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平家物語

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六代

(一)
 北条四郎はかりことに、「平家の子孫といはん人、尋ね出だしたらん輩(ともがら)においては、所望(しよまう)乞ふによるべし」と披露(ひろう)せらる。京中の者ども、案内は知つたり、勧賞(けんじやう)(かうぶ)らんとて、尋ね求むるぞうたてき。かかりければ、いくらも尋ね出だしたりけり。下臈(げらふ)の子なれども、色白う見目(みめ)よきをば召し出(い)だいて、「これはなんの中将殿の若君」、「かの少将の君達(きんだち)」と申せば、父母(ちちはは)泣き悲しめども、「あれは介錯(かいしやく)が申し候ふ」、「あれは乳母(めのと)が申す」なんど言ふ間、無下(むげ)に幼きをば水に入れ、土に埋(うづ)み、少しおとなしきをば押し殺し、刺し殺す。母が悲しみ、乳母が嘆き、たとへんかたぞなかりける。北条も子孫さすが多ければ、これをいみじとは思はねど、世に従ふ習ひなれば、力及ばず。

 中にも小松三位中将殿(こまつのさんみのちゆうじやうどの)の若君、六代御前(ろくだいごぜん)とておはすなり。平家の嫡々(ちやくちやく)なるうへ、年もおとなしうましますなり。いかにもして捕(と)り奉らんとて、手を分けて求められけれども、尋ねかねて、すでに下らんとせられけるところに、ある女房の六波羅に出でて申しけるは、「これより西、遍照寺(へんぜうじ)の奥、大覚寺(だいかくじ)と申す山寺の北の方(かた)、菖蒲谷(しやうぶだに)と申す所にこそ、小松三位中将殿の北の方、若君、姫君おはしませ」と申せば、時政、やがて人をつけて、そのあたりをうかがはせけるほどに、ある坊に女房たち、幼き人、あまたゆゆしく忍びたる体(てい)にて住まひけり。籬(まがき)の隙(ひま)よりのぞきければ、白い犬子(ゑのこ)の走り出でたるを捕らんとて、うつくしげなる若君の出で給へば、乳母の女房とおぼしくて、「あなあさまし。人もこそ見参らすれ」とて、急ぎ引き入れ奉る。

【現代語訳】
 北条四郎は、策として、「平家の子孫である者を捜し出した人に対して、望みのものを乞うがままに与える」との触れを出した。京中の人たちは町の事情を知っていたから、褒美をもらおうとして平家の子孫を尋ね求めたが、まことに情けない有様だった。それによって、何人もの平家の子孫が捜し出された。身分が低い者の子であっても、色が白く容貌のよい者を呼び出し、「この者は何某の中将殿の若君である」とか「「あの少将殿の子弟である」などと言い、その父母が泣き悲しんでも、「あれは後見人がそう言っています」、「あれは乳母がそうだと言っています」など言って、ごく幼い者は水に入れたり土に埋めたりし、少し年長の子は押し殺したり刺し殺したりした。母親や乳母の嘆きはたとえようもなかった。北条もやはり子が多かったので、これをよいこととは思わなかったが、時世の流れであるのでどうしようもなかった。


 中でも、小松三位中将殿(惟盛)の若君は、六代御前と言われていた。平家の嫡流中の嫡流であるうえ、かなり成長もしているということだった。北条は何としても捕らえようと、手分けをして捜索したが見つけることができず、もう鎌倉に下ろうとしていたところに、ある女房が六波羅にやって来て申したのには、「ここから西、遍照寺の奥の大覚寺という山寺の北方、菖蒲谷という所に、小松三位中将殿の北の方と若君、姫君がいらっしゃいます」という。時政は、すぐにこの女房に家臣をつけて、その辺りをこっそりと探らせたところ、ある僧坊に多くの女房たちや幼い子らがひどく人目を避けている様子で住んでいた。家臣が垣根の隙間からのぞいていると、白い子犬が走り出たのを捕らえようとして、可愛らしい感じの若君が出てきて、乳母と思われる女房が、「まあ大変、人が見るといけない」と言って、あわてて手を引いて中に入れた。
 
(注)北条四郎・・・北条四郎時政。頼朝の妻・政子の父親で、頼朝の重臣。
(注)小松三位中将殿・・・平惟盛。清盛の長男・重盛の子。

(二)
 これぞ一定(いちぢやう)そにておはしますらんと思ひ、急ぎ走りて帰つて、かくと申せば、次の日、かしこにうち向かひ、四方を打ち囲み、人を入れて言はせけるは、「平家小松三位中将殿の若君、六代御前、これにおはしますと承つて、鎌倉殿の御代官に北条四郎時政と申す者が、御迎へに参つて候ふ。はやはや出だし参らつさせ給へ」と申されければ、母上、これを聞き給ふに、つやつや物も覚え給はず。斎藤五、斎藤六、走り回つて見けれども、武士ども四方を打ち囲み、いづかたより出だし奉るべしとも覚えず、乳母の女房も御前(おんまへ)に倒れ伏し、声も惜しまずをめき叫ぶ。日ごろは物をだにも高く言はず、忍びつつ隠れゐたりつれども、今は家の中(うち)にありとある者、声を調(ととの)へて泣き悲しむ。

 北条もこれを聞いて、よに心苦しげに思ひ、涙のごひ、つくづくとぞ待たれける。ややあつて重ねて申されけるは、「世もいまだ鎮(しづ)まり候はねば、しどけなきこともぞ候ふとて、御迎へに参つて候ふ。別(べち)の御(おん)ことは候ふまじ。はやはや出だし参らつさせ給へ」と申されければ、若君、母上に申させ給ひけるは、「つひに逃(のが)るまじう候へば、とくとく出ださせおはしませ。武士どもうち入つて探すものならば、うたてげなる御ありさまどもを、見えさせ給ひなんず。たとひまかり出で候ふとも、しばしも候はば、暇(いとま)乞うて帰り参り候はん。いたくな嘆かせたまひ候ひそ」と慰め給ふこそいとほしけれ。

【現代語訳】
 家臣は、これがその方に違いないと思い、急いで走って戻り、このことを申し上げると、次の日、時政はそこに出向き、四方を取り囲んで、家来をその中に入れて告げさせた。「平家小松三位中将殿の若君、六代御前がここにいらっしゃると承り、鎌倉殿の御代官、北条四郎時政と申します者がお迎えに参上しました。早く早くお出しなされ」と言うと、母上はこれを聞いて驚きのあまりどうしてよいか分からない。お側付きの斎藤五、斎藤六が走り回って周りの様子を見たが、武士たちが四方を取り囲み、どこからも六代御前をお出しできそうもない。乳母の女房も御前に倒れ伏し、声も惜しまず泣き叫ぶ。ここのところ、物さえ高い声で言わずに忍んで隠れていたのだが、今は家中の者がすべて、声をそろえて泣き悲しむ。


 北条もこれを聞いて、たいそう気の毒に思い、涙をぬぐい、じっと待っていた。しばらくして重ねて言うには、「世もまだ鎮まっていませんので、誰かによる乱暴があってはならないと思い、お迎えに参りました。特別のことがあろうはずがありません。早く早くお出しなされませ」と言ったので、若君が母上に、「結局、逃げることはできませんので、早く私をお出し下さい。武士たちが押し入って私を探せば、取り乱したようすなどを見られてしまいます。たとえ私が参上しても、しばらくはおりましょうから、暇をもらって帰ってきます。そんなにお嘆きにならないで」と言ってお慰めになったのはいじらしい。

