源氏物語~各帖のあらすじ(つづき)
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19.薄雲(源氏31~32歳)
冬の寒い朝、幼い明石の姫君は、大堰(おおい)の明石の上の元から二条院に引き取られることになった。迎えの車に乗るため、母君がみずから抱いて出た。「母上も早く乗りなさい」と片言で言う声に、明石の上は堪えきれずにすすり泣いた。悲しい母子の別れであった。二条院にやって来た姫君は紫の上によくなつき、明石の上は、姫君が可愛がられていると聞いて、安心した。袴着(はかまぎ)の式は盛大に行われた。紫の上は、姫君の可愛らしさに、以前ほど嫉妬することもなくなった。
年が明けて、舅の太政大臣(葵の上の父)が死去し、まもなく藤壺も重い病で世を去った。37歳であった。帝に対する後見へのお礼が、源氏へ向けた藤壺からの最後の言葉だった。源氏の悲嘆はこの上もなく、念誦堂(ねんずどう)に籠って一日中泣き暮らした。女院の四十九日の法要が終わったころのある夜、冷泉帝は、夜居(よい)の僧から、実父は源氏であるという秘密を明かされた。帝はあまりのことに動揺し、父が臣下でいることが心苦しく、源氏に譲位しようとしたが、源氏は固辞した。源氏は秘事が漏れたことに気づいた。
秋になり、梅壺の女御(六条御息所の娘)が二条院に里下りしてきた。源氏は亡き御息所のことなどを話しかけながら、恋心を告白する。女御は源氏のすき心をいやなことに思って気が塞ぐ。にべもなくふられた源氏は、自分がすでに色恋沙汰を起こすような年齢ではないことを痛感する。しいて真面目顔になり、より父親ぶって世話をする。女御は、春秋の優劣論で秋を好むと答えたことから、のち秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)と呼ばれるようになった。
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20.朝顔(源氏32歳)
そのころ、桐壺院の弟の桃園式部卿(ももぞのしきぶきょう)の宮も世を去った。その娘である朝顔の斎院は父の喪に服するため役を退き、旧邸の桃園宮に帰った。以前から朝顔に関心のあった源氏は、朝顔と共に暮らす叔母・女五(おんなご)の宮の見舞いにかこつけて桃園宮を訪れたが、朝顔は会おうとしなかった。それでも源氏が熱心に桃園宮を訪れていたため、それが世間の噂となり、「朝顔の姫君こそ源氏の正妻にふさわしい」との評判まで広がり始めた。
朝顔は決して源氏を嫌っているわけではない。源氏への思いを美しいまま胸の奥底に封じ込めようと思い決めたのであり、それを貫くことが彼女の愛のあり方なのだった。しかし、紫の上は、この一件だけには強く煩悶し、日々泣いて暮らす。朝顔の君は世評の高い前斎院であるのに対し、自分には、源氏の君の愛情のほかに頼るものがない。ある雪の夜、源氏と紫の上は童たちに雪山をつくらせながら、今まで関りのあった藤壺・朝顔・明石の上・花散里たちの人物評をした。藤壺の宮のこよなき美質を語り、その上で源氏は紫の上を大切にしていると伝えるが、紫の上の気持ちは晴れない。
その夜、源氏の夢の中に亡き藤壺が現れ、秘密を漏らした源氏のはしたなさが恨めしいと語る。源氏は返事をしようとするが、紫の上に揺り起こされて、自分が夢の中で泣いていたことに気づく。そして、藤壺が永遠に手の届かないところへ行ってしまったことを実感、藤壺が成仏できるよう、心の中で念じる。
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21.乙女(源氏33~35歳)
源氏は朝顔の前斎院への思いを断ち切れず、また叔母の女五の宮もそれを望んでいるが、前斎院の決心は変わらない。一方、源氏の嫡男で亡き葵の上が生んだ夕霧は12歳で元服した。大臣の息子なので四位になれるはずだったが、源氏は夕霧を六位の身分にとどめ、官吏養成機関である大学寮に入れて厳しく教育することにした。身分の高い家の子弟が大学に学ぶ例はあまりなく、異例の教育方針だった。そのころ、源氏の養女である梅壺は中宮(秋好中宮)となり、源氏は太政大臣、右大将(頭中将)は内大臣に昇進した。
