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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第13)~その3

巻第13-3318~3322

3318
紀伊(き)の国の 浜に寄るといふ 鮑玉(あはびたま) 拾(ひり)はむと言ひて 妹(いも)の山 背(せ)の山越えて 行きし君 いつ来まさむと 玉桙(たまほこ)の 道に出(い)で立ち 夕占(ゆふうら)を 我(わ)が問ひしかば 夕占の 我(わ)れに告(つ)ぐらく 我妹子(わぎもこ)や 汝(な)が待つ君は 沖つ波 来寄(きよ)る白玉(しらたま) 辺(へ)つ波の 寄する白玉 求むとそ 君が来まさぬ 拾(ひり)ふとそ 君は来まさぬ 久(ひさ)ならば いま七日(なぬか)だみ 早からば いま二日(ふつか)だみ あらむとそ 君は聞こしし な恋ひそ我妹(わぎも)
3319
杖(つゑ)つきもつかずも我(わ)れは行かめども君が来(き)まさむ道の知らなく
3320
直(ただ)に行かずこゆ巨勢道(こせぢ)から石瀬(いはせ)踏み求めぞ我(わ)が来(こ)し恋ひてすべなみ
3321
さ夜(よ)更(ふ)けて今は明けぬと戸を開けて紀伊(き)へ行く君をいつとか待たむ
3322
門(かど)に居(ゐ)し郎子(いらつこ)宇智(うち)に至るともいたくし恋ひば今帰り来(こ)む
 

【意味】
〈3318〉紀伊の国の浜に寄せられるという真珠の玉を拾おうといって、妹の山、背の山越えて行かれたあの人は、いつ帰って来られるかと、道に出て立って夕占いに問うてみたら、夕占いが私に告げるにはておっしゃった。「愛しい人よ、そなたが待っている夫君は、沖の波が寄せてくる真珠、岸の波が寄せてくる真珠を手に入れようと、まだ帰って来られない。それを拾おうと、まだ帰って来られない。長くてもあと七日、早ければあと二日かかるとおっしゃっていた。そんなに恋しがらないでくれ、愛しい人よ」と。

〈3319〉杖をついてもつかなくとも、私はお迎えに行きたいのだけれど、あなたの帰り道が分からない。

〈3320〉まっすぐには行かず、こちらから越せという巨勢道を通り、岩床の川瀬を踏み踏み、あなたを探し求めてやって来ました。恋しくてどうしようもないので。

〈3321〉夜が更け、今日は明けたぞと戸を開き、紀伊の国へ旅立っていったあの人のお帰りを、いつと思ってお待ちしたらよいのでしょうか。

〈3322〉門を背に旅立っていった私の夫は、宇智まで行っていようとも、家が恋しければすぐに帰ってくるだろう。

【説明】
 官人として紀伊国へ出張した夫の帰りを待ちわびる妻の歌。3318の「鮑玉」は、鮑の貝の中にある真珠。「妹の山背の山」は、和歌山県かつらぎ町の紀の川を挟んで向き合う山。実際に越えるのは「背の山」の方で、畿内の南限とされました。「玉桙の」は「道」の枕詞。「夕占」は、夕方の道端に立って、往来する人の言葉を聞いて吉凶を占うもの。「な恋ひそ」の「な~そ」は、禁止。

 3320の「直に行かずこゆ」は「巨勢」を導く序詞。「越せ」を掛けています。「巨勢道」は、大和と紀伊を結ぶ街道で、奈良県御所市の巨勢の地を通る道。3321の「さ夜更けて今は明けぬと」は、夜更けなのに夜が明けたといって早く旅立つ意。3322の「郎子」は、男子を親しんで呼ぶ語。「宇智」は、奈良県五條市。「いたくし」は、激しく、甚だしく。

巻第13-3323

しなたつ 筑摩(つくま)左野方(さのかた) 息長(おきなが)の 遠智(をち)の小菅(こすげ) 編(あ)まなくに い刈り持ち来(き) 敷かなくに い刈り持ち来て 置きて 我(わ)れを偲(しの)はす 息長(おきなが)の 遠智(をち)の小菅 

【意味】
 筑摩の左野方の人は、息長の遠越の小菅を、編みもしないのに刈り取ってきたり、敷きもしないのに刈り取って持って来たりして、そのまま捨て置いて気をもませるなんて、息長の遠智のこの小菅に。

【説明】
 結婚する気もないのに関わってくる男を恨む女の歌とされます。「しなたつ」は、語義未詳ながら「筑摩」にかかる枕詞。「筑摩」は、滋賀県米原市の琵琶湖岸付近。「左野方」は、蔓性の植物として解釈しているものもありますが、ここでは地名としています。「息長」は、筑摩の北隣。「遠智」は、息長の中にある地名か。「小菅」は、小さい菅で、女の比喩。「編む」「敷く」は、結婚の比喩。

