平家物語~各段のあらすじ(つづき)
【PR】
11.徳大寺の沙汰(とくだいじのさた)
平家に官職を越えられたのは成親(なりちか)だけではなく、徳大寺大納言実定(さねさだ)も、平家の次男・宗盛に大将の座を奪われて、悲嘆の日々を送っていた。失望のあまり出家をほのめかすと、腹心からある策を授けられる。その策とは、平家の守護神である厳島神社(広島県)に詣で、神社の女官たちからそのことを清盛に伝えてもらうよう仕向けるというものだった。実定はすぐに身を清めて厳島へ出発した。果たしてそのとおりに事は運び、見送りについてきた女官たちは清盛の邸宅を訪ねる。実定が都の有名寺院ではなく、厳島に参籠したことに大いに感激した清盛は、重盛の兼職を解いて、実定を左大将に任命した。このように、巧妙に官職を得る方法もあったのだ。新大納言成親も賢く振舞えばよかったのに、 愚かな謀反を企てて一家眷属を滅亡に追いやったのは遺憾なことであった。
↑ ページの先頭へ
12.山門滅亡(さんもんめつぼう)
延暦寺と後白河法皇の険悪な関係はその後も続いていた。法皇が比叡山を差し置いて三井寺で灌頂(かんじょう:秘法伝授)の儀式を行おうとしたところ、比叡山延暦寺(山門)が猛反発し、三井寺を焼き払うと言い出したので、法皇は四天王寺で執行した。また、延暦寺は内部でも抗争の種を抱えていた。学生(がくしょう:学問を修める僧)たちと、その弟子であるはずの堂衆(どうじゅ)たちが対立し、たびたび合戦が起こっており、学生が負け続けて、延暦寺は滅亡の危機に瀕していた。ついに学生たちは朝廷に奏上し、堂衆を討つための加勢を依頼。清盛の命により湯浅宗重(ゆあさむねしげ)らが討伐に向かった。しかし、武士達と学生たちの足並みが揃わず、またも学生側が敗北した。一連の騒動によって比叡山はいよいよ荒廃した。
↑ ページの先頭へ
13.善光寺炎上(ぜんこうじえんしょう)
同じ頃、都を遠く離れた信濃国(長野県)でも、善光寺が焼失するという事件があった。この善光寺の本尊である阿弥陀如来像は、昔、釈迦(しゃか)、目連尊者(もくれんそんじゃ)、月蓋長者(がっかいちょうじゃ)の3人が心をひとつにして鋳造されたという、この世で一番の霊像である。釈迦の死後5百年は天竺にあり、仏法が徐々に東方に伝わっていくという道理に従って、百済に移り千年。欽明天皇の御代に我が国に伝わり、しばらくは摂津国難波浦(大阪湾)の波の下で年月を送っておられた。後に信濃国の住人で本太善光(ほんだよしみつ)という男が都でこの如来に出会い、そのまま背負って信濃国へお連れしたという由緒を持つ。阿弥陀如来をお迎えして以来580余年、今までこのような惨事はなかった。こうした立派な寺院が滅びるのは、平家滅亡の前兆ではないかと、人々は噂し合った。
↑ ページの先頭へ
14.康頼の祝言(やすよりののっと)
鬼界が島に流罪となった平康頼(やすより)、藤原成経(なりつね)、俊寛(しゅんかん)の3人は、成経の舅である平教盛(のりもり)の領地である肥前国鹿瀬庄(佐賀県)から送られてくる衣食で命をつないでいた。康頼は流される途中の周防で出家しており、かねて信心深かったので、この島の山々を熊野三山に見立てて、熊野詣を行うことを思いついた。成経も康頼と共に、見立てた熊野三山を毎日詣で、速やかな帰京を祈ったが、もともと不信心の俊寛は二人に加わることをしなかった。康頼は、参詣のたびに神に祈願する祝言(のりと)を読み上げるのだった。
↑ ページの先頭へ
15.卒塔婆流(そとばながし)
