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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第13)~その1

巻第13-3221

冬こもり 春さり来れば 朝(あした)には 白露(しらつゆ)置き 夕(ゆうへ)には 霞たなびく 風の吹く 木末(こぬれ)が下(した)に 鶯(うぐひす)鳴くも 

【意味】
 春がやって来ると、朝方には白露が置き、夕方には霞たなびく。風が吹く山の梢の陰でウグイスがしきりに鳴いている。

【説明】
 巻第13には、作者名の分からない長歌、および長歌と反歌の連作が収められています。この歌は、春到来を寿ぐ冒頭歌で、地名はありませんが、大和の歌と見られています。「冬こもり」は、原文「冬木成」、冬木が茂る意で「春」にかかる枕詞。「春さり来れば」は、春がやって来ると。「白露」は漢語表現であり、秋の露を言うのが通例ですが、ここは春の露。「風の吹く」の原文「汗瑞能振」は訓義が定まっておらず、他に「雨のふる」などさまざまに試みられています。「木末」は、木の枝先、梢。「鶯」が歌われているのは『柿本人麻呂歌集』からで、鶯が美的観照的に詠まれるのは、『万葉集』においては天平以後とされます。この時代、鶯を「春告げ鳥」と呼ぶことはありませんでしたが、まさにそれにふさわしい歌になっています。

 この歌は国ぼめ歌・国見歌らしくありますが、国見歌において不可欠とされる地名などが詠み込まれていないため、新春の宮中儀礼の歌、または貴族の宴席歌ではないかとの見方があります。限定は困難ですが、かえってそのことが広い場で用いられることを可能にし、本巻の冒頭に置かれた理由の一つになっているとも言えます。

 

巻第13-3222

三諸(みもろ)は 人の守(も)る山 本辺(もとへ)には 馬酔木(あしび)花咲き 末辺(すゑへ)には 椿(つばき)花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守(も)る山

【意味】
 みもろの山は、人々が大切に守っている山だ。麓のあたりには馬酔木の花が咲いており、山頂のあたりには、椿の花が咲く。まことに美しくすばらしい山だ。泣いている赤子の子守をするように大切に守っている山だ。

【説明】
 「みもろ」は、神の来臨し宿る所の意の普通名詞で、「神名備」に同じ。ここでは山の状態から奈良県明日香村の雷丘(いかづちのおか)とする説があります。「人の守る山」は、人がみだりに立ち入ったり樹木を伐採したりしないよう監視する山。「本辺」は、山の麓あたり。「馬酔木」は、まだ早春とは言い難い寒い時期に白またはややピンクがかった小さな花を咲かせます。有毒植物であり、馬が誤って食べると苦しがって、酔っぱらったような動きをするというので「馬酔木」と書きます。「末辺」は、山頂のあたり。「椿」は日本原産であり古文献にも多く登場し、聖樹として大切にされてきました。「うらぐはし」は「うら+くはし」で、「うら」は、内側に霊力が宿る意の接頭語。「くはし」は、完璧な美しさ、霊妙さをいう賛美表現で、『万葉集』では「細」「麗」「妙」の字があてられています。「泣く子守る山」は、上の「人の守る山」を言い換えたもので、山に対する愛しみの深さを表しており、集中独自な表現となっています。

巻第13-3223~3224

3223
かむとけの 日(ひ)香(かを)る空の 九月(ながつき)の しぐれの降れば 雁(かり)がねも いまだ来(き)鳴かね 神(かむ)なびの 清き御田屋(みたや)の 垣(かき)つ田の 池の堤(つつみ)の 百(もも)足らず 五十槻(いつき)が枝に 瑞枝(みづえ)さす 秋の黄葉(もみちば) 巻き持てる 小鈴(こすず)もゆらに 手弱女(たわやめ)に 我(わ)れはあれども 引き攀(よ)ぢて 峯(みね)もとををに ふさ手折(たを)り 我(わ)は持ちて行く 君がかざしに
3224
ひとりのみ見れば恋しみ神(かむ)なびの山の黄葉(もみちば)手折り来(き)つ君
  

【意味】
〈3223〉雷が光って曇りわたる空が続く九月のしぐれが降り出せば、まだ雁がやって来て鳴かないのに、神の鎮座する清らかな御田屋の垣の内の田の池の堤に生えている神々しい槻(けやき)の木には、勢いよく伸びた枝いっぱいに秋のもみじが輝いている。その色鮮やかなもみじを、手に巻いている小鈴もゆらゆら鳴り響くほどに、か弱い女の私ではあるけれど、枝をつかんでたぐり寄せ、槻の木のてっぺんがたわむほどにたくさん折り取って持って行きます。わが君の髪の飾りにするために。

〈3224〉私一人だけで眺めているとあなたが恋しくなったので、神聖な山の黄葉を折り取って持ってきました、あなた。

【説明】
 神なび山の秋のもみじをほめる歌。3223の「かむとけの」は、雷の落ちる意で、その光ることから「日」にかかる枕詞。「日香る空の」の原文「日香天之」は「日杳天之」の誤りだとして、日杳(ヒクラシ)の意でクモレルソラノと訓むものもあります。「雁がね」は、ここは雁そのもの。「神なびの」は、神の鎮座する。「御田屋」は、神の田を守るための小屋。「垣つ田」は、垣の内にある田。「百足らず」は、百には足りない意で「五十」にかかる枕詞。「五十槻」の「槻」はケヤキの古名で、イツキ(斎槻)は神に属するものとして尊んでの称。堤の地盤を強化するために植えたもの。「瑞枝さす」は、若い枝を出している。「巻き持てる」は、手に巻いて持っている。「小鈴もゆらに」の「小鈴」は、腕輪となっている釧(くしろ)に付けたものか。「ゆらに」は、鈴のなる音の形容。「手弱女」は、か弱い女。「引き攀ぢて」は、引き寄せて。「とををに」は、たわわに。「ふさ」は、たくさん。

 3224の「恋しみ」は「恋し」のミ語法で、恋しいので。「神なびの山の黄葉」は、神の鎮座する山の黄葉。「手折り来つ」の原文「手折来」で、タヲリケリ、タヲリキヌと訓むものもあります。長歌と反歌には時間的なずれがあり、長歌は黄葉を君の所へ持って行きつつある時点での作であるのに対し、反歌は君の所に来て歌いかける作になっています。これは巻第13全体について指摘されていることですが、反歌を後から組み合わせたものと見られています。

巻第13-3225~3226

3225
天雲(あまくも)の 影さへ見ゆる 隠(こも)くりの 泊瀬(はつせ)の川は 浦(うら)無(な)みか 舟の寄り来(こ)ぬ 磯(いそ)無みか 海人(あま)の釣(つり)せぬ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 磯は無くとも 沖つ波 競(きほ)ひ漕入(こぎ)り来(こ) 海人の釣船(つりぶね)
3226
さざれ波(なみ)浮きて流るる泊瀬川(はつせがわ)寄るべき磯の無きがさぶしさ
  

【意味】
〈3225〉空に浮かぶ雲の影までくっきり映し出す泊瀬の川は、よい浦がないので舟が来ないのか、それともよい磯がないので海人が釣りをしないのか。たとえよい浦がなくてもかまわない、よい磯がなくてもかまわない。沖から寄せてくる波のように、競って漕いで来い、海人の釣船よ。
 
〈3226〉水面にさざ波を浮かべて流れる泊瀬川、そんな川なのに、舟を漕ぎ寄せて釣りをする磯のないのが寂しい。

【説明】
 泊瀬川を海に見立ててほめている歌。3225の「天雲の影さへ見ゆる」の「さへ」は、添加の意。水面に映る天空の雲の影を詠んでおり、その神聖さを讃える集中唯一の表現となっています。「隠(こも)りくの」の「く」は所の意で、泊瀬は山に囲まれた所であるところから「泊瀬」にかかる枕詞。「泊瀬の川」は、奈良県桜井市初瀬の北方の山中から三輪山の南を流れる川。「浦無みか」の「無み」は「無し」のミ語法で、浦が無いゆえか。「磯無みか」は、磯が無いゆえか。「浦」や「磯」は、本来は海に係る語ですが、海に接する機会の少ない大和の人々は、憧れの心から池や川を海に擬してこのような称を用いています。「よしゑやし~とも」は、たとえ~とも構わない。「沖つ波」は、沖の波。実景説と枕詞説とがあります。

 3226の「さざれ波」は、小さな波、さざれ波。上3句は「寄る」を導く譬喩式序詞。「寄るべき磯」は、舟を寄せて釣りのできそうな磯。「さぶしさ」の「さぶし」は「さびし」の古形で、心楽しまないこと。泊瀬川に臨む貴人の邸宅などで、酒宴に際して詠まれた歌だろうとされます。

巻第13-3227~3229

3227
葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国に 手向(たむ)けすと 天降(あも)りましけむ 五百万(いほよろづ)千万神(ちよろづかみ)の 神代(かむよ)より 言ひ継ぎ来(きた)る 神(かむ)なびの みもろの山は 春されば 春霞(はるかすみ)立ち 秋行けば 紅(くれなゐ)にほふ 神なびの みもろの神の 帯(おび)にせる 明日香(あすか)の川の 水脈(みを)速み 生(む)しため難(かた)き 石枕(いしまくら) 苔(こけ)生(む)すまでに 新夜(あらたよ)の 幸(さき)く通(かよ)はむ 事計(ことはか)り 夢(いめ)に見せこそ 剣太刀(つるぎたち) 斎(いは)ひ祭(まつ)れる 神にしませば
3228
神なびのみもろの山に斎(いは)ふ杉(すぎ)思ひ過ぎめや苔(こけ)生(む)すまでに
3229
斎串(いぐし)立て神酒(みわ)据(す)ゑ奉(まつ)る祝部(はふりへ)がうずの玉(たま)かげ見ればともしも
  

