平家物語
次第に暗うなりければ、北南より廻つつる搦手(からめて)の勢(せい)一万余騎、倶利伽羅(くりから)の堂の辺に廻り合ひ、箙(えびら)の方立(ほうだて)打ちたたき、鬨(とき)をどつとぞ作りける。平家後ろをかへり見ければ、白旗(しらはた)雲のごとくさし上げたり。「この山は、四方厳石であんなれば、搦手よも廻らじと思ひつるに、こはいかに」とて騒ぎあへり。
さる程に、木曾殿、大手より鬨の声をぞ合はせ給ふ。松長(まつなが)の柳原(やなぎはら)、茱萸(ぐみ)の木林(きばやし)に一万余騎控かへたりける勢も、今井四郎が六千余騎で日宮林(ひのみやばやし)にありけるも、同じく鬨をぞ作りける。前後四万騎が喚(をめ)く声、山も川もただ一度に崩(くづ)るるとこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第に暗うはなる、 前後より敵は攻め来る。「きたなしや、かへせかへせ」といふ輩(やから)多かりけれども、大勢の傾き立ちぬるは、左右なう取つて返す事難ければ、倶梨伽羅が谷へ我先にとぞ落としける。真つ先に進んだる者が見えねば、「この谷の底に道のあるにこそ」とて、親落せば子も落し、兄落せば弟も続く。主落せば家子郎等(いへのこらうどう)落しけり。馬には人、人には馬、落ち重なり落ち重なり、さばかり深き谷一つを平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。巌泉(がんせん)血を流し、死骸(しがい)岳(をか)をなせり。されば、その谷の辺(ほとり)には、矢の穴、刀の疵、残つて今にありとぞ承る。
【現代語訳】
次第に暗くなってきたので、北と南の両側から回った別動隊の軍勢一万余騎は、倶梨伽羅の堂の辺りで合流し、箙の下を叩いて、どっと鬨の声を上げた。平家方が驚いて後ろを振り返ると、源氏方の白旗が雲が覆うように差し上げられていた。「この山は四方が岩石であるというので、よもや敵は背後には回るまいと思っていたのに、これはどうしたことか」と騒ぎあった。
そのうちに、木曾殿は、大手からの鬨の声を合せてあげられた。松長の柳原、ぐみの木林に控えていた源氏方の一万余騎の軍勢も、今井四郎が六千余騎で日宮林にいた軍勢も、同時に鬨の声をあげた。前後で四万余騎が叫ぶ声は、山も川もただ一度に崩れるように聞こえた。作戦案のとおり、平家では、次第に暗くはなるし、前後から敵が攻めて来るし、「卑怯ぞ、引き返せ、引き返せ」という者も多かったが、形成が崩れかけた大軍が容易に攻勢に転じるのは難しく、倶梨伽羅の谷へ、我れ先にと馬を下らせて行った。真っ先に進んでいった者が見えないので、「この谷の底に道があるのだ」と思い、親が馬を下らせると子も下らせ、兄が馬を下らせると弟もそれに続く。主人が馬で下ると、家子郎等も下らせて行った。馬には人が、人には馬が落ち重なり落ち重なり、あれほど深い谷一つを平家の軍勢七万余騎で埋めてしまった。岩の間の泉は血を流し、死骸は丘をなした。その谷の周辺には、矢の穴、刀の傷が今でも残っているという。
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平家の人々、「この上は、ただ一所でいかにもなり給へ」とて、方々へ向けられたる討手共、都へ皆呼び返されけり。 帝都名利(ていとみやうり)の地、鶏(にはとり)鳴いて安き事なし。治まれる世だにもかくの如し。いはんや、乱れたる世においてをや。吉野山の奥の奥へも入りなばやとは思しけれども、諸国七道ことごとく背(そむ)きぬ。いづれの浦か穏(おだ)しかるべき。三界無安猶如火宅(さんがいむあんゆによくわたく)とて、如来(によらい)の金言一乗の妙文(めうもん)なれば、なじかは少しも違(たが)ふべき。
同(おなじき)七月二十四日の小夜(さよ)更け方に、前内大臣(さきのないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、建礼門院(けんれいもんゐん)の渡らせ給ふ六波羅殿へ参って申されけるは、「この世の中の有様さりともと存じ候(さうら)ひつるに、今はかうにこそ候めれ。ただ都のうちでいかにもならんと、人々は申し合はれ候へども、目の当たりに憂き目を見せ参らせむも口惜しう候へば、院をも内をも取り奉つて、西国の方(かた)へ御幸(ごかう)行幸(ぎやうがこう)をもなし参らせて見ばやとこそ思ひなつて候へ」と申されければ、女院(にようゐん)、「今はただともかうも、そこの計らひにてあらんずらめ」とて、御衣(ぎよい)の御袂(おんたもと)にあまる御涙、せきあへさせ給はず。大臣殿(おほいとの)も直衣(なおし)の袖しぼるばかりに見えられけり。
【現代語訳】
平家の人々は、「こうなったからは、ただ一カ所に集まって最後の戦をされよ」といって、方々へさし向けられた討手の兵士どもを、都へ皆呼び戻された。都は名誉・冥利を求める地であり、鶏が鳴くと、安逸は破られる。治まった世でさえこのようである。ましてや乱世にあっては尚更である。吉野山の奥の奥へでも分け入りたいとも思われたが、諸国七道はことごとく平家に背いてしまった。どの地が平穏であろうか。現世には心の安まる所はなく、なお苦しみに満ちているとは、釈迦如来の有難いお言葉、法華経の妙文であるので、どうして少しでも違わない。
同月七月二十四日の夜更け方に、前内大臣宗盛公が、建礼門院がいらっしゃる六波羅へ参って申されたのは、「この世の中の有様は、それでも何とかなると思っておりましたが、もはやこれまでと思われます。都の内でどうにでもなろうと、人々は話し合っておりますが、目の前で辛い様をお見せするのは残念に思われますので、院(後白河法皇)も今上(安徳天皇)をもお連れ申して、西国の方へ御幸、行幸をお願いしようという思いに至りました」と申されたので、女院(建礼門院)は、「今となっては、ただともかくも、その計らいによりましょう」といって、御衣の御袂にあまる涙を抑えかねていらっしゃった。大臣殿も、直衣の袖を絞るほどの涙を流されているように見えた。
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(一)
薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、侍(さぶらひ)五騎、童(わらは)一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条 三位(さんみ)俊成卿(しゅんぜいのきやう)の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度」と名のり給へば、「落人(おちうと)帰り来たり」とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守馬よりおり、みづから高らかにのたまひけるは、「別(べち)の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、この際(きは)まで立ち寄らせ給へ」とのたまへば、俊成卿、「さることあるらん。その人ならば、苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門をあけて対面あり。事の体(てい)何となうあはれなり。
