平家物語
(一)
さるほどに、阿波・讃岐に平家を背いて、源氏を待ちける者ども、あそこの峰、ここの洞(ほら)より、十四、五騎、二十騎、うち連れ参りければ、、判官ほどなく三百騎にぞなりにける。「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず」とて、引き退くところに、沖の方(かた)より尋常に飾つたる小舟(せうしう)一艘(いつさう)、汀(みぎは)へ向いてこぎ寄せけり。磯へ七、八段ばかりになりしかば、舟を横さまになす。「あれはいかに」と見るほどに、舟の内より齢(よはひ)十八、九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣(いつつぎぬ)に紅の袴(はかま)着て、皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたるを、舟のせがいにはさみ立てて、陸(くが)へ向いてぞ招いたる。
判官、後藤兵衛実基(ごとうびやうゑさねもと)を召して、「あれはいかに」と宣へば、「射よとにこそ候ふめれ。ただし大将 矢面(やおもて)に進んで傾城(けいせい)を御覧ぜば、手だれにねらうて射落とせとのはかりことと覚え候ふ。さも候へ、扇をば射させらるべうや候ふらん」と申す。「射つべき仁は御方(みかた)に誰(たれ)かある」と宣へば、「上手(じやうず)どもいくらも候ふ中に、下野国(しもつけのくに)の住人、那須太郎資高(なすのたらうすけたか)が子に、与一宗高(よいちむねたか)こそ小兵(こひやう)で候へども、手利(てき)きで候へ」。「証拠はいかに」と宣へば、「かけ鳥なんどを争(あらが)うて、三つに二つは必ず射落とす者で候ふ」。「さらば召せ」とて召されたり。
【現代語訳】
そのうちに、阿波・讃岐で平家に背き、源氏の到着を待っていた者たちが、あそこの峰、ここの洞穴から十四、五騎、二十騎と、連れ立ち連れ立ちして参上してきたので、判官(義経)の軍勢はほどなく三百余騎にもなった。「今日は日も暮れてしまった。勝負を決することはできない」と言って、引き退くところに、沖のほうから立派に飾った小舟が一艘、海岸に向けて漕ぎ寄せてきた。そして磯まで七、八段ばかりのところで舟を横向きにした。「あれは何だ」と見ると、舟の中から年のころ十八、九ほどの女房で、たいへん優雅で美しい女が、柳の五衣に紅の袴を着けて、総紅色の扇で金箔の日の丸が描かれたのを棹の先につけ、舟のへり板にはさんで立てて、陸に向かって手招きをした。
判官は、後藤兵衛実基を呼んで、「あれはどういうことか」とおっしゃると、「扇を射よというのでしょう。ただし、大将軍が矢面に進み出てあの美人をご覧になられては、手だれの者に狙わせて射落とそうとする計略だと思います。しかし、そうだとしても、あの扇を誰かに射させるのがよろしいでしょう」と、実基は申し上げた。判官は、「あれを射ることができる者が味方に誰かいるか」とおっしゃると、実基は「弓の名手はたくさんおりますが、中でも下野の国の住人で、那須太郎資高の子の与一宗高こそが、小兵ではございますが腕利きです」とお答えした。判官が「証拠は何か」とおっしゃると、「飛ぶ鳥などを射る競争で、三羽に二羽は必ず射落とす者です」と申し上げた。判官は「それではその者を呼べ」と言ってお呼びになった。
(二)
与一、そのころは二十ばかりの男(をのこ)なり。褐(かち)に、赤地の錦をもつて、大領(おほくび)、端袖(はたそで)いろへたる直垂(ひたたれ)に、萌黄縅(もえぎをどし)の鎧(よろひ)着て、足白(あしじろ)の太刀をはき、切斑(きりふ)の矢の、その日のいくさに射て少々残つたりけるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、薄切斑(うすぎりふ)に鷹(たか)の羽(は)はぎまぜたるぬた目の鏑(かぶら)をぞさし添へたる、重籐(しげどう)の弓脇にはさみ、甲をば脱ぎ、高ひもにかけ、判官の前に畏(かしこ)まる。
「いかに宗高、あの扇のまん中射て、平家に見物せさせよかし」。与一、畏まつて申しけるは、「射おほせ候はんことは不定(ふぢやう)に候ふ。射損じ候ひなば、長き御方(みかた)の御疵(おんきず)にて候ふべし。一定(いちぢやう)仕(つかまつ)らんずる仁に仰せつけらるべうや候ふらん」と申す。判官大きに怒つて、「鎌倉を立つて西国へおもむかん殿ばらは、義経が命(めい)を背くべからず。少しも子細(しさい)を存ぜん人は、とうとうこれより帰らるべし」とぞ宣ひける。
与一、重ねて辞せば悪(あ)しかりなんとや思ひけん、「はずれんは知り候はず、御諚(ごぢやう)で候へば、つかまつてこそ見候はめ」とて、御前(おんまへ)をまかり立ち、黒き馬の太うたくましいに小房(こぶさ)の鞦(しりがい)かけ、まろぼやすつたる鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱かいくり、汀(みぎは)へ向いて歩ませければ、御方のつはものども、後ろをはるかに見送つて、「この若者、一定 仕(つかまつ)り候ひぬと覚え候ふ」と申しければ、判官も頼もしげにぞ見給ひける。
【現代語訳】
与一は、その頃まだ二十歳ばかりの男だった。濃紺色の地に赤地の錦でもって、大領と端袖を色どった直垂に、萌黄縅の鎧を着けて、足白の太刀を差し、切斑の矢で、その日の戦いで射て少々残っていたのを頭の上から高く出るほどに背負い、薄い切斑に鷹の羽を混ぜてはぎ合わせたぬた目の鏑矢を添えて差していた。重籐の弓を脇にはさみ、甲を脱いで高ひもにかけ、判官の前にかしこまった。
判官が、「どうだ宗高、あの扇の真ん中を射て、平家に見物させてやれ」とおっしゃった。与一がかしこまって、「射とげられるかどうかは分かりません。もし射そこないましたら、長く味方の御恥となりましょう。確実にやり遂げられる人に仰せつけられるのがようございましょう」と申し上げた。判官は大いに怒って、「鎌倉を立って西国へ向かおうとする殿方は、義経の命令に背いてはならない。少しでも不服がある者は、とっととここから帰るがよい」とおっしゃった。
与一は、重ねて辞退するのはまずいと思ったのだろう、「外れるかもしれませんが、ご命令でございますのでいたしてみましょう」と言って、御前を下がり、黒い馬の太くたくましいのに小房のついた鞦をかけ、まろぼやの家紋を磨き出した鞍を置いて乗った。そして、弓を持ち直し、手綱を操りながら海へ向かって歩ませた。味方の武者たちは、与一の後姿をはるかに見送りながら、「あの若者は、きっとやり遂げるだろう」と言ったので、判官も頼もしそうに見ておられた。
