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平家物語~各段のあらすじ(つづき)

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巻第四(つづき)

7.山門への牒状(さんもんへのちょうじょう)

 以仁王(高倉宮)の身柄を確保した三井寺は、さっそく衆徒を招集して全体会議を開いて討議した結果、清盛の暴虐悪行を戒めるのは今しかないと、軍事行動を起こす決定をした。ただし、三井寺だけでは平家と戦うことは不可能と判断、そこで、宗派が同じ天台宗ながら長年の仇敵である比叡山延暦寺(山門)に、協力を要請する牒状(往復文書)を送った。それには、「両寺は、寺門と山門という2派に分かれたとはいえ、元の根は一つ。鳥の左右の翼のごとし、また車の両輪に似たり」とあり、「もし協力いただけるなら長年の遺恨を忘れ、また同じ山で修行していた昔に戻るでしょう」と書かれていた。

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8.南都牒状(なんとちょうじょう)

 ところが、延暦寺の衆徒はこの牒状を読んで、延暦寺と三井寺を対等に扱う表現があるのに憤慨した。三井寺はもともと比叡山から分かれた寺であり、延暦寺には、こちらが本寺であり三井寺は末寺という差別意識があったからである。また、清盛からの懐柔もあり、結局、三井寺の要請には応じなかった。

 一方、三井寺は、奈良の興福寺(南都)にも協力を要請する牒状を送った。それには、「興福寺は藤原氏の氏寺であり、罪なき氏の長者(関白藤原基房)が清盛によって流罪に処せられた恥を雪ぐのは今である」と書いてあった。

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9.南都返牒(なんとへんちょう)

 興福寺から返書が届いた。「清盛が貴寺に攻め込もうとしていると噂に聞いたので、我らも軍勢を組織して準備していたところであり、宗派を超えて仏法・王法の敵である清盛を討滅するために、援軍を送る」とあった。興福寺の宗派は法相宗(ほっそうしゅう)である。

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10.大衆揃へ(だいしゅぞろえ)

 興福寺から返事はあったが、軍勢の到着は遅れそうである。そこで、三井寺は再び全体会議を開き、清盛邸に対する夜襲作戦を協議した。しかし、三井寺の僧たちも必ずしも一枚岩ではなく、平家に内通する一派が故意に会議を引き延ばし、平家に準備の猶予を与えた。ようやく正面・背面攻撃の二手に分かれて進発したものの、逢坂の関にかかった頃に夜が明けてしまった。白昼の戦いとなれば勝ち目がないと判断、作戦は中止され、引き延ばしをはかった親平家派を掃討した。

 23日、身の危険を感じた以仁王は、三井寺では清盛軍を防御できないと判断し、愛用の笛を金堂の弥勒菩薩に奉納し、興福寺の衆徒と合流すべく奈良に向かう。老僧兵たちにはみな暇を与えて残らせ、役に立ちそうな若大衆、悪僧どもを随行させた。80歳の老僧兵が王の御前に参り、別れを惜しんで泣いた。三井寺を出発したのは、戦力になる頼政一党と合わせて千騎ばかりであった。

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11.橋合戦(はしかっせん)

 以仁王をかつぐ源頼政と三井寺の大衆は奈良の興福寺へ向かったが、以仁王が、睡眠不足と強行軍の疲れから6度も落馬したので、宇治の平等院で休息した。そこへ、追撃してきた平家の大軍2万8000余騎が、宇治橋のたもとまで押し寄せてきた。両軍が鬨の声を上げて戦いの幕が切って落とされた。ところが、あらかじめ宇治橋の橋板を外してあったので、先陣の200余騎が川に押し落とされ、流されてしまった。

 戦闘の開始を告げる矢が双方から射かけられ、戦いが始まる。頼政軍の「矢切の但馬(やぎりのたじま)」という強者が橋の上に進み出て、鎧も盾もないまま刀で矢を跳ねのける奮戦を見せ、平家側は苦戦、かなりの痛手を負った。そこで平家方の侍大将、上総守忠清(かずさのかみただきよ)が総大将の知盛(とももり)に、「橋を渡るのではなく、迂回して川を渡るべき」と進言し、それが功を奏し、300余騎が1騎も流されることなく対岸にたどり着いた。

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12.宮の御最期(みやのごさいご)

 平家全軍が渡河に成功し、一気に平等院に攻め入り、両軍の死闘が展開する。この勢いに押され、さしもの頼政の軍もしだいに劣勢となった。77歳の老将頼政は、以仁王を脱出させると、自害して果てた。長男の仲綱(なかつな)、次男の兼綱(かねつな)をはじめ、一族も次々と討ち死にした。平等院を脱出した以仁王は、興福寺に逃げ延びる途中で、脇腹に流れ矢が当たり、落馬して首を取られる。興福寺からの応援は京に向かっていたが、間に合わなかった。平家は自ら意図したことではないとはいえ、結果的には皇族を殺害してしまった。

