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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第10)~その2

巻第10-1939~1943

1939
霍公鳥(ほととぎす)汝(な)が初声(はつこゑ)は我(わ)れにもが五月(さつき)の玉に交(まじ)へて貫(ぬ)かむ
1940
朝霞(あさがすみ)たなびく野辺(のべ)にあしひきの山霍公鳥(やまほととぎす)いつか来(き)鳴かむ
1941
朝霧(あさぎり)の八重山(やへやま)越えて呼子鳥(よぶこどり)鳴きや汝(な)が来るやどもあらなくに
1942
霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞くや卯(う)の花の咲き散る岡(をか)に葛(くず)引く娘子(をとめ)
1943
月夜(つくよ)よみ鳴く霍公鳥(ほととぎす)見まく欲(ほ)り我(わ)れ草(くさ)取れり見む人もがも
 

【意味】
〈1939〉ホトトギスよ、お前の初声を私にくれないだろうか。五月の薬玉(くすだま)に一緒に通して飾りたいから。

〈1940〉朝霞がたなびくこの野辺に、いつになったら山のホトトギスがやってきて鳴いてくれるだろうか。

〈1941〉幾重にも重なる山を越えて、呼子鳥よ 鳴きながらおまえはやって来たのか、泊まる家もないのに。

〈1942〉ホトトギスが鳴いている声を聞きましたか? 卯の花が咲いては散っていくこの岡で、葛を刈り取っている娘さんよ。

〈1943〉月が美しいので、鳴くホトトギスを一目見たいと思って、私は草を刈り取っています。一緒に見る人がいたらいいのに。

【説明】
 「鳥を詠む」歌。 『万葉集』には多くの動物が登場しますが、最も多いのがホトトギスです。1939の「我れにもが」の「もが」は願望。「五月の玉」は、五月五日の節句に邪気を払うため、種々の香料を入れた綿の袋に菖蒲、橘花などをつけた緒を垂れて室内にかける風習があり、その緒につける玉のこと。霍公鳥の初声を珍重なものとして玉のように感じています。巻第8-1465にある藤原夫人の「霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに」の歌は、この歌に先行するものとみられます。1940の「あしひきの」は「山」の枕詞。1941の「朝霧の」は「八重」の枕詞。「八重山」は幾重にも重なっている山。

 1942の「葛」は原野に自生するマメ科の植物で、その繊維から葛布(くずふ)という布を織っていました。葛をとることを引くといい、葛引きは女性の仕事でした。乙女に歌いかけている男は、散策中の貴族でしょうか。窪田空穂は、「作者は卯の花の咲き散る岳へ、ほととぎすの声を聞こうと思って来たのであろう。するとそこの山田で、娘が草を取っているのを見かけて、ほととぎすの声でその時節だと知ってのことだろうと解したのである。歌は自身を後へ引き下げ、娘子を立てて詠んでいるもので、(中略)歌材が珍しいばかりでなく、庶民と貴族との生活がおのずから対照されていて、美しさと深みのあるものとなっている」と述べています。なお、「葛」の原文は「田草」で、従来は「くず」と読まれていたのを『全註釈』が「くさ」に改めたのに従い、田の草と捉えています。

1943の「月夜よみ」は、月が美しいので。「見まく欲り」は、見たいと思って。「もが」は願望。

巻第10-1944~1947

1944
藤波(ふぢなみ)の散らまく惜(を)しみ霍公鳥(ほととぎす)今城(いまき)の岡(をか)を鳴きて越ゆなり
1945
朝霧(あさぎり)の八重山(やへやま)越えて霍公鳥(ほととぎす)卯(う)の花辺(はなへ)から鳴きて越え来(き)ぬ
1946
木高(こだか)くはかつて木植ゑじ霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴き響(とよ)めて恋(こひ)増さらしむ
1947
逢ひかたき君に逢へる夜(よ)霍公鳥(ほととぎす)他(あた)し時ゆは今こそ鳴かめ
 

【意味】
〈1944〉藤の花の散るのを惜しんで、ホトトギスが今城の岡を鳴きながら越えていった。

〈1945〉朝霧が立ち込める幾重もの山を越えて、ホトトギスが卯の花が咲く辺りに沿って、鳴きながらやってきた。

〈1946〉高々と茂るような木は決して植えまい。ホトトギスが梢に飛んできて、しきりに鳴くと恋しさがつのるから。

〈1947〉滅多に逢えないお方に逢っている今宵。ホトトギスよ、ほかの時より、今こそ激しく鳴いておくれ。

【説明】
 「鳥を詠む」歌。 1944の「藤波」は藤の花。「今城の岡」は所在未詳ながら、奈良県吉野郡大淀町今木、京都府宇治市彼方町の東、離宮山などの説があります。「なり」は、詠嘆。1945の「朝霧の」は「八重山」の枕詞。「花辺」は、花の咲く辺り。1946の「かつて」は打消しを伴い、決しての意。「響めて」は、あたり一帯に響かせて。1947は、客が来て酒宴を開き、主人方が客をもてなすために詠んだ歌。「他し時ゆ」の「ゆ」は比較、より。「今こそ鳴かめ」の「こそ~め」は、勧誘・希望を表す語法。霍公鳥は、初夏のころに山からやって来て、一時期さかんに鳴き立てて、間もなく去っていきます。

巻第10-1948~1951

1948
木(こ)の暗(くれ)の夕闇(ゆふやみ)なるに [一云 なれば] 霍公鳥(ほととぎす)いづくを家と鳴き渡るらむ
1949
霍公鳥(ほととぎす)今朝の朝明(あさけ)に鳴きつるは君聞きけむか朝寐(あさい)か寝けむ
1950
霍公鳥(ほととぎす)花橘(はなたちばな)の枝(えだ)に居(ゐ)て鳴き響(とよ)もせば花は散りつつ
1951
うれたきや醜(しこ)ほととぎす今こそば声の嗄(か)るがに来鳴き響(とよ)めめ
 

【意味】
〈1948〉木陰が真っ暗になってしまう夕闇なのに、ホトトギスは、いったいどこを棲みかと鳴きわたっていくのだろう。

〈1949〉ホトトギスが今朝の明け方に鳴いていましたが、あなたはお聞きになったでしょうか、それとも朝寝をしてお聞きにならなかったのでしょうか。

〈1950〉ホトトギスが花橘の枝にとまって、声を響かせて鳴き立てるものだから、花ははらはらと散り落ちる。

〈1951〉ああ、いまいましい、ろくでなしのホトトギスめ。今の今こそやってきて、声のかすれるまで鳴き立てくれればよいのに。

【説明】
 「鳥を詠む」歌。1948の「木の暗 」は、木が茂って暗いこと。1949は妻が夫に贈った歌。窪田空穂は、「当時の人々は早起きであり、また『朝明』という時刻は、この時代には物思わしい時刻としていたことが他の歌で知られる。ここもそれで、妻は夫恋しい心を抱いてほととぎすを聞いたのである」「きわめて何気ない語に、夫の疎遠を恨む心をからませていったもので、才女を思わせる歌である」と述べています。1951の「うれたきや」は、ああ腹立たしいの意。「醜」は、罵りの気持ちをこめた言葉。「こそ~め」は、勧誘・希望を表現する語。「がに」は、するほどに。

巻第10-1952~1955

1952
今夜(こよひ)のおほつかなきに霍公鳥(ほととぎす)鳴くなる声の音の遥(はる)けさ
1953
五月山(さつきやま)卯(う)の花月夜(はなづくよ)霍公鳥(ほととぎす)聞けども飽かずまた鳴かぬかも
1954
霍公鳥(ほととぎす)来(き)居(ゐ)も鳴かぬか我(わ)がやどの花橘(はなたちばな)の地(つち)に落ちむ見む
1955
霍公鳥(ほととぎす)いとふ時なし菖蒲草(あやめぐさ)縵(かづら)にせむ日こゆ鳴き渡れ
 