(三)
矢ごろ少し遠かりければ、海へ一段(いつたん)ばかりうち入れたれども、なほ扇のあはひ七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の、酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺(ゆ)り上げ揺り据(す)ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には平家、船を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。
与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、わが国の神明(しんめい)、日光権現(につくわうのごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみやうじん)、願はくはあの扇のまん中射させて賜(た)ばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面(おもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせ給ふな」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。与一
鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵(こひやう)といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、誤たず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上(あが)りける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日(せきじつ)の輝いたるに、皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。
【現代語訳】
矢を射るには少し遠かったため、与一は馬を海へ一段ばかり乗り入れたが、それでもまだ七段ほどあるだろうと見えた。時は二月十八日の午後六時ごろで、折りしも北風が激しく、磯に打ち寄せる波も高かった。舟は上下に揺れながら漂い、扇も棹の先に定まらずひらひらとしている。沖では平家が船を一面に並べて見物している。どの者たちも晴れがましくなかろうはずがない。
与一は目をふさぎ、「南無八幡大菩薩、わが国の神々であらせられる日光権現、宇都宮と那須の湯泉大明神、どうかあの扇の真ん中を射させて下さい。もしこれを射損なえば、弓を切り折り自害いたしますので、人に再び顔を合わせることができません。いま一度郷国へ迎えてやろうとお思いでしたら、この矢をお外し下さいますな」と心の中で祈り、目を開くと、風が少し弱まり、扇も射やすそうになっていた。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。小兵とはいえ、矢の長さは十二束三伏、弓は強く、鏑矢は浦一帯に響くほど長く鳴り渡り、誤ることなく扇の要の際から一寸ばかりの所を、ひい、ふつと射切った。鏑矢は海中に、扇は空に舞い上がった。しばらく空中でひらひらして、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散った。夕日が輝く中、総紅色の扇に日の丸が描かれたのが白波の上に漂い、浮き沈みしながら揺られていたので、沖では平家が船ばたをたたいて感嘆した。陸では源氏が、箙をたたいて喝采した。
(注)箙・・・矢を入れて背負う武具。
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さる程に、九郎大夫判官義経(くらうたいふのはうぐわんよしつね)、 周防(すはう)の地におし渡つて、兄の参川守(みかはのかみ)と一つになる。平家は長門国(ながとのくに)引島(ひくしま)にぞ着きにける。 源氏、阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)に着いて屋島(やしま)の軍(いくさ)に打ち勝ちぬ。平家、引島(ひくしま)に着くと聞こえしかば、源氏は同国のうち、追津(おひつ)に着くこそ不思議なれ。
熊野別当湛増(くまののべつたうたんぞう)は、平家へや参るべき、源氏へや参るべきとて、田辺(たなべ)の新熊野(いまぐまの)にて御神楽(みかぐら)奏して権現(ごんげん)に祈誓(きせい)し奉る。「白旗(しらはた)に付け」と御託宣(ごたくせん)ありけるを、なほ疑ひをなして白い鶏(にはとり)七つ、赤き鶏七つ、これを以て権現の御前(おんまへ)にて勝負をせさす。赤き鶏一つも勝たず、みな負けて逃げにけり。 さてこそ源氏へ参らんと思ひ定めけれ。
一門の者ども相催(あひもよほ)し、都合その勢(せい)二千余人、二百余艘の舟に乗り連れて、 若王子(にやくわうじ)の御正体(おしやうだい)を舟に乗せ参らせ、旗の横上(よこがみ)には金剛童子(こんがうどうじ)を書き奉つて壇の浦へ寄するを見て、源氏も平氏も共に拝む。されども、源氏の方へ付きければ、平家、興(きよう)さめてぞ思はれける。
又、伊予国(いよのくに)の住人、河野四郎通信(かはののしらうみちのぶ)、百五十艘の兵船(ひやうせん)に乗り連れて漕ぎ来たり、源氏と一つになりにけり。判官かたがた頼もしう力ついてぞ思はれける。源氏の舟は三千余艘、平家の舟は千余艘、唐船(たうせん)少々、相交(あひま)じれり。源氏の勢(せい)は重なれば、平家の勢は落ちぞゆく。
【現代語訳】
さて、九郎大夫判官義経は、周防の地に押し渡って、兄の三河守(範頼)と合流した。平家は、長門国引島に着いた。源氏は阿波国勝浦に着いて、屋島の戦いに打ち勝った。平家が引島に引くという話が伝わると、源氏が同国の追津(おいつ)に着いたのは不思議であった。
熊野別当湛増は、平家へ付くべきか、源氏へ付くべきかと悩んで、田辺の新熊野で御神楽を奏して、権現に誓い申しあげる。すると「白旗に付け」と御託宣があったが、なお疑って、白い鶏七羽、赤い鶏七羽、これを使って、権現の御前で勝負をさせた。すると赤い鶏は一羽も勝たず、みな負けて逃げてしまった。それで源氏へ味方しようと決心したのだった。