薩摩守のたまひけるは、「年ごろ申し承つて後、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二、三年は京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふあひだ、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命、はや尽き候ひぬ。撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙(かうぶ)らうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存じ候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」とて、日ごろ、詠み置かれたる歌どものなかに、秀歌とおぼしきを、百余首書き集められたる巻物を、今はとて、打つ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、鎧(よろひ)の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
【現代語訳】
薩摩守忠度は、どこから引き返してこられたのだろうか、侍五騎、近侍の童一人と自分ともに七騎で、五条の三位俊成卿の邸においでになってご覧になれば、門が閉ざされていて開かない。「忠度」とお名乗りになると、「落人が帰ってきた」といって、邸内は騒ぎあった。薩摩守は馬から下り、みずから大声で、「格別のことはございません。三位殿にお願いしたいことがあって、忠度が引き返して参りました。門を開かれなくとも、この際までお寄り下さい」とおっしゃれば、俊成卿は、「何か事情があるのだろう。その人ならば差し支えない。お入れ申せ」と仰せられ、門を開けて対面された。その場の様子は、何となくあわれ深かった。
薩摩守がおっしゃるには、「長年、和歌のご指導をいただいて以来、あなた様のことは、おろそかにはお思い申し上げておりませんでしたが、ここ二、三年は、都での騒ぎや、国々の乱れ、そのまま全てが我が一門身の上のことでございますので、おろそかに思っておりませんと申しましても、いつもお側に参上することもできませんでした。帝はとっくに都をお出になられています。一門の運命はもはや尽きてしまいました。勅撰和歌集の編纂があるはずだと伺いましたので、私の生涯の名誉に、一首なりともご恩情を頂きたいと思っておりましたが、まもなく世の中の動乱が生じ、その命令がございませんことは、ただもう一身の嘆きと思っております。世が鎮まりましたら、勅撰のご命令がございましょう。ここにございます巻物の中に、入集にふさわしいものがございますなら、一首なりともご恩情を頂き、草葉の陰でも嬉しいと思いましたならば、遠いあの世からあなた様をお守り申し上げましょう」と言って、日ごろ詠みためていらっしゃった歌の中から、秀歌と思われる百余首を書き集めなさった巻物を、もうこれまでと思って出発なさった時に、これを取ってお持ちになっていたが、鎧の引き合わせの部分から取り出して、俊成卿にお渡しになる。
(二)
三位、これをあけて見て、「かかる忘れ形見を賜りおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御(おん)疑ひあるべからず。さても、ただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押さへがたう候へ」とのたまへば、薩摩守喜びて、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ憂き世に思ひ置くこと候はず。さらばいとま申して」とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒を締め、西をさいてぞ、歩ませ給ふ。三位うしろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途(せんど)程(ほど)遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す」と高らかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残り惜しうおぼえて、涙を押さへてぞ入り給ふ。
その後、世静まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありさま、言ひ置きし言の葉、いまさら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読人(よみびと)知らずと入れられける。
さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。
【現代語訳】
三位は、これを開けて見て、「このような忘れ形見をいただきおきました上は、決しておろそかには思いません。お疑いなさいますな。それにしても、このお越しは、風流心も格段に深く、ご立派な情感も思い知られ、感涙おさえがたいものがございます」とおっしゃると、薩摩守は喜び、「今は西海の波の底に沈むなら沈んでもよい、山野に屍をさらすならさらしてもよい。この世に思い残すことはございません。それではおいとま申し上げて」といって、馬にうち乗り、甲の緒を締め、西に向かって馬を歩ませなさる。三位は、後ろ姿を遠くなるまで見送って立っておられると、忠度の声と思われ、「(※)前途は遥かに遠い。今私は、これから越える雁山の夕暮れの雲に思いを馳せています。しかし、これが最後のお別れかと思うと、涙をおさえることができません」と高らかに吟じられると、俊成卿はますます名残惜しく思われて、涙をおさえて邸内に入られた。
その後、世の中が静まり、(俊成卿は)『千載集』をお撰びになった時に、忠度のあの折の様子や言い残した言葉を、あらためて思い出し感無量となったので、あの巻物の中に入集すべき歌はいくらもあったが、天皇のお咎めを受けている人なので、名前を表すこともできず、「故郷の花」という題で詠まれた歌一首を、「詠み人知らず」としてお入れになった。
さざ波の志賀の旧都は、今は荒れてしまったが、長良山に咲く桜は昔のままの山桜であることよ。
忠度は、その身が朝敵となってしまった上は、とやかく言うことはできないものの、残念なことだ。
(※)『和漢朗詠集』餞別の「前途程遠し、思ひを雁山の暮の雲に馳す、後会期遥かなり、纓を鴻臚の暁の涙にうるおす」を朗詠したもの。
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(一)
ころは正月(むつき)二十日あまりのことなれば、比良(ひら)の高嶺(たかね)、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷うち解けて、水はをりふし増さりたり。白浪(はくらう)おびたたしうみなぎり落ち、瀬枕(せまくら)大きに滝なつて、逆巻く水も速かりけり。夜はすでにほのぼのと明けゆけど、川霧深く立ちこめて、馬の毛も鎧(よろひ)の毛も定かならず。
ここに大将軍九郎御曹司、川の端(はた)に進み出で、水の面(おもて)を見渡して、人々の心を見むとや思はれけむ。「いかがせむ、淀、一口(いもあらひ)へや回るべき、水の落ち足をや待つべき」と宣へば、畠山、そのころはいまだ生年(しやうねん)二十一になりけるが、進み出でて申しけるは、「鎌倉にてよくよくこの川の御沙汰(ごさた)は候ひしぞかし。知ろしめさぬ海川の、にはかに出来ても候はばこそ。この川は近江の湖の末なれば、待つとも待つとも水 干(ひ)まじ。橋をばまたたれか渡いてまゐらすべき。治承(じしよう)の合戦に足利又太郎忠綱(あしかがのまたたらうただつな)は鬼神(おにかみ)で渡しけるか。重忠(しげただ)瀬踏みつかまつらむ」とて、丹の党をむねとして、五百余騎ひしひしと轡(くつばみ)を並ぶるところに、平等院の丑寅(うしとら)、橘(たちばな)の小島が崎より武者二騎ひつ駆けひつ駆け出で来たり。
