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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第8)

巻第8-1428

おしてる 難波(なには)を過ぎて うちなびく 草香(くさか)の山を 夕暮(ゆふぐれ)に 我(わ)が越え来れば 山も狭(せ)に 咲ける馬酔木(あしび)の 悪(あ)しからぬ 君をいつしか 行きてはや見む

【意味】
 難波を過ぎて、草香の山を夕暮れに越えて来ると、山も狭しと咲いている馬酔木、その名のように悪(あ)しくなどとはとても思えない優しいあなたに、いつになったらお逢いできるかと、早く行ってお目にかかりたい。

【説明】
 「草香山の歌」。「草香山」は生駒山の西側一帯で、難波と大和を結ぶ道中にある山。左注に「作者の微(いや)しきによりて、名字を顕(あらは)さず」とあり、この巻の歌はすべて都の廷臣の歌のみであり、それとの釣合いがとれないために「顕さず」としたようです。作歌の年代からここに置くべきものとしたらしく、わざわざこうした断りを添えているのは、編者がこの歌を捨てるに忍びなかったと見えます。

 「おしてる」は「難波」の枕詞。「うちなびく」は「草香山」の枕詞。「馬酔木」の「あし」を、同音の「悪し」に続け、その序詞としています。「悪しからぬ」は悪しくない、やさしい。「君」はふつう女性から男性を指す語ですが、ここでは男性から身分の高い女性あるいは身分の高い男性に向けた歌のようです。

巻第8-1429~1430

1429
娘子(をとめ)らが かざしのために 風流士(みやびを)の 縵(かづら)のためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに
1430
去年(こぞ)の春(はる)逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へ来(く)らしも
 

【意味】
〈1429〉娘子たちの挿頭(かざし)のためにと、また風流な男子の髪飾りのためにと、天皇がお治めになる国の果てまで咲く、桜の花の色の何と美しいこと。

〈1430〉去年の春にお逢いしたあなたに恋い焦がれて、桜の花はあなたをお迎えするために来ているようです。

【説明】
 「桜花の歌」。左注に、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)が口誦したとある長歌と反歌で、宴席で誦した歌のようです。若宮年魚麻呂は伝未詳ですが、よく山部赤人の歌に並んで載っていることから、赤人と何らかの関りがあった人かもしれません。

 1429の「風流士」は、風流を解する男子。「縵」は、頭に巻く植物の髪飾り。「敷きませる」は、天皇がお治めになっている。「はたて」は、果て、極限。「にほひ」は、色の現れる意。「はも」は、詠嘆。「あなに」は、ああ、本当にの意の感動詞。1430の「逢へりし君」は、桜の花自身が逢った君で、桜の花を擬人化したもの。国文学者の窪田空穂は、「謡い物にふさわしい奇抜な言い方」であり、「新風を高度に示している」と言っています。

巻第8-1469

あしひきの山霍公鳥(やまほととぎす)汝(な)が鳴けば家なる妹(いも)し常(つね)に偲(しの)はゆ 

【意味】
 人里離れた山のホトトギスよ、お前が鳴けば、家にいる妻のことが、絶えず思い出されてならない。

【説明】
 沙弥(さみ)が霍公鳥を詠んだ歌。「沙弥」は、仏門に入って十戒を受けたばかりの修行中の僧のことですが、この沙弥が誰であるかは分かりません。大宰府の筑紫観世音寺の別当、沙弥満誓とも推測されますが、定かではありません。仏道修行のため山に籠っているものの、その寂しさに堪えかね、霍公鳥の声を聞くと家の妻が思い出されると言っています。僧侶であっても沙弥という立場では、俗人と同様に妻帯した者は少なくなくなかったとみられています。「あしひきの」は「山」の枕詞。

巻第8-1530~1531

1530
をみなへし秋萩(あきはぎ)交(まじ)る蘆城(あしき)の野(の)今日(けふ)を始めて万世(よろづよ)に見む
1531
玉櫛笥(たまくしげ)蘆城(あしき)の川を今日(けふ)見ては万代(よろづよ)までに忘らえめやも
 

