平家物語~各段のあらすじ(つづき)
【PR】
1.清水の冠者(しみずのかんじゃ)
源氏方も内紛を抱えており、頼朝と義仲が不和になったことがある。寿永2年(1183年)3月、頼朝が信濃の国へ10万余騎の大軍で進軍し、義仲追討に向かう。頼朝と険悪になっていた叔父の行家を、義仲が庇ったことが原因だった。義仲は乳母子(めのとご)の今井兼平(いまいのかねひら)を頼朝のもとに遣わし、争うつもりはないと訴えるが、頼朝は信用しない。そこで義仲は、今年11歳になる嫡男の清水冠者義重(しみずのかんじゃよししげ)を人質として頼朝に差し出し、頼朝はようやく納得して鎌倉へ帰った。
※冠者・・・元服を済ませた大人でありながら、いまだに官職も官位もない、いわゆる無位無官の人のこと。
↑ ページの先頭へ
2.北国下向(ほっこくげこう)
このような出来事があった後、平家は、義仲軍が5万余騎で京に進軍中と聞き、諸国から徴兵しようとしたが、応じない者も多かった。中国・四国・九州地方は応じたものの、東国・北陸地方はほとんどが忌避した。4月17日、平家軍は大将軍・維盛、通盛らが率いる10万余騎で出発、まず義仲を追討し、その後頼朝を討とうと、北陸道に向かう。行軍中、民家から物資を徴発したので、人々はたまらず山野に逃げ隠れた。
↑ ページの先頭へ
3.竹生島詣で(ちくぶしまもうで)
平家軍の大将軍・維盛、通盛は先に進んだが、副将軍の経正、忠教らは、まだ近江国の塩津、貝津に控えていた。4月18日、風流心のある経正(つねまさ:清盛の弟の経盛の長男)は、数人の供を連れ、小舟に乗って琵琶湖上の竹生島(滋賀県)に渡った。竹生島明神の前で経を読み、島に住む僧たちに促されて琵琶の演奏を奉納すると、経正の袖に白竜が現れるという瑞兆があった。これなら必ず敵を鎮圧できると喜んで、一行は再び舟に乗って竹生島をあとにした。
↑ ページの先頭へ
4.火打合戦(ひうちかっせん)
義仲自身は、信濃にとどまり、越前に火打が城(福井県南越前町)を築かせ、平家軍を待ち受ける。この城は山や川に囲まれた天然の要害だったので、維盛・通盛率いる平家軍は容易に近づけず、徒らに日を過ごしていた。しかし、城内から平家への内通者が出て、城の弱点が伝わる。それによって火打が城は瞬く間に攻め落とされ、勢いに乗った平家軍は加賀の国まで攻め上る。敗報を受けた義仲も、5万余騎の軍勢を七手に分けて現場に急行し、源平両軍は砺波山(となみやま:富山県)周辺で対陣することになった。
↑ ページの先頭へ
5.願書(がんじょ)
義仲軍は平家軍より兵力が劣るため、平家軍を山中に誘導し、倶利伽羅谷(くりからがたに)へ追い落とそうと企図した。平家軍は義仲の策にかかり、白旗がはためいているのを見て大軍と勘違いし、正面衝突を避けて砥浪山の山中、猿の馬場に移動する。義仲は羽丹生(はにゅう)に陣取って四方を見回すと、八幡宮の社があるのが見える。手書(書記)の大夫房覚明(だいぶぼうかくめい)に命じて戦勝祈願の願書を書かせて奉納すると、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の使者である鳩が飛来するという吉兆を得た。
この覚明というのは、元は蔵人道広(くらんどみちひろ)といい、昨年、以仁王が三井寺へ逃げ込んだ際、南都へ協力要請の書状を送ったが、その返事に「平氏の糟糠(そうこう)、武家の塵芥(ちんがい)」と書いて清盛の怒りを買い、北国へ逃げ義仲の手書となった人物である。
↑ ページの先頭へ
6.倶利伽羅落し(くりからおとし)