湛増が一門の者共を招集し、その総勢二千余人が二百余艘の船に乗って漕ぎ出し、若王子の御神体を船にお乗せ申し、旗の上端の横木には金剛童子を描き申して、壇の浦へ寄せるのを見て、源氏も平氏も共に拝んだ。しかし、その船団が源氏の方に付いたのを見て、平家は興冷めしてしまった。
また、伊与国の住人、河野四郎通信が百五十艘の兵船に乗り、連なって漕いで来て、源氏と合流した。判官は一人ひとりを頼もしく、力が加わるように思われた。源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘、中国風の大型船も少々交じっていた。源氏の勢力が増えたので平家の勢力は落ちていく。
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源平たがひに命を惜しまず、をめきさけんで攻め戦ふ。いづれおとれりとも見えず。されども平家の方には、十喜帝王(じふぜんていわう)、三種の神器を帯(たい)して渡らせ給へば、 源氏いかがあらんずらんと危なう思ひけるに、しばしは白雲(はくうん)かと覚しくて、虚空にただよひけるが、雲にてはなかりけり、主(ぬし)もなき白幡(しらはた)一流(ひとながれ)舞ひさがつて、源氏の舟の舳(へ)に、棹付(さをづけ)の緒のさはる程にぞ見えたりける。
判官、「これは八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の現じ給へるにこそ」と喜んで、手水(てうづ)うがひをして、これを拝し奉る。兵共(つはものども)皆かくの如し。また源氏の方(かた)よりいるかといふ魚(うを)一二千、這(は)うで、平家の方へ向ひける。大臣殿(おほいとの)これを御覧じて、小博士晴信(こはかせはるのぶ)を召して、「いるかは常に多けれども、未だかやうの事なし。いかがあるべきとかんがへ申せ」と仰せられければ、「このいるか、はみ帰り候はば、源氏ほろび候べし。這うで通り候はば、みかたの御(おん)いくさあやふう候」と申しもはてねば、 平家の舟の下をすぐに這うで通りけり。「世の中はいまはかう」とぞ申したる。
阿波民部重能(あはのみんぶしげよし)は、この三が年が間、平家によくよく忠を尽くし、度々(どど)の合戦に命を惜しまず防ぎ戦ひけるが、子息田内左衛門(でんないざゑもん)を生け捕りにせられて、いかにも叶はじとや思ひけん、たちまちに心変りして、源氏に同心してんげり。平家の方には謀(はかりこと)に、よき人をば兵船(ひやうせん)に乗せ、雑人(ざふにん)どもをば唐船(たうせん)に乗せて、源氏、心にくさに唐船を攻めば、中にとりこめて討たんと支度(したく)せられたりけれども、阿波民部が返忠(かへりちゆう)の上は、唐船には目もかけず、大将軍のやつし乗り給へる兵船をぞ攻めたりける。新中納言、「やすからぬ。重能めを斬つて捨つべかりつる物を」と、千(ち)たび後悔せられけれどもかなはず。
さる程に、四国、鎮西(ちんぜい)の兵者(つはもの)共、皆平家を背いて源氏につく。今まで従ひついたりし者共も、君に向かつて弓を引き、主(しゆう)に対して太刀を抜く。かの岸につかんとすれば、 浪高くして叶ひがたし。この汀(みぎは)に寄らんとすれば、 敵(かたき)矢先をそろへて待ちかけたり。源平の国争ひ、今日を限りとぞ見えたりける。
【現代語訳】
源平は互いに命も惜しまず、喚き叫んで攻め戦う。どちらが劣っているとも見えない。けれども平家の方には、十善の帝王(安徳天皇)が三種の神器を持っていらっしゃるので、源氏はどうだろうかと危うく思っていたが、しばらくは白雲かと思われるものが大空に漂っていたが、それは雲ではなかった。持主もいない白旗が一流れ舞い降りて来て、源氏の船の舳先に、旗竿に結ぶ緒が触れるほどに近づいて見えた。
判官は、「これは八幡大菩薩が姿を現されたのだ」と喜んで、手水の水でうがいをして、これを拝み申し上げる。兵共も皆同じようにした。また源氏の方から海豚(いるか)が一、二千ほどぱくぱく口を開けて、平家の方へ向かった。大臣殿はこれを御覧になって、小博士(陰陽道の博士)晴信を召して、「海豚はいつも多くいるが、今までこのようなことはない。どういうことだろうか。易占いをして申せ」とおっしゃると、「この海豚が、このまま口を開け息をしながら源氏の方へ戻って行きましたら、源氏は滅びましょう。逆に息をしながら通り過ぎましたら、味方の軍勢は危のうございます」と言い終わらないうちに、平家の舟の下をぱくぱく息をしながら通って行った。「世の中はもうこれまでです」と晴信は申した。
阿波民部重能は、この三年の間、平家によくよく忠義を尽くし、度々の合戦で命を惜しまず戦ったが、子息の田内左衛門を生け捕りにされて、どうにも敵わないと思ったのか、たちまち心変りして、源氏に味方した。平家の方では計略をめぐらせ、身分の良い人を兵船に乗せ、下賤の者どもを唐船に乗せて、源氏が大将の船かと思いそちらに気を引かれて等船を攻めたら、中に取り囲んで討とうと準備されていたが、阿波民部が裏切ったので、源氏は唐船には目もくれず、大将軍が姿をやつしてて乗っておられた兵船を攻めたのだった。新中納言(知盛)は、「心外なことだ。重能めを斬り捨てておけばよかった」と、何度も後悔なさったが、どうしようもない。
そのうちに、四国や九州の者どもが、みな平家に背いて源氏に付いた。いままで従っていた者どもも、君に向かって弓を引き、主人に対して太刀を抜いた。あちらの岸に寄りつこうとすると、波が高くて寄りつけない。こちらの汀に寄ろうとすると、敵が陸で矢先を揃えて待ち構えている。源氏と平家の天下取りの争いは、今日が最後と見えた。
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二位殿(にゐどの)は、この有様を御覧じて、日ごろ思し召しまうけたる事なれば、鈍色(にぶいろ)の二衣(ふたつぎぬ)うち被(かづ)き、練袴(ねりばかま)の傍(そば)高く挟み、神璽(しんじ)を脇に挟み、宝剣を腰にさし、主上(しゆしやう)を抱き奉つて、「わが身は女なりとも、敵(かたき)の手にはかかるまじ。君の御供(おんとも)に参るなり。御志(おんこころざし)思ひ参らせ給はん人々は、急ぎ続き給へ」とて、船端(ふなばた)へ歩み出でられけり。