都に帰りたいとの一心で、康頼と成経は熱心に祈願を続け、自分たちで見立てた熊野三山に詣で、時には通夜をすることもあった。そんな折、康頼は夢に千手観音の使いが訪れて、「花咲き実がなる」と歌って消える夢を見る。これは祈願成就の兆しかと喜び、さらに熱心に祈り続けると、今度は沖から吹く風が二人の袂に木の葉を吹き付けたので、見ると虫食いの跡が文字になっていて、「帰京の願いは叶うだろう」との予言に読めた。さらに康頼は、千本の卒塔婆(墓に立てる細長い木の板)を作り、名前と望郷の思いを込めた歌などを書きつけて海へ流した。すると、何とそのうちの一本が厳島神社の渚に漂着して、康頼の知人の僧に拾われ、やがて都へ送られ、後白河法皇と清盛のもとへ届けられる。法皇は彼らを不憫に思い涙し、清盛もまた、流石に木石ではないので、哀れなことよと思った。
↑ ページの先頭へ
16.蘇武(そぶ)
康頼の切なる望郷の思いが海を越えて都にいる清盛の手に渡ったように、遠く中国でも同じような出来事があった。かつて、漢の国は匈奴との争いを繰り返していた。漢の将軍・李陵(りりょう)は生け捕りにされ、次いで50万を率いて攻め入った将軍・蘇武(そぶ)もまた敗れて捕らわれの身となった。匈奴の王は二人を漢に返すことを許さず、結局李陵は祖国に帰ることはなかった。蘇武は捕虜となったときに片足を斬られ放逐されたが、山野で木の実や草を食べて命をつなぎ、雁に都への手紙を結びつけて放った。その手紙は皇帝・昭帝の手に渡り、それによって蘇武の生存が分かり、晴れて19年ぶりに故国に帰ることができた。これ以後、手紙のことを「雁書」とも「雁札」とも言うようになった。蘇武と康頼。時代も場所も異なるが、その望郷の想いには相通ずるものがある。
【PR】
↑ ページの先頭へ
1.赦文(ゆるしぶみ)
治承2年(1178年)正月、後白河法皇と清盛とは、表向きは平穏を装いながらも、互いに警戒心を抱いていた。7日、不吉の前兆といわれる彗星が現れた。その頃、中宮徳子(清盛の娘)が懐妊した。喜びに湧く一門だったが、体調がすぐれない中宮に、物の怪がとりついて苦しませる。そこで清盛は、保元の乱に敗れ、讃岐に流されたまま亡くなった讃岐院に対して「崇徳天皇」と追号し、また、同じく乱の敗者である藤原頼長に正一位太政大臣を贈った。これを好機と見た藤原成経の舅である教盛は、重盛に対し、鬼界が島に流された成経への恩赦を願い出る。重盛は、成経の父・成親は配流先の備前で惨殺されており、その息子を救うことが成親の亡霊を鎮めることになる、と清盛を説得し、清盛は気前よく帰京の赦しを与える。先だって卒塔婆流で清盛の心証をよくしていた康頼も赦されることになったが、清盛は、自分に取り立てられたにもかかわらず裏切った俊寛だけは赦さなかった。かくて、俊寛を除く二人への赦免状を運ぶ船は、鬼界が島へと旅立ち、9月20日ごろ、島に到着した。
↑ ページの先頭へ
2.足摺(あしずり)
赦免の使者が島に到着したとき、成経と康頼は、自分らが見立てた熊野詣に出かけており、出迎えたのは俊寛一人だった。都に帰れると大喜びするが、差し出された赦免状に彼の名はなく、書かれているのは成経と康頼二人の名だけだった。俊寛は何度も何度も書状を見直し、札紙にまで目を通したが、自分の名はどこにもない。やがて成経と康頼が戻って来たが、一人残される絶望から、成経の袂にすがって、「もとはと言えば、あなたの父、故大納言殿がつまらない謀反を計画したせいなのに」と詰め寄る俊寛に、成経は「必ず折を見て清盛にとりなし、あなたも帰還できるように取り計らいます」などと慰めるが、俊寛は人目も気にせず泣き悶える。そしていよいよ出航となると、俊寛は舟に取り付き、船頭に引き離されてはまた取り付き、しかしいよいよ波が身の丈に届くにおよんで、俊寛は渚へ引き返す。半狂乱になって地面を踏みつける俊寛を残して、船は去って行き、後には白波が残るだけだった。
↑ ページの先頭へ
3.御産(ごさん)