【意味】
〈1952〉今宵は心が落ち着かなくて、ホトトギスの鳴く声が、なんだか遥か遠くの声に聞こえる。

〈1953〉五月の山に、卯の花がほの白く浮かぶ美しい月夜、こんな夜のホトトギスの声はいくら聞いていても飽きない。まだまだ鳴いてくれないだろうか。

〈1954〉ホトトギスよ ここに来て枝に止まって鳴いてくれないか。わが家の庭の橘の花が散るのを見ていたい。

〈1955〉ホトトギスの声はいつ聞いても嫌な時はないが、菖蒲草で髪を飾る日には、必ずここを鳴き渡ってくれよ。

【説明】
 「鳥を詠む」歌。1952の「 今夜のおほつかなきに」は、今夜の月が暗くて辺りがはっきり分からない、との解釈もあります。1953の「五月山」は五月の山。「卯の花月夜」は、卯の花が咲いている月夜。「鳴かぬかも」の「ぬか」は願望、「も」は詠嘆。作家の田辺聖子は、「この巻は平均的な風流の歌が多いが、『さつき山・卯の花月夜・ほととぎす』とイメージの札が次々と重ねられていくところがたのしい」と言っています。また窪田空穂は、「『五月山卯の花月夜ほととぎす』と、名詞だけを三つ続けて、一助詞をも用いていないのであるが、それがいささかの無理もなく、鮮明に印象されて来る」と述べています。

 1954の「来居」は、来て止まって。「も~ぬか」は、願望。「やど」は、家の敷地、庭先。1955の「いとふ時なし」は、嫌な時はない。「あやめぐさ」は、菖蒲(しょうぶ)。「縵」は、つる草や草木の花枝を巻きつけて髪飾りとしたもの。5月5日の端午の節句の日に、菖蒲草(あやめぐさ)を縵(かづら)にして飾る習俗がありました。「こゆ」は、ここを通って、ここから。

巻第10-1956~1960

1956
大和(やまと)には鳴きてか来(く)らむ霍公鳥(ほととぎす)汝(な)が鳴くごとになき人思ほゆ
1957
卯(う)の花の散らまく惜(を)しみ霍公鳥(ほととぎす)野に出(い)で山に入(い)り来(き)鳴き響(とよ)もす
1958
橘(たちばな)の林を植(う)ゑむ霍公鳥(ほととぎす)常(つね)に冬まで棲(す)みわたるがね
1959
雨晴(あまば)れの雲にたぐひて霍公鳥(ほととぎす)春日(かすが)をさしてこゆ鳴き渡る
1960
物思(ものも)ふと寐(い)ねぬ朝明(あさけ)に霍公鳥(ほととぎす)鳴きてさ渡るすべなきまでに
 

【意味】
〈1956〉大和には、今ごろ来て鳴いているだろうか、ホトトギスよ。お前が鳴くたびに亡き人が偲ばれてならない。

〈1957〉卯の花が散ってしまうのを惜しんでか、ホトトギスは、野に出たり山に帰ったりしながら鳴き声を響かせている。

〈1958〉橘の木をたくさん植えて林にしよう。ホトトギスがいつも、さらに冬になっても棲みついてくれるように。

〈1959〉雨が上がり、去り行く雲の流れに連れ添って、ホトトギスが、ここから春日のあたりに向かって鳴き渡っていく。

〈1960〉物思いをして寝られなかった夜明けに、ホトトギスが鳴きながら飛んでいった。何ともやるせないまでに。

【説明】
 「鳥を詠む」歌。 1956は、大和の人が旅先にあって、その地ホトトギスの鳴き声を聞き、大和でも来て鳴いているだろうかと、故人(おそらく妻)のことを偲んでいる歌です。当時、人が死ぬと、その霊魂がホトトギスの形を取って、生前に心を寄せていた地へ来るという信仰があり、それを踏まえています。1958の「がね」は、希望的推測。1959の「こゆ」は、ここから。1959の「たぐひて」は、連れ添って、伴って。1960の「すべなきまでに」は、やるせないまでに。

巻第10-1961~1965

1961
我(わ)が衣(きぬ)を君に着せよと霍公鳥(ほととぎす)我(わ)れをうながす袖(そで)に来居(きゐ)つつ
1962
本(もと)つ人(ひと)霍公鳥(ほととぎす)をやめづらしく今か汝(な)が来(こ)し恋ひつつ居(を)れば
1963
かくばかり雨の降らくに霍公鳥(ほととぎす)卯(う)の花山(はなやま)になほか鳴くらむ
1964
黙(もだ)もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思(ものも)ふ時に鳴きつつもとな
1965
思ふ子が衣(ころも)摺(す)らむににほひこそ島の榛原(はりはら)秋立たずとも
 

【意味】
〈1961〉私が着ている衣をあの方に着せなさいと、ホトトギスがしきりに催促しています。私の袖に来てとまって。

〈1962〉古なじみのあの人が、ホトトギスを珍しがって来てくれたのか、ちょうどあの人を恋しがっていたところへ。

〈1963〉こんなにも雨が降り続くのに、ホトトギスは、卯の花が咲きにおう山辺で、今もなお鳴いているのだろうか。

〈1964〉何もない時に鳴いてほしいヒグラシなのに、こんなに物思いにふけっている時に、むやみやたらと鳴き続けて。

〈1965〉愛しく思うあの子が衣を染めるのにいいように、美しく色づいておくれ、ここ島の榛原よ、秋はまだ来ないが。

【説明】
 1961~1963は「鳥を詠む」歌。1962の「本つ人」は、古なじみの人。1963の「雨の降らくに」は、雨の降ることであるのに。「卯の花山」は、卯の花の咲いている山。「なほか鳴くらむ」は、それでも鳴いているのであろうか。1964は「蝉を詠む」歌。「黙」は、黙っている、何事もなくている。「鳴かなむ」の「なむ」は、願望。「もとな」は、わけもなく、むやみに。恋をして悩んでいる時に、ヒグラシの声は似つかわしくない、静かに物思いに耽りたい、と言っています。1965は「榛を詠む」歌。「榛」は、ハンノキ。「にほひこそ」は、美しく色づいておくれ。「こそ」は、希求の助詞。「島」は、明日香村の島の庄か。

巻第10-1966~1970

1966
風に散る花橘(はなたちばな)を袖(そで)に受けて君が御跡(みあと)と偲(しの)ひつるかも
1967
かぐはしき花橘を玉に貫(ぬ)き贈らむ妹(いも)はみつれてもあるか
1968
ほととぎす来鳴(きな)き響(とよ)もす橘(たちばな)の花散る庭を見む人や誰(た)れ
1969
我が宿(やど)の花橘(はなたちばな)は散りにけり悔(くや)しき時に逢へる君かも
1970
見わたせば向ひの野辺(のへ)のなでしこの散らまく惜(を)しも雨な降りそね
 

【意味】
〈1966〉風に舞い散る橘の花びらを袖に受け止め、その香りをあなたの形見のように偲んでいます。
 
〈1967〉香りのよい花橘の実を薬玉にして贈ってやろう。彼女はやつれ果てて病床についているのではないだろうか。

〈1968〉ホトトギスが来て鳴き声を響かせている、橘の花の散っている庭、この庭を一緒に見て楽しんでくれる人は誰だろう。

〈1969〉我が家の庭の花橘はすでに散ってしまいました。こんな時にあなたにお逢いするのがとても残念です。

〈1970〉ここから見わたすと、向こうの野にナデシコが咲いている。散ってしまうのが惜しいから、雨よ降らないでおくれ。

【説明】
 「花を詠む」歌。1966~1969の「橘」は柑橘類の一種で、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の代に、非時香菓(ときじくのかくのみ:時を定めずいつも黄金に輝く木の実)を求めよとの命を受けた田道間守(たじまもり)が、常世(仙境)に赴き、10年を経て、労苦の末に持ち帰ったと伝えられる植物です。しかしその時、垂仁天皇はすでに崩御しており、それを聞いた田道間守は、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺しました。次代の景行天皇が田道間守の忠を哀しみ、垂仁天皇陵近くに葬ったとされます。そうした伝説が影響してか、宮廷の貴族たちは好んで庭園に橘を植えたといいます。