【意味】
〈3227〉この葦原の瑞穂の国に、手向けをするために地上へと降りて来られた五百万千万の神々の、その神代の昔から言い継がれてきた神の鎮座なさっている山は、春には春霞が立ち、秋には紅葉が照り輝く。その神が帯にしておられる明日香の川の、水の流れが速くて苔の生えにくい、その石の枕に苔が生す遠い日まで、夜になるたび無事に通い続けられるような計らい、そんな計らいを夢にお示しください。身を清めて大切にお祀りしている、われらの神でいらっしゃるのであれば。

〈3228〉神の鎮座する山で、あがめ祀る杉ではないけれど、私の思いが消えて過ぎることなどない、杉が苔むすほどに年を経ようとも。
 
〈3229〉玉串立をて、神酒(みき)を置いてお供えしている神主たちの髪飾りのヒカゲノカズラ、それを見るとまことに立派で心惹かれる。

【説明】
 新婚の二人の末永い幸を祈る、貴族の饗宴の歌とされますが、異説もあります。3227の「葦原の」は「瑞穂の国」の枕詞。「葦原の瑞穂の国」は、日本の国のことで、葦原の中にある、みずみずしい稲の実る国という意味があります。「手向け」は、神に幣を奉って祈ること。「天降り」はアマオリの約で、天から地上に降りてくること。「五百万千万神」は、多数の神々。「神代」は、神々が存在しただけでなく、人間のように具体的な活動をしていたと考えられた時代。記紀においては、神武天皇より前の時代とされています。「神なびのみもろの山」は、奈良県明日香村の雷丘(いかづちのおか)あるいは橘寺近くのミハ山とされます。「春されば」は、春が来ると。「紅にほふ」の「にほふ」は、美しく染まる意。「帯にせる」は、山の麓を流れる川を、その山(の神)が帯にしていると表現したもの。「水脈」は、水の流れる道筋。「速み」は「速し」のミ語法で、速いので。「生しため難き」の主語は「苔」で、苔がつきにくい。「石枕」は、川の中にある石。「幸く通はむ」は、無事に通う。「事計り」は、取り計らい。「夢に見せこそ」の「こそ」は、願望。「剣太刀」は「斎ひ祭る」の枕詞。「斎ふ」は、身を清めて大切にする。

 3228の「斎ふ杉」は、身を清めてあがめる杉。「斎ふ」をイツクと訓む説もあります。上3句は「杉」の同音で「過ぎ」を導く序詞。「思ひ過ぎめや」の「過ぎ」は、消えてなくなる意。「め」は、推量、「や」は、反語。この歌は、結婚当事者の男の誓いの歌と見えます。3229の「斎串」は、玉串。「神酒」は、神に供える酒。「祝部」は、神に仕える人。「うず」は、花や枝葉を髪に挿して飾りとしたもの。「玉かげ」の「玉」は美称、「かげ」は、ヒカゲノカズラ。「ともしも」は、立派だ、まことにゆかしい。神前結婚の雰囲気がよく伝わる歌となっています。なお、3229の歌は「或書には載することあるなし」との左注があり、前の2首が幾度も歌われているうちに加えられたのではないかといいます。

巻第13-3230~3231

3230
幣巾(みてぐら)を 奈良より出でて 水蓼(みつたで)の 穂積(ほづ)に至り 鳥網(となみ)張る 坂手(さかて)を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山(かむなびやま)に 朝宮(あさみや)に 仕へ奉(まつ)りて 吉野へと 入ります見れば 古(いにしへ)思ほゆ
3231
月も日も変はらひぬとも久(ひさ)に経(ふ)る三諸(みもろ)の山の離宮所(とつみやところ)
  

【意味】
〈3230〉幣巾(ぬさ)を並べる奈良の都を出発し、水蓼の穂の出る穂積の地に至り、鳥を捕らえる網を張る坂手を過ぎ、川が石走り流れる神奈備山で、朝宮に仕えまつり、吉野へとお入りになるのを見ると、過ぎ去った昔がしのばれる。
 
〈3231〉月日は移り変わっても、幾久しく変わることのない、三諸の山の離宮の地よ。

【説明】
 吉野の離宮への行幸に供奉した官人の歌。3230の「幣巾を」は、神前に幣帛を並べる意で「奈良」にかかる枕詞。「水蓼の」は、水辺に自生する川蓼が穂を出す意で、「穂積」にかかる枕詞。「穂積」は、天理市前栽町付近。同市新泉町、奈良市東九条町などとする説もあります。「鳥網張る」は、鳥網を張るのに鳥の捕れやすい坂を選ぶことから「坂手」にかかる枕詞。「坂手」は、奈良県田原本町阪手付近。平城京からの行程が、これら枕詞を冠した地名を並べる道行きの様式で表現されています。「石走る」はここでは「神奈備山」の枕詞となっており、付近を流れる明日香川が意識されています。「神奈備山」は、神が天から降りてくる山。ここでは「雷丘」とされます。「朝宮に仕へ奉りて」は、朝の宮殿に奉仕して。「古思ほゆ」の「古」は、天武・持統朝を指すと見られています。さらに限定する考えもあり、殊更に「朝宮に仕へ奉りて吉野へと入ります」と言っているのは、他の地から明日香へ来て一泊した翌朝を意味し、それは天武天皇の大海人皇子時代の吉野入りを想起したものではないかといいます。

 3231の「月も日も変はらひぬとも久に経る」の原文「月日攝友久流経」または「月日攝友久経流」で、ツキヒハカハラヒヌトモ、ツキヒハユケドヒサニナガラフルなどと訓むものもあります。「三諸の山」は、「神奈備山」と同じく神が降臨して宿る山。

巻第13-3232~3233

3232
斧(をの)取りて 丹生(にふ)の檜山(ひやま)の 木(き)伐(こ)り来て 筏(いかだ)に作り ま楫(かぢ)貫(ぬ)き 磯(いそ)漕(こ)ぎ廻(み)つつ 島伝(しまづた)ひ 見れども飽かず み吉野の 滝もとどろに 落つる白波(しらなみ)
3233
み吉野の滝もとどろに落つる白波(しらなみ)留(と)まりにし妹(いも)に見せまく欲しき白波
  

【意味】
〈3232〉斧を手に取って、丹生の檜山の木を伐ってきて筏に作り、両側に櫂を取り付け、磯を巡りながら、島伝いに見ると、見ても見ても見飽きることがない、ここ吉野の、滝からごうごうと流れ落ちる白波は。
 
〈3233〉吉野の、滝もとどろくばかりにごうごうと流れ落ちる白波。都に留まっている愛しい人に見せてやりたい、この白波。

【説明】
 前の歌と同じく、吉野行幸に供奉した人の作とみられますが、同時の作ではありません。3232の「丹生の檜山」の「丹生」は吉野川の上流一帯、「檜山」はその周辺の山ながら、正確な所在は不明。「ま楫」の「ま」は接頭語。「貫き」は、取り付け。「磯」は、岩続きの河岸、「島伝ひ」は、河岸を伝って。いずれも海と同様な呼び方を用いた表現。「み吉野」の「み」は、接頭語。広く普通名詞に用いられますが、地名では、越・熊野・吉野に限られています。「滝」は、漢語として急流、激流を表し、タギルと同根の語。現在の滝に相当する語は「垂水」。「とどろに」は、轟いて。

 3233は、長歌の末の3句を繰り返して展開したもので、旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)になっています。反歌が旋頭歌であるのは集中ここだけであり、他はすべて短歌形式です。

巻第13-3234~3235

3234
やすみしし わご大君 高照(たかて)らす 日の皇子(みこ)の 聞こし食(を)す 御食(みけ)つ国 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高く貴(たふと)し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)なす 海もゆたけし 見渡しの 島も名高(なだか)し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに畏(かしこ)き 山辺(やまのへ)の 五十師(いし)の原に うちひさす 大宮仕(おほみやつか)へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人(おほみやひと)は 天地(あめつち)と) 日月(ひつき)とともに 万代(よろづよ)にもが
3235
山辺(やまのへ)の五十師(いし)の御井(みゐ)はおのづから成れる錦(にしき)を張れる山かも
  

【意味】
〈3234〉天の下を支配される我が大君、高く天の上を照らされる日の御子、その大君が御食(みけ)つ国としてお治めになっている、神風の吹く伊勢の国は、見渡せば山は高く貴い、川は澄んで清らかだ。入江の海は広々と、はるかに見える島々も立派な名前を持っている。そんなところを見事だと思ってか、口に出すのも恐れ多い山辺の五十師(いし)の原の大宮を営まれ、朝日のように麗しく、夕日のように心地よい、春山の木々のように生気にあふれ、秋山のように上品な大宮人は、天地、月日とともに、永久に変わらずにありがたいことだ。