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13.若宮御出家(わかみやごしゅっけ)

 勝利した平家軍が、討ち取った頼政軍の首級を掲げて帰京した。頼政の首は郎党が宇治川に沈めたので発見できなかった。以仁王の首は、長らくその御所を訪問する人がなかったので本人と確認することが困難だったが、寵愛の女房を捜し出して確認させた。王にはたくさんの子がいたが、八条女院(王の叔母)のもとにいた7歳の若宮は、清盛邸に連行されたものの、宗盛(むねもり:清盛の三男)の嘆願で命だけは許され、出家を強要される。この人は、後に東寺の主席僧侶となる。もう一人、奈良にいた子は出家して北国に逃れたが、のちに木曾義仲が上洛した折、天皇に戴くため還俗させたので、木曾の宮とも還俗の宮とも呼ばれる。

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14.鵼(ぬえ)

 戦死した頼政は、保元の乱・平治の乱では平家方に味方したものの、大した恩賞に預かれず、和歌の名人として評価され、やっと三位に上ることができた人である。弓矢の達人でもあり、近衛天皇および二条天皇の時、天皇を悩ます怪鳥、鵼(ぬえ)を二度も退治し、そのうえ即妙に連歌を返して讃嘆された。近衛天皇の時に退治した怪鳥は、頭は猿、体は狸、手足は虎という恐ろしい姿をしていた。その後伊豆国を給わり、丹波と若狭に所領地を得て、そのまま無事に過ごせるはずだったのに、つまらぬ謀反を起こし、以仁王をも失い、我が身も滅びてしまったのは残念なことだった。

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15.三井寺炎上(みいでらえんしょう)

 この度の合戦を延暦寺は静観した。平家軍はこの機を逃さず、謀反に加担した三井寺攻略に踏み切った。5月27日、重衡(しげひら)、忠度(ただのり)以下、総勢1万余騎で、早朝から攻撃を開始、夜に入って全山を焼き払い、多くの堂塔伽藍は灰燼と化した。唐から伝わった一切経7千余巻、仏像2千余体もあっという間に失われてしまった。寺の長吏・円慶法親王(えんえほっしんのう)は、兼任していた天王寺の別当職を停止され、そのほか役職つきの僧が13人役職を停止されて検非違使に預けられた。僧兵たちは30余人が流された。反平家の一大拠点だった三井寺はこうして壊滅した。しかし、こうした天下の乱れに、人々は平家の世が終わることを予感した。

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巻第五

1.都遷(みやこうつり)

 治承4年(1180年)6月2日、福原(神戸市)への遷都が行われ、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇をはじめ、平家一門、多くの公卿・殿上人が新都に移った。池の中納言頼盛(よりもり:清盛の弟)の宿所を皇居とし、頼盛は館を皇居として提供した恩賞として正二位に叙せられる。また、清盛は、法皇を鳥羽殿から出して都へ移したものの、以仁王(高倉宮)の謀反によってまた憤りを強め、周囲に板を打ち付けた小屋に法皇を再び監禁し、守護の武士を置いた。

 平安京を造営したのは平家の始祖である桓武天皇であり、平家にとっては特別大事にすべき都であるのに、一臣下の身である清盛が強引に遷都したのは呆れたことだった。6月9日、新都の造営が開始されたが、福原は山から斜面づたいにすぐ海になる狭い地形なので、九条まで区画するつもりが、五条までしかできなかった。元からこの地に住む者は土地を失って憂い、移ってくる人は工事が面倒なのを嘆く。内裏建造も、国費の負担が国民の疲弊を招くと懸念する声があがった。

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2.月見(つきみ)

 福原に遷都してから最初の秋となり、新都に移った人々は、光源氏ゆかりの須磨・明石など周辺の名所を訪れて月見を楽しんだ。そんな中、大納言徳大寺実定(さねさだ)は、8月10日過ぎに福原から荒れ果てた京都に戻り、姉である近衛河原(こんえがわら)の大宮を訪ねる。近衛河原の大宮は、近衛天皇と二条天皇二人の天皇に嫁いだ多子(たし)のことで、二条天皇崩御の後は、近衛河原でひっそりと暮らしていた。大宮は琴を奏でており、実定は今様(流行歌謡)をうたって旧都を懐かしんだ。また、大宮に仕える待宵(まつよい)の小侍従(こじじゅう)という歌人の女房がおり、福原への帰りしなに、実定の家臣と歌を詠み交わした。

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3.物怪の沙汰(もっけのさた)

 遷都以来、平家の人々の夢見が悪くなり、怪奇で不吉な予兆が続いた。ある時は、一間にも入りきらない大きな顔が突然現れ、清盛を見つめていた。清盛は慌てず睨み返し、顔は消えた。岡の御所では、大木が突然倒れ、大勢の人の笑い声が聞こえてきた。天狗の仕業かと、音のする方向へ矢を放ったが命中しなかった。またある時には、清盛の庭に無数の髑髏(どくろ)が現れて、がらがらと音を立てて動き回り、やがてそれらが大きな一つの髑髏となって清盛を睨む。しかしこれも、清盛が睨み返したので、消えた。また、厩に飼われていた馬の尾に鼠が一晩のうちに巣を作って子を産んだ。