巻第13-3324~3325

3324
かけまくも あやに畏(かしこ)し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向かふ 年の緒(を)長く 仕(つか)へ来(こ)し 君の御門(みかど)を 天(あめ)のごと 仰ぎて見つつ 畏(かしこ)けど 思ひ頼みて いつしかも 日(ひ)足(た)らしまして 望月(もちづき)の 満(たた)はしけむと 我(わ)が思ふ 皇子(みこ)の命(みこと)は 春されば 植槻(うゑつき)が上の 遠つ人 松の下道(したぢ)ゆ 登らして 国見(くにみ)遊ばし 九月(ながつき)の しぐれの秋は 大殿(おほとの)の 砌(みぎり)しみみに 露(つゆ)負ひて なびける萩を 玉たすき 懸けて偲(しの)はし み雪降る 冬の朝(あした)は 刺(さ)し柳(やなぎ) 根(ね)張り梓(あづさ)を 大御手(おほみて)に 取らしたまひて 遊ばしし 我(わ)が王(おほきみ)を 霞(かすみ)立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代(よろづよ)に かくしもがもと 大船(おほぶね)の 頼める時に 泣く我(わ)れ 目かも迷(まと)へる 大殿(おほとの)を 振り放(さ)け見れば 白栲(しろたへ)に 飾り奉(まつ)りて うちひさす 宮の舎人(とねり)も〈一に云ふ、は〉 栲(たへ)のほの 麻衣(あさぎぬ)着(け)れば 夢(いめ)かも うつつかもと 曇(くも)り夜(よ)の 迷(まと)へる間(あひだ)に あさもよし 城上(きのへ)の道ゆ つのさはふ 磐余(いはれ)を見つつ 神葬(かむはぶ)り 葬(はぶ)り奉(まつ)れば 行く道の たづきを知らに 思へども 験(しるし)をなみ 嘆けども 奥処(おくか)をなみ 大御袖(おほみそで) 行き触れし松を 言(こと)問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天(あま)の原 振り放(さ)け見つつ 玉たすき 懸けて偲(しの)はな 畏(かしこ)くあれども
3325
つのさはふ磐余(いはれ)の山に白栲(しろたへ)にかかれる雲は大君(おほきみ)にかも
 

【意味】
〈3324〉口に出して言うのは甚だ恐れ多いことだが、あえて言おう。藤原の都いっぱいに人は満ち、君と呼ばれる方々は多くいらっしゃるが、廻る年月長くお仕えしてきた我が君の御殿を、天上のように仰ぎ見つつ、恐れ多くも頼みに思って、一刻も早く立派になられて満月のように満ち足りてほしいと思ってきた皇子の命(みこと)は、春になると植槻の丘の、松の下道を通ってお登りになって国見をなされ、九月の時雨が降る秋には、御殿の石畳にいっぱい露を受けてなびく萩を、しみじみと心に懸けて愛でられ、雪が降る冬の朝には、挿し木した柳が根を張るようにぴんと張った梓弓をお取りになって、狩りをなさった、そんな皇子は、霞がたち込める春の長い日をずっと見ていても見飽きることがなく、いついつまでもこのように元気であらせられるだろうと、大船に乗ったように頼みきっていたその矢先、泣いて私の目が狂ったのか、御殿を仰ぎ見ると真っ白な布で飾られ、宮の舎人たちも真っ白な麻の喪服を着ている。これは夢かうつつかと、わけが分からずうろたえるうちに、城上の道を磐余に向けて神として葬り申し上げたので、行く道の方角も分からず、どう思っても甲斐がなく、どう嘆いてもきりがない。せめて、国見の際に皇子の御袖が触れた松を、もの言わぬ木ではあるが、月が改まるごとに振り仰いで心の底からお偲び申し上げよう。恐れ多いことであるけれど。

〈3325〉磐余の山に、白い布のようにかかっている雲は、亡き皇子なのであろうか。

【説明】
 3324以下は「挽歌」が集められており、3324~3332が大和の挽歌、3333~3347が行路の挽歌となっています。ここは、ある皇子の薨去に際し、仕えていた舎人の一人が詠んだ歌ですが、どの皇子であるかは不明。

 3324の「かけまくもあやに畏し」は、口に出して言うのも甚だ恐れ多い。天皇や天皇に準ずる尊貴の方についていう時に用いる成語。「しみみに」は、隙間なくいっぱいに。「行き向かふ」は「年」の枕詞。「年の緒」は、年の長く続くのを緒にたとえていう語。「いつしかも」は、早く。「日足らしまして」は、ご成人なされて。「望月の」は「満はし」の枕詞。「皇子の命」の「命」は尊称。「植槻」は、大和郡山市北部の地か。「遠つ人」は遠方にいる人で、待つの意で「松」にかかる枕詞。「砌」は、軒下の敷石。「玉たすき」は「懸け」の枕詞。「み雪ふる」は「冬」の枕詞。「刺し柳根」は「張り」を導く序詞。「遊ばしし」は、狩猟をなされた。「霞立つ」は「春」の枕詞。「まそ鏡」は「見」の枕詞。「かくしもがも」の「しも」は強意、「がも」は願望。「大船の」は「頼む」の枕詞。「うちひさす」は「宮」の枕詞。「栲のほの」は、真っ白な。「曇り夜の」は「迷へる」の枕詞。「あさもよし」は「城上」の枕詞。「城上」は、桜井市戒重あたりか。「つのさはふ」は「磐余」の枕詞。「磐余」は、桜井市中部から橿原市南東部にかけての一帯。「神葬り葬り奉れば」は、神として葬り申し上げると。「験をなみ」は、甲斐がないので。「奥処をなみ」は、果てしないので。「あらたまの」は「月」の枕詞。

