巻第10-1939~1943
1939 霍公鳥(ほととぎす)汝(な)が初声(はつこゑ)は我(わ)れにもが五月(さつき)の玉に交(まじ)へて貫(ぬ)かむ 1940 朝霞(あさがすみ)たなびく野辺(のへ)にあしひきの山霍公鳥(やまほととぎす)いつか来(き)鳴かむ 1941 朝霧(あさぎり)の八重山(やへやま)越えて呼子鳥(よぶこどり)鳴きや汝(な)が来るやどもあらなくに 1942 霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞くや卯(う)の花の咲き散る岡(をか)に葛(くず)引く娘子(をとめ) 1943 月夜(つくよ)よみ鳴く霍公鳥(ほととぎす)見まく欲(ほ)り我(わ)れ草(くさ)取れり見む人もがも |
【意味】
〈1939〉ホトトギスよ、お前の初声を私にくれないだろうか。五月の薬玉(くすだま)に一緒に通して飾りたいから。
〈1940〉朝霞がたなびくこの野辺に、いつになったら山のホトトギスがやってきて鳴いてくれるだろうか。
〈1941〉幾重にも重なる山を越えて、呼子鳥よ 鳴きながらおまえはやって来たのか、泊まる家もないのに。
〈1942〉ホトトギスが鳴いている声を聞きましたか? 卯の花が咲いては散っていくこの岡で、葛を刈り取っている娘さんよ。
〈1943〉月が美しいので、鳴くホトトギスを一目見たいと思って、私は草を刈り取っています。一緒に見る人がいたらいいのに。
【説明】
「鳥を詠む」歌。 1939の「汝」は、目下に用いる二人称代名詞。動物に呼びかける例も少なくありません。「初声」は、その年になって初めて聞く声。「我れにもが」の「もが」は、願望の助詞。「五月の玉」は、五月五日の節句に邪気を払うため、種々の香料を入れた綿の袋に菖蒲、橘花などをつけた緒を垂れて室内にかける風習があり、その緒につける玉のこと。霍公鳥の初声を珍重なものとして玉のように感じています。巻第8-1465にある藤原夫人の「霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに」の歌は、この歌に先行するものとみられます。
1940の「あしひきの」は「山」の枕詞。「いつか来鳴かむ」の「いつか」は、いつになったらで、早くの意。1941の「朝霧の」は、深く立つ意で「八重」にかかる枕詞。「八重山」は、幾重にも重なっている山。「呼子鳥」は、春の鳥。人を呼ぶような声で鳴く鳥のことで、カッコウ、ホトトギス、ヒヨドリなどと言われますが、はっきりしていません。
1942の「葛」は原野に自生するマメ科の植物で、その繊維から葛布(くずふ)という布を織っていました。葛をとることを引くといい、葛引きは女性の仕事でした。乙女に歌いかけている男は、散策中の貴族でしょうか。窪田空穂は、「作者は卯の花の咲き散る岳へ、ほととぎすの声を聞こうと思って来たのであろう。するとそこの山田で、娘が草を取っているのを見かけて、ほととぎすの声でその時節だと知ってのことだろうと解したのである。歌は自身を後へ引き下げ、娘子を立てて詠んでいるもので、(中略)歌材が珍しいばかりでなく、庶民と貴族との生活がおのずから対照されていて、美しさと深みのあるものとなっている」と述べています。なお、「葛」の原文は「田草」で、田のそばの草の意で用いられたのだろうとされます。
1943の「月夜よみ」は「月夜よし」のミ語法で、月が美しいので。「見まく欲り」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。見たいと思って。「もが」は、願望。なお、この歌を1942への返歌と見る説があるようですが、「ほととぎす鳴く声聞くや」と尋ねられて「見む人もがも」などと答えるのは不適当だと考えられます。
巻第10-1944~1947
1944 藤波(ふぢなみ)の散らまく惜(を)しみ霍公鳥(ほととぎす)今城(いまき)の岡(をか)を鳴きて越ゆなり 1945 朝霧(あさぎり)の八重山(やへやま)越えて霍公鳥(ほととぎす)卯(う)の花辺(はなへ)から鳴きて越え来(き)ぬ 1946 木高(こだか)くはかつて木植ゑじ霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴き響(とよ)めて恋(こひ)増さらしむ 1947 逢ひかたき君に逢へる夜(よ)霍公鳥(ほととぎす)他(あた)し時ゆは今こそ鳴かめ |
【意味】
〈1944〉藤の花の散るのを惜しんで、ホトトギスが今城の岡を鳴きながら越えていった。
〈1945〉朝霧が立ち込める幾重もの山を越えて、ホトトギスが卯の花が咲く辺りを通って、鳴きながらやってきた。
〈1946〉高々と茂るような木は決して植えまい。ホトトギスが梢に飛んできて、しきりに鳴くとホトトギスへの思いが募るばかりだから。
〈1947〉滅多に逢えないお方に逢っている今宵。ホトトギスよ、ほかの時より、今こそ激しく鳴いておくれ。
【説明】
「鳥を詠む」歌。 1944の「藤波」は、藤の花。「散らまく惜しみ」の「散らまく」は「散る」のク語法、「惜しみ」は「惜し」のミ語法。「今城の岡」は所在未詳ながら、奈良県吉野郡大淀町今木、京都府宇治市彼方町の東、離宮山などの説があります。「越ゆなり」の「なり」は、伝聞推定の助動詞。1945の「朝霧の」は、深く立つ意で「八重山」にかかる枕詞。「卯の花辺から」は、卯の花の咲く辺りを通って。「から」は「より」と同じく起点・通過点を示す格助詞ですが、歌に用いられる例は少なく、「より」に比べて口語的であったためとされます。
1946の「かつて」は打消しを伴い、決しての意。「響めて」は、あたり一帯に響かせて。「恋増さらしむ」は、人恋しさを募らせる、のように解するものもあります。1947は、客が来て酒宴を開き、主人方が客をもてなすために詠んだ歌。「他し時ゆは」の「ゆ」は比較で、~より。原文「他時從者」で、コトトキヨリハと訓むものもあります。「今こそ鳴かめ」の「こそ~め」は、他者のことについて勧誘・希望を表す語法。霍公鳥は、初夏のころに山からやって来て、一時期さかんに鳴き立てて、間もなく去っていきます。
巻第10-1948~1951
1948 木(こ)の暗(くれ)の夕闇(ゆふやみ)なるに [一云 なれば] 霍公鳥(ほととぎす)いづくを家と鳴き渡るらむ 1949 霍公鳥(ほととぎす)今朝の朝明(あさけ)に鳴きつるは君聞きけむか朝寐(あさい)か寝けむ 1950 霍公鳥(ほととぎす)花橘(はなたちばな)の枝(えだ)に居(ゐ)て鳴き響(とよ)もせば花は散りつつ 1951 うれたきや醜(しこ)ほととぎす今こそば声の嗄(か)るがに来鳴き響(とよ)めめ |
【意味】
〈1948〉木陰が真っ暗になってしまう夕闇なのに、ホトトギスは、いったいどこを棲みかと鳴きわたっていくのだろう。
〈1949〉ホトトギスが今朝の明け方に鳴いていましたが、あなたはお聞きになったでしょうか、それとも朝寝をしてお聞きにならなかったのでしょうか。
〈1950〉ホトトギスが花橘の枝にとまって、声を響かせて鳴き立てるものだから、花ははらはらと散り落ちる。
〈1951〉ああ、いまいましい、ろくでなしのホトトギスめ。今の今こそやってきて、声のかすれるまで鳴き立てくれればよいのに。
【説明】
「鳥を詠む」歌。1948の「木の暗 」は、木が茂って暗いこと。「夕闇なるに」は、夕闇であるのに。「夕闇」は、月の出ない夕暮れで、日没後、月の出までの一時的に暗い時間帯。「鳴き渡るらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。1949の「聞きけむか」「寝けむ」の「けむ」は、過去推量の助動詞。妻が夫に贈った歌であり、窪田空穂は、「当時の人々は早起きであり、また『朝明』という時刻は、この時代には物思わしい時刻としていたことが他の歌で知られる。ここもそれで、妻は夫恋しい心を抱いてほととぎすを聞いたのである」「きわめて何気ない語に、夫の疎遠を恨む心をからませていったもので、才女を思わせる歌である」と述べています。
1950の「花橘」は、花の咲いている橘の木で、歌語。「花は散りつつ」のツツ止めは、上に「は」を用いる場合、余情のこもる文末用法となります。1951の「うれたきや」は、ああ腹立たしい、嘆かわしいの意。「醜ほととぎす」の「醜」は、罵りの気持ちをこめた言葉。「声の嗄るがに」の「がに」は、するほどに。「響めめ」は、上の「こそ」の係り結びで、「響む」の未然形「響め」に推量の助動詞「む」の已然形「め」が接続したもの。勧誘・希望を表現する語。
巻第10-1952~1955
1952 今夜(こよひ)のおほつかなきに霍公鳥(ほととぎす)鳴くなる声の音の遥(はる)けさ 1953 五月山(さつきやま)卯(う)の花月夜(はなづくよ)霍公鳥(ほととぎす)聞けども飽かずまた鳴かぬかも 1954 霍公鳥(ほととぎす)来居(きゐ)も鳴かぬか我(わ)がやどの花橘(はなたちばな)の地(つち)に落ちむ見む 1955 霍公鳥(ほととぎす)いとふ時なし菖蒲草(あやめぐさ)縵(かづら)にせむ日こゆ鳴き渡れ |
【意味】
〈1952〉今宵の、月がなくて心細い気持ちでいる時は、ホトトギスの鳴く声が、遥か遠くに音を立てて響いてくる。
