平家物語~各段のあらすじ
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1.祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)
お釈迦様が説法された祇園精舎の鐘の音は、諸行は無常であるという教えを唱えるような響きがある。お釈迦様が亡くなった際に白い花を開き、間もなく枯れたという沙羅双樹の花の色は、勢いの盛んな者もいつかは必ず消滅するという人生の道理を表している。勢い盛んな者は必ず衰える。それは、風の前にある塵のように、吹けば飛ぶような存在である。勢威を誇った人間が滅んだ例は数多いが、平清盛の場合ほど言語を絶する例はなかった。もともと平家は、桓武天皇の第五皇子が臣籍降下した家柄で、代々、諸国の受領(地方の長官)を務めてきたが、昇殿は許されていなかった。
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2.殿上の闇討(てんじょうのやみうち)
しかし、清盛の父・忠盛(ただもり)が備前守だった時に、鳥羽上皇に寺院を造進し、その褒美に、内裏への昇殿を許される殿上人となった。もとは身分の低い武士だったのが急速に昇進して殿上人となったのを、古参の殿上人は妬み、節会の夜に忠盛を闇討ちにしようとした。しかし忠盛は、武人としてわざと腰の短刀を見せつけ、武装した家来を同伴したので、おじけづいた殿上人たちは暗殺をとどまった。彼らは、無作法にも帯刀して昇殿した忠盛の地位を剥奪すべきだと、上皇に訴えた。上皇の審問に対し忠盛は、家来の武装は主人思いから出た行動であり、短刀は銀箔を施した木刀であると説明し、かえって武士の鑑とのお褒めの言葉をいただいた。
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3.鱸(すずき)
忠盛の子らも、宮中で官職を得た。また、忠盛は御所に仕える女房を愛人にして通っており、同輩の女房が彼女を冷やかすが、歌でやりこめる。この女房は、後の薩摩守忠教(ただのり)の母となった人である。忠盛は刑部卿(司法長官)にまで出世し、仁平3年(1153年)に58歳で亡くなる。長男の清盛が跡を継ぎ、この時36歳。清盛は、保元・平治の乱で殊勲をあげ、参議となって武士初の公卿となったのち、ついに貴族の頂点である従一位太政大臣まで登り詰める。清盛がまだ安芸守だった頃、海路で熊野参詣をしたときに、舟の中に大きな鱸(すずき)が躍り込んできた。案内の修験者が「これは熊野権現が与えて下さった物。急いでお召し上がりを」と言うので、その鱸を自ら調理して一族に食べさせた。そのおかげで、平家一門はこれほどに出世したのであろうか。
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4.禿髪(かぶろ)
清盛は、病気のために51歳で出家して浄海と名乗った。そのおかげか、病気は全快、威勢は留まることなく、清盛の小舅である平時忠(ときただ)は、「平家一門でなければ人間ではない」と豪語するほどだった。誰もが一門と縁を結びたがり、衣服の着こなしや烏帽子のかぶり方を手本とし、六波羅様というファッションまで誕生した(京の六波羅に平家一門の邸宅があった)。その頃、清盛は、禿髪(かぶろ)と呼ばれる髪をおかっぱにした14~16歳の少年たちを召使い、京中に密偵として放った。平家の悪口を言う者があれば、すぐに報告し、その者は逮捕され、家財道具も取り上げられた。誰もが「六波羅殿の禿髪」といって恐れ、道を通り過ぎる馬車さえも避けて通り、宮中の警護の武士も彼らの出入りを咎めることはできなかった。
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5.吾身の栄花(わがみのえいが)
清盛のみならず、その息子・娘たちも栄華を極めた。長男の重盛(しげもり)が内大臣の左大将、次男の宗盛(むねもり)が中納言の右大将になったのを始めとして、30人足らずの公卿のうち16人が平家一門となり、これに殿上人30余人、諸国の受領・衛府・諸司60余人を加えると、完全に政界を制覇したといってよいほどになった。中でも、兄弟で左右の近衛大将を独占した先例は、過去4回だけであり、それも摂政関白の子息に限られていたから、平家は異例のことだった。8人の娘たちも、高倉天皇の后となって皇子(のちの安徳天皇)を産んだ建礼門院(けんれいもんいん)をはじめ、すべて良家に嫁いだ。ここに平家一門の栄華は絶頂に達し、その所領は国内の半分を占め、その勢いは天皇・上皇をしのぐほどだった。