 1966の「君が御跡と」の「跡」は、形見、名残、足跡。原文は「為君御跡」で、「君がみためと」と訓み、「あなたに差し上げるために」のように解するものもあります。1967の「みつる」は、やつれる。1968の「響もす」は、響かせる。1969の「宿」は、家の敷地、庭先。この歌は類想が多く、来訪した客に対して、挨拶の心をもって詠んだ社交上の歌であるとされます。「花橘」の代わりに色んな花の名を入れて使えそうな歌です。1970の「雨な降りそね」の「な~そね」は禁止。

巻第10-1971~1974

1971
雨間(あまま)明けて国見(くにみ)もせむを故郷(ふるさと)の花橘(はなたちばな)は散りにけむかも
1972
野辺(のへ)見ればなでしこの花咲きにけり我(あ)が待つ秋は近づくらしも
1973
吾妹子(わぎもこ)に楝(あふち)の花は散り過ぎず今咲ける如(ごと)ありこせぬかも
1974
春日野(かすがの)の藤は散りにて何をかもみ狩(かり)の人の折りてかざさむ
 

【意味】
〈1971〉雨が晴れて国見をしようと思うのに、故郷の橘の花は、この雨のためにもう散ってしまっただろうか。
 
〈1972〉野を見れば、ナデシコが一面に咲いている。私が待ちに待った秋が近づいてきたようだ。

〈1973〉彼女に逢うまで、アウチの花は散ってしまわないで、今咲いているままいてくれないだろうか。

〈1974〉春日野の藤の花はとっくに散ってしまい、薬狩の大宮人たちは、いったい何の花を折り取って髪にかざせばいいのだろう。

【説明】
 「花を詠む」歌。1971の「雨間」は、雨が降っている間。「雨間明けて」は、雨が晴れて。「国見」は、高い所に上って広い展望を楽しむこと。1973の「吾妹子に」は「逢ふ」と続き、「楝(あふち)」の枕詞。楝は栴檀(せんだん)の木。夏に薄紫色の可憐な花が咲きます。1974の「春日野」には、藤原氏を氏神とする春日大社があり、今でも巫女たちが藤の花を髪飾りにして神に仕えています。「御狩」は5月5日に行われた薬狩のことで、春日野での成年式でもあったと見る説があります。 

巻第10-1975~1979

1975
時ならず玉をぞ貫(ぬ)ける卯(う)の花の五月(さつき)を待たば久しくあるべみ
1976
卯(う)の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥(ほととぎす)鳴きてさ渡る君は聞きつや
1977
聞きつやと君が問はせる霍公鳥(ほととぎす)しののに濡れてこゆ鳴き渡る
1978
橘(たちばな)の花散る里に通ひなば山霍公鳥(やまほととぎす)響(とよ)もさむかも
1979
春さればすがるなす野の霍公鳥(ほととぎす)ほとほと妹(いも)に逢はず来(き)にけり
 

【意味】
〈1975〉まだその時期ではないのに、玉を通す卯の花が咲く五月を待っていると、とても待ち遠しくてなりません。

〈1976〉卯の花が咲き散る岡の上を、ホトトギスが鳴いて渡っていきましたよ、あなたは聞きましたか?
 
〈1977〉鳴き声を聞いたかいとお尋ねのホトトギスは、びっしょりと濡れながら、ここから鳴いて渡っていきました。

〈1978〉橘の花が咲いて散る里に通って行ったなら、山ホトトギスの鳴く声が響き渡るだろうか。

〈1979〉春になるとすがるが羽音を立てて飛び交う野のホトトギス、その名のようにほとんど妻に逢えずに帰って来たことだ。

【説明】
 1975は「花を詠む」歌。5月の節句の日に、花の実に糸を通して薬玉をつくり、邪気を払い健康を祈った風習のことを言っています。「卯の花」は、旧暦4月の卯月に咲くのでこの名が付いた、あるいは、卯の花が咲く月なので「卯月」となったともいわれます。
 
 1976・1977は問答歌。卯の花が散ると、霍公鳥(ほととぎす)はその地を去らねばならないと考えられていたようです。1976は妻が夫に贈った歌で、霍公鳥が、私が住んでいる岡を通って、そちらへ鳴いて行きましたが、あなたは聞きましたかといって、夫のあわれを汲む心を問うと同時に、夫の自分に対する心の足りないのを織り交ぜていったものです。「岡ゆ」の「ゆ」は、~を通って。「さ渡る」の「さ」は接頭語。1977は夫が答えた歌。「問はせる」は「問ふ」の敬語。「しののに」は「しとどに」の古語で、びっしょりと。雨か霧によってびっしょりと濡れた霍公鳥を、あわれを知る自分の涙に濡れて、の意でいっています。いずれの歌も、それぞれの気持ちを婉曲的に込め、技巧を凝らした味わい深い歌となっています。
 
 1978は比喩歌。「橘の花散る里」を恋人の住む里に喩え、「山霍公鳥響もす」を人々が警戒して噂することに喩えています。つまり、「恋人のいる里へ通って行ったなら、周囲の人たちが警戒して噂するだろうか」と言っています。1979は「鳥に寄せる」歌。上3句は「ほとほと」を導く序詞。同音関係で掛かっています。「春されば」は、春になると。「すがる」はジガバチの古名。「なす」は羽音を立てる。「ほとほと」は、ほとんど。

巻第10-1980~1983

1980
五月山(さつきやま)花橘(はなたちばな)に霍公鳥(ほととぎす)隠(こも)らふ時に逢へる君かも
1981
霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴く五月(さつき)の短夜(みじかよ)もひとりし寝(ぬ)れば明かしかねつも
1982
晩蝉(ひぐらし)は時と鳴けども恋(こ)ふるにし手弱女(たわやめ)われは時わかず泣く
1983
人言(ひとごと)は夏野(なつの)の草の繁(しげ)くとも妹(いも)と我(あ)れとし携(たづさ)はり寝ば
  

【意味】
〈1980〉五月の山に咲く橘の花陰にホトトギスがこもっているように、家の中に籠っていたら、ひょっこりあなたが逢いにきてくれました。

〈1981〉ホトトギスが鳴き立てる短夜の五月だけれども、一人で寂しく寝ているとなかなか夜明けにならない。
 
〈1982〉ヒグラシは悲しく鳴くといっても時を定めていますが、恋している手弱女の私は、時に関係なく泣いています。

〈1983〉人の噂が夏の野草が茂るようにうるさくても、あなたと私が手をとりあって寝てしまえば・・・。

【説明】
 1980・1981は「鳥に寄せる」歌。1980の上3句は「隠らふ」を導く序詞。「隠らふ」は、隠るの継続。

 1982は「蝉(ひぐらし)に寄せる」歌。「時と」は、鳴くべき時として。古来、ヒグラシは美しい鳴き声のセミとして愛されてきました。歌にあるように、ヒグラシが鳴く時間帯は基本的に早朝または夕方であり、あのカナカナカナカナ・・・とよく響く鳴き声には、涼感と共に、もの悲しさを感じさせられます。ここでも、恋に悩む女が、ヒグラシの鳴く声に刺激されて悲しみを深めています。「恋ふるにし」の「し」は、強意。「手弱女」は、しなやかでか弱い様子の女性のこと。ほかに、しなやかで優美な女性、たおやかな女の意もあり、歌の優美で女性的な風情を「たをやめぶり」ともいいます。