〈1953〉五月の山に、卯の花がほの白く浮かぶ美しい月夜、こんな夜のホトトギスの声はいくら聞いていても飽きない。まだまだ鳴いてくれないだろうか。
〈1954〉ホトトギスよ ここに来て枝に止まって鳴いてくれないか。わが家の庭の橘の花が散るのを見ていたい。
〈1955〉ホトトギスの声はいつ聞いても嫌な時はないが、菖蒲草で髪を飾る日には、必ずここを鳴き渡ってくれよ。
【説明】
「鳥を詠む」歌。1952の「おほつかなきに」は、暗くて辺りがはっきり分からず心細いこと。景と情の融合された表現。「声の音の」の表現が異様であるとして、作歌に熟した人の作ではない、音数のために不用意に重ねたもの、などの批判があります。一方、伊藤博は「時鳥の声としては聞こえず、遠くからの音響として聞こえてくることをいったものか」と述べ、土屋文明も「余響位の意で用いたと見える」と言っています。
1953の「五月山」は、五月の頃の山。「卯の花月夜」は、卯の花が咲いている月夜。「鳴かぬかも」の「ぬか」は、打消の助動詞「ぬ」に疑問の「か」が接続して願望を示すもの。「も」は、詠嘆。作家の田辺聖子は、「この巻は平均的な風流の歌が多いが、『さつき山・卯の花月夜・ほととぎす』とイメージの札が次々と重ねられていくところがたのしい」と言っています。また窪田空穂は、「『五月山卯の花月夜ほととぎす』と、名詞だけを三つ続けて、一助詞をも用いていないのであるが、それがいささかの無理もなく、鮮明に印象されて来る」と述べています。
1954の「来居」は、来て止まって。「ぬか」は、願望で、「も~ぬか」と呼応して多く用いられます。「やど」は、家の敷地、庭先。1955の「いとふ時なし」はホトトギスに向って言った言葉で、嫌な時はない。「あやめぐさ」は、水辺に群生する菖蒲(しょうぶ)。「縵」は、つる草や草木の花枝を巻きつけて髪飾りとしたもの。「縵にせむ日」は端午の節句の5月5日のことで、この日に、菖蒲草(あやめぐさ)を縵(かづら)にして飾る習俗がありました。「こゆ」は、ここを通って、ここから。
巻第10-1956~1960
1956 大和(やまと)には鳴きてか来(く)らむ霍公鳥(ほととぎす)汝(な)が鳴くごとになき人思ほゆ 1957 卯(う)の花の散らまく惜(を)しみ霍公鳥(ほととぎす)野に出(い)で山に入(い)り来(き)鳴き響(とよ)もす 1958 橘(たちばな)の林を植(う)ゑむ霍公鳥(ほととぎす)常(つね)に冬まで棲(す)みわたるがね 1959 雨晴(あまば)れの雲にたぐひて霍公鳥(ほととぎす)春日(かすが)をさしてこゆ鳴き渡る 1960 物思(ものも)ふと寐寝(いね)ぬ朝明(あさけ)に霍公鳥(ほととぎす)鳴きてさ渡るすべなきまでに |
【意味】
〈1956〉大和には、今ごろ来て鳴いているだろうか、ホトトギスよ。お前が鳴くたびに亡き人が偲ばれてならない。
〈1957〉卯の花が散ってしまうのを惜しんでか、ホトトギスは、野に出たり山に帰ったりしながら鳴き声を響かせている。
〈1958〉橘の木をたくさん植えて林にしよう。ホトトギスがいつも、さらに冬になっても棲みついてくれるように。
〈1959〉雨が上がり、去り行く雲の流れに連れ添って、ホトトギスが、ここから春日のあたりに向かって鳴き渡っていく。
〈1960〉物思いをして寝られなかった夜明けに、ホトトギスが鳴きながら飛んでいった。何ともやるせないまでに。
【説明】
「鳥を詠む」歌。 1956は、大和の人が旅先にあって、その地のホトトギスの鳴き声を聞き、大和でも来て鳴いているだろうかと、故人(おそらく妻)のことを偲んでいる歌です。当時、人が死ぬと、その霊魂がホトトギスの形を取って、生前に心を寄せていた地へ来るという信仰があり、それを踏まえています。この発想に立つ歌は、集中ほかにも見られます(巻第2-111、112など)。1957の「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。「惜しみ」は「惜し」のミ語法。「野に出で山に入り」は、単独母音イが2つあるので、許容される9音の字余り句。
1958の「林を植ゑむ」は、木をたくさん植えて茂らせて林を作ろう、の意。「棲みわたる」の「わたる」は、~し続ける意の補助動詞。「がね」は、希望的推測。1959の「雨晴れ」は、雨が上がって晴れ間がのぞいた時の意。「たぐひて」は、一緒に連れ添って、伴って。「こゆ」は、ここから。1960の「物思ふと」は「物思ふとて」で、物思いをして。「さ渡る」の「さ」は、接頭語。「すべなきまでに」は、やるせないまでに。持って行き場のない心理状態を言っています。
巻第10-1961~1965
1961 我(わ)が衣(きぬ)を君に着せよと霍公鳥(ほととぎす)我(わ)れをうながす袖(そで)に来居(きゐ)つつ 1962 本(もと)つ人(ひと)霍公鳥(ほととぎす)をやめづらしく今か汝(な)が来(こ)し恋ひつつ居(を)れば 1963 かくばかり雨の降らくに霍公鳥(ほととぎす)卯(う)の花山(はなやま)になほか鳴くらむ 1964 黙(もだ)もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思(ものも)ふ時に鳴きつつもとな 1965 思ふ子が衣(ころも)摺(す)らむににほひこそ島の榛原(はりはら)秋立たずとも |
【意味】
〈1961〉私が着ている衣をあの方に着せなさいと、ホトトギスがしきりに催促しています。私の袖に来てとまって。
〈1962〉古なじみのあの人が、ホトトギスを珍しがって来てくれたのか、ちょうどあの人を恋しがっていたところへ。
〈1963〉こんなにも雨が降り続くのに、ホトトギスは、卯の花が咲きにおう山辺で、今もなお鳴いているのだろうか。
〈1964〉何もない時に鳴いてほしいヒグラシなのに、こんなに物思いにふけっている時に、むやみやたらと鳴き続けて。
〈1965〉愛しく思うあの子が衣を染めるのにいいように、美しく色づいておくれ、ここ島の榛原よ、秋はまだ来ないが。
【説明】
1961~1963は「鳥を詠む」歌。1961の「我が衣を」の原文「吾衣」で、ワガコロモ、アガコロモなどと訓むものもあります。「我れをうながす」の原文「吾乎領」で、「領」は督促する意。よく分からない歌として、さまざまな解釈がありますが、ここはホトトギスの鳴き声を「衣君に着せ」と聞きなして詠んだとする説に従っています。妻が夫に衣を贈る時に添えた歌とされます。
1962の「本つ人」は、古なじみの人。「霍公鳥をや」の「をや」は、逆説的詠嘆をこめてそこで軽く止める語法。「今か汝が来し」の「か」は疑問の係助詞で「来し」で結んでいます。なお上掲の解釈とは別に、ホトトギスを旧知の人に見立て、来るのが遅かったという気持と、しかしまあよく来てくれたという気持を込めて詠んだ歌と解するものもあります。1963の「雨の降らくに」の「降らく」は「降る」のク語法で、雨の降ることであるのに。「卯の花山」は、卯の花の咲いている山で、詩的な造語。「なほか鳴くらむ」は、それでも鳴いているのであろうか。
1964は「蝉を詠む」歌。「黙」は、黙っている、何事もなくている。「鳴かなむ」の「なむ」は、願望の助詞。「もとな」は、わけもなく、むやみに。恋をして悩んでいる時に、ヒグラシの声は似つかわしくない、静かに物思いに耽りたい、と言っています。1965は「榛を詠む」歌。「榛」は、ハンノキ。「衣摺らむに」は、衣を摺るために。「にほひこそ」の「こそ」は、希求の助詞で、美しく色づいておくれ。衣を染めるのに用いるのは葉ではなく実や樹皮であるため、美しい黄葉を望む中に、実が熟するのを含めていると見られます。「島」は、明日香村の島の庄か。「秋立たずとも」は、暦の立秋を意識した表現。
巻第10-1966~1970
1966 風に散る花橘(はなたちばな)を袖(そで)に受けて君が御跡(みあと)と偲(しの)ひつるかも 1967 かぐはしき花橘を玉に貫(ぬ)き贈らむ妹(いも)はみつれてもあるか 1968 ほととぎす来鳴(きな)き響(とよ)もす橘(たちばな)の花散る庭を見む人や誰(た)れ 1969 我が宿(やど)の花橘(はなたちばな)は散りにけり悔(くや)しき時に逢へる君かも 1970 見わたせば向ひの野辺(のへ)のなでしこの散らまく惜(を)しも雨な降りそね |
【意味】
〈1966〉風に舞い散る橘の花びらを袖に受け止め、その香りをあなたの形見のように偲んでいます。
〈1967〉香りのよい花橘の実を薬玉にして贈ってやろう。彼女はやつれ果てて病床についているのではないだろうか。
〈1968〉ホトトギスが来て鳴き声を響かせている、橘の花の散っている庭、この庭を一緒に見て楽しんでくれる人は誰だろう。
〈1969〉我が家の庭の花橘はすでに散ってしまいました。こんな時にあなたにお逢いするのがとても残念です。
〈1970〉ここから見わたすと、向こうの野にナデシコが咲いている。散ってしまうのが惜しいから、雨よ降らないでおくれ。
【説明】
「花を詠む」歌。1966~1969の「橘」は柑橘類の一種で、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の代に、非時香菓(ときじくのかくのみ:時を定めずいつも黄金に輝く木の実)を求めよとの命を受けた田道間守(たじまもり)が、常世(仙境)に赴き、10年を経て、労苦の末に持ち帰ったと伝えられる植物です。しかしその時、垂仁天皇はすでに崩御しており、それを聞いた田道間守は、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺しました。次代の景行天皇が田道間守の忠を哀しみ、垂仁天皇陵近くに葬ったとされます。そうした伝説が影響してか、宮廷の貴族たちは好んで庭園に橘を植えたといいます。