【意味】
〈1530〉おみなえしと秋萩が入り交じって咲いている蘆城の野を、今日を始めとして幾度もやってきて見よう。

〈1531〉蘆城の川を今日見たからには、後々まで忘れられようか。

【説明】
 題詞に「大宰府の諸卿大夫と官人らが、筑前国の蘆城の駅家(うまや)で宴会をしたときの歌」とある作者未詳歌。新任の大宰府下僚の歌ではないかとみられています。「蘆城の野は、大宰府の東南数キロのところにあった野。「駅家」は、馬を飼う家。1531の「玉櫛笥」は、本来「あく」の枕詞であるので、同音の「あしき(蘆城)」に転じたもの。

巻第8-1633~1635

1633
手もすまに植ゑし萩(はぎ)にやかへりては見れども飽(あ)かず心 尽(つく)さむ
1634
衣手(ころもで)に水渋(みしぶ)付くまで植ゑし田を引板(ひきた)我が延(は)へ守れる苦し
1635
佐保川(さほがは)の水を堰(せ)き上げて植ゑし田を刈(か)れる初飯(はついひ)はひとりなるべし
 

【意味】
〈1633〉手も休めずに苦労して植えた萩だからだろうか、見ても見ても見飽きることがなく、かえって気になって仕方がなくなるようだ。

〈1634〉着物の袖に水垢がつくまでに苦労して稲を植えた田を、今は、鳴子の縄を張り巡らせて鳥獣から守らなければならないのが辛い。

〈1635〉佐保川の水を引いて苦労して稲を植えた田、その田で刈り取った最初の新米を食べるのは、ただ一人です。

【説明】
 1633・1634は、ある人が尼に贈った歌2首。「ある人」は誰だか分からないのですが、巻第8は作者の明らかな歌の集であり、また年代順に配列してあるので、編者には分かっており、あえて名前や官位などを書き記さなかったと思われます。「尼」も同様です。
 
 1633の「手もすまに」は、手も休めずに。「かへりては」は、かえって。「心尽くさむ」は、気を揉む。1634の「衣手」は、袖。「水渋」は、水の垢。「引板」は、田を荒らしに来る鳥獣を追うための鳴子をつけた板で、縄につるして遠くからその縄を引っ張って鳴らす仕掛けの道具。「我が延へ」は、長く張り渡して。「守れる」は、監視番をする。

 1633は、尼を萩の花に譬え、保護者として面倒を見てきた尼が成長して萩の花のごとく美しくなり、悪い虫がつくのではないかと気にかかって苦労の種になったと言っており、1634は、尼を秋の田の稲に、また、尼に言い寄る男を鳥獣に譬え、監視する立場の苦しさをうたっています。戯れ半分の歌ですが、一人の男として、女盛りになった尼に異性としての魅力を感じている歌でもあります。といっても、尼よりだいぶ年長者だったらしく、言い寄り方に気品と余裕が感じられます。
 
 1635は尼が答えた歌。「初飯」は、その田で刈り取った最初の飯。原文「早飯」で「わさいひ」と訓むものもあります。題詞に、頭句(上3句)を尼が作り、大伴家持が尼に頼まれて末句(下2句)を作ったとあり、尼は、保護者のいわれる通りに自分を稲に譬え、保護者の労苦によって今の身となり得たことをいおうとしたものの、その続きが詠めずに、家持に頼んだようです。家持は一応、尼の気持ちを確かめてこの下の句をつけたのでしょうが、意味深長であり、「ひとりなるべし」の「ひとり」が誰を指すのかによって大きく解釈が分かれるところです。家持ほどの名手が、何という中途半端な句を付けたのかと批判する向きもあるようです。
 
 尼の保護者である「ある人」は家持とも親しかったとみえ、また、この尼は、歌の内容から佐保に住んでいることが察せられ、作歌が不得手だったところから、新羅から帰化して大伴家に寄住していた理願尼(りがんに)ではないかと想像されています。そうすると「ある人」は、大伴家の誰かだったことになります。なお、理願尼は、はるか遠く天皇の聖徳に感じてわが国に帰化した人で、天平7年に急病で死去した時に、大伴坂上郎女がその死を有馬の温泉で療養中の母に知らせた歌が載っています(巻第3-460~461)。

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作者未詳歌(巻第9)