〈3235〉山辺の五十師の御井は、自ずから織り成した錦で、飾られている山であるよ。

【説明】
 持統天皇の伊勢国行幸の折に、従駕の官人が個人的に詠んだ歌とされます。3234の「やすみしし」「高照らす」は、それぞれ「わご大君」「日の皇子」の枕詞。「日の皇子」は日神の子孫の意で天皇・皇子を指します。「聞こし食す」は、お治めになる。原文「聞食」で、キコシメスと訓む説もあります。「御食つ国」は、天皇の御食料を捧げる国。「神風の」は「伊勢」の枕詞。「国見ればしも」の「しも」は、強意。この句は定型長歌としては破調であり、諸説ありますが割愛します。「さやけく清し」の「さやけし」と「清し」の違いについては、キヨシが対象の汚れのない状態をいう場合が多いのに対し、サヤケシはその対象から受ける情意・感覚についていう場合が多いとされます。「水門なす」は、港のような形の。「ここをしも」の「しも」は、強意。「まぐはしみ」は、麗美だとして。「かけまく」は、口に出して言うこと。「あやに」は、言いようがないほど。「山辺の五十師の原」は、諸説あり所在未詳。「うらぐはし」は、麗しい。「しなひ栄えて」の「しなふ」は、木の枝などが自らの重みでたわむこと。「うちひさす」は「宮」の枕詞。「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。「もが」は、願望。

 3235の「御井」は、水を汲むところ、井戸、泉。「おのづから成れる錦」は、自然にできた錦。春の花や秋の紅葉の譬喩ですが、そのどちらかは不明。「張れる山」は、張り渡している山。「かも」は、詠嘆。御井を褒めることによって大宮を褒め、ひいては天皇を賛美するものになっていますが、「御井は・・・山かも」という続きは飛躍のある言い方になっています。

巻第13-3236~3238

3236
そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 滝(たぎ)の屋の 阿後尼(あごね)の原を 千歳(ちとせ)に 欠くることなく 万代(よろずよ)に あり通(がよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の社(もり)の 皇神(すめかみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我(わ)れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を
3237(或本歌曰)
あをによし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川(うぢがは)渡り 娘子(をとめ)らに 逢坂山(あふさかやま)に 手向(たむ)けくさ 幣(ぬさ)取り置きて 我妹子(わぎもこ)に 近江(あふみ)の海の 沖つ波 来(き)寄る浜辺(はまへ)を くれくれと ひとりそ我(あ)が来る 妹(いも)が目を欲(ほ)り
3238
逢坂をうち出(い)でて見れば近江(あふみ)の海(み)白木綿花(しらゆふばな)に波立ちわたる
 

【意味】
〈3236〉大和の国の奈良山を越えて、山背の筒木の原、宇治川の渡し場、 岡屋の阿後尼の原と続く道を、千年の後まで一度として欠けることなく、万代までも通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣を手向けして、私は越えて行く、逢坂山を。

〈3237〉奈良山を通り過ぎて宇治川を渡り、娘子に逢うという逢坂山に手向けする幣を供えて旅の無事を祈り、妻に逢うという近江の海の、沖の波が寄せてくる浜辺を、心暗く独りでとぼとぼと行く、妻に逢いたいと思いながら。

〈3238〉逢坂山を越えて見下ろすと、近江の海に、真っ白な木綿の花が咲くように波が立ち続いている。

【説明】
 大和に住む男が、近江国に持っている妻の許に通う時の歌とされ、道中の諸要所をほめて旅の安全を祈っています。3236の「そらみつ」「あをによし」は、それぞれ「大和」「奈良」の枕詞。「奈良山」は、奈良市北部の京都府との境の丘陵。「管木の原」は、京都府田辺町東南一帯の、大和国から近江国へ通ずる街道にあった原。「ちはやぶる」は「宇治」の枕詞。「滝の屋」は、所在未詳。「阿後尼の原」は、宇治市の宇治川東岸の地。「あり通はむ」は、通い続けよう。「山科」は、京都市山科区。「石田の杜」は、京都市伏見区石田の田中明神(天穂日命神社)。「皇神」は、その土地を支配する神。「幣」は、神に奉る布や糸。「逢坂山」は、大津市と京都市の境の山。このようにして列挙される土地は、すべて霊威の強い、つまり危険を伴う場所であり、そのつど幣を捧げないまでも、祈願はしたのでしょう。
 
 3237は、3236の「或る本の歌に曰はく」として載せられたもの。「あをによし」「もののふの」は、それぞれ「奈良」「宇治」の枕詞。「娘子らに」は「逢坂山」の掛詞的枕詞。「手向けくさ」は、お供えする品。「くさ」は、材料・素材・種の意。「我妹子に」は「近江」の掛詞的枕詞。「近江の海」は、琵琶湖。「くれくれと」は、とぼとぼと。「妹が目を欲り」は、妹の姿を見たくて。この歌は、大和に住む男が、近江国に持っている妻の許に通うという状況は前の歌と同じですが、詠み方は全く異なっているため、異伝歌ではなく、はじめから別の歌とされます。

 ここの歌のように、旅の経過地名を枕詞・掛詞・縁語等の修辞法によって連ねつつ、進行と旅情を表現する韻文を、道行・道行文といいます。道行文は、記紀歌謡にも『万葉集』の作者判明歌にも用いられていますが、巻第13には、典型的な道行文の歌が4首(3230・3236・3237・3240)収められています。これらの歌は、奈良朝官人の旅の夜の宴席などにおいて口誦されたものだろうと考えられています。

 3238の「木綿花」は、木綿で作った造花。琵琶湖に立つ波を白木綿花のようだと美しく表出しているところが、表現として高度であり、源実朝の「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」は、この歌を参考にしているとされます。文学者の犬養孝はこの歌を評し、「峠を越えて大津にくだる中途から眼下にぱっと淡海の海(琵琶湖)が展開したときの驚きはどうだろう。この歌の三句目の地名のおかれ方はその感動をみごとに語っている。しかも”白木綿花”のように波まで立っているのだ」と述べています。ところで、このような遠く離れた恋がどうして成り立ったのか、あるいは作者は平城京に出仕する官人で、故郷が近江国だったのかもしれません。

巻第13-3239

近江(あふみ)の海 泊(とま)り八十(やそ)あり 八十島(やそしま)の 島の崎々(さきざき) あり立てる 花橘(はなたちばな)を ほつ枝(え)に もち引き掛け 中つ枝(え)に 斑鳩(いかるが)懸け 下枝(しづえ)に 比米(ひめ)を懸け 汝(な)が母を 取らくを知らに 汝(な)が父を 取らくを知らに いそばひ居(を)るよ 斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)と 

【意味】
 近江の海には舟着き場がたくさんある。そのたくさんの島の岬々には花橘が茂り立ち、枝先には鳥もちを塗りつけ、中ほどの枝にはおとりの斑鳩を入れた籠を懸け、下の枝には同じく比米を懸け、自分の母が捕まると知らずに、自分の父が捕まると知らずに、遊び戯れているよ、斑鳩と比米の子とは。

【説明】
 近江の海(琵琶湖)を周覧している人が、岬々で、渡り鳥の斑鳩と比米を捕るためにとりもちが塗られている仕掛けを見て、さらに囮(おとり)の鳥まで仕掛けられているのを見て詠んだ歌。「泊まり」は、港、船着き場。「八十島」の「八十」は、数の多いこと。「島」は、湖上から陸を見ての称で、「泊まり」の湾の両端が島のような形であるところからこう言ったものとされます。「島の崎々」は、湖に突き出た部分、先端。「ほつ枝」は、上の方の枝。「もち引き掛け」は、鳥を捕らえるためのもちを塗りつけ。「中つ枝」は、中ほどの枝。「斑鳩」は、スズメ目アトリ科の百舌鳥の形に似た小鳥。「比米」は「しめ」とも言い、斑鳩に似た鳥で、秋に渡来する渡り鳥。「知らに」は、知らずに。「いそばふ」の「い」は、接頭語。遊び戯れる意。

 囮の鳥と捕ろうとする鳥との間に親子関係があるものと見て憐れんでいます。窪田空穂は、「鳥の上に親子の関係を認め、人間的な悲哀を感じるということは、本集としてはきわめて異色あるものといわなければならない。本集には親子の情を詠んだものがじつに少なく、たまたまあれば、それがすでに異色とみえるまでである。この歌はそれを鳥類につなぎ、誇張なく、不自然なく感ぜしめるものとしているので、本集にあっては全く異色とすべきである」と述べています。

 なお、この歌には古くから寓意説があり、『萬葉集注釋』(澤瀉久孝)によれば、この歌は、大海人皇子(後の天武天皇)が近江宮を脱出して吉野に入った時、ライバルの大友皇子が大海人追討を謀っているとも知らず、大海人の子である高市皇子や大津皇子が無心に遊んでいるのを見て、大海人びいきの臣下がこれを詠み、二人の皇子らに危険の迫っていることを知らせようとしたものだ、といいます。しかし、土屋文明は「別に寓意を考えるには及ばぬ歌で、たのしみ謡う民謡とだけ見れば足りるものであろう」と言い、窪田空穂は、「奈良朝の知識人の、近江の海の遊覧者となっての感懐と見るべきであろう」と述べています。