1966の「君が御跡と」の「跡」は他に例がなく、足跡の意から、形見、名残の意に用いられたものとされます。原文は「為君御跡」で、「君がみためと」と訓み、「あなたに差し上げるために」のように解するものもあります。君は亡き人で、作者は妻だろうとする見方がありますが、懐かしい人の旧宅か、ゆかりの地に立っての感慨、あるいは単純に女自身の家の橘を、今はその人の来てくれぬままに詠んだものと見るものもあります。
1967の「かぐはしき」は、香りのよい。「みつれてもあるか」の「みつる」は、やつれる意。「も~か」は、詠嘆的疑問。事情の分かりにくい歌ですが、5月5日の薬玉を妻に贈ろうとして、折から妻の病みやつれていることを憂えたものとされます。窪田空穂は、「多くをいわず、気分をその一歩手前の状態をいうことにとどめたものである。貴族的な歌である」と述べています。
1968の「響もす」は、響かせる。「見む人や誰れ」の「や」は、反語の意を含む疑問。見る人はほかの誰でもなくおそらくあなただろう、の意。風流を解する男同士の社交の歌との見方がありますが、訪れが稀になった男に対し、婉曲に誘う女の歌との見方もあります。それだと、慎ましやかさを装いながらも、ちらっと皮肉がこめられたようにも感じられます。
1969の「宿」は、家の敷地、庭先。「悔しき時」は、せっかくの花橘が散ってしまったあとに相手が来たことを残念に思っていることを言っています。前歌と似る女の立場の歌と見えますが、この歌は類想が多く、来訪した客に対して、挨拶の心をもって詠んだ社交上の歌であるともされ、「花橘」の代わりに色んな花の名を入れて使えそうな歌です。1970の「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。散るであろうこと。「雨な降りそね」の「な~そね」は、懇願的な禁止。
巻第10-1971~1974
1971 雨間(あまま)明けて国見(くにみ)もせむを故郷(ふるさと)の花橘(はなたちばな)は散りにけむかも 1972 野辺(のへ)見ればなでしこの花咲きにけり我(あ)が待つ秋は近づくらしも 1973 吾妹子(わぎもこ)に楝(あふち)の花は散り過ぎず今咲ける如(ごと)ありこせぬかも 1974 春日野(かすがの)の藤は散りにて何をかもみ狩(かり)の人の折りてかざさむ |
【意味】
〈1971〉雨が晴れて国見をしようと思うのに、故郷の橘の花は、この雨のためにもう散ってしまっただろうか。
〈1972〉野を見れば、ナデシコが一面に咲いている。私が待ちに待った秋が近づいてきたようだ。
〈1973〉彼女に逢うまで、アウチの花は散ってしまわないで、今咲いているままいてくれないだろうか。
〈1974〉春日野の藤の花はとっくに散ってしまい、薬狩の大宮人たちは、いったい何の花を折り取って髪にかざせばいいのだろう。
【説明】
「花を詠む」歌。1971の「雨間明けて」は、雨と雨との間、すなわち晴れ間が明けてから。「国見」は、高い所に上って広い展望を楽しむこと。「故郷」は、奈良遷都後の藤原京または明日香古京。「散りにけむかも」の「けむ」は、過去推量。1972の「なでしこ」は、ここは原文「瞿麦」は漢籍による表記で、その実が蕎麦に似ていることによる文字。
1973の「吾妹子に」は、逢ふと続き「楝(あふち)」にかかる枕詞。「楝」は、落葉高木の栴檀(せんだん)の木。夏に薄紫色の可憐な花が咲きます。「ありこせぬかも」の「こせは、~してくれる意の補助動詞「こす」の未然形。「ぬかも」は、願望。1974の「春日野」は、奈良市の東方、奈良朝の官人たちが行楽の地として好んだ所。藤原氏を氏神とする春日大社があり、今でも巫女たちが藤の花を髪飾りにして神に仕えています。「御狩」は、5月5日に行われた薬狩のことで、春日野での成年式でもあったと見る説があります。
巻第10-1975~1979
1975 時ならず玉をぞ貫(ぬ)ける卯(う)の花の五月(さつき)を待たば久しくあるべみ 1976 卯(う)の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥(ほととぎす)鳴きてさ渡る君は聞きつや 1977 聞きつやと君が問はせる霍公鳥(ほととぎす)しののに濡れてこゆ鳴き渡る 1978 橘(たちばな)の花散る里に通ひなば山霍公鳥(やまほととぎす)響(とよ)もさむかも 1979 春さればすがるなす野の霍公鳥(ほととぎす)ほとほと妹(いも)に逢はず来(き)にけり |
【意味】
〈1975〉まだその時期ではないのに、私は玉を緒に貫いた、卯の花が咲く五月を待っていると、とても待ち遠しくて仕方ないので。
〈1976〉卯の花が咲き散る岡の上を、ホトトギスが鳴いて渡っていきましたよ、あなたは聞きましたか?
〈1977〉鳴き声を聞いたかいとお尋ねのホトトギスは、びっしょりと濡れながら、ここから鳴いて渡っていきました。
〈1978〉橘の花が咲いて散る里に通って行ったなら、山ホトトギスの鳴く声が響き渡るだろうか。
〈1979〉春になるとすがるが羽音を立てて飛び交う野のホトトギス、その名のようにほとんど妻に逢えずに帰って来たことだ。
【説明】
1975は「花を詠む」歌。5月の節句の日に、花の実に糸を通して薬玉をつくり、邪気を払い健康を祈った風習のことを言っています。「卯の花」は、旧暦4月の卯月に咲くのでこの名が付いた、あるいは、卯の花が咲く月なので「卯月」となったともいわれます。ここの歌からは、5月に咲くともされたことが知られます。上掲の解釈は主格を作者としていますが、卯の花を主格とする見方もあります。「久しくあるべみ」の「べみ」は「べし」のミ語法。
1976・1977は問答歌。1976は妻が夫に贈った歌で、霍公鳥が、私が住んでいる岡を通って、そちらへ鳴いて行きましたが、あなたは聞きましたかといって、夫のあわれを汲む心を問うと同時に、夫の自分に対する心の足りないのを織り交ぜていったものです。「岡ゆ」の「ゆ」は、~を通って。「さ渡る」の「さ」は、接頭語。1977は夫が答えた歌。「問はせる」は「問ふ」の敬語。「しののに」は「しとどに」の古語で、びっしょりと。「こゆ」は、ここを通って。雨か霧によってびっしょりと濡れた霍公鳥を、あわれを知る自分の涙に濡れて、の意でいっています。いずれの歌も、それぞれの気持ちを婉曲的に込め、技巧を凝らした味わい深い歌となっています。卯の花が散ると、霍公鳥(ほととぎす)はその地を去らねばならないと考えられていたようです。なお、双方に「君」とあることから、男同士が交わした歌とする見方があります。
1978は比喩歌。「橘の花散る里」を女の住む里に喩え、「山霍公鳥響もす」を人々が警戒して噂することに喩えています。つまり、「恋人のいる里へ通って行ったなら、周囲の人たちが警戒して噂するだろうか」と言っています。1979は「鳥に寄せる」歌。「春されば」は、春になると。「すがる」は、ジガバチの古名。腰が細く端正な蜂で、美女の形容にも用いられます。「なす」は、羽音を立てる。上3句は、霍公鳥のホトの同音反復で「ほとほと」を導く序詞。「ほとほと」は、ほとんど。妹の家へ通って行ったものの、何らかの事情で、逢うか逢わないかのあっけない状態で帰って来ての男の嘆きの歌とされます。
巻第10-1980~1983
1980 五月山(さつきやま)花橘(はなたちばな)に霍公鳥(ほととぎす)隠(こも)らふ時に逢へる君かも 1981 霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴く五月(さつき)の短夜(みじかよ)もひとりし寝(ぬ)れば明かしかねつも 1982 晩蝉(ひぐらし)は時と鳴けども恋(こ)ふるにし手弱女(たわやめ)われは時わかず泣く 1983 人言(ひとごと)は夏野(なつの)の草の繁(しげ)くとも妹(いも)と我(あ)れとし携(たづさ)はり寝ば |
【意味】
〈1980〉五月の山に咲く橘の花陰にホトトギスがこもっているように、家の中に籠っていたら、ひょっこりあなたが逢いに来て下さいました。
〈1981〉ホトトギスが鳴き立てる短夜の五月だけれども、一人で寂しく寝ているとなかなか夜明けにならない。
〈1982〉ヒグラシは悲しく鳴くといっても時を定めていますが、恋している手弱女の私は、時に関係なく泣いています。
〈1983〉人の噂が夏の野草が茂るようにうるさくても、あなたと私が手をとりあって寝てしまえば・・・。
【説明】
1980・1981は「鳥に寄せる」歌。1980の「五月山」は、5月の頃の山。上3句は「隠らふ」を導く譬喩式序詞。「隠らふ」は「隠る」の継続態。相手を思いながら独りふさいで家にいる時に、見計らったかのように訪れて来てくれた男に感謝する歌とされます。