主上、今年は八歳にならせ給へども、御年(おんとし)の程よりはるかにねびさせ給ひて、御形美しく、辺りも照り輝くばかりなり。御髪(おんぐし)黒うゆらゆらとして、御背中過ぎさせ給へり。あきれたる御様(おんさま)にて、「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せければ、いとけなき君に向かひ奉り、涙を抑へて申されけるは、「君はいまだ知(しろ)し召され候(さぶら)はずや。先世(せんぜ)の十善戒行(じふぜんかいぎよう)の御力(おんちから)によつて、いま万乗(ばんじよう)の主(あるじ)と生れさせ給へども、悪縁に引かれて、御運すでに尽きさせ給ひぬ。まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させ給ひ、その後、西方浄土(さいはうじやうど)の来迎(らいがう)に与(あづ)からむと思し召し、 西に向かはせ給ひて御念仏候ふべし。この国は栗散辺地(ぞくさんへんぢ)とて心憂き境(さかひ)にて候へば、極楽浄土とてめでたき処ヘ具し参らせさぶらふぞ」と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)に角髪(びんづら)結はせ給ひて、御涙(おんなみだ)におぼれ、小さく美しき御手を合はせ、まづ東を伏し拝み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後、西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿、やがて抱き奉り、「浪の下にも都の候ふぞ」と慰め奉つて、千尋(ちひろ)の底へぞ入り給ふ。
【現代語訳】
仁位殿はこの有様を御覧になって、日頃覚悟しておられたことなので、濃い灰色の二枚重ねの衣をかぶり、練絹の袴の腿立ちを高く挟み、神璽を脇に抱え、宝剣を腰に差し、主上(安徳天皇)をお抱き申し上げて、「我が身は女であるけれども、敵の手にはかかりません。主上の御共に参ります。御志をお寄せ申し上げなさる人々は急いで続いて下さい」と言って、船端へ歩み出られた。
主上は、今年は八歳におなりになったが、お年のほどよりは大人びておられ、御容姿は美しく、辺りも照り輝くほどである。御髪は黒くゆらゆらして、お背中より下に垂れていらっしゃった。思いがけずとまどったご様子で、「尼御前、私を何処へ連れて行こうというのか」と仰せられたので、仁位の尼は幼い君にお向いになり、涙をこらえて申されるには、「主上はまだご存じではないのですか。前世で十善の戎を行われた御力によって、現世では万乗の君主としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれて、ご運はもはや尽きてしまわれました。まず東にお向きになって伊勢大神宮にお別れを申し上げ、その後、西方浄土の仏のお迎えをいただこうと、西をお向きになって御念仏をお唱え下さい。この国は栗散辺地といって不快な土地でございますから、極楽浄土という素晴らしい所へお連れ申します」と泣く泣く申されると、幼帝は山鳩色の御衣に角髪をお結いになって、お涙をとめどなく流されながら、小さく可愛らしいお手を合わせて、まず東を伏し拝み、伊勢大神宮に別れを申し上げ、その後西にお向かいになり、御念仏を唱えられると、二位殿はそのままお抱き申し上げ、「波の下にも都がございますよ」とお慰め申し上げて、千尋もある深い海の底へお入りになる。
(注)二位殿・・・安徳天皇の祖母、平清盛の妻、時子。
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(一)
およそ能登守教経(のとのかみのりつね)の矢先に回る者こそなかりけれ。矢種(やだね)のあるほど射尽くして、今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾縅(からあやをどし)の鎧(よろひ)着て、厳物(いかもの)作りの大太刀抜き、白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)の鞘(さや)をはづし、左右(さう)に持つてなぎ回り給ふに、面(おもて)合はする者ぞなき。多くの者ども討たれにけり。新中納言、使者を立てて、「能登殿、いたう罪な作り給ひそ。さりとてよき敵(かたき)か」と宣ひければ、「さては大将軍に組めごさんなれ」と心得て、打ち物茎短に取つて、源氏の船に乗り移り乗り移り、をめき叫んで攻め戦ふ。
判官(はうぐわん)を見知り給はねば、物の具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ回る。判官も先に心得て、表に立つやうにはしけれども、とかく違ひて、能登殿には組まれず。されどもいかがしたりけん、判官の船に乗り当たつて、「あはや」と目をかけて飛んでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀(なぎなた)脇にかいばさみ、御方(みかた)の船の二丈ばかり退(の)いたりけるに、ゆらりと飛び乗り給ひぬ。能登殿は、早業(はやわざ)や劣られたりけん、やがて続いても飛び給はず。今はかうと思はれければ、太刀・長刀海へ投げ入れ、甲(かぶと)も脱いで捨てられけり。鎧の草摺(くさず)りかなぐり捨て、胴ばかり着て、大童(おほわらは)になり、大手を広げて立たれたり。およそあたりを払つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。能登殿、大音声をあげて、「われと思はん者どもは、寄つて教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝に会うて、ものひと言言はんと思ふぞ。寄れや、寄れ」と宣へども、寄る者一人もなかりけり。
【現代語訳】
およそ能登守教経の矢面に立ち回る者は一人もいなかった。その教経は、矢数の限りを射尽くし、今日を最後とお思いになったか、赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧を着て、厳物作りの大太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をはずし、左右それぞれの手に持って敵をなぎ倒していくので、面と向かう者がいない。多くの者が討たれてしまった。新中納言(知盛)が使者を遣わして、「能登殿、あまり罪を作りなさるな。そんなことをしても立派な敵だろうか」とおっしゃったので、能登殿は「さては大将軍と組み合えというのだな」と心得て、太刀・長刀の柄を短く持って、源氏の船に乗り移り乗り移りして、大声をあげて攻め戦う。