鬼界が島を出た成経と康頼は肥前国(熊本県)に到着、この地で年内を過ごし、春になって上京することとなった。同じ年の11月、徳子が産気づき、御産所である六波羅の池殿は活気づいた。後白河法皇、関白の藤原基房をはじめ、身分ある貴族がこぞって参上し、安産を願って多くの寺社で祈祷が行われた。そんな騒ぎの中でも、小松内大臣重盛は、何事にも動じない落ち着きぶりで、ゆったりと長男の維盛(これもり)を従えて現れた。一方、清盛夫妻は落ち着かず、陣痛に苦しむ徳子の姿におろおろするばかりだった。修行僧らが悪霊退散の祈りを行う中に、後白河法皇までもが、自ら祈祷を買って出て、自分が祈るからには怨霊など近づけぬと熱心に祈祷する。そうこうするうちに、重衡(しげひら)が御簾(みす)の中からさっと出て、無事の皇子出産を伝えた。清盛夫妻、法皇、貴族たちの喜びの声は門外まであふれ、清盛は喜びのあまり涙を流した。
↑ ページの先頭へ
4.公卿揃へ(くぎょうぞろえ)
この度の徳子の御産では、異常な出来事が多かった。まず、法皇自ら験者を務められたこと、次に、后ご出産の時に御殿の屋根の上から甑(こしき)を落とす習いがあるが、これは生まれた子の性別によって落とす方向が違う。この度は男子誕生なので、本来は南へ落とすべきところを、誤って北へ落としてしまったこと。また、7人の陰陽師が招かれ、儀式を行っていたのだが、その中の一人、安倍時晴が、集まった貴族たちの混雑に巻き込まれ、沓が脱げ冠を落とされてしまったこと。このような珍事があったのは、当時は意味が分からなかったが、その後の平家一門の辿った運命を思うと、それも全てあの結末に繋がっていたのかと、後で思い合わされるのだ。清盛邸には、33人もの公卿が祝いに参上した。
↑ ページの先頭へ
5.大塔建立(だいとうこんりゅう)
皇子誕生の功を労い、祈祷を行った寺や僧侶たちへの勧賞(官位や所領を与えること)が行われた。なかでも、清盛夫妻が祈願を行った安芸の厳島神社は、その祈願の直後に御懐妊が判明したこともあり、まことにめでたいことであった。平家一門と厳島神社とのつながりの始まりは、鳥羽院の時代、清盛がまだ安芸守だった頃にさかのぼる。当時清盛は、高野山の大塔修繕を命じられ、6年かけて修理を終えた。そのとき、不思議な老人が現れ、「荒れ果てた厳島を修理せよ」などと語って消えた。さては弘法大師であろうと思い、そのことを鳥羽院に奏上し、厳島神社の修繕に着手した。修理を終えてそこで一晩明かした時、童の姿をした神の使者が現れた。使者は清盛に小長刀を差し出し、「この剣を持って朝廷の守りとなれ」と、彼の栄耀を約束した。目覚めて枕元を見ると、現実にその小長刀があり、その天童も立っていた。「ただし、悪行に至ったとき、繁栄は子孫までは及ばない」との言葉を残して、大明神は天に上がっていかれた。
↑ ページの先頭へ
6.頼豪(らいごう)
かつて白河帝の御世、帝は、三井寺の阿闍梨・頼豪(らいごう)に、念願が叶えばどんな望みも叶えると約束して、皇子誕生の祈祷を命じた。やがて、頼豪の百日の祈りのかいがあって、中宮はその百日のうちにご懐妊、敦文親王が誕生した。当初の約束どおり褒賞を与えようとする帝に、頼豪は三井寺での戒壇(かいだん)建立への許可を願う。しかし、延暦寺の反発を恐れて、帝は許可されなかった。失意の頼豪は、三井寺に帰り、食を断って餓死しようとする。驚いた帝が大江匡房を派遣すると、頼豪は「自らの祈りで誕生させた敦文親王を道連れにする」と、命がけで祈願していた。頼豪は持仏堂に篭ったまま餓死した。それに続いて敦文親王は4歳で病死、枕元には白髪の老僧が立っていたという。その後、今度は、延暦寺から招かれた円融坊の僧都良信が、ご懐妊の祈祷を行い、皇子が誕生した。後の堀河帝である。このように僧の怨霊は恐ろしいものであり、今回のお産の大赦に俊寛だけ赦免せずに恨みの種を残したのは禍根を残すことだった。
↑ ページの先頭へ
7.少将都帰り(しょうしょうみやこがえり)