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(三)
 さてもあるべきならねば、母上、泣く泣く御髪(おんぐし)かきなで、物着せ奉り、すでに出だし奉らんとし給ひけるが、黒木(くろき)の数珠(ずず)の小さううつくしいを取り出だして、「これにて、いかにもならんまで念仏申して、極楽へ参れよ」とて奉り給へば、若君、これを取つて、「母御前(ははごぜん)には、今日すでに離れ参らせなんず。今はいかにもして、父のおはしまさん所へぞ参りたき」と宣ひけるこそあはれなれ。これを聞いて、御妹(おんいもうと)の姫君の十になり給ふが、「われも父御前の御もとへ参らん」とて、走り出で給ふを、乳母の女房取り留(とど)め奉る。

 六代御前、今年はわづかに十二にこそなり給へども、世の常の十四、五よりはおとなしく、見目(みめ)かたち優におはしければ、敵(かたき)に弱げを見えじと、押(おさ)ふる袖の隙(ひま)よりも、余りて涙ぞこぼれける。さて御輿(おんこし)に乗り給ふ。武士ども前後左右に打ち囲んで出でにけり。斎藤五、斎藤六、御輿の左右についてぞ参りける。北条、乗り換へども降ろして、乗すれども乗らず。大覚寺より六波羅まで、徒歩(かち)はだしにてぞ走りける。

 母上、乳母の女房、天に仰ぎ地に伏して、もだえこがれ給ひけり。「この日ごろ、平家の子ども捕(と)り集めて、水に入るるもあり、土に埋むもあり、押し殺し、刺し殺し、さまざまにすと聞こゆれば、わが子はなにとしてか失はんずらん。少しおとなしければ、首をこそ斬らんずらめ。人の子は乳母なんどのもとに置きて、時々見ることもあり。それだにも恩愛は、かなしき習ひぞかし。況(いは)んやこれは生み落として後、一日(ひとひ)片時(かたとき)も身を離たず、人の持たぬものを持ちたるやうに思ひて、朝夕二人の中にて育てしものを。頼みをかけし人にも飽かで別れしその後は、二人を裏表(うらうへ)に置きてこそ慰みつるに、一人はあれども、一人はなし。今日より後(のち)はいかがせん。この三年(みとせ)が間、夜昼(よるひる)肝心(きもこころ)を消しつつ、思ひまうけつることなれども、さすが昨日今日とは思ひ寄らず。年ごろは長谷(はせ)の観音をこそ深う頼み奉りつるに、つひに捕られぬることの悲しさよ。ただ今もや失ひつらん」とかきくどき泣くよりほかのことぞなき。

【現代語訳】
 いつまでもそのようにしていられないので、母上は、泣きながら若君の御髪をかきなで、着物をお着せし、まさにお出ししようとしたが、黒檀の数珠の小さくかわいらしいのを取り出して、「これで、最期の時まで念仏を唱え、極楽に行きなさい」と言って手渡した。若君はこれを受け取り、「母上さまには、今日でお別れです。今は何としても父上のいらっしゃる所へ参りたい」と、哀れにもおっしゃる。これを聞いて、御妹の十歳になられる姫君が、「私も父上さまのお側に行きたい」と言って走り出るのを、乳母の女房が留めた。

 六代御前は、今年はまだ十二歳におなりだが、世間の普通の十四、五歳よりは大人びて、外見も優雅だったので、敵に弱さを見られたくないと、袖を押さえるその隙間から涙があふれてこぼれた。そうしてついに御輿にお乗りになった。武士たちがその前後左右を取り囲んで、出て行った。斎藤五、斎藤六が御輿の左右について行った。北条は、乗り換えの馬に乗っていた武士を降ろして、この二人を乗せようとしたが、二人は乗ろうとしない。そのまま大覚寺から六波羅まで、裸足で走ったのだった。

 母上、乳母の女房は、天を仰ぎ地に伏して身もだえし、六代の身を思った。北の方は、「この何日か、平家の子どもを捕らえ集めては、水に入れ、土に埋め、押し殺し、刺し殺し、色々にしていると噂されている。わが子はどのように殺すのだろうか。少し大人びているから、首を斬るのであろう。人はわが子を乳母などのもとに置いて時々に会う。そんな仲であっても親子の情愛はいとおしい。ましてこの子は生み落として後、一日片時もわが身から離さず、人にはないものを持ったように思い、朝夕に夫婦二人で育てたものを。頼りの夫と別れた後は、兄妹二人を左右に置いて安らかにいたのに、今は一人はいるが、もう一人はいない。今日から後はどうしたらいいのか。この三年間、夜も昼もびくびくしながら過ごし、この日が来るのを覚悟はしていたが、それが昨日今日のこととは思いも寄らなかった。ずっと長谷の観音に深くお頼みしていたのに、とうとう捕らえられてしまい、こんなに悲しいことはない。今まさに殺されているのではなかろうか」と、恨み嘆き、泣くばかりであった。

(四)
 さ夜(よ)も更けけれど、胸せきあぐる心地して、露もまどろみ給はぬが、乳母の女房に宣ひけるは、「ただ今、ちとうちまどろみたりつる夢に、この子が白い馬に乗りて来(きた)りつるが、『あまりに恋しう思ひ参らせ候へば、しばしの暇(いとま)乞うて参りて候ふ』とて、そばについゐて、何とやらん。よにうらめしげに思ひて、さめざめと泣きつるが、程(ほど)なくうちおどろかれて、もしやと傍らを探れども人もなし。夢なりともしばしもあらで、醒(さ)めぬることの悲しさよ」とぞ語り給ふ。乳母の女房も泣きけり。長き夜もいとど明かしかねて、涙に床も浮くばかりなり。

 限りあれば、鶏人(けいじん)(あかつき)を唱へて夜も明けぬ。斎藤六帰り参りたり。「さて、いかにやいかに」と問ひ給へば、「ただ今までは別(べち)の御(おん)ことも候はず。御文(おんふみ)の候ふ」とて、取り出だいて奉る。開けて御覧ずれば、「いかに御心苦しうおぼし召され候ふらん。ただ今までは別のことも候はず。いつしか誰々(たれたれ)も御恋(おんこひ)しうこそ候へ」と、よにおとなしやかに書き給へり。母上これを見給ひて、とかうのことも宣はず。文を懐(ふところ)に引き入れて、うつ伏しにぞなられける。まことに心の内さこそはおはしけめと、推し量られてあはれなり。かくて遥(はる)かに時刻推し移りければ、「時の程もおぼつかなう候ふに、帰り参らん」と申せば、母上、泣く泣く御返事書いて賜(た)うでけり。斎藤六暇申してまかり出づ。

【現代語訳】
 夜も更けたが、北の方は胸がせき上げる気持ちがして、少しもお眠りにならない。乳母の女房に対して、「たった今、ちょっとまどろんで見た夢に、あの子が白い馬に乗ってやって来た。『母上をあまりに恋しく思い、少しの暇をもらって参りました』と言って、私の側でかしこまって、何となくひどく恨めしそうに見えて、さめざめと泣いたが、程なくはっとして目が覚め、もしやと思って辺りを探ったけれども誰もいない。夢であっても少しも続かず醒めてしまったことが悲しい」と語った。長い夜もますます明かしかねて、涙に床も浮くほどであった。