 3325の「白栲にかかれる雲は」は、火葬したことによる表現。火葬は、文武天皇の4年に初めて行われたので、それ以後に薨去した年若い皇子とみられます。

巻第13-3326

磯城島(しきしま)の 大和の国に いかさまに 思ほしめせか つれもなき 城上(きのへ)の宮に 大殿(おほとの)を 仕へ奉(まつ)りて 殿隠(とのごも)り 隠(こも)りいませば 朝(あした)には 召(め)して使ひ 夕(ゆふへ)には 召して使ひ 使はしし 舎人(とねり)の子らは 行く鳥の 群れて侍(さもら)ひ あり待てど 召したまはねば 剣大刀(つるぎたち) 磨(と)ぎし心を 天雲(あまくも)に 思ひはぶらし 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 飽き足らぬかも 

【意味】
 礒城島の大和の国で、どう思われたのか、ゆかりもない城上の宮に御殿を作られてお隠れになっているので、朝には召して用を仰せになり、夕べにはやはり召されて用を仰せになった舎人たちは、飛ぶ鳥が群がるように群がってお召しを待ち、ずっとお待ちしているのに、一向にお召しがないので、心をとぎ澄まして張りつめていた思いは、天雲のように散らして、転げまわり涙に濡れて泣くけれども、悲しみは少しも晴れることがない。

【説明】
 城上の殯宮においての舎人の心を詠んだ歌です。墓所が城上であるのと、殯宮の儀の厳めしさから見て、草壁皇子か高市皇子の際のものではないかといいます。「磯城島の」は「大和」の枕詞。「つれもなき」は、縁もゆかりもない。「城上」は、桜井市戒重あたりか。「大殿」は、ここでは殯(あらき)の宮。「殿隠り」は、殿の内に引き籠って。「行く鳥の」は「群がり」の枕詞。「群れて侍ひ」は、昼夜交替で奉仕している意。「剣大刀」は「磨ぎ」の枕詞。

巻第13-3327~3328

3327
百小竹(ももしの)の 三野(みの)の王(おほきみ) 西の厩(うまや) 立てて飼(か)ふ駒(こま) 東(ひむがし)の厩(うまや) 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふと言へ 水こそば 汲(く)みて飼ふと言へ 何しかも 葦毛(あしげ)の馬の い鳴き立てつる
3328
衣手(ころもで)葦毛(あしげ)の馬のいなく声(こゑ)心(こころ)あれかも常(つね)ゆ異(け)に鳴く
 

【意味】
〈3327〉栄えておられた三野王が、西に馬屋を建てて飼う馬、東に馬屋を建てて飼う馬。草はどっさり取ってきて与えてあるというのに、水はたっぷり汲んできて与えてあるというのに、どういうわけで、葦毛の馬たちはこんなに鳴き立てるのか。

〈3328〉葦毛の馬のいななく声は、主人を悲しむ心があるかのように、いつもとは違う声で鳴いている。

【説明】
 三野王が亡くなった時の歌。三野王は橘諸兄(たちばなのもろえ)の父で、672年の壬申の乱では天武側につき、その後天武天皇・持統天皇に仕えました。3327の「百小竹の」は、たくさんの篠が茂る野の意で「三野」にかかる枕詞。3328の「衣手」は「葦毛」の枕言葉ながら、掛かり方未詳。「常ゆ異に」は、いつもと違って。

 馬たちは、屋敷内がふだんと違う雰囲気であるのを察知し、可愛がってくれている主人が姿を見せないことに異変を感じて鳴き立てたのでしょうか。万葉学者の伊藤博はこの歌を、「簡素な言葉づかいと古樸な調べの中に真情が溢れる」と評しています。

巻第13-3329

白雲(しらくも)の たなびく国の 青雲(あをくも)の 向伏(むかぶ)す国の 天雲(あまくも)の 下(した)なる人は 我(あ)のみかも 君に恋ふらむ 我(あ)のみかも 君に恋ふれば 天地(あめつち)に 言(こと)を満(み)てて 恋ふれかも 胸の病(や)みたる 思へかも 心の痛き 我(あ)が恋ぞ 日に異(け)に増さる 何時(いつ)はしも 恋ひぬ時とは あらねども この九月(ながつき)を 我(わ)が背子(せこ)が 偲(しの)ひにせよと 千代(ちよ)にも 偲(しの)ひわたれと 万代(よろづよ)に 語り継(つ)がへと 始めてし この九月(ながつき)の 過ぎまくを いたもすべなみ あらたまの 月の変はれば 為(せ)むすべの たどきを知らに 岩が根の こごしき道の 岩床(いはとこ)の 根延(ねば)へる門(かど)に 朝(あした)には 出(い)で居(ゐ)て嘆き 夕(ゆふへ)には 入(い)り居(ゐ)恋ひつつ ぬばたまの 黒髪(くろかみ)敷きて 人の寝(ぬ)る 味寐(うまい)は寝(ね)ずに 大船(おおぶね)の ゆくらゆくらに 思ひつつ 我(わ)が寝(ぬ)る夜(よ)らは 数(よ)みもあへぬかも