 源雅頼(まさより)の家来が見た夢はさらに恐ろしかった。神々が会議をしている場から、平家の氏神である厳島明神が退場を命じられ、平家が預かっていた節刀(朝敵征伐の際に天皇が将軍に与える刀)が伊豆の頼朝に譲られる、というものであった。この話が清盛の耳に入ってしまったので、恐れた家来は逃亡したということである。その上不思議なことには、昔清盛が厳島大明神から夢で与えられた小長刀(巻第3「大塔建立」)が、ある夜、突然なくなってしまった。

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4.早馬(はやうま)

 9月2日、相模国の住人、大庭景親(おおばかげちか)から、頼朝の挙兵を知らせる早馬が福原に到着した。8月17日に、伊豆に流された頼朝が、舅(しゅうと)の北条時政を派遣して、代官の平兼隆(かねたか)を夜討ちしたこと、その後、石橋山に立て籠ったが、大庭の攻撃により敗北し、安房(千葉県)へ撤退したこと、および関東武士団の動静を報告した。福原の人々は驚き、なかでも清盛は、平治の乱のときに頼朝の命が助かったのは、平家の力添えがあったからなのに、何たる忘恩かと、怒り狂う。

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5.朝敵揃へ(ちょうてきぞろえ)

 神武天皇の治世以来、20余人が朝廷に背いたが、成功した例は一つもなく、必ず討たれた。昔は王威がすぐれていたので、宣旨(せんじ)といえば草木も従ったものだ。醍醐天皇の時代、帝が京都の神泉苑に行幸された時、池の水際に鷺(さぎ)がいた。帝は鷺を捕ってこいと役人に命じ、役人が鷺に向かって「宣旨である」と言うと、鷺は平伏して飛び立たず、五位を授けられ、「鷺の中の王である」という札をかけて空へ放たれたということである。

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6.咸陽宮(かんようきゅう)

 また、外国の朝敵の例としては、古代中国の燕(えん)の太子・丹(たん)の故事がある。秦(しん)の始皇帝に、12年もの間囚われていた丹は、母に会いたいという孝心が引き起こした奇跡によって無事に帰国できた。丹は始皇帝を暗殺するために、荊軻(けいか)という強者を刺客として咸陽宮(秦の都)に送った。荊軻はあらゆる手段で始皇帝を殺そうとしたが、成功の直前に捕まり、八つ裂きにされた。結局、丹も始皇帝に討たれてしまった。だから、「頼朝もこれと同じ運命になるだろう」と、清盛に追従を言う者もいた。

 

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7.文覚の荒行(もんがくのあらぎょう)

 頼朝は13歳のとき平治の乱(1159年)で捕まり、翌年3月に伊豆に流され、以後20年の年月をひっそりと送ってきた。その頼朝が今年になって平家討伐に乗り出したのは、文覚上人(もんがくしょうにん)の説得による。文覚はもともと遠藤盛遠(えんどうもりとお)という武士だったが、19歳で出家して厳しい修行を重ね、那智の滝で不動明王の加護を得て、さらに諸国の霊地を巡り、「刀の験者」と呼ばれるに至った修験者である。

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8.勧進帳(かんじんちょう)

 文覚は帰京後、高雄山(たかおざん)の山奥で修行して暮らしていた。この高雄に神護寺(じんごじ)という寺があった。和気清麻呂(わけのきよまろ)が建てた由緒ある寺だったが、この頃には荒れ果てていた。そこで、文覚は何とかして神護寺を再建しようと思い立ち、勧進帳(寄付を集める書状)を掲げて方々を触れ歩いた。ある時、後白河法皇の御所を訪れて寄付をお願いしようとしたが、目通りを許されないので強引に入り込み、大音声で勧進帳を読み上げた。

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9.文覚流され(もんがくながされ)

 ちょうどその時に御所で催されていた詩歌管弦の会は、文覚が勧進帳を読み上げる大音声でぶち壊しになった。しかも、止めようとした警備の武士と取っ組み合いの大暴れを演じて、御前は大騒ぎとなった。取り押さえられた文覚は投獄された。ほどなく大赦で赦されたものの、相変わらず不穏な言動を繰り返すので、再び捕えられ、伊豆に流された。護送の途中、賄賂を要求する役人をからかったり、暴風雨に遭って海神を怒鳴りつけたりした。31日間の断食にも、少しも気力は衰えなかった。

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10.伊豆院宣(いずいんぜん)