 1983は「草に寄せる」男の歌。「人言」は他人の噂。その噂のうるささを、手がつけられないほど茂り放題となる夏草に喩えています。「我れとし」の「し」は強意。「携はり寝ば」は、共に寝たならばで、下に嬉しかろうの意が省かれています。集団的生活のなかで、個人的行動が難しかった嘆きの歌ですが、作家の田辺聖子は次のように評しています。「直截的な表現で、それをどこかぶきっちょに、ぶこつに言っている。ぶっきらぼうな歌といってもいい。洗練された都会人ならもっとうまい言い回しをしたろうが、ぶったぎるような言い方に真実が感じられる」

巻第10-1984~1987

1984
このころの恋の繁(しげ)けく夏草の刈り掃(はら)へども生(お)ひしくごとし
1985
ま葛(くず)延(は)ふ夏野(なつの)の繁(しげ)くかく恋ひばまこと我(わ)が命(いのち)常(つね)ならめやも
1986
我(わ)れのみやかく恋すらむ杜若(かきつはた)丹(に)つらふ妹(いも)はいかにかあるらむ
1987
片縒(かたよ)りに糸をぞ我(わ)が縒(よ)る我(わ)が背子(せこ)が花橘(はなたちばな)を貫(ぬ)かむと思ひて
 

【意味】
〈1984〉このごろの恋心の激しさは、刈り掃っても掃ってもまた生えてくる夏草のようだ。

〈1985〉葛が一面に這い伸びる夏の野のように、激しく恋い焦がれていたら、ほんとうに私の命は長く続くだろうか、続きはしない。

〈1986〉私だけがこんなに恋い焦がれているのか、杜若のように紅い頬をしたあの子は、どんな気持ちでいるのだろう。

〈1987〉糸の片方ばかりに私は縒りをかけています。愛しいあなたのための橘の花を、糸に通してつないでおきたいと思って。

【説明】
 1984~1986は「草に寄せる」歌。1984の「繁けく」は「繁し」の名詞形。「生ひしく」の「しく」は、続く。1985の「ま葛」の「ま」は接頭語。秋の七草の一つ。「常ならめやも」の「常」は、永続、不変。「やも」は反語。1986の「杜若」は「丹つらふ」の枕詞。1987は「花に寄せる」歌。「方縒り」は、糸の片方だけを縒ること。片思いに譬えています。

巻第10-1988~1991

1988
鴬(うぐひす)の通(かよ)ふ垣根(かきね)の卯(う)の花の憂(う)きことあれや君が来まさぬ
1989
卯(う)の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思(かたもひ)にして
1990
我(わ)れこそば憎くもあらめ我(わ)がやどの花橘(はなたちばな)を見には来(こ)じとや
1991
霍公鳥(ほととぎす)来鳴(きな)き響(とよ)もす岡辺(をかへ)なる藤波(ふぢなみ)見には君は来(こ)じとや
 

【意味】
〈1988〉ウグイスの通ってくる垣根に咲く卯の花ではないが、うっとうしいことでもあるのだろうか、あの方はちっとも来て下さらない。

〈1989〉卯の花の咲くようには、心を開いてくれないあの人に、ずっと恋い続けるなのだろうか、片思いのままで。

〈1990〉この私こそが憎いとお思いでしょうが、だからといって、我が家の庭の橘の花さえ見にいらっしゃらないというのですか。

〈1991〉ホトトギスが来て鳴き立てている、その岡の辺に咲いている藤の花を見には、あなたはいらっしゃらないおつもりですか。

【説明】
 「花に寄せる」歌。1988の上3句は「憂き」を導く序詞。1989は、片思いをしている男の歌。「咲くとはなしにある人」は、恋の実らない相手。窪田空穂は、いかにもかすかな言い方で、しかし心の明らかなもので、巧みであると評しています。「恋ひや渡らむ」の「や」は、疑問の係り。1990・1991は、足を遠くしている夫に妻が贈った歌。1991の「藤波」は、藤の花房が風に揺れるさまを波に喩えた語。

巻第10-1992~1995

1992
隠(こも)りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出(で)よ朝(あさ)な朝(さ)な見む
1993
外(よそ)のみに見つつ恋ひなむ紅(くれなゐ)の末摘花(すゑつむはな)の色に出(い)でずとも
1994
夏草(なつくさ)の露(つゆ)別(わ)け衣(ころも)着(つ)けなくに我(わ)が衣手(ころもで)の干(ふ)る時もなき
1995
六月(みなづき)の地(つち)さへ裂(さ)けて照る日にも我(わ)が袖(そで)干(ひ)めや君に逢はずして
  

【意味】
〈1992〉人目を忍んで心ひそかに恋続けるのはつらいものです。せめて、なでしこの花になって我が家の庭に咲き出てください。そうすれば朝ごとに見ることができますのに。
 
〈1993〉せめて遠目にだけでも姿を見て慕っていよう。鮮やかな紅花のように、はっきりと思いを打ち明けなくても。

〈1994〉夏草の露にまみれて踏み分けてきたような、そんな着物を着たわけでもないのに、私の着ている着物の袖は涙で乾く時がありません。
 
〈1995〉六月(新暦では七月)の、地面さえ裂けて照りつける日射しにも、私の着物の袖は涙で乾くことがありません。あなたにお逢いできないので。

【説明】
 1992~1993は「花に寄せる」歌。1992の「隠りのみ」は、秘密にばかりして。上掲の解釈は女の歌としましたが、男の立場から、関係を結んでいる女がいつまでも母に秘密にしているのに気を揉み、なでしこの花のように咲き出て母に打ち明けよ、そうして毎朝見るように逢おう、と命じたものとする解釈もあります。1993の「外のみに」は、せめて遠目にだけでも。「末摘花」は、紅花(べにばな)の別名で、先の方に咲く花を摘んで強い赤色を製するところからそう呼ばれます。「色に出でずとも」の「色に出づ」は表面にあらわす意で、恋を打ち明けていわずとも。1994は「露に寄せる」歌。「露別け衣」は、夏草の露を分ける衣の意で、朝の労働服のことか。新しく美しい語です。「着けなくに」の「なくに」は、逆接。

 1995は「日に寄せる」歌。「地さへ裂けて」は、地までも干割れて。「干めや」の「や」は、反語。作家の田辺聖子はこの歌を評し、「形容が斬新で、烈日と地割れをもってきたところが、この歌の面白みであろう。真夏の容赦ない暑さや、乾き切った地面などが、この時代より以後の歌によまれることはない。いかにも万葉ぶりの生活感あふれる歌である」と言っており、窪田空穂は、「『六月の地さへ裂けて照る日にも』は、眼前を捉えたもので、その捉え方の大きく、言い方の直線的に、力のある点は、特色のあるものである」と言っています。

巻第10-2034~2038

2034
織女(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織(お)る布の秋さり衣(ごろも)誰(た)れか取り見む
2035
年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠(よぎりごも)れる遠妻(とほづま)の手を
2036
我(あ)が待ちし秋は来(きた)りぬ妹(いも)と我(あ)れと何事あれぞ紐(ひも)解かずあらむ
2037
年の恋(こひ)今夜(こよひ)尽(つく)して明日(あす)よりは常(つね)のごとくや我(あ)が恋ひ居(を)らむ
2038
逢はなくは日(け)長きものを天(あま)の川(がは)隔(へだ)ててまたや我(あ)が恋ひ居(を)らむ
 

