垂らして、身を清めて神を祭り、案じているわが子よ、どうか無事でいてほしい。
〈1791〉旅人が宿る野に、もし霜が降るなら、どうか我が子を羽で包んでおくれ、天を行く鶴の群れよ。
【説明】
「天平五年癸酉、遣唐使の舶、難波を発(た)ちて海に入る時、親母(はは)の子に贈れる歌一首、并せて短歌」。遣唐使の一行の中の誰かの母親が詠んだ歌ですが、母子ともその名は伝わっていません。一人息子を海外への旅に出さなければならない母親の、不安と切ない気持ちを歌った長歌と反歌です。遣唐使の一員に抜擢されるのは非常に名誉なことではありましたが、当時の遣唐使の旅は、無事に帰国できるほうが珍しいほどの危険な航海でありました。
この時の遣唐大使は多治比広成(たじひのひろなり)で、天平5年(733年)4月3日に総員594名が4隻の船に乗って難波の港を出帆、往路は無事に蘇州に到着したものの、翌年10月の帰路の船旅は悲惨な結果となり、暴風雨によって船は四散。一つの船は種子島付近に漂着し、その翌年(天平7年)の3月に帰京することができました。しかし、ある船はインドシナ半島まで吹き流され、天平11年になってようやく出羽国に帰還しています。しかも、それは少数の帰還でしかありませんでした。現地人とのトラブルによって殺傷されたり、風土病に冒されたりして150人中、90人が亡くなっていたからです。生き残った人たちは何とか唐に戻り、皇帝の許しを得て再び帰還を目指したものの、またもや日本海で死者を出す暴風雨に見舞われたのです。しかし、これらはまだよい方で、全く消息不明の船もありました。歌を詠んだ母親の息子が無事だったのかは、分かりません。
1790の「秋萩を妻問う鹿」は、秋萩を妻として訪ねる鹿。「独子に子持てりといへ」は、鹿は子を一頭だけ生んで育てると言うけれど。「草枕」は「旅」の枕詞。「鹿児じもの」は、鹿の子のように。鹿は一回の出産で一頭しか子を産まないことから、このように言っています。「草枕」は「旅」の枕詞。「旅にし」の「し」は、強意の副助詞。「竹珠」は、細い竹を輪切りにして装飾に用いた玉のことで、神事に使用したとされます。「しじに貫き」は、たくさん紐に貫き。少しでも多くの竹玉を作って長く垂らすのがよいとされたのでしょう。「斎瓮」は、神に献上する酒を盛る器のこと。「木綿」は、楮(こうぞ)の繊維で、神前に供えるもの。「真幸くありこそ」の「こそ」は願望で、どうか無事であってほしい。1791の「宿りせむ野」は、旅寝をするであろう大陸の野。「羽ぐくむ」は、もともとは羽で包んで愛撫する意でしたが、転じて育む、養育するという意味になった言葉です。
長歌の「竹珠を」以下の5句で、息子の無事を神に祈るさまは、胸打つ迫真の描写となっており、反歌は、船旅でも夜は陸上で野宿した当時の習いを踏まえています。息子を「羽ぐく」んでやりたいのは自身ですが、それが叶わない辛さを、せめて鶴の群れに託しています。しかし、内海を行く間は野宿ができても、荒い外海に乗り出したが最後、反歌にこめられた願いも届かぬ危険が待ち受けていることを、母は想像すらできなかったことでしょう。
斎藤茂吉は、1791の歌について、次のように言っています。「母親がひとり子の遠い旅を思う心情は一とおりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧を直ぐ聯想(れんそう)するし、実際また詩的に表現しているのである。けれども当時の人々は吾々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。それは万葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考えるよりももっと直接に感じつつああいう技法を取ったものに相違ない。そこで此歌でも、毫(ごう)もこだわりのない純粋な響を伝えているのである。もの云いに狐疑(こぎ)が無く不安が無く、子をおもうための願望を、ただその儘に云いあらわし得たのである」。
それにしても、作者である「母」は相当な身分の人で、知的教養の豊かな人であったことが察せられます。国文学者の池田彌三郎は、「一つにはこの歌が第九に収められているという外的条件にもよる。第九は奈良朝の、外国の文化に触れた文人集団と関連の深い成立だから、この『母』もそういう人々の中に置いてみるべきかと思う。この歌も、女歌の系統のものではない声調を持っていて、この張り詰めた調子は知性的な響きを持っている」と述べています。
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