祖母の大宮(葵の上と内大臣の母)のもとで養育されていた従姉弟同士の夕霧と雲居雁(くもいのかり:内大臣の娘)は、いつしか相思の仲になった。しかし、内大臣は、雲居雁を東宮(後の今上)へ嫁がせようと望んでいたので、二人の噂を耳にして雲居雁を自邸に引き取り、二人の仲を裂いてしまう。一方、源氏も夕霧を花散里に預けた。翌春、朱雀院の行幸があり、帝の御前の試みに、夕霧は進士(しんじ)に及第し、秋の司召で五位・侍従となった。
そのころ、源氏は六条御息所の旧邸を修理して、六条院の造営にかかり、翌年8月に落成した。邸内を四季の庭を配する4つ御殿に分かち、源氏と紫の上は春、花散里は夏、秋好中宮は秋の景色を配した御殿に住み、少し遅れて、明石の上が冬の景色の御殿に移り住んだ。
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22.玉鬘(源氏35歳)
年月が経っても、源氏は亡き夕顔のことが忘れられずにいた。その夕顔と内大臣(頭中将)との間に生まれた玉鬘(たまかずら)は、3歳の時、夫が大宰少弐に任官した乳母(太宰少弐の妻)の一家とともに筑紫へ下った。夫の太宰少弐の任期は満ちたものの、その地で亡くなってしまい、乳母は玉鬘をつれて都へ上る術もないまま年月が流れた。17年がたち、玉鬘は美しく成長した。肥後国に勢力を誇った豪族・大夫監(たいふのげん:大宰府の三等官)が強引に求婚してきたので、乳母は長男の豊後介(ぶんごのすけ)と相談し、玉鬘をつれて急ぎ筑紫を逃げ出して上京した。
玉鬘の一行はやっとの思いで京に着いたものの、どこにも頼るところがない。途方に暮れ、6か月間もさすらい同様の生活が続き、もはや神仏にすがるほかないと、初瀬(長谷寺)詣でを思い立つ。椿市(つばいち)の宿に宿泊し、その時、偶然に、かつての夕顔の侍女で、今は紫の上方の女房となっている右近(うこん)と出会った。その縁から玉鬘は源氏に引き取られ、六条院の夏の御殿の西の対に住むことになった。豊後介は源氏の家司(けいし)となった。このことは内大臣には黙っていた。
その年の暮れ、源氏は六条院や二条東院に暮らす女君たちに新年の晴れ着を贈った。
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23.初音(源氏36歳)
年が明けた元日の朝、源氏は六条院で紫の上と仲睦まじく新春を祝い、和歌を詠み交わした。紫の上の住む春の御殿の華やかさは格別である。そして、源氏は六条院の女君たちを順次、年賀に訪れる。まず明石の姫君のところへ行くと、母君(明石の上)からさまざまな贈り物が届けられていた。源氏は、実の娘に自由に会いに行けない明石の上の立場を思いやり、手を取るようにして姫君に返事を書かせた。
次に花散里と玉鬘を訪ねた。花散里は容姿は衰えたものの、気立ては相変わらずで、源氏にとっては心の落ち着く存在だった。二日、上達部や親王らが新年の挨拶に来たが、年の若いものは皆、今を盛りに美しい玉鬘を意識してそわそわしていた。夕方には二条の東院に、末摘花と、今は尼となった空蝉を訪ねた。二条の東院は六条院に比べると地味な光景で、末摘花は和歌や物語の勉強にうちこみ、空蝉は仏道に励んでいた。その他にも、世話をしている女性たちのもとに、まめに顔を出してまわった。
今年は男踏歌(おとことうか)がある年である。男踏歌とは、正月14日に、四位以下の殿上人、地下人が催馬楽を歌いながら貴族の邸などを回る行事のこと。その行列は夜明けごろに六条院に入った。薄雪の庭に心和む歌や舞を、婦人たちは衣装をこらして見物した。行列には夕霧や内大臣の子息たちも交じっていて、源氏は夕霧の歌声を褒めた。
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24.胡蝶(源氏36歳)