【意味】
 白雲のたなびくこの国、青雲の地に向かって伏す国の、天雲の下にいる人々の中で、ただ私のみがあなたを恋慕っているのか、私のみがあなたを恋い慕って、天地に満ち溢れるほどに言葉を尽くしているので、こんなに胸が病めるのか、そんなふうに思い悩んでいるので心が痛むのか。私の悲しみは日に日に増さっていく。いつといって恋しくない時はないけれど、特にこの九月は、あなたが、私を偲ぶよすがの月にせよ、千代までも偲んでくれ、万代までも語り継いでくれとおっしゃって、大切にし始めたこの九月が過ぎようとするのが何とも致し方なく、月が変わってしまうとどうしてよいのか取っ掛かりも分からず、岩のごつごつした道なのに、どっしりした岩床のような門口なのに、朝にはその道に佇んで嘆き、夕方には門の中に籠って偲び、折り返した袖に黒髪を敷いて人様のように楽しく共寝をすることもなく、ゆらゆら揺れる大船のように、あれやこれやと思いつつ独り寝る夜は、とても数え切れるものでない。

【説明】
 亡くなった夫への挽歌。「日に異に」は、日増しに。「いたもすべなみ」は、何とも致し方なく。「あらたまの」は「月」の枕詞。「すべのたどき」は、よるべき方法。「岩が根」は、大地に根を下ろしたような大きな岩。「岩床」は、岩の面の平らなところ。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「味寐」は、共寝をして満ち足りて眠ること。「大船の」は「ゆくらゆくら」の枕詞。「夜ら」の「ら」は、接尾語。「数みもあへぬ」は、数えきれない。九月は二人が結婚した月だったのでしょうか、それとも夫が亡くなった月なのでしょうか。
 
 なお、「為むすべのたどきを知らに」以下の句は、相聞の3274とほとんど同じになっています。

巻第13-3330~3332

3330
こもくりの 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 鵜(う)を八(や)つ潜(かづ)け 下(しも)つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎(あゆ)を食(く)はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹(いも)に 鮎を惜(を)しみ くはし妹に 鮎を惜しみ 投(な)ぐるさの 遠(とほ)ざかり居(ゐ)て 思ふ空 安けなくに 嘆く空 安けなくに 衣(きぬ)こそば それ破(や)れぬれば 継(つ)ぎつつも またも合(あ)ふといへ 玉こそば 緒(を)の絶えぬれば くくりつつ またも合ふといへ またも逢はぬものは 妻にしありけり
3331
こもくりの 泊瀬(はつせ)の山 青旗(あをはた)の 忍坂(おさか)の山は 走出(はしりで)の 宜(よろ)しき山の 出立(いでたち)の くはしき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜(を)しも
3332
高山(たかやま)と 海とこそは 山ながら かくも現(うつ)しく 海ながら しか真(まこと)ならめ 人は花物(はなもの)そ うつせみ世人(よひと)
  

【意味】
〈3330〉泊瀬の川の上流に鵜を多く潜らせ、下流に鵜を多く潜らせ、上流の鮎を食わせ、下流の鮎を食わせておきながら、麗しい妻に、鮎が惜しいからと食わせず、美しかった妻に、鮎が惜しいからと食わせなかった挙句、その妻が、川に投げた矢のごとく遠ざかってしまった。その妻を思いやれば、とても心安かではいられず、嘆く心は苦しくてならない。衣ならば破れても継ぎ合わせてまた合わせられる、玉の紐なら切れてもくくり直せばまた合わせられるというのに、また逢うことのできないもの、それは、事もあろうに亡くなった妻であったよ。

〈3331〉泊瀬の山、忍坂の山は、裾の伸びた好ましい山。高くそびえる麗しい山。そんな惜しむべき山が荒れてゆくのが残念だ。

〈3332〉高い山と海こそは、山であるがゆえに確かに存在し、海であるがゆえにはっきりと存在しているのだろう。しかし、人は花のようにはかなく散る、いっときの世の人。

【説明】
 亡くなった妻への挽歌。3330の「こもりくの」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の川」は、桜井市初瀬の北方の山中に発し、三輪山をめぐって大和川に合流する川。「八つ」は、多くの意。「くはし妹」の「くはし」は、細部まで精妙で完全・完璧なさま。原文は「麗妹」となっており、『万葉集』では他に「妙」「細」の字があてられます。また、ここでは「食はし」と掛けています。「投ぐるさの」は「遠ざかり」の枕詞。「遠ざかり居て」は亡くなったことの意。「思ふ空」は、思う心。
 
 古代の漁法は、梁(やな)や網代(あじろ)を使っていたことが窺えますが、この歌からは、鵜飼によって鮎を捕っていたことが分かります。また、記紀や『肥前国風土記』には、神功皇后が松浦の玉島の川で、着ていた喪の糸を抜いて釣り糸にし、飯粒を餌にして鮎を釣ったという話が載っています。ちなみに友釣りは江戸時代中期に始まったとされます。

 3331の「こもりくの」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、桜井市初瀬周辺の山。「青旗の」は「忍坂」の枕詞。「忍坂の山」は、桜井市忍坂にある山。「走出の」は、横に突き出た。「出立の」は、高く突き出た。忍坂の葬地に人が訪れなくなった寂しさを惜しんでいます。「くはし」は、麗しい。