1982は「蝉(ひぐらし)に寄せる」歌。「時と」は、その時節、鳴くべき時として。古来、ヒグラシは美しい鳴き声の蝉として愛されてきました。歌にあるように、ヒグラシが鳴く時間帯は基本的に早朝または夕方であり、あのカナカナカナカナ・・・とよく響く鳴き声には、涼感と共に、もの悲しさを感じさせられます。ここでも、恋に悩む女が、ヒグラシの鳴く声に刺激されて悲しみを深めています。「恋ふるにし」の「し」は、強意の副助詞。原文「於戀」で、コヒシクニと訓む説、他の本の原文「我戀」をワガコフルと訓む説、また「我」は「獨」の草体からの誤字と見て、カタコヒニと訓むなどの説があります。「手弱女」は、しなやかでか弱い様子の女性のこと。ほかに、しなやかで優美な女性、たおやかな女の意もあり、歌の優美で女性的な風情を「たをやめぶり」ともいいます。「時わかず泣く」は、時を分かたずいつも泣いている意。
1983は「草に寄せる」男の歌。「人言」は、他人の噂。その噂のうるささを、手がつけられないほど茂り放題となる夏草に喩えています。「我れとし」の「し」は強意の副助詞。「携はり寝ば」は、共に手を取り合って寝たならばで、下に嬉しかろう、あるいはあとはどうなろうと構わない、の意が省かれています。集団的生活のなかで、個人的行動が難しかった嘆きの歌ですが、作家の田辺聖子は次のように評しています。「直截的な表現で、それをどこかぶきっちょに、ぶこつに言っている。ぶっきらぼうな歌といってもいい。洗練された都会人ならもっとうまい言い回しをしたろうが、ぶったぎるような言い方に真実が感じられる」
巻第10-1984~1987
1984 このころの恋の繁(しげ)けく夏草の刈り掃(はら)へども生(お)ひしくごとし 1985 ま葛(くず)延(は)ふ夏野(なつの)の繁(しげ)くかく恋ひばまこと我(わ)が命(いのち)常(つね)ならめやも 1986 我(わ)れのみやかく恋すらむ杜若(かきつはた)丹(に)つらふ妹(いも)はいかにかあるらむ 1987 片縒(かたよ)りに糸をぞ我(わ)が縒(よ)る我(わ)が背子(せこ)が花橘(はなたちばな)を貫(ぬ)かむと思ひて |
【意味】
〈1984〉このごろの私の恋心の激しさは、刈り掃っても掃ってもまた生えてくる夏草のようなものだ。
〈1985〉葛が一面に這い伸びる夏の野のように、激しく恋い焦がれていたら、ほんとうに私の命は長く続くだろうか、続きはしない。
〈1986〉私だけがこんなに恋い焦がれているのか、杜若のように紅い頬をしたあの子は、いったいどんな気持ちでいるのだろう。
〈1987〉糸の片方ばかりに私は縒りをかけています。愛しいあなたのための橘の花を、糸に通してつないでおきたいと思って。
【説明】
1984~1986は「草に寄せる」歌。1984の「繁けく」は「繁し」のク語法で名詞形。「生ひしく」の「しく」は、あとからあとから追いつく意。1985の「ま葛」の「ま」は、完全性を示す接頭語で、秋の七草の一つ。「常ならめやも」の「常」は、永続、不変。「めやも」は反語。前歌とともに男女どちらの歌とも取れます。1986の「かく恋すらむ」の「らむ」は、現在推量。「杜若」はアヤメ科の多年草で、「丹つらふ」の比喩的枕詞。「丹つらふ」は、丹の色に出る意で、紅顔の意に用いているもの。恋する者によく宿る心情であり、相手はうら若くて無邪気な娘であったと見えます。
1987は「花に寄せる」歌。「片縒り」は、糸の片方だけを縒ること。普通の糸は2本縒りであるのに対し、1本のまま縒りをかけた弱い糸。「片縒りに糸をぞ我が縒る」は、片思いをしていることに譬えています。「我が背子が花橘を」は、あなたがかずらにするための橘の花を、の意。「貫かむと思ひて」の「貫く」は、緒に通す意で、薬玉にすること。
巻第10-1988~1991
1988 鴬(うぐひす)の通(かよ)ふ垣根(かきね)の卯(う)の花の憂(う)きことあれや君が来まさぬ 1989 卯(う)の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思(かたもひ)にして 1990 我(わ)れこそば憎くもあらめ我(わ)がやどの花橘(はなたちばな)を見には来(こ)じとや 1991 霍公鳥(ほととぎす)来鳴(きな)き響(とよ)もす岡辺(をかへ)なる藤波(ふぢなみ)見には君は来(こ)じとや |
【意味】
〈1988〉ウグイスの通ってくる垣根に咲く卯の花ではないが、うっとうしいことでもあるのだろうか、あの方はちっとも来て下さらない。
〈1989〉卯の花の咲くようには、心を開いてくれないあの人に、ずっと恋い続けるなのだろうか、片思いのままで。
〈1990〉この私こそが憎いとお思いでしょうが、だからといって、我が家の庭の橘の花さえ見にいらっしゃらないというのですか。
〈1991〉ホトトギスが来て鳴き立てている、その岡の辺に咲いている藤の花を見には、あなたはいらっしゃらないというのですか。
【説明】
「花に寄せる」歌。1988の上3句は「憂き」を導く同音反復式序詞。「憂きことあれや」の「憂きこと」は、うっとうしいこと、気が進まないこと、つまり自分が相手の意に染まぬ点があること。「あれや」は「あればや」の意で、「や」は疑問的反語。1989の「卯の花」は、「卯」に「憂」を掛けているとも言います。「咲くとはなしにある人」は、恋の実らない相手。窪田空穂は、いかにもかすかな言い方で、しかし心の明らかなもので、巧みであると評しています。「恋ひや渡らむ」の「や」は、疑問の係り。男女どちらの歌とも取れ、諸説、半々に分かれます。
1990・1991は、足を遠くしている夫に妻が贈った歌。1990の「我れこそば憎くもあらめ」の「こそば~あらめ」は、逆接条件。「来じとや」の「とや」は、相手の意中を推測する語法。「や」の反語性から、そんなつもりではあるまいに、の余意が含まれています。1991の「藤波」は、藤の花房が風に揺れるさまを波に喩えた語。前歌よりは婉曲な訴え方になっています。
巻第10-1992~1995
1992 隠(こも)りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出(で)よ朝(あさ)な朝(さ)な見む 1993 外(よそ)のみに見つつ恋ひなむ紅(くれなゐ)の末摘花(すゑつむはな)の色に出(い)でずとも 1994 夏草(なつくさ)の露(つゆ)別(わ)け衣(ころも)着(つ)けなくに我(わ)が衣手(ころもで)の干(ふ)る時もなき 1995 六月(みなづき)の地(つち)さへ裂(さ)けて照る日にも我(わ)が袖(そで)干(ひ)めや君に逢はずして |
【意味】
〈1992〉人目を忍んで心ひそかに恋続けるのはつらいものです。せめて、なでしこの花になって我が家の庭に咲き出てください。そうすれば朝ごとに見ることができますのに。
〈1993〉せめて遠目にだけでも姿を見て慕っていよう。鮮やかな紅花のように、はっきりと思いを打ち明けなくても。
〈1994〉夏草の露にまみれて踏み分けてきたような、そんな着物を着た覚えはないのに、どうして私の着物の袖は乾く間もないのか。
〈1995〉六月(新暦では七月)の、地面さえ裂けて照りつける日射しにも、私の着物の袖は涙で乾くことがありません。あなたにお逢いできないので。
【説明】
1992~1993は「花に寄せる」歌。1992の「隠りのみ」は、秘密にばかりして。家に引き籠っている意にも取れます。「朝な朝な」は、毎朝。上掲の解釈は女の歌としましたが、男の立場から、関係を結んでいる女がいつまでも母に秘密にしているのに気を揉み、なでしこの花のように咲き出て母に打ち明けよ、そうして毎朝見るように逢おう、と命じたものとする解釈もあります。
1993の「外のみに」は、せめて遠目にだけでも。「見つつ恋ひなむ」の「な」は完了、「む」は意志を表します。原文「見筒戀牟」で、ミツツヲコヒム、ミツツヤコヒム、ミツツコヒセムなどと訓むものもあります。「末摘花」は、紅花(べにばな)の別名で、先の方に咲く花を摘んで強い赤色を製するところからそう呼ばれます。「末摘花」とあるのは、集中この一例のみ。「色に出でずとも」の「色に出づ」は、表面にあらわす意で、恋を打ち明けていわずとも。
1994は「露に寄せる」歌。「露別け衣」は、夏草の露を分ける衣の意で、女の家に通う男が夏草の夕露を踏み分けて行くために濡れる衣をいうものとされます。美しい詩的造語ですが、誇張があり、技巧に走ったところがあるとも評されます。「着けなくに」の「なくに」は、逆接。恋の嘆きをしている男の歌とされますが、露別け衣など着たことがないのに、すなわちそんな経験などしたことのない女の心の歌であるとする見方もあります。
1995は「日に寄せる」歌。ここの「六月」は旧暦で、今の七月、暑い夏の真っ盛りのころです。「地さへ裂けて」は、地までも干割れて。「干めや」の「めや」は、反語。作家の田辺聖子はこの歌を評し、「形容が斬新で、烈日と地割れをもってきたところが、この歌の面白みであろう。真夏の容赦ない暑さや、乾き切った地面などが、この時代より以後の歌によまれることはない。いかにも万葉ぶりの生活感あふれる歌である」と言っており、窪田空穂は、「『六月の地さへ裂けて照る日にも』は、眼前を捉えたもので、その捉え方の大きく、言い方の直線的に、力のある点は、特色のあるものである」と言っています。
巻第10-2034~2038