 夜にも限りがあれば、時を知らせる役人が暁を告げて夜も明けた。斎藤六が帰ってきた。「それで、どう、どうなったの」と北の方がお尋ねになると、「ただ今までは特別なことはございません。六代御前からのお手紙がございます」と言って、取り出した手紙を北の方に差し上げた。開けて御覧になると、「母上にはどれほどご心配な思いでいらっしゃるでしょう。ただ今までは特別のこともございません。早くも誰も誰もが恋しく思われます」と、たいそう大人びて書いておられる。母上は何ともおっしゃらない。手紙を懐に入れて、うつぶせになられた。本当に心の中はさぞ悲しんでおられただろうと察せられ、哀れだった。こうしてだいぶ時間がたったので、「一時も若君が気がかりでございますので、戻りましょう」と申すので、母上は泣く泣くお返事を書いてお渡しになった。斎藤六はお別れを申して退出した。

(五)
 乳母(めのと)の女房、せめても心のあられずさに、走り出でて、いづくをさすともなく、その辺を足にまかせて泣き歩(あり)くほどに、ある人の申しけるは、「この奥に高雄(たかを)といふ山寺あり。その聖(ひじり)、文覚房(もんがくばう)と申す人こそ、鎌倉殿にゆゆしき大事の人に思はれ参らせておはしますが、上臈(じやうらふ)の御子(おんこ)を御弟子(おんでし)にせんとて、欲しがらるなれ」と申しければ、うれしきことを聞きぬと思ひて、母上にかくとも申さず、ただ一人(いちにん)高雄に尋ね入り、聖に向かひたてまつて、「血の中より生(お)ほしたて参らせて、今年十二にならせ給ひつる若君を、昨日武士に捕られて候ふ。御命(おんいのち)乞ひうけ参らせ給ひて、御弟子にせさせ給ひなんや」とて、聖の前に倒れ伏し、声も惜しまず泣き叫ぶ。まことにせんかたなげにぞ見えたりける。

 聖、無惨に覚えければ、事の子細を問ひ給ふ。起き上がつて泣く泣く申しけるは、「平家小松三位中将の北の方の、親しうまします人の御子(おんこ)を養ひ奉るを、もし中将の君達(きんだち)とや人の申し候(さぶら)ひけん、昨日武士の捕り参らせてまかり候ひぬるなり」と申す。「さて武士をば誰(たれ)と言ひつる」、「北条とこそ申しさぶらひつれ」。「いでいで、さらば行き向かひて尋ねん」とて、つき出でぬ。

 この言葉を頼むべきにはあらねども、聖のかく言へば、今少し人の心地出できて、大覚寺へ帰り参り、母上にかくと申せば、「身を投げに出でぬるやらんと思ひて、我(われ)もいかならん淵河(ふちかは)にも、身を投げんと思ひたれば」とて、事の子細を問ひ給ふ。聖の申しつるやうをありのままに語りければ、「あはれ、乞ひうけて、今一度見せよかし」とて、手を合はせてぞ泣かれける。

【現代語訳】
 乳母の女房は、思いつめてじっとしていられなくなり、走り出て、どこに向かうともなく、辺りを足の赴くままにませて泣きながら歩いているうちに、ある人が言った、「この奥に高雄という山寺がある。そこの聖、文覚房という人が、鎌倉殿から重きを置かれ、身分の高いお子さまを御弟子にしたいと欲しがっておられるそうだ」という話を聞いた。乳母の女房は嬉しいことを聞いたと思い、母上に何も申し上げずに、たった一人で高雄に尋ね入り、山寺の聖に、「生まれた時からお育てし、今年十二歳になられた若君を、昨日武士に捕まえられてしまいました。どうか若君のお命乞いをしていただき、御弟子にしていただけないでしょうか」と言って、聖の前に倒れ伏し、声も惜しまず泣き叫んだ。本当にどうしようもない様子だった。


 聖は痛ましく思い、事の子細を尋ねた。女房が起き上がって泣きながら言うには、「平家の小松三位中将の北の方が、親しい方のお子を養い申し上げていましたところ、そのお子を中将の若君ではないかと人が申したものですから、昨日武士が捕らえて連れて行ったのです」。聖が、「それで武士は誰と言った」と尋ねると、「北条と申しました」。「どれどれ、それでは行って尋ねてみよう」と言いながら、さっさと出て行った。

 女房は、この言葉を当てにはできないものの、聖がそのように言ったので、少しは人心地がして、大覚寺に帰ってきて母上にお伝えすると、「そなたは身を投げに出てしまったのかと思い、私もどこの淵河にでも身を投げようと思っていましたよ」と言って、事の子細をお尋ねになった。女房が、聖が言ったことをありのままに話すと、北の方は、「ああ、あの子をもらい受けてくださり、もう一度会わせてほしい」と言って、手を合わせて泣かれた。

(六)
 さるほどに、同じき十二月十六日、北条四郎、若君具し奉りて、すでに都を立ちにけり。斎藤五、斎藤六、涙にくれて行く先も見えねども、最後の所までと思ひつつ、泣く泣く御供に参りけり。北条、「馬に乗れ」と言へども乗らず。「最後の供で候へば、苦しう候ふまじ」とて、血の涙を流しつつ、足にまかせてぞ下りける。六代御前は、さしも離れ難くおぼしける母上、乳母の女房にも別れ果て、住み慣れし都をも雲井のよそに顧みて、今日を限りの東路(あづまぢ)におもむかれけん心のうち、推し量られてあはれなり。

 駒を速むる武士あれば、わが首討たんずるかと肝を消し、物言ひかはす人あれば、すでに今やと心を尽くす。四宮河原(しのみやがはら)と思へども、関山をもうち越えて、大津の浦になりにけり。粟津(あはづ)の原かとうかがへども、今日もはや暮れにけり。国々宿々(くにぐにしゆくじゆく)うち過ぎうち過ぎ行くほどに、駿河国にも着き給ひぬ。若君の露の御命、今日を限りとぞ聞こえける。

 千本の松原に武士ども皆降りゐて、御輿(おんこし)から据(す)ゑさせ、敷皮(しきがは)敷いて若君据ゑ奉る。北条四郎、若君の御前(おんまへ)近う参つて申しけるは、「これまで具し参らせ候ひつるは、別のこと候はず。もし道にて聖にもや行き会ひ候ふと、待ち過ぐし参らせ候ひつるなり。御志(おんこころざし)の程は見え参らせ候ひぬ。山のあなたまでは、鎌倉殿の御心中をも知り難う候へば、近江国にて失ひ参らせて候ふ由(よし)、披露(ひろう)(つかまつ)り候ふべし。誰(たれ)申し候ふとも、一業所感(いちごふしよかん)の御ことなれば、よもかなひ候はじ」と、泣く泣く申しければ、若君、ともかうもその返事をばし給はず、斎藤五、斎藤六を近う召して、「我いかにもなりなん後、汝(なんぢ)ら都に帰つて、あなかしこ道にて斬られたりとは申すべからず。そのゆゑは、つひには隠れあるまじけれども、まさしうこのありさま聞いて、あまりに嘆き給はば、草の陰にても心苦しう覚えて、後世(ごせ)の障(さは)りともならんずるぞ。『鎌倉まで送りつけて参つて候ふ』と申すべし」と宣へば、二人の者ども、肝魂(きもたましひ)も消え果てて、しばしば御返事にも及ばず。ややあつて、斎藤五、「君に後れ参らせて後、命生きて安穏(あんをん)に都まで上り着くべしとも覚え候はず」とて、涙を抑へて伏しにけり。