巻第13-3240~3241

3240
大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木(まき)積む 泉(いづみ)の川の 速き瀬を 竿(さを)さし渡り ちはやぶる 宇治(うぢ)の渡りの 激(たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて 近江道(あふみぢ)の 逢坂山(あふさかやま)に 手向(たむ)けして 我(わ)が越え行けば 楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の唐崎(からさき) 幸(さき)くあらば またかへり見む 道の隈(くま) 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ 我(わ)が過ぎ行けば いや遠(とほ)に 里(さと)離(さか)り来(き)ぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 剣大刀(つるぎたち) 鞘(さや)ゆ抜き出(い)でて 伊香胡山(いかごやま) いかにか我(あ)がせむ 行くへ知らずて
3241
天地(あめつち)を憂(うれ)へ祈(こ)ひ祷(の)み幸(さき)くあらばまたかへり見む志賀の唐崎
 

【意味】
〈3240〉大君の仰せを恐れ謹んで、いくら見ても見飽きることのない奈良山を越え、真木を積む泉の川の流れの速い瀬を竿をさして渡り、宇治川の逆巻く瀬を見ながら渡る。近江道の逢坂山にお供えして越えていくと、志賀の唐崎に至る。無事であればまた帰りに見ようと、道を行く。数多くの曲がり角ごとに嘆きながら通りすぎてゆくと、いよいよ遠く故郷から離れてしまった。高い山も越え、剣太刀を鞘から抜いていかがせんという伊香胡山ではないが、私はいかがしたらよいのか、この先どうなるかも分からずに。

〈3241〉天地の神に願って祈り、無事にここまで帰ってくることができれば、もう一度見たい、志賀の唐崎を。

【説明】
 反歌の左注に「或る本に穂積朝臣老(ほずみのあそみおゆ)が佐渡に配流されたときに作った歌である」旨の記載があります。穂積朝臣老は、和銅2年(709年)に従五位下、養老2年(718年)に正五位上。養老6年(722年)1月に元正天皇を名指しで非難した罪で斬刑の判決を受けたものの、首皇子(聖武天皇)の奏上により死一等を降され、佐渡に配流された人で、後に恩赦によって位が旧に復されています。巻第3-288に、その折に詠んだとされる歌が載っています。
 
〈288〉わが命し真幸(まさき)くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波
 ・・・私の命が無事であれば、再び見に来よう、志賀の大津にうち寄せるこの白波を
 
 3240の「大君の命畏み」は、官命を恐れ謹む慣用句。ここの「命」は配流の命令。「見れど飽かぬ」の「飽く」は満足する意で、柿本人麻呂が創造した讃め詞。「奈良山」は、奈良市北部の丘陵。「真木積む」は、杉・檜などの良材を積み上げるで、「泉の川」を修飾したもの。上流から流してきた材木を陸揚げする地点だったことを言っています。「泉の川」は、今の木津川。「竿さし渡り」は、竿を操って舟で渡り。「ちはやぶる」は「宇治」の枕詞。「宇治の渡り」は、宇治川の渡船場。「激つ瀬」は、水の激しく流れる瀬。「近江道」は、近江国へ行く道。「逢坂山」は、大津市と京都府との境にある山。「楽浪」は、琵琶湖西岸の地。「志賀の唐崎」は、大津市の唐崎神社付近の好景の地。「幸くあらば」は、無事でいたならば。「八十隈」は、多くの曲がり角。「いや遠に」は、ますます遠く。「剣大刀鞘ゆ抜き出でて」は、剣の刀を鞘から抜き出してで、厳(いか)しの意で「伊香胡山」を導く序詞。さらに同音の「いかに」に序詞風に続けています。男を刀身に、女を鞘に譬えた『游仙窟』の「君今シ抜キ出デム後ハ、空シキ鞘ヲイカニカセム」に拠っているとも言われます。「伊香胡山」は、長浜市木之本町の伊香具神社付近の山。「行くへ知らずて」は、どうなるか分からなくて。この歌は、柿本人麻呂の歌を踏まえているのが複数個所に見られるものの、窪田空穂は、さして不自然なくこなしきって調和させていて、作者の手腕を思わせる、と評しています。

 3241の「天地」は、ここは天地の神々の意。「憂へ」は、訴え、嘆願して。「祈ひ祷み」の「乞ふ」も「祷む」も、祈る意。この歌は、60年昔の有馬皇子の「磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む」(巻第2-141)によく似ています。穂積老もまた「幸くあらばまたかへり見む」と歌っており、これこそ罪を得て流されていく人の気持ちだったのでしょう。有馬皇子はそれを叶えることはできませんでしたが、穂積老は願った甲斐があって滋賀の唐崎を再び見て中央に戻ることができました。

 ただし、長歌は道行文の体をなしており、奈良朝官人の旅の夜の宴席などで口誦された歌であろうとの見方もあります。さらに長歌と反歌を併せ鑑みるに、近江を訪れ、通過する官人らの共通の好みによるものであり、必ずしも穂積老の独自の経験に基づくものではない、とも。

巻第13-3242

ももきね 美濃(みの)の国の 高北(たかきた)の 泳(くくり)の宮に 日向(ひむか)ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我(わ)が行く道の 奥十山(おきそやま) 美濃の山 靡(なび)けと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山

【意味】
 美濃の国の高北の泳の宮に、日向かいに行靡闕矣、あると聞いて、私が行く道の先にある奥十山は、美濃の山。靡いて平らになれと人が踏むけれども、こっちに寄れといって人が突くけれども、心ない山だ、この奥十山、美濃の山は。

【説明】
 木曽路を通る人が、その難路に悩んでいるのを歌った歌とされ、木曽路が開かれたのは和銅6年(713年)であるため、それ以後の作と見られます。「ももきね」は語義未詳ながら「美濃(岐阜県南部)」にかかる枕詞。百の木根すなわち多くの木立の意として、野の状態にかかる枕詞とする見方があります。「高北」は地名か。「泳の宮」は、岐阜県可児市久々利付近にあったという景行天皇の宮。「日向ひに」の意味は一定せず、日に向かって、毎日、西に、などと解されます。「行靡闕矣」は、訓義未詳。「奥十山」は、所在未詳。「靡けと人は踏めども」は、靡いて平らになれと思って人は踏むけれど。「かく寄れと人は突けども」は、こっちに寄れと人は突くけれど。「突く」の動作がはっきりしません。

 「泳の宮」について、『日本書紀』景行4年2月の条に、天皇が美濃に行幸し、この国の佳人弟媛を妃としようとしたが、弟媛は竹林に隠れてしまう。そこで、泳の宮にいて、池に鯉を泳がせて朝夕眺めていたところ、弟媛が鯉を見ようとやって来たので、宮にとどめて通じた。しかし、弟媛は後宮に入る意志はなく、姉の八坂入媛を召して下さいと言ったのでそのようにしたという記事があります。ただし、この歌が詠まれた時には泳の宮は現存しておらず、にもかかわらず、宮が存在し、そこに何かがあるかのように歌っているのは虚構であると見られています。なお、第4・5句で歌われているのは、宮殿にある何かではなく、美女のことではないかとする説があります。

巻第13-3243~3244

3243
娘子(をとめ)らが 麻笥(をけ)に垂れたる 績麻(うみを)なす 長門(ながと)の浦に 朝なぎに 満ち来る潮(しほ)の 夕なぎに 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに 我妹子(わぎもこ)に 恋ひつつ来れば 阿胡(あご)の海の 荒磯(ありそ)の上に 浜菜(はまな)摘む 海人娘子(あまをとめ)らが うながせる 領巾(ひれ)も照るがに 手に巻ける 玉もゆららに 白栲(しろたへ)の 袖(そで)振る見えつ 相(あひ)思ふらしも
3244
阿胡(あご)の海の荒礒(ありそ)の上のさざれ波(なみ)我(わ)が恋ふらくは止む時もなし
  

【意味】
〈3243〉娘子が麻笥に垂らし入れている、その麻糸のように長い長門の浦に、朝なぎに満ちてくる潮の、夕なぎに寄せてくる波の、その潮のようにいよいよますます、その波のようにいよいよしきりに、家に残した妻を恋いながら来ると、阿胡の海の荒磯の上で浜菜を摘んでいる海人娘子らが、首に懸けている領巾も照り輝くばかりに、手に巻いた玉もゆらゆらと音を立てるばかりに、真っ白な袖を振っているのが見える。相思う相手がいるらしい。

〈3244〉阿胡の海の荒磯の上に寄るさざ波のように、私の妻を恋しい思いは、やむ時がない。

【説明】
 3343の「麻笥」は、紡いだ麻を入れる器。「垂れたる」は、垂らし入れている。「績麻」は、紡いだ麻を細く裂いて糸にしたもの。「なす」は、~のように。上3句は、績麻が長いところから「長門」を導く序詞。「長門の浦」は、広島県の倉橋島の南にある本浦とされます。「朝なぎ」は、朝、陸風から海風に変わる時に起きる無風状態。「夕なぎ」は、朝なぎの反対で、海風から陸風に変わる時起きる無風状態。「いやますますに」の「や」は、いよいよ。「しくしくに」は、しきりに。「阿胡」は、呉市阿賀か。「浜菜」は砂浜で得られる菜、海藻。「うなげる」は、うなじにかけている。「領巾」は女の装身具の一つで、襟から肩にかけた細長い白布。「照るがに」の「がに」は、~ほどに、~ばかりに。「白栲」は、こうぞ類の樹皮から作った糸や布。比較的白いので「白栲」と言います。「白栲の」は、枕詞として袖・衣・紐などに多くかかりますが、ここは実状の叙述と見られます。