 3332の「山ながら」は、山であるがゆえに、山そのものとして。「かくも現しく」は、このように確かに存在し。「しか真ならめ」は、そのように真実なのだろう、いかにも海らしくある意。「うつせみの」は「世」の枕詞。「うつせみ」だけでこの世の人を示しますが、「世人」を重ねてその意味を強めています。人の世の無常を、確かな現実として存在し続ける山や海と対比して歌っており、同じく無常の対象としてしている「花」は桜でしょうか。仏典の影響を強く受けている歌です。

 ここの歌は、妻を失った泊瀬地方の漁師が、生前の妻にうまいものを食わせてやらなかったことを後悔して歌っている挽歌ですが、その技巧などから、相当な知識人が、漁民の立場になって創作したものとみられています。詩人の大岡信も、「万葉時代の詩人たちには、すでに十分、虚構による作品制作意識が浸透していたというふうに見てよいのではないかと思われる。その場合、長歌という形式は、知的な構成の必要があるので、その種の意欲を盛るには格好の場だっただろう」と述べています。

巻第13-3333~3334

3333
大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 蜻蛉島(あきづしま) 大和を過ぎて 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の浜辺(はまへ)ゆ 大船(おおぶね)に 真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き 朝なぎに 水手(かこ)の声しつつ 夕なぎに 楫(かぢ)の音(おと)しつつ 行きし君 いつ来(き)まさむと 占(うら)置きて 斎(いは)ひ渡るに 狂言(たはこと)か 人の言ひつる 我(あ)が心 筑紫(つくし)の山の 黄葉(もみちば)の 散り過ぎにきと 君が直香(ただか)を
3334
狂言(たはこと)か人の言ひつる玉の緒(を)の長くと君は言ひてしものを
  

【意味】
〈3333〉大君の仰せを慎んでお受けし、大和をあとにして、大伴の御津の浜辺から、大船に櫂を貫き並べ、朝凪どきに水手の掛け声高く、夕凪どきに梶の音も賑やかに船出したあの方。いつ戻っていらっしゃるのかと、占いを立てて神様にお祈りし続けていたのに、誰がでたらめを言ったのか、我が心を尽くすという筑紫の山の黄葉のように散っていかれたという、まぎれもないあの方のあの姿が。

〈3334〉誰がでたらめを言ったのか、玉を通した紐のように長く、長くとあの人は言ってくれていたのに。

【説明】
 任地の筑紫で亡くなった夫への挽歌。3333の「蜻蛉島」は「大和」の枕詞。「大伴の御津」は、大阪市住吉区あたりにあった船着き場。「真楫しじ貫き」は、楫を船の船の両舷にたくさん取り付けて。「斎ひ渡る」は、神に祈り続けている。「狂言」は、たわけた言、でたらめ。「我が心」は「筑紫」の枕詞。「直香」は、その人自身、その人の姿。3334の「玉の緒の」は「長く」の枕詞。任地で亡くなった「君」は、遣唐使か遣新羅使、あるいは大宰府に赴任した人だったのでしょうか。

巻第13-3335

玉桙(たまほこ)の 道行く人は あしひきの 山行き野(の)行き 直海(ひたうみ)の 川行き渡り 鯨魚(いさな)とり 海道(うみぢ)に出(い)でて 畏(かしこ)きや 神の渡りは 吹く風も 和(のど)には吹かず 立つ波も 凡(おほ)には立たず とゐ波の 塞(ささ)ふる道を 誰(た)が心 いたはしとかも 直(ただ)渡りけむ 直(ただ)渡りけむ 

【意味】
 道を行く人は、山を行き、野を行き、川を渡り、海道に乗り出して、恐ろしい神のいます渡海場所は、吹く風も穏やかには吹かず、立つ波も普通には立たず、うねり立つ波が塞ぐ道であるのに、誰の心をいたわしいと思って、まっすぐに渡って来たのか、まっすぐに渡って来たのか。

【説明】
 旅人が、海岸で同じ旅人の水死体を見て作った歌。次の3336~3338との連作になっています。「玉桙の」「あしひきの」は、それぞれ「道」「山」の枕詞。「直海の」は、誤写説もあり訓が定まっていませんが、「川」の枕詞と見られます。「鯨魚とり」は「海道」の枕詞。「神の渡り」は、神のいます渡海場所。「和には」は、穏やかには。「凡には」は、普通には。「とゐ波」は、うねり立つ波。「直渡りけむ」の「直」は、ひたむきに、などと解するものもあります。

巻第13-3336~3338

3336
鳥が音(ね)の 神島(かしま)の海に 高山(たかやま)を 隔(へだ)てになして 沖つ藻(も)を 枕(まくら)になし 蛾羽(ひむしは)の 衣(きぬ)だに着ずに いさなとり 海の浜辺(はまへ)に うらもなく 臥(ふ)したる人は 母父(おもちち)に 愛子(まなご)にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思(おも)ほしき 言伝(ことつ)てむやと 家(いへ)問へば 家をも告(の)らず 名を問へど 名だにも告(の)らず 泣く子なす 言(こと)だに問はず 思へども 悲しきものは 世の中にぞある 世の中にぞある
3337
母父(おもちち)も妻も子どもも高々(たかたか)に来(こ)むと待ちけむ人の悲しさ
3338
あしひきの山路(やまぢ)は行かむ風吹けば波の塞(ささ)ふる海路(うみぢ)は行かじ
  