 伊豆に着いた文覚は、近藤国高(こんどうくにたか)という者に身柄を預けられた。そのうち、たびたび頼朝と面談するようになった。ある日、頼朝に父・義朝(よしとも)の髑髏(どくろ)と称するものを見せ、平家討滅の旗揚げを勧めた。頼朝は「幽閉されている身でどうやって謀反など起こせようか」とためらう。文覚は、頼朝を承諾させるため、伊豆山に籠ると偽って8日間で福原との間を往復し、後白河法皇から平家討滅の院宣を戴いてきた。院宣を手にした頼朝は、ようやく挙兵を決意する。治承4年(1180年)7月のことだった。

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11.富士川(ふじがわ)

 一方、平家側でも、頼朝の勢いが強くならないうちにと、大将軍平維盛(これもり)、副将軍平忠度(ただのり)をはじめとする3万余騎の追討軍の派遣を決定し、9月18日に福原を出発した。貴族武士である維盛の出陣姿は輝くほど美しく、忠度は愛人との別れの歌を詠み交わした。10月16日、平家軍は、増援を加え7万余騎となって駿河国清見が関に到着する。維盛は攻め込もうとするが、侍大将の上総守忠清(ただきよ)に、味方の軍勢がまだ揃っていないからと押しとどめられる。一方、源氏軍は総勢20万騎で足柄山を越え、浮島ヶ原に陣を構える。忠清は、その多さを聞き、先手を打つべきだったと後悔する。

 平家軍は、坂東武者の非情な戦いぶりを関東出身の斎藤実盛(さいとうさねもり)から聞かされていて、恐怖に駆られていた。合戦前夜の23日、平家軍は、野山に退避した民の炊事の火を、源氏の大軍だと誤認して慌てる。さらに夜半に、富士川を飛び立つ水鳥の羽音を敵襲だと勘違いし、怖気づいて、我れ先にと逃げ去ってしまった。24日、源氏軍が攻め込んだが、平家の陣営はもぬけの殻だった。源氏軍は一戦も交えることなく勝利し、頼朝はいったん鎌倉に戻って、内部統制の強化をはかった。

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12.五節の沙汰(ごせつのさた)

 11月8日、敵前逃亡して福原に帰った維盛を、清盛は流刑に処すべきと激怒した。しかし、一門の反対により処罰は行われなかった。それどころか、右近衛中将に昇進して人々の不審を買った。11月13日、新内裏が完成したが、福原には大極殿がないなど施設が不十分だったので、大嘗祭(だいじょうさい:新帝即位の神事)は中止となり、新嘗祭(しんじょうさい:天皇例年の神事)と五節(ごせち:11月下旬に4日間行われる宴会)だけを旧都で行うことになった。大変に異例なことであり、福原の不便は明白になってきた。。

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13.都還(みやこがえり)

 福原への強引な遷都は不評で、多くの寺社も、公卿たちも、都を元に戻すように訴えていた。清盛が強引に福原に遷都したのは、比叡山や奈良の仏教界からの圧力や強訴から逃れるためだった。その寺社が懇願してきたのである。高倉院の体調もすぐれず、公卿たちも、行事も満足に行えないという。そうした訴えに強気の清盛も折れて、12月2日に突然都を京に戻すことにした。貴族たちはもちろん、平家の一門も急ぎ旧都に戻った。

 同じ12月23日、近江国で源氏が蜂起し、知盛・忠教が2万余騎で討伐に向かい、これを破った。

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14.奈良炎上(ならえんしょう)

 平家は、興福寺に対して、以仁王(高倉宮)事件の処分を行っていなかった。そして、南都を攻略するという風聞が立ったので、僧兵たちは先に攻めようとして騒動を起こす。摂政の藤原基通(もとみち)が鎮めようとするが、興福寺は一切聞かない。平家方の使者はすべて追い返し、球技用の球を清盛に見立てて足蹴にした。さらに、派遣された非武装の警察部隊をも攻撃して60余人を殺した。最初は低姿勢だった清盛も業を煮やし、12月28日、重衡を大将軍、通盛(みちもり)を副将軍とする4万余騎で、奈良を攻略した。夜になり、明かりをとるために付けた火が、激しい風によって瞬く間に燃え広がり、東大寺も興福寺も焼け落ち、焼死者は3500人以上、合戦での死亡者は1000人以上に達した。

 翌29日、重衡は京に凱旋したが、あまりの惨状に、喜んだのは怒りが晴れた清盛だけで、法皇・上皇はじめ、「悪僧を滅ぼすのはよいとしても、寺院まで破壊し滅ぼすことがあろうか」と、みな嘆くばかりであった。聖武天皇は直筆の詔書に、「私の寺、東大寺が栄えれば天下も栄え、私の寺が衰えれば、また天下も衰えるだろう」とお書きになっている。仏法に対して最大の悪行を、清盛は犯したのであり、これは天下の衰微する前兆であろう、と思われた。

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巻第六

1.新院崩御(しんいんほうぎょ)

