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平家物語

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鹿(しし)の谷

(一)
 その頃の叙位・除目(ぢもく)と申すは、院・内(うち)の御はからひにもあらず、摂政・関白の御成敗(ごせいばい)にも及ばず。ただ一向(いつかう)平家のままにてありしかば、徳大寺・花山院(くわんさんのゐん)もなり給はず。入道相国(にふだうしやうこく)の嫡男(ちやくなん)小松殿、大納言の右大将にておはしけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言にておはせしが、数輩(すはい)の上臈(じやうらふ)を超越して、右に加はられけるこそ、申すはかりもなかりしか。

 中にも徳大寺殿は一の大納言にて、花族(くわぞく)英雄、才学雄長、家嫡(けちやく)にてましましけるが、平家の次男宗盛の卿に加階(かかい)越えられ給ひけるこそ遺恨(ゐこん)なれ。「定めて御出家などやあらんずらん」と、人々内々は申し合へりしかども、しばらく世のならんやうをも見んとて、大納言を辞し申して籠居(ろうきよ)とぞ聞こえし。

 新大納言成親卿(なりちかきやう)宣ひけるは、「徳大寺・花山院に越えられたらんはいかがせん。平家の次男宗盛の卿に加階越えらるるこそ安からね。これも、よろづ思ふさまなるがいたすところなり。いかにもして、平家を滅ぼし、本望を遂げん」と宣ひけるこそ恐ろしけれ。父の卿は、わづか中納言までこそ至られしか。その末子(ばつし)にて、位(くらゐ)正二位、官大納言に上がり、大国あまた賜はつて、子息(しそく)所従(しよじゆう)朝恩(てうおん)に誇れり。何の不足にかかる心つかれけん。これひとへに天魔の所為(しよゐ)とぞ見えし。平治には、越後中将(ゑちごのちゆうじやう)とて、信頼卿(のぶよりのきやう)に同心の間、すでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、首を継ぎ給へり。しかるに、その恩を忘れて、外人(ぐわいじん)もなき所に兵具(ひやうぐ)を整へ、軍兵(ぐんびやう)を語らひ置き、その営みのほかは他事なし。

【現代語訳】
 その当時の叙位や除目というものは、上皇や天皇のお考えでもなく、摂政や関白の御裁定によるまでもなかった。ただひたすら平家の思うがままであったから、欠員となった左大臣の後任として順当であるはずの徳大寺・花山院もおなりにならない。入道相国の嫡男・小松殿(重盛)が大納言の右大将から左大将に移り、次男・宗盛が中納言から、数人の上位者の貴族を飛び越えて右大将に加わったのは、何とも申しようのないほどだ。
 
 中でも徳大寺殿は筆頭の大納言で、華族家・英雄家という家柄にあり、学問に優れ、本家の嫡子であったにもかかわらず、宗盛に先を越されてしまったのは遺恨であった。「きっと御出家なさるだろう」と、人々は内緒で言い合っていたが、しばらく政界のなりゆきを見ようというので、大納言を辞退なさり、家に引きこもられたという。
 
 また、新大納言の成親卿が言われるには、「徳大寺や花山院に追い越されるのは仕方がない。しかし平家の次男に先を越されるのは心外だ。これもすべて平家の思うがままの結果だ。何としても平家を滅ぼし、恨みを晴らしてやろう」と、恐ろしいことを言われる。成親卿の父君は中納言まで昇進し、成親卿はその末子でありながら位は正二位、官職は大納言にまで昇進し、その上に大国を領地にいただき、子息や家臣も朝廷の恩恵に浴し、今を時めいていた。それなのに、何の不足があってこのような心になられたのだろう。天魔のしわざとしか思えない。平治の乱では成親卿は越後の中将として信頼卿に味方したため、とっくに死罪に処せられたはずが、小松殿が清盛公にあれこれお願い申し上げて首がつながったのだ。それなのにその恩を忘れて、敵とする人がいないはずの平家に対して、武器をととのえ、兵を集め、他のことをしようとはしなかった。

(二)
 東山のふもと、鹿(しし)の谷といふ所は、後ろは三井寺(みゐでら)に続いて、ゆゆしき城郭(じやうかく)にてぞありける。それに俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)の山荘あり。かれに常は寄り合ひ、平家滅ぼさんずる謀(はかりこと)をぞ運(めぐら)しける。ある時、法皇も御幸(ごかう)なる。故少納言入道 信西(しんぜい)が子息、静憲(じやうけん)法印も御供仕らる。その夜の酒宴に、この由を静憲法印に仰せ合はせられければ、「あなあさまし。人あまた承り候(さうら)ひぬ。ただいま漏れ聞こえて、天下の大事に及び候ひなんず」と、大きに騒ぎ申しければ、新大納言、気色(けしき)変はりて、さと立たれけるが、御前に候ひける瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖にかけて引き倒されたりけるを、法皇、「あれはいかに」と仰せければ、大納言立ち返りて、「平氏倒はれ候ひぬ」とぞ申されける。法皇ゑつぼに入(い)らせおはして、「者ども参つて猿楽(さるがく)(つかまつ)れ」と仰せければ、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)参りて、「ああ、あまりに平氏の多う候ふに、もて酔(ゑ)ひて候ふ」と申す。俊寛僧都、「さてそれをば如何(いかが)仕らんずる」と申されければ、西光(さいくわう)法師、「首を取るにしかず」とて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。

 静憲法印、あまりのあさましさに、つやつや物も申されず。かへすがへすも恐ろしかりし事どもなり。与力の輩(ともがら)は誰々ぞ。近江中将入道蓮浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)俗名(ぞくみやう)成正(なりまさ)・法勝寺執行(ほつしようじのしゆぎやう)俊寛僧都・山城守基兼(やましろのかみもとかね)・式部大輔雅綱(しきぶのたいふまさつな)・平判官康頼(へいはうぐわんやすより)・宗判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)・新平判官資行(しんへいはうぐわんすけゆき)・摂津国の源氏多田蔵人行綱(げんじだだのくらんどゆきつな)を始めとして、北面の輩多く与力したりけり。

【現代語訳】
 東山の麓の鹿の谷という所は、後ろは三井寺に続き、並々ならぬ要害の地だった。そこに俊寛僧都の山荘があった。その山荘に成親らが絶えず寄り集まって、平家を滅ぼす計画を練っていた。ある時、後白河法皇の御幸もあった。その際、故少納言信西の子息・静憲法印がお供した。その夜の酒宴の席で、法皇がこの計画を静憲法印にご相談なさったが、法印は「何と呆れたお話しか。大勢がお聞きしています。すぐに漏れ聞こえて天下の一大事になってしまうでしょう」と大騒ぎした。新大納言は顔色を変えてさっと立たれたが、法皇の御前にあった瓶子を狩衣の袖にひっかけて引き倒したのを法皇が御覧になり、「これはどうしたことか」とおっしゃったので、新大納言は席へ戻り、「平氏(瓶子)が倒れてしまいました」と申し上げた。法皇は思わずお笑いになり、「皆の者、参って猿楽をせよ」とおっしゃったので、平判官康頼が出てきて、「ああ、あまりに平氏(瓶子)が多くて、うっかり酔ってしまいました」と申し上げた。そして俊寛僧都が、「さて、それをどのようにいたしましょう」と申したところ、西光法師が「首を取るにこしたことはない」と言って、瓶子の首を折り取って席に引っ込んだ。
 
 静憲法印はあまりの呆れた様に少しも口が聞けなかった。全く恐ろしいことであった。ところで、この計画に加わった人は誰々かというと、近江の中将入道蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部の大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津国の源氏多田の蔵人行綱を初めとして、北面の武士たちが多く加担した。

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西光が斬られ~巻第二

 日の始めより根元与力(こんげんよりき)の者なりければ殊に強う縛(いまし)めて、御壺(おんつぼ)の内にぞ引据(ひつす)ゑたる。入道相国、大床(おほゆか)に立ちて暫し睨(にら)まへ、「あな憎(にく)や当家傾けうとする謀反の奴がなれる姿よ。しやつ此処へ引き寄せよ」とて、縁の際(きは)へ引き寄せさせ物履(ものは)きながらしや面(つら)をむずむずとぞ踏まれける。「もとより己(おのれ)らがやうなる下臈(げらふ)の果てを、君の召し使はせ給ひて、なさるまじき官職をなし賜(た)び、父子共に過分の振舞ひをすると見しに合はせて、過たぬ天台座主(ざす)流罪に申し行ひ、あまつさへ当家傾けうとする謀反の輩(ともがら)に与(くみ)してげるなり。ありのままに申せ」とこそ宣ひけれ。

 西光もとより勝れたる大剛(だいかう)の者なりければ、ちとも色も変ぜず、悪びれたる気色もなく、居直りあざ笑つて申しけるは、「院中に召し使はるる身なれば執事の別当成親(なりちか)の卿の院宣とて催され候ふ事にも、与せずとは申すべきやうなし。それは与したり。但し耳に留まる事をも宣ふものかな。他人の前は知らず、西光が聞かんずる所にては、さやうの事をば得こそ宣ふまじけれ。そもそも御辺(ごへん)は刑部卿忠盛の子にておはせしが、十四五までは出仕もし給はず、ややあつて故中御門の藤(とう)中納言家成(かせい)卿の辺に立ち入り給ひしをば、京童(きやうわらんべ)は、例の高平太(たかへいだ)とこそ云ひしか。然るを保延の頃、海賊の張本三十余人搦(から)め進(しん)ぜられたりし勲賞に四品(しほん)して、四位の兵衛の佐(すけ)と申ししをだに、人々は過分とこそ申し合はれしか。殿上の交りだに嫌はれし人の子孫にて、太政大臣まで成り上がつたるや過分なるらん。もとより侍ほどの者の、受領・検非違使に至る事、先例法例なきにあらず 。なじかは過分なるべき」と、憚る所もなう云ひ散らしたりければ、入道あまりに腹を据ゑかねて、暫しは物をも宣はず。ややありて入道の宣ひけるは、「しやつが首左右(さう)なう斬るな。よくよく糾問(きうもん)して事の子細を尋ね問ひ、その後河原へ引き出して首を刎ねよ」とぞ宣ひける。松浦(まつらの)太郎重俊承つて、手足を挟み様々にして痛め問ふ。西光もとより争はざりける上、拷問(がうもん)は厳しかりけり。白状(はくじやう)四五枚に記せられて、その後、「口を裂け」とて口を裂かれ、五条西の朱雀(しゆじやか)にしてつ終(つひ)に斬られにけり。

【現代語訳】
 陰謀の最初から加わった者であるので、特にきつく縛り、中庭の内に引き据えた。入道相国は大床に立って、しばし睨みつけ、「憎い奴め、当家を倒そうとする奴の成れの果てよ。そやつをここに引き寄せよ」と、縁の際に引き寄せさせ、履物を履いたまま、その面をむずむずと踏みつけられた。「だいたい、お前らのような下臈のはてを、君が召し使われて、任ぜられるはずもない官職をお与えになれば、父子共に身分不相応なふるまいをすると見ていたが、案の定、過失もない天台座主を流罪にし、あまつさえ当家を倒そうと謀反を企てる者どもに与した奴である。ありのままに申せ」と言われた。

 西光はもとより肝の据わった男なので、顔色ひとつ変えず、悪びれたふうもなく居直り、せせら笑って申したのは、「院に召し使われる身なのだから、執事の別当・成親卿が法皇の命を受けて募兵を命じられた事に、与しないと申し上げるわけがない。確かに与した。但し聞き捨てならないことをおっしゃるものだ。他人の前ならいざ知らず、この西光が聞いているところでそんなことをおっしゃるものではない。そもそも貴殿は刑部卿忠盛の子であられたが、十四五歳までは出仕もなさらず、しばらくして亡き中御門の藤中納言家成卿の邸あたりに出入りされていたのを、京童(口さがない若者ども)は、噂の高平太と言っていたものだ。にもかかわらず、保延の頃、海賊の首領三十余人を捕縛した手柄で四品に叙せられ、四位の兵衛佐と言ったことさえ、人々は過分であると言い合ったものだ。殿上の交流さえ嫌がられた忠盛の子で、太政大臣にまで成り上ったことこそ過分であろう。侍の身分の者が、受領や検非違使になることは先例、慣例がないわけでもない。それなら過分とはいえない」と、憚ることなく言い散らしたので、入道はあまりに腹を据えかねて物もおっしゃらない。しばらくして、「そいつの首は簡単には斬るな。よくよく問い糾して調べあげ、その後河原へ引き出して首を刎ねよ」と命じられた。松浦太郎重俊が命令を受け、手足を挟み、さまざまに拷問を加えて取り調べた。西光は抵抗するつもりなど毛頭なかった上に、拷問が激しかったので、残りなく自白した。自白調書を四五枚に記され、すぐに「そやつの口を裂け」と、口を引き裂かれ、五条西の朱雀でついに斬られた。