【現代語訳】
時のころは正月二十日過ぎなので、比良の高峰、志賀の山、昔ながらの長等山の雪も消え、谷々の氷も解けて、川の水量は折悪しく増えている。白波がおびただしく立ち、水がみなぎって流れ落ち、浅瀬に水が大きく盛り上がって滝のような音を立て、逆巻く水流は速かった。夜はすでにほのぼのと明けてきたが、川霧が深く立ち込めて、馬の毛色も鎧の色もはっきり見分けられない。
この時、大将軍九郎御曹司(義経)が、川のほとりに進み出て、水面を見渡し、家来の気持ちを試してみようと思われたのか、「どうしたらよいか、淀・一口へ回るべきか、それともここで流れが弱まるのを待つべきか」とおっしゃった。すると、畠山が、その頃まだ二十歳だったが、進み出て申し上げた。「鎌倉で、よくよくこの川についてのご指示がありました。ご存知のない海や川が突然現れたのならともかく、この川は近江の湖の末流ですから、待っても待っても水は干上がりません。再び誰かが橋をお渡しすることができましょうか。治承の合戦の時に、足利又太郎忠綱は鬼神としてここを渡ったのでしょうか。この重忠が、まず川の深さを確かめてまいります」と言い、丹治の党を中心に五百余騎がびっしり轡を並べて今にも川に入ろうとしたところ、平等院の東北、橘の小島の崎から武者二騎が躍り出てきた。
(注)丹の党・・・武蔵七党の一つで、丹治ともいう。「党」は地方の同族の武士団。
(二)
一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)、一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ」と言はれて、梶原さもあるらむとや思ひけむ。左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱を馬の結髪(ゆがみ)に捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間(ま)に佐々木はつつと馳せ抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原たばかられぬとや思ひけむ、やがて続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚したまふな。水の底には大綱あるらむ」と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足に掛かりける大綱どもをばふつふつとうち切りうち切り、いけずきといふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり。宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりけるする墨は、川中より篦撓形(のためがた)に押しなされて、はるかの下(しも)よりうち上げたり。佐々木鐙踏ん張り立ち上がり、大音声を上げて名のりけるは、「宇多天皇より九代の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はむ人々は高綱に組めや」とて、をめいて駆く。
【現代語訳】
一騎は梶原源太景季で、もう一騎は佐々木四郎高綱である。傍目にはどうとも見えないが、内心では二人とも先陣を狙っていたので、梶原は佐々木より一段前に進んでいた。佐々木四郎が、「この川は西国一の大河だ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい」と言うと、梶原はなるほどそうかと思ったか、左右の鐙に足を踏ん張って、自分の体と馬との間に隙間ができるようにして、手綱を馬のたてがみに投げ、腹帯を解いて締め直した。その間に佐々木はさっと駆け抜いて、川へざっとばかりに乗り入れた。梶原はだまされたと思ったか、すぐに続いて乗り入れた。梶原が、「なんと佐々木殿、手柄を立てようとして失敗なさるな。川底には大綱が張ってあるだろう」と言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の足にひっかかった何本もの大綱をぶつぶつと次々に切って進み、いけずきという当世第一の名馬に乗っていたこともあり、宇治川の流れが速いにもかかわらず、一文字にさっと渡って向こう岸に乗り上げた。梶原の乗るする墨は、川の中ほどから斜めに押し流され、はるか下流から岸に乗り上げた。佐々木は鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗ったのには、「宇多天皇より九代目の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣である。我こそはと思う人々は高綱と勝負せよ」と、叫び声を上げながら突進した。
(三)
畠山五百余騎でやがて渡す。向かへの岸より山田次郎が放つ矢に、畠山馬の額を篦深(のぶか)に射させて、弱れば、川中より弓杖(ゆんづゑ)を突いて降り立つたり。岩浪(いはなみ)甲(かぶと)の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。「誰(た)そ」と問へば、「重親(しげちか)」と答ふ。「いかに大串(おほくし)か」「さん候ふ」。大串次郎は畠山には烏帽子子(えぼしご)にてぞありける。「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ」と言ひければ、「いつもわ殿原(とのばら)は、重忠がやうなる者にこそ助けられむずれ」と言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただなほつて、「武蔵の国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣ぞや」とぞ名のつたる。敵(かたき)も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。
その後、畠山乗り替へに乗つてうち上がる。漁綾(ぎよりよう)の直垂に緋縅(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に金覆輪(きんぶくりん)の鞍(くら)置いて乗つたる敵の、まつ先に進んだるを、「ここに駆くるは、いかなる人ぞ。名のれや」と言ひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱(ながせのはんぐわんだいしげつな)」と名のる。畠山、「今日の軍神(いくさがみ)祝わん」とて、押し並べてむずと取つて引き落とし、首ねぢ切つて、本田次郎が鞍のとつつけにこそ付けさせけれ。これをはじめて、木曾殿の方(かた)より宇治橋固めたる勢(せい)ども、しばし支へて防ぎけれども、東国の大勢(おほぜい)皆渡いて攻めければ、さんざんに駆けなされ、木幡山(こはたやま)・伏見を指(さ)いてぞ落ち行ける。
【現代語訳】