2034 織女(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織(お)る布の秋さり衣(ごろも)誰(た)れか取り見む 2035 年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠(よぎりごも)れる遠妻(とほづま)の手を 2036 我(あ)が待ちし秋は来(きた)りぬ妹(いも)と我(あ)れと何事あれぞ紐(ひも)解かずあらむ 2037 年の恋(こひ)今夜(こよひ)尽(つく)して明日(あす)よりは常(つね)のごとくや我(あ)が恋ひ居(を)らむ 2038 逢はなくは日(け)長きものを天(あま)の川(がは)隔(へだ)ててまたや我(あ)が恋ひ居(を)らむ |
【意味】
〈2034〉織姫がたくさんの機(はた)を立てて織る布、その布で縫う秋の衣は、誰が着るのだろうか。
〈2035〉一年ぶりに今ごろは、腕を枕に寝ているだろうか、夜霧に隠れて、遠方にいた妻の腕を。
〈2036〉私が待ちに待った秋がついにやってきた。わが妻と私は、何事があろうとも紐を解かずにおくものか。
〈2037〉一年越しの恋情の苦しさを今宵晴らして、明日からはまた、これまでと同じように恋し続けることになるのだろうか。
〈2038〉逢わないできた日々は長かったのに、天の川を隔てて、また私は恋し続けることになるのだろうか。
【説明】
七夕(しちせき)の歌。以下、2093まで作者未詳の七夕歌が60首続きます。前に並ぶ『柿本人麻呂歌集』の七夕歌を古の歌と仰いで並べた歌群で、万葉第三期にあたる奈良朝時代の詠とされ、宮廷詩宴に集った下級官人らの作だろうといわれます。
2034の「織女の五百機立てて」の「五百機立てて」は、多くの機械を設けての意で、良い布を織るために奮闘しているようす。「秋さり衣」は、秋になって着る衣。「誰れか取り見む」の「か」は、反語的疑問。「取り見む」は、手に取ってみるで、着る意。2035の「年にありて」は、一年間も逢えない状態でいて、の意。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜霧隠れる」は、夜霧に隠れて。原文「夜霧隠」で、ヨギリゴモリニ、ヨギリガクリニなどと訓むものもあります。2036の「何事あれぞ」は、何事があっても。2037の「年の恋」は、一年間の恋。「尽して」は、晴らして。「常のごとくや」の「常」は平常、「や」は疑問の係助詞。2038の「逢はなく」は「逢はぬ」のク語法で名詞形。「隔ててまたや」の「また」は、また同じように。
もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、すでに天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。
『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しています。妻問い婚という形態と重ねられるゆえに流行しましたが、その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。
なお、元の中国の七夕伝説は次のようなものです。―― 昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した。―― ところが日本では牽牛と織女の立場が逆転し、牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となっています。なぜそうなったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。
巻第10-2039~2044
2039 恋しけく日(け)長きものを逢ふべくある宵(よひ)だに君が来まさずあるらむ 2040 彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)と今夜(こよひ)逢ふ天の川門(かはと)に波立つなゆめ 2041 秋風の吹きただよはす白雲(しらくも)は織女(たなばたつめ)の天(あま)つ領巾(ひれ)かも 2042 しばしばも相(あひ)見ぬ君を天の川(がは)舟出(ふなで)早(はや)せよ夜(よ)の更けぬ間に 2043 秋風の清き夕(ゆふへ)に天の川(がは)舟漕ぎ渡る月人壮士(つきひとをとこ) 2044 天の川(がは)霧(きり)立ちわたり彦星(ひこほし)の楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ夜(よ)の更けゆけば |
【意味】
〈2039〉恋しく思う日々は長かったのに、お逢いできるはずの今宵さえ、どうしてあの人はおいでにならないのだろうか。
〈2040〉彦星と織女星とが今夜逢う、天の川の渡りに、波よ決して立たないで。
〈2041〉秋風が吹き漂わせている白雲は、織女の天の領巾ではないでしょうか。
〈2042〉たびたびは逢えないあなたですのに、天の川に早く舟出して下さい。夜が更ける前に。
〈2043〉秋風がすがすがしい今夜、天の川に舟を出して漕ぎ渡っている、月人壮士が。
〈2044〉天の川に霧がたちこめてきて、彦星が舟を漕ぐ楫の音が聞こえる。次第に夜が更けてゆくと。
【説明】
七夕の歌。2039の「恋しけく」は「恋し」のク語法で名詞形。「逢ふべくある」は、逢えるはずの。「宵だに」の「だに」は、~さえ、~だけでも。2040の「川門」は、川の流れが門のように狭くなっている所。「波立つなゆめ」の「ゆめ」は、強い禁止。2041の「天つ」は、天の。「領巾」は、女性が肩にかける長いショールのような布。白雲をそれに見立てています。2042の「舟出早せよ」は、牽牛に呼びかけた形。彦星を待つ織女の心を詠んだもので、情熱的なさまが想像されています。
2043の「舟漕ぎ渡る」は、七夕の夜の上弦の月が舟の形に似ているところから、月を舟に喩えています。「月人壮士」は、月を若者に見立てて擬人化したもの。私たちの知る七夕伝説に月は登場しませんが、『万葉集』では月も登場します。月である月人壮士は、牽牛と織女の間を取り持つ使者の役割を持っています。「月人壮士」の表現は『万葉集』の七夕歌のうち5首に使われています。2044の「霧立ちわたり」というのは、彦星が舟を漕ぐ櫓が立てる飛沫を言っているものと見えます。
巻第10-2045~2049
2045 君が舟(ふね)今漕ぎ来(く)らし天の川(がは)霧(きり)立ちわたるこの川の瀬に 2046 秋風に川波(かはなみ)立ちぬしましくは八十(やそ)の舟津(ふなつ)にみ舟(ふね)留(とど)めよ 2047 天の川(がは)川音(かはと)清(さやけ)し彦星(ひこぼし)の秋漕ぐ舟の波のさわきか 2048 天の川(がは)川門(かはと)に立ちて我(あ)が恋ひし君来ますなり紐(ひも)解き待たむ 2049 天の川(がは)川門(かはと)に居(を)りて年月(としつき)を恋ひ来(こ)し君に今夜(こよひ)逢へるかも |
【意味】
〈2045〉あの方の舟は、今こそ漕いでこちらに来るらしい。天の川に霧が立ちこめてきた、この川瀬に。
〈2046〉秋風が吹いて川波が立ち始めました。しばらくの間は、あちこちの舟だまりのどこかに舟をとどめて下さい。
〈2047〉天の川にの水音がはっきり聞こえる、秋になって彦星が漕ぎ出した舟の立てる波のざわめきだろうか。
〈2048〉天の川の舟着き場に立って、私の恋しいあなたがやってくるのを、下紐を解いてお待ちしましょう。
〈2049〉天の川の舟着き場に立ち、一年もの長い月日を恋い焦がれてきたあなた、そのあなたにやっと今夜お逢いできました。
【説明】
七夕の歌。2045の「漕ぎ来らし」の「らし」は、根拠に基づく推量。2046の「しましくは」は、しばらくは。「八十」は、多くというのを具象的にいったもの。「舟津」は、舟の発着する場所。「み舟」の「み」は、尊称。以上2首は、いずれも織女の立場の歌で、2045では牽牛の渡河の気配を知る胸のときめきを述べ、2045では秋風によって川波が立ってしまったというので、渡河の様子を案じています。
2047の「川音清し」の原文「河聲清之」で、カハノオトキヨシと訓むものもあります。「秋漕ぐ舟」の「秋」は、七夕の夜を広く言い換えたもの。殊更に「秋」と言っているのは、前歌の「秋風」を承けて用いたもののようです。「さわき」は、波の騒ぐ音。第三者の立場で詠んだ歌です。
2048の「川門」は、川の流れが門のように狭くなっている所。ここでは船着き場。「来ますなり」の「ます」は、尊敬。「紐」は、下紐。本来、紐を解くのは部屋に入ってからで、その後に共寝するわけですが、織女は待ちきれず、川で牽牛を待っている間に紐を解くと言っています。あまりのことですので、ひょっとして「笑わせ歌」だったかもしれません。ことさように、巻第10の七夕歌に登場する織女は、かなり積極的な女性として描かれています。2049の「居り」は、じっとする。「年月を」は、長い間を、一年間を。以上2首は、織女の立場の歌。
巻第10-2050~2054
2050 明日よりは我(わ)が玉床(たまどこ)をうち掃(はら)ひ君と寐寝(いね)ずてひとりかも寝む 2051 天の原行きて射(い)てむと白真弓(しらまゆみ)引きて隠(こも)れる月人壮士(つきひとをとこ) 2052 この夕(ゆふへ)降りくる雨は彦星(ひこほし)の早や漕ぐ舟の櫂(かい)の散りかも 2053 天の川 八十瀬(やそせ)霧(き)らへり彦星(ひこぼし)の時(とき)待つ舟は今し漕ぐらし 2054 風吹きて川波(かはなみ)立ちぬ引き船に渡りも来ませ夜(よ)の更(ふ)けぬ間(ま)に |