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教訓状

 まづ世に四恩(しおん)候。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生(しゆじやう)の恩、これなり。その中に最も重きは朝恩なり。普天(ふてん)の下、王地にあらずと云ふ事なし。さればかの潁川(えいせん)の水に耳を洗ひ、首陽山(しゆやうざん)に蕨(わらび)を折りし賢人も、勅命背き難き礼義をば存知(ぞんぢ)すとこそ承れ。いかいはんや、先祖にも未だ聞かざつし太政大臣を極めさせ給ふ。いはゆる重盛が無才愚闇(むさいぐあん)の身を以て、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位に至る。しかのみならず国郡半(なか)ば過ぎて一門の所領となり、田園(でんをん)ことごとく、一家(いつけ)の進止(しんじ)たり。これ希代(きたい)の朝恩にあらずや。今これらの莫大の御恩を思し召し忘れて、みだりがはしく法皇を傾(かたぶ)け奉らせ給はん事、天照大神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)の神慮にも背き候ひなんず。

 日本はこれ神国(しんこく)なり。神は非礼を受け給はず。しかれば君の思し召し立つところ、道理半ばなきにあらず。中にも、この一門は、代々の朝敵を平げて、四海の逆浪(げきらう)を静むる事は、無双(ぶそう)の忠なれども、その賞に誇る事は、傍若無人(ぼうじやくぶじん)とも申しつべし。聖徳太子十七箇条の御憲法(ごけんぼふ)に、「人皆心あり、心おのおの執(しゆ)あり、彼を是(ぜ)し我を非し、我を是し彼を非す、是非の理(ことわり)、誰(たれ)かよく定むべき。相(あひ)共に賢愚(けんぐ)なり、環(たまき)の如くして端(はし)なし。ここを以てたとひ人怒るといふとも、却つて我が咎(とが)を懼(おそ)れよ」とこそ見えて候へ。しかれども、御運尽きぬによつて、御謀反(ごむほん)既に顕(あらは)れぬ。その上、仰せ合せらるる成親卿(なりちかのきやう)、召し置かれぬる上は、たとひ君、いかなる不思議を思し召し立たせ給ふとも、何の恐れか候ふべき。所当(しよたう)の罪科行はれん上は、退いて事の由を陳じ申させ給ひて、君の御為には、いよいよ奉公の忠勤を尽くし、民の為にはますます撫育(ぶいく)の哀憐(あいれん)を致させ給はば、神明(しんめい)の加護に与(あづ)かり、仏陀(ぶつだ)の冥慮(みやうりよ)に背くべからず。神明仏陀、感応(かんおう)あらば、君も思し召しなほす事、などか候はざるべき。君と臣とならぶるに、親疎(しんそ)(わ)く方(かた)なし。道理と僻事(ひがごと)を並べんに、いかでか道理につかざるべき。

【現代語訳】
 (重盛の弁)まず世に四つの恩がございます。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩、これらです。その中で最も重いのは天子の恩です。広い天の下はすべて王の地です。であるので、皇帝から帝位を譲ると聞いて潁川の水で耳を洗ったという許由(きょゆう)、周の武王を諫めて用いられず首陽山で蕨をとって食べていたという伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)などの賢人も、勅命には背けないという礼儀をわきまえていたと聞いています。ましてや、先祖も一度も就いたことのない太政大臣の位をお極めになりました。そして私は、才学なく愚かな身でありながら、内大臣の位に至りました。そればかりか、国郡の半ば以上が平家一門の所領となり、荘園はことごとく一家が所有しています。これらはすべて世にもまれな天子の恩でないでしょうか。今これらの莫大な御恩を忘れて、無法にも法皇を傾けなさろうとする事は、天照大神、正八幡宮の神慮にも背くことに他なりません。

 日本は神国です。神は非礼をお受けになりません。であれば、法皇の思い立たれたことも、半ば道理に合っています。特に我が平家一門は、代々の朝敵を平定して天下の争乱を静めたのは、並びなき忠義ではありますが、その賞に誇るのは、傍若無人とも申すべきです。聖徳太子の十七条の憲法に、「人には皆心がある。心にはおのおの固執するところがある。彼を是とし我を非とし、我を是とし彼を非とするが、是非の道理は人間の誰が定めることができよう。互いに賢くあれば愚かでもある、賢と愚とは一つの輪のように端がない。だから、たとえ相手が怒っても、かえって自分の非を反省すべき」とあります。しかし、今回の事件については、父上の御運がまだ尽きていないからこそ、法皇の謀反が発覚したのです。しかも、共謀者の成親卿を逮捕してある以上、たとえ法皇がどんな理不尽を思い立たれようと、何も恐れることはありません。謀反人それぞれ相応の処罰をしたなら、引き下がってこちらの事情をお述べになり、法皇には、ますます奉公の忠勤をつくし、民のためにはいよいよ慈しみ哀れみを施しなされば、神明の加護にあずかり、仏陀の思し召しに背くことはないでしょう。神仏が父上を受け入れるなら、法皇も思い直されることでしょう。君と臣との関係は、親しい疎いという区別をしてはならず、臣は君に従うべきものです。道理と非道を比べれば、道理を選ぶのは当然です。

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大納言流罪

(一)
 さる程に、六月二日の日、新大納言成親(なりちか)の卿をば、公卿の座に出し奉つて、御物(おんもの)参らせたりけれども、胸せき塞がつて、御箸(おんはし)をだにも立てられず。預りの武士難波次郎経遠(なんばのじらうつねとほ)、御車を寄せて、「疾う疾う」と申しければ、大納言心ならずぞ乗り給ふ。あはれいかにもして、今一度小松殿に見え奉らばや と思はれけれども、それも叶はず 。見廻せば、軍兵(ぐんびやう)ども前後左右(さう)にうち囲んで、我が方様(かたざま)の者は一人もなし。「たとひ重科を蒙つて遠国(をんごく)へ行く者も、人一人(いちにん)身に添へざる者やある」と、車の内にて掻き口説かれければ、守護の武士どもも、みな鎧(よろひ)の袖をぞ濡らしける。

 西の朱雀(しゆじやか)を南へ行けば、大内山も、今は余所にぞ見給ひける。年来(としごろ)見慣れ奉りし雑色(ざふしき)・牛飼に至るまで、皆涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。まして都に残り留まり給ふ北の方、幼き人々の心の内、推し量られて哀れなり。鳥羽殿を過ぎ給ふにも、この御所へ御幸(ごかう)なりしには、一度も御供には外れざりしものをとて、我が山荘洲浜殿(ざんざうすはまどの)とてありしをも、余所に見てこそ通られけれ。鳥羽の南の門出でて 舟遅しとぞ急がせける。大納言、「こは何方へとて行くらん。同じう失はるべくば、都近きこの辺にてもあれかし」と宣ひけるこそ、せめての事なれ。近う添ひ奉つたる武士を、「誰(た)そ」と問ひ給へば、「預かりの武士、難波次郎経遠」と名乗り申す。「もしこの辺に、我が方様(かたざま)の者やある。尋ねて参らせよ。舟に乗らぬ先に云ひ置くべき事あり」と宣へば、経遠その辺を走り廻つて尋ねけれども、「我こそ大納言殿の御方(おんかた)」と申す者一人もなし。その時大納言、涙をはらはらと流いて、「さりとも、我が世にありし時は、従ひ付きたりし者ども、一二千人もありつらんに、今は余所にてだに、この有様を見送る者のなかりける悲しさよ」とて泣かれければ、猛き武士どもも、みな鎧の袖をぞ濡らしける。ただ身に添ふ物とては、尽きせぬ涙ばかりなり。熊野詣、天王寺詣などには、二つ瓦の三つ棟に造りたる舟に乗り、次の舟二三十艘漕ぎ続けてこそありしに、今は怪(け)しかる舁(か)き据ゑ屋形舟(やかたぶね)に大幕引かせ、見も慣れぬ兵(つはもの)どもに具せられて、今日を限りに都を出でて、波路遥かに赴れけん心の内、推し量られて哀れなり。

【現代語訳】
 さて、治承元年六月二日、新大納言成親卿を公卿の座にお通しし、食事を差し上げたが、胸が塞がって、箸さえおつけにならない。預かり役の武士・難波次郎経遠が車を寄せて、「お早く、お早く」と言うと、不本意ながらお乗りになる。今一度小松殿(重盛)にお目にかかりたいと思われたが、それも叶わない。見回せば、軍兵たちが四方を取り囲んでおり、味方の者は一人もいない。「たとえ重罪に処せられて遠国へ行く者だとしても、誰一人ついてこないことがあろうか」と、車の中で嘆かれるので、護送の武士たちも皆鎧の袖を濡らした。

 西八条の西の朱雀大路を南へ下ると、大内裏はもはや自分とは無縁の場所に見える。長年見慣れ申した雑色や牛飼に至るまで、涙を流し、袖を濡らさない者はいない。まして都に残り留まられる北の方や幼い人々の胸中は、察するほどに哀れであった。鳥羽殿を通り過ぎられる時も、この御所へ法皇がいらっしゃる時は、一度も欠かさずお供したのにと、自分の山荘だった洲浜殿も、よその屋敷を眺めるようにして通られた。鳥羽の南の門を出ると、武士たちは「舟が着くのが遅い」と言って急がせた。「これはどこへ行くのか。どうせ殺されるなら、都に近いこの辺りがよい」と言われるのが、せめての願い事だった。近くに控えている武士に、「誰か」と問われると、「難波次郎経遠」と名乗った。「この辺に私の知っている者はいないか尋ねてほしい。舟に乗る前に言い残して置きたいことがある」と言われたので、経遠はその辺りを走り回って尋ねたが、縁者だと名乗る者は一人もなかった。「我が権勢が盛んであった頃は、付き従う者は千人、二千人もあったのに、今はよそながら見送ってくれる者さえいない」と泣かれると、荒武者たちも皆鎧の袖を濡らした。ただ身に添えるものは、尽きない涙ばかりであった。熊野詣や四天王寺詣などには、龍骨二本を組み込んだ三段の屋形をしつらえた舟に乗り、後ろに二、三十艘もの舟を漕ぎ従わせていたが、今は大幕を引かせた粗末な屋形を据えつけた舟に乗り、見知らぬ兵どもに連れられ、今日を限りにと都を去り、波路遥かに流されていく、その胸中は察するほどに哀れであった。

(二)
 新大納言は、死罪に行はるべかりし人の、流罪に宥(なだ)められける事は、ひとへに小松殿の様々(やうやう)に申されけるによつてなり。その日は摂津国大物(だいもつ)の浦にぞ着き給ふ。明くる三日の日、大物の浦へは、京より御使ありとてひしめきけり。新大納言、「そこにて失へとにや」と聞き給へば、さはなくして、備前の児島(こじま)へ流すべしとの御使なり。また小松殿より御文あり。「あはれ、いかにもして、都近き片山里にも置き奉らばやと、さしも申しつる事の叶はざりける事こそ、世にあるかひも候はね。さりながら御命ばかりをば乞ひ受け奉つて候ふぞ。御心安う思し召され候へ」とて、難波が許へも、「よくよく宮仕へ奉れ。相構へて御心には違(たが)ふな」など宣ひ遣はし、旅の粧(よそほひ)細々(こまごま)と沙汰し送られたり。

 新大納言は、さしも忝(かたじけな)う思し召されける君にも、離れ参らせ、束の間も去り難う思はれける北の方、幼き人々にも、みな別れ果てて、こは何地(いづち)へとて行くらん。再び故郷に帰つて、妻子を相見んことも有難し。一年(ひととせ)山門の訴訟によつて、既に流されしをも、君惜しませ給ひて、西の七条より召し返されぬ。されば君の御戒(おんいましめ)にもあらず、こはいかにしつる事どもぞやと、天に仰ぎ地に伏して、泣き悲めどもかひぞなき。明ければ、舟おし出して下り給ふに、道すがらもただ涙にのみ咽(むせ)んで、長らふべしとは覚えねども、さすが露の命は消えやらず。跡の白波隔つれば、都は次第に遠ざかり、日やうやう重なれば、遠国は既に近づきぬ。備前の児島に漕ぎ寄せて、民の家のあさましげなる柴の庵(いほり)に入れ奉る。島の習ひ、後(うしろ)は山、前は海、磯の松風、波の音、いづれも哀れは尽きせず