畠山は、五百余騎でただちに川を渡った。向こう岸から山田次郎が放った矢に、畠山は馬の額を深く射られてしまい、馬が弱ったので、川の中から弓を杖について降り立った。水が岩に当たってできる波が甲の前にざっと押しかかったが、ものともせずに水底をくぐり向こう岸に到達した。岸に上がろうとすると、後ろに何者かがぴったり付き添っている。「誰だ」と問うと、「重親」と答える。「なんと、大串か」「さようでございます」。大串次郎は、畠山にとって烏帽子子だった。重親が「ひどく流れが速いので、馬が押し流されてしまいました。自力ではどうしようもないのであなたにおつき申し上げておりました」と言ったので、畠山は「いつもお前たちは、この重忠のような者に助けられるのだろう」と言いながら、大串を引っ掲げるようにして岸の上に放り投げた。放り上げられて、まっすぐ立った重親は、「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣だぞ」と名乗った。敵も味方も、この名乗りを聞いて、一度にどっと笑った。
その後、畠山は替わりの馬に乗って岸に上がった。漁綾の直垂に緋縅の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った敵が真っ先に進んでくるのを見て、畠山は「こちらに駆けて来るのは、どういう人か。名乗れよ」と言うと、「自分は木曾殿の家来で、長瀬判官代重綱」と名乗った。畠山は「今日の軍神への供え物としよう」と言って、馬を押し並べ、むんずと取り組んで引きずり落とし、首をねじ切って、本田次郎の鞍の紐にくくりつけさせた。これに始まり、木曾殿の側で宇治橋を守り固めていた軍勢は、しばらくは支えていたものの、東国の大軍がみな川を渡って攻めたので、散り散りに追いやられ、木幡山・伏見を目指して逃げていった。
(注)烏帽子子・・・元服して、烏帽子親から烏帽子と烏帽子名を授けられる者。
(注)漁綾・・・波に魚の紋がある綾織物。
(注)緋縅・・・赤い糸でおどした鎧。
(注)連銭葦毛・・・葦毛に銭を並べたような灰白色の斑文があるもの。
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(一)
木曾殿は信濃より、巴(ともゑ)・山吹とて、二人の美女を具せられたり。山吹は労(いたは)りあつて、都にとどまりぬ。なかにも巴は、色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓(つよゆみ)精兵(せいびやう)、馬の上、徒歩(かち)立ち、打ち物持つては鬼にも神にも会はうどいふ一人当千のつはものなり。究竟(くつきやう)の荒馬乗り、悪所落とし、いくさといへば、札(さね)よき鎧着せ、大太刀・強弓持たせて、まづ一方の大将には向けられけり。度々(どど)の高名、肩を並ぶる者なし。さればこのたびも、多くの者ども落ち行き討たれけるなかに、七騎がうちまで巴は討たれざりけり。
木曾は長坂を経て、丹波路へおもむくとも聞こえけり。また竜花越(りゆうげごえ)にかかつて、北国へとも聞こえけり。かかりしかども、「今井がゆくへを聞かばや」とて、勢田の方へ落ち行くほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田を固めたりけるが、わづかに五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻かせて、主のおぼつかなきに、都へとつて返すほどに、大津の打出の浜にて木曾殿に行き会ひたてまつる。互(たがひ)中一町ばかりより、それと見知って、主従駒を早めて寄り合うたり。
【現代語訳】
木曾殿は、信濃から、巴・山吹という二人の召使の女を連れてこられた。山吹は病気の為に都に残った。中でも巴は、色白く髪長く、容色がとても美しかった。その上にめったにない強弓の射手で、馬上でも徒歩でも、太刀を持てば鬼でも神でも相手にしようとする一人当千の女武者だった。抜群の荒馬の乗り手で、難所落としの名手であり、戦というと、義仲は札の堅固な鎧を着せ、大太刀・強弓を持たせて、まず一方の大将としてお向けになった。度々の巧妙手柄に肩を並べる者はない。それでこのたびも多くの者が敗走し討たれた中で、残り七騎になるまで巴は討たれなかった。
木曾は、長坂を通って丹波路へ向かうとも言われた。また竜花越えをして北国へ落ちたとも噂された。このような噂はあったが、木曾は「今井((兼平)の行方を知りたいものだ」と思い、勢田の方へ落ちていくうちに、今井の四郎兼平も、八百余騎で勢田を守っていたが、わずか五十騎ほどに討ちへらされ、従者に旗を巻かせて、主君義仲が気がかりなので、都へ引き返すところを、大津の打出の浜で、木曾殿にばったり会われた。お互いに一町ほど離れたところからそれとわかり、主従は馬を急がせて寄り合った。
(二)
木曾殿、今井が手を取つて宣ひけるは、「義仲、六条川原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくへの恋しさに、多くの敵(かたき)の中を駆けわつて、これまではのがれたるなり」。今井四郎「御諚まことにかたじけなう候ふ。兼平も勢田で討死つかまつるべう候ひつれども、御ゆくへのおぼつかなさに、これまで参つて候ふ」とぞ申しける。木曾殿「契りはいまだ朽ちせざりけり。義仲が勢は、敵に押し隔てられ、山林に馳せ散つて、この辺にもあるらんぞ。なんぢが巻かせて持たせたる旗、上げさせよ」と宣へば、今井が旗をさし上げたり。京より落つる勢ともなく、勢田より落つる者ともなく、今井が旗を見つけて、三百余騎ぞ馳せ集まる。木曾大きに喜びて、「この勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。ここにしぐらうで見ゆるは、誰が手やらん」「甲斐の一条次郎殿とこそ承り候へ」「勢はいくらほどあるやらん」「六千余騎とこそ聞こえ候へ」「さてはよい敵ごさんなれ。同じう死なば、よからう敵に駆け会うて、大勢の中でこそ討死をもせめ」とて、まつ先にこそ進みけれ。
【現代語訳】
木曾殿が、今井の手を取っておっしゃったのは、「義仲は六条河原で最後を迎えるつもりであったが、お前の行方が気がかりで、多くの敵の中を駆け回ってここまで逃れてきた」。今井の四郎は、「お言葉まことに有難く存じます。兼平も勢田で討死いたすつもりでございましたが、お行方が気がかりで、ここまで参りました」と申し上げた。木曾殿は「死ぬなら一所で死のうという約束はまだ朽ちていなかった。義仲の軍勢は敵に押し隔てられて、山林に馳せ散ってしまい、この辺りにもいようぞ。お前が従者に巻かせて持たせている旗を上げさせよ」とおっしゃると、今井の旗を差し上げた。京より落ちのびた軍勢ともなく、勢田より落ちのびた軍勢ともなく、今井の旗を見つけて、三百余騎が馳せ集まった。木曾はたいそう喜び、「この勢力があれば、最後の一戦をせずにはすまされない。そこに集まって見えるのは誰の手勢か」「甲斐の一条次郎殿と聞いております」「兵力はどのくらいあるのだろうか」「六千余騎と聞いております」「それは格好の敵であるようだ。同じ死ぬなら、よい敵に駆け合い、大軍の中でこそ討死をしたいものだ」といい、真っ先に進んだ。
(三)
