巻第11-2363~2367
2363 岡(をか)の崎(さき)廻(た)みたる道(みち)を人な通ひそ ありつつも君が来(き)まさむ避道(よきみち)にせむ 2364 玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の隙(すけき)に入り通ひ来(こ)ね たらちねの母が問はさば風と申さむ 2365 うちひさす宮道(みやぢ)に逢ひし人妻(ひとづま)ゆゑに 玉の緒(を)の思ひ乱れて寝(ぬ)る夜(よ)しぞ多き 2366 まそ鏡(かがみ)見しかと思ふ妹(いも)も逢はぬかも 玉の緒(を)の絶えたる恋の繁(しげ)きこのころ 2367 海原(うなはら)の道に乗りてや我(あ)が恋ひ居(を)らむ 大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに |
【意味】
〈2363〉岡の向こうを回っていく道を、誰も通らないでほしい。そのままにしておいて、あの人がやってくる回り道にしておきたいから。
〈2364〉玉を垂らした簾(すだれ)のすきまからそっと入って通ってきてください。もし母がとがめて尋ねたら、風だと申しましょう。
〈2365〉都大路で出逢った人妻のせいで、紐が解けて散る玉のように千々に乱れて、一人寝る夜が続くばかり。
〈2366〉何とかして逢いたいと思う彼女は、ひょっこりとでも出逢ってくれないだろうか。絶えたと思っていた恋しさが再びつのるこの頃よ。
〈2367〉大海原の船路に乗って行方を託すように、私は苦しんでいなければならないのか。大船に乗ってゆったり構えているだろうあの子のせいで。
【説明】
いずれも旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)の歌。2363の「岡の崎」は、岡の突き出た所。「廻む」は、迂回する。「人な通ひそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「ありつつも」は、そのままにしておいて、いつまでも。「避道」は、人が普通に往き来する道ではなく、人目を避ける特別な道。回り道。原文「曲道」で「曲」は、曲がっている意味を表します。巻第11、12の相聞歌の中には「道」に関わる歌が多く見られます。「避道(よきみち)」「直道(たたぢ)」という、男が女のもとに通う特別の道をあらわす言葉、道を往来して恋を告げる「使」、あるいは、道で偶然出会った女への惑い、「路行き占(うら)」という道での占いなど、その種類も多様です。さらには、多くの道が交わる「八十の衢(ちまた)」や、そこに立つ「市」など、「道」は万葉相聞歌の成り立ちにとって欠かせない空間だったといえます。
2364の「玉垂の」は、玉を垂らした簾の意で「小簾」の枕詞。「小簾」の「小」は接頭語で、すだれ。「すけき」は、他に用例の見えない語ながら、隙間の意か。「来ね」の「ね」は、他に対しての願望。「たらちねの」は「母」の枕詞。母親の目をぬすみ、男の訪れを誘う歌です。もとより簾の隙間から入れるはずはなく、それを承知の上で不可能なことを言い立てて、男に戯れています。そして、玉垂の簾をかけている家というのは、貴人の邸と思われます。窪田空穂は、「才の利いた、可憐な作である」と評しており、またこの歌は、額田王の「君待つと我が恋ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く」(巻第4-488)との関連から、中国文学の影響があるかもしれないといわれます。
2365の「うちひさす」は、日の光が輝きに満ちる意で「宮」にかかる枕詞。「宮道」は、皇居に通じる道。「逢ひし」は、出仕の途中で見かけた。「玉の緒の」は、玉を貫いた紐。その乱れる意で「思ひ乱れて」にかかる枕詞。「思ひ乱れて」は、相手の女性に恋い焦がれるあまり心が千々に乱れて、の意。「夜しぞ多き」の「し」は、強意の副助詞。「多き」は「ぞ」の係り結びで連体形。この歌は『柿本人麻呂歌集』の「うちひさす宮道を行くに我が裳は破れぬ玉の緒の思ひ乱れて家にあらましを」(巻第7-1280)と形が似ており、この影響を受けたものかと言われます。