治承3年(1179年)正月下旬、成経(なりつね)と康頼(やすより)は肥前を発ち、2月10日頃、成経の父・大納言成親(なりちか)終焉の備前に赴き、亡き人の住居跡と墓地を訪れる。3月16日、二人は大納言殿の山荘のあった都の南、鳥羽の州浜殿(すはまどの)を訪れる。住む主はなく、2年半の歳月を経た邸内は荒れ果て、昔の華やかさはなくなっていたが、庭には水鳥が遊んでいた。成経は、湧き起こる父の思い出に涙し、その思いを古歌に託す。その後、都へ帰還したが、二人は苦しみを共にしたゆえに離れがたく、七条河原まで同じ車に乗って行った。そこでようやく別れ、成経は舅の宰相教盛、その娘である北の方、そして都を離れている間に生まれた我が子と対面して喜ぶ。その後、彼は元の通りに院に仕え、宰相中将にまで出世した。一方、康頼は、東山双林寺に所有する山荘へ向かい、その地に落ち着いた。後に「宝物集」という仏教説話集を著したということである。
↑ ページの先頭へ
8.有王が島下り(ありおうがしまくだり)
俊寛僧都が可愛がっていた有王(ありおう)という童がいた。鬼界が島の流人たちが赦されて都に帰ってくると聞き、鳥羽まで迎えに行ったが、俊寛の姿はなかった。人に尋ねると、3人のうち俊寛だけが赦されなかったという。有王は居ても立ってもいられなくなり、鬼界が島へ赴くことを決意、俊寛の娘のもとへ行き、文を預かって、商船に便乗するなどして長い苦労のすえ鬼界が島に辿り着いた。そこには田もなく村らしい村もなく、言葉も通じない。やっと言葉が通じる人間を見つけて尋ねたが、俊寛のことを知っている者はいない。それでも島中を捜し続けていたある朝、有王は浜辺を歩く乞食を見かける。トンボのように痩せ衰え、海草や魚を手に持ってふらふら歩くその姿は、都で見る乞食よりもみすぼらしく、地獄の餓鬼のようであった。そして、その者に声をかけると、何と、その男こそが、捜していた主の俊寛だった。
↑ ページの先頭へ
9.僧都死去(そうずしきょ)
変わり果てた姿になった俊寛と再会した有王は、身内の消息を伝える。俊寛の北の方は幼い息子を連れて鞍馬に隠れ住んでいたが、息子は疱瘡で死んだ。心労から衰弱した北の方は、その一月後に亡くなり、今は姫君だけが奈良のおばのもとに居る。そうして有王は、姫君から預かった手紙を差し出した。俊寛は、無邪気に父の帰りを乞う内容を見て、その幼い書きように、一人残される娘の行く末を案じて号泣する。妻子との再会の望みを断たれた俊寛は、生きる気力も失った。今はもう有王に迷惑をかけまいと、食を断ち念仏を唱え、有王が島に到着してから23日目に息を引き取った。有王は、主の遺体を荼毘に付し、その骨を拾って都へ帰って行った。姫君に父の死を報告した有王は、その後、高野山へ登り法師になった。残された姫君は、奈良の法華時で尼になって父母の後世を弔った。
↑ ページの先頭へ
10.つじかぜ
治承3年(1179年)5月12日、午の刻(昼12時)ごろに、京中にすさまじい辻風(竜巻)が吹き荒れ、多くの人家が倒壊した。風は中御門京極から起こって、南西に進み、家屋の建材が空中に飛び散り、人畜の被害も甚大だった。これはただ事ではないというので、直ちに神祇官で占ったところ、「百日の間に、高禄の大臣の身に不幸が起こり、とりわけ天下の大事が起き、ならびに仏法、王法ともに衰えて、兵乱が続く」とのことだった。この時の「高禄の大臣」とは、平重盛その人に他ならない。
【PR】
↑ ページの先頭へ
11.医師問答(いしもんどう)