木曾左馬頭(きそのさまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧(よろい)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒締め、厳物(いかもの)作りの大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、かしら高に負ひなし、滋籘(しげどう)の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪(きんぶくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)ふんばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曾冠者、今は見るらん、左馬頭兼 伊予守(いよのかみ)、朝日将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互によい敵(かたき)ぞ。義仲討つて兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見せよや」とて、をめいて駆く。一条次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。余すな者ども、もらすな若党、討てや」とて、大勢の中に取りこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。
【現代語訳】
木曾左馬頭のその日の装束は、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧を着て、鍬形を打ちつけた甲の緒を締め、いかめしい作りの大太刀を脇に差し、石打ちの矢でその日の戦で射て少々残ったものを左肩に高く見えるように背負い、滋籘の弓を持って、名高い木曾の鬼葦毛という馬でとても太くたくましいのに、金覆輪の鞍を置いて乗っていた。鐙をふんばって立ち上がり、大音声をあげて名乗るには、「昔聞いたであろう木曾冠者を、今その目で見ていよう、左馬頭兼伊予守、朝日将軍・源義仲である。そなたは甲斐の一条次郎と聞く。互いに好敵である。この義仲を討って兵衛佐(頼朝)に見せるがよかろう」といい、大声で突進した。一条次郎は、「今名乗った者は大将軍である。逃がすな者ども、討ちもらすな若党、討て」といい、大勢の中に義仲を取り囲んで、我こそが討ち取らんと進んだ。
(四)
木曾三百余騎、六千余騎が中を縦さま・横さま・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平(どひのじらうさねひら)二千余騎で支へたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまで巴は討たれざりけり。木曾殿、「おのれは疾(と)う疾う、女なれば、いづちへも行け。われは討死(うちじに)せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の、最後のいくさに女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず」と宣ひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉りて、「あつぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、控へたるところに、武蔵国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだのはちらうもろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍(くら)の前輪(まへわ)に押しつけて、ちつとも動かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後物の具脱ぎ捨て、東国の方(かた)へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたらう)討死す。手塚別当(てづかのべつたう)落ちにけり。
【現代語訳】
木曾の三百余騎は、敵の六千余騎の中を、縦に、横に、八方に、十文字に駆け破り、敵軍の後方へつつっと抜け出たところ、味方は五十騎ほどになっていた。突破してくる途中に、土肥次郎実平が二千騎で防いでいた。それをも突破して、あちらで四、五百騎、こちらで二、三百騎、また百四、五十騎、さらに百騎を駆け破り駆け破りしていくうちに、ついに木曾主従あわせて五騎になってしまった。その五騎になっても、巴は討たれなかった。木曾殿は、「おまえは早く早く、女なのだから、どこへでも逃げていけ。自分は討死しようと思う。もし人手にかかるようならば自害しようと思うので、木曾殿が、最後のいくさに女を連れていたなどと言われては残念だ」とおっしゃった。巴はそれでも落ち延びようとしなかったが、あまりに強く言われ、「ああ、よい敵がいればよいのに。最後の戦いをしてお見せいたしましょう」と言っていたところ、ちょうど武蔵国で有名な大力の、御田八郎師重が三十騎で現れた。巴はすぐにその中に駆け入り、御田八郎の馬に押し並べ、むずと御田をつかんで引き落とし、自分の馬の鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きをさせず、御田の首をねじ切って捨てた。そうして、巴は、鎧や甲を脱ぎ捨てて、東国の方へ落ちていった。この時、木曾の家来の手塚太郎が討死した。また、手塚別当は逃げてしまった。
(五)
今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、の宣ひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ鎧(よろひ)が、今日は重うなつたるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うはおぼし召し候ふべき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候はねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余の武者千騎とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ)の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者五十騎ばかり出で来たり。「君はあの松原へ入らせ給へ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん」と申しければ、木曾殿宣ひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ)と一所(いつしよ)で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、一所(ひとところ)でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとし給へば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゆう)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみやう)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせ給ひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等(らうどう)に組み落とされさせ給ひて、討たれさせ給ひなば、『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせ給へ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、粟津の松原へぞ駆け給ふ。