3月下旬、六条院の春の御殿(紫の上の御殿)で舟楽(楽人が舟に乗って雅楽を奏する)が催された。秋好中宮はこのころ里下りしていたので、中宮の女房たちにもこの催しを見せようと、舟が差し向けられた。。女房たちを乗せた舟が池に入ると、華やかな楽の音が鳴り渡り、まるで知らない国に来たようであった。宴は明け方まで続いた。
このころ、玉鬘の美しさは評判の的となっており、たくさんの公達から恋文が寄せられた。源氏の異母弟の蛍兵部卿宮、髭黒(ひげくろ)の大将をはじめ、内大臣の息子の柏木は実の妹とも知らずに思いを寄せた。源氏は恋文を審査しては、面白がって蛍兵部卿宮は妻を亡くしているが浮気性だから困る、髭黒の大将は長年連れ添った妻がいるから苦労しそうだなどと、あれこれ批評する。そして、玉鬘の侍女・右近を召して手紙の返し方について事細かに指示するが、内心では自分も次第に玉鬘の美しさに心引かれていく。しきりに玉鬘のところへ足を運び、しまいには胸に秘めた思いを玉鬘に吐露してしまう。親子の愛情にもう一つの愛情が加わるだけだと口説くが、玉鬘は困惑し動揺する。
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25.蛍(源氏36歳)
玉鬘は源氏の心を測りかねて悩んでいた。一方、養父であるはずの源氏も、わがあやしい恋情に苦しんだ。これ以上深入りしてはいけないと自戒するも、相変わらず暇を見つけては玉鬘のもとへ通い、ついつい口説き文句を並べ立てては玉鬘を困らせてしまう。立派な養父と尊敬していただけに、よけいに苦しむ。
そうした五月雨のころ、源氏は兵部卿の宮の恋文を見て、玉鬘に返事を書くように勧める。玉鬘が書こうとしないので、源氏は宰相の君に代筆させてねんごろな文を書かせた。思わぬ色よい返事をもらった兵部卿の宮が、心をときめきかせながら玉鬘を訪ねてきた。源氏は折を見て多くの蛍を玉鬘の近くに放った。その光に照らされた玉鬘の美しさに宮は魅せられてしまい、恋心はいっそう悩ましいものとなった。玉鬘は、恋心を吐露するかと思えば、他の男との交際を勧める源氏に対し、ますます困惑する。
長引く梅雨に、所在ない婦人たちは絵物語を読んだりして日を過ごしていた。玉鬘も絵物語に熱中している。源氏が玉鬘のもとにやって来て、物語論を展開する。その一方で、実子の明石の姫君を養育している紫の上に対しては、恋愛描写が多いなどの教育によろしくない絵物語は見せないようにと聞かせた。
夕霧は相変わらず雲居雁を恋しく思い続け、柏木は玉鬘を慕い、その取り持ちを夕霧に頼んだが、夕霧は相手にならなかった。
内大臣(頭中将)の子は男子が多く、数少ない娘・弘徽殿女御を中宮にすることがかなわず、雲居雁も夕霧の件でけちがついたため、常々残念がっていた。せめて離れ離れになってしまった夕顔とその娘がそばにいればと思い、娘を探し出そうとする。占い師から「長年忘れていた娘が、他人の養女になっている」と告げられ、どういうことかと訝しがるが、まさか源氏のもとにいるとは思ってもいなかった。
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26.常夏(源氏36歳)
夏の暑い日、源氏は夕霧や内大臣(頭の中将)の息子たちと東の釣殿(つりどの)で涼んでいた。源氏は、夕霧と雲居雁の仲を認めない内大臣を快く思っていなかった。内大臣は、近江の国から娘だと名のり出た女性(近江の君)を、息子の柏木に検分させて手もとに引き取った。その噂を聞いた源氏は、内大臣には子どもが多いのに今さら欲の深いことだと思い、若い頃に遊び歩いた内大臣らしい顛末だと痛烈に皮肉った。
玉鬘は、父の頭中将が琴の名手だったことを源氏から聞き、自分も弾いてみたくなった。源氏は玉鬘に和琴を与えて教え、それによって玉鬘と会う回数を増やしていった。源氏の玉鬘に対する恋情は募る一方であり、自分でもなぜこのような無益な恋に辛い思いをするのかと煩悶する。
源氏が探し出したという姫君(玉鬘のこと)はこれ以上ないほどの評判だというのに、内大臣が引き取った近江の君は、やたら落ち着きがなく早口で無教養な女であったため、きわめて評判がよろしくない。後悔する内大臣は処置に困り、姉の弘徽殿女御に預けて行儀見習いでもさせようと思った。また、玉鬘は本当に源氏の子だろうかと疑い始めた。