 作者はおそらく京の官人で、都から安芸国の海沿いの地方へ出張し、妻を恋しく思っている歌とされます。磯にいる海人娘子らが、こちらからは見えない相手の男に向かって袖を振っているのを海上から見て、さらに妻恋しさが募ってきたと言っています。別の解釈として、海人娘子らが袖を振っているのは作者に対してであり、末句の「相思ふらしも」を、私を思っているようだ、と訳するものもあります。

 3244の「さざれ波」は、さざ波。海のものとして言っているのは珍しく、普通は川や湖のものとして歌われています。上3句は「止む時もなし」を導く譬喩式序詞。「止む時もなし」は、間断ないこと。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。

巻第13-3245~3246

3245
天橋(あまはし)も 長くもがも 高山(たかやま)も 高くもがも 月読(つくよみ)の 持てる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉(まつ)りて 変若(をち)得てしかも
3246
天(あめ)なるや月日(つきひ)のごとく我(あ)が思へる君が日に異(け)に老(お)ゆらく惜(を)しも
  

【意味】
〈3245〉天へと通じる天橋よ、もっと長くなっておくれ。高山よ、もっと高くなっておくれ。そうしたら、お月様に行って、若返りの水をいただいてきて、貴方に捧げて、若返っていただくのに。

〈3246〉天にあるお日様やお月様のように思っている貴方が、日々老いていかれるのが惜しくてなりません。

【説明】
 女が、愛する男が老いていくのを悲しんで詠った長歌と反歌。3245の「天橋」は、天へ昇る階段、天の浮橋で、想像上のもの。「もがも」は、希求・願望の助詞「もが」に詠嘆の助詞「も」が接続したもの。「月読」は、月の神様。「変若水」は、文字通り「若く変わる」、若返りの水で、月の神様が持っているとされました。道教の神仙思想のもので、日本でも奈良朝時代には広くいわれていたといいます。集中にも巻第4-627・628などに例が見られます。「い取り」の「い」は、接頭語。「てしかも」はの「てしか」は、~したい。「も」は、感動の助詞。

 3246の「天なるや」の「なる」は、~にある。「や」は、感動の助詞。「月日」は、月と太陽。「日に異に」は、日に日に。「老ゆらく」は「老ゆ」のク語法で名詞形。「惜しも」の「も」は、詠嘆の助詞。長歌が若返りを願う歌、反歌は老いることを惜しむ歌になっています。

巻第13-3247

沼名川(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾(ひり)ひて 得し玉かも 惜(あたら)しき 君が老ゆらく惜(を)しも

【意味】
 沼名川の川底にある玉、探し求めてやっと得た玉よ。拾い求めて持っている玉よ。この玉のようにかけがえもなく大切なあなた、そのあなたが老いていかれるのは、とても切ない。

【説明】
 老いゆく夫を嘆く妻の歌で、作者は上の歌と同じとされます。「沼名川」の「沼(ぬ)」は玉の意で、ここは「玉の川」、すなわち空想上の川、天上界の川と見なしています。「底なる玉」は、底にある玉。「惜しき君」は、かけがえもなく貴い君。夫のことを、天上界の川底から得た玉のように得難く、大切な存在だと言っています。また、沼名川は「奴奈川」とも書き、出雲の神オオクニヌシと奴奈川姫(ぬなのかわひめ)との恋の伝説から、新潟県糸魚川市に流れ出る小滝川とする説もあります。市中には奴奈川姫の銅像が立っており、小滝川の上流には、ヒスイの原石が多く産出されます。

巻第13-3248~3249

3248
敷島(しきしま)の 大和の国に 人(ひと)多(さは)に 満ちてあれども 藤波(ふぢなみ)の 思ひ纏(まつ)はり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋(こ)ひや明かさむ 長きこの夜(よ)を
3249
敷島(しきしま)の大和の国に人(ひと)二人(ふたり)ありとし思はば何か嘆かむ
  

【意味】
〈3248〉この大和の国に、こんなに多くの人があふれているのに、藤のつるがからまるように心がまつわりつき、萌え出した若草に対するように忘れられないあの人に、逢いたい逢いたいと思いつつ明かすのでしょうか、こんなに長い夜を。

〈3249〉大和の国にあの人がもしも二人いると思うことができるなら、どうしてこんなに嘆くことがありましょうか。

【説明】
 恋の苦しさを歌った女の歌。3248の「敷島の」は「大和」の枕詞。「人多に満ちてあれ」の中から一つ(ただ一人の君)をあげるのは、伝統的な「物ぼめ」の型です。「藤波」は、藤の花を波と見立てた表現で、「藤波の」は「思ひ纏はり」にかかる比喩的枕詞。「思ひ纏はり」は、心が纏わりついて離れない。「若草の」は、若草のごとく色が染みつきやすい意で「思ひつきにし」にかかる枕詞。「思ひつきにし」は、思いが寄りついてしまった。「恋ひや明かさむ」の「や」は疑問の係助詞。「む」は推量の助動詞で、結びの連体形。

 3249の「人二人」の「人」は、恋する相手。「ありとし思はば」の「し」は強意で、あると思うのなら。「何か嘆かむ」は、何でこのように嘆こうか。なお、この歌は、1900年の服部躬治(はっとりもとはる)『恋愛詩講釈』が誤解に基づいて激賞して以来、広く知られるようになりました。服部の解釈は「人二人は、われとわが匹偶(ひつぐう:配偶者のこと)との二人をいふ」というもので、その30年後の萩原朔太郎も「世界の中にただ二人、君と我とが愛し合っている。人生の憂苦何するものぞ」と記しています。解釈はその後、上掲のように大きく訂正されたにもかかわらず、名歌の地位が変わらないのは不思議です。

巻第13-3250~3252

3250
蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 神(かむ)からと 言挙(ことあ)げせぬ国 しかれども 我(わ)れは言挙げす 天地(あめつち)の 神もはなはだ 我(あ)が思ふ 心知らずや 行く影の 月も経(へ)行けば 玉かぎる 日も重なりて 思へかも 胸安からぬ 恋ふれかも 心の痛(いた)き 末(すゑ)つひに 君に逢はずは わが命の 生(い)けらむ極(きは)み 恋ひつつも 我(わ)れは渡らむ まそ鏡 直目(ただめ)に君を 相(あひ)見てばこそ 我(あ)が恋 止(や)まめ
3251
大船(おおぶね)の思ひ頼(たの)める君ゆゑに尽(つ)くす心は惜(を)しけくもなし
3252
ひさかたの都を置きて草枕(くさまくら)旅ゆく君を何時(いつ)とか待たむ
  

【意味】
〈3250〉蜻蛉のめでたき大和の国は、その神の性格として、人は言挙げなどしない国です。しかし、私は申し上げます。天地の神もこれほどに切なく思う私の心をご存知ないのか、むなしく月日が重なるにつれ、胸が苦しいまでに恋い焦がれているせいか、心が痛んでなりません。この先ついにあなたに逢えないとすれば、この命の続く限り、恋い焦がれつつ生き続けていきましょう。でもやはり、直接あなたにお逢いできたら、その時こそ私の苦しみは静まりますのに。

〈3251〉大きな船に乗るように頼りにしているあなたですから、いくら心を尽くしても少しも惜しいとは思いません。

〈3252〉こんなに輝かしい奈良の都をあとにして旅に出て行かれるあなたを、いつお帰りになるものと思って待てばよいのでしょうか。

【説明】
 恋の苦しさを歌った女の歌。3250の「蜻蛉島」は「大和」の枕詞。「神からと」は、神の性格として。「言挙げ」は、言葉に出して言い立てること。軽々しい言挙げは災いを招くとされていました。「天地の神」は、天にいる神々と地にいる神々の総称。「はなはだ」は「思ふ」にかかるとする説と、「知らずや」にかかるとする説があります。「行く影の」の「影」は光の意で「月」にかかる枕詞。「玉かぎる」は「日」の枕詞。「胸安からぬ」の原文「胸不安」で、ムネノクルシキと訓む説もあります。「末」は将来。「生けらむ極み」は、生きている限り。「我れは渡らむ」の「渡る」は、ここは長い時を過ごす意。「まそ鏡」は「見る」の枕詞。「直目」は、直接見ること。「我が恋止まめ」は、私の恋は止むだろう。

 3251の「大船の」は、大船が頼りになることから「思ひ頼める」にかかる枕詞。「惜しけく」は、形容詞「惜し」のク語法で名詞形。3252の「ひさかたの」は、ここでは「都」の枕詞。普通は「天」や「雨」にかかります。「草枕」は「旅」の枕詞。送別の歌であり、長歌の内容とは異なっています。窪田空穂は「長歌の嘆きを、夫が旅にあるがゆえのこととして関係づけ、強いて反歌として添えたのであろう」と述べています。

巻第13-3255~3257

3255
古(いにしへ)ゆ 言ひ継(つ)ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒(を)の 継ぎては言へど 娘子(をとめ)らが 心を知らに そを知らむ よしのなければ 夏麻(なつそ)引く 命(いのち)かたまけ 刈(か)り薦(こも)の 心もしのに 人知れず もとなそ恋ふる 息(いき)の緒(を)にして
3256
しくしくに思はず人はあるらめどしましくも我(わ)は忘らえぬかも
3257
直(ただ)に来ずこゆ巨勢道(こせぢ)から石橋(いしばし)踏みなづみぞ我(わ)が来(こ)し恋ひてすべなみ
  