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6.祇王(ぎおう)
当時、祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)という都で評判の白拍子(※)がいた。清盛は、祇王を愛人とし、その母親と妹までも経済的に援助したため、京中の白拍子がうらやむほど贅沢に暮らしていた。その頃、加賀国出身で、仏御前(ほとけごぜん)という16歳の白拍子が現れ、清盛の邸に押しかけて不興を買った。しかし、祇王の取りなしで、仏御前は清盛に謁見し、今様(流行歌謡)と舞を披露することができた。すると清盛は仏御前にすっかり魅せられ、逆に祇王を追い出してしまう。捨てられた祇王が、母・妹と寂しく暮らしていると、清盛の邸に呼ばれ、仏御前の退屈を慰めるため舞を舞えと命令される。祇王は、あまりの屈辱に絶望して出家、嵯峨の山奥に一家で移り住んだ。
ある晩、尼姿となった仏御前が訪ねてきた。聞けば、現世の無常を感じ、清盛のもとを逃れてきたという。仏御前は、自分を取り立ててくれた祇王を貶めてしまったこと、
自分もいつか同じ道をたどるだろうことを涙ながらに語る。祇王は仏御前を許し、4人は同じ所に籠ってひたすら念仏を唱え、極楽往生を願いながらひっそり暮らした。
(※)白拍子・・・平安末期の鳥羽院の時代に始まった、男装の女性芸能者。
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7.二代の后(にだいのきさき)
昔から源氏・平氏の両家は朝廷に仕えていたが、鳥羽院が亡くなった直後から、保元・平治の乱と戦乱が続き、源氏はおちぶれ、平氏のみ繁盛した。政情は不安定となり、そんな中、後白河上皇と二条天皇の父子対立が生まれた。二条天皇は後白河上皇の言いつけに悉く背き、お互いの側近を処罰しあう有様で、世間の人々の不評を買った。さらに驚くべきは、故・近衛天皇(天皇の叔父)の妃(太皇大后・多子)が美人との評判を聞きつけた二条天皇が、自分の妃にしようとした。2代の天皇の妃になった例は歴史上なく、上皇や周囲はこぞって反対したが、天皇は強引に押し切ってしまう。多子は近衛天皇のことを思い、涙にくれる。
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8.額打論(がくうちろん)
永万元年(1165年)春、二条天皇は病気になり、初夏には危篤状態となったため、わずか2歳の皇子に譲位、六条天皇が即位する。かつて清和天皇の9歳という例はあったが、2歳は前例がなく、周囲から懸念の声があがった。7月27日、二条院は23歳の若さで亡くなった。葬送の夜、延暦寺と興福寺の間で争いが起こる。天皇葬送の際は、墓所の四方に寺の額を掲げるしきたりがあり、その順序も、東大寺、興福寺、延暦寺・・・と決まっていた。しかし延暦寺が、何を思ったか慣例を無視して興福寺より先に額を掲げたため、興福寺の僧が怒って延暦寺の額を叩き割るという事件に発展した。
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9.清水寺炎上(きよみずでらえんしょう)
延暦寺の僧は、額を割られた報復のため、大挙して京に押し寄せ、興福寺の末寺(支配下の寺)である清水寺を焼き払った。この頃、後白河上皇が延暦寺に平家追討を命じたとの噂が流れ、平家一門は六波羅に集結、上皇も噂を知ってかどうなのか急いで六波羅に御幸した。清盛は恐れ騒いだが、長男の重盛(しげもり)は噂を否定した。騒動が収まっても、清盛はまだ上皇を警戒していた。重盛にも上皇に心を許すなと伝えたが、かえって諌められたので、重盛のことを度量の大きい人物だと感じた。重盛のお供によって御所に戻った上皇は、噂が流れたことを不思議がるが、近臣の西光法師(さいこうほうし)は、平家の横暴への天からの警告なのでしょう、とうそぶいた。
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10.東宮立(とうぐうだち)