内大臣・平重盛は、この占いの結果を聞いて不安になったのか、熊野参詣に赴いた。神前で、父・清盛に諫言が聞き入れられない辛さ、そうした中で平家一門の先頭に立つ苦悩を吐露する。そして、子孫が繁栄するなら父の悪心をやわらげよ、繁栄が父一代限りなら我が命を尽きさせよ、と祈る。その時、彼の身体から灯篭の火のようなものがふっと出て消えたのを周囲の人は見ておののいた。また、帰路で、重盛に随行した維盛ら子息たちが川遊びをした時に、彼らの薄紫の着衣が水に濡れて喪服の色のようにも見えた。不吉だと着替えさせようとする家来がいたが、重盛は、「我が願いが聞き入れられた証拠だから、着替える必要ない」と言い、熊野への御礼の使いを出した。
熊野から帰って数日もしないうちに、重盛は病に倒れた。たまたま宋の名医が京に滞在しており、清盛は診てもらうように手配しようとしたが、重盛は、己の生死は天命によるものとし、漢の高祖(劉邦)が流れ矢に当たりながらも医師の治療を受けなかった例など引いて、大臣でありながら異国の医師に命を任せるのは国の恥だとして拒否した。そして、43歳で死去、世の人々は彼の死を惜しんだ。清盛の横暴を重盛が諌め、とりなしてきたので世は平穏無事だったのに、この先どんなことが起こるかと人々が囁き合った。ただ、弟である宗盛の周りの者だけは、一門の実権が宗盛様のものになるだろうと喜んでいた。
↑ ページの先頭へ
12.無文の沙汰(むもんのさた)
生まれつき内大臣重盛は不思議な人で、未来のこともあらかじめ悟っていたのだろうか。生前、父・清盛の首が春日大明神によって召し取られるという、一門の命運が尽きるのを予見するような夢を見たことがある。その翌朝、重盛は、院の御所に出仕しようとする長男・維盛に、錦の袋に入った太刀を与えた。維盛は、平家に伝わる「小烏の太刀」かと胸を躍らせたが、その中身は、大臣の葬送に用いる、無地で文様や彫刻のない「無文の太刀」であった。入道の葬送用にと持っていたが、先立つ自分がそれを使うことはないので、お前に与えると告げられ、維盛は悲しみで胸つぶれ、出仕もせずに涙にくれて臥せった。これも重盛の予見のうちだったのか、その後、熊野参詣した重盛は、帰京後に病に倒れ、帰らぬ人となったのだ。
↑ ページの先頭へ
13.燈炉の沙汰(とうろのさた)
重盛はまた、仏道への志が深く、東山の麓に、阿弥陀仏の48の願になぞらえて四十八間の寺を建て、その一間に一つずつ燈籠をかけ、毎月14・15日に念仏を唱えるという仏事を行っていた。当家や他家から選んだ多くの見目麗しい女房を一間に6人ずつ合計286人を配置し、彼女たちに念仏を唱えさせた。燈籠に灯りに照らされたそのさまは、この世の極楽浄土さながらに光り輝いた。15日の結願(祈願の締めくくり)の日には、大臣も加わり、自らこの世の迷える衆生をお救いくださいと祈ったので、人々は重盛を「灯籠の大臣」と呼んだ。
↑ ページの先頭へ
14.金渡し(かねわたし)
また重盛は、子々孫々まで繁栄するには国内でどんな善行を積んでも足りないと考え、九州から妙典という船頭を呼び寄せ、五百両をお前に与えるから、三千両を宋に運び、育王寺(いおうざん)の僧と宋の皇帝に贈って後世の弔いをしてもらう手配を依頼した。妙典は重盛の言葉どおりに宋に渡り、千両を育王寺に千両、皇帝に二千両を渡した。これには育王山の僧侶も皇帝も感動し、こうして今も宋の国では、重盛の極楽往生を願う祈りが続けられていると聞いている。
↑ ページの先頭へ
15.法印問答(ほういんもんどう)
重盛の死後、清盛は息子を失った悲しみからか、福原の屋敷にずっと引きこもっていた。治承3年(1179年)11月7日夜、京で大地震が発生し、大事変の予兆と占われた。同月14日、清盛が大軍を率いて上京したという噂が立ったので、人々は恐れた。入道相国は朝廷を恨んでいるとの噂も流れ、後白河法皇は急ぎ静賢法印(じょうけんほういん)を使者にし、清盛に事情を尋ねた。清盛は、あれほど忠義を尽くしてきた重盛の死を悲しむ気配もない法皇のことや、平家一門に対する朝廷のさまざまな処遇への不満を並べ、その怒りは凄まじかった。静憲は鹿谷事件の時、その密談の場に顔を出したこともあり、震え上がる思いだったが、「官位も俸禄も、あなたはことごとく満ち足りている。臣下が君子に逆らうのは、礼に反することだ」と、臆することなく忠告し、満座の人々は、一歩も引かない静憲の堂々とした態度に感心した。