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27.篝火(源氏36歳)
世間ではもっぱら近江の君のことが噂の種になっている。源氏は内大臣の軽率さを非難する。玉鬘は、そんな近江の君と自身を引き比べ、源氏に引き取られたことの幸運を身にしみて感じた。源氏はなおも足繁く玉鬘のもとへ通って琴を教えたりし、玉鬘も次第に心を許し始める。添い寝をする機会もあったが、源氏はあと一歩のところで自制する。
秋、五日月(いかづき)も山の端に入った夜、源氏は玉鬘のもとにいて、篝火(かがりび)をひときわ明るく灯させた。その光に映えた玉鬘の姿はなやましいばかりに美しく、源氏は思いを篝火の煙によそえて訴えた。立ち去りかねている源氏の耳に、花散里の住む東の対から、夕霧と柏木の合奏する笛と琴の音が聞こえてきた。彼らをこちらへ呼び寄せて、管弦の遊びに興じた。御簾の中に玉鬘がいるので、実の姉とも知らず恋心を寄せている柏木は固くなっている。
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28.野分(源氏36歳)
8月、野分(のわき)が例年よりも烈しく吹き、夜通し猛威をふるった。女君たちは恐ろしさに眠れず、里下がり中の秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)は御前の前栽(せんざい)に植えた花の身の上を案じた。
翌日、夕霧が六条院を見舞いに訪れた。邸内は烈しい雨風のあとを留めており、わずかに開いている妻戸の隙間から中を見ると、美しい衣装の女房たちが大勢いる。風がひどかったために屏風もたたんで隅に寄せてあるので見通しがよい。奥の御座所に座っている人を見て、夕霧は目を見張った。気高く、匂うような美しさ、あれが母上(紫の上)に違いない。夕霧はすっかり心を奪われてしまい、その夜はまんじりともしないで紫の上の姿を思い続けた。源氏は、このようなことがあってはならないと、夕霧をこの継母から遠ざけていたのだった。
翌朝、夕霧は花散里を見舞い、さらに源氏に伴われて秋好中宮、明石の上を見舞って、玉鬘のところへも足を延ばした。源氏が玉鬘に、懐に抱くばかりに戯れかけているところを見て、親子とは思えない仲のよさそうな様子に、夕霧は驚く。しかし、この姉の美しさには、夕霧も魅了された。
さらに夕霧は明石の姫君のもとへも立ち寄り、姫君の可愛らしい美しさを垣間見る。三条宮に帰ると、そこに内大臣が来ていた。夕霧は祖母の大宮と一緒に暮らしていたが、その祖母大宮が、雲居雁に会いたいと内大臣に迫っていた。
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29.行幸(源氏36~37歳)
その年の12月に、冷泉帝の大原野(京都市西京区)への行幸が行われた。六条院の婦人たちも行列の見物に出かけ、玉鬘も出かけた。見物の物見車がぎっしりと立て込んでいる。そこで玉鬘は、実父の内大臣(頭の中将)を初めて見た。そして、冷泉帝が通ると、その厳かな美貌に釘付けになった。行列の中には玉鬘に思いを寄せる髭黒(ひげくろ)大将もいたが、色黒く髭の濃いその人を見て、玉鬘は親しめないものを感じた。
翌日、源氏は玉鬘に「御輿の中の人はいかがでしたか」と手紙を送る。冷泉帝の優美な姿に心引かれ、宮仕えを勧める源氏の意向も悪くないと考え始めた玉鬘は、それを見透かされたような気持ちになった。
翌年2月、玉鬘の裳着の式(成人式)が行われ、源氏は、腰結い役として招く内大臣に玉鬘の素性を明かした。内大臣は御簾のうちで玉鬘と対面、源氏の厚意に感謝しつつ、今まで隠していたことへの恨みも述べたが、成人した娘を見て落涙した。源氏は、玉鬘を尚侍(ないしのかみ)として宮中に入れようと考えている。