【意味】
〈3255〉昔から言い続けてきたことには、恋をするのはと苦しいものだと。そう言い継がれてよく知ってはいるけれど、娘子の本心が分からず、それを知るてだてもないので、命を傾けて、心もうちしおれ、その人にも知らえず、ただ恋い焦がれている、息の続く限りを。

〈3256〉私のことなどしきりに思ってはくれずにあの人はいるようだが、しばらくの間も私は忘れられないことだ。

〈3257〉真っ直ぐに来ずこちらから来いという名の巨勢道を通って、川の石を踏んで、苦労して来たことだ。恋しくて仕方がないので。

【説明】
 3255の「古ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「言ひ継ぎけらくの「けらく」は、過去の助動詞「けり」のク語法で名詞形。「玉の緒の」は、緒が長く続いている意で「継ぎ」にかかる枕詞。「よしのなければ」の「よし」は、手段・方法。「夏麻引く」は「命」の枕詞か。夏に根引きする麻の丈が長いので、命の長いことにかけたかと言われます。「刈り薦の」は、刈った薦がぐったり萎れるところから「心もしのに」にかかる枕詞。「しのに」は、しおれて。「人知れず」の「人」は、恋の相手のこと。「もとな」は、わけもなく、やたらに。「息の緒にして」は、息の続く限り、命に懸けて。

 3256の「しくしくに」は、しきりに。「思はず人はあるらめど」は、我を思わずにあの人はいるだろうが。「しましく」は、少しの間、しばらく。「忘らえぬかも」の「かも」は、詠嘆。3257の「直に来ずこゆ」は、直接には来ずにここを通っての意で「来せ」と続け、それを「巨勢」に転じた7音の序詞。「巨勢道」は大和から紀伊へ向かう街道。「石橋」は、川中に並べた石。「なづむ」は行き悩む。「すべなみ」は、どうしようもないので。
 
 長歌は、片恋に悩む男の歌ですが、反歌の2首は連絡がつかず、もともと反歌がなかったのを、謡い物とするために強いて添えたものではないかといいます。また、3257の左注に、「或る本はこの一首を『紀伊の国の 浜に寄るといふ 鮑玉 拾ひにと言ひて 行きし君 いつ来まさむと』の歌の反歌となす。詳しくは以下に見る通りである。ただし、古本によってまた重ねてここに載す」旨の記載があります。「以下に見る通り」というのは、3318・3320の歌を指します。同じ短歌が別の長歌の反歌にもなっていることを不審として記されたもののようです。

巻第13-3258~3259

3258
あらたまの 年は来(き)去りて 玉梓(たまづさ)の 使ひの来(こ)ねば 霞(かすみ)立つ 長き春日(はるひ)を 天地(あめつち)に 思ひ足(た)らはし たらちねの 母が飼(か)ふ蚕(こ)の 繭隠(まよごも)り 息づき渡り 我(あ)が恋ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば 松が根の 待つこと遠み 天伝(あまづた)ふ 日の暮れぬれば 白栲(しろたへ)の 我(わ)が衣手(ころもで)も 通りて濡(ぬ)れぬ
3259
かくのみし相(あひ)思はずあらば天雲(あまくも)の外(よそ)にぞ君はあるべくありける
  

【意味】
〈3258〉新しい年がやってきたというのに、あなたの使いはやってこないので、長い春の一日、天地にわが思いを満たして、母が飼う蚕が繭に籠るように、ふさぎこんでは、ため息ばかりついている。私が恋い焦がれる心の内は、人に言うべきものではないので、ひそかにお待ちするより仕方がないけれど、いくら待っても逢うめどもないまま、やがて日が暮れてきて、衣の袖も涙で濡れ通ってしまった。

〈3259〉こんなにも思って下さらないのなら、あなたは、はじめから天雲の彼方の人であればよかったのに。

【説明】
 関係を結んでいた男から疎遠にされている女の嘆きをうたった歌。3258の「あらたまの」「玉梓の」「霞立つ」は、それぞれ「年」「使ひ」「春」の枕詞。「思ひ足らはし」は、思いを充満させて。「たらちねの」は「母」の枕詞。「たらちねの~繭隠り」は、繭隠りした蚕を息苦しいと見て「息づき渡り」を導く序詞。「繭隠り」は、家に籠っていることの譬喩。「息づき渡り」は、ため息をつき続けて。「松が根の」「天伝ふ」「白栲の」は、それぞれ「待つ」「日」「衣」の枕詞。「通りて濡れぬ」は、涙が染み通って濡れた。

 3259の「かくのみし」の「のみ・し」は、強意の助詞。こんなにも。「天雲の」は「外」の比喩的枕詞。枕詞と見ない説もあります。「外」は、遠く、無関係に。「あるべくありける」は、いるべきだった。長歌ではひたすら待ち続けると言っているのに、反歌では大きく発展して、むしろ関係を持つべきでなかったと言っています。窪田空穂は、「反歌の役を十分に果たしているものである」と言っています。

巻第13-3260~3262

3260
小治田(をはりだ)の 年魚道(あゆぢ)の水を 間(ま)なくそ 人は汲(く)むといふ 時(とき)じくそ 人は飲むといふ 汲む人の 間(ま)なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子(わぎもこ)に 我(あ)が恋ふらくは 止(や)む時もなし
3261
思ひ遣(や)るすべのたづきも今はなし君に逢はずて年の経(へ)ゆけば
3262
瑞垣(みづがき)の久しき時ゆ恋すれば我(わ)が帯(おび)緩(ゆる)ふ朝宵(あさよひ)ごとに
  

【意味】
〈3260〉小治田の年魚道の湧き水を、絶え間なく人は汲むという。時となく人は飲むという。汲む人が絶え間ないように、飲む人が休みないように、愛しいあの子への恋は止むときがない。

〈3261〉胸の思いを晴らす手段の手がかりさえも今はない。あの方に逢わないまま年が過ぎてゆくので。

〈3262〉ずっと以前から恋い焦がれているので、次第に痩せて、私の帯はゆるくなっていく。朝夕ごとに。

【説明】
 3260の「小治田」は「小墾田」とも書き、明日香村飛鳥の近くの地。推古天皇の宮を小治田宮・小墾田宮と言います。「年魚道」は、年魚への道。「年魚」は、明日香村の東の八釣、山田付近か。「間なく」は、絶え間なく、ひっきりなしに。「時じきがごと」の「時じく」は、時の区別なく、常に。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。小治田の年魚道の湧き水は名水だったらしく、それに託して片恋の悩みを詠んだ男の歌です。この歌のように、初めに場所を示し、次にそこにある景物を提示し、景物を尻取り式に繰り返して本旨に転換する手法は古代歌謡の基本的な様式の一つであり、民謡の様式に由来するとされます。

 3261は女が男の疎遠を嘆いた歌で、「思ひ遣る」は、思いを晴らす。「すべのたづきも」の「すべ」は手段、「たづき」は手がかり。同意語を重ねて強めているもの。「年の経ゆけば」の原文「年之歴去者」で、トシノヘヌレバと訓むものもあります。3262は「或る本の反歌に曰く」とある歌。「瑞垣の」の「瑞垣」は神社の垣のことで、昔から久しくはある意で「久しき」にかかる枕詞。「久しき時ゆ」は、久しい間を、ずっと以前から。
 
 なお、3261の左注には、男の長歌に3261の女の反歌がついているところから、「今考えてみると、この反歌に『君に逢はず』というのは当たらない。『妹に逢はず』と言うべき」とあります。しかし、妹を君の敬称で呼んでいる例は他に少なくなく、この左注の指摘は必ずしも当たってはいません。女の独立した歌が何らかの理由で添えられたとみられますが、あるいは、あくまで男の歌と見て、「妹」を「君」と呼ぶ東国の方言的な用法があったのではという見方もあります。また3262は、長歌とは結びつかない歌であり、詠み方も大きく乖離があるものです。

巻第13-3263~3265

3263
隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち 下(しも)つ瀬に 真杭(まくひ)を打ち 斎杭には 鏡を掛(か)け 真杭には 真玉(またま)を掛け 真玉なす 我(あ)が思(おも)ふ妹(いも)も 鏡なす 我が思ふ妹(いも)も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰(た)がゆゑか行かむ
3264
年渡るまでにも人はありといふを何時(いつ)の間(ま)にそも我(あ)が恋ひにける
3265
世の中を憂(う)しと思ひて家出(いへで)せし我(われ)や何にか還(かへ)りて成らむ
  

【意味】
〈3263〉泊瀬川の上流に神聖な杭を打ち、下流には立派な杭を打ち、上流の杭には鏡を掛け、下流の杭には真玉を掛けて祈る。その鏡や玉のように美しい恋人がいるというのであれば、私は故郷にも家にも行くのだが、いもしないのに誰のために帰ることがあろうか。

〈3264〉一年が過ぎるまで人は堪えているというのに、いったい私はいつの間に恋に落ち、苦しんでいるのか。
 
〈3265〉世の中をうっとうしいと思って出家した私は、今さら帰って、いったい何になればいいというのか。

【説明】
 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ:允恭天皇の皇子)の作として『古事記』にある歌が、『万葉集』では作者を伝えずに載せられています。『古事記』によれば、軽皇子は同母妹である軽大郎女(かるのおおいらつめ)と姦通して伊予に流され、追って来た軽大郎女とともに自殺したとあり、その時に詠まれた歌とされます。しかしながら、この歌の冒頭は何らかの儀礼のようであり、後半は旅先で妻の死を聞いての嘆きの歌のようになっています。時系列では、万葉のこの歌の方が先であり、広く愛誦されていたものを若干改作して『古事記』に取り入れ、軽皇子の悲話に転用されたのかもしれません。
 