義仲軍は、四方を岩山に囲まれた猿の馬場に平家軍をおびき寄せて夜を待った。暗くなった頃合いを見て、前後を挟み撃ちにして倶梨伽羅谷に追い詰め、一斉に鬨の声を上げて谷に追い落とす。馬には人、人には馬が、落ち重なり落ち重なりして、平家軍の死骸が深い谷を埋める悲惨さとなった。平家軍は7万余騎を失う大敗北を喫し、大将軍の維盛、通盛らはわずか2千騎になって加賀へ退却した。義仲は余勢を駆って、志保山で苦戦していた叔父の行家を助勢し、平家軍3万騎を蹴散らす。
↑ ページの先頭へ
7.篠原合戦(しのはらかっせん)
倶利伽羅峠で勝利した義仲は、諸社へ領有地を寄進した。平家は退却を続け、篠原(石川県加賀市)に陣を取る。平家方についた武名高い関東武士、斎藤実盛(さいとうさねもり)らは、今回の合戦で討ち死にの覚悟を決めた。5月21日の朝、押し寄せてきた義仲軍と激突、戦いは昼まで続き、炎天下の激戦の果てに、多くの有力武将を失った平家軍は敗走した。
↑ ページの先頭へ
8.実盛最期(さねもりさいご)
斎藤実盛(さいとうさねもり)は、武蔵で暮らしてきた武士だったが、出身は越前だった。70歳を超え、今回が最後の戦と覚悟していた。富士川の合戦で戦わずして逃げ帰った恥も忘れられなかった。出陣する前に、宗盛に大将用の錦の直垂を着ることを願い出る。故郷に錦を飾るという諺に添いたかったのだ。また、敵から老醜を隠すため白髪を黒く染めて戦った。かねての覚悟どおり壮絶な討ち死にを遂げ、勇敢な武将の死を、敵も味方も惜しんだ。都に戻った平家軍は2万余騎だけだった。
↑ ページの先頭へ
9.玄昉(げんぼう)
平家の大敗で、数多くの親子・夫婦が死別したため、人々は悲しみに暮れ、都をはじめ近隣諸国で念仏と弔鐘の音が陰々滅々と響き渡った。6月1日、戦乱が鎮まれば、安徳天皇が伊勢大神宮に行幸されることが言い渡される。伊勢行幸が行われるのは、聖武天皇の御代(天平15年:743年)に反乱を起こした藤原広嗣(ひろつぐ)を追討した時以来という。この時、玄昉(げんぼう)僧正が、広嗣を調伏する祈祷をしたが、後にその怨霊によって首をもがれた。また、天平19年に、興福寺の庭に「玄昉」と書かれた頭蓋骨が落ち、大きな笑い声が響いたという。この事件によって広嗣の亡霊が崇められ、現在、松浦(まつら)の鏡の宮と号す神社に祭られている。今度も先例にならい、戦死者の慰霊のため、さまざまの祈祷が行われた。
↑ ページの先頭へ
10.木曽山門牃状(きそさんもんちょうじょう)
義仲は、入京にあたり、途上にある比叡山(山門)の悪僧らが邪魔をするかもしれないと案じた。そこで家来たちを集めて会議を開いた。比叡山を打ち破るのはたやすいが、仏敵平家を追討するために都入りする者が比叡山と争うのは本末転倒であり、平家がしていることと違いがない、どうしたらよいものか。そこで、手書(書記)の覚明の進言を入れて、書状を送り、比叡山は源平いずれに味方するつもりかを問いただす。
【PR】
↑ ページの先頭へ
11.返牃(へんちょう)
義仲からの書状に対し、比叡山では賛否両論に割れたが、老僧たちの源氏支持の意見が通り、その旨を書状にしたため、義仲へ返牒(返事)する。書状の中で平家の悪行と義仲の武功への称賛を述べ、武運開けた義仲に必ず同心すると述べた。
↑ ページの先頭へ
12.平家山門連署(へいけさんもんれんしょ)
平家側は、義仲と比叡山が結託したことを知らず、比叡山に協力を求める連盟の願書を送ってきた。内容は、頼朝、義仲、行家、それに同心する源氏らの暴虐を訴え、もともと延暦寺が創設されたのは平家の先祖である桓武天皇の御代であり、平家と山門は根を同じくするものだ、もし平家に味方するなら末長く平家と山門は苦楽を共にするだろう、というものだった。衆徒は平家の現状に同情はするものの、時すでに遅く、源氏に味方すると書状を送った以上、今さら軽々しく身を翻すことはできないと、誰も平家に味方しようとしなかった。