玉鬘の一件は近江の君の耳にも入っていた。しかも尚侍になるというので、近江の君は同じ父の娘なのにどうしてこのように扱いが違うのかと駄々をこねた。自分も尚侍に推薦してくれと弘徽殿女御を責める振る舞いに、兄の柏木も呆れ、ますます周囲にからかわれるのだった。
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30.藤袴(源氏37歳)
玉鬘は尚侍(ないしのかみ)として入内することになった。しかし玉鬘自身は、多くの女人たちが華を競う場でうまくやっていけるだろうか、秋好中宮や弘徽殿女御の恨みを買いやしないか、かといってこのまま源氏の庇護のもとで暮らし続けるのもどうか、などと思い悩んだ。信頼できる相談相手がなく、こんな時に母でもいてくれればと嘆息しつつ秋の夕空を眺める。
3月、大宮が死去した。夕霧は、玉鬘が内大臣の娘であったことを知って心を動かし、言い寄ったが、玉鬘は応じなかった。一方、柏木は玉鬘が実の姉であったことを知り、自分の過去の行動のあさましさに恥じ入った。また、内大臣が、源氏はとりあえず玉鬘を宮仕えさせ、折を見て自分の妻にするつもりだと言いふらしていると聞き、源氏は玉鬘をあきらめる時が来たと悟る。
玉鬘の入内がほぼ決まったと聞いて、その前に何とか彼女を手に入れようと焦った髭黒大将や蛍兵部卿宮(ほたるひょうぶきょうのみや)など多くの公達たちから恋文が届く。玉鬘はそれを開けようともしなかったが、蛍兵部卿宮にだけは気持ちばかりの返事を書いた。返事をもらった蛍兵部卿宮は、玉鬘が自分の気持ちを知らなかったわけではなかったのだと、寂しいながらもかすかな嬉しさを感じた。
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31.真木柱(源氏37~38歳)
玉鬘は尚侍として出仕を控えていたが、髭黒大将が、侍女の手引きによって玉鬘の寝所に忍び込み、強引に玉鬘と契ってしまう。不本意な玉鬘は悔恨の涙にくれ、源氏も残念に思ったが、仕方なく婚儀の指図をする。冷泉帝や蛍兵部卿宮も大いに落胆した。ただ、内大臣だけは、玉鬘と弘徽殿女御の寵愛争いを避けることができたと安堵する。
玉鬘と結ばれたのは意外な人物だったが、髭黒大将は、紫の上の父である式部卿宮の娘婿で、源氏や内大臣に次ぐ宮廷の実力者だった。さらに東宮の母(承香殿女御:しょうきょうでんのにょうご)の兄にも当たるので、婿としての家柄は悪くなかった。髭黒に嫌悪感を抱く玉鬘はは厭わしく思うが、髭黒は動じることなく、玉鬘のもとにせっせと通った。玉鬘は、自身の思いを封じるしかなかった。
髭黒の北の方(紫の上の異母姉)は美しい人だったが、ここ数年、物の怪の病を煩っており、時々狂気じみた発作を起こし、玉鬘のもとへ行こうとする髭黒の背後から火桶の灰をあびせかけたりした。髭黒は恐れをなし、玉鬘を訪ねたまま帰らなくなった。北の方の父の式部卿宮(しきぶきょうのみや)は腹を立て、娘の北の方を自邸に引き取った。その時、北の方の娘(真木柱:まきばしら)は、父と別れる悲しみを歌に詠み、柱の割れ目に差し入れておいた。帰宅した髭黒はそれを見て涙ぐんだ。
翌年正月、玉鬘は入内した。玉鬘の評判はなかなかよく、気が気でない髭黒は、冷泉帝が玉鬘の部屋を訪れたと知って、玉鬘の風邪を理由に自邸に引き取った。源氏は、時々もとの玉鬘の部屋にやって来ては、一人寂しさに耐えている。髭黒の息子たちは玉鬘によくなつき、11月、玉鬘は男の子を産んだ。
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32.梅枝(源氏39歳)
2月、六条院は、11歳になる源氏の実の娘・明石の姫君が裳着(成人式)を迎える準備で忙しかった。その前日、兵部卿の宮がやって来たので、彼を判者として薫物の匂い比べをすることになった。朝顔の斎院、紫の上、花散里、明石の上、そのどれの調合も素晴らしく、判者は優劣をつけかねた。その夜遊宴が行われ、内大臣の息子である弁少将が催馬楽「梅が枝」を歌って興を添えた。明石の姫君の腰結い役は秋好中宮に決まり、裳着の式は盛大に行われた。