↑ ページの先頭へ
16.大臣流罪(だいじんるざい)
清盛の怒りを、後白河院の使者・静賢は院に報告。院はもっともことと引き下がり、それ以上の言動はなさなかった。そして、清盛による、反平家側の貴族たちへの大処断が始まる。治承3年(1179年)11月、関白・藤原基房(もとふさ)をはじめ太政大臣・藤原師長(もろなが)以下43人の官職を停止して京から追放した。一方、基房とは対立関係にあった兄・基実の嫡子であり清盛の娘婿である基通(もとみち)が関白に大抜擢されて、顰蹙(ひんしゅく)を買った。
師長は尾張国への流されたが、彼はもともと楽才すぐれた風流人だったので、「罪無くして配所の月を見る」という古の詩人たちのような暮らしは、憧れてもいた。ある日、彼が熱田明神の社前で琵琶を弾き朗詠すると、音楽の妙など分かるはずもない地元の老人、女、百姓までもが感じ入った。深夜になると、神の感応を得て宝殿が振動した。師長はこの流罪がなければこのようなめでたい験を見ることはできなかったと、とむしろ感涙にむせぶのだった。
↑ ページの先頭へ
17.行隆の沙汰(ゆきたかのさた)
清盛の怒りの矛先は法皇や公卿たちに留まらず、それに仕える武士や貴族たちにも及んだ。前関白・藤原基房(もとふさ)の家臣・大江遠成(おおえのとおなり)父子は、六波羅から討手が差し向けられたと聞いて京のはずれまで落ち延びたが、このまま東国に落ちたところで逃げられないと考え直し、京に引き返し、邸に火をかけて自害した。一方、逆の例もあった。前左少弁・藤原行隆(ゆきたか)は、二条天皇の側近だった顕時(あきとき)の長男だったが、この十年余りは官職にありつけず、生活も困窮していた。その行隆に清盛からの呼び出しがかかった。恐る恐る参上すると、彼の父と清盛がかつての盟友だったというので、彼を登用するというのだ。絹や金、米や牛車まで清盛から贈られ、官位も以前の左少弁に復職した。しかしこれとて、一時だけの栄華と見えた。
↑ ページの先頭へ
18.法皇御遷幸(ほうおうごせんこう)
11月20日、後白河法皇の御所である法住寺殿を、宗盛が率いる平家の軍勢が取り囲んだ。御所が焼き払われるのかと人々は動揺したが、後白河院を鳥羽の地へ幽閉するための迎えだった。法皇は観念し、宗盛へ供をせよと言うが、宗盛は父・清盛の機嫌を恐れて応じない。法皇は、院への忠節を尽くした亡き重盛に比べ、宗盛は劣った人物だと嘆く。法皇の鳥羽行きにお供する公卿殿上人は一人もおらず、法皇の乳母の紀伊二位(きのにい)の尼と、北面の下級の者と下僕だけが従う寂しいものだった。明日をも知れぬ命なので、身を清めておきたいと法皇は願うが、行水の用意すら容易にできず、幽閉先に何とか紛れ込んだ近習が自ら薪を準備する有様だった。
このような法皇の状況に、かつて鹿谷事件後に清盛へのとりなしの使者となった静賢法印(じょうけんほういん)は心を痛め、特別に清盛の許可をもらって法皇のもとへ馳せ参じ、平家の世も間もなく終わるといって慰め励ます。また、孝心厚い高倉天皇は、父法皇の幽閉を知り、その衝撃のあまり食事も喉を通らず、病気と言って御寝所に引き籠ってしまう。后の徳子をはじめ仕えている女房たちもどうしていいか分からない。
↑ ページの先頭へ
19.城南の離宮(せいなんのりきゅう)
高倉天皇は、城南の離宮(鳥羽院)に幽閉された父・後白河法皇の身を憂慮し、自分もいっそ出家遁世してしまいたいと手紙を送る。法皇からは、どうか帝位にあってほしい、そなただけが希望だとの返事が届き、天皇は涙ながらに父の言葉を受け入れた。法皇の側近だった何人かは既に没し、古老で残っていた藤原成頼、平親範も、共に世をはかなみ出家してしまった。