【意味】
〈2050〉明日からは、この私たちの寝床をきれいにしても、あなたとは寝られず、ひとり寂しく寝ることになるのだろうか。
〈2051〉天の原に出かけて獲物を射止めようと、白木の弓を引き絞ったまま、山の端に隠れている、月人壮士よ。
〈2052〉この夕べに降る雨は、彦星が急いで漕いでいる舟の、櫂のしずくが散っているのだろうか。
〈2053〉天の川の多くの瀬に霧が立ちこめている。時を待っていた彦星は、今舟を出して漕ぎ出したに違いない。
〈2054〉風が吹いて川波が立ってきました。引き綱を引いてでも早く渡ってきて下さい。夜が更けないうちに。
【説明】
七夕の歌。2050は、7日の夜明けに織女が言っている歌。「我が玉床」の「我が」は、我らの意。「玉」は、床を褒める美称。「うち掃ひ」は、床の塵を袖などで払う意で、浄めて大切にすること。夫が寝た床であることから尊んで言っています。「ひとりかも寝む」の「かも」は、疑問の係助詞。「寝む」は、その結びで連体形。
2051の「天の原」は、大空を原野に見立てた語。「行きて射てむと」の原文「徃射跡」で、ユキテヤイルト、ユキテイナムト、ユキテヲイムト、イユキテイムトなどと訓むものもあります。「白真弓」は、白木の弓。「引きて隠れる」は、弓を射ようと引き絞って隠れる。「月人壮士」は、月を擬人化したもの。折から上弦の月が低く現れ、薄雲に覆われたのを、月人壮士の白真弓に見立てて、空に向かって射ようとしていると見ています。七夕には直接関係のない歌です。
2052の「櫂の散りかも」の「櫂」は、舟を漕ぎ進める道具。「楫」とは違い、小型の舟に固定せず用いるもの。「散り」は、漕ぐ櫂によって起こる飛沫。それが霧となり、さらに雨となって地上に落ちて来るという考えに立っているものです。美しい連想であり、『伊勢物語』の「我が上に露ぞ置くなる天の川と渡る船の櫂の雫か」は、この歌に拠っています。
2053の「八十瀬」の「八十」は数の多いことを言い、天の川の多くの瀬の意。「霧らへり」の「霧らふ」の継続態で、霧が立ち込めている。「今し」の「し」は、強意の副助詞。「らし」は、現在推量の助動詞。「時待つ舟」は、七夕の夜を待っていた舟。2054の「引き船」は、自力で漕ぎ渡るのが困難な時、船に綱をつけて陸から引き寄せる船のこと。「渡りも来ませ」は、渡ってでもおいで下さい。「来ませ」は「来よ」の敬語。織女の気持ちになって詠んでいます。原文「度裳來」で、ワタリモコヌカの訓みもあります。
巻第10-2055~2059
2055 天(あま)の川(がは)遠き渡りはなけれども君が舟出(ふなで)は年にこそ待て 2056 天(あま)の川(がは)打橋(うちはし)渡せ妹(いも)が家道(いへぢ)やまず通(かよ)はむ時待たずとも 2057 月(つき)重(かさ)ね我(あ)が思ふ妹(いも)に逢へる夜(よ)は今し七夜(ななよ)を継(つ)ぎこせぬかも 2058 年に装(よそ)ふ我(わ)が舟漕がむ天(あま)の川(がは)風は吹くとも波立つなゆめ 2059 天(あま)の川(がは)波は立つとも我(わ)が舟はいざ漕ぎ出(い)でむ夜(よ)の更(ふ)けぬ間に |
【意味】
〈2055〉天の川に遠い渡し場はないのだけれど、あなたの舟出を、一年にわたってお待ちしなければならないのです。
〈2056〉天の川に打橋を渡しておくれ。そしたら、あなたの家への道を絶えず通おう、七夕の夜など待たないで。
〈2057〉幾月も重ねて私が恋い焦がれてきた愛しい子に、こうして逢っている夜は、さらに幾夜も続いてくれないものか。
〈2058〉年に一度舟装いをするこの舟をさあ漕ぎ出そう。天の川に、風が吹くことがあっても、波よ立ってくれるな、決して。
〈2059〉天の川が波立とうとも、我が舟は、さあ、思い切って漕ぎ出そう。夜が更けないうちに。
【説明】
七夕の歌。2055は織女の立場の歌。「遠き渡りはなけれども」の「渡り」は渡し場のことで、天の川の川幅は広くないけれど、の意。「年にこそ待て」は、一年にわたって待たなければならないとは、の意。「こそ~(已然形)」の係り結びで、ここは、あまりにも切ない、の余意が含まれます。2056~2059は牽牛の立場の歌。2056の「打橋」は、板を渡して自由に架け外しできる橋。来訪者を受け入れようとする許しの橋として多く用いられるものです。「家道」は、家に行く道。「時」は、逢える時で、七夕の夜。
2057の「月重ね」は、月を一年間重ねること。「今し」の「し」は、強意の副助詞。「七夜」は、多くの夜。「継ぎこせぬかも」の「継ぎ」は、続く意の動詞「継ぐ」の連用形。「こせぬかも」は、~してくれないかなあ。2058の「年に装ふ」の「年に」は、年に一度。「装ふ」は、舟装いをする、入念に舟の整備をする。トシニヨソフのニヨのように、尾音「i」に頭音「y」が続く場合は字余りとは見なされないものでした。「ゆめ」は、決して、必ず。2059は前歌との連作とみられ、前歌は波への願望であり、ここでは、その願望が叶わなくても舟出すると決意しています。
巻第10-2060~2064
2060 ただ今夜(こよひ)逢ひたる子らに言(こと)どひもいまだせずしてさ夜(よ)ぞ明けにける 2061 天(あま)の川(がは)白波(しらなみ)高し我(あ)が恋ふる君が舟出(ふなで)は今しすらしも 2062 機物(はたもの)の蹋木(ふみき)持ち行きて天(あま)の川(がは)打橋(うちはし)渡す君が来(こ)むため 2063 天(あま)の川(がは)霧(きり)立ち上(のぼ)る織女(たなばた)の雲の衣(ころも)のかへる袖(そで)かも 2064 いにしへゆ織(お)りてし服(はた)をこの夕(ゆふへ)衣(ころも)に縫(ぬ)ひて君待つ我(わ)れを |
【意味】
〈2060〉年にたった一度の今夜、やっと逢えた愛しい妻と、まだ十分言葉を交わさないうちに、夜が明けてしまった。
〈2061〉天の川に白波が高い。私が恋い慕うあの方が、ちょうど舟出をするのだろう。
〈2062〉機織り機の踏み木を持って行って、天の川に打橋を渡そう。あの人が渡ってこられるように。
〈2063〉天の川に霧がかかっている。あれは、織姫が着ている雲の着物のひるがえっている袖なのだろうか。
〈2064〉ずっと前から織り続けてきた織物を、この夕方に衣に縫って、あなたを待っている私です。
【説明】
七夕の歌。2060の「ただ今夜」は、たったそれだけの今夜の意。「子ら」の「ら」は、接尾語。「言どひ」は、言葉を交わすこと。「さ夜」の「さ」は、接頭語。「明けにける」の「ける」は「ぞ」の係り結びで連体形。牽牛の立場の歌。2061の「白波」は、波頭が白く砕ける荒波。「今し」の「し」は、強意の副助詞。「すらしも」の「らし」は、現在推量。織女の立場の歌で、天の川の波のさわぎに牽牛の舟出の気配を察しています。。
2062の「機物」は、機織り機。「蹋木」は、機織り機の、縦糸を上下に動かすために足で踏み動かす板。2つからなり、左右の足で踏んで縦糸を交互に上下させて横糸を通します。「打橋」は、板を渡して自由に架け外しできる簡単な橋。多くの場合、通ってくる夫を迎える時に、女が渡しました。蹋木はごく短いものなので、それで打橋を渡せるわけもないのに、「それがかえってこの歌に可憐な感じを与えている」と、詩人の大岡信は言っています。織女の立場の歌。
2063の「織女(たなばた)」は、タナバタツメを省略したもの。「雲の衣」は、七夕を歌った漢詩によく見られる、雲を織女の衣に見立てた「雲衣」から発想を得ており、ここは第2句の立ち上る「霧」を言っています。第三者の立場の歌で、川辺で待つ織女の姿を美化しています。2064の「いにしへゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。ずっと以前から。「織りてし服」は、織ってあった布。「君待つ我れを」の「を」は、詠嘆。織女の立場の歌で、窪田空穂は、「この織女は、主婦としての矜りを見せている」と言っています。
巻第10-2065~2069
2065 足玉(あしだま)も手玉(ただま)もゆらに織(お)る服(はた)を君が御衣(みけし)に縫(ぬ)ひもあへむかも 2066 月日(つきひ)択(え)り逢ひてしあれば別れまく惜(を)しくある君は明日(あす)さへもがも 2067 天(あま)の川(がは)渡り瀬(ぜ)深み舟(ふね)浮(う)けて漕(こ)ぎ来る君が楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ 2068 天(あま)の原(はら)振り放(さ)け見れば天(あま)の川(がは)霧立ちわたる君は来(き)ぬらし 2069 天(あま)の川(がは)瀬ごとに幣(ぬさ)をたてまつる心は君を幸(さき)く来ませと |
【意味】
〈2065〉足玉も手玉も、ゆらゆら揺らしながら織っているこの織物を、あの方のお召し物に仕立てられるでしょうか。
〈2066〉月日を選んでお逢いしているのですから、お別れするのが惜しまれてならないあなたは、今晩もまたお逢いできればいいのに。
〈2067〉天の川の渡し場の瀬が深いので、舟を浮かべて漕いでくるあの方の櫓の音が聞こえる。