【意味】
〈2034〉織姫がたくさんの機(はた)を立てて織る布、その布で縫う秋の衣は、誰が着るのだろうか。

〈2035〉一年ぶりに今ごろは、腕を枕に寝ているだろうか、夜霧に隠れて、遠方にいた妻の腕を。

〈2036〉私が待ちに待った秋がついにやってきた。わが妻と私は、何事があろうとも紐を解かずにおくものか。

〈2037〉一年越しの恋情の苦しさを今宵晴らして、明日からはまた、これまでと同じように恋し続けることになるのだろうか。

〈2038〉逢わないできた日々は長かったのに、天の川を隔てて、また私は恋し続けることになるのだろうか。

【説明】
 七夕(しちせき)の歌。宮廷詩宴に集った下級官人らによる歌だろうといわれます。2034の「織女の五百機立てて」は、良い布を織るために奮闘しているようす。「機」は、布を織る機具または布に織るようにした糸。「秋さり衣」は、秋になると着る衣。「取り見む」は、手に取ってみるで、着る意。2035の「年にありて」は、一年目の意。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。2036の「何事あれぞ」は、何事があっても。2037の「年の恋」は、一年間の恋。「尽して」は、晴らして。

 もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、すでに天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。

 『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しています。妻問い婚という形態と重ねられるゆえに流行しましたが、その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。
 
 なお、元の中国の七夕伝説は次のようなものです。昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した。
 
 ところが日本では牽牛と織女の立場が逆転し、牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となっています。なぜそうなったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。

巻第10-2039~2044

2039
恋しけく日(け)長きものを逢ふべくある宵(よひ)だに君が来まさずあるらむ
2040
彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)と今夜逢ふ天の川門(かはと)に波立つなゆめ
2041
秋風の吹きただよはす白雲(しらくも)は織女(たなばたつめ)の天(あま)つ領巾(ひれ)かも
2042
しばしばも相(あひ)見ぬ君を天の川 舟出(ふなで)早(はや)せよ夜(よ)の更けぬ間に
2043
秋風の清き夕(ゆふへ)に天の川舟漕ぎ渡る月人壮士(つきひとをとこ)
2044
天の川 霧(きり)立ちわたり彦星(ひこほし)の楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ夜(よ)の更けゆけば
   

【意味】
〈2039〉恋しく思う日々は長かったのに、お逢いできるはずの今宵さえ、どうしてあの人はおいでにならないのだろうか。

〈2040〉彦星と織女星とが今夜逢う、天の川の渡りに、波よ決して立たないで。

〈2041〉秋風が吹き漂わせている白雲は、織女の天の領巾ではないでしょうか。

〈2042〉たびたび逢えないあなたですのに、天の川に早く舟出して下さい。夜が更ける前に。
 
〈2043〉秋風がすがすがしい今夜、天の川に舟を出して漕ぎ渡っている、月人壮士が。

〈2044〉天の川に霧がたちこめてきて、彦星が舟を漕ぐ楫の音が聞こえる。次第に夜が更けてゆくと。

【説明】
 七夕の歌。2039の「恋しけく」は、形容詞の「恋しけ」に「く」を添えて名詞形にしたもの。「逢ふべくある」は、逢えるはずの。「宵だにの「だに」は、~さえ、~だけでも。2040の「川門」は、川の流れが門のように狭くなっている所。「波立つなゆめ」の「ゆめ」は、強い禁止。2041の「天つ」は、天の。「領巾」は、女性が肩にかける長いショールのような布。白雲をそれに見立てています。2043の「舟漕ぎ渡る」は、七夕の夜の上弦の月が舟の形に似ているところから、月を舟に喩えています。「月人壮士」は、月を擬人化したもの、月の神、月の若者、牽牛(彦星)などとする説があるようです。「月人壮士」という表現は、『万葉集』の七夕歌のうち5首に使われています。2044の「霧」は、彦星が舟を漕ぐ楫が立てる飛沫でしょうか。 

巻第10-2045~2049

2045
君が舟(ふね)今漕ぎ来(く)らし天の川 霧(きり)立ちわたるこの川の瀬に
2046
秋風に川波(かはなみ)立ちぬしましくは八十(やそ)の舟津(ふなつ)にみ舟 留(とど)めよ
2047
天の川の川音(かはと)清(さやけ)し彦星(ひこぼし)の秋漕ぐ舟の波のさわきか
2048
天の川 川門(かはと)に立ちて我(わ)が恋ひし君来ますなり紐(ひも)解き待たむ
2049
天の川 川門(かはと)に居(を)りて年月(としつき)を恋ひ来(こ)し君に今夜(こよひ)逢へるかも

【意味】
〈2045〉あの方の舟は、今こそ漕いでこちらに来るらしい。天の川に霧が立ちこめてきた、この川瀬に。

〈2046〉秋風が吹いて川波が立ち始めました。しばらくの間は、あちこちの舟だまりのどこかに舟をとどめて下さい。

〈2047〉天の川にの水音がはっきり聞こえる、秋になって彦星が漕ぎ出した舟の立てる波のざわめきだろうか。

〈2048〉天の川の舟着き場に立って、私の恋しいあなたがやってくるのを、下紐を解いてお待ちしましょう。

〈2049〉天の川の舟着き場に立ち、一年もの長い月日を恋い焦がれてきたあなた、そのあなたにやっと今夜お逢いできました。

【説明】
 七夕の歌。2045の「漕ぎ来らし」の「らし」は、根拠に基づく推量。2046の「しましくは」は、しばらくは。「八十」は、多くというのを具象的にいったもの。「舟津」は、舟の発着する場所。2048の「川門」は、川の流れが門のように狭くなっている所。ここでは船着き場。「来ますなり」の「ます」は、尊敬。「紐」は、下紐。2049の「居り」は、じっとする。「年月を」は、長い間を、一年間を。

巻第10-2050~2054

2050
明日よりは我(わ)が玉床(たまどこ)をうち掃(はら)ひ君と寐(い)ねずてひとりかも寝む
2051
天の原行きて射(い)てむと白真弓(しらまゆみ)引きて隠れる月人壮士(つきひとをとこ)
2052
この夕(ゆふへ)降りくる雨は彦星(ひこほし)の早や漕ぐ舟の櫂(かい)の散りかも
2053
天の川 八十瀬(やそせ)霧(き)らへり彦星(ひこぼし)の時(とき)待つ舟は今し漕ぐらし
2054
風吹きて川波(かはなみ)立ちぬ引き船に渡りも来ませ夜(よ)の更(ふ)けぬ間(ま)に
   

【意味】
〈2050〉明日からは、この私たちの寝床をきれいにしても、あなたとは寝られず、ひとり寂しく寝なることになるのだろうか。
 
〈2051〉天の原に出かけて獲物を射止めようと、白真弓で矢をつがえたまま隠れている、月人壮士よ。

〈2052〉この夕べに降る雨は、彦星が急いで漕いでいる舟の、櫂のしずくが散っているのだろうか。

〈2053〉天の川の多くの瀬に霧が立ちこめている。時を待っていた彦星は、今舟を出して漕ぎ出したに違いない。

〈2054〉風が吹いて川波が立ってきました。引き綱を引いてでも早くこちら岸に渡ってきて下さい。夜が更けないうちに。

【説明】
 七夕の歌。2050は7日の夜明けに織女がいっている歌で、「玉床」の「玉」は美称。「うち掃ひ」は、床の塵を払う意で、浄めて大切にすること。夫が寝た床であることから尊んで言っています。2051の「白真弓」は白木の弓。「月人壮士」は、月を擬人化したもの。折から上弦の月が低く現れ、薄雲に覆われたのを、月人壮士の白真弓に見立てて、空に向かって射ようとしていると見ています。2053の「八十瀬」は、多くの瀬。2054の「引き船」は、船に綱をつけて陸から引き寄せる船のこと。