巻第9-1665~1667

1665
妹(いも)がため我(わ)れ玉 拾(ひり)ふ沖辺(おきへ)なる玉寄せ持ち来(こ)沖つ白波(しらなみ)
1666
朝霧(あさぎり)に濡(ぬ)れにし衣(ころも)干(ほ)さずしてひとりか君が山路(やまぢ)越ゆらむ
1667
妹(いも)がため我(あ)れ玉求む沖辺(おきへ)なる白玉(しらたま)寄せ来(こ)沖つ白波(しらなみ)
 

【意味】
〈1665〉妻のために私は玉を拾おう。沖にある玉をこの海辺まで届けよ、沖の白波よ。

〈1666〉朝の霧に濡れた衣を乾かすこともなく身につけたまま、あなたはひとり山道を今ごろ越えておられるのでしょうか。
 
〈1667〉妻へのみやげにしようと、玉を求めている。沖の白波よ、どうかその玉をこの海岸まで打ち寄せてくれ。

【説明】
 1665と1666は、斉明4年(658年)10月に、斉明天皇が紀伊の国に行幸なさった時の歌ですが、作者は未詳です。1665は旅行く夫の歌、1666は家で待つ妻の歌という組み合わせになっており、宴で詠まれた歌ではないかとみられています。「玉」は、海岸にある美しい小石や貝。それらが家に残る妻へのみやげとなったのは、海の霊威が宿るものと信じられていたためとされ、また、妻のために玉を拾うというのは、当時の官人にとって理想的な楽しさだったようです。

 1667から1679までの13首は、大宝元年(701年)の冬10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊の国に行幸なさったときの歌とされます。これには柿本人麻呂も従駕したことが知られています(巻第2-146)。

巻第9-1668~1672

1668
白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかぢ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む
1669
南部(みなべ)の浦(うら)潮な満ちそね鹿島(かしま)なる釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む
1670
朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ出て我(わ)れは由良(ゆら)の崎(さき)釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む
1671
由良(ゆら)の崎(さき)潮(しほ)干(ひ)にけらし白神(しらかみ)の磯の浦廻(うらみ)をあへて漕ぐなり
1672
黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれなゐ)の玉裳(たまも)裾(すそ)ひき行くは誰(た)が妻
 

【意味】
〈1668〉白崎よ、今の美しい姿のままで待っていてくれ。大船に多くの梶を取りつけて、また帰りにお前を眺めるから。

〈1669〉この南部浦に、そんなに潮は満ちないでほしい。鹿島で釣りをしている漁師を見て帰って来たいから。
 
〈1670〉朝早く漕ぎ出して、由良の崎で釣りをしている漁師を見て帰って来よう。
 
〈1671〉由良の崎ではもう潮が引いてしまっているらしい。白神の磯の海岸を精一杯に漕いでいる。

〈1672〉潮が引いている黒牛潟を、鮮やかな紅の裳裾姿で行き来している宮廷婦人は、いったい誰の思い人だろう。

【説明】
 大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊国へ行幸なさったときの歌13首のうちの5首。

 1668の「白崎」は、和歌山県日高郡由良町にある岬。「幸く」は、変わることなく。「あり待て」は、待ち続けていよ。「真梶しじ貫き」は、左右の艪を多く取り付けての意で、官船を讃えていったもの。「またかへり見む」は成句で、見飽かない心をいったもの。1669の「南部の浦」は、南部町の海岸。「潮な満ちそね」の「な~そ」は禁止、「ね」は願望。「鹿島」は、南部の沖にある島。1670の「朝開き」は、朝に船出する意の語。「由良の崎」は、由良港付近の岬。「白神の磯」は所在地未詳。1671の「白神の磯」は、由良の崎に近い海岸。この歌は、作者が白神の磯の海岸にいて漕ぐ舟を見ているのか、あるいは自身がその舟中にいるのか解釈が別れるところです。

 1672の「黒牛潟」は、海南市にある黒江湾。黒牛に似た大岩が干満とともに見え隠れしたための名といいます。「玉裳」の「玉」は美称。窪田空穂はこの歌を評し、「潮干の浦へ出て遊んでいる従駕の女官を、同じく従駕の官人として、やや距離を置いて眺めていての心である。黒牛潟は和歌浦湾の一部で、海のきわめて美しい所で、それを背景としての女官の姿は画のごとく印象的であったろうと想像されるが、この歌はそれを『黒牛潟』の『黒』と『紅』との対照によって、それにも劣らずきわやかに鮮明に印象づけている。『行くは誰が妻』と、羨望をとおして官能的にその美を暗示しているのは、きわめて巧妙である。一首全体として相応に官能的であるが、余裕をもって自然にいっているので、そうした歌に伴いやすい厭味がいささかもない、手腕ある作である」と述べています。

