源氏物語~各帖のあらすじ(つづき)
【PR】
37.横笛(源氏49歳)
翌春、源氏と夕霧は柏木の一周忌を盛大に営んだ。彼が遺した息子の薫は、尼となった女三の宮のもとですくすくと成長している。朱雀院から贈られた筍(たけのこ)を取り散らかしてかじっている無邪気な姿を見て、源氏も一瞬あの憂さを忘れてしまう。
夕霧は未亡人となった落葉の宮(女二の宮)を訪ねているうちに、いつしか宮に引かれていった。ある秋の夕暮れ、夕霧は落葉の宮を訪ね、一条御息所(落葉の宮の母)から柏木遺愛の横笛を贈られた。夕霧は、柏木が生前、この笛を吹きこなす人がいたら伝えたいものだと言っていたのを思い出し、吹き鳴らしてみる。その夜、夕霧は夢に柏木の亡霊と会い、柏木は、横笛は自分の子孫に伝授したいと言う。子孫とは誰かと尋ねる間もなく目が覚める。
翌日、夕霧は六条院に源氏を訪ねた。そこでは明石の女御の子供たちと薫が賑やかに遊んでいる。夕霧は、薫の顔を見ると、柏木に似ていると直感した。源氏に昨夜の夢のことを語ると、源氏は少し考えたあと、その笛は由緒ある笛であることを語り、こちらで預かるといって召しあげてしまった。そこで、夕霧は柏木の遺言の真相を聞いたが、源氏は、夕霧が秘密に感づいている察しつつ、何のことか分からないと話をそらすばかりだった。。
↑ ページの先頭へ
38.鈴虫(源氏50歳)
翌年の夏、蓮の花が咲くころ、まもなく新築される念誦堂のために女三の宮が仏事を営んだ。源氏や紫の上の気配りは格別で、儀式は盛大に行われた。
8月の十五夜、源氏が女三の宮を訪ねた折、源氏の弟の蛍兵部卿の宮や夕霧たちが集まってきて、鈴虫の声を聞く宴が催された。その席上、源氏は、種々の芸術に造詣の深かった柏木を思い出し、涙を落とした。そこへ冷泉院から招きの使者があり、皆うちそろって参上し、夜を徹して詩歌を作り興を尽くした。
翌日、源氏は秋好中宮を訪問した。中宮は出家したいと言い出した。亡き母、六条御息所がいまだに物の怪となって現れることがあり、死後も成仏できずにいると悲観してのことだった。源氏は出家をいさめ、追善供養を勧めた。
↑ ページの先頭へ
39.夕霧(源氏50歳)
一条御息所(朱雀院の更衣で落葉の宮の母)が物の怪に取り憑かれ、加持を受けるために、落葉の宮とともに比叡山の麓の小野山荘に移った。8月中旬、夕霧は小野山荘を見舞いに訪れた。御息所に代わって応答する落葉の宮に恋情を訴えながら、落葉の宮のそばで一夜を明かしてしまう。母の御息所は、夕霧が昨夜宿泊したことを加持の律師から聞かされ、二人が一夜の契りを結んだものと思い、当惑する。
夕霧から落葉の宮に宛てた手紙が届き、御息所がその返事を書いた。その内容は、二人の仲を許すというものだった。夕霧が宮からの文と思ってあけてみると御息所の筆跡である。夕霧が読もうとするところへ、後ろから雲居雁が寄ってその手紙を奪い隠してしまった。夕霧は返事を書くことができず、御息所は夕霧から返事が来ないのに落胆し、病も悪化してあえなく死んでしまった。
訃報を聞いた夕霧は小野山荘を訪れるが、母が亡くなったのは夕霧のせいと思っている落葉の宮は口もきいてくれない。夕霧は、意に添わぬままの落葉の宮を京へ連れ戻し、一条の宮(落葉の宮邸)で強引に契りを交わした。雲居雁は激怒し、姫君たちと赤子を連れて、実家である父の致仕の大臣(頭中将)邸に帰ってしまった。あわてた夕霧が連れ戻しに邸を訪れるが、雲居雁は頑として応じなかった。
↑ ページの先頭へ
40.御法(源氏51歳)
紫の上は、数年前に大病を患って以来、日増しに衰弱してきて、源氏の心配もこの上ない。紫の上は、最近では後世のために出家を願うようになったが、独りになりたくない源氏は許そうとしない。3月10日、紫の上の発願による法華経千部の供養が二条院でを行われた。六条院の女君たちのほか、源氏の関係者がこぞって参列し、源氏は紫の上のすぐれた心用意に改めて感心させられた。そのなかで紫の上はみずからの死を予感し、明石の君や花散里と歌を詠み交わすなかで、それとなく別れを告げた。