巻第10-2055~2059

2055
天(あま)の川(がは)遠き渡りはなけれども君が舟出(ふなで)は年にこそ待て
2056
天(あま)の川(がは)打橋(うちはし)渡せ妹(いも)が家道(いへぢ)やまず通(かよ)はむ時待たずとも
2057
月(つき)重(かさ)ね我(あ)が思ふ妹(いも)に逢へる夜(よ)は今し七夜(ななよ)を継(つ)ぎこせぬかも
2058
年に装(そ)ふ我(わ)が舟漕がむ天(あま)の川(がは)風は吹くとも波立つなゆめ
2059
天(あま)の川(がは)波は立つとも我(わ)が舟はいざ漕ぎ出(い)でむ夜(よ)の更(ふ)けぬ間に
 

【意味】
〈2055〉天の川に遠い渡し場はないのだけれど、あなたの舟出は、一年にわたってお待ちしています。

〈2056〉天の川に打橋を渡して、あなたの家への道を絶えず通おう、七夕の夜など待たないで。

〈2057〉幾月も重ねて私が恋い焦がれてきた愛しい子に、こうして逢っている夜は、さらに七夜続いてくれないものか。

〈2058〉年に一度飾り立てる舟をさあ漕ぎ出そう。天の川に、風が吹くことがあっても、波よ立ってくれるな、決して。

〈2059〉天の川が波立とうとも、我が舟は、さあ、思い切って漕ぎ出そう。夜が更けないうちに。

【説明】
 七夕の歌。2055の「遠き渡りはなけれども」は、天の川の川幅は広くないけれど、の意。「年に」は、一年にわたって。2056の「打橋」は、板を渡して自由に掛け外しできる橋。「時」は七夕の夜。2057の「今し」の「し」は強意。

巻第10-2060~2064

2060
ただ今夜(こよひ)逢ひたる子らに言(こと)どひもいまだせずしてさ夜(よ)ぞ明けにける
2061
天(あま)の川(がは)白波(しらなみ)高し我(あ)が恋ふる君が舟出(ふなで)は今しすらしも
2062
機物(はたもの)の蹋木(ふみき)持ち行きて天(あま)の川(がは)打橋(うちはし)渡す君が来(こ)むため
2063
天(あま)の川(がは)霧(きり)立ち上(のぼ)る織女(たなばた)の雲の衣(ころも)のかへる袖(そで)かも
2064
いにしへゆ織(お)りてし服(はた)をこの夕(ゆふへ)衣(ころも)に縫(ぬ)ひて君待つ我(わ)れを
 

【意味】
〈2060〉まさに今夜逢った愛しい妻に、まだ十分言葉を交わさないうちに、夜が明けてしまった。

〈2061〉天の川に白波が高い。私が恋い慕うあの方が、ちょうど舟出をするのだろう。

〈2062〉機織り機の踏み木を持って行って、天の川に打橋を渡そう。あの人が渡ってこられるように。

〈2063〉天の川に霧がかかっている。あれは、織姫が着ている雲の着物のひるがえっている袖なのだろうか。

〈2064〉ずっと前から織り続けてきた織物を、この夕方に衣に縫って、あなたを待っている私です。

【説明】
 七夕の歌。2060の「ただ今夜」の「ただ」は、まさに。「子ら」の「ら」は接尾語。「言どひ」は、言葉を交わすこと。2062の「蹋木」は、機織り機の、縦糸を上下に動かすために、足で踏み動かす板。「打橋」は、板を渡して自由に掛け外しできる簡単な橋。多くの場合、通ってくる夫を迎える時に、女が渡しました。蹋木はごく短いものなので、それで打橋を渡せるわけもないのに、「それがかえってこの歌に可憐な感じを与えている」と、詩人の大岡信は言っています。2063の「雲の衣」は、七夕を歌った漢詩によく見られる「雲衣」から発想を得ています。2064の「服」は、織った布。

巻第10-2065~2069

2065
足玉(あしだま)も手玉(ただま)もゆらに織(お)る服(はた)を君が御衣(みけし)に縫(ぬ)ひもあへむかも
2066
月日(つきひ)択(え)り逢ひてしあれば別れまく惜(を)しくある君は明日(あす)さへもがも
2067
天(あま)の川(がは)渡り瀬(ぜ)深み舟(ふね)浮(う)けて漕(こ)ぎ来る君が楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ
2068
天(あま)の原(はら)振り放(さ)け見れば天(あま)の川(がは)霧立ちわたる君は来(き)ぬらし
2069
天(あま)の川(がは)瀬ごとに幣(ぬさ)をたてまつる心は君を幸(さき)く来ませと
 

【意味】
〈2065〉足玉も手玉も、ゆらゆら揺らしながら織っているこの織物を、あの方のお召し物に仕立てられるだろうか。

〈2066〉月日を選んでお逢いしているのですから、お別れするのが惜しまれてならないあなたは、明日もまたお逢いできればいいのに。

〈2067〉天の川の渡し場の瀬が深いので、舟を浮かべて漕いでくるあの方の櫓の音が聞こえる。

〈2068〉空を振り仰いでみると、天の川に霧が立ちこめている、あの方の舟が来たらしい。

〈2069〉天の川の瀬ごとに神にお供えするのは、あなたがご無事にいらっしゃるようにと祈る思いからです。

【説明】
 七夕の歌。2065の「足玉」「手玉」は、緒に貫いた玉を、それぞれ足と手に巻きつける飾り。「ゆらに」は、揺れる形容。「縫ひもあへむかも」の「あへ」は可能の意、「か」は疑問。2066の「月日択り」は、7月7日を選んで。「もがも」は、願望。2067の「渡り瀬深み」は、渡し場の瀬が深いので。2068の「天の原」は、空の広大なさまを言ったもの。「振り放け見れば」は、身を反らして仰ぎ見れば。「霧」は、舟の立てる水煙としていっています。2069の「瀬ごとに」の「瀬」は渡し場の瀬。川幅の広い天の川の河原と渡瀬が交互に連続しているさまを想像しています。「幣」は、神に祈るときに捧げるもの。地上では、異境の地に入るたびに、その地の神に幣を捧げて通行するので、それを天の川に転じ、織女が彦星に代わってするさまをうたっています。

巻第10-2070~2074

2070
ひさかたの天(あま)の川津(かはづ)に舟(ふね)浮(う)けて君待つ夜(よ)らは明けずもあらぬか
2071
天(あま)の川(がは)なづさひ渡る君が手もいまだまかねば夜(よ)の更(ふ)けぬらく
2072
渡(わた)り守(もり)舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫(かぢ)の音(おと)のせぬ
2073
ま日(け)長く川に向き立ちありし袖(そで)今夜(こよひ)巻かむと思はくがよさ
2074
天(あま)の川(がは)渡り瀬(ぜ)ごとに思ひつつ来(こ)しくもしるし逢へらく思へば
 

【意味】
〈2070〉天の川の舟付き場に舟を浮かべて、あの方を待つ今夜は、明けずにいてくれないものか。

〈2071〉天の川を足を濡らして渡って来られるあの方の、手をまだ枕にしてもいないのに、もう夜が更けてしまった。

〈2072〉渡し守よ、舟を渡せと呼ぶ声が届かないのだろうか、櫓の音が聞こえない。

〈2073〉幾日も川に向かって立っていた妻の着物の袖を、今宵、いよいよ枕にすることができると思うと、わくわくしてくる。

〈2074〉天の川の渡り瀬を越えるたびに、妻のことを思って来た甲斐があった。こうして逢うことができたから。

【説明】
 七夕の歌。2070の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「明けずもあらぬか」の「も~ぬか」は願望。2071の「なづさひ」は、濡らして、浸かって。2072の「渡り守」は、天の川の渡し舟の船頭。2073の「ま日」の「ま」は接頭語。2074の「来しくもしるし」の「来しく」は「来し」の名詞形。「しるし」は効果のある意の形容詞。