【現代語訳】
 成親卿は、死罪に処されるはずなのが流罪に減刑されたのは、小松殿の様々なとりなしがあったからである。その日は摂津国の大物の浦にお着きになった。翌三日、大物の浦に京から使者がやって来たというので騒ぎになった。成親卿は、「ここで殺せとの知らせか」と尋ねられると、そうではなく、備前国の児島へ流せとの使者だった。また、小松殿からの手紙もあった。「何とか都に近い片山里にでも留め置き申さねばと粘ったのですが、叶わなかったので、生きる甲斐もありません。ですが、お命だけは私がもらい受けました。ご安心ください」と書かれており、経遠の許へも、「よくよく大納言にお仕えし、御心に背くようなことをするな」と仰せがあり、旅の支度をこまごまと指示して送られた。

 成親卿は、あれほど慕っておられた後白河法皇とも離れ、束の間も離れ難く思っていた北の方や御子たちとも別れて、「これからどこへ行くのだろう。再び故郷に帰って、妻子に会うこともないだろう。先年、延暦寺の訴訟事件で流されるところを、法皇が惜しまれ、西の京の七条から召し返された。だから、今回は法皇のお咎めではないはず。ではこれはいったいどうした事か」と、天を仰ぎ地に伏して泣き悲しんだが、どうにもならない。夜が明けると舟は出て、西へと下ってゆく。道中もただ涙にくれ、このまま生き長らえられるとも思えないが、かといって命は露のように消えたりしない。舟の後に立つ白波が隔たって行くので、都はしだいに遠ざかり、日数が重なるにつれ、遠国が近づいてきた。備前国の児島に漕ぎ寄せて、民の暮らす粗末な柴の庵に入られた。島の常で、後ろは山、前は海、磯の松風、波の音、どれをとっても侘びしさは尽きない。 

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足 摺~巻第三

(一)
 御使ひは、丹左衛門尉基康(たんざゑもんのじようもとやす)といふ者なり。船より上がり、「これに都より流され給ひし丹波少将(たんばのせうしやう)殿、法勝寺執行御房(ほつしようじしゆぎやうごぼう)、平判官(へいはうぐわん)入道殿やおはする」と声々にぞ尋ねける。二人(ににん)の人々は、例の熊野詣でしてなかりけり。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)一人(いちにん)残つたりけるが、これを聞き、「あまりに思へば夢やらん。また天魔(てんま)波旬(はじゆん)のわが心をたぶらかさんとて言ふやらん。現(うつつ)とも覚えぬものかな」とて、あわてふためき、走るともなく、倒るるともなく、急ぎ御使ひの前に走り向かひ、「何事ぞ。これこそ京より流されたる俊寛よ」と、名のり給へば、雑色(ざふしき)が首に掛けさせたる文袋(ぶぶくろ)より、入道相国の赦文(ゆるしぶみ)取り出(い)だいて奉る。開いて見れば、「重科(ぢゆうくわ)は遠流(をんる)に免ず。早く帰洛(きらく)の思ひをなすべし。中宮 御産(ごさん)の御(おん)祈りによつて、非常の赦(しや)行はる。しかる間、鬼界(きかい)が島の流人(るにん)少将成経(なりつね)・康頼法師(やすよりぼふし)赦免」とばかり書かれて、俊寛といふ文字はなし。礼紙(らいし)にぞあるらんとて、礼紙を見るにも見えず。奥より端へ読み、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、三人とは書かれず。

 さる程に、少将や判官入道も出で来たり。少将の取つて読むにも、康頼入道が読みけるにも、二人とばかり書かれて、三人とは書かれざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすれば現(うつつ)なり。現かと思へばまた夢のごとし。その上、二人の人々のもとへは、都より言(こと)づけ文(ふみ)ども幾らもありけれども、俊寛僧都のもとへは、言(こと)問ふ文一つもなし。「そもそも我ら三人は罪も同じ罪、配所も一つ所なり。いかなれば赦免の時、二人は召し返されて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆(しゆひつ)の誤りか。こはいかにしつる事どもぞや」と、天に仰ぎ、地に伏して、泣き悲しめどもかひぞなき。

【現代語訳】
 赦免状を持った使者は、丹左衛門尉基康という者だった。基康らは船から島に上がり、「ここに、都から流されなさった丹波少尉殿と法勝寺執行御房、平判官入道殿はいらっしゃるか」と、皆がそれぞれ声を上げて尋ねた。成経と康頼の二人は、いつものように熊野詣でに出かけていていなかった。俊寛僧都一人だけが残っていたが、これを聞き、「あまりに帰京を願っていたので夢を見ているのだろうか。それとも天魔波旬が私の心をたぶらかそうとして言っているのだろうか。現実とは思われない」と言って、あわてふためき、走るともなく、倒れるともなく、急いで使者の前に走り出て、「何事でしょうか。私こそが京から流された俊寛です」と名乗ると、基康は雑色の首に掛けさせていた文袋から、入道相国による赦免状を取り出して差し上げた。俊寛がそれを開いて見ると、「重い罪は遠流の刑に服したことで赦す。早く帰京の心づもりをしなさい。中宮のお産の祈願のために、特別の赦免を行う。そういうわけで、鬼界が島の流人、少将成経、康頼法師は赦免する」とだけ書かれていて、俊寛という文字はなかった。俊寛は、礼紙にきっとあるのだと思って礼紙を見たが、やはりない。そんなはずはないと、赦免状の終わりから初めへ、初めから終わりへと読み直したが、二人とだけ書かれていて、三人とは書かれていなかった。


 そうしているうちに、少将や判官入道もやって来た。少将がそれを手に取って読んでも、康頼入道が読んでも、二人としか書かれておらず、三人とは書かれていない。夢ならこのようなこともあろうが、しいて夢かと思おうとしても現実である。現実と思っても、夢のようである。その上、二人には都からの言付け文などが何通もあったけれども、俊寛僧都には一つもなかった。「そもそも私たち三人は罪も同じ罪であり、流された場所も同じ場所である。どういうわけで、赦免において二人は呼び返され、私一人がここに残らなければならないのか。平家が忘れてしまったのか、書記役が書き誤ったのだろうか。これはいったいどうしたことだろう」と、俊寛は天を仰ぎ、地に伏して泣き悲しんだが、どうにもならない。
 
(注)丹波少尉殿・・・鹿の谷の陰謀の首謀者。丹波守兼右近衛少将・藤原成経。
(注)法勝寺執行御房・・・俊寛僧都。
(注)平判官入道・・・平判官康頼。鬼界が島へ流される途中に出家した。
(注)雑色・・・雑役を担う無位無官の者。
(注)礼紙・・・書状に巻いてある白紙。

(二)
 少将のたもとにすがつて、「俊寛がかくなるといふも、御辺(ごへん)の父、故大納言の由(よし)なき謀叛(むほん)ゆゑなり。さればされば、よその事とおぼすべからず。赦(ゆる)されなければ、都までこそ叶はずといふとも、せめてはこの船に乗せて、九国(くこく)の地へ着けたまへ。おのおののこれにおはしつる程こそ、春は燕(つばくらめ)、秋は田の面(も)の雁(かり)のおとづるるやうに、おのづから故郷のことをも伝へ聞きつれ。今より後は、何としてかは聞くべき」とて、もだえこがれ給ひけり。少将、「まことにさこそはおぼし召され候(さうら)ふらめ。われらが召し返さるる嬉しさは、さることなれども、御有様を見奉るに、行くべき空も覚えず。うち乗せ奉つても上りたう候ふが、都の御使ひも叶ふまじき由(よし)申す上、赦されもないに、三人ながら島を出でたりなど聞こえば、なかなか悪(あ)しう候ひなん。成経まづ罷(まか)り上つて、人々にも申し合はせ、入道相国の気色(きしよく)をも伺うて、迎へに人を奉らん。その間は、この日ごろおはしつるやうに思ひなして待ち給へ。何としても命は大切のことなれば、このたびこそ漏れさせ給ふとも、つひにはなどか赦免なうて候ふべき」と慰め給へども、人目も知らず泣きもだえけり。

【現代語訳】
 俊寛は少将の袂にすがって、「俊寛がこうなったのも、元はといえば、あなたの父、故大納言殿のつまらない謀叛のためです。だからだから、私のことを他人事とお思いになってはならない。赦免されないので都まで帰れないとしても、せめてこの船に乗せて九州の地へ着けてください。あなた方がここにおられた間は、春にはつばめ、秋には田の面に雁が訪れるように、自然に故郷のことも伝え聞くことができました。しかし、今より後、どうやって聞くことができましょうか」と言って、身もだえして懇願した。少将は、「まことにそうお思いになるでしょう。私たちが呼び戻される嬉しさはもちろんですが、あなたをお見捨てして行くのは、帰る気持ちにもなれません。この船にお乗せしてでも上りたく思いますが、都の御使者もそれはかなえられない上、赦免もないのに三人一緒に島を出たなどと伝わると、かえってよくないでしょう。この成経が先に帰り、人々にもよく相談して、入道相国のご機嫌もうかがって、迎えに人を差し向けましょう。その間は、しいてこれまでのような思いのままお待ちください。今回漏れても、最後に赦免がないなんてことがありましょうか」と慰めたが、俊寛は人目もかまわず泣きもだえるのだった。 

(三)
 すでに船出だすべしとてひしめき合へば、僧都乗つては降りつ、降りては乗つつ、あらまし事をぞし給ひける。少将の形見には夜の衾(ふすま)、康頼入道が形見には一部の法華経をぞとどめける。ともづな解いて押し出せば、僧都綱に取り着き、腰になり、脇になり、丈(たけ)の立つまでは引かれて出、丈も及ばずなりければ、船に取り着き、「さていかにおのおの、俊寛をばつひに捨て果て給ふか。これほどとこそ思はざりつれ。日ごろの情けも今は何ならず。ただ理を曲げて乗せ給へ。せめては九国の地まで」とくどかれけれども、都の御使ひ、「いかにも叶ひ候ふまじ」とて、取り着き給へる手を引きのけて、船をばつひに漕ぎ出だす。

 僧都せんかたなさに、渚(なぎさ)に上がり倒れ伏し、幼き者の乳母(めのと)や母などを慕ふやうに、足摺(あしずり)をして、「これ乗せて行け、具して行け」とをめき叫べども、漕ぎ行く船の習ひにて、跡は白波ばかりなり。いまだ遠からぬ船なれども、涙に暮れて見えざりければ、僧都、高き所に走り上がり、沖のかたをぞ招きける。かの松浦小夜姫(まつらさよひめ)が唐船(もろこしぶね)を慕ひつつ領布(ひれ)振りけんも、これには過ぎじとぞ見えし。さる程に、船も漕ぎ隠れ、日も暮るれども、あやしの臥処(ふしど)へも帰らず、波に足うち洗はせて、露にしをれて、その夜はそこにぞ明かされける。さりとも、少将は情け深き人なれば、よきやうに申す事もあらんずらんと頼みをかけ、その瀬に身を投げざりける心の程こそはかなけれ。昔、早離(さうり)・速離(そくり)が、海岳山(かいがくせん)へ放たれけん悲しみも、今こそ思ひ知られけれ。

【現代語訳】
 いよいよ船を出そうとして、人々が集まり騒いでいると、僧都は船に乗っては降り、降りては乗りして、いかにも連れて行ってほしいという振舞いだった。少将の形見には夜具を、康頼入道の形見には一そろえの法華経を残した。ともづなを解いて船を押し出すと、僧都は綱にしがみついて、海の水が腰までつかり、やがて脇までつかり、背が立つ所まで引かれていったが、背が立たなくなると、今度は船にしがみつき、「それでもあなた方は、俊寛をとうとう捨ててしまわれるのか。これほど薄情とは思わなかった。これまでの友情も今は何にもならない。ただ道理を曲げてでも乗せて下さい。せめて九州の地まででも」と繰り返し訴えたが、都の使者は、「どうあってもかないますまい」と言って、しがみついている俊寛の手を引き離し、ついに船を漕ぎ出してしまった。