【現代語訳】
今井四郎と木曾殿は、たった主従二騎となり、木曾殿が言うには、「ふだんは何とも思わない鎧が、今日は重うなったぞ」。今井四郎が申し上げるには、「お体もまだお疲れになってはおりません。御馬も弱ってはいません。どうして一着の鎧を重くお思いになるのでしょうか。それは味方に軍勢がいないため、弱気となり、そのようにお思いになるのでしょう。この兼平一人ですが、他の武者千騎だとお思いくださいませ。矢が七、八本残っていますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えるのが粟津の松原と申します。殿は、あの松の中で御自害なさいませ」、そう言って馬を進めていくと、また新手の敵の武者五十騎ほどが現れた。「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵を防ぎます」と言えば、木曾殿は、「この義仲は、都で討死するはずだったが、ここまで逃れてきたのは、お前と同じ所で死のうと思ったからだ。別々の所で討たれるより同じ場所で討死しよう」と言って、馬の鼻先を並べて駆けようとした。今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取りついて、「武士たる者は、日ごろいかに功名がありましても、最後の時に失敗をしてしまいますと、永遠の不名誉となってしまいます。殿のお体はお疲れです。従う軍勢もございません。敵に間を押し隔てられ、取るに足らない者の家来に組み落とされ、お討たれなさって、『あれほど日本国で勇名を馳せられた木曾殿を、誰それの家来がお討ち申し上げた』などと言われるのは無念でございます。今はただ、あの松原へお入りなさいませ」と申し上げた。木曾は、「それならば」と言い。粟津の松原へ馬を走らせた。
(六)
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。木曾殿の御乳母子(おんめのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。ただ、「射取れや」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧(よろひ)よければ裏かかず、あき間(ま)を射ねば手も負はず。
木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり。深田(ふかだ)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦の石田次郎為久(いしだのじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、真甲(まつかう)を馬のかしらに当ててうつぶし給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせ給ひつる木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや」と名のりければ、今井四郎、いくさしけるが、これを聞き、「今は誰(たれ)をかばはんとてか、いくさをばすべき。これを見給へ、東国の殿ばら。日本一の剛(かう)の者の自害する手本」とて、太刀の先を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失(う)せにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
【現代語訳】
今井四郎はただ一騎で、五十騎ほどの敵中に駆け入り、鐙を踏んばって立ち上がり、大音声で名乗った、「日ごろは噂にも聞いていよう、今はその目で御覧あれ。木曾殿の御乳兄弟、今井四郎兼平、生年三十三に相成る。そういう者がいるとは、鎌倉殿(頼朝)さえも御存知であろうぞ。兼平を討ってお目にかけよ」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射た。自分の命を顧みず、たちまちに敵八騎を射落とした。その後、太刀を抜いてあちらに馳せ向かい、こちらに馳せ向かいし、切って回ると、正面から立ち向かってくる者がいない。敵の武器を多く分捕った。敵は、ただ、「射殺せ」と言って兼平を中に取り囲み、雨が降るように矢を射たが、兼平の鎧がよいので裏まで通らず、鎧のすき間を射ないので、今井は傷も負わない。
木曾殿はただ一騎で、粟津の松原へ駆け入ったが、折しも正月二十一日の日没時だったので、薄氷は張っており、深田があるとも知らずに、馬をざっと乗り入れたところ、馬の頭も見えなくなった。あおってもあおっても、鞭を打っても打っても馬は動かない。今井の行方が気がかりになり、振り向いて顔を上げたその甲の内側を、三浦石田次郎為久が追いかかって、弓を十分に引き絞ってひょうと射るとふっと射抜いた。木曾殿は深手を負い、甲の正面を馬の頭にあててうつ伏せになった、そこへ石田の家来二人が駆けつけて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。太刀の先に貫き通し、高く差し上げ、大音声で、「近ごろ日本国に名を馳せられていた木曾殿を、三浦石田次郎為久がお討ち申したぞ」と名乗りをあげたので、今井四郎は戦いの最中だったが、これを聞き、「もはや誰を守ろうとして戦う必要があろうか。これを見よ、東国の方々、日本一の剛勇の者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口にくわえ、馬からさかさまに跳んで落ち、貫かれて死んでしまった。こうして粟津の合戦は終わった。
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(一)
戦(いくさ)破れにければ、熊谷次郎直実(くまがへのじろうなほざね)、「平家の君達(きんだち)助け船に乗らむと、みぎはの方へぞ落ち給ふらむ。あつぱれ、よからう大将軍に組まばや」とて、磯の方へ歩まするところに、練貫(ねりぬき)に鶴(つる)縫うたる直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もよぎにほひ)の鎧(よろひ)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒締め、黄金(こがね)作りの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓持つて、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置いて乗つたる武者一騎、沖なる船に目をかけて、海へざつとうち入れ、五、六段ばかり泳がせたるを、熊谷、「あれは大将軍とこそ見まゐらせ候(さうら)へ。まさなうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな。返させ給へ」と扇を上げて招きければ、招かれて取つて返す。