2366の「まそ鏡」は、整った立派な鏡のことで「見」にかかる枕詞。「見しか」の「しか」は、願望の助詞。「玉の緒の」は「絶え」の枕詞。「絶えたる恋」は、終わってしまった恋。2367の「海原の道」は、海上には船を自然に目的地に運んでくれる道(潮流)があると考えられており、それによる表現。「道に乗りてや」は、定まった通りに事が進むことの譬喩。「大船の」は「ゆたに」の枕詞。「ゆたに」は、ゆったりとして。「人の子」の「人の」は、感を強めるために添えたもので、思いを寄せる娘のこと。男の歌であり、相手の娘がゆったりしていて、恋路が進まないのを嘆いています。
なお、これらの歌はいずれも旋頭歌で、『古歌集』から採ったとあります。『古歌集』については諸説ありますが、『万葉集』編纂の資料になった歌集で、飛鳥・藤原京の時代から奈良時代初期にかけての歌を収めたものと推定されています。
作者未詳歌
『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、畿内圏のものであることがわかります。
巻第11-2517~2521
2517 たらちねの母に障(さは)らばいたづらに汝(いまし)も吾(われ)も事(こと)や成るべき 2518 我妹子(わぎもこ)が我(わ)れを送ると白栲(しろたへ)の袖(そで)漬(ひ)つまでに泣きし思ほゆ 2519 奥山の真木(まき)の板戸(いたと)を押し開きしゑや出(い)で来(こ)ね後(のち)は何せむ 2520 苅薦(かりこも)の一重(ひとへ)を敷きてさ寐(ぬ)れども君とし寝(ぬ)れば寒けくもなし 2521 杜若(かきつはた)丹(に)つらふ君をいささめに思ひ出(い)でつつ嘆(なげ)きつるかも |
【意味】
〈2517〉お母さんに邪魔をされたら、ただむなしく、あなたも私も結婚を遂げることができようか、できはしない。
〈2518〉あの子が私を見送ってくれて、着物の袖がぐしょぬれになるまで泣きじゃくった姿が思い浮かんでならない。
〈2519〉立派なその板戸を押し開いて、さあもう出てきてくれよ。後はどうなってもかまうものか。
〈2520〉薦の粗末なむしろをただ一枚敷いて寝ても、あなたと一緒ですから、ちっとも寒くはありません。
〈2521〉杜若のように顔がほんのり紅く麗しいあなたを、ふと思い出しては溜め息をついています。
【説明】
「正述心緒(正に心緒を述ぶる)」歌。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」歌に対応する、相聞に属する歌の表現形式による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。
2517の「たらちねの」は「母」の枕詞。「母に障らば」は、母から邪魔をされたら。「いたづらに」は、むなしく、何の甲斐もない状態に。「事や成るべき」は、結婚が遂げられようかで、「や」は反語。窪田空穂は、「関係は結んだが、女はまだ母に告げず、したがって逢うに不自由なところから、母を軽視するに似たこともしかねなく見えた時、男が戒めていった語である。女の感情一ぺんになっているのを、男は分別心をもっていて言っているのである。語調の強いのは、訓戒だからである」と説明しています。また人麻呂歌集歌と比較し、「一と口にいうと、散文的である」と言い、「このことが著しく目立つ」と述べています。