【意味】
〈3336〉鳥の鳴き声のように波がざわめく神島の海に、高い山を壁代わりにし、沖に浮かぶ藻を枕代わりにして、蛾の羽の薄い着物もまとわず、この浜辺に何の感情もなく横たわっている人。この人は母や父にとっては愛しい子だろう、かわいい妻もいたのあるだろう。何か言づけもあるだろうと思い、家を訊ねたが家も告げず、名を問うてもそれさえ言わない。まるで駄々っ子のように返事もしない。思えば思うほど、悲しくてならないのは、この人の世である、この人の世である。

〈3337〉母も父も、また妻も子供も、今に来るだろう、今に来るだろうと待ち望んでいたに違いない人だろうに、この人のこんな姿が悲しくてならない。

〈3338〉私は徒歩で山道を行こう。風が吹くと波にさえぎられる海路は行くまい。

【説明】
 上の歌からの続きで、旅人が、海岸で同じ旅人の水死体を見て作った歌。3336の「鳥が音の」「いさなとり」「若草の」「泣く子なす」は、それぞれ「神島」「海」「妻」「言」の枕詞。「神島の海」は、所在未詳。「うらもなく」は、何の感情もなく。3337の「高々に」は、爪先立って待ち望むさま。3338の「あしひきの」は「山」の枕詞。「塞ふる」はさえぎる、妨げる。

 3336・3337では、死者の状態を詳細に言い、その家族に思いを寄せているのに対し、3338では自らの恐怖を述べて、死者の悲しみを表現しています。なお、挽歌において死者をただちに死者と見ず、はじめは生者であるかのように扱うのが古来死者に対する礼とされ、すべての挽歌の背後にある態度とされます。

巻第10-3339~3343

3339
玉桙(たまほこ)の 道に出(い)で立ち あしひきの 野(の)行き山行き にはたづみ 川行き渡り 鯨魚(いさな)とり 海路(うみぢ)に出でて 吹く風も おぼには吹かず 立つ波も 和(のど)には立たぬ 畏(かしこ)きや 神の渡りの しき波の 寄する浜辺(はまへ)に 高山を 隔(へだ)てに置きて 浦(うら)ぶちを 枕にまきて うらもなく 臥(ふ)したる君は 母父(おもちち)が 愛子(まなご)にもあらむ 若草(わかくさ)の 妻もあるらむ 家(いへ)問(と)へど 家道(いへぢ)も言はず 名を問へど 名だにも告(の)らず 誰(た)が言(こと)を いたはしとかも とゐ波の 畏(かしこ)き海を 直(ただ)渡りけむ
3340
母父(おもちち)も妻も子どもも高々(たかたか)に来(こ)むと待つらむ人の悲しさ
3341
家人(いへびと)の待つらむものをつれもなき荒礒(ありそ)を巻きて臥(ふ)せる君かも
3342
浦ぶちにこやせる君を今日(けふ)今日(けふ)と来むと待つらむ妻し悲しも
3343
浦波(うらなみ)の来(き)寄する浜につれもなくこやせる君が家道(いへぢ)知らずも
 

【意味】
〈3339〉道に出で立ち、野を行き、山を行き、川を渡り、海道に出て、吹く風も普通には吹かず、立つ波も穏やかには立たない、恐ろしい神のいます渡海場所の、重なる波が寄せる浜辺に、高い山を壁にし、入江の岸を枕にして、何も気にかけずに横たわっている君、この君は、母や父の愛しい子だろうに、かわいい妻もいるだろうに。なのに、家を尋ねても家への道も言わず、名を問うてもそれさえ言わない。いったい、どなたとの約束を大切に思って、うねり波の恐ろしい海をまっすぐ渡ってきたのだろう。

〈3340〉母も父も、妻も子どもも、今に来るだろう今に来るだろうと待ち望んでいる人であろうに、このような姿が悲しくてならない。

〈3341〉家の人が待っているだろうに、何のゆかりもない荒磯に横たわっている君であるよ。

〈3342〉浦の淵に横たわる君を、今日か今日かと帰りを待っているだろう妻の憐れなことよ。

〈3343〉浦波の押し寄せてくる浜に、何の思いもなく横たわっている君の、家への道も分からないことよ。

【説明】
 3335~3338に対する異伝として、題詞に「備後(びんご)の国の神島(かみしま)の浜にして、調使首(つきのおみのおびと)が屍(しかばね)を見て作る」とある歌。「備後の国」は、広島県東部。「調使首」は、伝未詳。渡来系の人か。3339の「玉桙の」「あしひきの」「にはたづみ」「鯨魚とり」「若草の」は枕詞。「うらもなく」は、何も気にかけず。3340の「高々に」は、爪先立って待ち望むさま。3343の「浦波」は、海岸に打ち寄せる波。

巻第13-3344~3345

3344
この月は 君(きみ)来(き)まさむと 大船(おほふね)の 思ひ頼みて いつしかと 我(わ)が待ち居(を)れば 黄葉(もみちば)の 過ぎてい行くと 玉梓(たまづさ)の 使ひの言へば 蛍(ほたる)なす ほのかに聞きて 大地(おほつち)を 炎(ほのほ)と踏みて 立ちて居(ゐ)て 行くへも知らず 朝霧(あさぎり)の 思ひ迷(まと)ひて 丈(つゑ)足らず 八尺(やさか)の嘆き 嘆けども 験(しるし)をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲(あまくも)の 行きのまにまに 射(い)ゆ鹿猪(しし)の 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居(ゐ)て 君に恋ふるに 音(ね)のみし泣かゆ
3345
葦辺(あしへ)行く雁(かり)の翼(つばさ)を見るごとに君が帯(お)ばしし投矢(なげや)し思ほゆ
 