清盛はさらに、平家寄りの明雲を再び比叡山座主の座につける。これで安心したのか、これからは帝が好きなように政務を行え、と言い残して福原へ引き上げた。宗盛からこれを聞いた高倉天皇は、「法皇がお譲りになった政務なら執りもしようが、この状況で渡された政務など、宗盛と関白が自分達のよいように行えばよかろう」と、反感を隠さなかった。法皇は、城南の離宮で寂しい冬を過ごし、治承4年を迎える。
【PR】
↑ ページの先頭へ
1.厳島御幸(いつくしまごこう)
治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇は清盛の意向によって退位させられ、替わって東宮の言仁(ときひと)親王が、安徳天皇として即位した。新帝は今年わずか3歳であり、早すぎる譲位だと言う人もいたが、平大納言時忠(ときただ)卿が、 内外の色々な例を引いて、人々の意見を封じた。これによって、入道相国夫婦は外祖父・外祖母として 准三后(皇族と同じ待遇を受ける)の宣旨を受け、いよいよ権力を固めた。
同年3月上旬、高倉上皇の厳島御幸の話が持ち上がった。天皇が位を降りてからの御幸はじめは、石清水八幡宮、加茂社、春日社などとするのが慣例であり、厳島御幸は異例だった。「平家の信仰篤い厳島を詣でることで、表面上は平家に同心しながら、その実は、法皇を鳥羽殿に押し込めている入道相国の謀反の心を和らげてほしいとの祈念だろう」と、人々は噂した。出発に際して、高倉上皇は鳥羽殿に立ち寄り、法皇に面会、しばらく物語りした後、お互いの前途を思いやりつつ別れた。
↑ ページの先頭へ
2.還御(かんぎょ)
治承4年(1180年)2月26日、高倉上皇一行は厳島へ到着し、歓迎を受ける。参詣を終えてからの帰路は、風流な船旅を楽しみながら、途中、福原に立ち寄って帰京した。4月22日、安徳天皇の即位式が行われる。本来儀式が行われる大極殿が安元3年(1177年)の大火事で焼失して後、まだ新造されていなかったので、異例の措置として紫宸殿(ししんでん)で取り行われた。幼帝を抱いた中宮徳子が高御座(たかみくら)へお座りになる光景は、大変めでたいものであった。平家の人々が参列していた中、小松殿(重盛)の子供たちは、父が去年亡くなったので、欠席して喪に服している。
↑ ページの先頭へ
3.源氏揃へ(げんじぞろえ)
安徳天皇の即位式は無事終わったが、世の中はなお不穏なままだった。そのころ、後白河法皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)という方がいた。三条高倉に御所があったので、高倉宮(たかくらのみや)とも呼ばれる。才覚にすぐれ、天皇の位につくだろうといわれていたが、故建春門院(けんしゅんもんいん:高倉天皇の母)に嫉まれて、不遇なまま30歳を迎えていた。
ある夜、以仁王の御所に、源頼政(よりまさ)が現れた。頼政は保元・平治の乱で勝者側に立った源氏の武将であり、また高名な歌人として、平家も一目置く存在だった。その頼政が、「もし あなたが令旨(命令)を発すれば、諸国の源氏が馳せ散じるでしょう」と言って、平家打倒を促した。以仁王は躊躇していたが、人相見の名人に「天下取りの相がある」と言われ、決意を固めた。さっそく源行家(ゆきいえ:頼朝の叔父)を令旨の使いとして 各地に遣わす。伊豆の頼朝、信濃の木曽義仲らに令旨が届けられる中、熊野別当(熊野三社を管理する長官)湛増(たんぞう) は、平家に堅く忠誠を誓っていたので、源氏に加担する那智・新宮の勢力に合戦を挑むが、大敗を喫した。
↑ ページの先頭へ
4.鼬の沙汰(いたちのさた)