 治承5年(1181年)正月を迎えたが、前年の東国の争乱、南都の焼失など凶事のために、宮中の諸行事は殆ど中止され、安徳天皇のお出ましもなかった。5日には興福寺の僧たちの処分が行われ、寺院は荒廃するばかりだった。高倉院は、平家のさまざまな悪行に心を痛め、体調も崩していた。そこに南都が炎上したことを知らされ、さらに病気が悪化、1月14日、21歳の若さで崩御した。仏教の十戒を破ることなく、儒教の仁義礼智信を守り、礼儀正しい方であった。賢王として聞こえた高倉院の死を悲しまぬ人はいなかった。

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2.紅葉(こうよう)

 故高倉院は、幼少の頃から慈悲深く柔和な人柄で、また風流を愛した。まだ10歳のころ、大切にしていた紅葉の落葉を、庭掃除の召使どもが、酒を温める薪(たきぎ)として燃やしてしまったが、それを咎めるどころか、「林間に酒を暖めて紅葉を焚く」という白楽天の詩句を引いてその風流を愛でたという。また、高倉院が15~16歳の頃、強盗に女主人の衣装を奪われて泣いていた女童(めのわらわ)を憐れみ、そのような不届き者が出るのは自分の徳が足らないせいだと嘆き、奪われたものよりもっと上等な衣装を取り寄せて女童に授けたこともあった。これほど人徳に優れ、民に愛された高倉院だったが、21歳の若さで崩御されたのは悲しいことであった。

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3.葵の前(あおいのまえ)

 また高倉天皇は、中宮(徳子:清盛の次女)付きの女房に仕える葵の前という少女を寵愛したことがある。その寵愛ぶりに人々が、「この人は今に后として仰がれるだろう」と噂し、葵女御(あおいのにょうご)と呼ぶほどになった。その噂を聞いた天皇は、帝王の徳を失うことを懸念し、お召しになるのをやめた。やがて、天皇はご自分の気持ちを古歌に託して少女に贈り、少女は天皇の真心を知ったが、里に帰り、積もる思いの激しさからか、病に倒れ数日で亡くなった。

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4.小督(こごう)

 葵の前を失って嘆きに沈む高倉天皇を見かねて、中宮(徳子)が小督(こごう)という女房を紹介した。小督は宮中一の美女で琴の名手だったが、若き貴族、藤原隆房(たかふさ:清盛の長女の婿)の恋人でもあった。しかし、天皇の寵愛を受けてからは、隆房との関係を断った。隆房は未練を断ちがたく苦しむ。それを知った清盛は、小督に二人の婿を奪われたと激怒した。二人の婿とは、高倉天皇と隆房のことである。身の危険を感じた小督は自ら身を引いて姿を消し、天皇は悲嘆に暮れる。

 8月中旬の月の明るい夜、天皇は近臣の源仲国(なかくに)を呼び、小督は嵯峨野にいるらしいから捜してこいと命じる。仲国は馬を飛ばして嵯峨野に向かうものの、捜しあぐねて半ば諦めかける。すると、松風に乗って琴の音が聞こえてきた。まさしく小督の弾く琴の音だった。宮中に戻された小督は、やがて姫君を生むが、再び清盛の知るところとなり、怒った清盛は小督を尼にして追い出した。天皇は、そのような仕打ちにも心労が重なり亡くなってしまった。

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5.廻文(めぐらしぶみ)

 清盛は、これまで後白河法皇につらく当たってきたのを、さすがに恐れ多く思ったのか、厳島の内侍の腹に生まれた自分の娘を法皇に差し出した。娘が入内する様子は、公卿殿上人が多くお供をして、まるで女御が入内するような華やかさだった。しかし、まだ高倉院の二七日の法要も済んでいない時だったので、不謹慎だと周囲の顰蹙を買った。

 そのころ信濃国(長野県)では、源義賢(よしかた:義朝の弟)の子、木曾義仲(きそのよしなか:頼朝の従兄弟)が、たくましく成長していた。義仲は、すでに頼朝が平家討滅の謀反を起こしたと聞き、自分も兵を挙げ、日本国に二人の将軍ありと言われたいとして、傅(めのと)の木曾中三兼遠(きそのちゅうぞうかねとお)とともに謀反を計画した。さっそく廻文(回覧文書)を諸国の源氏に出して呼びかけたところ、まずは信濃・上野(こうずけ:群馬県)の源氏が呼応してきた。

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6.飛脚到来(ひきゃくとうらい)

 義仲謀反の報を受けた清盛は、越後の武士の城助長(じょうのすけなが)を越後守に任じ、義仲追討を命じる。しかし、反乱は関東や北国だけでなく、河内、伊予、九州でも起きた。各地の有力武将たちが次々に平家に背いて源氏に同心していき、その旨を知らせる飛脚が到来する。

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7.入道死去(にゅうどうしきょ)

 2月27日、平宗盛(むねもり)が自ら大将軍となって、源氏鎮圧のため東国に出発することになった。宗盛は重盛の弟で、重盛亡き後は清盛の後継者として重きをなしていた。ところが、出発は突然延期された。清盛が高熱を発して重病となったからである。その熱さは尋常ではなく、寝所に入る者も、その熱さに耐えられないほどだった。冷水に身を浸そうとすると、水が湯になる。体に水をかけようとすれば、熱さで水が水蒸気となり、黒煙となって渦巻く。これはまさに、死後に落ちる地獄の一つ、焦熱地獄にほかならなかった。