同じ2月の下旬、東宮(後の今上)が元服され、明石の姫君の入内が準備された。多くの貴族がわが娘を入内させたいと考えるが、明石の姫君がが入内するとあっては源氏の威光で娘が霞んでしまうと躊躇する。源氏はそれを慮り、明石の姫君の入内を延期する。さっそく左大臣の三君(麗景殿女御)が入内した。
内大臣は、夕霧との一件で雲居雁が入内できないことを残念がった。夕霧は出世し人望も厚く、縁談も持ちかけられている。早くに夕霧を婿に迎えなかったことを後悔し、雲居雁を夕霧に許そうとも思うが、こちらから申し出るのも癪だった。夕霧は今もなお雲居雁を慕い続け、時折手紙を出しているが、父から夕霧の縁談の噂を聞いた雲居雁は、夕霧からの手紙に対して薄情さを恨む歌を返した。
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33.藤裏葉(源氏39歳)
3月20日、大宮の一周忌が極楽寺で営まれ、大勢が参詣に集まった。中で夕霧の容姿がひときわ素晴らしかった。内大臣は夕霧の袖を引き寄せ、初めて親しい言葉をかけた。4月上旬、内大臣邸で藤の宴が催された時、夕霧も招かれ、内大臣は雲居雁との結婚を許した。その夜、夕霧は雲居雁のもとに泊まって、変らぬ気持ちを確認し合い、ここに6年にも及ぶ多年の恋が実った。
その月の下旬、明石の姫君が、東宮のもとに入内した。紫の上が付き添ったが、紫の上は後見に明石の上を推した。入内3日目、紫の上は宮中で初めて明石の上と顔を合わせた。明石の上の話す様子を見て、源氏がこの女人に惹かれたのも当然だと紫の上は感じ、明石の上もまた、数多き女人の中で紫の上が最も愛されるのはもっともなことだと感じた。こうして明石の上と姫君親子は、8年もの辛い年月を経てようやく一緒に住めるようになった。
源氏は来年40歳になるので、帝をはじめ世をあげて賀の準備に取りかかる。秋、源氏は太政天皇に准ぜられ、内大臣は太政大臣に、夕霧は中納言に昇進した。夕霧の堂々とした姿に、新太政大臣も彼を婿に迎えてよかったと満足している。夕霧は三条の宮に住んだ。すべてがこれ以上ない形で収まったことを見て、源氏はかねて考えていた出家の時が来たとも思う。10月下旬、冷泉帝が六条院へ行幸され、朱雀院も同道された。世に例のないことであり、源氏の栄華はここに極まった。宴では舞いも披露され、源氏と太政大臣が若かりし頃、ともに青海波(せいがいは)を舞ったことをなども懐かしく思い出す。
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34.若菜上(源氏39~41歳)
朱雀院(源氏の異母兄)は、六条院への行幸のころから病気がちであった。出家しようと思うものの、溺愛する娘の女三の宮の行く末が案じられた。宮の降嫁を望む公達は多かったが、それにふさわしい男性はなかなかいなかった。年末に女三の宮の裳着の式が盛大に行われ、その3日後、朱雀院は出家された。院は思案の末、女三の宮のことを源氏に託された。源氏は一度は辞退するものの、院から直々の願いがあったため、やむをえずお引き受けし、正妻として迎えることにした。
翌年の正月、源氏40歳の賀が催され、2月には女三の宮が六条院へ渡った。渡りの儀式はこの上もなくめでたく取り行われた。女三の宮はあの藤壺の姪であったが、あまりの心の幼さに源氏は失望し、改めて紫の上の素晴らしさに気づく。しかし、紫の上にとっては、自分より身分が上である女三の宮の降嫁は大きな衝撃だった。その後、紫の上は一人寝の夜が多くなった。冷静を装っていたものの、苦悩は大きかった。同じ月、朱雀院は西山へ移られた。
翌年3月、明石女御は東宮に寵愛され、待望の男の子(後の東宮)を産んだ。人づてに知らせを聞いた祖父の明石入道は、これで宿願を果たせたと、尼君たちに長文の手紙を書いた後、深山に隠遁した。明石の尼君や明石女御は、もう会うことのできない入道を思って悲しむ。
柏木も女三宮に求婚したのだが、源氏の妻となったので落胆していた。しかし、女三の宮はみかけだけの妻だという噂が流れてきた。同じ3月に、六条院で蹴鞠(けまり)が催された。これに参加していた柏木は、女三の宮の部屋のあたりにいて、たまたま猫が御簾の端から走り出た拍子に、美しい袿(うちぎ)姿の女三の宮を見てしまった。柏木はその夜、女三の宮の乳母の子にあたる小侍従を介して、女三の宮に切なる思いを手紙で伝えた。