〈2068〉空を振り仰いでみると、天の川に霧が立ちこめている、あの方の舟がそこまでやって来ておられるらしい。
〈2069〉天の川の瀬ごとに神にお供えするのは、あなたがご無事にいらっしゃるようにと祈る思いからです。
【説明】
七夕の歌で、いずれも織女の立場の歌。2065の「足玉も手玉もゆらに織る」の「足玉」「手玉」は、緒に貫いた玉を、それぞれ足と手に巻きつける飾り。「ゆらに」は、揺れる形容。記紀神話にしばしば類似の表現が見られ、一心に機を織る姿を表しています。「御衣」の「御」は美称で、お召物。「縫ひもあへむかも」の「あへ」は、可能の意、「かも」は詠嘆的疑問で、逢会の時までに間に合うかしら、の意。
2066の「月日択り」は、7月7日を選んで。原文「擇月日」で、ツキヒオキと訓むものもあります。「別れまく」は「別れむ」のク語法で名詞形。原文「別乃」で、ここは「乃」を「久」の誤りとする説に従っていますが、そのままでワカレムノと訓むものもあります。「明日さへもがも」の「明日」は、ここは今晩の意で、天智朝以前には日没を一日の始まりとする考え方があったことが指摘されており、集中ほかにも「今夜」を「明日」と言ったと見られる例があります。「もがも」は、願望。
2067の「渡り瀬深み」は、渡し場の瀬が深いので。「楫」は、櫓。2068の「天の原」は、空の広大なさまを言ったもの。「振り放け見れば」は、身を反らして仰ぎ見れば。「霧」は、舟の立てる水煙として言っています。2069の「瀬ごとに」の「瀬」は、渡し場の瀬。川幅の広い天の川の河原と渡瀬が交互に連続しているさまを想像しています。「幣」は、神に祈るときに捧げるもの。地上では、異境の地に入るたびに、その地の神に幣を捧げて通行するので、それを天の川に転じ、織女が彦星に代わってするさまをうたっています。「心」は、祭りをする心。「幸く」は、つつがなく、無事に。
巻第10-2070~2074
2070 ひさかたの天(あま)の川津(かはづ)に舟(ふね)浮(う)けて君待つ夜(よ)らは明けずもあらぬか 2071 天(あま)の川(がは)なづさひ渡る君が手もいまだ枕(ま)かねば夜(よ)の更(ふ)けぬらく 2072 渡(わた)り守(もり)舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫(かぢ)の音(おと)のせぬ 2073 ま日(け)長く川に向き立ちありし袖(そで)今夜(こよひ)巻かむと思はくがよさ 2074 天(あま)の川(がは)渡り瀬(ぜ)ごとに思ひつつ来(こ)しくもしるし逢へらく思へば |
【意味】
〈2070〉天の川の舟付き場にお迎えの舟を浮かべて、あの方を待つ今夜は、明けずにいてくれないものか。
〈2071〉天の川を足を濡らして渡って来られるあの方の、手をまだ枕にしてもいないのに、もう夜が更けてしまった。
〈2072〉渡し守よ、舟を渡せと呼ぶ声が届かないのだろうか、櫓の音が聞こえない。
〈2073〉幾日も川に向かって立っていた妻の着物の袖を、今宵、いよいよ枕にすることができると思うと、わくわくしてくる。
〈2074〉天の川の渡り瀬を越えるたびに、妻のことを思って来た甲斐があった。こうして逢うことができたから。
【説明】
七夕の歌。2070・2071は織女の立場の歌。2070の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天の川津」は、天の川の船着き場。「舟浮けて」は、お迎えの舟を浮かべて。「夜ら」の「ら」は、接尾語。「明けずもあらぬか」の「も~ぬか」は、願望。牽牛はなかなかやって来なかったようです。2071の「なづさひ渡る」は、足を濡らして渡って。織女の行為と見る説もあるようです。「枕かねば」は、枕としないのに。「更けぬらく」は「更けぬ」のク語法で名詞形。
2072~2074は牽牛の立場の歌。2072は、向こう岸を出る時の歌で、「渡り守」は、天の川の渡し場の船頭。「舟渡せをと」の「を」は間投助詞で、呼びかけ。「至らねばかも」の「かも」は疑問で、届かないのだろうか。2073の「ま日」の「ま」は接頭語、「日」は日数。「思はく」は「思ふ」のク語法で名詞形。「よさ」は、形容詞「よし」の名詞形。2074の「来しくもしるし」の「来しく」は「来し」のク語法で名詞形。「しるし」は、効果が著しい意の形容詞。「逢へらく」は「逢へり」のク語法で名詞形。前歌とともに、天の川を渡りながらの歌で、結局、渡り守が舟を漕ぎ寄せてくれないので、徒歩で渡河したようです。
巻第10-2075~2079
2075 人さへや見継(みつ)がずあらむ彦星(ひこほし)の妻呼ぶ舟の近づき行くを [一云 見つつあるらむ] 2076 天(あま)の川(がは)瀬を早みかもぬばたまの夜(よ)は更(ふ)けにつつ逢はぬ彦星(ひこほし) 2077 渡(わた)り守(もり)舟(ふね)早(はや)渡せ一年(ひととせ)にふたたび通(かよ)ふ君にあらなくに 2078 玉葛(たまかづら)絶えぬものからさ寝(ぬ)らくは年の渡りにただ一夜(ひとよ)のみ 2079 恋ふる日(ひ)は日(け)長きものを今夜(こよひ)だにともしむべしや逢ふべきものを |
【意味】
〈2075〉地上の人たちまでも見続けないでいられようか、彦星の妻どいの舟が向こう岸に近づいて行くのを。(見続けているであろうか)
〈2076〉天の川の川瀬の流れが早いからか、夜は更けていくというのに、まだ織姫に逢えないでいる、彦星は。
〈2077〉渡し守よ、早く舟をこちら岸に着けておくれ。一年に二度と通って来られるお方ではないのだから。
〈2078〉蔓のように私たちの仲は絶えることはないものの、共寝できるのは一年に一夜だけなのです。
〈2079〉恋しく思う日々は長いのに、今夜だけでも、物足りない思いをさせるべきではない、せっかく逢える夜なのだから。
【説明】
七夕の歌。2075・2076は第三者からの立場の歌。2075の「人さへや」の「人」は地上の人、「や」は反語で、織女ばかりでなく地上の人々も、の意。「見継がずあらむ」は、見続けずにいられようか。「あらむ」は、上の「や」の結び。2076の「瀬を早みかも」は、瀬が早いからだろうか。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜は更けにつつ」の「つつ」は、逆説的詠嘆を示しており、夜は更けてしまうというのに。「逢はぬ彦星」の「逢はぬ」、上の「かも」の結びの連体形であるとともに「彦星」の修飾語にもなっています。天の川の流れの速さになかなか岸に上がれないさまを描き、じれったがっている歌です。
2077・2078は織女の立場の歌。2077の「渡り守」は、天の川の渡し舟の船頭。「あらなくに」は、ないことであるのに。2078の「玉葛」の「玉」は美称で、葛の蔓が切れずにどこまでも延びることから「絶えぬ」にかかる枕詞。「絶えぬものから」は、絶えないものの。「さ寝らくは」の「さ」は、接頭語、「寝らく」は「寝る」のク語法で名詞形。「年の渡り」は、一年が経過する間に。牽牛の歌と見る立場もあります。2079は牽牛の立場の歌。「今夜だに」は、今夜だけでも。「ともしむべしや」の「ともしむ」は、物足りなく思わせる。「や」は、反語。
巻第10-2080~2084
2080 織女(たなばた)の今夜(こよひ)逢ひなば常(つね)のごと明日(あす)を隔(へだ)てて年は長けむ 2081 天(あま)の川(がは)棚橋(たなはし)渡せ織女(たなばた)のい渡らさむに棚橋渡せ 2082 天(あま)の川(がは)川門(かはと)八十(やそ)ありいづくにか君がみ舟を我(あ)が待ち居(を)らむ 2083 秋風の吹きにし日より天(あま)の川(がは)瀬に出(い)で立ちて待つと告げこそ 2084 天(あま)の川(がは)去年(こぞ)の渡り瀬(ぜ)荒れにけり君が来(き)まさむ道の知らなく |
【意味】
〈2080〉織姫は今宵、彦星と逢ってしまえば、またいつものように、明日を境に離れて暮らすことになり、その一年はさぞかし長いことだろう。
〈2081〉天の川に棚橋を渡せよ。織女がお渡りになれるように、棚橋を渡せよ。
〈2082〉天の川には、舟の渡し場がたくさんあります。どこの渡し場で私はあなたの舟をお待ちすればよいのでしょうか。
〈2083〉秋風が吹き始めた日から、天の川の瀬に出向いてお待ちしていると、あの方に伝えておくれ。
〈2084〉天の川の、去年の渡り瀬は荒れてしまったので、今夜、あの方がいらっしゃる道が分からない。
【説明】
七夕の歌。2080・2081は第三者の立場からの歌。2080の「織女(たなばた)」は、タナバタツメの約。「常のごと」は、いつものように。「明日を隔てて」は、明日を境として。「長けむ」は、長いことだろう。2081の「棚橋」は、棚のように一枚板を渡しただけの仮設の橋。「い渡らさむ」の「い」は接頭語、「渡らさむに」の「渡らさ」は「渡る」の尊敬語「渡らす」の未然形。「むに」は、~できるように。中国の七夕伝説のように、織女のほうから渡ろうとするさまをうたっています。
2082~2084は織女の立場の歌。2082の「川門」は、舟の渡り場所。「八十」は、数の多いこと。「いづくにか」は、どの川門にか。2083の「秋風の吹きにし日より」は、秋になった7月1日のことを言っています。「告げこそ」の「こそ」は、願望の助詞。2084の「去年の渡り瀬」は、去年牽牛が渡って来た川瀬。「来まさむ」は「来む」の敬語。「知らなく」は「知らず」のク語法で名詞形。ク語法止めは体言止めと同じように余韻がこもっています。