この年は二条天皇が亡くなったので、様々な宮中行事が中止になっていたが、12月24日、後白河上皇と建春門院(滋子)の間に生まれ5歳になった皇子(憲仁親王)の立太子が決定され、年が明け、皇子は東宮となった。東宮は六条天皇の叔父にあたり、六条天皇は東宮の甥で3歳であり、長幼の順が逆になったが、これは前例のないことではなかった。さらに2年後、六条天皇は5歳で退位し、憲仁親王が高倉天皇として即位した。まだ元服前の天皇が上皇となるのは前代未聞のことだった。
高倉天皇の母の健春門院は清盛の妻・二位殿(時子)の妹で、平大納言時忠(ときただ)は兄にあたる。清盛は、様々のことについて時忠に相談を持ちかけていたので、人々は時忠を平関白(へいかんぱく)と呼ぶようになった。以後、平家は天皇の外戚として結びつきを強め、絶大な権力をふるうことになる。
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11.殿下の乗合(てんがののりあい)
嘉応元年(1169年)7月、後白河上皇は出家して法皇となった。出家後も政治を執り、しばしば平家の横暴に苦言を漏らすことがあったが、対立が表面化するには至らなかった。しかし翌年10月、世の中が乱れる発端となる事件が起こった。重盛の次男で13歳の資盛(すけもり)を乗せた車が、若い家来30人ほどを引き連れての鷹狩りの帰り道、摂政の藤原基房(もとふさ)の行列の車とばったり行き合った。本来、資盛が下馬の礼におよぶべきところ、そのまま押し通ろうとしたため、摂政方は資盛を馬から引きずり下ろした。資盛が六波羅に戻って事の次第を報告すると、清盛は怒って、武装した300余騎に命じ、高倉天皇御元服の日、基房の車を待ち伏せし襲撃させ、お供の者たちのもとどりを切って恥辱を加えた。重盛は事情を聞いて驚き、事件に関わった者たち全員を処罰し、息子の資盛を伊勢にしばらく追放した。宮中では重盛の処置を褒め称えた。
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12.鹿谷(ししのたに)
嘉応3年(1171年)正月、高倉天皇の元服の儀式が行われ、清盛の娘・徳子(のちの建礼門院)を妃に迎えた。天皇11歳、徳子15歳であった。その頃、左大将が空席となった。後任には後白河法皇のお気に入りである新大納言・藤原成親(なりちか)が有力候補とされ、本人も就任を強く望んだ。しかし、その願いはかなわず、右大将の平重盛が左大臣に昇格し、弟の宗盛(むねもり)が上位者を幾人も飛び超えて右大将に抜擢された。全て平家の意のままだった。成親卿は憤り、必ず平家を滅ぼすといきまく。
京都東山の鹿谷に、俊寛(しゅんかん)僧都の山荘があり、新大納言らは毎夜集まって平家打倒の策謀をめぐらせた。ある夜、後白河法皇が故・少納言入道信西の子・静憲法印(じょうけんほういん)を伴って訪れる。その席で、新大納言は目の前の瓶子(酒の徳利のこと)を引き倒し、「平氏が倒れた」と言う。皆が「瓶子(平氏)」の洒落に便乗してはしゃぎ、しまいに西光法師が「首をとるのが一番」と、瓶子の首を折ってしまう。静憲法印は、あまりの恐ろしさに、言葉を失った。この謀議に加わったのは、俊寛、藤原成親・成親(なりつね)親子、平康頼、西光ら、その他多くの後白河法皇の側近・近習たちや、北面の武士も多くいた。
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13.鵜川合戦(うがわかっせん)
新大納言成親が中心となって進めていた鹿谷の陰謀に、法勝寺の俊寛僧都も加わっていた。祖父の源大納言雅俊卿(源雅俊:みなもとのまさとし)に似て、気性の荒い人だった。また、首謀者の一人である西光(さいこう)は、わがままで狡猾な人物だった。彼の子に師高(もろたか)・師経(もろつね)という兄弟がいた。兄の師高は加賀国守だったが、非法非礼の政治で民を苦しめていた。弟の師経も加賀の代官として赴任するが、鵜川(小松市)にある山寺で、僧たちが入浴しているところに乱入して追い払い、自ら入浴し、従者たちに馬を洗わせたりなどした。その後、両者入り乱れての大乱闘となり、師経はいったんは退却するが、再度1000余騎で押しかけ、寺の僧房を残らず焼き払った。僧たちから救援を求められた白山(はくさん)神社の僧兵2000余騎が立ち上がり、かなわないと見た師高・師経兄弟は京に逃げ帰った。それを知った白山の僧兵団は神輿(みこし)をかついで、本寺である延暦寺に兄弟の非法を訴えようと、比叡山に向かった。
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14.願立(がんだて)