【意味】
〈3344〉この月はあの人がお帰りになるだろうと、大船に乗ったようにあてにして、いつかいつかと私は待ち焦がれていたのに、黄葉が散るように世を去って行ったと、あの人のお言葉を運び続けた使いが言うので、蛍火のようにちらっと聞いただけで、炎を踏むように大地を踏み、立ったり座ったりして途方に暮れ、朝霧のように思い乱れて、大きな溜め息をついて嘆いても何の甲斐もなく、どこかにあの人はいらっしゃるだろうと、天雲のように行くに任せて、手負いの鹿猪のように行き倒れになろうとも出かけようと思うけれども、道を知らないので、一人いて、あの人を思って声をあげて泣いてばかりいる。

〈3345〉葦辺を飛んでいく雁の翼を見るたびに、あの人が負っていらした投げ矢が思い出される。

【説明】
 任期を終えて帰ってくるはずの地方官の妻が、突然夫の死を知らされた時の、激しい動揺をうたった歌とみられます。3344の「大船の」「黄葉の」「玉梓の」「蛍なす」「朝霧の」「丈足らず」は、それぞれ「思ひ頼み」「過ぎ」「使ひ」「ほのかに」「迷ひ」「八尺」の枕詞。「八尺の嘆き」は、きわめて長い嘆き。「験をなみと」は、甲斐がないので。「天雲の」は、ここでは比喩。「射ゆ猪鹿の」は「行きも死なむ」の枕詞。3345の「投矢」は、手で投げる矢。雁の翼を見て、夫の矢の矢羽を思い出しています。

 なお、左注に「右二首、但し或いは云はく、この短歌は、防人の妻の作りし所なり。然らば長歌も此と同作なりと知るべしといへり」とあり、防人の妻の作ではないかという説があります。しかしながら、巻第20に収められている防人の妻の歌のような真摯さはなく、長歌では枕詞が異常に多く、あまりに技巧に満ちており、柿本人麻呂の「泣血哀慟歌(巻第2-207)」の中のそのままを使っています。反歌も通りいっぺんで迫真性に欠けており、土屋文明は、「別居の夫を失った妻の悲嘆を表現する為に、人麻呂を手本として、それから転訛し、成立した民謡であらう」と述べています。

巻第13-3346~3347

3346
見欲(みほ)しきは 雲居(くもゐ)に見ゆる うるはしき 鳥羽(とば)の松原 童(わらは)ども いざわ出(い)で見む こと放(さ)けは 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地(あめつち)の 神し恨(うら)めし 草枕 この旅の日(け)に 妻(つま)放くべしや
3347
草枕この旅の日(け)に妻(つま)離(さか)り家道(いへぢ)思ふに生けるすべなし
 

【意味】
〈3346〉見たいものは、雲の彼方に見える 愛すべき鳥羽の松原。さあ、子供たちよ、出て見よう。同じ別れるなら、国にいる時に別れさせてほしい、同じ別れるなら、家で別れさせてほしかった。天地の神が恨めしい。この旅の間に、妻と別れさせるなんて。

〈3347〉この旅の間に妻と死別してしまい、家への道中を思うと、生きている気もしない。

【説明】
 地方官などで妻子を伴って任地に赴いていた人が、任地で妻に死なれ、任期を終えて家に帰る途中の歌とされます。3346の「見欲しきは」は、見たいものは。「鳥羽の松原」は、各地にある地名のため所在未詳。「いざわ」は、さあ。「こと放けは」は、同じ放すのなら。「草枕」は「旅」の枕詞。「放くべしや」の「や」は、反語。

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平城京

710年に藤原京から遷都された平城京のモデルになったのは、唐の都である長安だったとされます。都の範囲は東西約4.3km、南北約4.8km にわたり、外京を加えた総面積は約2,500haに及びます。

平城京の中心は、政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の住居である内裏、役所の日常的業務を行う官衙や宴会を行う庭園など、都を治める官公庁が集まった平城宮でした。周囲には大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれました。平城宮に入ることができたのは、皇族や貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々でした。

都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐ伸びるメインストリートの朱雀大路は、幅72m、2番目に広い二条大路でも38mにも及ぶ規模でした。その両側に貴族たちの邸があり、唐招提寺、薬師寺、大安寺といった大寺の屋根がのぞめます。そうした道を、貴族や高級官僚の男女が往き来していました。

平城京の当時の人口は5万~10万といわれています。そのうち貴族と高級官人は150人くらい、中下級官人は7千~8千人くらい、そしてその家族たち。あとは商人や職人、農民等の庶民たちでした。そして、短歌を楽しんだのは貴族、高級官人、中下級官人とその家族たちのみです。

各巻の主な作者

巻第1
雄略天皇/舒明天皇/中皇命/天智天皇/天武天皇/持統天皇/額田王/柿本人麻呂/高市黒人/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/志貴皇子/長皇子/長屋王