しかし、判官(義経)を見知っておられないので、鎧・甲の立派な武者を判官かと目をつけて走り回った。判官も前もって心得ていて、正面に立つように見せながらも、あちこち行き違って、能登殿とは組まれない。それでもどうしたはずみか、能登殿は判官のいる船に乗り当たって、「それっ」と目がけて飛びかかると、判官はとてもかなわないと思われたか、長刀を小脇に挟んで、二丈ほど後ろの味方の船にひらりと飛び乗られた。能登殿は早業では劣っていたのか、すぐに続いてはお飛びにならない。そして、今はこれまでと、太刀・長刀を海に投げ入れ、甲も脱いでお捨てになった。鎧の草摺りをかなぐり捨て、胴のみを着て、ざんばら髪で大手を広げて立っておられた。その姿はおよそ近寄りがたく見え、恐ろしいどころではない。能登殿は大声をあげて、「我こそと思う者は、寄って来てこの教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉に下って、頼朝にものを一言言おうと思うぞ。寄れや、寄れ」とおっしゃるが、寄る者は一人もいなかった。
(注)能登教経・・・清盛の弟、教盛(のりもり)の次男。
(二)
ここに土佐国の住人、安芸郷(あきのがう)を知行(ちぎやう)しける安芸大領実康(あきのだいりやうさねやす)が子に、安芸太郎実光(あきのたらうさねみつ)とて、三十人が力持つたる大力(だいぢから)の剛(かう)の者あり。我にちつとも劣らぬ郎等(らうどう)一人(いちにん)、弟(おとと)の次郎も普通には優れたるしたたか者なり。安芸太郎、能登殿を見たてまつて申しけるは、「いかに猛(たけ)うましますとも、われら三人取りついたらんに、たとひたけ十丈の鬼なりとも、などか従へざるべき」とて、主従三人小舟に乗つて、能登殿の船に押し並べ、「えい」と言ひて乗り移り、甲のしころを傾(かたぶ)け、太刀を抜いて、一面に打つてかかる。能登殿のちつとも騒ぎ給はず、まつ先に進んだる安芸太郎が郎等を、裾(すそ)を合はせて、海へどうど蹴(け)入れ給ふ。続いて寄る安芸太郎を、弓手(ゆんで)の脇に取つてはさみ、弟の次郎をば馬手(めて)の脇にかいばさみ、ひと締め締めて、「いざ、うれ、さらばおれら、死出の山の供せよ」とて、生年二十六にて、海へつつとぞ入り給ふ。
新中納言、「見るべきほどのことは見つ。今は自害せん」とて、乳母子(めのとご)の伊賀平内左衛門家長(いがのへいないざゑもんいへなが)を召して、「いかに、約束は違(たが)ふまじきか」とのたまへば、「子細にや及び候ふ」と中納言に鎧(よろひ)二領(にりやう)着せ奉り、わが身も鎧二領着て、手を取り組んで海へぞ入りにける。これを見て、侍(さぶらひ)ども二十余人、後れ奉らじと、手に手を取り組んで、一所(いつしよ)に沈みけり。その中に、越中次郎兵衛(ゑつちゆうのじらうびやうゑ)・上総五郎(かづさのごらう)兵衛・悪七(あくしち)兵衛・飛騨四郎(ひだのしらう)兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをもまた落ちにけり。海上には赤旗・赤印投げ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田川(たつたがは)の紅葉葉(もみぢば)を嵐の吹き散らしたるがごとし。汀(みぎは)に寄する白波も、薄紅(うすぐれなゐ)にぞなりにける。主(ぬし)もなきむなしき船は、潮に引かれ、風に従つて、いづくをさすともなく揺られ行くこそ悲しけれ。
【現代語訳】
ここに土佐の国の住人で、安芸郷を領有していた安芸大領実康の子で、安芸太郎実光という三十人力の大力の剛勇の者がいた。そして、それに少しも劣らない家来が一人、それに弟の次郎も人並みすぐれた剛勇の者だった。その安芸太郎が、能登殿を見て、「いかに勇猛であられようと、われら三人が組みつけば、たとえ身の丈十丈の鬼であろうと屈服させられないことがあろうか」と言って、主従三人で小舟に乗り、能登殿の船に押し並べ、「えい」と言って乗り移り、甲のしころを傾け、太刀を抜き、いっせいに打ってかかった。しかし、能登殿は少しも騒がず、真っ先に進んできた安芸太郎の家来を、裾を合わせるほどに近づいて海へどうっと蹴り込んだ。続いて近寄る安芸太郎を左腕の脇に取りついて挟み、弟の次郎を右腕の脇にかき挟み、ひと締め締め上げて、「さあ、おのれら、それでは死出の山へ供をしろ」と言って、生年二十六で、海へさっと飛び込んだ。
新中納言(知盛)は、「見るべきものはすべて見届けた。今こそ自害しよう」と言って、乳母子の伊賀平内左衛門家長を呼んで、「どうだ、約束は違えまいな」とおっしゃると、家長は「言うまでもありません」と、中納言に鎧を二領お着せし、自分も二領の鎧を着て、手を取り合って海に入った。これを見て、平家の侍ども二十余人も、後れてはならないと手に手を取り組んで同じ所に沈んだ。その中で、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛らは、どのように逃れたのか、その場所からまた落ち延びた。海の上に平家の赤旗や赤印を投げ捨て、ちぎり捨てたので、まるで竜田川の紅葉の葉を風が吹き散らしたようだった。海岸に寄せる白波も薄紅になっていた。主人のいなくなった空(から)の船は、潮に引かれ、風に任せて、どこに向かうともなく揺られていき、なんとも悲しいものだった。
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梶原(かぢはら)先立つて鎌倉殿に申しけるは、「日本国は今は残る所なう従ひ奉り候。ただし御弟(おんおとと)九郎大夫判官殿(くらうたいふのはうぐわんどの)こそ、つひの御敵(おんかたき)とは見えさせ給ひ候へ。その故は、一をもつて万(ばん)を察すとて、『一の谷を上の山より落さずは、東西の木戸口やぶれ難し。生け捕りも死に捕りも義経にこそ見すべきに、物の用にも合ひ給はぬ蒲殿(かばどの)の方へ見参(げんざん)に入るべき様やある。本三位中将殿こなたへ給(た)ばじと候はば、義経参つて給はるべし』とて、すでにいくさ出でき候はんとし候しを、景時(かげとき)が土肥(とひ)に心を合はせて、三位中将殿を土肥次郎(とひのじらう)に預けて後こそ静まり給ひて候ひしか」と語り申しければ、鎌倉殿うちうなづいて、「今日(けふ)九郎が鎌倉へ入るなるに、おのおの用意し給へ」と仰せられければ、大名小名(だいみやうせうみやう)馳せ集まつて、ほどなく数千騎になりにけり。