 僧都はどうしようもなく、波打ち際に倒れ伏し、幼子が乳母や母を慕って泣くように足をばたばたさせて、「おい乗せて行ってくれ、連れて行ってくれ」と、わめき叫んだが、漕ぎ行く船の常で、あとには白波が残るだけである。まだ遠くには行っていない船だったが、涙にくれて見えなかったので、僧都は高い場所に上がり、沖のほうに向かって手招きした。あの松浦小夜姫が、夫の乗る唐船を慕って領布を振ったという悲しみも、この俊寛の悲しみには及ばないように思えた。やがて船も見えなくなり、日も暮れたが、俊寛は粗末な寝所へも帰らず、波に足を洗わせ、夜露に濡れたまま、その夜はそこで明かしてしまった。それでも、少将は情け深い人だから、よいようにとりなしてくれることもあろうと当てにして、その時に海に身投げしなかった心の内は頼りない感じであった。昔、早離・速離の兄弟が海岳山に捨てられたという悲しみも、俊寛は今まさに思い知ったのだった。
 
(注)松浦小夜姫・・・『万葉集』にある伝説。大伴狭手彦が任那に遣わされたとき、妻の小夜姫が松浦山に登って領布を振って別れを惜しんだ。
(注)早離・速離・・・仏教説話にある話。

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御産

 法皇仰せなりけるは、「いかなる御物気(もののけ)なりとも、この老法師(おいぼふし)がかくて候はらんには、いかでか近づき奉るべき。就中(なかんづく)に今あらはるる処(ところ)の怨霊(をんりやう)共は、皆わが朝恩(てうおん)によつて、人となりたる者ぞかし。たとひ報謝(ほうしや)の心をこそ存ぜずとも、豈障碍(あにしやうげ)をなすべきや。速やかに罷(まか)り退き候へ」とて、「女人(によにん)生産(しやうさん)し難からん時に臨んで、邪魔遮障(じやましやしやう)し、苦(く)忍び難からんにも、心を致して大非呪(だいひしゆ)を称誦(しようじゆ)せば、鬼人(きじん)退散して、安楽に生ぜん」と、遊ばいて、皆水晶(みなずいしやう)の御数珠(おんじゆづ)、おし揉ませ給へば、御産平安(ごさんへいあん)のみならず、皇子にてこそましましけれ。

 頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、その時はいまだ中宮の亮(すけ)にておはしけるが、御簾(ぎよれん)の内よりつつと出でて、「御産平安、皇子(みこ)御誕生候ぞや」と、高らかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、おのおのの助修(じよしゆ)、数輩(すはい)の御験者(おんげんじや)、陰陽頭(おんやうのかみ)、典薬頭(てんやくのかみ)、すべて堂上堂下(たうしやうたうか)一同にあつと悦(よろこ)び合へる声、門外までどよみて、しばしは静まりやらざりけり。入道相国あまりの嬉しさに、声をあげてぞ泣かれける。悦泣(よろこびなき)とはこれをいふべきにや。

【現代語訳】
 法皇が仰せになるには、「どんな御物の怪であっても、この老法師がこうしてお側にございますからには、どうして中宮に近づくことができようか。中でも今現れている所の怨霊どもは、皆わが皇室の恩によって、一人前になった者どもだ。たとえ恩に報いる気持がないとしても、どうして妨げをなしてよいことがあろうか。すみやかに退きなさい」といって、「女人が出産し難い時に臨み、悪鬼が邪魔して、苦しみが耐え難いとしても、誠を尽くして大悲呪の陀羅尼を唱えれば、鬼神は退散して、安楽に生まれるだろう」と、千手経をお読みになって、みな水晶づくりの御数珠をおし揉まれると、御安産だったのみならず、お生まれになったのは皇子(後の安徳天皇)でいらっしゃった。

 頭中将重衡(清盛の五男)は、その時はいまだ中宮の亮(次官)でいらしたが、御簾の内からつっと出て、「御安産、皇子ご誕生でございますぞ」と高らかに申されたので、法皇を始め、関白殿以下の大臣、公卿、殿上人、それぞれの助手の僧、大勢の御験者、陰陽寮の長官、典薬寮の長官、その他全ての人々が一同に声をそろえて、ああと喜びあう。その声が門の外まで響きわたって、しばらく鎮まらなかった。入道相国はあまりの嬉しさに、声をあげて泣かれた。喜び泣きとはこのことを言うのであろうか。

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医師問答

(一)
 小松の大臣(おとど)は、かやうの事どもに、よろづ心細くや思はれけん、そのころ熊野参詣の事ありけり。本宮証誠殿(ほんぐうしようじやでん)の御前にて、夜もすがら敬白(けいびやく)せられけるは、

「親父(しんぶ)入道相国の体(てい)を見るに、悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして、ややもすれば君を悩まし奉る。そのふるまひを見るに、一期(いちご)の栄花なほ危し。重盛長子として、しきりに諫(いさ)めを致すといへども、身(み)不肖(ふせう)の間、彼(かれ)以て服膺(ふくよう)せず。枝葉(しえふ)連続して、親(しん)を顕(あらは)し、名を揚げん事難し。この時に当つて、重盛いやしくも思へり。なまじひに列して、世に浮沈せん事、敢へて良臣孝子(りやうしんかうし)の法にあらず。しかじ、名を逃れ身を退いて、今生(こんじょう)の名望(めいばう)を投げ棄てて、来世の菩提(ぼだい)を求めんに。但し凡夫薄地(ぼんぷはくぢ)、是非に惑へるが故に、猶心ざしを恣(ほしいまま)にせず。南無権現金剛童子(なむごんげんこんがうどうじ)、願はくは子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくは、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀また一期(いちご)を限つて、後昆(こうこん)恥に及ぶべくは、重盛が運命を縮(つづ)めて、来世の苦輪(くりん)を助け給へ。両箇(りやうか)の求願(ぐぐわん)、ひとへに冥助(みやうじよ)を仰ぐ」

と、肝胆(かんたん)をくだひて祈念せられけるに、灯篭の火のやうなる物の、大臣(おとど)の御身より出でて、はつと消ゆるが如くして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れてこれを申さず。

【現代語訳】
 小松の大臣(平重盛)は、このようなことをお聞きになり、万事に心細く思われたのだろうか、そのころ熊野参詣に行かれた。本宮証誠殿の御前で、一晩中、敬い申し上げたことは、

「わが父、入道相国の様子を見るに、悪逆無道で、ともすれば君を悩まし申し上げております。重盛は長子として、しきりに諌めておりますが、我が身が不肖であるため、父は承服しません。その振舞いを見るに、一代の栄華すら危ないことです。子孫が続いて、親を顕彰し、名を揚げることは困難です。この時に当たって、重盛はいやしくも思います。なまじ大臣の位に列して、俗世の間に浮き沈みすることは、決してよき家臣、よき子の道ではない。名声を逃れ、身を退いて、現世の名望を投げ捨て、来世の菩提を求めるには及ばない、と。しかし、無知な凡夫のこと、是非の判断に迷うがゆえに、なお出家の志をできないでいます。南無権現金剛童子、願わくは子孫の繁栄が続き、朝廷のお仕えに入れていただけるのなら、入道の悪心を和らげて、天下の安全が得られるようになさってください。栄華が一代限りのことで子孫に恥が及ぶようなら、重盛の命を縮めて、末世における苦しみをお助けください。これら二つの願いについて、ひとえに御神のお助けを仰ぎます」

と、心胆を砕いて祈念なさったところ、灯籠の火のようなものが、大臣の御身から出て、ぱっと消えるようにして失せてしまった。大勢の人が見ていたけれども、恐れてこれについて話さない。

(二)
 同(おなじき)七月廿八日、小松殿出家し給ひぬ。法名(ほふみやう)は浄蓮(じやうれん)とこそつき給へ。やがて八月一日(ひとひのひ)、臨終正念(りんじゆううしやうねん)に住(ぢゆう)して、遂に失せ給ひぬ。御年(おんとし)四十三。世は盛りと見えつるに、哀れなりし事共なり。入道相国の、さしも横紙を破られつるも、此人のなほしなだめられつればこそ、世もおだしかりつれ、この後天下(てんか)にいかなる事か出でこんずらむとて、京中の上下歎(なげ)き合へり。

【現代語訳】
(中略) 同年七月二十八日、小松殿は出家なさった。法名は浄蓮とつけられた。やがて八月一日、臨終正念のうちに、ついにお亡くなりになった。御年四十三。盛りの年頃と見えたのに、痛ましいことである。入道相国があれほど横紙破りであったのも、この人が直し宥められたからこそ、世も平穏であったのに、今後、天下にどのようなことが起こるだろうと、京中の上下は嘆きあった。

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都 遷~巻第五

 治承四年六月三日の日、福原へ行幸(ぎやうこう)あるべしとて、京中ひしめきあへり。「この日ごろ、都遷(みやこうつ)りあるべしと聞こえしかども、たちまちに今明(きんみやう)の程とは思はざりつるに、こはいかに」とて、上下(じやうげ)騒ぎあへり。あまつさへ三日と定められたりしが、いま一日引き上げて二日になりにけり。

 二日の卯刻(うのこく)に、すでに行幸の御輿(みこし)を寄せたりければ、主上(しゆしやう)は今年三歳、いまだ幼(いとけな)うましましければ、何心もなう召されけり。主上幼う渡らせ給ふ時の御同與(ごどうよ)には、母后(ぼこう)こそ参らせ給ふに、これはその儀なし。御乳母(おんめのと)、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただきやう)の北の方、帥(そつ)の典侍殿(すけどの)ぞ、一つ御輿(おんこし)には参られける。中宮(ちゆうぐう)、一院(いちゐん)、上皇、御幸(ごかう)なる。摂政殿を始め奉つて、太上大臣以下の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、我も我もと供奉(ぐぶ)せらる。三日、福原へいらせ給ふ。

【現代語訳】
 治承四年六月三日、福原へ行幸があるだろうというので、京中が騒動となった。「近々、遷都があるだろうと噂されていたが、たちまちに、今日、明日のこととは思わなかったのに、これはどうしたことか」といって、身分の上下なく騒ぎあった。その上、三日と決められていたのだが、もう一日繰り上げて二日になった。

 二日の卯の刻(午前六時)までに、行幸の御輿を寄せたので、安徳天皇は今年三歳、いまだ幼くいらっしゃるので、何も考えずにお乗りになった。天皇が幼くいらっしゃる時に同じ御輿にお乗りになるのに、本来は母后が参られるものだが、今回はそうではない。御乳母の、平大納言時忠卿の北の方、帥の典侍殿が、同じ御輿にお乗りになった。中宮(建礼門院)、一院(後白河法皇)、上皇(高倉上皇)も御幸なさる。摂政殿(藤原基通)をはじめ、太政大臣以下の公卿、殿上人は、我も我もとお供なさる。三日、福原にお入りになる。

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月 見

(一)
 六月九日の日、新都の事始め、八月十日上棟(じやうとう)、十一月十三日遷幸(せんかう)と定めらる。古き都は荒れゆけば、今の都は繁昌(はんじやう)す。あさましかりける夏も過ぎ、秋にもすでになりにけり。やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月を見んとて、あるいは源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨(すま)より明石の浦伝ひ、淡路の瀬戸を押し渡り、絵島が磯の月を見る。あるいは白良(しらら)・吹上(ふきあげ)・和歌の浦・住吉・難波(なには)・高砂(たかさご)・尾上(をのへ)の月の曙(あけぼの)をながめて帰る人もあり。旧都に残る人々は、伏見・広沢の月を見る。

 その中にも徳大寺左大将実定卿(とくだいじのさだいしやうじつていのきやう)は、古き都の月を恋ひて、八月十日余りに、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆変はり果てて、まれに残る家は、門前草深くして、庭上(ていしやう)露しげし。蓬(よもぎ)が杣(そま)、浅茅(あさぢ)が原、鳥の臥所(ふしど)と荒れ果てて、虫の声々恨みつつ、黄菊(くわうきく)・紫蘭(しらん)の野辺(のべ)とぞなりにける。

 故郷の名残とては、近衛河原(このゑかはら)の大宮ばかりぞましましける。大将その御所に参つて、まづ随身(ずいじん)に惣門(そうもん)を叩かせらるるに、内より女の声して、「誰(た)そや、蓬生(よもぎふ)の露うち払ふ人もなき所に」と咎(とが)むれば、「福原より大将殿の御参り候ふ」と申す。「惣門は錠(ぢやう)のさされて候ふぞ。東面(ひんがしおもて)の小門(こもん)より入(い)らせ給へ」と申しければ、大将、「さらば」とて東の門より参られけり。