巻第9-1673~1675

1673
風莫(かざなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに [一云 ここに寄せ来(く)も]
1674
我(わ)が背子(せこ)が使(つかひ)来(こ)むかと出立(いでたち)のこの松原を今日(けふ)か過ぎなむ
1675
藤白(ふぢしろ)のみ坂を越ゆと白栲(しろたへ)のわが衣手(ころもで)は濡れにけるかも
 

【意味】
〈1673〉風莫の浜の静かな白波は、ただ空しく寄せてくるばかりだ。見る人もいないままに。

〈1674〉私の夫のお使いが来ないかと、門口に出で立つという名の出立の松原、待つその人を思わせるこの松原を、今日は通り過ぎてしまうのだろうか。

〈1675〉悲しい事件があった藤白の坂を越えると、私の白い衣は涙に濡れてしまった。

【説明】
 大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊国へ行幸なさったときの歌13首のうちの3首。

 1673の「風莫」は所在不明ながら、1672の「黒牛潟」の別称ではないかとされます。あるいは「莫」は誤写だとして「風早(かざはや)」すなわち「風の強い浜」と解するものもあります。なお、この歌は、山上臣憶良の類聚歌林には、「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が天皇の詔(みことのり)にお応えして作った」とあります。

 1674の上2句は「出立」を導く序詞。「出立」は、田辺市西部の海岸。「過ぎなむ」は、通り過ぎるのだろう。ある女官が心の中でひそかに思ったことを詠んだ形の歌です。1675の「藤白のみ坂」は、今の和歌山県海南市藤白で、謀叛の疑いをかけられた有間皇子が追手によって絞殺された場所。「み坂」の「み」は接頭語。「白妙の」は「衣手」の枕詞。有間皇子が亡くなったのはこの時より40余年前の出来事です。

(関連歌)有馬皇子の歌(巻第2-141~142)ほか

巻第9-1676~1679

1676
背(せ)の山に黄葉(もみち)常敷(つねし)く神岡(かみをか)の山の黄葉は今日(けふ)か散るらむ
1677
大和には聞こえも行くか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈り敷き廬(いほ)りせりとは
1678
紀の国の昔(むかし)弓雄(ゆみを)の鳴り矢もち鹿(しし)取り靡(な)べし坂の上(うへ)にぞある
1679
紀の国にやまず通はむ妻(つま)の杜(もり)妻寄しこせに妻といひながら [一云 妻賜はにも妻といひながら
 

【意味】
〈1676〉背の山にもみじ葉はいつも散り敷いているけれど、神岡の山のもみじは、今日あたり散っているのだろうか。

〈1677〉大和にいる妻は知っているだろうか、ここ大我野で竹葉を刈り取って敷き、一人わびしく仮寝しているのを。

〈1678〉その昔、紀の国に武勇の者がいて、鳴り矢をうならせて鹿猪(しし)を退治し一帯を平定したという、ここがその坂の上であるぞ。

〈1679〉この紀の国にはいつも通い続けよう。妻の杜の神よ、妻をお授けください。妻という名をお持ちなのですから。

【説明】
 大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇と文武天皇が紀伊国へ行幸なさったときの歌13首のうちの4首。

 1676の「背の山」は、和歌山県かつらぎ町にある山。紀の川の右岸にある山で、大和国より紀伊国に行く要路にあたります。「常敷く」は、絶えず散り敷いている。「神岡の山」は、奈良県明日香村の雷丘、または天橿丘。「散るらむ」の「らむ」は現在推量。1677の「大我野」は所在未詳。「竹葉刈り敷き」とあるので、行幸の従駕のうち身分の低い官人の歌と見えます。1678の「弓雄」は、伝説上の英雄または弓の名手、弓を持った猟師とする説があります。「鳴り矢」は、うなりを立てて飛ぶかぶら矢。「鹿」は、悪神の化身。1679の「妻の杜」は、橋本市妻の神社。3・4・5句とも「妻」の語を入れて繰り返しており、戯れ心で詠んだ歌でしょうか。