金洗沢(かなあらひざは)に関(せき)据ゑて、大臣殿(おほいとの)父子請け取り奉つて、判官をば腰越(こしごえ)へ追つかへさる。鎌倉殿は随兵(ずいびやう)七重八重(ななえやえ)にすゑおいて、我身はその中におはしましながら、「九郎はすすどき男(をのこ)なれば、この畳の下よりも這ひ出でんずる者なり。ただし頼朝はせらるまじ」とぞ宣ひける。
判官思はれけるは、「去年(こぞ)の正月、木曾義仲を追討せしより以来(このかた)、一の谷、壇の浦にいたるまで、命を捨てて平家を攻め落し、内侍所(ないしどころ)、璽(しるし)の御箱(おんばこ)、事ゆゑなく返し入れ奉り、大将軍父子生け捕りにして、具してこれまで下りたらんには、たとひいかなる不思議ありとも、一度はなどか対面なかるべき。凡(およ)そは九国(くこく)の惣追捕使(そうづいふくし)にもなされ、山陰(せんおん)、山陽(せんやう)、南海道、いづれにても預け、一方の堅(かため)ともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊予国(いよのくに)ばかりを知行(ちぎやう)すべきよし仰せられて、鎌倉へだにも入れられぬこそ本意(ほい)なけれ。さればこは何事ぞ。日本国を静むる事、義仲、義経がしわざにあらずや。たとへば同じ父が子で、先に生るるを兄とし、後に生るるを弟とするばかりなり。誰(たれ)か天下を知らんに知らざるべき。あまつさへ今度見参をだにも遂げずして、追ひのぼせらるるこそ遺恨(ゐこん)の次第なれ。謝(じや)するところを知らず」とつぶやかれけれども、力なし。
【現代語訳】
梶原景時が義経の先回りして鎌倉殿(頼朝)に申すには、「日本国は今は残りなくお従い申しております。ただし御弟九郎判官義経殿こそは最後の御敵となりましょう。そのわけは、一事をもって万事を察すると言いますが、判官殿が、『一の谷を、私が上の山から逆落としに急襲しなかったら、東西の木戸口を破るのは難しかった。だから捕虜にした者も死んだ者も義経にこそ見せるべきだったのに、役にも立たぬ蒲殿(範頼)へお見せするということがあるか。生け捕りの本三位中将重衡卿殿をこちらへ渡さないということなら、義経が参って頂こう』と言って、いまにも戦が起りそうになりましたのを、景時が土肥と図って、三位中将殿を土肥次郎に預けてようやく収まったのです」と申したところ、鎌倉殿は頷いて、「今日、九郎が鎌倉に入るので、それぞれ用心なされよ」と言われると、大名・小名が駆せ集まって、間もなく数千騎になった。
金洗沢に関所を設けて、大臣殿(宗盛)親子を受け取り申し、判官は腰越へ追い返された。鎌倉殿は警護の兵を七重八重に取り囲ませて、自分はその中におられたまま、「九郎は素早い男なので、この畳の下からでも這い出て来かねない者だ。しかし頼朝はそうはさせぬぞ」と言われた。
判官が思われるには、「去年の正月に木曽義仲を追討して以来、一の谷、壇の浦に至るまで、命を捨てて平家を攻め落とし、内侍所(神鏡)、神璽(しんじ)の御箱を無事に朝廷にお返し申しあげ、大将軍(宗盛)父子を生け捕って、召し連れてここまで下って来たからには、たとえどんな御不審があっても、一度ぐらいどうして対面なさらないのか。本来ならば九州の追捕使にも任ぜられ、山陰、山陽、南海道のいづれでも預けられ、固めを任されるかと思っていたのに、わずかに伊予国だけを知行すべしと仰せられ、鎌倉にさえ入れられないのは不本意だ。これはいったいどういう事か。日本国を鎮めたのは義仲や義経の働きではないのか。言ってみれば、同じ父の子でも先に生まれた子を兄とし、後に生まれた者を弟にするというだけのことだ。天下を治めようとするなら、誰にもでも治められるはずだ。あまつさえ、今お目にかかることさえできないのに、私を追い払い都へ上らせられるのは、全く恨めしいかぎりだ。どう謝ったらよいかわからないのだ」と呟かれたが、何とも仕方がない。
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(一)
北の方、御簾(みす)のきはちかく寄つて、「いかに、夢かやうつつか。これへ入り給へ」と宣ひける御声(おんこゑ)を聞き給ふに、いつしか先立つ物は涙なり。大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、 目もくれ心もきえはてて、しばしは物も宣はず。三位中将(さんみのちゆじやう)、 御簾うちかづいて泣く泣く宣ひけるは、「こぞの春、一の谷でいかにもなるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、生きながら捕はれて、大路(おほち)をわたされ、京、鎌倉、恥をさらすだに口惜しきに、はては奈良の大衆(だいしゆ)の手へわたされて、きらるべしとてまかり候。いかにもして今一度御すがたを見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思ひおく事なし。出家して、形見(かたみ)にかみをも奉らばやと思へども、ゆるされなければ力及ばず」とて、額(ひたひ)の髪を少し引き分けて、口のおよぶ所を食ひきつて、「これを形見に御覧ぜよ」とて奉り給ふ。
【現代語訳】
北の方は御簾の際近くに寄って、「どういうこと。夢か現(うつつ)か。こちらへお入りください」と言われたお声をお聞きになるにつけ、早くも先立つものは涙である。大納言佐殿(北の方)は目もくらみ正気もすっかり失って、しばらく何もおっしゃらない。三位中将殿(重衡)が御簾の中に顔をさし入れて泣く泣く言われるには、「去年の春、一の谷で死ぬはずだった身が、あまりに重い罪の報いからであろうか、生きながら捕われて、大路を引き回され、京都、鎌倉で恥をさらすのさえ悔しいのに、最後には奈良の大衆の手に渡されて斬られることになり、奈良へ向っております。どうにかしてもう一度あなたのお姿を拝見したいと思っていたので、こうして会った今は露ほども思い残すことはない。出家して、形見に髪でも差し上げようと思うが、それも許されないので仕方がない」と言って、額の髪を少し引き分け、口の届く所を食い切って、「これを形見に御覧なさい」といって差し上げられる。
(二)