【現代語訳】
平家の軍が合戦に敗れたので、熊谷次郎直実は、「平家の貴公子たちが助け船に乗ろうと、波打ち際の方に逃げなさるだろう。ああ、立派な大将軍と組み合いたいものだ」と思い、海岸の方へ馬を歩ませていくと、練貫に鶴の縫い取りをした直垂の上に萌黄匂の鎧を着て、鍬形をつけた甲の緒を締め、黄金作りの太刀を腰につけ、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船を目指して海へざっと乗り入れ、五、六段ほど泳がせたのを、熊谷は「そこにおられるのは大将軍とお見受けする。卑怯にも敵に後ろを見せられるのか。お戻りなされ」と扇を上げて招いたので、その武者は呼ばれて引き返してきた。
(二)
みぎはにうち上がらむとするところに、押し並べてむずと組んでどうど落ち、取つて押さへて首をかかむと甲を押しあふのけて見ければ、年十六、七ばかりなるが、薄化粧して、かね黒なり。わが子の小次郎が齢(よはひ)ほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。「そもそもいかなる人にてましまし候ふぞ。名のらせ給へ。助けまゐらせむ」と申せば、「汝(なんぢ)は誰(た)そ」と問ひ給ふ。「物その者で候はねども、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実」と名のりまうす。「さては、汝に会うては名のるまじいぞ。汝がためにはよい敵ぞ。名のらずとも首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ」とぞ宣ひける。熊谷、「あつぱれ、大将軍や。この人一人討ちたてまつたりとも、負くべき戦に勝つべきやうもなし。また討ち奉らずとも、勝つべき戦に負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはむずらむ。あはれ助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきつと見ければ、土肥・梶原五十騎ばかりで続いたり。
【現代語訳】
波打ち際に上がろうとするところを、馬を押し並べて、むんずと組んでどっと落ち、取り押さえて首をかき切ろうと甲を無理にはぎ取って見れば、年十六、七ほどで、薄化粧をしてお歯黒に染めている。わが子の小次郎の年齢ほどで顔かたちがまことに美しかったので、どこに刀を突き立てたらいいかわからない。熊谷が「いったいあなたはどのようなお方でいらっしゃいますか。お名乗りください。お助けしましょう」と言えば、「お前は誰か」とお尋ねになった。熊谷は、「物の数に入る者ではありませんが、武蔵野国の住人、熊谷次郎直実と申します」と名乗った。「それではお前に向かっては名乗るまいぞ。お前にとってはよい敵だ。自分が名乗らなくとも首を取って人に尋ねよ。誰か見知っている者があろうぞ」とおっしゃった。熊谷は、「ああ、立派な大将軍だ。しかし、この人一人を討ち取ったとしても、負けるはずの戦に勝てるわけではない。また、討ち取らなかったとしても、勝つはずの戦に負けるはずもなかろう。小次郎が軽傷を負っても自分は辛く思うのに、この殿の父上はわが子が討たれたと聞いたら、どんなにか嘆かれるだろう。ああ、お助けしたい」と思って、背後をさっと見たところ、土肥と梶原が五十騎ほどで続いてやってくる。
(三)
熊谷涙を抑へて申しけるは、「助けまゐらせむとは存じ候へども、味方の軍兵(ぐんびやう)雲霞(うんか)のごとく候ふ。よも逃れさせ給はじ。人手にかけまゐらせむより、同じくは直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養(おんけうやう)をこそつかまつり候はめ」と申しければ、「ただとくとく首を取れ」とぞ宣ひける。熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。「あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖(そで)を顔に押し当ててさめざめとぞ泣きゐたる。
やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂を取つて首を包まむとしけるに、にしきの袋に入れたる笛をぞ腰に差されたる。「あな、いとほし、この暁城の内にて管弦し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎かあるらめども、戦の陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈(じやうらふ)はなほもやさしかりけり」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人、涙を流さずといふことなし。
後に聞けば、修理大夫経盛(しゆりのだいぶつねもり)の子息に大夫(たいふ)敦盛とて、生年(しやうねん)十七にぞなられける。
【現代語訳】
熊谷が涙をおさえて申したのには、「お助け申し上げようと存じましたが、味方の軍勢が雲霞のようにやってきています。きっとお逃げにはなれないでしょう。他の者の手におかけ申し上げるより、同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのご供養をいたしましょう」と申したところ、「ただもう早く早く首を取れ」とおっしゃった。熊谷はあまりにいたわしく感じ、どこに刀を立てたらよいかもわからず、目も涙にくもり心もすっかり失せて、どうしていいか分からなくなったが、そうしてばかりもいられず、泣く泣く首をかき切った。「ああ、弓矢をとる武士の身ほど情けないものはない。武士の家に生まれなければ、どうしてこのような辛い目に会うであろうか。情けもなく討ち取り申し上げてしまったものだ」と嘆き、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いていた。
ややしばらくして、熊谷はそうしているわけにもいかず、その武者の鎧直垂を取って首を包もうとしたところが、錦の袋に入れた笛を腰に差しておられた。「ああ、おいたわしい、この夜明け方、城内で楽器を奏しておられたのはこの方々だったのだ。今、味方には東国武士が何万騎もいるだろうが、戦の陣へ笛を持つ者などおそらくいないだろう。高い身分の人はやはり優雅なものだ」と言い、九郎御曹司義経公のお目にかけたところ、これを見た人は涙を流さずにいられなかった。
後に聞くと、若武者は修理大夫経盛の子息で大夫敦盛といい、年齢十七歳になっておられた。