 清盛の妻の二位殿は、前の晩に閻魔大王の車が清盛を迎えに来るという恐ろしい夢を見て、多くの寺社に宝物を納め祈るものの、何の効果もなかった。清盛の最期を覚悟し、清盛に、遺言はあるかと訊ねる。清盛は、「自分が死んだら頼朝の首を刎ねて、わが墓前にかけよ。それが一番の孝養だ」と遺言する。そして閏2月4日、清盛は熱さにもがき苦しみながら、遂に亡くなった。享年64歳。同7日、愛宕(おたぎ)で火葬し、遺骨は摂津国の経島(きょうのしま:神戸市兵庫区)に納められた。

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8.築島(つきしま)

 まさに葬儀の夜、突然、豪奢を極めた清盛邸が全焼した。放火と噂された。またその夜、「うれしや水、なるは滝の水」と、舞い踊り高笑いする2、30人の声がしたので、不謹慎だとして調査したところ、院の御所で留守居の役人たちが酒に酔って馬鹿騒ぎしているのだった。逮捕して尋問したものの、結局、飲酒による不品行ということで釈放された。時期が時期なので、源氏討伐の作戦会議が朝夕行われ、清盛の法要はいっさい行われなかった。

 清盛の最期の有様は異常なものであったが、やはり「ただ人」ではなかった。朝廷に背く大悪行とともに、大きな善行と功績も残している。たとえば、福原に航海の安全のための島を築かせた。難工事となったので、安全を祈るために人柱を立てるという意見が出たが、清盛は反対し、人間の代わりにお経を書いた石を沈めさせた。そのためその島を「経が島」と名づけた。

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9.慈心房(じしんぼう)

 また、清盛は慈恵僧正(じえそうじょう)という、比叡山を中興した偉大な僧侶の生まれ変わりだといわれた。清澄寺(せいちょうじ)の慈心房尊恵(じしんぼうそんえ)という僧がいて、長年、法華経を所持し書写していた。この尊恵が、夢うつつの間に、閻魔(えんま)王宮の大法会の読経に招待され、閻魔大王から、清盛はただ人ではなく慈恵僧正の生まれ変わりであり、天台宗の仏法を擁護するために再来したのだと教えられた。尊恵が清盛にその話をすると、清盛は非常に喜び、尊恵を様々にもてなして褒美を与え、律師(僧正、僧都に次ぐ位)に昇進させた。

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10.祇園女御(ぎおんにょうご)

 ある人が語るには、清盛は忠盛(ただもり)の実子ではなく、白河院の落胤であるという。ある五月雨の降る夜、白河院が愛人の祇園の女御のもとにお忍びで出かけると、鬼のような異形のものが現れた。院はお供の忠盛に討ち取るよう命じるが、忠盛は、「鬼ではなく狐狸のたぐいだろう」と生け捕ってみると、それは灯明をともす雑用の老僧で、雨に濡れないように藁をかぶっていたのだった。院は忠盛の慎重さに感心し、褒美に祇園の女御を与えた。この時、女御はすでに妊娠していて、生まれたのが清盛だった。清盛という名は、院が忠盛に与えた歌「夜泣きすとただもり立てよ末の世に清く盛うる事もこそあれ」から付けられた。

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11.洲の股合戦(すのまたかっせん)

 清盛が亡くなった後、総帥となった宗盛によって、後白河法皇の幽閉が解かれ、2月22日に法皇は御所に戻った。3月には興福寺の僧侶の処分が解かれ、南都の再建も始まった。しかし、いったん上がった反平家の火の手は消せなかった。源行家(ゆきいえ)や義円(ぎえん:頼朝の弟)の軍勢が美濃(岐阜県)まで進攻、平家は大将軍の知盛(とももり)が大軍を編成して出動、尾張川をはさんで源平両軍が対陣した。源氏軍は渡河して夜襲をかけたが、逆に包囲されて大敗、義円は戦死、行家は退却して尾張川の東へ逃げ延びた。そのまま平家軍が追撃していたら三河・遠江の勢力が従う可能性もあったが、大将軍の知盛が病に倒れたため、勝機を逃し京に撤退した。今や重盛も清盛も亡くなり、平家の命運は尽きようとしていた。そのため、長年恩顧を受けた者以外は誰も平家に従わなかった。

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12.しはがれ声(しわがれごえ)

 義仲追討を命じられた越後守の城太郎助長(じょうのたろうすけなが)が出動準備をしていると、その深夜、「奈良の大仏を焼いた平家に味方をする者がここにいる。召し取れ」というしわがれ声が天に響き渡った。恐れた郎党は出動をためらうが、助長は強行した。すると、助長の頭上に黒雲が生じ、助長は意識を失い落馬した。家来が輿に乗せ館に連れ帰ったが、すぐに絶命した。平家の人々はこれを聞いて恐れおののいた。