夏になると 暑さのなかで紫の上はいっそう衰弱し、明石の中宮と匂宮(におうのみや)にさりげなく遺言をした。秋になっても紫の上の容態は好転せず、8月14日暁、源氏と明石中宮に見守られながら、静かに息を引き取った。源氏は、出家を許してやらなかったことをいたわしく思い、僧に命じて髪を削いでやった。それでも紫の上が亡くなったことが信じられず、その顔を見つめ続けている。葬儀のいっさいは夕霧が取り仕切った。送りの女房は夢路に惑う心地がして、車から転げ落ちそうになった。心から頼り信じていた妻を失った源氏は悲嘆に明け暮れ、出家の志を固めた。
↑ ページの先頭へ
41.幻(源氏52歳)
当時、妻の喪は三か月とされていたが、翌年の正月になっても年賀の人に会わず、御簾の中に閉じ籠っていた。六条院の女性たちを訪ねることもせず、わずかに、昔馴染みの女房たちとの会話に心が慰められるばかりである。そうした会話の中で、源氏は初めて、女三の宮が降嫁したときの紫の上の苦悩を聞き、改めて胸が塞がる思いがする。一周忌には、紫の上が生前に用意しておいた曼荼羅(まんだら)の供養を行った。
年末になり、源氏はようやく出家の心を決めて身辺の整理をし、紫の上の手紙も焼いてしまった。さすがに涙がとめどなく流れる。明日は元日、孫の匂の宮(におうのみや)は追儺に興じて走り回っている。この幼い人の姿を見るのも今年が最後と覚悟して、源氏はしみじみと我が人生を振り返る。
(ここまでが光源氏の物語であり、続く巻は源氏が亡くなった後の話から始まり、どちらにも源氏の出家や死の様子は書かれていない。この二つの巻の間には八年間もの空白があり、古来、ここに巻名のみで本文のない「雲隠(くもがくれ)」が置くことが行われている。源氏の死を暗示する巻名に違いないものの、これが作者の措置によるものか、後人によるものかは不明。また、もともと巻名だけで本文は書かれなかったとする説と、本文はあったが紛失したとする説がある。)
【PR】
↑ ページの先頭へ
42.匂宮(薫14~20歳)
源氏の死から9年、その輝かしさに代わる人としては、子の薫(かおる:母は女三の宮)と孫の匂の宮(におうのみや:母は明石中宮)とが、すぐれた人物として噂されていた。薫は女三の宮のもとで成長、冷泉院と秋好中宮にとりわけ可愛がられ、侍従から昇進して右近中将になった。匂の宮は宮中に御殿を与えられていたが、紫の上の遺言により二条院に住み、元服して兵部卿宮と称した。
薫は衣に妖しい香がただよい、真面目さの中にどことなく暗い影を宿している。また、仏教の無常観にひかれ、かねがね出家を志していた。一方、匂の宮は薫と対照的に、社交的で明るいプレイボーイ風であった。薫をまねて衣に香をたきしめており、世の人は二人を、「薫る中将」「匂う兵部卿」と並び称した。誰もが娘婿にと望み、夕霧も自分の娘をどちらかと結婚させたいと望んでいた。
※この「匂宮」の帖では、光源氏亡きあとの六条院や女君たちのその後の様子も語られている。花散里は二条東院を相続し、明石の君は明石中宮の子たちの面倒を見ながら幸せに暮らしていた。女三の宮は朱雀院から相続した三条宮に移り、春の町の東の対には明石中宮が生んだ女一の宮が入り、寝殿は次の東宮と目される二の宮が里邸としていた。また、夏の町には落葉の宮の一条宮が移され、夕霧は雲居雁のいる三条宮と夏の町を、一夜置きに月15日ずつ律儀に訪問していた。
※54巻の執筆順序についてはさまざまな説が出されており、とくに宇治十帖に先立つ「匂宮」「紅梅」「竹河」3巻に関しては、人物の官名や年立に矛盾がある。そのため作者は別人とする説もあるが、確かなことは分かっていない。