巻第10-2075~2079

2075
人さへや見継(みつ)がずあらむ彦星(ひこほし)の妻呼ぶ舟の近づき行くを [一云 見つつあるらむ]
2076
天(あま)の川(がは)瀬を早みかもぬばたまの夜(よ)は更(ふ)けにつつ逢はぬ彦星(ひこほし)
2077
渡(わた)り守(もり)舟(ふね)早(はや)渡せ一年にふたたび通(かよ)ふ君にあらなくに
2078
玉葛(たまかづら)絶えぬものからさ寝(ぬ)らくは年の渡りにただ一夜(ひとよ)のみ
2079
恋ふる日(ひ)は日(け)長きものを今夜(こよひ)だにともしむべしや逢ふべきものを
 

【意味】
〈2075〉地上の人たちでも見続けないでいられようか、彦星の妻どいの舟が向こう岸に近づいて行くのを。(見続けているであろうか)

〈2076〉天の川の川瀬の流れが早いからか、夜は更けていくというのに、まだ織姫に逢えないでいる、彦星は。

〈2077〉渡し守よ、早く舟をこちら岸に着けておくれ。一年に二度と通って来られるお方ではないのだから。

〈2078〉蔓のように私たちの仲は絶えることはないものの、共寝できるのは一年に一夜だけなのです。

〈2079〉恋しく思う日々は長いのに、今夜だけでも、物足りない思いをさせるべきではない、せっかく逢える夜なのだから。

【説明】
 七夕の歌。2076の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。2078の「玉葛」の「玉」は美称、「葛」は蔓草の総称で、「絶えぬ」の枕詞。「絶えぬものから」は、絶えないものの。2079の「ともしむ」は、物足りなく思わせる。

巻第10-2080~2084

2080
織女(たなばた)の今夜(こよひ)逢ひなば常(つね)のごと明日(あす)を隔(へだ)てて年は長けむ
2081
天(あま)の川(がは)棚橋(たなはし)渡せ織女(たなばた)のい渡らさむに棚橋渡せ
2082
天(あま)の川(がは)川門(かはと)八十(やそ)ありいづくにか君がみ舟を我(あ)が待ち居(を)らむ
2083
秋風の吹きにし日より天(あま)の川(がは)瀬に出(い)で立ちて待つと告げこそ
2084
天(あま)の川(がは)去年(こぞ)の渡り瀬(ぜ)荒れにけり君が来(き)まさむ道の知らなく
 

【意味】
〈2080〉織姫は今宵、彦星と逢ってしまえば、またいつものように、明日を境に離れて暮らすことになり、その一年はさぞかし長いことだろう。

〈2081〉天の川に棚橋を渡せよ。織女がお渡りになれるように、棚橋を渡せよ。

〈2082〉天の川には、舟の渡し場がたくさんあります。どこの渡し場で私はあなたの舟をお待ちすればよいのでしょうか。

〈2083〉秋風が吹き始めた日から、天の川の瀬に出向いてお待ちしていると、あの方に伝えておくれ。

〈2084〉天の川の、去年の渡り瀬は荒れてしまったので、今夜、あの方がいらっしゃる道が分からない。

【説明】
 七夕の歌。2080の「常のごと」は、いつものように。2081の「棚橋」は、棚のように板を渡した橋。「い渡らさむ」の「い」は接頭語。中国の七夕伝説のように、織女のほうから渡ろうとするさまをうたっています。2082の「川門」は、舟の渡り場所。「八十」は、多いこと。2083の「告げこそ」の「こそ」は願望。

巻第10-2085~2088

2085
天(あま)の川(がは)瀬々(せぜ)に白波(しらなみ)高けども直(ただ)渡り来(き)ぬ待たば苦しみ
2086
彦星(ひこほし)の妻呼ぶ舟の引き綱(づな)の絶えむと君を我(わ)が思はなくに
2087
渡り守(もり)舟出(ふなで)し出(い)でむ今夜(こよひ)のみ相(あひ)見て後(のち)は逢はじものかも
2088
我(わ)が隠(かく)せる楫棹(かぢさを)なくて渡り守(もり)舟貸さめやもしましはあり待て
 

【意味】
〈2085〉天の川の瀬ごとに白波が高かったけれども、まっすぐに渡って来た。波がおさまるのを待っているのは堪えがたいので。

〈2086〉彦星の妻どいをする舟の引き綱のように、あなたとの仲が切れてしまうなどとは決してあり得ないと、私は思っています。

〈2087〉渡し守よ、舟出をしてここから出かけよう。今夜だけ逢って、今後は逢わないということなどあるものか。

〈2088〉私が隠している楫や棹もなくては、渡し守だって舟を出しましょうか、出しはしません。しばらくこのままお待ち下さい。

【説明】
 七夕の歌。2086の上3句は「絶えむ」を導く序詞。2087は、夜が明けて織女に別れて天の川の渡場まで来た彦星が、今更に名残りが惜しまれて躊躇をしていたものの、思い切って舟出を命じた歌。2088は、彦星が帰らなければならない時に、織女が名残りを惜しんで引き留めようとしたもの。

巻第10-2089~2091

2089
天地(あめつち)の 初めの時ゆ 天の川 い向ひ居りて 一年に ふたたび逢はぬ 妻恋ひに 物思ふ人 天の川 安の川原の あり通ふ 出(いで)の渡りに そほ舟の 艫(とも)にも舳(へ)にも 舟装(ふなよそ)ひ ま楫(かぢ)しじ貫(ぬ)き 旗すすき 本葉(もとは)もそよに 秋風の 吹きくる宵(よひ)に 天の川 白波しのぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて 若草の 妻を巻かむと 大船の 思ひ頼みて 漕ぎ来らむ その夫の子が あらたまの 年の緒(を)長く ひ来し 恋尽すらむ 七月の 七日の宵は 我れも悲しも
2090
高麗錦(こまにしき)紐(ひも)解きかはし天人(あめひと)の妻問(つまど)ふ宵(よひ)ぞ我(わ)れも偲(しの)はむ
2091
彦星(ひこほし)の川瀬を渡るさ小舟(をぶね)のい行きて泊(は)てむ川津(かはづ)し思ほゆ
  

【意味】
〈2089〉天地が初めて開けた大昔から、天の川に向き合って住み、一年に二度は逢えないで恋しく物思う人よ、天の川の安の川原の、通いなれた船出の渡に、朱塗りの船の後ろにも先にも船飾りをして、立派な楫を両舷に通し、旗すすきの根元から伸びる葉にもそよと秋風が吹いてくる夜に、天の川の白波を越え、落ちたぎる早瀬を渡り、若草のようにみずみずしい妻の手を枕に共寝しようと、大船のように頼みに思い漕いでくるその彦星が、長い間思ってきた恋を尽くす七月七日の夜は、なぜか私も悲しいよ。

〈2090〉高麗錦の紐を解き合って、天上の彦星が妻どいをして過ごす夜だ。この私も思いを馳せよう。

〈2091〉彦星の川瀬を渡る小舟が向こう岸に着いて泊まる。その舟着き場はどんな所だろうと、思いを馳せる。

【説明】
 七夕の歌。2089の「安の川原」は、高天原にあるという安の川原。「あり通ふ」は、通い馴れた。「そほ舟」は、朱塗りの舟。「ま楫」は、舟の両舷に付けた左右一対の櫂。「若草の」「大船の」「あらたまの」は、それぞれ「妻」「思ひ頼む」「年」の枕詞。2090の「高麗錦」は、高麗ふうの錦。高級品とされ、貴族が紐にしていました。 