 すでに今はの時になりしかば、若君、西に向かひ手を合はせて、静かに念仏唱へつつ、首をのべてぞ待ち給ふ。

【現代語訳】
 そうするうちに、同じ年の十二月十六日、北条四郎は、若君をお連れしてすでに都を出発してしまった。斎藤五、斎藤六は涙にくれ、行き先も見えないが最後の場所までご一緒にと、泣く泣くお供をした。北条が二人に「馬に乗れ」と言うが、乗らない。「最後のお供でございますので、苦しくはありません」と言って、血の涙を流し続け、足にまかせて鎌倉へ下って行った。六代御前は、あれほど離れたくないと思われた母上や乳母の女房とも完全に別れ、住み慣れた都を雲の彼方に振り返り見て、今日を最後と東路へ赴く心の内が哀れに察せられる。

 途中で馬を急がせる武士がいると、自分の首を討とうとするのかと心を驚かし、言葉を交わす人があると、いよいよ最期かと胸が騒ぐ。斬られるのは四宮河原かと思ったが、関山も越えて、大津の浦までやって来た。それでは粟津の原かと思えばやはり何事もなく、今日もすでに日が暮れてしまった。多くの国と宿場を次々に過ぎ、駿河国に着いた。若君の露のようにはかない命は、いよいよ今日が最期だと人々は話し合った。


 千本の松原で武士たちは皆馬から降りて座り、六代の御輿を置き、敷皮を敷いて若君を据え置いた。北条四郎が若君の御前近くに参って申し上げた。「ここまであなたをお連れ申しましたのは、格別の理由はございません。もしや途中で聖に行き会うのではないかと、それを期待してここまで過ごして参ったのです。あなたに対する私の気持ちはお示しいたしました。しかし、山の向こうまでお連れしては、鎌倉殿が何と言われるか、その御心中が知れません。ですから、鎌倉殿には、近江国で殺したと報告するつもりです。誰があなたの助命を嘆願しましても、あなたは平家一門として同一の業を受けなければならず、決してかないますまい」と、泣く泣く申し上げた。若君は何ともその返事をなさらず、斎藤五、斎藤六を近くに呼び、「私が死んだ後、お前たちは都に帰っても、決して途中で斬られたと申してはならない。そのわけは、結局は隠せないだろうが、ありのままのことを母上が聞いてひどくお嘆きになると、草葉の陰の私も辛く思われて、後世の障害にもなるからだ。『鎌倉まで送り届けて参りました』と申せ」とおっしゃったので、二人はすっかり気が動転し、すぐにはお返事ができない。かなり経って、斎藤五が、「若君に死に遅れ申して後は、命永らえて安穏に都まで上り着けるとも思えません」と言って、涙を抑えてうつむいてしまった。

 すでに最期の時となり、若君は西に向かって手を合わせ、静かに念仏を唱えながら、首を差し延べてお待ちになった。

(七)
 狩野工藤三親俊(かののくどうざうちかとし)、切手(きりて)に選ばれ、太刀をひつそばめて、右の方(かた)より御後ろに立ち回り、すでに斬り奉らんとしけるが、目もくれ心も消え果てて、いづくに太刀を打ち当つべしとも覚えず。前後不覚になりしかば、「つかまつとも覚え候はず。他人に仰せつけられ候へ」とて、太刀を捨てて退きにけり。

「さらば、あれ斬れ、これ斬れ」とて、切手を選ぶところに、墨染(すみぞめ)の衣、袴(はかま)着て、月毛(つきげ)なる馬に乗つたる僧一人、鞭(むち)をあげてぞ馳せたりける。すでにただ今斬り奉らんとするところに馳せ着いて、急ぎ馬より飛び降り、しばらく息を休めて、「若君許させたまひて候ふ。鎌倉殿の御教書(みげうしよ)、これに候ふ」とて、取り出だして奉る。披(ひら)いて見給へば、

「まことや小松三位中将惟盛卿(こまつのさんみのちゆうじやうこれもりのきやう)の子息尋ね出だされて候ふなる、高雄の聖(ひじり)御房(ごばう)申し受けんと候ふ。疑ひをなさず、預け奉るべし。 北条四郎殿へ 頼朝」

とて御判(ごはん)あり。二、三遍おし返しおし返し読(よ)うで後、「神妙(しんべう)、神妙」とてうち置かれければ、斎藤五、斎藤六は言ふに及ばず、北条の家子(いへのこ)、郎等(らうどう)どもも、皆喜びの涙をぞ流しける。

【現代語訳】
 狩野工藤三親俊が首斬りの役に選ばれ、太刀を身に引きつけて、右のほうから後ろに回り、今にもお斬りしようとしたが、目がくらみ気もすっかり動転して、どこに太刀を打ち当ててよいかも分からない。前後不覚となり、「お役が務まるとも思われません。他の人に仰せつけくだされませ」と言って、太刀を捨てて退いてしまった。

「それでは、あの者が斬れ、いや、この者が斬れ」などと、別の首斬り役を選んでいるところに、墨染めの衣に袴を着て、月毛の馬に乗った僧が一人、馬に鞭を当てながら走ってきた。今にも六代を斬ろうとしていたところに駆けつけて、僧は急いで馬から飛び降り、ちょっと息を休めて、「鎌倉殿は、若君をお許しになられました。その鎌倉殿のご命令書がここにあります」と言って、取り出して北条に差し上げた。北条が開いて見ると、


「そういえば小松三位中将惟盛卿の子息を捜し出したとのことながら、高雄の聖御房がそれを申し受けるとのこと。疑うことなくお預けせよ。 北条四郎殿へ 頼朝」

と書いてあり、御判があった。北条は、二、三遍繰り返し繰り返し読んで後、「よかった、素晴らしい」と言って、そのご命令書をお置きになった。斎藤五、斎藤六は言うに及ばず、その場にいた北条の家子、郎等たちも、皆喜びの涙を流した。

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大原御幸~灌頂巻

(一)
 西の山のふもとに、一宇(いちう)の御堂(みだう)あり。即(すなは)ち寂光院(じやくくわうゐん)これなり。古う作りなせる前水(せんすい)、木立(こだち)、よしある様(さま)の所なり。「甍(いらか)やぶれては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)をたき、枢(とぼそ)おちては、月、常住(じやうぢゆう)の灯(ともしび)をかかぐ」とも、かやうの所をや申すべき。庭の若草しげりあひ、青柳(あをやぎ)糸を乱(みだ)りつつ、池の蘋(うきくさ)(なみ)にただよひ、錦(にしき)をさらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤なみの、うら紫にさける色、青葉まじりの遅桜(おそざくら)、初花(はつはな)よりもめづらしく、岸のやまぶき咲き乱れ、八重(やへ)たつ雲のたえまより、山郭公(やまほととぎす)の一声(ひとこゑ)も、君の御幸(みゆき)をまちがほなり。法皇これを叡覧(えいらん)あつて、かうぞおぼしめしつづけける。

 池水にみぎはのさくら散りしきてなみの花こそさかりなりけれ

 ふりにける岩のたえ間よりおちくる水の音さへ、ゆゑびよしある所なり。緑蘿(りよくら)の墻(かき)、翠黛(すいたい)の山、画(ゑ)にかくとも筆もおよびがたし。

【現代語訳】
 西の山の麓に、一棟の御堂がある。すなわちこれが寂光院である。古びて作られた庭前の池や木立が、由緒ありそうな趣のある所である。「屋根の瓦が破れて、堂内に流れ込む霧は、絶え間なく香を焚いているようであり、扉が崩れ落ちては、月の光が室内に差し込み、いつまでも消えない灯火をつけているようだ」というのも、このような所を申すのであろうか。庭の若草が茂り合い、青柳の糸のような長い枝は風になびいて乱れ、池の浮草が波間に漂うさまは、錦を水にさらしているかと見間違うばかりである。池の中島にある松にからみついた藤の花が、紫に咲いた色も美しく、青葉にまじって咲く遅桜の花は、春の初花よりも珍しく、岸の山吹は咲き乱れ、雲の絶え間から聞こえてくる山郭公の一声も、法皇の御幸を待っているようである。法皇はこれを御覧になって、つぎのようにお詠みになる。