白山の僧兵団は、延暦寺に到着し、師高兄弟の断罪を求めた。それを受けた延暦寺は、師高を流罪に、師経を投獄するよう法皇の裁断を仰いだ。しかし、兄弟の父の西光は法皇の近臣である。誰もが面と向かって処分を口にするのを憚り、審議は長引くばかりだった。「加茂川の水、双六の賽、山法師。これぞわが心のままにならぬもの」と白河院が嘆いたとおり、それほどに、寺社の訴えは昔からやっかいなものだった。
その昔、美濃守の源義綱(みなもとのよしつな)が庄園を没収しようとして、延暦寺の僧を殺害したことがあった。延暦寺は訴訟を起こしたが、時の関白師通(もろみち)は訴訟を却下、これを不服とした僧兵団が神輿をかついで入京したが、武士や検非違使に追い返された。そこで延暦寺では、関白師通を呪詛し続け、関白は神罰を受けて重い病に倒れた。関白の母が大願を立てて神罰を逃れようとしたが、寿命を3年しか延ばせなかったということである。
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15..御興振(みこしぶり)
延暦寺の僧兵は、何度も師高兄弟の断罪を朝廷に求めていたが、その裁可がなかなか下りない。業を煮やした僧兵団は、安元3年(1177年)4月13日、神輿とともに内裏に乱入しようと企てた。源平両家に内裏の門を警備するよう命令が下り、平家は約3000騎、源氏は約300騎で、それぞれの門を守る。僧兵団は、北の門を守備している小勢の源氏をねらった。ところが、源頼政(よりまさ)は、神輿に対し礼儀正しく拝礼し、僧兵団に訴える。この門を通せば、宣旨に背くことになる、戦えば日ごろ信仰している比叡山に弓引くことになる、そして比叡山の威信を示すためには、むしろ大勢の平家を攻めるのがよい、と。僧兵団は矛先を平家に変更して向かうが、激しい乱戦となり、多くの僧兵が射殺される。矢を射立てられた神輿を打ち捨て、本山へ逃げ帰る。
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16.内裏炎上(だいりえんじょう)
放置された神輿は、公卿らの話し合いによって、祇園の社(現八坂神社)に移されることになった。僧兵が神輿を振りたてて都へ押し寄せることは過去にもあったが、神輿に矢を射たのは初めてだった。人々は祟りを恐れた。翌日、再び僧兵が攻め寄るとの噂が立ち、天皇ほか主な公家たちは、法皇の御所に避難した。延暦寺は全山をあげて臨戦態勢に入り、高僧らの説得にも応じようとしない。そこへ宮廷から平時忠(ときただ)が遣わされてきた。僧兵らは興奮して暴行を加えようとするが、時忠はその場で一筆書いた。「修行者である僧が騒動を起こすなど悪魔の所業である。天皇がこれを制止されるのは、皆を魔道から救うための仏の御加護である」と書いた紙を差し出して、彼らを鎮めた。使者の務めを果たした時忠の機転はまことに立派だった。
20日、師高兄弟の処分が決まり、兄は職を解かれて尾張国の井戸田に流罪、弟は投獄となった。13日の騒動で神輿を射た武士たちも投獄と決まった。28日の深夜、京の都は大風と猛火に包まれ、内裏の大極殿をはじめ、公卿の邸16か所、名所30余か所が焼け落ち、死者も多数出た。このただ事ではない事態に、人々は神罰だと恐れた。
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1.座主流(ざすながし)
治承元年(1177年)5月5日、この度の内裏への神輿を押し立てての強訴の責任を問われ、天台宗の座主(管長職)である明雲(めいうん)大僧正が、宮中の法会や経典講義に召される資格を停止される処分を受けた。これは、騒動の元となった加賀国にある座主の領地を師高が奪ったのを怨んで大衆を扇動した、という西光父子の讒言によるもので、それを信じた後白河法皇は激怒した。明雲は恐れ入って辞任するが、それでも法皇の怒りは収まらず、ついに伊豆へ流罪と決められた。延暦寺の僧たちは怒り、明雲を陥れた西光父子を呪詛した。さらに「天台座主が始まって五十五代に至るまで、いまだに流罪の先例は聞いたことがない」として、明雲を奪還しようと、いっせいに山を下りた。
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2.一行阿闍梨の沙汰(いちぎょうあじゃりのさた)