2518の「白栲の」は「袖」の枕詞。「漬つ」は、濡れる、水に浸かる。旅立った男が、当分逢えない別れをしてきた妻を思い出している歌です。2519の「奥山の」は、産地を示し「真木」の枕詞。「真木の板戸」は、檜などの良質な木で作られた板戸。「しゑや」は、捨て鉢な気持ちを表す感動詞。戸外で逢引しようとしている男の歌で、家の者には関係を秘密にしている場合が多かったため、戸外で逢うのは庶民にとって普通のことだったようです。窪田空穂は、「明け方近く、人目につく怖れがあるので、あせっていっている」と述べています。
2520の「苅薦」は、刈り取った薦で作ったむしろ。「さ寐れども」の「さ」は、接頭語。「君とし」の「し」は、強意の副助詞。「寒けく」は「寒し」のク語法で名詞形。2521の「杜若」は、その美しい意で「丹つらふ」にかかる枕詞。「丹つらふ」は、顔が紅に照り映えている。「いささめに」は、ふと、かりそめに。原文「率尓」で、ユクリナクと訓むものもあります。窪田空穂は、「男と関係を結んで、ほどもない頃の若い女の、男に贈った形の歌である。恋に満足し、陶酔している気分の表現で、『いささめに思ひ出でつつ』はじつに好い続きである」と評しています。
巻第11-2522~2526
2522 恨(うら)めしと思ふさなはにありしかば外(よそ)のみぞ見し心は思へど 2523 さ丹(に)つらふ色には出(い)でず少なくも心のうちに我(わ)が思はなくに 2524 我(わ)が背子(せこ)に直(ただ)に逢はばこそ名は立ため言(こと)の通(かよ)ひに何かそこゆゑ 2525 ねもころに片思(かたも)ひすれかこのころの我(あ)が心どの生けるともなき 2526 待つらむに至らば妹(いも)が嬉(うれ)しみと笑(ゑ)まむ姿を行きて早(はや)見む |
【意味】
〈2522〉恨めしいと思っている折だったので、関係ないかのように素知らぬ顔で見ていました。心では思っていましたが。
〈2523〉頬が赤くなるほど顔色に出したりはしません。けれど、心の中では、ちょっとやそっとの思いでいるわけではありません。
〈2524〉あの方に直接逢ったならば評判も立つでしょう。でも、ただ言葉をやりとりしただけで何でそこまで噂が立つのでしょう。
〈2525〉心の底から片思いをしているせいなのか、心の張りが衰えて、生きているように思えません。
〈2526〉今か今かと待っているところへ私が行き着いたら、彼女は嬉しがってほほえみかけてくれよう。その姿を早く行って見たい。
【説明】
「正述心緒(正に心緒を述ぶる)」歌。2522の「思ふさなはに」の原文は「思狭名盤」で難訓とされ、「さなは」は、真っ最中、折、と解する説のほか、オモフサナイハと訓んで、大きな岩(障害の比喩)と解する説、オモホサクナハと訓んで、思っているあなたは、などと解する説があります。「外のみぞ見し」の「外」は、関係がないこと。拗ねた女が自分の素振りについて弁解する歌とされます。
2523の「さ丹つらふ」は、顔に照り映える意で「色」の枕詞。「色には出でず」は、顔色には出さず。「少なくも心のうちに我が思はなくに」は、ちょっとやそっとの思いではない、すなわち大いに思っている意。男女どちらの歌とも取れます。2524の「直に」は、直接に。「名は立ため」の「め」は、推量。「言の通ひ」は、言葉を通わすこと、伝言のための使者の往来。「何かそこゆゑ」の「そこ」は「その」の古語。何だってそのゆえに。
2525の「ねもころに」は、心を込めて。「心ど」は、心の張り、しっかりした心。「生けるともなき」の「と」は序詞ではなく利心(とごころ)のトとする見方があります。窪田空穂は、「取材の関係もあるが、説明一点張りで、全く具象化のない歌である」と評しています。2526の「待つらむに」は、待ってように、待っているところへ。「嬉しみと」は、嬉しいので、嬉しがって。これから妻の許に行こうとしている男の気分を歌った歌です。
巻第11-2527~2531