巻第9-1680~1681

1680
あさもよし紀伊(き)へ行く君が真土山(まつちやま)越ゆらむ今日(けふ)ぞ雨な降りそね
1681
後(おく)れ居(ゐ)て我(あ)が恋ひ居(を)れば白雲(しらくも)のたなびく山を今日(けふ)か越ゆらむ
 

【意味】
〈1680〉紀伊の国に付き従ったあの方が、いよいよ今日は国境の真土山を越える日です。雨よ降らないでください。

〈1681〉あとに残って私があなたを恋しく思っているのに、あの方は、白雲たなびく山を今日越えておられるのでしょうか。

【説明】
 前の13首に続き、旅に出ずに残った人の歌2首。帰京後の宴の同じ場で、待つ妻の立場で詠まれたのではないかとされます。1680の「あさもよし」は、麻裳よしの意で「紀伊」の枕詞。「真土山」は、大和国と紀伊国の国境の山。1681の「山」も真土山とみられます。

巻第9-1712~1714

1712
天(あま)の原(はら)雲なき夕(よい)にぬばたまの夜(よ)渡る月の入(い)らまく惜(を)しも
1713
滝の上の三船(みふね)の山ゆ秋津(あきつ)べに来鳴(きな)きわたるは誰呼子鳥(たれよぶこどり)
1714
落ち激(たぎ)ち流るる水の磐(いは)に触(ふ)り淀(よど)める淀に月の影(かげ)見ゆ
  

【意味】
〈1712〉見渡すかぎり雲のないこの夕暮れに、夜空を渡り月が沈んでいくのは残念だ。
 
〈1713〉吉野川の滝の上にそびえる御船山から、秋津野にかけて鳴き渡ってくるのは、誰を呼んでいる呼子鳥なのか。

〈1714〉勢いよくたぎって流れてきた水が、巌石に突き当たって淀んでいる。その淀みに月の姿が映っている。

【説明】
 1712は、筑波山に登って月を詠んだ歌。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜渡る」は、夜空を過ぎていく。「入らまく」は「入らむ」の名詞形。この歌について窪田空穂は、「感動の足りない憾(うら)みはあるが、安らかに詠んで大景をこれほどに支配し得ている手腕は、非凡というべきである」と評しています。

 1713・1714は、吉野離宮行幸の歌とあり、養老7年(723年)の元正天皇の行幸ではないかとされます。1713の「三船の山」は、吉野離宮の上流にある山。「秋津辺」は、離宮のある秋津野の辺り。「誰呼子鳥」は、誰を呼ぶ呼子鳥かで、呼子鳥は今のカッコウ。1714の「落ち激ち」は、激しく流れ落ちて水しぶきをあげる様子。「月影」は、月の姿。作家の田辺聖子は、烈しさと静けさをなだらかに移行させたおもしろい歌であると言い、賀茂真淵は、これら2首の風格からして、人麻呂の作ではなかろうかと言っています。

巻第9-1784

海神(わたつみ)のいづれの神を祈らばか行くさも来(く)さも船の早(はや)けむ 

【意味】
 海を支配するどの神にお祈りをすれば、行きも帰りも、より早く船が進むことができるでしょうか。

【説明】
 題詞に「入唐使に贈る歌」とありますが、左注によれば、渡海した年紀は未詳です。「海神(わたつみ)」は、わた・つ・みの3語からなり、「わた」は渡る意で、古来、海の彼方は他界と考えられており、「つ」は「天つ空」と同様「の」、「み」は「祇(み)」で神霊を意味します。『万葉集』では「海の神」または「海」そのものの意味に使い分けられています。「行くさも来さも」の「さ」は、~の時の意。行く時も帰る時も。

 作者について、窪田空穂は、「遣唐使に直接関係をもった人の歌で、おそらく女性の歌と思われる。それは相手と対等な地歩を占め、圏内にあっての不安をいったものであり、心弱いものだからである」と言っています。

巻第9-1790~1791

1790
秋萩(あきはぎ)を 妻問う鹿(か)こそ 独子(ひとりご)に 子持てりといへ 鹿児(かこ)じもの わが独子の 草枕 旅にし行けば 竹珠(たかだま)を しじに貫(ぬ)き垂(た)り 斎瓮(いはひべ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて 斎(いは)ひつつ わが思ふ吾(あ)が子 真幸(まさき)くありこそ
1791
旅人の宿(やど)りせむ野に霜(しも)降らば我(あ)が子(こ)羽(は)ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)
  