↑ ページの先頭へ
43.紅梅(薫24歳)
髭黒の大臣の娘の真木柱(まきばしら)は、蛍兵部卿宮と結婚したが、宮の没後、宮との間にできた一人娘(宮の御方)をつれて紅梅大納言(柏木の弟)と再婚した。大納言には先妻の腹に二人の姫君(大君・中の君)があった。三人の姫君は大の仲良しとなり、やがて、大君(おおいぎみ)は東宮(明石中宮の子)に入内した。また、真木柱は、大納言との間に男児(大夫の君)をもうけた。
大納言は、中の君を匂の宮にめあわたいと考えていたが、匂の宮は真木柱の連れ子(宮の御方)の方に心引かれていた。そして、弟の大夫の君を手なずけて何とか宮の御方に言い寄ろうとするが、将来は尼になろうと決心している宮の御方は応じようとしない。宮の御方は、継父の大納言にすら顔を見せないほど奥ゆかしい性格で、すでに父がなく後ろ盾がないため、結婚にも消極的だった。けっきょく大納言は、中の君と匂の宮の結婚をあきらめる。
↑ ページの先頭へ
44.竹河(薫14~23歳)
髭黒大臣の没後、玉鬘は三男二女を養育していたが、二人の姫君の行く末に思い悩んでいた。長女の大君(おおいぎみ)は、帝からも冷泉院からも入内を求められており、薫と蔵人少将(夕霧の三男)も熱心に求婚してきたが、玉鬘は夕霧とも相談し、けっきょく冷泉院の妃とすることに決めた。昔、自分が院の御志に添わなかったことへのお詫びの気持ちもあった。しかし、今上帝の機嫌を損ねたことで玉鬘は息子たちから責められる。
やがて、大君は姫君(女二の宮)と男御子(今宮)を産んだが、先に妃に入っていた弘徽殿女御(冷泉院の女御、柏木の妹)の嫉妬が激しく、里に下がる日が多くなった。玉鬘は、この結婚は失敗だったと、薫に愚痴をこぼす。一方、次女の中の君は、帝からたびたび仰せがあったので、尚侍(ないしのかみ)として入内した。
そのころ竹河左大臣が死去した。夕霧は左大臣に、紅梅大納言は左大将兼右大臣に、薫中将は中納言に、それぞれ昇進した。蔵人少将は宰相となり、竹河左大臣の娘と結婚していた。
↑ ページの先頭へ
45.橋姫(薫20~22歳)
源氏の異母弟の八の宮は、かつては東宮候補と目された時代もあったが、本人に何の咎もないのに世から疎まれ、失意の生活を送っていた。やがて仲睦まじかった北の方を失い、京の邸宅が焼けてからは宇治の山荘に移り住んでいた。八の宮には大君(「竹河」に登場した玉鬘の長女とは別人)と中の君(「紅梅」に登場した紅梅の次女や「竹河」に登場した玉鬘の侍女とは別人)という二人の娘があり、養育していた。
八の宮は、もはやこの世に未練はなく出家したいと思い始める。しかし、幼い娘たちを捨て置くわけにもいかず、来たるべき時のために仏道に精進していた。そのころ、世の無常を感じていた薫は、八の宮の俗聖の暮らしぶりを耳にし、尊敬と羨望の念を抱く。そしてある日、八の宮を訪ねて、深く共鳴するところがあった。その後もしばしば尋ねるようになって、3年が過ぎた。
晩秋のある月の夜に、薫は宇治を訪れた。折から八の宮は山寺にこもって7日間の勤行中であった。山荘では、留守を守る二人の姫君が琵琶と琴を弾いていた。薫は透垣から美しい姫君を垣間見、大君に強く惹かれる。全部を聞かないうちに夜が明けたので、大君と歌を贈答して帰った。
10月、薫が再び宇治を訪れると、八の宮は出家の志のあることを話し、薫に姫君たちの行く末を頼んだ。薫は、縁組云々ではなくとも身内同然に精一杯世話をするつもりだと答え、八の宮を安心させる。その夜、薫は、弁の君という年老いた女房から、柏木の臨終の様子を聞き、自分が源氏の子ではないことを知り、暗い気持ちになった。京に帰っても参内する気にもなれない。
↑ ページの先頭へ
46.椎本(薫23~24歳)