巻第2
磐姫皇后/天智天皇/天武天皇/藤原鎌足/鏡王女/久米禅師/石川女郎/大伯皇女/大津皇子/柿本人麻呂/有馬皇子/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/倭大后/額田王/高市皇子/持統天皇/穂積皇子/笠金村

巻第3
柿本人麻呂/長忌寸意吉麻呂/高市黒人/大伴旅人/山部赤人/山上憶良/笠金村/湯原王/弓削皇子/大伴坂上郎女/紀皇女/沙弥満誓/笠女郎/大伴駿河麻呂/大伴家持/藤原八束/聖徳太子/大津皇子/手持女王/丹生王/山前王/河辺宮人

巻第4
額田王/鏡王女/柿本人麻呂/吹黄刀自/大伴旅人/大伴坂上郎女/聖武天皇/安貴王/門部王/高田女王/笠女郎/笠金村/湯原王/大伴家持/大伴坂上大嬢

巻第5
大伴旅人/山上憶良/藤原房前/小野老/大伴百代

巻第6
笠金村/山部赤人/車持千年/高橋虫麻呂/山上憶良/大伴旅人/大伴坂上郎女/湯原王/市原王/大伴家持/田辺福麻呂

巻第7
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第8
舒明天皇/志貴皇子/鏡王女/穂積皇子/山部赤人/湯原王/市原王/弓削皇子/笠金村/笠女郎/大原今城/大伴坂上郎女/大伴家持

巻第9
柿本人麻呂歌集/高橋虫麻呂/田辺福麻呂/笠金村/播磨娘子/遣唐使の母

巻第10~13
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第14
作者未詳

巻第15
遣新羅使人等/中臣宅守/狭野弟上娘子

巻第16
穂積親王/境部王/長忌寸意吉麻呂/大伴家持/陸奥国前采女/乞食者

巻第17
橘諸兄/大伴家持/大伴坂上郎女/大伴池主/大伴書持/平群女郎

巻第18
橘諸兄/大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/久米広縄/大伴坂上郎女

巻第19
大伴家持/大伴坂上郎女/久米広縄/蒲生娘子/孝謙天皇/藤原清河

巻第20
大伴家持/大原今城/防人等


(大伴家持)

和歌の修辞技法

枕詞
 序詞とともに万葉以来の修辞技法で、ある語句の直前に置いて、印象を強めたり、声調を整えたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする。序詞とほぼ同じ働きをするが、枕詞は5音句からなる。
 
序詞(じょことば)
 作者の独創による修辞技法で、7音以上の語により、ある語句に具体的なイメージを与える。特定の言葉や決まりはない。
 
掛詞(かけことば)
 縁語とともに古今集時代から発達した、同音異義の2語を重ねて用いることで、独自の世界を広げる修辞技法。一方は自然物を、もう一方は人間の心情や状態を表すことが多い。
 
縁語(えんご)
 1首の中に意味上関連する語群を詠みこみ、言葉の連想力を呼び起こす修辞技法。掛詞とともに用いられる場合が多い。
 
体言止め
 歌の末尾を体言で止める技法。余情が生まれ、読み手にその後を連想させる。新古今時代に多く用いられた。
 
倒置法
 主語・述語や修飾語・被修飾語などの文節の順序を逆転させ、読み手の注意をひく修辞技法。
 
句切れ
 何句目で文が終わっているかを示す。万葉時代は2・4句切れが、古今集時代は3句切れが、新古今時代には初・3句切れが多い。
 
歌枕
 歌に詠まれた地名のことだが、古今集時代になると、それぞれの地名が特定の連想を促す言葉として用いられるようになった。

参考文献

『NHK日めくり万葉集』
 ~講談社
『NHK100分de名著ブックス万葉集』
 ~佐佐木幸綱/NHK出版
『大伴家持』
 ~藤井一二/中公新書
『古代史で楽しむ万葉集』
 ~中西進/KADOKAWA
『誤読された万葉集』
 ~古橋信孝/新潮社
『新版 万葉集(一~四)』
 ~伊藤博/KADOKAWA
『田辺聖子の万葉散歩』
 ~田辺聖子/中央公論新社
『超訳 万葉集』
 ~植田裕子/三交社
『日本の古典を読む 万葉集』
 ~小島憲之/小学館
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
 ~小名木善行/徳間書店
『万葉語誌』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉集』
 ~池田彌三郎/世界文化社
『万葉秀歌』
 ~斎藤茂吉/岩波書店
『万葉秀歌鑑賞』
 ~山本憲吉/飯塚書店
『万葉集講義』
 ~上野誠/中央公論新社
『万葉集と日本の夜明け』
 ~半藤一利/PHP研究所
『萬葉集に歴史を読む』
 ~森浩一/筑摩書房
『万葉集のこころ 日本語のこころ』
 ~渡部昇一/ワック
『万葉集の詩性』
 ~中西進/KADOKAWA
『万葉集評釈』
 ~窪田空穂/東京堂出版
『万葉樵話』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉の旅人』
 ~清原和義/学生社
『万葉ポピュリズムを斬る』
 ~品田悦一/講談社
『ものがたりとして読む万葉集』
 ~大嶽洋子/素人社
『私の万葉集(一~五)』
 ~大岡信/講談社

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