【意味】
〈1790〉秋萩を妻として訪れる鹿は一人の子を持つと言うが、その鹿の子のように、私にはたった一人しかいない息子が旅立ってしまうので、竹玉を緒いっぱいに通して垂らし、斎瓮に木綿を垂らして、身を清めて神を祭り、案じているわが子よ、どうか無事でいてほしい。

〈1791〉旅人が宿る野に、もし霜が降るなら、どうか我が子を羽で包んでおくれ、天を行く鶴の群れよ。

【説明】
 遣唐使の一行の中の誰かの母親が詠んだ歌ですが、母子ともその名は伝わっていません。一人息子を海外への旅に出さなければならない母親の、不安と切ない気持ちを歌った長歌と反歌です。遣唐使の一員に抜擢されるのは非常に名誉なことではありましたが、当時の遣唐使の旅は、無事に帰国できるほうが珍しいほどの危険な航海です。この時の遣唐大使は多治比広成(たじひのひろなり)で、天平5年(733年)4月3日に総員594名が4隻の船に乗って難波の港を出帆、無事に蘇州に到着したものの、翌年10月の帰路の船旅は悲惨な結果となり、暴風雨によって船は四散。

 一つの船は種子島付近に漂着し、その翌年(天平7年)の3月に帰京することができました。しかし、ある船はインドシナ半島まで吹き流され、天平11年になってようやく出羽国に帰還しています。しかも、それは少数の帰還でしかありませんでした。現地人とのトラブルによって殺傷されたり、風土病に冒されたりして150人中、90人が亡くなっていたからです。生き残った人たちは何とか唐に戻り、皇帝の許しを得て帰還を目指したものの、またもや日本海で死者を出す暴風雨に見舞われたのです。しかし、これらはまだよい方で、全く消息不明の船もありました。歌を詠んだ母親の息子が無事だったのかは、分かりません。

 1790の「草枕」は「旅」の枕詞。「鹿児じもの」は、鹿の子のように。鹿は一回の出産で一頭しか子を産まないことから、このように言っています。「竹珠」は、細い竹を輪切りにして装飾に用いた玉のことで、神事に使用したとされます。「しじに貫き」は、たくさん貫き。少しでも多くの竹玉を作って長く垂らすのがよいとされたのでしょう。「斎瓮」は、神に献上する酒を盛る器のこと。「木綿」は、楮(こうぞ)の繊維で、神前に供えるもの。「真幸くありこそ」の「こそ」は、願望。1791の「羽ぐくむ」は、もともとは羽で包んで愛撫する意でしたが、転じて育む、養育するという意味になった言葉です。
 
 斎藤茂吉は、1791の歌について、次のように言っています。「母親がひとり子の遠い旅を思う心情は一とおりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧を直ぐ聯想(れんそう)するし、実際また詩的に表現しているのである。けれども当時の人々は吾々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。それは万葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考えるよりももっと直接に感じつつああいう技法を取ったものに相違ない。そこで此歌でも、毫(ごう)もこだわりのない純粋な響を伝えているのである。もの云いに狐疑(こぎ)が無く不安が無く、子をおもうための願望を、ただその儘に云いあらわし得たのである」。

 それにしても、作者である「母」は相当な身分の人で、知的教養の豊かな人であったことが察せられます。国文学者の池田彌三郎は、「一つにはこの歌が第九に収められているという外的条件にもよる。第九は奈良朝の、外国の文化に触れた文人集団と関連の深い成立だから、この『母』もそういう人々の中に置いてみるべきかと思う。この歌も、女歌の系統のものではない声調を持っていて、この張り詰めた調子は知性的な響きを持っている」と述べています。
 
(関連記事)命がけの遣唐使

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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作者未詳歌

『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
 
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。

万葉集に詠まれた動物

あきさ
あきづ
あゆ
あわび
いかるが
いぬ

うぐいす
うさぎ
うし
うずら
うなぎ
うま
おしどり
かいこ・くはこ
かいつぶり・におどり
かじか
かつお
かも
かり
きざし
こおろぎ・きりぎりす
さぎ
さる
しか
しぎ
すずき
たい
たか
たにぐく
ちどり
ぬえどり
ひぐらし
ひばり
ほたる
ほととぎす
まぐろ
むささび
もず
やまどり
わし