↑ ページの先頭へ
13.主上の都落(しゅしょうのみやこおち)
7月14日、九州鎮圧に派遣されていた平家軍が都に凱旋してきた。しかし、義仲軍が延暦寺と連携して都に攻め入るという情報が入り、平家一門は大混乱に陥った。24日、宗盛(清盛の次男)は妹の建礼門院徳子(安徳天皇の母)に事態を告げ、いったん西国に落ちて軍勢を立て直すことを決意した。宗盛は、安徳天皇、後白河法皇と共に都落ちするつもりだったが、法皇は事前にこの動きを察知したか、ひそかに脱出して鞍馬に身を隠した。平家方は誰ひとり法皇の行方を知らず、みな茫然とする。翌25日朝、安徳天皇を奉じて、三種神器や宝物などを携え、慌しく出発する。清盛の娘婿でもあった摂政藤原基通(もとみち)も同行するはずだったが、平家を見限り、途中で引き返す。
↑ ページの先頭へ
14.維盛の都落(これもりのみやこおち)
三位中将維盛(これもり)は、妻子を都に残した。維盛は重盛(しげもり)の長男だが、重盛が亡くなった後は、時子の生んだ宗盛たちが中心となり、母の異なる系列の立場は不安定だった。また、妻の父は鹿谷事件で流罪、処刑された藤原成親(なりちか)であるため、維盛は、平家の行く末だけでなく、一門の中での自身と妻子の立場を案じ、妻子を都に残すことにした。みなが家族と共に行く中での、苦しい選択だった。泣きすがる妻子をなだめ、維盛に仕える斎藤五・斎藤六の兄弟(斎藤実盛の子)に、都にとどまって息子六代(ろくだい)の守護を頼むと、涙を抑えながら一人都落ちした。
また平家は都を捨てて落ちのびるに際し、六波羅・西八条ほか一門が栄華を誇った邸宅20余カ所や家来の邸、そして4、5万の民家にも火をかけて全て焼き払った。再び都に戻ることはないと、内心では覚悟を決めての都落ちであった。
↑ ページの先頭へ
15.聖主臨幸(せいしゅりんこう)
都は焦土と化し、平家の栄華は完全に失われてしまった。禁中御所の警備交代で上洛していた関東武士の畠山庄司重能(はたけやまのしょうじしげよし)、小山田別当有重(おやまだのべっとうありしげ)、宇都宮左衛門朝綱(うつのみやのさえもんともつな)の3人は、故郷の一族がみな源氏に寝返ってしまったため、都に人質として留めおかれていた。平家の都落ちに際して斬られるはずであったが、知盛(清盛の三男)の進言で解放し本国に帰すことを決める。「どこまでもお供します」と言う彼らに対し、宗盛は、「汝らの魂は東国にあるだろうに、抜け殻ばかり西国へ召し連れて行く必要はない。急いで妻子のいる故郷へ帰れ」と、暇を出す。彼らとは20余年間も主従関係にあったので、別れの涙は抑えがたいものがあった。
↑ ページの先頭へ
16.忠度の都落(ただのりのみやこおち)
木曾義仲の軍勢が都へ迫り、平家一門は西国へ落ち延びていく。その中で、薩摩守忠度(ただのり:清盛の弟)は途中で引き返し、歌道の師であった藤原俊成(しゅんぜい)の邸に立ち寄る。平家の落人が来たというので邸は騒然となったが、俊成は門を開けさせて対面した。忠度は、茲許、訪問が稀になっていたことを侘び、そして勅撰集が選定されると聞いたので、自分の一生の名誉に一首なりとも入れてほしいと、日ごろから詠みおいた自作の歌を俊成に託す。のちに俊成は、残された歌の中から、次の歌を勅撰集の『千載和歌集』に載せた。
さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
俊成は、平家が朝敵となったことを配慮して、忠度の名前は出さず、「故郷の花」という題で「詠み人知らず」とした。
↑ ページの先頭へ
17.経正の都落(つねまさのみやこおち)