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35.若菜下(源氏41~47歳)
柏木は女三の宮への思いを捨てきれず、夕霧はそんな柏木の物憂げな様子を訝った。柏木は、女三の宮を手に入れられないのなら、蹴鞠の日の猫だけでも手に入れたいと、東宮を経由して猫を借り受け、その猫をせめてもの心の慰めものとして日を送っていた。周囲の女房たちは不思議に思う。
数年が過ぎ、冷泉帝が譲位し今上が即位した。次の東宮には明石女御の息子が立ち、太政大臣は致仕し、髭黒が右大臣、夕霧が大納言兼左大臣、柏木が中納言に昇進した。10月、源氏は、紫の上や明石女御などをつれて住吉明神に参詣した。まもなく女三の宮は二品(にほん)に叙せられ、源氏はますます丁寧に扱わなければならなくなった。紫の上は、一人寝の寂しさを、明石女御がもうけた姫君の世話をすることで紛らわせていた。
翌年の正月、源氏は、朱雀院が50歳になる賀宴に先立って、六条院で女楽(おんながく)が催された。紫の上は和琴、明石女御は筝(そう)の琴、明石の君は琵琶、女三の宮は琴(きん)の琴を使い、それぞれ優雅に合奏した。しかし、その翌朝、紫の上が突然発病し重篤に陥った。源氏はつきっきりで看病し、その甲斐あってか、少しずつ回復していった。
柏木は、女三の宮の姉である女二の宮(落葉の宮)と結婚したが、蹴鞠の日に見た女三の宮が忘れられず、賀茂の斎院の御禊の前日、乳母子の小侍従を介して女三の宮の寝所に忍び込み、驚き怯える女三の宮と許されぬ契りを結んでしまった。罪の意識におののきながらも二人の密会は続き、やがて女三の宮は懐妊した。源氏は不審に思ったが、ある日、柏木からの手紙を発見し、すべての秘密を知った。そして、かつての藤壺と自分との一件を回想し、宿命の恐ろしさを思い知った。
12月、朱雀院50歳の賀の試楽が催された日、柏木は源氏から冷たい視線を浴び、秘密がばれたことを知る。恐怖と心痛から、柏木はそのまま病床に臥してしまう。
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36.柏木(源氏48歳)
翌春、女三の宮は男児(薫)を出産した。周りは源氏と女三の宮の初めての子の誕生を大いに祝福するが、源氏は素直に喜ぶことができない。源氏の冷淡さを肌で感じている女三の宮も、心の悩みから産後も健康がすぐれず、見舞いに来た父、朱雀院に哀訴して出家した。源氏は、事情を知らない朱雀院が自分のいたらなさを責めるのではないかと心配する。
女三の宮の出家を聞いた柏木の病気はますます悪化。柏木は見舞いに来た夕霧に、事情を秘したまま死後の源氏との仲の取りなしを乞い、妻の落葉の宮の行く末を頼んで間もなく死去した。長男を失った致仕の大臣の嘆きはひとかたではなかった。女三の宮も、柏木のせいでこのような身になってしまったとはいえ、訃報を聞くと胸が痛んだ。4月、柏木の遺言どおり、夕霧は落葉の宮を訪ね、柏木をしのんだ。しばしば訪れるうち、夕霧は落葉の宮にほのかな愛情を持つようになった。
若君(薫)はすくすくと育ち、3月には五十日(いか)の祝いがあった。わが子の顔も見ずして死んだ柏木を、源氏は不憫に思う。薫を抱き上げて顔を眺めてみても、夕霧の赤子のころとは全く似ていない。目元はどこかやはり柏木に似ている。致仕の大臣が、せめて柏木が子を残してくれていたらと嘆いているが、この事実を伝えることなどできない。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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※「宇治十帖」は割愛します。
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