2月末、薫から宇治の姫君姉妹の話を聞いて心を動かした匂の宮は、初瀬詣での帰りに、夕霧が所有する宇治の山荘に一泊し、琴を弾いて遊んだ。夕霧は物忌みのために来られなかったため、代わりに薫が匂の宮を迎えた。気心知れた相手なので、匂の宮も喜ぶ。八の宮の山荘はその川向かいにあるので、琴の音がよく聞こえた。匂の宮は帰京してから、大君にたびたび手紙を贈ったが、いつも中の君が代筆して返してきた。
秋の司召で薫は中納言になった。八の宮は秋の深まりとともに言いようのないほどの心細さを感じ、姫君たちに万が一の心構えとして「私が死んでも軽々しい心は起こさず、宮家としての誇りを汚すような結婚をせぬように」と言い置いて、念仏のため山寺にこもった。そして寺で発病しそのまま死去した。姫君たちはひどく消沈し、訃報を耳にした薫も同じく塞ぎこむものの、宇治へ見舞いを遣わせ、葬儀の段取りを施した。
四十九日の忌明けのころ、薫は宇治を訪れ、几帳越しに姫君たちと亡き八の宮との約束ごとなどを話した。年末の雪の降る日、薫は再び宇治を訪れ、中の君への匂の宮の思いを伝え、大君への自身の思いも伝えるが、大君はこれに応じなかった。
翌春、相変わらず中の君と歌のやり取りだけが続いていた匂の宮は、宇治への手引きを薫に頼んだ。夕霧は娘の六の君を匂の宮へと望んだが、中の君に夢中の匂の宮はこれを聞き入れなかった。夏、宇治を訪ねた薫は、喪服姿の姫君たちを垣間見た。やがて、三条宮が焼け、女三の宮は六条院に移った。
【PR】
↑ ページの先頭へ
47.総角(薫24歳)
8月、八の宮の一周忌のころ、薫は再び大君に思いを伝えるが、独身を貫くと決めている大君は応じようとしない。9月、薫は、乳母の弁の君の手引きで大君の部屋に忍び入ったが、大君はいち早く逃げた。薫はやむなく中の君と一夜を語り明かし、何事もなく立ち去った。薫は、匂の宮に中の君を逢わせることを約束する。そうすれば、大君は諦めて自分に従うだろうとの思惑もあった。
彼岸の果ての日、薫は匂の宮を宇治へ案内した。匂の宮は薫を装って中の君の部屋に入り、中の君と契りを結んだ。大君は中の君を薫にと望んでいたので、匂の宮と中の君との一件を聞いて非常に驚いた。しかし、こうなった以上は中の君との結婚を認めねばなるまいと決心する。
匂宮は中の君のもとへ三日間通うが、母である明石中宮から頻繁な外出を咎められ、宇治から足が遠のいてしまう。10月の初め、薫は匂の宮を宇治に連れ出す口実に紅葉狩りを催した。ところが、少人数で向かうつもりだったのが仰々しい行事となってしまい、姉妹のいる山荘に近づくこともできず、結局、今か今かと匂の宮の到着を待つ姫君たちを悲しませる結果となった。
大君は、親の後ろ盾のない身ゆえにこのように軽んじられるのだと思い、ますます独身を通す決意を固める。しかし心労のため病に臥してしまう。匂の宮は外出を禁じられた上、本人の意思と関係なく、夕霧の六の宮との縁談が決定された。その噂を聞いた大君はショックを受け、病は悪化、11月、見舞いに訪れた薫の看病もむなしく亡くなった。薫は途方に暮れる。
↑ ページの先頭へ
48.早蕨(薫25歳)
宇治にも春が来たが、姉を失った中の君は心の晴れる時がなかった。美しい盛りの中の君だったが、少しやつれてしめやかな魅力が加わり、どことなく大君の面影にも似てきた。都では、大君を忘れられない薫が匂の宮の邸を訪ねて、悲痛な心境を吐露。匂の宮も大いに同情した。その一方で、中の君を匂の宮に渡してしまったことの軽率さを後悔した。
翌年2月、中の君は匂の宮によって二条院に迎えられることになった。今さらどうしようもない薫は、中の君の引越しの世話に心を砕いた。女房たちは都へ移ることに心躍らせていたが、中の君は、八の宮や大君との思い出が残る山荘を離れるのを辛く思っている。年老いた弁の君は宇治に残った。