和歌の修辞技法

枕詞
 序詞とともに万葉以来の修辞技法で、ある語句の直前に置いて、印象を強めたり、声調を整えたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする。序詞とほぼ同じ働きをするが、枕詞は5音句からなる。
 
序詞(じょことば)
 作者の独創による修辞技法で、7音以上の語により、ある語句に具体的なイメージを与える。特定の言葉や決まりはない。
 
掛詞(かけことば)
 縁語とともに古今集時代から発達した、同音異義の2語を重ねて用いることで、独自の世界を広げる修辞技法。一方は自然物を、もう一方は人間の心情や状態を表すことが多い。
 
縁語(えんご)
 1首の中に意味上関連する語群を詠みこみ、言葉の連想力を呼び起こす修辞技法。掛詞とともに用いられる場合が多い。
 
体言止め
 歌の末尾を体言で止める技法。余情が生まれ、読み手にその後を連想させる。万葉時代にはあまり見られず、新古今時代に多く用いられた。
 
倒置法
 主語・述語や修飾語・被修飾語などの文節の順序を逆転させ、読み手の注意をひく修辞技法。
 
句切れ
 何句目で文が終わっているかを示す。万葉時代は2・4句切れが、古今集時代は3句切れが、新古今時代には初・3句切れが多い。
 
歌枕
 歌に詠まれた地名のことだが、古今集時代になると、それぞれの地名が特定の連想を促す言葉として用いられるようになった。

古典文法

係助詞
助詞の一種で、いろいろな語に付いて強調や疑問などの意を添え、下の術語の働きに影響を与える(係り結び)。「は・も」の場合は、文節の末尾の活用形は変化しない。
〔例〕か・こそ・ぞ・なむ・や

格助詞
助詞の一種で、体言やそれに準じる語に付いて、その語とほかの語の関係を示す。
〔例〕が・に・にて・の

間投助詞
助詞の一種で、文中や文末の文節に付いて調子を整えたり、余情や強調などの意味を添える。
〔例〕や・を

接続助詞
助詞の一種で、用言や助動詞に付いて前後の語句の意味上の関係を表す。
〔例〕して・つつ・に・ば・ものから

終助詞
助詞の一種で、文末に付いて、疑問・詠嘆・願望などを表す。
〔例〕かし・かな・な・なむ・ばや・もがな

副助詞
助詞の一種で、さまざまな語に付いて、下の語の意味を限定する。
〔例〕さへ・し・だに・

助動詞
用言や体言に付いて、打消しや推量などのいろいろな意味を示す。

参考文献

『NHK日めくり万葉集』
 ~講談社
『NHK100分de名著ブックス万葉集』
 ~佐佐木幸綱/NHK出版
『大伴家持』
 ~藤井一二/中公新書
『古代史で楽しむ万葉集』
 ~中西進/KADOKAWA
『誤読された万葉集』
 ~古橋信孝/新潮社
『新版 万葉集(一~四)』
 ~伊藤博/KADOKAWA
『田辺聖子の万葉散歩』
 ~田辺聖子/中央公論新社
『超訳 万葉集』
 ~植田裕子/三交社
『日本の古典を読む 万葉集』
 ~小島憲之/小学館
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
 ~小名木善行/徳間書店
『万葉集』
 ~池田彌三郎/世界文化社
『万葉語誌』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉秀歌』
 ~斎藤茂吉/岩波書店
『万葉秀歌鑑賞』
 ~山本憲吉/飯塚書店
『万葉集講義』
 ~上野誠/中央公論新社
『万葉集と日本の夜明け』
 ~半藤一利/PHP研究所
『萬葉集に歴史を読む』
 ~森浩一/筑摩書房
『万葉集のこころ 日本語のこころ』
 ~渡部昇一/ワック
『万葉集の詩性』
 ~中西進/KADOKAWA
『万葉集評釈』
 ~窪田空穂/東京堂出版
『万葉樵話』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉の旅人』
 ~清原和義/学生社
『万葉ポピュリズムを斬る』
 ~品田悦一/講談社
『ものがたりとして読む万葉集』
 ~大嶽洋子/素人舎
『私の万葉集(一~五)』
 ~大岡信/講談社
ほか

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