「契(ちぎり)あらば後世(のちのよ)にてはかならず生(むま)れあひ奉らん。一つ蓮(はちす)にといのり給へ。日もたけぬ。奈良へもとほう候。武士のまつも心なし」とて出で給へば、北の方袖にすがつて、「いかにやいかに、しばし」とて引きとどめ給ふに、中将、「心のうちをばただおしはかり給ふべし。されどもつひに逃れはつべき身にもあらず。又こん世にてこそ見奉らめ」とて出で給へども、まことにこの世にてあひみん事はこれぞ限りと思はれければ、今一度たちかへりたくおぼしけれども、心よわくてはかなはじと、思ひきつてぞ出でられける。北の方御簾のきは近くふしまろび、をめきさけび給ふ御声(おんこゑ)の門(かど)の外(ほか)まではるかに聞こえければ、駒(こま)をもさらにはやめ給はず。涙にくれて行く先も見えねば、なかなかなりける見参(げんざん)かなと、今はくやしうぞ思はれける。大納言佐殿やがてはしりついてもおはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、ひきかづいてぞふし給ふ。
【現代語訳】
「縁があったならば、後の世ではきっと同じ所に生まれてお会いしよう。極楽浄土の池の同じ蓮の上に生まれるようにとお祈りなさい。日も暮れました。奈良へもまだ遠いのです。武士をそのまま待たせておくのも思いやりがない」といってお出になると、北の方は中将の袖にすがって、「いかに、いかに、もうしばらく」と言って引き留められるので、中将は、「私の心中をただ推し量って下さい。そうは言っても、最後には死から逃れられる身でもない。また生まれてくる次の世でお会いましょう」と言って出られたが、本当にこの世で会い見るのはこれが最後と思われたので、もう一度立ち帰りたく思われたが、心弱くてはいけないと、思い切って出て行かれた。北の方が御簾の際近くに転び伏し、大声で叫ばれるお声が門の外まで遠く聞こえてきたので、馬を一向に早めようとはなさらない。
悲しみの涙のために行く先も見えないので、かえって会わなければよかったと、今は後悔しておられた。大納言佐殿もそのまますぐに走って追いかけようかとも思われたが、それもやはりできなかったので、着物を引きかぶって臥してしまわれた。
(三)
南都の大衆(だいしゆ)うけとって僉議(せんぎ)す。「そもそもこの重衡卿(しげひらのきやう)は、大犯(だいぼん)の悪人たるうへ、三千五刑のうちにもれ、修因感果(しゆいんかんくわ)の道理(だうり)極上(ごくじやう)せり。仏敵法敵(ぶつてきほふてき)の逆臣(げきしん)なれば、東大寺・興福寺の大垣をめぐらして、鋸(のこぎり)にてやきるべき、堀頸(ほりくび)にやすべき」と僉議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒の法に穏便(をんびん)ならず。ただ守護の武士に賜(た)うで、木津(こつ)の辺にて斬らすべし」とて、武士の手へぞ返しける。武士これを請け取つて、木津河(こつがは)の側(はた)にて斬らんとするに、数千人(すせんにん)の大衆見る人、いくらといふ数を知らず。
【現代語訳】
南都(東大寺・興福寺)の大衆は、重衡の身柄を受け取って協議をした。「いったいこの重衡卿は、大罪を犯した悪人であるうえに、五刑に所属する三千の刑にも収まらない大変な罪を犯しており、その要因によって悪果を受ける道理は、至極当然のことだ。仏法の敵の逆臣なので、東大寺、興福寺の大垣を引き回して鋸で切るべきか、それとも堀首にすべきか」と議論する。老僧どもが申されるには、「それも僧徒の法として穏便ではない。ただ守護の武士に渡して、木津の辺りで斬らせるべきだ」と言って、重衡を武士の手に返した。武士はこれを受け取って、木津川の端で斬ろうとするのに、数千人の大衆が集まり、見物する人は幾人とも分からないほどであった。
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(一)
ここに足立新三郎(あだちのしんざぶらう)といふ雑色(ざつしき)は、「奴(きやつ)は下臈(げらふ)なれども、 以(もつ)ての外(ほか)さかざかしき者にて候。召し使はれ候へ」とて、判官に参らせられたりけるが、内々、「九郎がふるまひ見て、我に知らせよ」とぞ宣ひける。昌俊(しやうしゆん)がきらるるを見て、新三郎、夜を日についで馳せ下り、鎌倉殿にこの由(よし)申しければ、舎弟(しやてい)参河守範頼(みかはのかみのりより)を討手にのぼせ給ふべきよし仰せられけり。しきりに辞(じ)し申されけれども、重ねて仰せられける間、力及ばで、 物具(もののぐ)して暇(いとま)申しに参られたり。「わ殿(との)も九郎がまねし給ふなよ」と仰せられければ、この御詞(おんことば)におそれて、物具脱ぎ置きて、京上(きやうじやう)はとどまり給ひぬ。全く不忠なきよし、一日に十枚づつの起請を昼は書き、夜は御坪(おつぼ)の内にて読みあげ読みあげ、百日に千枚の起請を書いて参らせられたりけれども、叶はずして、終(つひ)に討たれ給ひけり。
【現代語訳】
義経の所に、足立新三郎という下働きの男がおり、「あいつは身分の低い者ではあるが、大変賢く気の利く者なので召し使われよ」といって頼朝から差し出されたのだったが、内々に、「九郎の様子を見て、我に知らせよ」と言われていた。昌俊が斬られたのを見て、新三郎は夜も昼も休まず鎌倉へ馳せ下り、鎌倉殿にこの事を報告したので、舎弟の参河守範頼を討手として上京させると仰せられた。頼朝の下知を受けた範頼は、しきりと辞退なさったが、再度仰せられたので、どうしようもなく鎧・甲で武装してお別れの挨拶をしに参られた。頼朝が、「そなたも九郎の真似をなさるなよ」と仰せられたので、この御言葉に恐れをなして、鎧・甲を脱いで横に置き、上京するのをお止めになった。範頼は、まったく頼朝に対して不忠はないことを、一日に十枚ずつの起請を昼は書き、夜はこれを頼朝の舘で読み上げ読み上げ、百日に千枚の起請を書いて差し出されたが、受け入れられず、最後には討たれてしまわれた。
(二)