 この年(1181年)の7月14日、養和と改元、大赦が行われて、去る治承3年(1179年)の政変で配流された関白、太政大臣、大納言らがみな赦免されて帰京することとなった。関白基房(もとふさ)は備前国から、太政大臣師長(もろなが)は尾張国から、大納言資賢(すけかた)も信濃国から帰京した。

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13.横田河原の合戦(よこたがわらのかっせん)

 都では、戦勝祈願が寺社や宮中で大々的に行われるが、そのたびに儀式を担当した神官や僧が急死するという不吉な事件が起きた。神仏も祈りを聞き入れないことは明らかだった。山科安祥寺の実玄阿闍梨(じつげんあじゃり)は鎮護国家の祈りを命じられるが、その報告の目録に「平氏を調伏しました」と書き、処罰されそうになった。平家が滅んだ後、頼朝はこの時の実玄の言動を誉め、大僧正に任じたということである。

 12月、中宮徳子に「建礼門院」という院号が贈られる。天皇が幼いのに、母后が院号を授けられたのは、これが初めてだという。翌年の4月15日、「法皇が比叡山に命じて平家を追討する」というデマが流れ、大騒ぎになるが、重衡が法皇を迎えに上がり誤解と分かった。すると今度は平家が比叡山を攻めるというデマが流れ、再び大騒ぎとなる。

 5月14日、改元して「寿永」となる。9月、変死した兄を継いで越後守となった城四郎助茂(じょうしろうすけもち)が、4万余騎を率いて木曽義仲追討のため、信濃国に向かった。横田河原で3千余騎の義仲軍と合戦するが、義仲軍の奇策によって破られた。このような深刻な事態にも関わらず、都では宗盛が内大臣に昇進し、祝賀に酔いしれる。その有様は、かえってはかなく思われた。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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おもな登場人物

安徳天皇
高倉天皇の第一皇子。母は清盛の娘の平徳子(建礼門院)。清盛の後押しにより3歳で即位。天皇の血縁者となった清盛は、幼い天皇に代わって権威をふりかざす。壇ノ浦で祖母の二位尼に抱きかかえられ入水、8歳で崩御。

梶原景時
石橋山の戦いで頼朝を救ったことから、頼朝から重用されて侍所所司となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。

祇王
都に聞こえた白拍子の名手。清盛に寵愛されたが、若い仏御前の出現で捨てられ、母・妹と共に嵯峨野に隠棲。仏御前を慰めるために清盛に呼びつけられて後、21歳で出家。念仏三昧の生活を送り、往生を遂げたという。

祇園女御
白河法皇の愛人の一人。祇園社のそばに住んでいたことからこの名がついた。白河法皇の子を宿したまま、平忠盛に下賜され、産まれた子供が清盛だと言われているが、実際には彼女の妹が清盛の母とも。

木曾義仲
源義賢の二男で、頼朝・義経とは従兄弟にあたる。倶利伽羅峠の戦いで平氏を破って上洛するが、治安維持の失敗や皇位継承への介入などで後白河法皇と不和となる。法住寺殿の戦いで法皇を捕縛するにいたって、頼朝配下の追討軍と戦い、奮戦むなしく戦死する。
 
熊谷次郎直実
平貞盛の子孫で、最初平知盛に仕えて源頼朝と戦ったが、後に源氏に従った。源頼朝をして「日本一の剛の者」と言わしめたが、一の谷の戦いで、自分の息子と同年代の平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を見せなくなり、出家した。

建礼門院
清盛の次女で、名は徳子。高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んだ。壇ノ浦で安徳天皇を追って入水したが、源氏方に救われて帰京した。

後白河法皇
鳥羽天皇の第四皇子。譲位後34年にわたり院政を行った。戦乱が相次ぐなか、幾度となく幽閉、院政停止に追い込まれるが、そのたび復権をはたした。なお、単に隠居した天皇を「上皇」と呼ぶが、さらに出家した天皇を「法皇」と呼ぶ。「院」はもともと隠居した天皇が住む館を指すので、上皇も法皇も「院」と呼んで差し支えない。

西光法師
藤原師光。法名西光。後白河法皇の側近で、鹿の谷事件の首謀者の一人。捕らえられて様々な拷問を受け、処刑された。

俊寛僧都
真言宗の僧。清盛に目をかけられ、法勝寺の執行だったが、鹿の谷の謀議に連なり、薩摩国の鬼界が島に流された。その後の恩赦でも帰還が許されず、後に自害した。

平敦盛
経盛の三男。笛の名手で、祖父忠盛が鳥羽院から賜った「小枝」(または「青葉」)という笛を譲り受ける。17歳で一谷の戦いに参加したが、熊谷次郎直実に討ち取られる。