明雲を護送する役人たちは、押し寄せてきた僧たちの剣幕に恐れをなして逃走。僧たちと対面した座主は、彼らの軽挙を戒め、輿(こし)を用意されても、「私は罪人だから」と言って乗ろうとしない。西塔の阿闍梨、裕慶(ゆうけい)という大男が、強引に明雲を説き伏せて、輿に乗せて比叡山に連れ帰った。奪還された明雲は、東塔の南谷にかくまわれた。明雲のように、神仏の生まれ変わりとされるような人でも、思いがけない災難に遭うものだ。その先例として、昔、唐の高僧一行阿闍梨が、楊貴妃との密通を疑われ、玄宗皇帝によって加羅国に流されたことがあった。
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3.西光が斬られ(さいこうがきられ)
流罪とした天台座主明雲が奪い返されたことを聞いて、法皇は怒る。西光法師は、「こんなことを許せば世の乱れです」と法皇に説く。比叡山攻略の噂も流れたが、結局、事件は立ち消えになった。一方、平家打倒の計画は、この山門の騒ぎが続いたせいで、一時中断していた。首謀者の成親から頼りにされていた多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)は、この計画に実現性はないと判断し、5月29日深夜、保身をはかって、清盛に密告し、謀反の参加者の名を洗いざらい話した。清盛は大いに怒り、ただちに軍兵を招集し、成親・西光・俊寛・平康頼らを逮捕した。清盛は、西光を恩知らずとなじるが、西光は逆に清盛を成り上がり者と罵倒したので、拷問のすえ惨殺された。西光の子の師高・師経も斬首された。
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4.小教訓(こぎょうくん)
成親は清盛邸に監禁され、清盛の厳しい尋問を受ける。成親は陰謀の事実を否定し、言い逃れようとするが、既に西光が全てを白状していた。しらをきろうとする成親に清盛は怒り、西光の自白書を読み上げて西光の顔に投げつける。清盛は成親を打ち据えよと家来に命じたが、成親は清盛嫡男・重盛の義兄であり、維盛の義父である。小松家に遠慮した家来たちは手心を加えた。逃げ場をなくした成親の唯一の頼みは、重盛だけだった。重盛は平素の装いのままそこへ訪れ、この大事になぜ武装しないのかと問う者たちに、これは私事の諍いであり、天下の大事ではないと一喝した。重盛は、古今の例をあげて清盛を説得したため、成親はあやうく死を免れた。そして主なき成親の屋敷では、その妻子たちが不安に怯えていた。平家の武士たちが押し寄せてくるとの知らせを受け、密かに脱出。北山の雲林院に向かった。
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5.少将乞請(しょうしょうこいうけ)
成親の幼い子どもたちは北山へ向かったが、嫡男の丹波少将成経(なりつね)は、妻の父である平教盛(のりもり:清盛の弟)とともに清盛邸に召喚された。教盛は、臨月を迎えている娘の身を案じ、成経の身を預かろうと清盛に直談判を試みるが、対面を許されない。教盛は、今まで兄の清盛を盛り立てて支えてきたこと、自分が老いた今も子らが必ず一門の役に立つことを切々と訴え、しまいには「許しが得られぬなら出家して俗世との縁を断つ」と言う。これには清盛も慌てて、少将の身柄を教盛預かりとすることを許可した。何とかとりあえずの目的を達したものの、教盛は「なまじ子などを持たないほうがよい。子を持つからこんなに心を砕くのだ」と嘆く。成経に事の顛末を告げると、成経は自分の身のことは喜んだものの、父・成親の身を案じる。その様子を見た教盛は、今度は「このように思いやって心を痛めるのは、親子だからこそ」と、思いなおすのだった。
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6.教訓状(きょうくんじょう)
鹿ケ谷の陰謀に加担した者たちをことごとく捕えた清盛だったが、それでも腹の虫が収まらない。彼が最も憤慨しているのは、保元・平治の乱で平家一門が見せた忠義を仇で返すような法皇のふるまいだった。あまりの無念さに、法皇への奉公もこれまでだと言い切り、鳥羽の北殿か西八条にお移りいただこうとの計画を述べ、武士たちに準備を命じる。この様子は、腹心の郎党・盛国によって重盛へ報告され、重盛は急ぎ清盛邸に駆けつけた。一門の者が武装で居並ぶ中、平然と平服で乗り込んだ重盛は、清盛と対面すると、突然涙を流す。清盛が驚いて声をかけると、ここぞとばかりに重盛は、院に弓矢を向ける非道をこんこんと説く。日本は神国であり、法皇を捕えることは真意に背くものである、と。