平経正(つねまさ)は清盛の弟経盛(つねもり)の息子で、音楽に堪能であった。幼い頃に仕えた仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ:守覚法親王)に別れを告げ、授かっていた青山(せいざん)という琵琶を返す。「このような名器を、戦の紛れの中に失うのはしのびない、もし幸いにも運命が開けて都に帰ることがあれば、またお預けください」と、泣く泣く申し上げる。経正が仁和寺を出ると、仁和寺の人々が涙ながらに見送る。中でも経正が幼少の時に小師(こじ:歳若い僧)だった大納言法印行慶(だいなごんほういんぎょうけい)は、桂川の傍らまで経正を送り、歌を交わして別れた。
↑ ページの先頭へ
18.青山の沙汰(せいざんのさた)
経正が17歳の時、宇佐八幡宮(大分県)へ勅旨となって下った折、社前でこの「青山」という琵琶を奏でたことがあったが、ふだん音楽など聞き馴れない宮人も、その見事な演奏に涙を流した。「青山」は、唐から伝来し、村上天皇が唐国の琵琶の博士から秘曲とともに授けられ、朝廷の宝とされた名器である。その後「青山」は仁和寺に保管されて、経正の幼少の時、御室はたいそう経正を愛され、青山を下し預けられたという。
↑ ページの先頭へ
19.一門の都落(いちもんのみやこおち)
平家一門といっても、必ずしも一丸ではなかった。清盛の弟の頼盛(よりもり)は、母の池の禅尼(ぜんに)が頼朝の命の恩人だったので、頼朝から特別扱いされてきた。そのため、頼朝との縁故を頼り、一門を裏切って都に引き返す。重盛の子、維盛は、弟たちと遅ればせながら一門の行列に加わる。清盛・重盛父子の忠臣だった肥後守貞能(さだよし)は、義仲との戦いを主張したが容れられず、一行を離れる。重盛の墓を掘り返し、骨を高野山に納めると、縁故を頼って東国へ下っていった。
こうして、都を離れる人々の心模様が様々に浮き彫りになる中、寿永2年(1183年)7月25日、平家一門は、7千余騎とともに西国へ落ちていった。これらは、東国、北国の戦で、この2、3年の間に討ち漏らされて、わずかに生き残った者たちであった。
↑ ページの先頭へ
20.福原落(ふくはらおち)
都を去った人々は三々五々、福原に集結する。宗盛は主だった侍数百人を集め、平家と安徳天皇への忠誠を確認し、待ち受ける苦難を励ます。侍たちは、どこまでも供をすると誓う。その夜は福原に一泊した。翌日、贅を極めた屋敷や御所に火をかけ、一門は舟に乗り込み西海へ旅立つ。
【PR】
↑ ページの先頭へ
1.山門御幸(さんもんごこう)
7月24日にいち早く平家から逃れ、鞍馬に向かった後白河法皇は、その後、比叡山に逃げ、聞きつけた藤原一族が法皇のもとに参集した。28日、法皇は義仲軍5万騎に護衛され、源氏の白旗とともに都に入り、行家と義仲に対面、ただちに平家追討を命じた。
故高倉院には、安徳天皇のほか3人の皇子があった。二の宮は安徳天皇とともに平家に連れ去られたが、三の宮、四の宮は都に留まっていた。法皇はこの2人の孫を御所に呼び寄せ対面した。まず三の宮が召されるが、法皇を嫌がってむずがったのでさっさと退出させられ、次に四の宮を召すと、この宮は少しも嫌がらず法皇に懐き喜んだので、四の宮を新帝(のちの後鳥羽天皇)として即位させることにした。
↑ ページの先頭へ
2.名虎(なとら)
8月10日、後白河法皇の殿上で、今回の平家追放に功のあった源氏に対する除目が行われ、義仲は左馬頭・伊予守となり、行家は備前守となる。16日、平家一門の官職が解かれるが、平時忠以下3名は三種神器を取り戻す交渉相手として官職を解かれなかった。20日、安徳天皇の弟の四の宮が即位し、後鳥羽天皇となった。しかし、安徳天皇のもとには三種神器があり、譲位したわけではない。国内に天皇が2人いるという異常事態になってしまった。