 大宮は御つれづれに、昔をや思し召し出でさせ給ひけん、南面(みなみおもて)の御格子(みかうし)上げさせて、御琵琶(おんびは)遊ばされけるところに、大将参られたりければ、「いかに夢かや現(うつつ)か、これへこれへ」とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、優婆塞宮(うばそくのみや)の御娘、秋の名残を惜しみ、琵琶を調べて、夜もすがら心を澄まし給ひしに、有明の月の出でけるを、なほ堪へずやおぼしけん、撥(ばち)にて招きた給けんも、今こそ思ひ知られけれ。

【現代語訳】
 六月九日には新都の起工式、八月十日には内裏の上棟式、十一月十三日には福原の仮御所から新しい内裏へ帝がお遷りになると決められた。古い都は荒れ果てていき、新都は繁栄していく。あきれるような事件が多かった夏も過ぎ、もう秋になってしまった。いよいよ秋も半ばになり、福原の新都の人々は、名所の月を見ようとして、ある人は『源氏物語』の光源氏の大将がわび住まいをされた旧跡をを慕い、須磨から明石の海岸を船で渡り、絵島が磯の月を見る。またある人は、紀伊の国の白良・吹上・和歌の浦、摂津の国の住吉・難波、播磨の国の高砂・尾上あたりの明け方の月を眺めて帰ってくる。旧都に残った人々は、伏見や広沢の月を見るのだった。

 そんな人々の中でも、徳大寺左大将実定卿は、古い都の月を恋しく思い、八月十日過ぎに、福原から上京なさった。京は何もかも変わり果てて、まれに残っている家は門前に草が深く茂り、露がしとどに降りている。蓬の杣山か浅茅が原か、鳥のねぐらかと思うほどに荒れ果て、虫の声があちこちに悲しげで、黄菊や紫蘭の野原と化していた。


 昔の故郷の名残として訪ねるべきは、近衛河原の大宮だけだった。大将はその御所に参上して、まず随身に正門をたたかせなさった。すると、中から女の声で、「どなたですか。蓬の露を打ち払う人もいないこんな家に訪ねてこられるのは」と聞きとがめたので、「福原から大将殿が参上なさったのです」と随身が申し上げた。女の声が「正門は鍵がかかっております。どうぞ東側の小門からお入りください」と言ったので、大将は、「それならば」とおっしゃって、東の門からお入りになった。

 大宮は、退屈さに昔を思い出しておられたのか、南面の格子を上げさせて琵琶を弾いていらっしゃったが、大将が参上なさったので、「これはまあ夢でしょうか現実でしょうか、こちらへこちらへ」とおっしゃった。『源氏物語』の宇治の巻には、優婆塞宮の御娘が秋の名残を惜しんで琵琶を弾き、夜通し心を澄ましていらっしゃると、有明の月に感動を抑えがたく、琵琶の撥で月をお招きになったとあり、大将は、この大宮の振舞いを見て、その情景が今こそしみじみと感じられたのである。
 
(注)近衛河原の大宮・・・藤原多子。実定の妹。近衛・二条両天皇の皇后となった。

(二)
 待宵(まつよひ)の小侍従(こじじゆう)といふ女房も、この御所にぞ候ひける。この女房を待宵と申しけることは、ある時御所にて、「待つ宵、帰る朝(あした)、いづれかあはれは優(まさ)れる」と御尋ねありければ、

  待つ宵の更けゆく鐘の声聞けば帰る朝(あした)の鳥はものかは

と詠みたりけるによつてこそ、待宵とは召されけれ。大将、かの女房呼び出だし、昔今(むかしいま)の物語して、小夜(さよ)もやうやう更け行けば、古き都の荒れ行くを今様(いまやう)にこそ歌はれけれ。

  古き都を来てみれば 浅茅が原とぞ荒れにける
  月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ


と三べん歌ひ澄まされければ、大宮を始め参らせて、御所(ごしよ)中の女房たち、皆袖をぞ濡らされける。

 さる程に夜も明けければ、大将いとま申して、福原へこそ帰られけれ。御供に候ふ蔵人(くらうど)を召して、「侍従があまり名残惜しげに思ひたるに、汝(なんぢ)帰つて、何とも言ひて来よ」と仰せければ、蔵人走り帰つて、「かしこまり申せと候ふ」とて、

  物かはと君が言ひけん鳥の音(ね)の今朝しもなどか悲しかるらん

 女房涙をおさへて、

  待たばこそ更けゆく鐘もものならめ飽かぬ別れの鳥の音ぞ憂き

 蔵人帰り参つて、この由を申したりけりば、「さればこそ汝を遣はしつれ」とて、大将大きに感ぜられけり。それよりしてこそ、物かはの蔵人とは言はれけれ。

【現代語訳】
 待宵の小侍従という女房も、この御所にお仕えしていた。この女房を「待宵」というわけは、ある時、御所で、「愛する人を待ち焦がれる宵と、愛する人が帰るのを見送る朝と、どちらがしみじみとするか」とお尋ねがあったとき、

 
恋しい人を待ち続ける宵が更けていき、時が過ぎ行く鐘の音を聞くのはやるせないものの、それに比べると、恋しい人が帰らなければならない朝を告げる鳥の声などものの数ではありません。

と見事に詠んだために、「待宵」と名づけられたのだった。大将はその女房を呼び出して、共に昔や今の話をしていたが、夜もしだいに更けていき、古い都が荒れていく様を今様にしてお歌いになった。

 
古い都に来てみると、今はもう浅茅が原となって荒れてしまった、月の光は明るく冴え渡り、秋風だけが身に染み渡る。

と三回繰り返して見事にお歌いになったので、大宮をはじめ御所の女房たちは、皆涙で袖をお濡らしになった。


 そうしているうちに夜が明け、大将はおいとまを申して福原へお帰りになった。その後、お供に伺候していた蔵人をお呼びになり、「別れる時、小侍従があまりに名残惜しそうにしていたから、お前は京に引き返して、何なりと一言言って来い」とおっしゃった。蔵人は走って引き返し、「ご挨拶を申し上げて来い、とのお言葉がありました」と言って、

 
ものの数ではないとおっしゃった鳥の声が、今朝に限ってどうしてこんなに悲しいのか。

と詠んで歌を贈った。女房は涙を抑えて、

 
訪れるはずの恋しい人を待つときの、更けゆく夜の鐘の音はやるせなく辛いものです。でも、大将殿が思いがけなくおいでになられ、名残尽きない別れを急き立てるかのような鳥の声こそが、ほんとうに辛いのです。

と返した。蔵人は福原に帰って、この次第を申し上げると、大将は、「そういう機転が利くからお前を遣わしたのだ」と言って、大いに感心された。それ以来、この蔵人を「ものかはの蔵人」と呼ぶようになった。

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富士川

 さる程に十月廿三日にもなりぬ。あすは源平富士河(ふじがは)にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて、平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓等が軍(いくさ)に恐れて、或(ある)いは野に入り山に隠れ、或いは舟に取り乗つて、海河(うみかは)に浮かび、営(いとなみ)の火の見えけるを、平家の兵(つはもの)ども、「あなおびたたしの源氏の陣の遠火(とほび)の多さよ。げにもまことに野も山も、海も河も、みな敵(かたき)でありけり。いかがせん」とぞあわてける。

 その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらもむれゐたるける水鳥(みづとり)どもが、何にか驚きたりけん、ただ一度にばつと立ちける羽音(はおと)の、大風(おほかぜ)(いかづち)なんどの様(やう)に聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤別当が申しつる様に、定めて搦手(からめて)も廻るらん。取りこめられてはかなふまじ。ここをばひいて、尾張河(おはりがは)洲保(すのまた)を防げや」とて、取る物も取りあへず、我れ先にとぞ落ち行きける。

 あまりにあわて騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、人の馬には我れ乗り、我が馬をば人に乗らる。或いは繋いだる馬に乗つて馳すれば、杭をめぐる事かぎりなし。近き宿々(しゆくじゆく)よりむかへとつて遊びける游君遊女(いうくんいうぢよ)ども、或いは頭(かしら)(け)わられ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。

 あくる廿四日の卯刻(うのこく)に、源氏大勢廿万騎、富士河に押し寄せて、天も響き大地もゆるぐ程に、時をぞ三ケ度(さんがど)、つくりける。

【現代語訳】
 そのうちに十月二十三日となった。明日は源平が富士川で矢合わせをすると決めていたのだが、夜になって平家の方から源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の民百姓らが、合戦を恐れて、あるいは野に逃げ山に隠れ、あるいは舟に乗って海や河に浮かび、炊事の火が見えたのを、平家の兵士どもは、「ああ、源氏の陣の遠火の多いことよ。全く本当に、野も山も、海も河も、みな敵でいっぱいだ。どうしよう」とあわてた。

 その夜の夜半ごろ、富士川の沼に数多く群らがっていた水鳥どもが、何に驚いたのか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵士たちは、「そら、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斎藤別当実盛が申したように、きっと背後にも回っているだろう。取り囲まれてはかなわない。ここを退却して、尾張川(木曽川)、墨俣を守れや」といって、取る物も取りあえず、我先にと落ちていった。

 あまりにあわて騒いで、弓を取った者は矢を見つけず、矢を取った者は弓を見つけない。人の馬には自分が乗り、自分の馬は人に乗られる。ある者はつないだままの馬に乗って駆け出すと、杭の周囲を際限なく走りめぐる。近くの宿場宿場から呼んできて遊んでいた遊女どもは、あるいは逃げる兵士に頭を蹴り割られ、あるいは腰を踏み折られて、わめき叫ぶ者が多かった。

 翌二十四日の卯の刻(午前6時)に、源氏の大軍二十万騎が、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺れ動くほどに、鬨の声を、三度あげた。

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奈良炎上

 夜軍(よいくさ)になつて、暗さは暗し、大将軍頭中将(とうのちゆうじやう)、般若寺(はんにゃじ)の門の前にうつ立つて、「火をいだせ」と宣ふ程こそありけれ、平家の勢(せい)のなかに、播磨国住人(はりまのくにのぢゆうにん)、福井庄下司(ふくゐのしやうのげし)、二郎大夫友方(じらうたいふともかた)といふ者、楯(たて)をわり、たい松にして、在家(ざいけ)に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なりければ、風は烈(はげ)しし、火本(ほもと)は一つなりけれども、吹きまよふ風に、多くの伽藍(がらん)に吹きかけたり。

 恥をも思ひ、名をも惜しむ程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にして討たれにけり。行歩(ぎやうぶ)にかなへる者は、吉野十津河(よしのとつかは)の方(かた)へ落ち行く。歩みも得ぬ老僧や、尋常なる修学者(しゆがくしや)、児(ちご)ども、女童(をんなわらんべ)は、大仏殿の二階の上、山階寺(やましなでら)の内へわれ先にとぞ逃げゆきける。大仏殿の二階の上には、千余人登り上がり、敵(かたき)の続くを登せじと、橋をば引いてんげり。猛火(みやうくわ)はまさしうおしかけたり。をめき叫ぶ声、焦熱大焦熱(せうねつだいせうねつ)、無間阿毘(むけんあび)の焔(ほのほ)の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。

 興福寺は淡海公(たんかいこう)の御願(ごぐわん)、藤氏(とうじ)累代の寺なり。東金堂(とうこんだう)におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂(さいこんだう)におはします自然涌出(じねんゆしゆつ)の観世音(くわんぜおん)、瑠璃(るり)を並べし四面の廊(らう)、朱丹(しゆたん)を交へし二階の楼(ろう)、九輪(くりん)空に輝きし二基の塔、たちまちに煙(けぶり)となるこそ悲しけれ。

 東大寺は常在不滅(じやうざいふめつ)、実報寂光(じつはうじやくくわう)の生身(しやうじん)の御仏(おんほとけ)と思し召しなずらへて、聖武皇帝、手づから身づから磨きたて給ひし。金銅十六丈の廬遮那仏(るしやなぶつ)、烏瑟(うしつ)高くあらはれて、半天(はんでん)の雲にかくれ、白毫(びやくがう)(あらた)に拝まれ給ひし、満月(まんぐわつ)の尊容(そんよう)も、御頭(みぐし)は焼け落ちて大地にあり。御身(ごしん)はわきあひて山のごとし。八万四千の相好(さうがう)は、秋の月早く五重の雲におぼれ、四十一地(ぢ)の瓔珞(やうらく)は、夜の星むなしく十悪(じふあく)の風に漂ふ。