 
池水の上に、水際の桜が一面に散り広がって、波の上は今は花盛りだ。

 古びた岩の間から落ちて来る水の音までも、由緒ありそうな趣のある所である。緑の蔦(つた)かずらの垣の向こうに、黒緑色の眉墨のような山が見え、画に描いたとしても絵筆ではとうてい描き尽せないような景色である。

(二)
 女院(にようゐん)の御庵室(ごあんじつ)を御覧ずれば、軒には蔦槿(つたあさがほ)這ひかかり、信夫(しのぶ)まじりの忘草(わすれぐさ)、「瓢箪(へうたん)しばしばむなし、草、顔淵(がんゑん)が巷(ちまた)にしげし。藜藋(れいでう)深く鎖(さ)せり、雨、原憲(げんけん)が枢(とぼそ)をうるほす」ともいつつべし。杉の葺目(ふきめ)もまばらにて、時雨(しぐれ)も霜も置く露も、もる月影にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり。うしろは山、前は野辺(のべ)、いざき小笹(をざさ)に風さわぎ、世にたたぬ身のならひとて、憂き節(ふし)しげき竹柱(たけばしら)、都の方(かた)のことづては、まどほに結へるませがきや、わづかに事とふ物とては、峰に木(こ)づたふ猿(さる)の声、賤(しづ)が爪木(つまぎ)の斧(をの)の音、これらが音信(おとづれ)ならでは、正木(まさき)のかづら青つづら、来る人まれなる所なり。

【現代語訳】
 
法皇が、女院の御庵室を御覧になると、軒には蔦や朝顔が這いかかっており、忍ぶ草混じりの忘れ草が生え、「しばしば一瓢(いっぴょう)の飲物、一箪(たん)の食物も空になることのあった顔淵(清貧で知られた、孔子の弟子)のあばら家のあたりには草がぼうぼうと生い茂っている。あかざが繁茂して原憲(同じく孔子の弟子)の家の前を覆い、雨がその戸口を濡らしている」ともいうような風情である。屋根の杉の皮の葺目も粗く、時雨も霜も草葉の上に置く露も、屋根から漏れて家の中に射し込む月の光に負けず劣らず漏れてきて、とてもそれを防げようには見えなかった。後は山、前は野原で、わずかな小笹に風が吹いてざわざわと音を立てており、俗世から隠遁している身の常として、辛く悲しいことが多く、竹の節の多い竹柱の粗末な家に住み、都の方からの便りも間遠で、目を粗く結った垣根をめぐらしてはいるが、その垣根を訪ねて来るものといえば、わずかに峰の木から木へ飛び回る猿の声や、卑しい樵(きこり)が薪(たきぎ)を切る斧の音だけで、これらのほかは、まさきのかずらや青つづらが生い茂っているばかりで、訪ねて来る人もまれな所である。

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六道の沙汰

(一)
 「我、平相国(へいしやうこく)の娘として、天子の国母(こくも)となりしかば、一天四海(いつてんしかい)みな掌(たなごころ)のままなり。拝礼(はいらい)の春の始めより、色々の衣がへ仏名(ぶつみやう)の年の暮、摂禄以下(せつろくいげ)の大臣公卿(だいじんくぎやう)にもてなされし有様、六欲四禅(ろくよくしぜん)の雲の上にて、八万の諸天に囲繞(ゐねう)せられさぶらふらむ様(やう)に百官(ひやくくわん)(ことごと)く仰(あふ)がぬ者やさぶらひし。清涼紫宸(せいりやうししん)の床(ゆか)の上、 玉の簾(すだれ)のうちにてもてなされ、春は南殿(なんでん)の桜に心をとめて日を暮し、九夏三伏(きうかさんぷく)の熱き日は、泉をむすびて心を慰め、秋は雲の上の月をひとり見むことを許されず、玄冬素雪(げんとうそせつ)の寒き夜は、妻をかさねてあたたかにす。長生不老(ちやうせいふらう)の術をねがひ、蓬來不死(ほうらいふし)の薬を尋ねても、ただ久しからん事をのみ思へり。あけても暮れても、楽しみさかえし事、天上の果報も、これには過ぎじとこそおぼえさぶらひしか。

【現代語訳】
 「私は、平相国の娘として、天子の国母となりましたので、天下はすべて思いのままでした。年賀の礼の春の始めから、さまざまな色の衣替えの季節を経て、仏名会(ぶつみょうえ)の年の暮まで、摂政関白以下の大臣、公卿に大切にかしづかれた有様は、六欲天・四禅天の天上で、八万の諸天に取り囲まれかしづかれているかのようで、文武百官の悉く、敬い仰がぬ者はありませんでした。清涼殿や紫宸殿の床の上の玉の簾の中で大切にかしづかれ、春は南殿の桜に心をひかれて日を暮らし、九夏三伏の暑い日には、泉の水を手にすくい取って心を慰め、秋は雲の上の月を一人で見る事を許されず、盛大に催される月見の宴で眺め、冬の寒い夜は衣類を重ねて暖かに過ごしました。長生不老の術を会得したいと願い、蓬莱不死の薬を尋ね求め、ただ命が久しくあることだけを願っておりました。明けても暮れても、楽しいことばかりで、天上の果報も、これ以上ではあるまいと思われたことでした。

(二)
 それに寿永(じゆえい)の秋のはじめ、木曾義仲(きそよしなか)とかやにおそれて、一門の人々、住みなれし都をば雲井のよそに顧(かへりみ)て、ふる里を焼野(やけの)の原とうちながめ、古(いにしへ)は名をのみ聞きし須磨(すま)より明石(あかし)の浦づたひ、さすが哀れに覚えて、昼は漫々たる浪路(なみぢ)を分けて袖をぬらし、夜は洲崎(すさき)の千鳥と共に泣き明かし、浦々島々よしある所を見しかども、ふるさとの事は忘れず。かくて寄る方なかりしは、五衰必滅(ごすいひつめつ)の悲しみとこそおぼえさぶらひしか。人間の事は、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(をんぞうゑく)、共に我身に知られてさぶらふ。四苦八苦、一つとして残る所さぶらはず。さても筑前国太宰府といふ所にて、維義(これよし)とかやに九国(くこく)のうちをも追ひ出(いだ)され、山野(さんや)広しといへども、立寄り休むべき所もなし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重(ここのへ)の雲の上にて見し月を、今は八重(やへ)の塩路(しほぢ)にながめつつ、明かし暮しさぶらひし程に、神無月(かみなづき)の頃ほひ、清経(きよつね)の中将が、『都のうちをば源氏がために攻め落され、鎮西(ちんぜい)をば維義がために追ひ出(いだ)さる。網にかかれる魚の如し。いづくへゆかばのがるべきかは。ながらヘはつべき身にもあらず』とて、海に沈みさぶらひしぞ、心憂き事のはじめにてさぶらひし。