一方、六の宮と匂の宮との結婚を望んでいた夕霧は、宮が宇治の姫君を迎えたと聞いて失望した。代わりに薫を婿にしようと考えその内意を伝えたが、薫は取り合わなかった。花盛りのころ、薫は二条院を訪れ、中の君といろいろの思い出話をした。それを匂の宮が嫉妬したため、中の君は辛く感じた。
↑ ページの先頭へ
49.宿木(薫24~26歳)
今上帝の后は、明石中宮のほかに藤壺女御(冷泉院の母の女院とは別人)がいた。その子は女二の宮(夕霧の妻の女二の宮とは別人)一人だけであったが、裳着を迎える前に女御は亡くなった。帝は、後ろ盾のない女二の宮の行く末を心配し、薫に降嫁させようと望んだ。
この話を聞いた夕霧は、薫を諦め、六の君を匂の宮に嫁がせるしかないと考え、明石中宮に根回しをし、婚儀は8月と決まった。匂の宮は心配をかけまいと中の君には何も話さなかった、噂は中の君の耳に入り、やはりこうなる運命だったのかと落胆、宇治の山荘で一人生きていたほうがよかったと悔やむ。薫も中の君に同情した。
ある日、中の君は宇治恋しさに薫に手紙を書いた。二条院にやって来た薫に、中の君は「一度宇治に連れていってほしい」とせがむ。薫は簾(すだれ)の下から中の君の袖を捉え、日ごろの思いを伝えた。しかし、中の君が身重であるのに気づき、これ以上の振る舞いはできないと思い退出した。久しぶりに二条院に戻った匂の宮は、薫の移り香を女君に感じて疑心を覚えた。
薫の恋慕に苦しむ中の君は、男の気持ちを逸らすために、自分の腹違いの妹が大君に生き写しだという話を、薫にする。薫は大君の一周忌の法要の打ち合わせのため宇治を訪れた時、弁の君にその女の素性を聞いた。八の宮と上臈の女房(中将の君)との間に生まれたのがその女君であった。母はその後、受領(陸奥守)の妻となり地方に下っていたが、今、娘を伴って上京していたところだった。
翌春、中の君は男君を産んだ。薫は帝の女二の宮と結婚した。4月、薫は宇治を訪れ、弁の君を訪ねてみると、見慣れない女車が止まっていた。中将の君とその娘(浮舟)が初瀬詣での帰りにちょうど立ち寄っていたのだった。薫は物陰から垣間見た浮舟に心を引かれた。
↑ ページの先頭へ
50.東屋(薫26歳)
浮舟は大君に生き写しであった。薫は浮舟を引き取りたく思ったが、世間体があって手紙も出すことができずにいた。ただ、弁の君を通じて、彼女の母にはたびたび意向を伝えてはいた。しかし、母は薫の申し出を本気にしてはいなかった。あまりに格差がありすぎるからだ。
浮舟に言い寄る者は多かったが、中でも左近少将(さこんのしょうしょう)という若者が特に熱心であった。立派な婿をと考える母だったが、受領(陸奥守→常陸守)の娘が望める相手はこのあたりが最上だろうと思い、左近少将との縁談を取り決めた。ところがこの男は、浮舟が常陸守の実子でないと知ると、急に破約して実子の妹娘と結婚させてくれと言い出した。実は左近少将は、常陸守の財産が目当てだったのだ。
いる場所さえなくなった浮舟を、母は二条院の中の君(浮舟の異母姉)に預けた。ある夕方、匂の宮は偶然、浮舟を見つけ、新参の女房と勘違いして強く言い寄った。浮舟の乳母や中の君の侍女は困惑する。幸い大事には至らなかったが、浮舟の乳母からその話を聞いた母は驚き、これでは不安で仕方ないからと、急いで浮舟を三条の小家に移した。
秋、宇治の御堂が完成し、薫はさっそく現地に行った。薫は弁の君を訪ね、浮舟のことを聞き、浮舟の居場所までの案内を乞う。時雨が降る夜、薫は三条の小家を訪れ、翌朝、浮舟を車に乗せ、宇治に移し住まわせた。
↑ ページの先頭へ
51.浮舟(薫27歳)
匂の宮は、あの夕方に出くわした女(浮舟)のことが忘れられず、中の君が隠したのではないかと恨み責めるが、中の君は黙っている。一方、薫は浮舟をうまく囲えたと安心しており、いずれは都に迎えねばと新居の建設を急ぐ。