平清盛
平忠盛の長男。保元の乱・平治の乱に勝ち、中央に進出。武士で最初の太政大臣となり、平氏繁栄の基礎をつくる。実の父親は白河法皇ともいわれるが、確かなことは分かっていない。

平維盛
清盛の長男重盛の子。清盛の嫡孫として幼少より重んじられ、美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された。富士川の戦いで敗れ、また、木曾義仲との戦いに敗れて屋島に逃れたものの、脱出して出家、後に入水自殺した。

平重盛
清盛の長男。父と平治の乱に参戦、朝廷と平氏の調整役となる。清盛の後継者として期待されながら、父に先立ち42歳で病没。

平忠度
平忠盛の六男、清盛の異母弟。歌人として有名で、藤原俊成に学んだ。平氏一門の都落ちの際、都へ引返して藤原俊成に自詠の巻物を託した話で有名。一谷の合戦で敗死。

平忠盛
清盛の父。白河・鳥羽両院政のもとで軍事力の中心になって活躍し、西海の海賊の追捕や得長寿院建立の功により、平氏として初めて昇殿を許された。
 
平時子
清盛の妻。従二位に叙せられ、二位の尼とも呼ばれた。宗盛・知盛・重衡・建礼門院徳子らの母。壇ノ浦で安徳天皇を抱いて入水。

平知盛
清盛の四男。病弱だったため活躍の時期は少なかったものの、平家随一の知将として、都落ち後の平氏の支柱となる。壇ノ浦で、一門の最期を見届けると、鎧を2つ着込んで入水自殺した。

平教経
平教盛の次男。平家随一の猛将で、都落ち後、退勢にある平家の中で一人気を吐き、源氏を苦しめた。最後の壇ノ浦でもさかんに戦い源義経に組みかかろうとするが、八艘飛びで逃げられ、大男2人を締め抱えて海に飛び込んで死んだ。
 
平宗盛
清盛の三男。重盛に次ぐ昇進をし、重盛の死後は平氏の長者として中心に位置した。壇ノ浦の戦いに敗れ海中に身を投じたが捕えられ、鎌倉に送還されたのち京都に送り返される途中で斬首された。

鳥羽院
第74代天皇。堀河天皇の第一皇子。後白河天皇の父。在位16年の後、28年間にわたり院政を行い、この間、平家を登用した。

那須与一
義経に従軍。屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績をあげ、頼朝から丹波・信濃など5か国に荘園を賜った。

藤原俊成
定家の父。邸宅が五条京極にあって正三位皇太后宮大夫の職にあり、五条の三位とも呼ばれた。平安末期から鎌倉初期にかけての代表的歌人。後白河法皇の勅命で『千載集』を撰進した。
 
藤原成親
後白河法皇の側近の一人で、鹿の谷の謀議の張本人。のちに発覚して捕えられ、備前に流され、そこで殺された。子の成経は喜界島へ流されたが、後に大赦で帰京した。
 
文覚
遠藤盛遠。武芸に通じ、ある時、誤って源渡の妻を殺し、出家して文覚と名乗った。神護寺の復興を企て、後白河法皇の怒りにふれて伊豆に流された。そこで頼朝と知り合い、以後頼朝の力を得て多くの事業・事件にかかわった。

北条時政
頼朝の妻政子の父で、頼朝挙兵以来の重臣。後に、鎌倉幕府の初代執権となる。

仏御前
加賀の国出身の白拍子。清盛邸を訪ね、舞を見せたところ、大層気に入られ、今までのお気に入りだった祗王から寵愛を奪った形になった。後に世の無常を感じ、17歳で剃髪し、祗王らのいる嵯峨野の草庵を訪ね、共に念仏三昧の生活を送った。
 
源範頼
源義朝の六男、頼朝の弟。頼朝の代官として大軍を率い、義経と共に木曾義仲・平氏追討に功を挙げた。後に頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
 
源義経
頼朝・範頼の弟。平氏追討の最大の功労者となったが、頼朝と対立し朝敵とされた。奥州藤原氏の藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた藤原泰衡に攻められ自刃し果てた。

源頼朝
源義朝の三男。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆に流される。以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、弟たちを代官として木曾義仲と平氏を滅ぼしたが、戦功のあった末弟・義経を追放し、諸国に守護・地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。源平争乱の最終覇者となり、1192年に征夷大将軍に任じられた。

源頼政
平治の乱ではじめ義朝側につくも、清盛側に寝返り、院御所への昇殿を許される。源氏が一掃された朝廷での出世は困難だったが、清盛には目をかけられ、75歳で従三位に。しかし、以仁王の乱で打倒兵士の兵を挙げ、平知盛の軍勢に敗れて自害した。

以仁王
後白河天皇の第2皇子。母が摂関家出身ではなかったため、親王になれず王にとどまった。源頼政の勧めで平家討伐の令旨を出し、兵を挙げたが、平知盛らの追撃を受けて、園城寺に逃れた。興福寺に向かう途中、宇治の平等院で流れ矢に当たり、戦死した。

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