【現代語訳】
 
それなのに、寿永の初めに、木曾義仲とかいう者を恐れて、一門の人々が、住み慣れた都を雲のかなたに振り返り、福原の旧都を焼野原として眺め、昔は名ばかり聞いていた須磨から明石の浦を伝って落ちて行くのは、なんとも哀れに思われ、その後、昼は広々とした海の波を分けて袖を濡らし、夜は洲崎の千鳥の声を聞きながら泣き明かし、浦々島々を通って由緒ある所を見ましたが、故郷のことは忘れませんでした。こうして落ち着く所もなかったのは、天人の五衰、生者必滅の悲しみのようだと思われたのでした。人間界で受ける、愛別離苦・怨憎会苦の苦しみなど、みな我身の事として思い知らされたのです。四苦八苦のすべてを体験し、一つとして残るものはありません。そして、筑前の国大宰府という所では、惟義とかいう者に九州からも追い出され、山野広しといっても、立ち寄って休むところもありません。その年の秋にもなったので、以前は宮中の殿上で見た月を、今ははるかに離れた海の上で眺めながら月日を過ごしておりますうちに、十月の頃、清経の中将が、『都の中を源氏によって攻め落とされ、九州を惟義によって追い出される。網にかかった魚のようなものだ。どこへ行けば逃げられるのか。生き長らえる身でもない』と、海に沈まれたのが、悲しい事の始めでした。

(三)
 浪の上にて日をくらし、船の内にて夜(よ)を明かし、貢物(みつぎもの)もなかりしかば、供御(ぐご)を備ふる人もなし。たまたま供御は備へんとすれども、水なければ参らず。大海に浮ぶといへども、潮(うしほ)なれば飲む事もなし。これまた餓鬼道(がきだう)の苦とこそおぼえさぶらひしか。かくて室山(むろやま)、水島(みずしま)、所々のたたかひに勝ちしかば、人々すこし色なほつて見えさぶらひし程に、一の谷といふ所にて一門おほくほろびし後(のち)は、 直衣(なほし)、束帯(そくたい)をひき替へて、鐵(くろがね)をのべて身にまとひ、明けても暮れても、軍(いくさ)よばひの声たえざりし事、修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)、帝釈(たいしやく)の諍(あらそひ)も、かくやとこそおばえさぶらひしか。一谷を攻めおとされて後(のち)、親は子に後(おく)れ、妻(め)は夫(をつと)にわかれ、沖につりする船をば、敵(かたき)の船かと肝(きも)を消し、遠き松にむれゐる鷺(さぎ)をば、源氏の旗かと心をつくす。

【現代語訳】
 
波の上で日を暮し、船の中で夜を明かし、国々からの献上品もなかったのでお食事を調える人もいません。たまにお食事を差し上げようとしても、水が無いのでそれもできません。大海に浮かんでいるとはいっても塩水なので飲むこともできません。これもまた餓鬼道の苦と思われたのでした。それから、室山、水島など、所々の戦に勝ちましたので、人々も少し元気を取り戻しているように見えましたが、一の谷という所で一門の人々が大勢滅んだ後は、直衣、束帯の衣装に替えて、鉄の鎧・甲を身につけ、明けても暮れても、戦場での鬨の声が絶えなかったことは、阿修羅王と帝釈天の戦いもこのようではなかったかと思われたことでした。一の谷を攻め落とされた後、親は子に遅れ、妻は夫に別れ、沖で釣りをしている船を見ては、敵の船ではないかと肝をつぶし、遠くの松に群れている鷺(さぎ)を見ては、源氏の白旗ではとないかと心を砕いたのでした。

(四)
 さても門司(もじ)、赤間(あかま)の関(せき)にて、軍(いくさ)は今日(けふ)を限(かぎり)と見えしかば、二位の尼、申しおく事さぶらひき。『男(をとこ)の生き残らむ事は、千万が一つも有り難し。たとひまた遠き縁(ゆかり)は、おのづから生き残りたりといふとも、我等が後世(ごせ)を弔(とぶら)はん事も有り難し。昔より女は殺さぬ習ひなれば、いかにもしてながらへて、主上(しゆしやう)の後世をも弔らひ参らせ、我等が後生(ごしやう)をも助け給へ』と、かきくどき申しさぶらひしが、夢の心地しておぼえさぶらひしほどに、風にはかに吹き、浮雲厚くたなびいて、兵(つはもの)心を迷(まど)はし、天運つきて、人の力に及び難し。

【現代語訳】
 
そうして門司、赤間の関で、戦は今日が最後と見えたので、二位の尼が申し残されたことがありました。『男が生き残ることは、千、万に一つもないでしょう。また、遠縁の者が、たまたま生き残ったとしても、我等の後世を弔うこともないでしょう。昔から女は殺さないのが習いなので、何としてでも生き長らえて、主上の後世をお弔い申し上げ、我等が後世をも助けて下さい』とくどくどと申されましたが、夢のような心地で聞いているうちに、急に風が吹き、空に浮かぶ雲が厚くたなびいて、兵どもは心を乱し、天運は尽き、人の力では何ともできない事態になりました。

(五)
 既(すで)に今はかうと見えしかば、二位の尼、先帝を抱(いだ)き奉つて、ふなばたへ出でし時、あきれたる御様(おんさま)にて、『尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ』と仰せさぶらひしかば、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申しさぶらひしは、『君は未だ知ろしめされさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善戒行(じふぜんかいぎやう)の御力(おんちから)によつて、今、万乗(ばんじよう)の主(あるじ)とは生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運(ごうん)既につき給ひぬ。まづ東に向かはせ給ひて、伊勢太神宮(いせだいじんぐう)に御暇(おんいとま)申させ給ひ、その後(のち)西方浄土(さいはうじやうど)の来迎(らいかう)にあづからんとおぼしめし、西に向かはせ給ひて、御念仏(おんねんぶつ)(さぶら)ふべし。この国は粟散辺土(そくさんへんど)とて、心憂き境(さかひ)にてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき所へ具し参らせ侍ふぞ』と、泣く泣く申しさぶらひしかば、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)に角髪(びんづら)いはせ給ひて、御涙(おんなみだ)におぼれ、小さう美しい御手(おんて)を合はせ、まづ東を伏し拝み、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位の尼やがて抱き奉つて、海に沈みし御面影(おんおもかげ)、目もくれ心も消えはてて、忘れんとすれども忘られず、忍ばんとすれども忍ばれず。残りとどまる人々のをめきさけびし声、叫喚大叫喚(けうくわんだいけうくわん)のほのほの底の罪人も、これには過ぎじとこそおぼえさぶらひしか。

【現代語訳】
 
もはや今が最期と見えたので、二位の尼が、先帝をお抱き申しあげて、船端へ出られた時、帝はどうしてよいかわからない御様子で、『尼ぜ、私を何処へ連れて行こうとするのだ』と仰せられましたので、幼い君に向い申し上げ、尼が涙をこらえて申されるには、『主上はまだご存じではないのですか。前世で十善の戎を行われた御力によって、今、万乗の君主としてお生れになっていますけれど、悪縁に引かれて、ご運はもはや尽きてしまわれました。まず東にお向きになられて、伊勢大神宮にお暇を申し上げ、その後、西方浄土の仏のお迎えをいただこうとお考えになり、西をお向きになって御念仏をお唱えください。この国は栗散辺地といって不快な土地でございますから、極楽浄土というめでたい所へお連れ申します』と泣く泣く申されると、幼帝は山鳩色の御衣に角髪をお結になられて、お涙にむせび、小さく可愛らしいお手を合わせて、まず東を伏し拝み、伊勢大神宮にお暇申し上げ、その後、西にお向かいになり、御念仏を唱えられると、二位殿はそのままお抱き申し上げ、海に沈まれましたが、その有様に、目もくらみ、気も失うばかりで、その時の先帝の御面影は忘れようとしても忘れられず、悲しみをこらえようとしても、こらえることができません。あの時残った人々のわめき叫んだ声は、叫喚地獄、大叫喚地獄の炎で焼かれる罪人の苦しむ声も、これ以上ではなかろうと思われました。