正月、中の君に宇治から女文の賀状が届いた。匂の宮は、さてはあの女は宇治にいるのかと思い当たる。その後の調べで、薫が宇治の邸に女人を住まわせているという情報を得る。矢も楯もたまらず匂の宮は薫の留守中に宇治を訪れ、薫を装って浮舟に近づき、抵抗を奪って契りを結んだ。人違いと知っても、浮舟は声すら立てられなかった。
浮舟は中の君にも申し訳なく、泣くばかりであったが、その後も匂の宮は浮舟を橘小島に誘ったりして愛情を示した。浮舟も、匂の宮の見目麗しさと優しい愛情に次第に心動かされていく。そんなことを露とも知らない薫は、久しぶりに宇治を訪ねた。思い沈む浮舟の姿を見て、ずいぶんと大人びてきたものだといっそう魅力を感じた。
やがて匂の宮との関係は薫の知るところとなった。薫はこれまで安心していた自分を悔やむと同時に、中の君との仲を仲立ちした恩をこのような形で返され口惜しく思った。匂の宮は浮舟からの返事が絶えたので、急ぎ宇治に赴いたが、薫が配置した警護の武士に阻まれてむなしく帰京した。二人の愛の狭間で進退窮まった浮舟は、死を決意し、母と匂の宮だけに最後の手紙を書いた。
【PR】
↑ ページの先頭へ
52.蜻蛉(薫27歳)
翌日、浮舟の姿が見えないというので、宇治山荘では大騒ぎとなった。このいきさつを知る女房は、もしや宇治川に身を投げたのではないかと思った。世間体もあるので、その日のうちに遺骸のないまま、ひそかに葬儀を行った。
そのころ薫は、母女三の宮の病気快癒祈願のため石山寺に参籠していた。ことの次第を聞いてすぐ宇治へ使いを出したが、やはり彼女を宇治に置いたことが悪かったと後悔、帰京すると部屋に籠って悲嘆に暮れた。匂の宮も正気を失ったような心地で数日を過ごした。薫はねんごろに法要を営んだ。
蓮の花の盛り、明石の中宮が主催する法華八講が終わった日に、薫は妻の姉である女一の宮の美しい姿を垣間見て、心引かれた。そのあげくに、今は亡き大君・浮舟たちを回想し、自分の軽々しさを内省する。一方、多情な匂の宮は、式部卿宮の忘れ形見の姫君を思い始めていた。
↑ ページの先頭へ
53.手習(薫27~28歳)
比叡山の横川(よかわ)というところに、一人の高徳の聖(横川僧都)が住んでいた。その年老いた母(大尼君)と妹の小野の妹尼が初瀬詣でをして帰りの途中、大尼君が急病になったので宇治の院に泊まって様子を見ることにした。知らせを受けた僧都が山から下りてきて世話をした。その夜、弟子の阿闍梨(あざり)が、森かげで倒れている女を発見した。浮舟であった。妹尼は亡き娘の生まれ変わりに違いないと思って、熱心に介抱した。
大尼君が回復したので、僧都の一行は比叡山の麓の小野に帰った。僧都の祈祷によって正気に戻った浮舟は、自分の身の上を語ることなく、念仏の合間に手習いをして過ごしつつ、尼になることを望んだ。その後、妹尼の娘婿の中将が、浮舟に一目ぼれして言い寄ってきた。妹尼もこの縁を喜んだ。浮舟は心底うんざりして、尼たちの不在中、訪れた僧都に懇願して、剃髪した。中将と妹尼はひどく落胆した。
一方、この話は僧都から明石中宮の耳に入り、やがて薫にも伝えられた。薫は夢かと驚き、小君(浮舟の弟)を連れ、横川へ出かけた。
↑ ページの先頭へ
54.夢浮橋(薫28歳)
薫は、比叡山に横川僧都を訪ね、ことの次第を聞いて涙を落とした。そして、浮舟を世話している妹尼の家への案内と、浮舟に逢う手引きとを頼んだ。薫の深い愛情を知った僧都は、浮舟を出家させたことを内心悔やんだものの、仏罰を恐れて聞き入れなかった。
薫は、仕方なく小君(こぎみ:浮舟の弟)を使いにして、浮舟に手紙をやり、下山を勧めたが、浮舟は仲のよかった小君にすら会おうとせず、手紙も受け取らなかった。小君はさびしく帰京した。薫は、誰かが浮舟を囲っているのではないかと疑った。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】