巻第10-2092~2093

2092
天地(あめつち)と 別れし時ゆ ひさかたの 天(あま)つしるしと 定めてし 天(あま)の川原(かはら)に あらたまの 月重なりて 妹(いも)に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 我(わ)が衣手(ころもで)に 秋風の 吹きかへらへば 立ちて居(ゐ)て たどきを知らに むらきもの 心いさよひ 解(と)き衣(きぬ)の 思ひ乱れて いつしかと 我(あ)が待つ今夜(こよひ) この川の 流れの長く ありこせぬかも
2093
妹(いも)に逢ふ時(とき)片待(かたま)つとひさかたの天(あま)の川原(かはら)に月ぞ経(へ)にける
 

【意味】
〈2092〉天地が分かれた遠い時代から、天の目印と定められた天の川、その川原で月日を重ね、妻に逢える日を待ち、じっと立って待っていると、私の着物の袖に秋の風が吹き返すようになった。立っては座り、どうしてよいか分からず、心は思い乱れてならない。いつかいつかと私が待ち続けていた今宵は、この天の川の流れのように、長くいつまでも続いてくれないものか。

〈2093〉あなたに逢える時をひたすら待ち続け、天の川原で幾月も幾月も過ごしてきました。

【説明】
 七夕の歌。2092の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天つしるし」は、越えてはならない天上の標識。「あらたまの」は「年」の枕詞を「月」に転じて掛けたもの。「時さもらふ」は、時をうかがう。「たどき」は、手段、手がかり。「むらきもの」は「心」の枕詞。「いさよひ」は、ためらい。「解き衣の」は「思ひ乱れ」の枕詞。「ありこせぬかも」の「かも」は、願望。2093の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「片待つ」は、ひたすら待つ。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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ホトトギスの故事

霍公鳥(ホトトギス)は、特徴的な鳴き声と、ウグイスなどに托卵する習性で知られる鳥で、『万葉集』には153首も詠まれています(うち大伴家持が65首)。霍公鳥には「杜宇」「蜀魂」「不如帰」などの異名がありますが、これらは中国の故事や伝説にもとづきます。

長江流域に蜀(古蜀)という貧しい国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興、やがて帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の治水に長けた男に帝位を譲り、自分は山中に隠棲した。杜宇が亡くなると、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来ると、鋭く鳴いて民に告げた。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは、ひどく嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐くまで鳴いた。ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。

万葉の植物

ウツギ
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。

ショウブ
『万葉集』では菖蒲草(あやめぐさ)と呼ばれている菖蒲(しょうぶ)はショウブ科の多年草で、初夏に長い葉の途中から、棒状の黄緑色の小花をびっしりとつけます。葉は香り高く薬効があり、昔から邪気を払い疫病を除くと云い伝えられてきました。アヤメ科の菖蒲(あやめ)や花菖蒲(はなしょうぶ)とは異なります。

センダン
センダン科の落葉高木で、古名は「あふち」「おうち」。生長が早く、大きくなると20mにもなり、夏には大きな木陰を提供してくれます。初夏に淡紫色の花が咲き、 秋には多くの黄色い実をつけます。なお、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」の諺にある栴檀は、これとは異なる木です。

タチバナ
古くから野生していた日本固有の柑橘の常緑小高木。『古事記』『日本書紀』には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った霊薬を持ち帰らせたという話が記されています。

チガヤ
イネ科の草で、日当たりのよい場所に群生します。細い葉を一面に立て、白い穂を出します。新芽には糖分が豊富に含まれており、昔は食用にされていました。 チガヤの「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味で名付けられた名です。

ナデシコ
ナデシコ科の多年草(一年草も)で、秋の七草の一つで、夏にピンク色の可憐な花を咲かせ、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。数多くの種類があり、ヒメハマナデシコとシナノナデシコは日本固有種です。

フジ
マメ科のつる性落葉低木で、日本の固有種。 4月下旬から5月上旬に長い穂のような花序を垂れ下げて咲き、藤棚が観光・鑑賞用として好まれます。フジの名前の由来には定説はないものの、風が吹く度に花が散るので「吹き散る」の意であるともいわれます。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

ヨメナ
『万葉集』では「うはぎ」と詠まれているヨメナは、野原や道端に生えるキク科の植物。当時から代表的な春の摘み草であり、柔らかい葉や茎を食用にしていました。薄紫色の花が、夏の終わりから秋の終わりごろまで咲き続けます。

各巻の概要

【巻第一】
 雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
【巻第二】
 仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様に部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
【巻第三】
 巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。
 
【巻第四】
 巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
【巻第五】
 巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
【巻第六】
 巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
【巻第七】
 雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいるため、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
【巻第八】
 四季に分類された雑歌と相聞歌。舒明朝~天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
【巻第九】
 おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立て。
 
【巻第十】
 巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
【巻第十一】
 『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十ニ】
 「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十三】
 作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
【巻第十四】
 主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
【巻第十五】
 物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
【巻第十六】
 巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
【巻第十七~二十】
 巻第十七~二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。

和歌の修辞技法

枕詞
 序詞とともに万葉以来の修辞技法で、ある語句の直前に置いて、印象を強めたり、声調を整えたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする。序詞とほぼ同じ働きをするが、枕詞は5音句からなる。
 
序詞(じょことば)
 作者の独創による修辞技法で、7音以上の語により、ある語句に具体的なイメージを与える。特定の言葉や決まりはない。
 
掛詞(かけことば)
 縁語とともに古今集時代から発達した、同音異義の2語を重ねて用いることで、独自の世界を広げる修辞技法。一方は自然物を、もう一方は人間の心情や状態を表すことが多い。
 
縁語(えんご)
 1首の中に意味上関連する語群を詠みこみ、言葉の連想力を呼び起こす修辞技法。掛詞とともに用いられる場合が多い。
 
体言止め
 歌の末尾を体言で止める技法。余情が生まれ、読み手にその後を連想させる。万葉時代にはあまり見られず、新古今時代に多く用いられた。
 
倒置法
 主語・述語や修飾語・被修飾語などの文節の順序を逆転させ、読み手の注意をひく修辞技法。
 
句切れ
 何句目で文が終わっているかを示す。万葉時代は2・4句切れが、古今集時代は3句切れが、新古今時代には初・3句切れが多い。
 
歌枕
 歌に詠まれた地名のことだが、古今集時代になると、それぞれの地名が特定の連想を促す言葉として用いられるようになった。

七夕の歌

中国に生まれた「七夕伝説」が、いつごろ日本に伝来したかは不明ですが、上代の人々の心を強くとらえたらしく、『万葉集』に「七夕」と題する歌が133首収められています。それらを挙げると次のようになります。

巻第8
山上憶良 12首
 (1518~1529)
湯原王 2首
 (1544~1545)
市原王 1首
 (1546)
巻第9
間人宿祢 1首
 (1686)
藤原房前 2首
 (1764~1756)
巻第10
人麻呂歌集 38首
 (1996~2033)
作者未詳 60首
 (2034~2093)
巻第15
柿本人麻呂 1首
 (3611)
遣新羅使人 3首
 (3656~3658)
巻第17
大伴家持 1首
 (3900)
巻第18
大伴家持 3首
 (4125~4127)
巻第19
大伴家持 1首
 (4163)
巻第20
大伴家持 8首
 (4306~4313)

―― 歌の制作年代は、明日香・藤原の時代から奈良時代に及ぶものと見られ、風流を楽しむ傾向の歌、繊細な感じの歌、類想、同型の表現、中国文化の影響などが相当量見出される点からして、当代知識階級の一番水準の作が主となっていると思われる。同巻のうちにも、他の巻にも、類想・類歌のしばしば見られるのはその為であろう。――

また、巻第10所収の『柿本人麻呂歌集』による「七夕歌」には、牽牛と織女のほかに、二人の間を取り持つ使者「月人壮士」が登場しており、中国伝来のものとは違う、新たな「七夕」の物語をつくりあげようとしたことが窺えます。

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