 煙(けぶり)は中天(ちゆうてん)に満ち満ち、炎は虚空に隙(ひま)もなし。まのあたりに見奉る者、さらに眼(まなこ)をあてず。はるかに伝へ聞く人は、肝魂(きもたましひ)を失へり。法相(ほつさう)、三論(さんろん)の法門聖教(ほふもんしやうげう)すべて一巻残らず。我が朝はいふに及ばず、天竺震旦(てんぢくしんだん)にもこれ程の法滅(ほふめつ)あるべしとも覚えず。

【現代語訳】
 夜の戦闘になり、あまりに暗いので、大将軍の頭中将が、般若寺の門の前につっ立って、「火を出せ」と言われるやいなや、平家の軍勢の中の、播磨国の住人で福井庄の庄園管理人である次郎大夫友方という者が、楯を割って松明にして、あたりの民家に火をかけた。十ニ月二十八日の夜だったので、風は激しく、火元は一つだったが、吹き回る風が多くの伽藍に火を吹きかけた。

 恥を思い、名を惜しむほどの者は、昼間の戦の奈良阪で討ち死にし、あるいは般若寺で討たれていた。歩ける者は、吉野、十津川の方へ逃げて行く。歩けない老僧や、すぐれた修学者や稚児ども、女や子供は、大仏殿のニ階の上や山階寺(興福寺)の中へ我先に逃げて行った。大仏殿の二階の上には、千余人が登り上がり、敵が続くのを登らせまいと、梯子を外してしまった。猛火はまっこうから押し寄せた。おめき叫ぶ声は、焦熱、大焦熱、無間地獄の炎の底の罪人も、これ以上ではあるまいと見えた。

 興福寺は淡海公(藤原不比等)の御願によって建てられた藤原氏代々の氏寺である。東金堂におはします、日本に初めて仏法が伝わった時の釈迦の像、西金堂におはします、自然にこの世に現れた観世音菩薩、瑠璃を並べたような四面の廻廊、朱・丹(に)をまぜて塗られた二階建ての楼台、九輪が空に輝いていた二基の塔、それらすべてがたちまちに煙となってしまうのは悲しいことであった。

 東大寺は常に存在し滅びることがなく、実報・寂光の二土に通じる生身の御仏と思い定められて、聖武天皇がご自身の手で磨きたてられた、金銅造りの高さ十六丈の盧遮那仏がおいでになる。御仏の烏瑟は高々とあり、半天の雲に隠れ、白毫をあらたかに、天皇は拝まれていた。満月のような尊いお姿も、今は御頭は焼けおちて地上にあり、御体は溶けて流れて山のようである。八万四千の相があるという仏の顔かたちは、秋の月がたちまち雲に隠れるように五逆重罪に沈み、四十一地の瓔珞は、夜の星が風に漂うようようにむなしく十悪の中に捨てられている。

 煙は中天に満ち満ち、炎は虚空に隙間なく上がっている。目の前に拝見する者は、まったく目を向けることができない。遠くで伝えきく人は、肝魂を失った。法相宗(興福寺)、三論宗(東大寺)の法文・経文はすべて一巻も残らない。わが国はいうに及ばず、天竺、中国にも、これ程の法滅があるとは思えない。

(注)烏瑟・・・仏像の肉髻(にくけい)。仏の頭の上の一段高くなった部分。
(注)白毫・・・仏の眉間にある白い巻き毛。
(注)瓔珞・・・仏像の装身具、または仏堂・仏壇の荘厳具。

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都帰り

 今度(こんど)の都遷(みやこうつ)りをば、君も臣も御歎(おんなげ)きあり。山、奈良を始めて、諸寺諸社に至るまで、しかるべからざるよし一同に訴へ申す間、さしも横紙(よこがみ)を破らるる太政入道(だいじやうのにふだう)も、「さらば都帰りあるべし」とて、京中ひしめきあへり。
 
 同十二月二日、にはかに都帰りありけり。新都は、北は山に沿ひて高く、南は海近くして下れり。浪の音常はかまびすしく、潮風激しき所なり。されば新院、いつとなく御悩(ごなう)のみしげかりければ、いそぎ福原を出でさせ給ふ。摂政殿を始め奉つて、太政大臣以下の公卿、殿上人、我も我もと供奉(ぐぶ)せらる。入道相国(にふだうしやうこく)を始めとして、平家一門の公卿、殿上人、我先にとぞ上られける。誰(たれ)か心うかりつる新都に片時も残るべき。

【現代語訳】
 今度の遷都を、君も臣も嘆いておられた。延暦寺や興福寺をはじめとして、末端の寺社に至るまで、遷都などすべきでなかったと共同で訴え申したので、あれほど強引な太上入道(平清盛)も、「それなら京都に戻ろう」と言い出して、京中は大騒ぎになった。

 同年十ニ月二日、にわかに還都が行われた。新都は、北は山に沿って高く、南は海に近く下っていて、波の音が常にうるさく、潮風が激しい所である。そのため、新院(高倉上皇)は、いつからとなくご病気がちであられたので、急いで福原をお出でになった。摂政殿(藤原基通)をはじめ、太政大臣以下の公卿、殿上人は、我も我もとお供なさった。入道相国をはじめとした平家一門の公卿、殿上人も、我れ先に上られた。誰がうんざりするような新都に、片時も残りたいものか。

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入道死去~巻第六

(一)
 そののち四国のつはものども、皆、河野四郎に従ひつく。熊野別当歎増(くまのべつたうたんぞう)も、平家重恩の身なりしが、それも背いて、源氏に同心の由(よし)聞こえけり。およそ東国・北国(ほつこく)ことごとく背きぬ。南海・西海かくのごとし。夷狄(いてき)の蜂起(ほうき)耳を驚かし、逆乱(げきらん)の先表(せんべう)しきりに奏(そう)す。四夷(しい)たちまちに起これり。世はただ今失せなんずとて、必ず平家の一門ならねども、心ある人々の嘆き悲しまぬはなかりけり。

 同じき二十三日、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。前(さきの)右大将宗盛卿申されけるは、「坂東(ばんどう)へ討手(うつて)は向かうたりといへども、させるし出だしたる事も候はず。今度、宗盛、大将軍を承つて向かふべき由、申されければ、諸卿色代して、「ゆゆしう候ひなん」と申されけり。公卿・殿上人も、武官に備はり、弓箭(きゆうせん)に携はらん人々は、宗盛卿を大将軍にて、東国・北国の凶徒(きようと)ら追討すべき由、仰せ下さる。

 同じき二十七日、前右大将宗盛卿、源氏追討のために、東国へすでに門出(かどいで)と聞こえしが、入道相国、違例の御心地とてとどまり給ひぬ。明くる二十八日より、重病を受け給へりとて、京中・六波羅、「すは、しつる事を」とぞささやきける。入道相国、病つき給ひし日よりして、水をだに喉へも入れ給はず。身の内の熱きこと火をたくが如し。臥し給へる所、四五間(けん)が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。ただ宣ふ事とては、「あたあた」とばかりなり。少しもただ事とは見えざりけり。比叡山より千手井(せんじゆゐ)の水を汲み下し、石の船にたたへて、それに降りて冷え給へば、水おびただしく沸き上がつて、程なく湯にぞなりにける。もしや助かり給ふと、筧(かけひ)の水をまかせたれば、石や鉄(くろがね)などの焼けたるやうに、水ほとばしつて寄りつかず。おのづから当たる水は、焔(ほむら)となつて燃えければ、黒煙(くろけぶり)殿中に満ち満ちて、炎(ほのほ)渦巻いて上がりけり。これや、昔、法蔵僧都(はふざうそうづ)と言つし人、閻王(えんわう)の請(しやう)に赴いて、母の生所(しやうじよ)を尋ねしに、閻王あはれみ給ひて、獄卒(ごくそつ)を相添へて焦熱地獄へ遣はさる。鉄の門の内へさし入れば、流星(りうしやう)などの如くに、炎空へ立ち上がり、多百(たひやく)由旬(ゆじゆん)に及びけんも、今こそ思ひ知られけれ。

【現代語訳】
 その後、四国の武士たちは皆、河野四郎に従いついた。熊野別当歎増も、平家に深い恩義のある身だったが、これも平家に背いて源氏に味方することが伝えられた。およそ東国・北国のほとんどが平家に背き、南国・西国もこのような状況である。地方の賊徒の蜂起の知らせに驚き、動乱の前兆となるような争乱が次々に朝廷に報告された。四方の賊徒たちが突如として起こったのだ。世の中がたちまち滅びるだろうと、必ずしも平家一門だけでなく、心ある人々で嘆き悲しまない者はなかった。

 同じ月(治承五年二月)二十三日、公卿の評議が行われた。前右大将宗盛卿が法皇に、「関東へ頼朝追討の軍が向かいましたが、さしたる成果はあげていません。今度は宗盛が大将軍として向かうつもりです」との旨を申し上げたので、公卿たちはお追従で、「きっと素晴らしい成果をおあげでしょう」と言った。法皇からは、「公卿・殿上人も武官の職にあり弓矢のことに携わっている者たちは、宗盛卿を大将軍として、東国・北国の謀反人どもを追討すべし」とのお言葉が下った。

 同じ月の二十七日、前右大将宗盛卿が、源氏追討のため、東国へいよいよ出発するはずだったが、入道相国がご病気だというので、出発は中止なさった。翌二十八日から病が重くなり、京じゅうでも六波羅でも、「それ見たことか」とささやいていた。入道相国は発病の日以降、水さえ喉を通されない。体の熱は火を焚くようだった。横になっていらっしゃる部屋の四、五間以内に近づく者は、熱さに堪えられない。入道相国がおっしゃるのは、ただ「熱い、熱い」とばかりである。全く尋常なこととは見えなかった。比叡山から千手井の水を汲み下ろし、石造りの水槽に満たして、それに入って冷やされると、水がひどく湧き上がり、まもなく湯になってしまった。もしやお助かりになるかと、筧の水を身体に注ぎかけたところ、石や鉄などが焼けたように水が飛び散って身体に寄りつかない。たまたま身体に当たった水は炎となって燃え、黒煙が御殿じゅうに満ちて炎が渦巻いて上がった。これは、昔、法蔵僧都という人が閻魔王に招かれて行き、泣き母が生まれ変わった所を尋ねたところ、閻魔王が憐れんで獄卒をつけて焦熱地獄へお遣わしになった。その鉄の門の中へ入ると、流星のように炎が空へ立ち上がり、その高さが数千里に及んだという話があるが、この入道相国の有様には及ばないだろうと、つくづく思われた。
 
(注)千手井・・・比叡山にある井戸。
(注)法蔵僧都・・・第四十六代の東大寺別当。

(二)
 入道相国の北の方二位殿の、夢に見給ひける事こそ恐ろしけれ。猛火のおびたたしく燃えたる車を、門(かど)の内へやり入れたり。前後に立ちたる者は、あるいは馬の面(おもて)のやうなる者もあり。あるいは牛の面のやうなる者もあり。車の前には、「無」といふ文字ばかり見えたる鉄の札をぞ立てたりける。二位殿夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御尋ねあれば、「閻魔(えんま)の庁とり、平家太政(だいじやう)入道殿の御迎ひに参つて候ふ」と申す。「さてその札は何といふ札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提金銅(なんえんぶだいこんどう)十六丈の盧遮那物(るしやなぶつ)、焼き滅ぼし給へる罪によつて、無間(むけん)の底に堕(だ)し給ふべき由、閻魔の庁に御定め候ふが、無間の無を書かれて、間の字をば未だ書かれぬなり」とぞ申しける。

 二位殿うちおどろき、汗水になり、これを人々に語り給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。霊仏・霊社に金銀(こんごん)七宝(しつぽう)を投げ、馬・鞍・鎧(よろひ)・甲(かぶと)・弓・矢・太刀・刀に至るまで、取り出で運び出し祈られけれども、そのしるしもなかりけり。男女の君達(きんだち)、跡枕(あとまくら)にさし集(つど)ひて、いかにせんと嘆き悲しみ給へども、かなふべしとも見えざりけり。