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7.烽火の沙汰(ほうかのさた)
重盛は、清盛に対し、畳みかけるように説得を続けた。そして、もし父が武力行使すれば、自分は、君である法皇を守護するつもりである。法皇に忠を尽くすか、父に孝を尽くすか、板挟みになった苦悩を述べて、自分の首を刎ねてくれと訴えた。流石の清盛も降参し、重盛は、清盛配下の者たちにも、「もし院の捕縛に向かうなら、私の首が刎ねられるのを見てからにせよ」と言い残し、清盛邸を去った。
帰宅した重盛は、側近の盛国に命じて武士たちを召集させた。近隣の武士たちは「すわ一大事」と取るものもとりあえず駆けつけ、清盛邸に詰めていた数千騎の武士まで、残らず駆けつけた。重盛は、集まった者たちの迅速さをねぎらった上、敵襲がないのに何度も烽火をあげたために、本当の敵襲に烽火をあげても兵が集まらず、ついに国が滅んだという中国の故事を語り聞かせた後、皆を解散させた。重盛は、このように自らの威勢を父に示すことで、父の横暴を牽制したのだった。
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8.大納言流罪(だいなごんるざい)
新大納言成親(なりちか)は、重盛の尽力により死罪は免れたが、六月二日、備前(岡山県)の児島に流されることとなった。重盛との面会を求めたが、かなわず、車に乗せられた。乗船の前に、「このあたりに私の知り合いがあれば、ことづけを頼みたい」と頼むものの、名乗り出るものは一人もなかった。かつては千人二千人もの人を従えていたことを思い、状況が急転したことをあらためて実感した。猛々しい武士たちも同情してみな涙を流した。また、重盛から文が届いており、「都に近い山里にととりなしたのですが、このような結果となって申し訳ない。しかし、命ばかりはお助けできました」とあった。新大納言は嘆き悲しみ、長い船旅の末に、一行は備前の児島に着いた。成親は民家の粗末な小屋に入れられた。
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9.阿古屋の松(あこやのまつ)
清盛によって流罪に処されたのは成親(なりちか)だけでなく、連座して多くの貴族が各地へ流された。いったんは舅の教盛(のりもり)の預かりになっていた成親の子の成経(なりつね)も、ついに処分を免れることはできなくなった。母や乳母に別れを告げ、幼い3歳の子には法師になって父の後世を弔ってほしいと言い残し、6月22日、備中(岡山県)の瀬尾(せのお)に流された。
その頃、父の成親は、備前・備中の境にある有木(ありき)の別所という山寺に移送されていた。成経はそれを伝え聞いていたので、有木との距離を尋ねると、警護の者は、わずか6キロ足らずの道のりを片道12、3日はかかると嘘をつく。成経は、昔は1つの国であった陸奥と出羽が2つに分かれた話を思い出し、同じように備前も備中も昔は同じ国だったのだから、父の居所は近いはずだと気づいたが、父の在所を知られまいという意図だろうと悟り、それ以後、父のことを尋ねようとしなかった。
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10.大納言の死去(だいなごんのしきょ)
そのうちに、備中に留め置かれていた成経(なりつね)は、俊寛(しゅんかん)・平康頼(やすより)とともに薩摩の鬼界ヶ島(硫黄島)に流されることとなった。息子・成経の流罪を伝え聞いた成親(なりちか)は、絶望のあまり出家した。その頃、忠義な旧臣が、京に隠れ住む家族の手紙を持ってはるばる訪れて来た。成親は自分が近々殺害されるのを予期し、後世を弔ってほしいと妻子宛てに書き残す。
8月19日、ついに成親は備中・備前の境にある吉備の中山で殺害される。当初は毒酒による殺害を試みたがうまくいかなかったため、崖下に敷き詰めた刺又の上に突き落として串刺しにする残忍な方法で殺されたという。夫の死を聞いた北の方は菩提樹院(ぼだいじゅいん)という寺で出家し、夫の望みどおり、彼の後世を弔った。この北の方は、元々は後白河法皇の愛人の一人だったのが、法皇の寵愛が深い成親が、特別のはからいでこの女性を賜っていたのだ。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(平清盛)
(後白河院)
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