同(おなじき)十一月二日(ふつかのひ)、九郎大夫判官(くらうたいふのはうぐわん)、院御所(ゐんのごしよ)へ参つて、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経朝臣(やすつねのあつそん)をもつて奏聞(そうもん)しけるは、「義経君の御為(おんため)に奉公の忠を致す事、ことあたらしう初めて申し上ぐるにおよび候はず。しかるを頼朝、郎等(らうどう)共が讒言(ざんげん)によつて、義経を討たんと仕り候(さうらふ)間(あひだ)、しばらく鎮西の方へ罷下(まかりくだ)らばやと存じ候。哀(あはれ)院庁(ゐんのちやう)の御下文(おんくだしぶみ)を一通下し預り候はばや」と申されければ、法皇、「この条(でう)頼朝がかへりきかん事、いかがあるべからん」とて、諸卿に仰せ合せられければ、「義経、都に候ひて、関東の大勢乱れ入り候はば、京都の狼籍(らうぜき)たえ候べからず。遠国(ゑんごく)へ下り候ひなば、暫(しばら)くその恐(おそれ)あらじ」とおのおの一同に申されければ、緒方三郎(をかたのさぶらう)をはじめて臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)、惣じて鎮西の者、義経を大将として、その下知(げぢ)にしたがふべきよし、庁の御下文を給はつてんげれば、その勢五百余騎、あくる三日卯剋(うのこく)に、京都にいささかのわづらひもなさず、浪風(なみかぜ)もたてずして下りにけり。
【現代語訳】
元暦二年十一月二日、九郎大夫判官は後白河法皇の御所へ参って、大蔵卿泰恒朝臣を通して申し上げるには、「義経が院の御為に忠義の奉公を尽くしたことは、改めて申し上げるまでもございません。それなのに頼朝は、郎等共の讒言によって義経を討とうとしておりますので、しばらく九州の方へ下りたいと存じます。ああ、何とかして院の御下文を一通下していただきとう存じます」と申されたところ、法皇は、「このことを頼朝が伝え聞いたら、どういうことになろうか」と諸卿にご相談されたところ、「義経が都におり、関東の大軍が乱入しましたなら、京での武士どもの乱暴は後を絶たないに違いありません。義経が遠国へ下られたなら、しばらくはその恐れはありますまい」と各々一同に申されたので、義経は、緒方三郎を始めとして臼杵、戸次、松浦党、すべての九州の者は義経を大将としてその命令に従えという、院の御下文を頂き、その兵五百余騎は、次の三日の日の午前六時頃に、京に少しの問題も残さず波風も立てずに下って行った。
(三)
摂津国(つのくに)源氏、太田太郎頼基(おほだのたらうよりもと)、「わが門の前を通しながら、 矢一つ射かけであるべきか」とて、川原津(かはらづ)といふ所に追ひついて攻め戦ふ。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎にてありければ、中にとりこめ、「あますな、もらすな」とて、散々に攻め給へば、太田太郎、我が身手負ひ、家子郎等(いへのこらうどう)多く討たせ、馬の腹射させて引退(ひきしりぞ)く。判官、頸共(くびども)斬りかけて、戦神(いくさがみ)にまつり、「門出(かどいで)よし」と悦(よろこ)んで、大物(だいもつ)の浦より舟に乗つて下られけるが、折節(をりふし)西の風はげしく吹き、住吉(すみよし)の浦にうちあげられて、吉野の奥にぞこもりける。吉野法師(よしのぼふし)に攻められて、奈良へ落つ。奈良法師(ならぼふし)に攻められて、また都へ帰り入り、北国にかかつて、終(つひ)に奥へぞ下られける。都より相具したりける女房達(にようぼうたち)十余人、住吉の浦に捨て置きたりければ、松の下、まさごの上に、袴(はかま)踏みしだき、袖(そで)を片敷いて、泣きふしたりけるを、住吉の神官共(じんくわんども)憐(あはれ)んで、みな京へぞ送りける。
【現代語訳】
摂津国の源氏、太田太郎頼基は、「義経の軍が自分の門前を通るのに、矢を一つも射掛けないでおられようか」と、川原津という所で義経の軍に追いついて攻め戦う。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎であったので、中に取り囲み、「皆殺しにしろ、討ち漏らすな」といって、散々に攻められたので、太田太郎自身は傷を負い、家子郎等を多く討たれ、馬の腹を射られて引き退く。判官は多くの首を斬り、それを晒し首にして軍神に祭り、「門出に幸先がよい」と喜んで、大物の浦から船に乗って下られたが、ちょうどその時、西風が激しく吹き、住吉の浦に打ち上げられて、吉野の奥に隠れた。しかし、吉野の法師に攻められて、奈良へ逃げ、奈良でも法師に攻められて、また京へ帰り入り、北国を通って、最後には奥州へ下られた。都から連れてきた女房達十余人を住吉の浦に置き去りにしたので、女房達が、松の下、砂の上に、袴を踏み乱し、袖を片敷いて泣き伏していたのを、住吉の神官共が憐れんで、皆を京へ送った。
(注)大物・・・兵庫県尼崎市の海岸。
(注)住吉・・・大阪市住吉区の海岸。
(四)
およそ判官のたのまれたりける伯父(をぢ)信太三郎先生義憲(しだのさぶらうせんじやうよしのり)、十郎蔵人行家(じふらうくらんどゆきいへ)、緒方三郎惟義(をかたのさぶらうこれよし)が船共、浦々島々に打ち寄せられて、互ひにその行くゑを知らず。忽(たちま)ちに西の風吹きける事も、平家の怨霊(おんりやう)のゆゑとぞおぼえける。同(おなじき)十一月七日(なぬかのひ)、鎌倉の源二位頼朝卿(げんにゐよりとものきやう)の代官として、北条四郎時政(ほうでうのしらうときまさ)、六万余騎を相具して都へ入る。伊予守(いよのかみ)源義経、備前守同(びぜんのかみおなじく)行家、信太三郎先生同義憲、追討すべきよし奏聞しければ、やがて院宣をくだされけり。去二日(さんぬるふつかのひ)は義経が申しうくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし、庁の御下文(おんくだしぶみ)をなされ、同八日(おなじきやうかのひ)は頼朝卿の申状(まうしじやう)によつて、義経追討の院宣を下さる。朝(あした)にかはり夕(ゆふべ)に変ずる、世間の不定(ふぢやう)こそ哀れなれ。
【現代語訳】
およそ判官が頼っておられた伯父の信太三郎先生義憲、十郎蔵人行家、緒方三郎惟義の船どもは、浦々島々に打ち寄せられて、互いにその行方がわからない。突然に西風が吹いたことも、平家の怨霊の仕業と思われた。同年十一月七日、鎌倉の源二位頼朝卿の代官として、北条四郎時政が六万余騎を引き連れて都に入る。伊予守源義経、備前守源行家、信太三郎先生源義憲を追討すべきことを奏聞したので、すぐに院宣を下された。去る二日には義経が申請したとおりに、頼朝を背くようにという院庁の御下文を作られ、同月八日には頼朝卿の申し状によって、義経追討の院宣を下される。朝には変り、夕べには変るという世の定めなき習いは、まことに哀れである。
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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⇒ 各段のあらすじ