(六)
 さて武士共(もののふども)にとらはれて、のぼり さぶらひし時、播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)について、ちつとうちまどろみてさぶらひし夢に、昔の内裏(だいり)にははるかにまさりたる所に、先帝をはじめ奉つて、一門の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、みなゆゆしげなる礼儀にて侍ひしを、都を出でて後、かかる所はいまだ見ざりつるに、『これはいづくぞ』と問ひ侍ひしかば、二位の尼と覚えて、『竜宮城(りゆうぐうじやう)』と答へ侍ひし時、『めでたかりける所かな。これには苦はなきか』と問ひさぶらひしかば、『竜畜経(りゆうちくきやう)のなかに見えて侍ふ。よくよく後世をとぶらひ給へ』と、申すと覚えて夢さめぬ。その後(のち)はいよいよ経をよみ念仏して、かの御菩提(ごぼだい)をとぶらひ奉る。これ皆六道にたがはじとこそおぼえ侍へ」と申させ給へば、法皇仰せなりけるは、「異国の玄弉三蔵(げんじやうさんざう)は、悟(さとり)の前に六道を見、我が朝(てう)の日蔵上人(にちざうしやうにん)は、蔵王権現(ざわうごんげん)の御力(おんちから)にて 六道を見たりとこそ承れ。これ程まのあたりに御覧ぜられける御事(おんこと)、誠にありがたうこそ候へ」とて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給へば、供奉(ぐぶ)の公卿殿上人も、みな袖をぞしばられける。女院(にようゐん)も御涙をながさせ給へば、つき参らせたる女房達も、みな袖をぞぬらされける。

【現代語訳】
 
そうして武士どもに捕えられて、都に上って参りました時、播磨国明石浦に着いて、少しうとうとした夢の中で、昔の内裏よりはるかに立派な所に、先帝をはじめ、一門の公卿・殿上人がみな格別に礼儀を正して控えていたのを見て、都を出て以来、こんな所は未だ見たこともなかったので、『ここはどこですか』と尋ねましたら、二位の尼らしき人が、『竜宮城』と答えました時、『素晴らしい所ですね。ここには苦は無いのですか』と尋ねますと、『竜宮城の苦は竜畜経の中に見えております。苦が無くなるようによくよく後世を弔ってください』と、申すと思ったら目が覚めました。その後はいっそう経を読み、念仏を唱えて、亡くなった人達の菩提を弔い申し上げております。これは皆、六道に反する事ではないと思われます」と申されると、法皇が仰せになるには、「異国の玄奘三蔵は、悟りを開く前に六道を見たと言い、我が国の日蔵上人は、蔵王権現の御力によって、六道を見たと聞いている。女院がこれほど目の当たりに御覧になられた御事は、誠に珍しい事です」と言って御涙にむせばれるとお供の公卿・殿上人も、皆涙で袖を絞られた。女院も御涙をお流しになるので、付き従っている女房達も、皆涙で袖を濡らされた。

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女院死去

 かくて年月(としつき)をすごさせ給ふ程に、女院、御心地(おんここち)例ならずわたらせ給ひしかば、中尊(ちゆうぞん)の御手(みて)の五色(ごしき)の糸をひかへつつ、「南無西方極楽世界教主弥陀如来(なむせいはうごくらくせかいけうしゆみだによらい)、かならず 引摂(いんぜふ)し給へ」とて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、大納言佐(だいなごんのすけ)の局(つぼね)、阿波内侍左右(あはのないしさう)に候ひて、今をかぎりのかなしさに、声も惜しまず泣きさけぶ。 御念仏の声やうやうよわらせましましければ、西に紫雲(しうん)たなびき、異香室(いきやうしつ)にみち、音楽(おんがく)そらに聞こゆ。限りある御事(おんこと)なれば、建久二年きさらぎの中旬に、一期(いちご)遂に終らせ給ひぬ。

 后宮(きさいのみや)の御位(おんくらゐ)より、かた時もはなれ参らせずして候はれ給ひしかば、御臨終の御時(おんとき)、別路(わかれぢ)にまよひしも、やるかたなくぞおぼえける。この女房達は、昔の草のゆかりもかれはてて、寄るかたもなき身なれども、折々の御仏事(おんぶつじ)、営み給ふぞあはれなる。遂に彼(か)の人々は、竜女(りゆうによ)が正覚(しやうがく)の跡をおひ、葦提希夫人(ゐだいけぶにん)の如くに、みな往生の素懐(そくわい)を遂げけるとぞ聞こえし。

【現代語訳】
 こうして年月を過ごしておられるうちに、女院は御病気にかかられたので、中尊の手にかけた五色の糸をお持ちになって、「南無西方極楽世界の教主阿弥陀如来、必ず極楽浄土へお引き取り下さい」といって、念仏をお唱えになると、大納言佐の局と阿波の内侍は、女院の左右に付き従って、今が最期という悲しさに、声も惜しまず泣き叫んだ。御念仏の声が次第に弱くなってくると、西の方角に紫雲がたなびき、何とも言い様のない香りが室内に満ち、音楽が空から聞こえてきた。寿命は限りあることなので、建久二年二月の中旬、ついに御生涯を終えられた。

 大納言佐と阿波の内侍は、女院が中宮の御位に就かれて以来、片時もお離れせずお仕えしていたので、御臨終の御時、別れの悲しみに取り乱し、悲しみの晴らしようもなく思われたのだった。この女房達は、昔の縁者もすっかりなくなってしまって、頼る所もない身ではあるが、命日命日の御仏事を営まれるのは哀れなことであった。そして、この人々は、竜女が悟りを開いた例にならい、葦提希夫が釈迦の説教を聞いて往生したように、みな極楽往生を遂げたいというかねての望みを遂げたということであった。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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「平家物語」年表

1118年
平清盛が誕生

1132年
清盛の父の平忠盛が鳥羽上皇から昇殿を許される
闇討ち未遂事件
 
1156年
保元の乱:平清盛・源義朝の軍が崇徳上皇の軍を破り、上皇を讃岐に流し、源為義を斬る

1158年
後白河上皇の院政が始まる
 
1159年
平治の乱:平清盛・重盛らが信頼・義朝の軍を破る

1160年
源義朝が死去
頼朝が伊豆に流される
 
1167年
清盛が太政大臣となる
 
1168年
清盛、病により出家
 
1171年
鹿ヶ谷で平家打倒の謀議
清盛の娘・徳子が入内
 
1177年
鹿ヶ谷謀議が清盛に知れる
俊寛ら、喜界島へ配流

1178年
安徳天皇が誕生

1179年
平重盛が死去
清盛が院政を停止し、法皇を鳥羽院に幽閉
清盛が宋との貿易をはかる
 
1180年
安徳天皇が3歳で即位
源頼朝、伊豆で平家追討の以仁王令旨を受ける
宇治平等院の戦いで以仁王が討死
清盛が福原へ遷都
頼朝、伊豆で挙兵
石橋山の戦い:頼朝が敗走
木曾義仲が挙兵
富士川の戦い:平家の軍勢が水鳥の羽音の驚き敗走
都を京都に戻す
 