 3263の「隠口の」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の川」は、奈良県桜井市初瀬の峡谷に発し、三輪山の南を通り大和川に合流する川。「上つ瀬」は、川上のほうの瀬。「斎杭」は、斎み浄めた神聖な杭。「真杭」「真玉」の「真」は、美称の接頭語。「真玉なす」「鏡なす」の「なす」は、~のように、~の如くで、いずれも大切に思うことの譬え。「ありといはばこそ」の「あり」は、生きている、無事でいる。ここは、以前と同じさまでいるというならば、のように解するものもあります。「国にも家にも行かめ」の「行かめ」は「こそ」の係り結びで、国へも家へも行こう。「誰がゆゑか行かむ」の「か」は反語で、ほかの誰ゆえに行こうか、行きはしない。

 3264の「年渡るまでにも」は、一年に渡っての間をも。「人はありといふを」の「人」は、世間の人。「あり」は、そのままの状態でいる。「を」は逆接。窪田空穂は、「一年に一度よりは妹に逢わない彦星を思って、自分の逢うていくぱくもないのに起こる恋ごころを嘆いているものである。これは独立しての相聞としても、知性的なもので、長歌とは何の繋がりもないものである」と説明しています。

 3265は「或る書の反歌に曰はく」とある歌ですが、内容的には何の関係もなく、かなり後になって、別の作者による歌がここに置かれたのかもしれません。詩人の大岡信によれば、「一首独立の歌として見るなら、これは仏教の教えを説く釈教歌と見ていいもので、こういう形で反歌をつけていく場合もあった」と言います。「家出せし」は、出家した。「我や何にか」の「や」は、感動の助詞。「還りて」は、還俗して。

巻第13-3266~3267

3266
春されば 花咲きををり 秋づけば 丹(に)の穂(ほ)にもみつ 味酒(うまさけ)を 神奈備山(かむなびやま)の 帯(おび)にせる 明日香(あすか)の川の 速き瀬に 生(お)ふる玉藻(たまも)の うち靡(なび)き 心は寄りて 朝露(あさつゆ)の 消(け)なば消(け)ぬべく 恋ひしくも 著(しる)くも逢へる 隠(こも)り妻(づま)かも
3267
明日香川(あすかがは)瀬々(せぜ)の玉藻(たまも)のうち靡(なび)き心は妹(いも)に寄りにけるかも
 

【意味】
〈3266〉春がやってくると枝もたわわに花が咲き乱れ、秋になると真っ赤に黄葉する神奈備山。その神奈備山が帯にしている明日香川の、早瀬に生える玉藻が流れに靡くように、心はひたすら靡き寄り、朝露のように、消えるなら消えてもよいと恋した甲斐があって、今やっと逢えたよ。私の隠し妻に。

〈3267〉明日香川の瀬々に生えている玉藻のように、私の心はすっかり妻に靡いてしまった。

【説明】
 恋しくてならない妻と、ようやく逢えた喜びを歌った歌。3266の「春されば」は、春になると。「咲きををり」は、花の重みで枝がたわみ。「秋づけば」は、秋に入れば。「丹の穂に」のニノホは丹の秀で、赤の美しいこと。「もみつ」は、黄葉する。「味酒を」は「神奈備山」の枕詞。「神奈備山」は、神が降臨する山。「明日香の川」は、奈良県明日香村の中央部を北流して大和川に合流する川。「生ふる玉藻の」までの上10句は「うち靡き」を導く譬喩式序詞。「朝露の」は「消」の枕詞。「消なば消ぬべく」は、消えるなら消えてもよい、死ぬなら死んでもよい、の意。「恋ひしくも著くも」は、恋い焦がれた甲斐があって。「隠り妻」は、人目を憚って隠れている妻。「かも」は、感動。

 3267の上2句は長歌の10句を2句に簡約したもので、「うち靡き」を導く譬喩式序詞。万葉人は、川の水流に靡きもつれあう藻に、共寝の姿、乱れる女性の黒髪など、官能的なイメージを抱いていたようです。なお、ここの歌のように、妻に逢えた喜びを歌った歌は、意外にも集中に少なく、わずか10首前後に過ぎず、その内で隠り妻に逢うのはここだけだと言います。

巻第13-3268~3269

3268
三諸(みもろ)の 神奈備山(かむなびやま)ゆ との曇(ぐも)り 雨は降り来(き)ぬ 天霧(あまぎ)らひ 風さへ吹きぬ 大口(おほくち)の 真神(まかみ)の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや
3269
帰りにし人を思ふとぬばたまのその夜(よ)は我(わ)れも寐(い)も寝(ね)かねてき
  

【意味】
〈3268〉三諸の神奈備山から一面にかき曇り、やがて雨が降り出した。あたりは霧に包まれ、風も吹いてきた。真神の原を、私のことを思いつつ帰っていった人は、無事家に着いただろうか。

〈3269〉帰っていった人のことを思い、その夜は寝るに寝られなかった。

【説明】
 女のもとから、男が、夜のうちに、荒れ模様の天気にもかかわらず帰って行ったため、翌朝に消息を心配して贈った歌です。3268の「三諸の神奈備山」は、神が天から降りてきて宿る山。「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「との曇り」は、空が一面に曇り。「天霧らひ」は、空一面に雲が広がって。「大口の」は「真神」の枕詞。「真神の原」は、明日香村にある飛鳥寺の南方一帯。大和国風土記によれば、明日香に老狼が出て、多くの人を食ったので、人々が畏れて、その狼の住む所を大口の真神の原と呼んだといいます。「思ひつつ帰りにし人」は、私を思いつつ帰って行った人。窪田空穂はこの歌について、「小味な作ではあるが、味わい深いものである」と述べています。

 3269の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「寐も寝かねてき」の「寐」は、眠りの意の名詞。「かね」は、不可能の意を表す補助動詞「かぬ」の連用形。「て」は、完了の助動詞「つ」の連用形。「き」は、回想の助動詞。

巻第13-3270~3271

3270
さし焼かむ 小屋(をや)の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破(や)れ薦(ごも)敷きて うち折らむ 醜(しこ)の醜手(しこて)を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜(よる)はすがらに この床(とこ)の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも
3271
我(あ)が心焼くも我(わ)れなりはしきやし君に恋ふるも我(わ)が心から
  

【意味】
〈3270〉焼き払ってやりたい汚らしい小屋に、放り捨ててやりたい破れ薦を敷いて、へし折ってやりたいあの女の薄汚い腕と腕を交して、今ごろ共寝しているだろうあなたを思うゆえに、昼は終日、夜は夜通し、私の寝床がみしみし音を立てるほどに、私は悲しく泣いている。

〈3271〉私の心を焦がすのも私のせい、あなたを恋しく思うのも私の心のせい。

【説明】
 3270の「さし焼かむ」の「さし」は接頭語。「む」は意志を表します。「小屋の醜屋」の「の」は、小屋と醜屋が同格であることを示す語。「醜」は、汚いものをののしっていう語。「かき棄てむ」の「かき」は、接頭語。「破れ薦」といって薦をなじるのは、共寝のために女が用意する寝具であるから。「醜の醜手」は、汚らしくも醜い手の意で、手をなじるのは共寝の行為である手枕を連想するものであるから。「さしかへて」の「さし」は、接頭語。「寝らむ」の「らむ」は、現在推量。「あかねさす」は「昼」の枕詞。「しみらに」は、終日、ずっと。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「すがらに」は、始めから終わりまで。「この床のひしと鳴るまで」の「ひし」は擬声語で、床(ベッド)がきしむ音のことを言っており、性的な妄想に取りつかれ、煩悶する寝姿を連想させる表現となっています。3271の「はしきやし」は、ああ、愛おしい。「我が心から」は、私の心のゆえに。

 浮気をしている夫と相手の女に対する激しい怒りの歌です。長歌では、二人が抱き合っている場面を妄想し、実行すれば、放火、傷害、器物損壊などの犯罪に問われるような恐ろしいことを言っています。憎しみ、ののしりの語を多用し、まさに機関銃による連続攻撃のような嫉妬の炎となっています。しかし、それで気が晴れるわけでもない、反歌では、自己を分析するもう一人の自己が現れ、けっきょくは自分の恋心のせいだと嘆いています。
 
 この歌について、万葉学者の伊藤博は、「おそらく、集中で最高におもしろい歌であろう」と述べ、詩人の大岡信は、次のように評しています。「万葉集で激情の表現においてこの歌の右にでるものはない女の嫉妬と憤激。夫が他の女と夜を共に過ごしている情景を想像して、憎悪の限りを尽くして呪う。しかし、いったん激情がおさまった後は、他人を恨むことの空しさをしみじみ感じ、自己反省に沈潜している。反歌の内省の調べは忘れがたい秀逸。豊かな詩藻の持ち主、万葉女性歌人の層の厚さを感じさせる」。