5月12日、後白河法皇の住む鳥羽殿に鼬(いたち)の群れが現れて走り騒ぐ怪事があり、法皇はただ事ではないとして、陰陽頭(おんようのかみ)安倍泰親 (あべのやすちか)に占わせると、「3日のうちに吉事と凶事がある」との判断だった。法皇は、「吉事は結構なことだが、これほどの情けない身になって、まだ凶事が起こるのか」と動揺した。その頃、宗盛が清盛に法皇の身柄を解放するよう熱心に嘆願していたので、13日に、法皇は鳥羽殿を出て、八条烏丸の今はもう亡くなっていた美福門院(びふくもんいん:鳥羽天皇の后)の御所に移ることができた。吉事とは、このことだった。そこへ、湛増から、以仁王が謀反を起こしたとの急報が届いた。凶事とはこのことだった。
福原の別宅にいた清盛は、報告を受けてすぐに京に戻り、以仁王の御所に捕縛の使いを差し向けた。その中には、源頼政の次男・兼綱(かねつな)も含まれていた。これは、頼政が以仁王に謀反を勧めた張本人だということを、平家がまだ知らないためだった。
↑ ページの先頭へ
5.信連合戦(のぶつらかっせん)
5月15日の夜、以仁王がのんびりと月を楽しんでいると、頼政の急使が到着した。謀反が発覚して軍勢が押し寄せているので、ただちに三井寺に避難されよ、とのことだった。うろたえる以仁王に、家臣の長谷部信連(はせべのぶつら)が、女装して脱出する策を進言した。以仁王は結っていた紙をほどき、女房が外出する時に被る市女笠という深い笠を被り、数人の供を連れ邸を抜け出した。信連は御所に残り、見苦しいものがあれば片付けようとしていると、以仁王の秘蔵する「小枝」という笛を置き忘れているのを見つけ、それを持って届ける。以仁王は感激し、信連に同行を勧めるが、信連は役人たちが来たとき誰もいないでは武士の面目が立たないと、また御所に戻る。
平家の軍勢3百余騎が押し寄せると、信連はただ一人で立ち向かい、14、5人を斬り伏せて大暴れした後、捕縛されて六波羅へ引っ立てられる。清盛が御簾の内にいる前で宗盛の糾問を受けた信連は、少しも騒がずに堂々と答えた。信連の態度に平家一門の人々は感心し、清盛もどう思ったのか、伯耆(ほうき:鳥取県)国の日野へ流すにとどめた。後に源氏の世になってから、頼朝は信連のこの時の様子を聞いて殊勝であると感心し、能登国に領土を取らせたという話である。
↑ ページの先頭へ
6.競(きおう)
明け方、以仁王はうまく三井寺に到着し、保護を求めた。三井寺の衆徒は喜んで以仁王を迎えた。以仁王謀反の知らせが広まると、都は騒然となった。そもそも頼政が今になって以仁王に謀反を起こさせた原因は、宗盛(清盛の三男)が、宮中に仕えていた頼政の嫡子、仲綱(なかつな)の愛馬を強引に取り上げ、しかも馬に「仲綱」という焼き印を押して人に見せ、仲綱を辱めたからだった。そんな宗盛の愚かな行動を聞くにつけても、人々は亡くなった重盛の人柄を偲んだ。
16日の夜、頼政は自邸に火をかけた後、三井寺に向かう。その時、家臣の競(きおう)は、はせ参じるのが遅れて、自宅に留まっていた。それを宗盛が召して、「平家につくか頼政につくか」と問うと、「朝敵になった頼政に同心することはできません」と言い、宗盛は競を召し使うことにする。日が暮れて競は宗盛に、「三井寺を攻めるため馬を一頭預からせて頂きたい」と言い、宗盛は、秘蔵の煖廷(なんりょう)という馬を与える。競は自分の館に火をつけ、三井寺に向かう。三井寺では競の身を案じていた。そこへ競が駆けつけ、仲綱の失った馬の代わりに、宗盛の煖廷を奪って参ったというので、仲綱は大いに喜ぶ。煖廷のたてがみを切り、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」と焼き印をして、六波羅へ返した。宗盛は怒り狂った。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】