 同じき閏(うるふ)二月二日、二位殿、熱う堪へ難けれども、御枕(おんまくら)の上に寄つて、泣く泣く宣ひけるは、「御ありさま見奉るに、日に添へて頼み少なうこそ見えさせ給へ。この世におぼし召し置くことあらば、少し物の覚えさせ給ふ時、仰せ置け」とぞ宣ひける。入道相国、さしも日ごろはゆゆしげにおはせしかども、まことに苦しげにて、息の下に宣ひけるは、「われ、保元・平治よりこのかた、度々(どど)の朝敵を平らげ、勧賞(けんじやう)身に余り、かたじけなくも帝祖・太政大臣に至り、栄華子孫に及ぶ。今生(こんじやう)の望み一事も残るところなし。ただし思ひ置く事とては、伊豆の流人、前兵衛佐頼朝(さきのひやうゑのすけよりとも)が首を見ざりつるこそ安からね。われいかにもなりなん後は、堂塔をも建て、孝養をもすべからず。やがて討手を遣はし、頼朝が首をはねて、わが墓の前に掛くべし。それぞ孝養にてあらんずる」と宣ひけるこそ罪深けれ。

【現代語訳】
 入道相国の奥方、二位殿(時子)が夢にご覧になったのは、実に恐ろしいものだった。猛火が激しく燃え上がった車を、門の中に引き入れた者があった。車の前後に立っている者は、ある者は馬のような顔で、ある者は牛のような顔の者だった。車の前には「無」という文字だけが見える鉄の札が立ててあった。二位殿が夢の中で、「その車はどこから来たのですか」とお尋ねになると、「閻魔の庁から、平家の太政入道殿のお迎えに参りました」と言う。「ところで、その札は何という札ですか」とお尋ねになると、「南閻浮提の金銅十六丈の盧遮那物を焼き滅ぼした罪で無間地獄の底に落ちるとの判決が閻魔の庁でなされ、無間の「無」をお書きになり、「間」の字をまだお書きになっていないのである」と言う。


 二位殿は夢から醒め、汗びっしょりとなり、これを人々にお話になると、聞く人はみな身の毛がよだった。そして、霊験あらたかな仏寺や神社に金・銀・七宝を寄進し、馬・鞍・鎧・甲・弓・矢・太刀・刀に至るまで取り出し、寺社に運び込んでお祈りしたが、その効験もなかった。男女のお子たちが病床を取り巻いて集まり、どうしたらよいかと嘆き悲しんだが、病気平癒がかなえられるとも見えなかった。

 同じ年の閏二月二日、二位殿は熱さに堪えがたかったが、御枕元に寄って泣く泣く、「ご容態をお見受けすると、日増しにご回復の望みは少なくなっているようにお見えです。この世にお思い残されることがございましたら、少しでもお気の確かな時におっしゃっておいてください」と言われた。入道相国は、日頃はあれほど気強くていらっしゃったが、いかにも苦しげに絶えそうな息の下から、「自分は、保元・平治の乱よりこのかた、幾度も朝敵を平らげ、恩賞は身に余るほど頂き、畏れ多くも天子の外戚として太政大臣にまでなり、栄華は子孫にまで及んでいる。現世での望みは一つも思い残すことはない。ただ思い残すのは、伊豆の国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見なかったことで、このために安心して死んでもいけない。だから、自分が死んだ後も堂や塔は建てるな、仏事や供養もしてはならない。すぐに討手を派遣して、頼朝の首をはねて私の墓の前に掛けるべし。それこそが供養だ」とおっしゃたのは、まことに罪深いことだった。

(三)
 同じき四日、病に責められ、せめてのことに板に水を沃(い)て、それに伏しまろび給へども、助かる心地もし給はず。悶絶びやく地して、遂にあつち死にぞし給ひける。馬・車の馳せ違(たが)ふ音、天も響き大地もゆるぐほどなり。一天の君、万乗(ばんじよう)の主(あるじ)のいかなる御事ましますとも、これには過ぎじとぞ見えし。今年は六十四にぞなり給ふ。老死(おいじに)といふべきにはあらねども、宿運たちまちに尽き給へば、大法秘法の効験(かうげん)もなく、神明三宝の威光も消え、諸天も擁護(おうご)し給はず。いはんや凡慮(ぼんりよ)においてをや。

 命に代はり、身に代はらんと忠を存ぜし軍旅は、堂上堂下(たうしやうたうか)に並み居たれども、これは目にも見えず、力にもかかはらぬ無常の殺鬼(せつき)をば、暫時(ざんじ)も戦ひ返さず。また帰り来ぬ死出の山、三途瀬川(みつせがは)、黄泉(くわうせん)、中有(ちゆうう)の旅の空に、ただ一所こそ赴き給ひけめ。日ごろ作り置かれし罪業(ざいごふ)ばかりや、獄卒(ごくそつ)となつて迎へに来たりけん。あはれなりし事どもなり。

 さてもあるべきならねば、同じき七日の日、愛宕(おたぎ)にて煙になし奉り、骨(こつ)をば、円実法眼(ゑんじつほふげん)首に掛け、摂津の国へ下り、経(きやう)の島にぞ納めける。さしも日本一州に名をあげ、威をふるつし人なれども、身は一時(ひととき)の煙となつて都の空に立ち上り、屍(しかばね)はしばしやすらひて、浜の真砂(まさご)に戯(たはぶ)れつつ、空(むな)しき土とぞなり給ふ。

【現代語訳】
 同じ月の四日、入道相国は病に苦しめられ、窮余の策として板に水を注いでそれに横たわったが、助かる心地がなさらない。身もだえして気絶し、また倒れて、とうとう悶死なさった。弔問客の馬や牛車の走りかう音が、天に響き大地を揺るがすほどになった。一天万乗の君主にいかなる事があっても、これ以上にはならないだろうと思われた。入道相国は今年は六十四歳だった。老衰というようなお年ではなかったが、寿命がたちまちに尽きてしまったので、大法秘法のききめもなく、神や仏の霊威も消え、諸天もお守りになれなかった。まして凡庸な人の思慮では何ともならなかった。


 入道相国の命の身代わりになろうと忠誠の心を持った数万の武士たちが御殿の上にも下にも並んでいたが、力ずくではどうしようもない死神を、たとえ少しでも戦って追い返すこともできなかった。二度と帰って来れない死出の山、三途の川、冥途の中陰の旅路へと、ただお一人で行かれたことだろう。日ごろの罪業だけが、地獄の使者として迎えに来たのだろうか。まことにしみじみと胸に迫るものだ。

 いつまでもそのままにはしておけないので、同じ月の七日に、愛宕で荼毘に付し、お骨を円実法眼が首に掛けて摂津の国へ下り、経の島に葬った。生前あれほどまでに日本全国に名をあげ、権勢をふるった人であったが、お身体は一時の煙となって都の空に立ち上り、遺骨はしばらくこの世にとどまったものの浜の真砂と混じり合い、ついにむなしく土となられたのである。

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祇園女御

 さしも御最愛と聞こえし祇園女御(ぎをんにようご)を、忠盛(ただもり)にこそ下されけれ。さて、かの女房、院の御子を孕(はら)み奉りしかば、「産めらん子、女子ならば朕(ちん)が子にせん。男子ならば忠盛が子にして、弓矢取る身に仕立てよ」と仰せけるに、すなはち男を産めり。この事、奏聞(そうもん)せんと窺(うかが)ひけれども、しかるべき便宜もなかりけるに、ある時、白河院、熊野へ御幸(ごかう)なりけるが、紀伊国(きのくに)糸鹿坂(いとがざか)といふ所に、御(おんこし)かき居(す)ゑさせ、しばらく御休息ありけり。藪(やぶ)に零余子(ぬかご)のいくらもありけるを、忠盛、袖にもり入れて御前(ごぜん)へ参り、

 いもが子ははふ程にこそなりにけれ

と申したりければ、院やがて御心得あつて、

 ただもり取りてやしなひにせよ

とぞ付けさせましましける。それよりしてこそ我が子とはもてなしけれ。この若君あまりに夜泣きをし給ひければ、院、聞こし召されて、一首の御詠(ごえい)を遊ばして下されけり。

 夜泣きすとただもり立てよ末の代に清く盛(さか)ふることもこそあれ

さてこそ、清盛とは名乗のられけれ。

【現代語訳】
 白河院は、あれほどご最愛と評判の祇園女御を、忠盛に与えられた。さて、その女房は、院の御子を妊娠していたので、「生まれてくる子が女子ならば朕の子にしよう。男子ならば忠盛の子にして武士に育てよ」と仰せになっていたが、間もなく男子を産んだ。この事を奏上しようと窺ったが、これといった機会もないでいると、ある時、白河院が熊野へ御幸され、紀伊国糸鹿坂という所に、御輿を据えさせて、しばらくご休息になった。藪にぬかごが多くあったのを、忠盛はもぎ取って袖に入れ、御前に参り、

 芋の子は、つるが這うほど成長しました(祇園女御が産んだ子は、這うほどに成長しました)。

と申したところ、院はすぐにご理解なさって、

 すぐにつみ取って養いの糧にせよ(忠盛が引き取って養子にせよ)。

とお付けになった。それ以来、わが子として養育したのである。この若君は、あまりに夜泣きをなさるので、院がお聞きになって、一首の御詠をお詠みになって下された。

 
夜泣きをするといっても、ただ守り育てよ。後の世には清く盛えることもあろう。

それで清盛と名乗られたのだ。

(注)忠盛・・・平忠盛。清盛の父。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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平清盛の略年譜

1118年
平忠盛の長男として生まれる
(白河天皇の落胤説あり)
1120年
清盛の生母が死去
1132年
父・忠盛が武士として初めて昇殿を許される
1135年
父・忠盛が従四位下に叙される
1137年
清盛が肥後守に任ぜられる(20歳)
1138年
平時子と結婚
1146年
安芸守に任ぜられる(29歳)
1153年
父が死去、平氏一門の棟梁となる(36歳)
1156年
保元の乱が勃発。後白河天皇側につき源義朝とともに源為義、平忠正らを討つ
播磨守に任ぜられる
1158年
太宰大弐に任ぜられる
1159年
平治の乱が勃発。源義朝と戦い勝利
1160年
参議に任ぜられ、武士初の公卿となる(43歳)
1161年
中納言に任ぜられる
後白河上皇に嫁いだ妻の妹の滋子が、皇子(高倉天皇)を生む
1165年
大納言に任ぜられる(48歳)
1166年
内大臣に任ぜられる
1167年
太政大臣に任ぜられるが、3か月で辞任(50歳)
1168年
出家(51歳)
厳島神社を大規模に造営する
1169年
福原(神戸市)に別荘を建て、住まいとする
1171年
娘の徳子が入内
1173年
大輪田泊を改修
1177年
鹿ケ谷の陰謀が発覚、平家に対立する院近臣を一掃する
1179年
後白河法皇を幽閉、院政を停止する
1180年
福原に遷都するが、6か月で還都
源頼朝が伊豆で挙兵
1181年
熱病に倒れ死去(64歳)

平清盛の子女
 重盛
 基盛
 宗盛
 知盛
 重衡
 徳子(建礼門院)
 盛子
 完子

前半部のあらすじ

巻第1~第6の前半部では、平家一門の興隆と栄華と、それに反発する反平家勢力の策謀などが語られる。刑部卿(ぎょうぶきょう)平忠盛(たいらのただもり)の昇殿によって宮廷社会に地歩を築いた平家は、その子の清盛の代になって大きく飛躍し、武士で初めて太政大臣の栄位に上る。しかし、権勢を掌握した清盛は、しだいに世を世とも思わぬ悪行の限りを尽くすようになる。

そうした平家のふるまいは多くの人々の反発を招き、その反感がやがて平家打倒の陰謀として結集されていく。巻第1後半から巻第3にかけて展開する鹿ヶ谷(ししがたに)陰謀の物語、巻第4の1巻にわたって語られる源三位頼政(げんざんみよりまさ)の挙兵の物語がそれで、いずれも事前に発覚して惨めな失敗に終わるが、源頼政の奉じた以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が諸国の源氏の決起を促し、源頼朝、木曽義仲の挙兵となり、その騒然とした情勢のなかで、清盛は熱病にかかり悶死を遂げる。

鹿ケ谷の陰謀

治承元年(1177年)5月末、鹿ケ谷の陰謀は、謀議に同席していた多田行綱が清盛に密告して発覚。行綱が密告した理由は、もし陰謀が発覚したら、最初に処罰されるのは摂津源氏の血を引く自分だと恐れた、あるいは鹿ケ谷の面々が頼りなく感じられたからともいわれる。これを聞いた清盛は激怒し、ただちに首謀者格の西光と藤原成親を呼び出し、西光を拷問にかけすべてを白状させて斬首、成親を流罪に処し、流刑地で殺害。また、平康頼、藤原成親、俊寛らは鬼界ケ島へ流罪とした。

