630年に第1回目として派遣された遣唐使は、全部で18〜20回任命されましたが、実際に派遣されたのは13回ほどでした。船団は初期が2〜3船、のち4船となり、「四(よ)つの船」ともいわれました。遣唐使は、今でいう政府の公式使節団であり、また国費留学制度という一面もありましたから、下級の家に生まれた者たちにとっては憧れの的だったといいます。
遣唐使のおもな目的は、国際的な地位の確立と政治制度や文物の導入にありました。当時の中国は東アジアの中心で、日本にとっては世界の大半といってもよいほどの存在でした。ですから、その中国に対し、日本を文化的にすぐれた国だと印象づけることも重要な外交テーマだったのです。白村江の戦いの後に関係が悪化していた新羅との席次争いでは、大伴古麻呂が、新羅の上位になるよう強く抗議したこともあるといいます。
日本に持ち込まれた文物は、遣唐使みずからの朝貢貿易の形による唐からの下賜品や、所持金で買い求めたものもありますが、多くは、同行した留学生・留学僧が長年かけて収集したものでした。たとえば、吉備真備は兵学・音楽・暦学関係の多数の文物を、大和長岡らは法制の知識を伝え、空海・最澄は新しい仏教を導入しました。
しかし、遣唐使の航行には多くの犠牲をともないました。朝鮮半島西岸を進む北路は比較的安全だったものの、新羅と対立してからは、五島列島の福江島から東シナ海を横断する南路、または石垣島から東シナ海を横断する南島路をとらざるをえませんでした。
当時は季節風の知識もなく、外海の激しい海流を乗りきれるだけの船体構造の知識もありませんでしたから、しばしば難破漂流し、死者・行方不明者が多数出ました。しかも、任務を終えた復路での遭難が多かったといいますから痛ましい限りです。まさに命がけの使節であり、往復とも無事だったのは、およそ半分だったとされます。約6,000人の留学生のうち、3,000人が海の藻屑と消えてしまったのです。
しかも、無事に生還したからといって皆が出世できたわけではなく、歴史に名前が記録されているのは、わずか27人にすぎません。そのうえ命がけというので、中にはせっかく遣唐使に選ばれながらも、出発直前に逃げ出す者もあったといいます。たとえば、小野小町の祖父とされる小野篁(おののたかむら)は、遣唐副使に任ぜられたものの、2回の渡航に失敗、3回目には乗船を拒否し、そのために島流しにされています(後に復帰)。
彼の意志を継いだというわけではないでしょうが、894年に遣唐使となった菅原道真は、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使の一時停止を提案し、ゆるされました。その後に唐が滅んだことから、遣唐使もそのまま消滅しました。それでも、200年以上にわたり、苦労に苦労を重ねて派遣された遣唐使は、先進国・唐の文化や制度、仏教の日本への伝播に大いに貢献しました。わが先人たちの崇高なる努力とチャレンジに、厚く敬意を表したく思います。
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