巻第10-2085~2088
2085 天(あま)の川(がは)瀬々(せぜ)に白波(しらなみ)高けども直(ただ)渡り来(き)ぬ待たば苦しみ 2086 彦星(ひこほし)の妻呼ぶ舟の引き綱(づな)の絶えむと君を我(わ)が思はなくに 2087 渡り守(もり)舟出(ふなで)し出(い)でむ今夜(こよひ)のみ相(あひ)見て後(のち)は逢はじものかも 2088 我(わ)が隠(かく)せる楫棹(かぢさを)なくて渡り守(もり)舟貸さめやもしましはあり待て |
【意味】
〈2085〉天の川の瀬ごとに白波が高かったけれども、まっすぐに渡って来た。波がおさまるのを待っているのは堪えがたいので。
〈2086〉彦星の妻どいをする舟の引き綱のように、あなたとの仲が切れてしまうなどとは思っていないことです。
〈2087〉渡し守よ、舟出をしてここから出かけよう。今夜だけ逢って、今後は逢わないということなどあるものか。
〈2088〉私が隠している楫や棹もなくては、渡し守だって舟を出しましょうか、出しはしません。しばらくこのままお待ち下さいな。
【説明】
七夕の歌。2085は牽牛の立場の歌。「高けども」は、高けれども。「直渡り来ぬ」は、躊躇せずまっすぐに渡って来た。「苦しみ」は、苦しいゆえに。天の川を無事に渡り終え、待っていた織女に逢えた時の感慨を歌っています。2086の上3句は、引き綱が切れることのない意から「絶えむ」を導く譬喩式序詞。「思はなくに」は、思ってはいないことだ。この歌は男が女に真心を誓って言っている相聞歌であり、七夕を序詞として使っているものです。
2087は、夜が明けて織女に別れて天の川の渡場まで来た牽牛が、今更に名残りが惜しまれて躊躇をしていたものの、思い切って船頭に舟出を命じた歌。「渡り守」は、天の川の渡し舟の船頭で、その船頭に呼びかけたもの。「今夜」は、ここは昨夜から今朝までのこと。「逢はじものかも」の「ものかも」は、反語。
2088は、彦星が帰らなければならない時に、織女が引き留めようとしたもの。「我が隠せる」は、私が隠している。6音の字余りになっていますが、カ・クと同一の音節が続くので許容範囲にあるとされます。「やも」は、反語。「しまし」は、しばらく。「あり待て」は、そのまま待て。牽牛が帰るのを嫌がって、牽牛が乗って来た舟の楫と棹を隠してしまうという、実にユーモラスな歌です。この歌は人気があったらしく、『古今集』にも「ひさかたの天の河原の渡し守君渡りなばかぢ隠してよ」という似た歌が載っています。
巻第10-2089~2091
2089 天地(あめつち)の 初めの時ゆ 天の川 い向ひ居りて 一年(ひととせ)に ふたたび逢はぬ 妻恋ひに 物思(ものも)ふ人 天の川 安(やす)の川原の あり通ふ 出(いで)の渡りに そほ舟の 艫(とも)にも舳(へ)にも 舟装(ふなよそ)ひ ま楫(かぢ)しじ貫(ぬ)き 旗すすき 本葉(もとは)もそよに 秋風の 吹きくる宵(よひ)に 天の川 白波しのぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて 若草の 妻が手を巻くと 大船の 思ひ頼みて 漕ぎ来らむ その夫(つま)の子が あらたまの 年の緒(を)長く 思ひ来し 恋尽すらむ 七月(ふみづき)の 七日の宵は 我れも悲しも 2090 高麗錦(こまにしき)紐(ひも)解きかはし天人(あめひと)の妻問(つまど)ふ宵(よひ)ぞ我(わ)れも偲(しの)はむ 2091 彦星(ひこほし)の川瀬を渡るさ小舟(をぶね)の得(え)行きて泊(は)てむ川津(かはづ)し思ほゆ |
【意味】
〈2089〉天地が初めて開けた大昔から、天の川に向き合って住み、一年に二度は逢えないで恋しく物思う人よ、天の川の安の川原の、通いなれた船出の渡に、朱塗りの船の後ろにも先にも船飾りをして、立派な楫を両舷に通し、旗すすきの根元から伸びる葉にもそよと秋風が吹いてくる夜に、天の川の白波を越え、落ちたぎる早瀬を渡り、若草のようにみずみずしい妻の手を枕に共寝しようと、大船のように頼みに思い漕いでくるその彦星が、長い間思ってきた恋を尽くす七月七日の夜は、なぜか地上の我らも悲しいよ。
〈2090〉高麗錦の紐を解き合って、天上の彦星が妻どいをして過ごす夜だ。地上の我らも思いを馳せよう。
〈2091〉彦星の川瀬を渡る小舟が向こう岸に着き得て泊まる、その舟着き場はどんな所だろうと、思いを馳せる。
【説明】
七夕の歌で、天上界を偲ぶ第三者の立場で詠まれた歌。2089の「初めの時ゆ」の「ゆ」は、起点・経過点を示す格助詞。「い向ひ」の「い」は、強意の接頭語。「一年にふたたび逢はぬ」は、一年に二度とは逢わない。「妻恋ひに」は、妻恋ゆえに。「物思ふ人」は、牽牛のこと。「安の川原」は、高天原にあるという安の川原。「あり通ふ」は、通い馴れた。「出の渡り」は、他に用例のない語で不詳ながら、「瀬」と同意で用いられたものか。「そほ舟」は、朱塗りの舟。舟を赤く塗るのは魔除けのためといいます。「艫」は、船尾。「舳」は、船首。「舟装ひ」は、舟を装って。「ま楫」は、舟の両舷に付けた左右一対の櫂。「しじ貫き」は、たくさん取り付けて。「旗すすき」は、穂が旗のようになびいているススキ。「本葉」は、幹や茎の方にある葉。「そよに」は、そよそよと。「若草の」は「妻」の枕詞。「妻が手を巻くと」は、妻の手を枕にしようと。「大船の」は「思ひ頼む」の枕詞。「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒」の「緒」は、長く続く意で添えたもの。「恋尽すらむ」の「尽す」は、なくす意。
2090・2091は、反歌。2090の「高麗錦」は、高麗ふうの錦。高級品とされ、貴族が紐にしていました。「紐」は、衣の上紐。ここでは、お互いに紐を解き合ったことが知られますが、『万葉集』で多いのは、自然に下紐が解ける場合と、自ら解くことによって相手を呼び寄せようとする場合です。2091の「さ小舟」の「さ」は、接頭語。ただし「小舟」とあるのは、長歌で大船を想像している内容と矛盾するようです。「得行きて」は、行き着き得て。「川津」は、川の船着き場。
巻第10-2092~2093
2092 天地(あめつち)と 別れし時ゆ ひさかたの 天(あま)つしるしと 定めてし 天(あま)の川原(かはら)に あらたまの 月重なりて 妹(いも)に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 我(わ)が衣手(ころもで)に 秋風の 吹きかへらへば 立ちて居(ゐ)て たどきを知らに むらきもの 心いさよひ 解(と)き衣(きぬ)の 思ひ乱れて いつしかと 我(あ)が待つ今夜(こよひ) この川の 流れの長く ありこせぬかも 2093 妹(いも)に逢ふ時(とき)片待(かたま)つとひさかたの天(あま)の川原(かはら)に月ぞ経(へ)にける |
【意味】
〈2092〉天地が分かれた遠い時代から、天の目印と定められた天の川、その川原で月日を重ね、妻に逢える日を待ち、じっと立って待っていると、私の着物の袖に秋の風が吹き返すようになった。立っては座り、どうしてよいか分からず、心は思い乱れてならない。いつかいつかと私が待ち続けていた今宵は、この天の川の流れのように、長くいつまでも続いてくれないものか。
〈2093〉あなたに逢える時をひたすら待ち続け、天の川原で幾月も幾月も過ごしてきました。
【説明】
七夕の歌で、牽牛の立場で詠まれたもの。2092の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天つしるし」は、越えてはならない天上の標識。「あらたまの」は「年」の枕詞を「月」に転じて掛けたもの。「時さもらふ」は、時をうかがう。「吹きかへらへば」の「吹きかへらふ」は「吹きかへる」の継続態。「かへる」は、ここは繰り返す意。「立ちて居て」は、心の落ち着かないさまを表す慣用句。「たどき」は、手段、手がかり。「むらきもの」は「心」の枕詞。「いさよひ」は、ためらい。「解き衣の」は、糸を抜いて解いた衣が乱れる意で「思ひ乱れ」にかかる枕詞。「いつしかと」は、いつかいつかと、早く。「ありこせぬかも」の「かも」は、願望。
2093は、反歌。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「片待つ」は、ひたすら待つ。「月ぞ経にける」は「ぞ~ける」の係り結び。ここまでで、作者未詳の七夕歌は終わります。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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タチバナ
古くから野生していた日本固有の柑橘の常緑小高木。『古事記』『日本書紀』には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った霊薬を持ち帰らせたという話が記されています。
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