その昔、第55代文徳天皇が崩御した時、帝位をめぐって惟喬親王(これたかしんおう)と惟仁親王(これひとしんおう)が争いとなり、公卿たちはどちらを選ぶか話し合ったが、私情をはさんだとのそしりを避けるため相撲・競馬の勝敗で決めようという話になった。競馬では決着がつかず、相撲はそれぞれの側から大男の名虎(なとら)と小男の能雄(よしお)が出て取り組み、あわや能雄が敗れるかと思われた時、高僧の法力によって能雄が逆転勝利、惟仁親王が即位して清和天皇となった、という話がある。
↑ ページの先頭へ
3.緒環(おだまき)
都落ちした平家一門は筑前国大宰府に着き、内裏を造ろうとするが、思うようには進まない。一門は宇佐八幡宮(大分県)に参詣し、宗盛は夢で宇佐八幡のお告げを受けるが、平家の暗い行く末を暗示するものだった。そんな時、都から豊後国へ平家追討の命令が下り、 代官の藤原頼経(よりつね)は、豪族の緒方維義(おがたのこれよし)にその任を負わせた。緒方の祖先は、明神の化身である大蛇であるという怪奇な伝説があり、そのように恐ろしい者の子孫であるので、九州の有力な武士団はみな緒方に従った。
↑ ページの先頭へ
4.大宰府落(だざいふおち)
平家側に、豊後国の緒方維義(おがたこれよし)が背いたという知らせが届いた。緒方は重盛の御家人だったので、重盛の次男である資盛(すけもり)が説得に赴いたが、追い返された。緒方が3万余騎で攻め寄せると聞いて、多勢に無勢の一門は大宰府を落ち、海岸伝いにさまよった。悲惨な逃避行を続ける中、重盛の三男、清経(きよつね)は絶望のあまり入水自殺した。
その後、四国の讃岐(香川県)にたどり着き、屋島(やしま)を行在所(あんざいしょ:天皇の御座所)と定める。遠く白鷺が群がるのを見ては、源氏が旗を挙げたのかと疑い、鴈(がん)が鳴くのを聞いては、源氏が舟を漕いで攻めてきたかと不安になる。潮風は肌を刺し、女房たちの眉墨と顔色もしだいに褪せ衰え、都を恋しく思う涙を抑えられない。
↑ ページの先頭へ
5.征夷将軍の院宣(せいいしょうぐんのいんぜん)
10月、後白河法皇は鎌倉に使者を派遣し、頼朝を征夷大将軍に任命する。鶴岡八幡宮(鎌倉市)で院宣を拝受した頼朝は、顔は大きく背は低いものの、容貌は優美で言葉に訛りもなく、威厳をたたえていた。一方、都に入った義仲と行家は傍若無人に振舞い、官位を思い通りに上げ、さらに拝領した国について選り好みを言い出す始末だった。また頼朝は、命令に従わない奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)、常陸の佐竹高義(さたけのたかよし)追討の院宣を求める。
↑ ページの先頭へ
6.猫間(ねこま)
帰京した使者から頼朝の優美な態度を聞き、法皇はじめ近臣たちも満足した。しかし義仲は、色白の好男子ではあるものの、教養もなく粗野で言葉遣いも汚いので、都人の反感を買っていた。たとえばこのような話がある。ある日、猫間中納言光隆(みつたか)卿が訪れた。猫間とは、光隆の屋敷の地名にちなんだ通称だったが、義仲は動物の猫扱いするなど、無礼極まりなかった。また、牛車の乗り方も知らず、牛飼いを困らせた挙句に切り殺した。義仲は作法を知らぬ田舎者と笑われ、評判を落としていった。
↑ ページの先頭へ
7.水島合戦(みずしまかっせん)
大宰府を落ちて屋島に布陣した平家は、勢力を回復して中国・四国地方の14ヵ国を支配下に置いた。義仲は、都での悪評を挽回するためにも、平家を討伐しようと追討軍を派遣、閏10月1日、備中の水島(岡山県倉敷市)で両軍の海戦が行われた。源氏の5百余艘に対し、平家は千余艘で押し寄せ、知盛の巧妙な戦法で平家水軍の圧勝に終わった。源氏は敗走、平家はようやく連戦連敗の汚名を雪いだ。