1181年
平宗盛、源氏追討のための出発を、清盛の発病により中止
清盛が熱病にかかり死去
中宮徳子が健礼門院と称す
 
1183年
義仲、倶利伽羅谷で平家の大軍を破る
義仲が上洛するとの報に平家は騒ぐ
宗盛が安徳天皇を奉じて西海に走る
義仲が「朝日の将軍」の院宣を受ける
平家一門、大宰府に着く
頼朝、鎌倉で征夷大将軍の院宣を受ける
 
1184年
義仲、宇治・瀬田の合戦で、範頼・義経の軍に敗れる
義経、鵯越の坂落としで平家を大敗させる
生き残った平家は屋島へ
重衡、鎌倉へ護送
 
1185年
屋島の戦いで平家が敗走
壇の浦の戦い:平家は義経の軍に敗れ、安徳天皇は二位尼に抱かれ入水
義経、鎌倉に下ったが頼朝に追い返される
義経、京を出て流浪

1186年(1192年)
後白河法皇が建礼門院を訪問

1189年
義経が平泉で戦死

1191年
建礼門院、大原で死去
 
1192年
後白河法皇が崩御
 
1199年
頼朝が死去

六代の処刑

平高清の「六代」の名は「六代目」を意味し、その起点は、平氏繁栄の礎を築いた正盛(清盛の父)である。六代の父・維盛の幼名は「五代」といい、平氏嫡流の嫡男が代々受け継いできた。

源義仲の攻勢の前に平氏が都落ちを決意したとき、維盛は都に慣れ親しんでいる妻を共に西国に落ち延びさせるのは忍び難いとして、妻子を都に残して一門と共に西走する。このとき維盛は妻に対して子供のことを頼むと共に、自らに何かあったら再婚してほしいと言い残したという。

壇ノ浦の戦いの後、源義経が京を脱出した文治元年(1185年)11月頃、京では平氏の残党狩りが徹底的に行われた。頼朝は、六代がまだ生きていると知り、特に捜索を続けていた。六代は母と共に京の郊外に隠れ住んでいたが、北条時政に発見され捕えられた。本来なら鎌倉に送られて斬首になるところであったが、すぐに殺されなかったのは、頼朝の信を得ていた僧・文覚が、六代を自分の弟子にして出家させると申し出て許可されたためといわれる。

正治元年(1199年)に頼朝が亡くなって後も六代は出家して生き延びていたが、文覚が、遊興にふけってばかりの後鳥羽天皇の退位を謀って失敗。それによって文覚が失脚したため庇護者を失い、鎌倉に連行されてついに斬首された。栄華を誇った平氏嫡流は、ここに断絶した。


(平維盛)

建礼門院

壇ノ浦で母・時子と息子・安徳天皇を失い、自らも入水しようとした建礼門院徳子は、源氏の兵に引き上げられて京に送還された(時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と徳子に命じたとする説もある)。その後、出家して大原(京都府)の寂光院に入る。当時、女性には謀叛の罪が科されることはなかったため、徳子は生き延びることを許されたのである。

徳子は、寂光院で安徳天皇と平氏一門を供養する日々を送るが、ある時、突然に後白河法皇が訪ねてくる。ためらいながらも対面した徳子は、平氏の栄華と自身の波瀾の人生を仏教の六道にたとえて語ったという。すなわち、平氏の最盛期は何一つ不自由のない天上界、都落ちのときは苦悩に満ちた人間界、西国へ逃れたときは空腹に苦しむ餓鬼道、一ノ谷以降の戦いを目の当たりにした修羅道、壇ノ浦では悲鳴が響き渡る地獄道、平氏滅亡後は獣同然に誇りを失った畜生道だったという。

徳子はその後、静かに余生を送っていたが、やがて死期が訪れる。徳子が亡くなったのは、『平家物語』では建久2年(1191年)となっているが、健保元年(1213年)とするなど諸説ある。平氏最後の生き残りの徳子が供養し続けることで、無残な死を遂げた平家一門の魂も安らかになるであろうという、わずかな救いのある余韻をもって、物語は終わる。

徳子の墓は、寂光院の隣接地にある。

なお、最終巻の『灌頂(かんじょう)』は、12巻ある本編の後に添えられた短い巻で、「灌頂」とは、仏教の秘法の伝授を 意味する。元は巻11と12にあった徳子関係の話をまとめた形式になっている。

厳島神社

広島県廿日市市の厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にあり、「神を斎(いつ)く島」が語源とされる厳島は、古くから島そのものが神体として信仰されてきた。1996年にユネスコの世界文化遺産に登録され、国内外から多くの人が訪れる観光名所となっている。

厳島神社は、推古天皇元年(593年)、佐伯鞍職が創建し、その後平清盛が、安芸守(あきのかみ)になったことにより、厳島神社を厚く信仰。武士として初めて太政大臣となった清盛は、仁安3年(1168年)頃に現在のような寝殿造りの海上社殿を造営したという。その後、1571年に毛利氏によって御本社本殿の改築や反橋や大鳥居の再建など大規模な修復が行われた。

厳島神社が、わざわざ潮の満ち引きのある場所に建てられたのは、宮島全体が神と捉えられていたため、島の木を切ったり土を削ることで「ご神体」を傷つけないようにとの配慮がなされたからといわれている。境内の沖合約200mにある大鳥居の主柱は、クスノキの自然木で造られており、土台の上に約60tの自重で立っている。

朱色に彩られた神社の前面に広がる海と、弥山(みせん)の原始林を背景とした厳島神社の風景は、松島、天橋立と並ぶ「日本三景」の一つとして有名。また、御本社の祓殿正面にある高舞台は、大阪の四天王寺・住吉大社の石舞台とともに舞楽の「日本三舞台」といわれている。神事である「管絃祭」は毎年旧暦の6月17日に行われている。

「平家物語」の作者

鎌倉末期に兼好法師が著した『徒然草』には、『平家物語』の成立に関する伝承の記述があります(第226段)。 それによると、後鳥羽院の御代に信濃国の国司を務めたことのある、学識豊かな行長(ゆきなが)という人物が作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたといいます。また、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は詳細にわたっています。

ただ、信濃前司行長は実際には存在しておらず、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されています。その父の行隆(ゆきたか)は平家全盛時代に朝廷に仕えており、朝廷の事情には通じていました。また、行長は、史論書の『愚管抄』を著した慈円(じえん)の庇護を受けていたとあり、もしそうだとしたら、朝廷や歴史、さらに仏教に関心のある作者像と結びつきます。

都人がなぜ合戦や武芸などの記述ができたのかという点についても、武士から直接情報を得た生仏の助力によると説明され、遺漏がありません。兼好も、都人がなぜ東国武士のことを書けるのか、疑問に思っていたようです。

一方、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記していることから、あくまで信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とみる説もあります。この人物は、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、『平家物語』にも登場しているとされます。

いずれにせよ、これらの『徒然草』の記述は、『平家物語』の成立から100年が経とうとしている時期のものであり、信憑性に欠ける点もあります。しかし、今のところ『平家物語』の成立事情を記した最古の貴重な資料となっています。兼好は、いったいどこからこの情報を得たのでしょうか。


(兼好法師)

参考文献

90分でわかる平家物語
~櫻井陽子/小学館

新明解古典シリーズ 平家物語
~桑原博史/三省堂

つぶやき平家物語
~歴史魂編集部/アスキー・メディアワークス

日本の古典をよむ 平家物語
~阿部秋生ほか/小学館

ビギナーズ・クラシックス 平家物語
~角川ソフィア文庫

平家物語(上・下)
~佐藤謙三/角川日本古典文庫

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各段のあらすじ