陰謀の関係者をすばやく処断した清盛だが、同じく謀議に参加した後白河法皇は追求せず、西光の自白内容を提出し、「このような次第なので、こちらで処罰した」旨の報告にとどめた。清盛は、今後強大な政敵になるであろう西光と成親を排除できれば充分と考え、また後白河法皇にはまだ利用価値があると考え手を出さなかったものと見られている。

なお、平康頼、藤原成親とともに鬼界ケ島へ流罪となった俊寛は、恩赦によって康頼らが帰京したときも、一人許されずそのまま流刑地で生涯を閉じた。一説には、俊寛だけが許されなかったのではなく、恩赦が出された時点ですでに死去していたともいわれる。

安徳天皇

清盛の娘・徳子は、清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内。治承2年(1178年)に、徳子が、第一皇子を出産し、誕生の翌年には東宮(皇太子)となる。治承三年の政変で後白河法皇を幽閉して院政を停止した清盛は、高倉天皇に譲位させ、わずか3歳の安徳天皇を即位させる。天皇の血縁者となった清盛は、幼帝に代わって、ますます権威を振りかざすようになる。

譲位した高倉上皇は、最初の御幸先に、清盛が保護する厳島を選んだ。上皇が最初の参拝に赴くのは京の八幡宮や上賀茂神社などが通例で、上皇が現在の広島県にある厳島まではるばる御幸するのは異例だった。これには清盛の意向があったとされ、その後、延暦寺など京に近い寺社が反清盛の決起を企てた一因になったともいわれる。

徳子は、安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、その後、木曾義仲の進攻により一門とともに都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と母の時子は入水、平氏は滅亡する。徳子は生き残り、京に送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って生きた。

なお、安徳天皇は歴代の天皇のなかで最も短命だった天皇であり、また戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である。


(安徳天皇)

平重盛の死

仁安2年(1167年)に清盛は太政大臣に就任、同時に長男の重盛は権大納言に出世する。翌年に清盛が出家して福原の別荘に隠居してからは、重盛が棟梁として平氏一門を指揮するようになる。

しかし、治承元年(1177年)に鹿ケ谷の陰謀が発覚して藤原成親が流罪になると、重盛の心は清盛から離反しはじめた。重盛は成親の妹を妻に迎えており、清盛に成親の減刑を願い出たものの聞き入れられなかった。

重盛はさらに息子の宗実を左大臣・藤原経宗の養子としており、朝廷有力者とのつながりは深かった。このため、対立した清盛と朝廷(後白河法皇)の間にあって、深く苦悩するようになる。

治承3年(1179年)5月、京に激しいつむじ風が吹き荒れ、死者や建物の倒壊が多かった。あまりのすさまじさに占いをさせると、「高禄の大臣に凶事が起こり、戦乱が相次ぐ兆しである」という。「高禄の大臣」とは、重盛その人に他ならなかった。

生来病弱だった重盛はやがて重い病を得て、死を悟ると出家し、名医の診療も断って静かに息を引き取る。享年は42歳。清盛は、重盛との溝を埋められないまま、後継者として期待をかけていた息子に先立たれてしまった。


(平重盛)

福原遷都

以仁王の乱を鎮めた清盛は、治承4年(1180年)5月末に福原への遷都を宣言し、6月2日には安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇を福原に移動させた。京の人々は驚きながらも、清盛の決定に従わざるを得なかったが、あまりに急だったために、福原の受け入れ態勢は整っておらず、天皇たちは平氏一門の邸に仮住まいさせられるありさまだった。

福原は京より狭く、新都が完成したとしても京の3分の1程度の規模にしかならない土地だった。あまりに唐突で無謀と思われる遷都には、当然ながら大きな反発があり、鴨長明の『方丈記』にも記されているように大きな混乱もあった。宗盛も清盛に、都を戻すよう諫言したほどである。

そのような遷都を清盛が強行した理由は三つあるとされる。第一は、寺社勢力の圧力が強まり、京の防衛が困難になってきたこと。第二は、平氏の血縁者である安徳天皇が即位したのを機に、新しい政治基盤を作りたかったこと。第三は、京で干ばつが続き、疫病流行の兆しがあったこと。

また、福原にこだわった理由は、もともと清盛は福原に隠棲しており、その風光明媚さを気に入っていたことに加え、大輪田泊という、京と厳島神社の中間にある港の存在が大きかったこと、六甲山系を背にした地形で敵からの攻撃に備えやすかったことなどがいわれている。

しかしながら、寺社勢力や貴族たちの新都福原に対する不満があまりにも強くなったため、わずか半年後に、またも突然の決定で、都を京に戻した。

「平家物語」の登場人物

安徳天皇
高倉天皇の第一皇子。母は清盛の娘の平徳子(建礼門院)。清盛の後押しにより3歳で即位。天皇の血縁者となった清盛は、幼い天皇に代わって権威をふりかざす。壇ノ浦で祖母の二位尼に抱きかかえられ入水、8歳で崩御。

梶原景時
石橋山の戦いで頼朝を救ったことから、頼朝から重用されて侍所所司となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。

祇王
都に聞こえた白拍子の名手。清盛に寵愛されたが、若い仏御前の出現で捨てられ、母・妹と共に嵯峨野に隠棲。仏御前を慰めるために清盛に呼びつけられて後、21歳で出家。念仏三昧の生活を送り、往生を遂げたという。

祇園女御
白河法皇の愛人の一人。祇園社のそばに住んでいたことからこの名がついた。白河法皇の子を宿したまま、平忠盛に下賜され、産まれた子供が清盛だと言われているが、実際には彼女の妹が清盛の母とも。

木曾義仲
源義賢の二男で、頼朝・義経とは従兄弟にあたる。倶利伽羅峠の戦いで平氏を破って上洛するが、治安維持の失敗や皇位継承への介入などで後白河法皇と不和となる。法住寺殿の戦いで法皇を捕縛するにいたって、頼朝配下の追討軍と戦い、奮戦むなしく戦死する。
 
熊谷次郎直実
平貞盛の子孫で、最初平知盛に仕えて源頼朝と戦ったが、後に源氏に従った。源頼朝をして「日本一の剛の者」と言わしめたが、一の谷の戦いで、自分の息子と同年代の平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を見せなくなり、出家した。

建礼門院
清盛の次女で、名は徳子。高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んだ。壇ノ浦で安徳天皇を追って入水したが、源氏方に救われて帰京した。

後白河法皇
鳥羽天皇の第四皇子。譲位後34年にわたり院政を行った。戦乱が相次ぐなか、幾度となく幽閉、院政停止に追い込まれるが、そのたび復権をはたした。なお、単に隠居した天皇を「上皇」と呼ぶが、さらに出家した天皇を「法皇」と呼ぶ。「院」はもともと隠居した天皇が住む館を指すので、上皇も法皇も「院」と呼んで差し支えない。

西光法師
藤原師光。法名西光。後白河法皇の側近で、鹿の谷事件の首謀者の一人。捕らえられて様々な拷問を受け、処刑された。

俊寛僧都
真言宗の僧。清盛に目をかけられ、法勝寺の執行だったが、鹿の谷の謀議に連なり、薩摩国の鬼界が島に流された。その後の恩赦でも帰還が許されず、後に自害した。

平敦盛
経盛の三男。笛の名手で、祖父忠盛が鳥羽院から賜った「小枝」(または「青葉」)という笛を譲り受ける。17歳で一谷の戦いに参加したが、熊谷次郎直実に討ち取られる。

平清盛
平忠盛の長男。保元の乱・平治の乱に勝ち、中央に進出。武士で最初の太政大臣となり、平氏繁栄の基礎をつくる。実の父親は白河法皇ともいわれるが、確かなことは分かっていない。

平維盛
清盛の長男重盛の子。清盛の嫡孫として幼少より重んじられ、美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された。富士川の戦いで敗れ、また、木曾義仲との戦いに敗れて屋島に逃れたものの、脱出して出家、後に入水自殺した。

平重盛
清盛の長男。父と平治の乱に参戦、朝廷と平氏の調整役となる。清盛の後継者として期待されながら、父に先立ち42歳で病没。

平忠度
平忠盛の六男、清盛の異母弟。歌人として有名で、藤原俊成に学んだ。平氏一門の都落ちの際、都へ引返して藤原俊成に自詠の巻物を託した話で有名。一谷の合戦で敗死。

平忠盛
清盛の父。白河・鳥羽両院政のもとで軍事力の中心になって活躍し、西海の海賊の追捕や得長寿院建立の功により、平氏として初めて昇殿を許された。
 
平時子
清盛の妻。従二位に叙せられ、二位の尼とも呼ばれた。宗盛・知盛・重衡・建礼門院徳子らの母。壇ノ浦で安徳天皇を抱いて入水。

平知盛
清盛の四男。病弱だったため活躍の時期は少なかったものの、平家随一の知将として、都落ち後の平氏の支柱となる。壇ノ浦で、一門の最期を見届けると、鎧を2つ着込んで入水自殺した。

平教経
平教盛の次男。平家随一の猛将で、都落ち後、退勢にある平家の中で一人気を吐き、源氏を苦しめた。最後の壇ノ浦でもさかんに戦い源義経に組みかかろうとするが、八艘飛びで逃げられ、大男2人を締め抱えて海に飛び込んで死んだ。
 
平宗盛
清盛の三男。重盛に次ぐ昇進をし、重盛の死後は平氏の長者として中心に位置した。壇ノ浦の戦いに敗れ海中に身を投じたが捕えられ、鎌倉に送還されたのち京都に送り返される途中で斬首された。

鳥羽院
第74代天皇。堀河天皇の第一皇子。後白河天皇の父。在位16年の後、28年間にわたり院政を行い、この間、平家を登用した。

那須与一
義経に従軍。屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績をあげ、頼朝から丹波・信濃など5か国に荘園を賜った。

藤原俊成
定家の父。邸宅が五条京極にあって正三位皇太后宮大夫の職にあり、五条の三位とも呼ばれた。平安末期から鎌倉初期にかけての代表的歌人。後白河法皇の勅命で『千載集』を撰進した。
 
藤原成親
後白河法皇の側近の一人で、鹿の谷の謀議の張本人。のちに発覚して捕えられ、備前に流され、そこで殺された。子の成経は喜界島へ流されたが、後に大赦で帰京した。
 
文覚
遠藤盛遠。武芸に通じ、ある時、誤って源渡の妻を殺し、出家して文覚と名乗った。神護寺の復興を企て、後白河法皇の怒りにふれて伊豆に流された。そこで頼朝と知り合い、以後頼朝の力を得て多くの事業・事件にかかわった。

北条時政
頼朝の妻政子の父で、頼朝挙兵以来の重臣。後に、鎌倉幕府の初代執権となる。

仏御前
加賀の国出身の白拍子。清盛邸を訪ね、舞を見せたところ、大層気に入られ、今までのお気に入りだった祗王から寵愛を奪った形になった。後に世の無常を感じ、17歳で剃髪し、祗王らのいる嵯峨野の草庵を訪ね、共に念仏三昧の生活を送った。
 
源範頼
源義朝の六男、頼朝の弟。頼朝の代官として大軍を率い、義経と共に木曾義仲・平氏追討に功を挙げた。後に頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
 
源義経
頼朝・範頼の弟。平氏追討の最大の功労者となったが、頼朝と対立し朝敵とされた。奥州藤原氏の藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた藤原泰衡に攻められ自刃し果てた。

源頼朝
源義朝の三男。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆に流される。以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、弟たちを代官として木曾義仲と平氏を滅ぼしたが、戦功のあった末弟・義経を追放し、諸国に守護・地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。源平争乱の最終覇者となり、1192年に征夷大将軍に任じられた。

源頼政
平治の乱ではじめ義朝側につくも、清盛側に寝返り、院御所への昇殿を許される。源氏が一掃された朝廷での出世は困難だったが、清盛には目をかけられ、75歳で従三位に。しかし、以仁王の乱で打倒兵士の兵を挙げ、平知盛の軍勢に敗れて自害した。

以仁王
後白河天皇の第2皇子。母が摂関家出身ではなかったため、親王になれず王にとどまった。源頼政の勧めで平家討伐の令旨を出し、兵を挙げたが、平知盛らの追撃を受けて、園城寺に逃れた。興福寺に向かう途中、宇治の平等院で流れ矢に当たり、戦死した。

(50音順)

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各段のあらすじ