↑ ページの先頭へ
8.瀬尾最期(せのおさいご)
水島合戦での敗戦を聞いた義仲は、山陽道に1万余騎を差し向ける。その中に、備中(岡山県)の瀬尾太郎兼康(せのおのたろうかねやす)という平家方の老将がいた。彼は倶利伽羅峠の戦いで義仲の捕虜となったが、義仲は瀬尾の豪勇を惜しんで斬らなかった。瀬尾は義仲に従うふりをしながら、再び平家の元に走る機会をうかがっていた。そして、この機に乗じて帰郷し兵を集め、息子ともども源氏を襲撃したが、義仲配下の今井兼平(いまいのかねひら)軍と激闘の末に戦死した。義仲は瀬尾を斬っておけばよかったと後悔したものの、彼の猛勇ぶりを讃えた。
↑ ページの先頭へ
9.室山合戦(むろやまかっせん)
義仲は、備中に兵を集めて屋島に攻め寄せようと準備していた。ところが、京にいた叔父の行家は、義仲がいないうちに都を我が物にしようと画策したらしく、法皇の側近を通じて義仲を中傷しているとの知らせが届いた。義仲は慌てて都に戻る。行長は具合が悪いと思ったか、義仲に会わないように播磨国(兵庫県)に下って平家と戦う。知盛・重衡の率いる平家軍2万騎に向かって、わずか5百騎で突撃し、勇猛果敢に戦ったが敗れ、海上に逃れて河内国長野(大阪府河内長野市)に退却した。水島合戦に続く勝利に、平家はますます勢いづいた。
↑ ページの先頭へ
10.鼓判官(つづみほうがん)
このころ都では、義仲配下の源氏の武士の乱暴や狼藉が目に余っていた。人々は、「平家が都を支配していた頃は、恐ろしかったけれども衣装を剥ぎ取られるようなことはなかったが、源氏に替わると、かえって悪くなった」と嘆く。後白河法皇は義仲のもとへ側近の鼓判官平知康(つづみほうがんともやす)を派遣し、兵の乱暴を抑えるように要請する。しかし義仲は、聞かないどころか、知康を馬鹿にし嘲笑した。怒った知康は、法皇に義仲追討を直訴した。法皇方は戦闘準備を始めるが、招集できたのは、寺の悪僧、礫(つぶて)投げの名人、身分の低いあぶれ者や浮浪者程度の者ばかりだった。指揮は知康がとることになった。
↑ ページの先頭へ
11.法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)
後白河法皇の戦闘準備を知った義仲は激怒し、止めようとする今井兼平の声も聞かず、11月19日、法皇の法住寺御所に攻め寄せる。法皇方は、知康のぶざまな指揮のせいもあり、プロの戦闘集団である義仲軍の前にはひとたまりもなかった。法皇、後鳥羽天皇は捕えられ、天台座主明雲(めいうん)や三井寺の管長なども殺害され、衣装を剥ぎ取られ、裸で戦場をさまよう貴人もいた。
翌20日、義仲が六条河原で首実検をすると、630余人であった。義仲は「天下の主君との合戦に勝ったからには、天皇になろうか、法皇になろうか、いや関白に」などと豪語した。23日には、49人の官職を解いて、後ろ盾となった前関白基房のわずか12歳の子息を摂政とするなど、身勝手な人事を行い、平家以上の悪行と非難された。
鎌倉の頼朝は、義仲追討のために、弟の範頼(のりより)と義経(よしつね)を大将として軍勢を差し向けていたが、事の次第を聞いて、むしろ鼓判官(知康)の無思慮のほうを非難した。慢心した義仲は、平家に鎌倉攻略を持ちかけ和解しようとするが、平家は拒絶する。東の頼朝、都の義仲、西の平家の三者がにらみ合ったまま、この年は暮れた。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】