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兵衛佐(ひやうゑのすけ)、いそぎ見参(げんざん)して申されけるは、「そもそも君の御憤(おんいきどほ)りを休め奉り、父の恥を雪(きよ)めんと思ひたちし上は、平家を亡さんの案の内に候へども、まさしく見参(げんざむ)にいるべしとは存ぜず候ひき。この定(ぢやう)では、屋島(やしま)の大臣殿(おほいとの)の見参にも入りぬと覚え候。そもそも南都を亡させ給ひける事は、故太政入道殿(こだいじやうにふだうどの)の仰せにて候ひしか、又時にとつての御計らひにて候ひけるか。以(もつ)ての外(ほか)の罪業(ざいごふ)にてこそ候なれ」と申されければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)宣ひけるは、「まづ南都炎上(なんとえんしやう)の事、故入道の成敗にもあらず、重衡(しげひら)が愚意(ぐい)の発起(ほつき)にもあらず。衆徒(しゆと)の悪行を静めむが為にまかり向つて候ひし程に、不慮に伽藍(がらん)滅亡に及び候ひし事、力及ばぬ次第なり。昔は源平左右(さう)に争ひて、朝家(てうか)の御堅(おんかため)たりしかども、近比(ちかごろ)は源氏の運傾(かたぶ)きたりし事は、事あたらしう初めて申すべきにあらず。当家は保元平治より以来(このかた)、度々(どど)朝敵を平げ、勧賞(けんじやう)身にあまり、かたじけなく一天の君の御外戚(ごぐわいせき)として、一族の昇進(しようじん)六十余人、廿余年(にじふよねん)の以来(このかた)は、たのしみさかえ申すはかりなし。今又運つきぬれば、重衡とらはれて是(これ)まで下り候ひぬ。それについて、帝王の御かたきを討つたる者は、七代まで朝恩(てうおん)うせずと申す事は、極めたる僻事(ひがごと)にて候ひけり。まのあたり故入道は君の御為にすでに命を失はんとすること度々(どど)に及ぶ。されどもま纔(わづ)かに其身一代の幸(さいはい)にて、子孫かやうにまかりなるべしや。されば運つきて都を出でし後は、骸(かばね)を山野(さんや)にさらし、名を西海の浪に流すべしとこそ存ぜしか。これまで下るべしとは、かけても思はざりき。ただ先世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)こそ口惜(くちを)しう候へ。但し、『殷湯(いんたう)は夏台(かたい)にとらはれ、文王は羑里(いうり)にとらはる』と云ふ文(もん)あり。上古(しやうこ)なほかくの如し。況(いはん)や末代においてをや。弓矢を取るならひ、敵(かたき)の手にかかつて命を失う事、全く恥にて恥ならず。ただ芳恩(はうおん)には、とくとく頭(かうべ)を刎ねらるべし」とて、その後は物も宣はず。景時(かげとき)これを承つて、「あつぱれ大将軍や」とて涙を流す。
【現代語訳】
兵間佐頼朝がさっそく対面して申されるには、「そもそも君(後白河院)の御怒りをお鎮め申し、父(源義朝)の恥を雪ごうと思い立った以上、平家を滅ぼすのは思案の中にあったことでしたが、現実にこうしてお目にかかるとは思いもしませんでした。この分だと、屋島の大臣殿(宗盛)にもお目にかかることになるでしょう。そもそも南都を滅ぼされたのは、故太政入道殿(清盛)の仰せであったのか、それともその時においての臨機応変のご処置であったのか。以ての外の罪業ですぞ」と申されたところ、三位中将が言われるには、「まず南都炎上の事、故入道の裁断ではなく、重衡の愚かな考えから出たものでもありません。衆徒の悪行を鎮めるために出向いたのですが、思いがけず寺院の消滅に至ったのは私の力では及ばなかったったことでございます。昔は源平が左右に競いながら朝廷をお守りしていましたが、此許、源氏の運が傾いたことは、改めて申し上げるまでもありません。当家は保元・平治の乱よりこのかた、たびたび朝敵を平らげ、身に余る褒賞をいただき、恐れ多くも天皇の御外戚として、一族の昇進60余人に及び、20余年前からの繁栄は言葉で言い尽くせない程です。しかし、今は平家の運も尽きたので、重衡が捕えられてここまで下って参りました。それにつけても、帝王の御敵を討った者は、七代まで朝恩を失わないと申す事は、とんでもない間違いでありました。実際に故入道が君の御為にほとんど命を失おうとしたことは数回に及びます。しかしわずかその身一代の幸いだけで、子孫がこのようになるということがありましょうか。それゆえ、運が尽きて都を出た後は、屍を山野にさらし、名は西海の海に流さねばと覚悟しておりましたのに、ここまで下るとはいささかも思っておりませんでした。ただ先祖の悪行の報いであるのが残念です。但し、『殷(いん)の湯王(とうおう)は夏台に捕われ、文王は悠里に捕えられる』という中国の書物があります。大昔でもこのようなものです。ましてこの末世においてはなおさらの事でしょう。弓矢を取る武士の定め、敵の手にかかって命を失うのはまったく恥の様で恥ではありません。ただ恩を以て速やかに首を刎ねられよ」と言って、その後は何も言われない。景時はこれをお聞きして、「あっぱれな大将軍であることよ」といって涙を流した。
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比(ころ)は三月廿八日の事なれば、海路(かいろ)遥かに霞みわたり、哀れをもよほす類(たぐひ)なり。ただ大方(おほかた)の春だにも、暮れ行く空は物うきに、況(いはん)や今日(けふ)をかぎりの事なれば、さこそは心細かりけめ。興(おき)の釣舟の浪に消え入るやうに覚ゆるが、さすが沈みもはてぬを見給ふにも、我身の上とや思しけむ。おのが一行(ひとつら)ひき連れて、今はと帰る雁(かり)がねの、越路(こしぢ)をさして鳴き行くも、ふるさとへ言伝(ことづけ)せまほしく、蘇武(そぶ)が胡国の恨みまで、思ひ残せるくまもなし。「さればこは何事ぞ。猶(なほ)妄執(まうじふ)の尽きぬにこそ」と思食(おぼしめ)しかへして、西に向ひ手を合せ、念仏し給ふ心のうちにも、「すでに只今を限りとは、都にはいかでか知るべきなれば、風のたよりのことつても、今や今やとこそ待たんずらめ。遂にはかくれあるまじければ、この世になきものと聞いて、いかばかりかなげかんずらん」なんど思ひ続け給へば、念仏をとどめ合掌を乱り、 聖(ひじり)にむかって宣ひけるは、「あはれ人の身に、妻子といふ物をばもつまじかりけるものかな。この世にて物を思はするのみならず、後世(ごせ)菩提(ぼだい)の妨げとなりける口惜(くちを)しさよ。只今も思ひ出づるぞや。か様(やう)の事を心中に残せば、罪深からむなる間、懺悔(さんげ)するなり」とぞ宣ひける。
【現代語訳】
頃は三月二十八日なので、海路は遥か遠くまで霞がかかり、哀れを感じさせる類のものである。いつもの春であっても、暮れ行く空の様子は物悲しいものなのに、まして今日が最後なので、さぞかし心細かったであろう。沖に浮かぶ釣り船が波間に消え入るように思われるが、それでもやはり沈まず漂っているのを御覧になるにつけても、自分の身の上と思われたであろう。自分の仲間の一列を引き連れて、今は北国へ帰る雁が鳴きながら行くの見ても、あの雁に手紙を託して故郷へ言づけをしたいと願い、胡国に捕らわれた蘇武が味わった悲しみまで、何一つ思い残すことなく思いめぐらす。「これはいったい何事か。なおも家族への執着にとらわれた迷いや執念は尽きないのか」と思い返され、西に向かって手を合せ、念仏を唱えられる心の内にも、「自分がもう今が最後だとは、都では知るはずがないのだから、何かの機会に届けられる言伝を、今か今かと待っているだろう。自分の入水も遂には知られるだろうから、この世を去ったと聞いて、どんなにか嘆くだろう」などと思い続けられると、念仏をやめ合掌の手をくずし、滝口入道に向って言われるには、「ああ、人の身に妻子というものを持つべきではなかった。この世で物思いをさせるだけでなく、後世で菩提の妨げとなるのは残念です。今も妻子が思い出されるのです。この様な思いを心の中に残すのは罪深いと聞いているので、懺悔するのです」と言われた。
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
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