 一方、作家の大嶽洋子は、「私自身の好みで言えば、反歌は要らないような気がする。意気高く挙げた拳を途中でしおしおと下ろしてしまったようで物足りない。ひょっとして、男性編集者がこの長歌があまりに過激だから、事知り顔にこの一首を添えることで中和したのかななどと疑ってもいる」と述べています。とはいうものの、反歌でのもう一人の自己を発見して後悔する声、この可愛らしさが救いとなっているからこそ、振り返って読む長歌の罵詈雑言が小気味よく耳に響くとも言えます。

巻第13-3272~3273

3272
うち延(は)へて 思ひし小野(をの)は 遠からぬ その里人(さとびと)の 標(しめ)結(ゆ)ふと 聞きてし日より 立てらくの たづきも知らに 居(を)らくの 奥処(おくか)も知らに にきびにし 我(わ)が家(いへ)すらを 草枕(くさまくら) 旅寝(たびね)のごとく 思ふ空 苦しきものを 嘆く空 過ぐし得ぬものを 天雲(あまくも)の ゆくらゆくらに 葦垣(あしかき)の 思ひ乱れて 乱れ麻(を)の 麻笥(をけ)を無(な)みと 我(あ)が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 人知れず もとなや恋ひむ 息の緒(を)にして
3273
二つなき恋をしすれば常(つね)の帯(おび)を三重(みへ)結ふべく我(あ)が身はなりぬ
  

【意味】
〈3272〉ずっと気にかけていた小野は、遠からぬ里人が標縄を張って我がものにしていると聞いた日から、気が動転して居ても立ってもいられず、お先真っ暗になり、住み慣れた我が家ですら、草を枕の旅寝ように落ち着かず、胸の内は苦しくてならず、晴らすこともできず、ゆらゆら揺れる天雲のように、また葦垣のように思い乱れ、乱れた麻が入れるべき容器がないので一層乱れるように、この恋心の千に一つも彼女に知られることもなく、いたずらに恋い焦がれるばかりなのか、息も絶え絶えに。

〈3273〉二度とない恋にさいなまれて、普段は一重に結ぶ帯も、三重にも結べるほどに痩せこけてしまった。

【説明】
 好きな女を他の男にとられ、やつれてしまった男の悲哀の歌です。3272の「うち延へて」の「うち」は接頭語。ずっと続いて。「小野」は人里の野で、好きな女の喩え。「標結ふ」は、女を占有することの喩え。「立てらく」は「立てり」のク語法で名詞形。「たづきも知らに」は、手立てもわからないので。「居らく」は「居り」のク語法で名詞形。「奥処」は、将来。「草枕」は「旅」の枕詞。「旅寝」は、落ちつけない意の譬喩。「思ふ空」の「空」は、気持・心の意で、特に不安な気持に言います。「天雲の」は「ゆく」の枕詞。「ゆくらゆくらに」は、揺れ動いているさま。「葦垣の」は「思ひ乱れて」の枕詞。「麻笥」は、麻の繊維を入れる容器。「無み」は「無し」のミ語法で、無いので。「もとな」は、わけもなく、いたずらに。「息の緒にして」は、息も絶え絶えに、または、息の続く限り。

 3273の「二つなき恋をしすれば」の「二つなき恋」は、二つとないかげがえのない恋。「し」は、強意の副助詞。「三重結ふべく」は、ひどく痩せた状態を表し、特に恋が原因でやつれてしまったときによく用いられた表現。原文「三重可結」で、ミヘムスブベクと訓む説もあります。窪田空穂は、「男が恋の悩みを女に訴えた形の歌で、長歌とは直接のつながりのない歌である。独立した歌で、強いて一つにしたものである。『二つ』と『三重』とを意識的に技巧とした、軽い心の歌である。奈良京の知識人の『遊仙窟』から暗示を得ての作であろう」と述べています。

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作者未詳歌

『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
 
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、畿内圏のものであることがわかります。

各巻の概要

【巻第一】
 雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
【巻第二】
 仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様に部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
【巻第三】
 巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。
 
【巻第四】
 巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
【巻第五】
 巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
【巻第六】
 巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
【巻第七】
 雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいるため、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
【巻第八】
 四季に分類された雑歌と相聞歌。舒明朝~天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
【巻第九】
 おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立て。
 
【巻第十】
 巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
【巻第十一】
 『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十ニ】
 「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十三】
 作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
【巻第十四】
 主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
【巻第十五】
 物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
【巻第十六】
 巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
【巻第十七~二十】
 巻第十七~二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。

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おもな枕詞(1)

茜さす(あかねさす)
 →日・朝・光・昼・紫・君
秋津島/蜻蛉島(あきづしま)
 →大和
朝霞(あさがすみ)
 →ほのか・八重・春日(はるひ)・鹿火(かひ)
朝霧の(あさぎりの)
 →おほに・惑ふ・乱る
朝霜の(あさしもの)
 →消(け)・消ゆ
浅茅生の(あさぢふの)
 →小野・己(おの)
朝露の(あさつゆの)
 →消(け)・消ゆ・命・置く
浅茅生の(あさぢふの)
 →小野
麻裳よし(あさもよし)
 →紀・城上(きのへ)
足引の(あしひきの)
 →山・峰・岩根・木の間
梓弓(あづさゆみ)
 →引く・張る・春・射る・本
天雲の(あまぐもの)
 →たゆたふ・浮く・別る
天離る(あまざかる)
 →鄙(ひな)・向かふ
天伝ふ(あまづたふ)
 →日
天飛ぶや(あまとぶや)
 →雁・鳥・軽(かる)
新玉の・荒玉の(あらたまの)
 →年・月・春
荒妙の(あらたへの)
 →藤
青雲の(あをくもの)
 →出づ・白
青丹よし(あをによし)
 →奈良・国内(くぬち)
青柳の(あをやぎの)
 →糸・葛(かづら)
勇魚取り/鯨取り(いさなとり)
 →海・浜・灘(なだ)
石上(いそのかみ)
 →振る・降る・古る・古し
石走る(いはばしる)
 →滝・近江・垂水・たぎつ
打ち靡く(うちなびく)
 →春・草
うちひさす
 →宮・都・三宅
打ち寄する(うちよする)
 →駿河
空蝉の(うつせみの)
 →人・世・命・空(むな)し
鶉鳴く(うづらなく)
 →古る
味酒(うまさけ)(の・を)
 →三輪・三諸・三室・神南備(かむなび)
埋木の(うもれぎの)
 →下・人知れぬ・朽(く)つ
沖つ藻の(おきつもの)
 →靡(なび)く・名張
押し照る(おしてる)
 →難波
大船の(おほぶねの)
 →頼む・たゆたふ・渡(わたり)・香取・津守
神風の(かみかぜの/かむかぜの)
 →伊勢
神風や(かみかぜや/かむかぜや)
 →伊勢・五十鈴川
唐衣(からころも)
 →着る・裁つ・袖・裾・紐
草枕(くさまくら)
 →旅・度・夕・結ふ
葛の葉の(くずのはの)
 →心(うら)・恨み
呉竹の(くれたけの)
 →世・夜・節・伏し・伏見
雲居なす(くもゐなす)
 →遠く・心
黒髪の(くろかみの)
 →乱る・長し・別れ
高麗錦(こまにしき)
 →紐
隠り沼の(こもりぬの)
 →下
細波の(ささなみの)
 →近江・志賀・寄る・浦
刺す竹の(さすたけの)
 →君・皇子・大宮・舎人
さ丹(に)つらふ
 →君・妹・黄葉
真葛(さねかづら)
 →後も逢ふ・来る
さねさし
 →相模
小百合花(さゆりばな)
 →後(ゆり)
敷島の(しきしまの)
 →大和・道
敷妙の(しきたへの)
 →床(とこ)・枕・衣・袖・袂(たもと)
白雲の(しらくもの)
 →立つ・竜田・絶ゆ
白露の(しらつゆの)
 →置く・玉
白波の(しらなみの)
 →よる・いちしろし・かへる
白鳥の(しらとりの)
 →鷺(さぎ)・飛ぶ
菅の根の(すがのねの)
 →長き・乱る・ねもころ・絶ゆ
そらみつ/そらにみつ
 →大和

『遊仙窟』

『遊仙窟』(ゆうせんくつ)は、中国唐代に書かれた伝奇小説で、作者は唐の張鷟(ちょうさく)と伝えられます。
 
ストーリーは、作者と同名の「張文成」なる主人公が、黄河の源流に使者となって行ったとき、神仙の岩窟に迷い込み、そこに住む崔十娘(さいじゅうじょう)と、その兄嫁王の五嫂(おうごそう)の二人の戦争未亡人に歓待を受けます。主人公は彼女らと情を交わし、一夜の歓を尽くしますが、明け方に外のカラスが騒がしくなり、情事が中途半端に終わらせられる、というもの。

本文の間に84首の贈答を主とする詩が挿入され、恋の手管(てくだ)が語られ、また会話には当時の口語が交じっています。唐代の伝奇小説の祖ともいわれますが、中国では早くから失われ、存在したという記録すら残っていません。日本には、遣唐使が帰途にこの本を買って帰ることによって伝来し、知識階級に愛読されました。

その影響は、大伴家持が坂上大嬢に贈った歌のなかにも見られ、山上憶良の『沈痾自哀文(ちんあじあいのぶん)』などにも引用されています。その他、『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』『唐物語』『宝物集』などに引用され、江戸時代の滑稽本、洒落本にも影響を与えました。なお、後に魯迅によって日本から中国に再紹介されました。

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