2527 誰(たれ)そこのわが屋戸(やど)来(き)喚(よ)ぶたらちねの母にころはえ物思(ものおも)ふ吾(われ)を 2528 さ寝(ね)ぬ夜(よ)は千夜(ちよ)もありとも我が背子(せこ)が思ひ悔(く)ゆべき心は持たじ 2529 家人(いへびと)は道もしみみに通へども吾(わ)が待つ妹(いも)が使(つかひ)来(こ)ぬかも 2530 あらたまの寸戸(きへ)が竹垣(たけがき)編目(あみめ)ゆも妹(いも)し見えなば吾(あ)れ恋ひめやも 2531 吾(わ)が背子(せこ)がその名(な)告(の)らじとたまきはる命(いのち)は捨てつ忘れたまふな |
【意味】
〈2527〉誰ですか、私の家に来て呼ぶのは。母にひどく叱られて、物思いにふけっている私なのに。
〈2528〉共に寝られない夜が千夜続いたとしても、あなたが後悔なさるような心は決して持ちません。
〈2529〉家々の人は道にあふれるほど行き来しているが、我が待っている彼女からの使いはやって来ない。
〈2530〉寸戸の竹垣の編み目を通してなりとも、愛しいあの子の姿が見えるなら、私はこんなにも恋い焦がれたりするものか。
〈2531〉愛しいあの人の名は決して口外しまいと、私は自分の命を捨てました。どうか私をお忘れくださいますな。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2527の「わが屋戸来喚ぶ」の原文「吾屋戸来喚」で、ワガヤドニキヨブと8音の字余りに訓むものもありますが、伊藤博は、「ニがないだけ、『やど』全体に呼びかけるような感じがこもる」と言っています。「たらちねの」は「母」の枕詞。「ころはえ」は、激しく叱られて。「は」は継続、「え」は受身。娘が男と今夜逢おうと母に打ち明けたものの、「あんな男はやめときなさい!」と叱られ、ちょうどその時、タイミング悪くその男がやって来たのでしょうか。この時代の日本は厳密な意味での「母系社会」ではなかったというものの、母親の地位は高く、とくに娘の結婚に母親が口出しし、婿選びをするなど、結婚決定権は父親ではなく母親にあったといいます。集中には、この歌のほかにも母親が娘の交際相手を管理し、時には恋の障害となる歌が数多く見られます。
2528の「さ寝ぬ」の「さ」は、接頭語。「さ寝」は、男女の共寝を意味することが多い語です。「思ひ悔ゆべき心」は、後悔するような心。「持たじ」の「じ」は、意志のこもる打消の助動詞。持つまい。窪田空穂は、「男に何らかの事情があって、妻に逢い難くしている時、女が男に対して、貞節を誓った心のものである。『思ひ悔ゆべき』は、女が他に心を移し、男をして不貞な女を相手としたと後悔させる意をいったもので、一般に行なわれた語である」と説明しています。
2529の「家人」は多くは家族を意味しますが、ここでは家々の人、里人。あるいは律令において賤民として公認された、後世の家人(けにん)にあたる人で、男女間の連絡などに使われていた人々を意味するともいいます。「しみみに」は、ぎっしりといっぱいに。この歌からは、やや身分ある夫婦の逢引は、あらあじめ案内をした上でなされたらしいことが分かります。あるいは、作者が待っているのは、昨夜の逢引の素晴らしさを告げる使いである可能性もありますが、やはり今夜の逢引を期待する夕方の使いなのでしょう。
2530の「あらたまの」は「年」にかかる枕詞であるのを転じて「来経」すなわち「寸戸」にかかるとされます。「寸戸」は、未詳ながら、機織に携わる帰化人、またその人々の地、あるいは竹垣を廻らしたある種の建造物ではないかとする説などがあります。「編目ゆも」は、編み目を通してでも。「妹し見えなば」の「し」は、強意の副助詞。
2531の「吾が背子が」の「が」は連体格助詞で、わが背子の。「告らじ」は、口外しまい。「たまきはる」は、霊(霊力・生命力)が極まる意で「命」にかかる枕詞。女が、秘密にしている相手を母から詰問されたことを、男に訴えた歌です。
巻第11-2532~2536
2532 おほならば誰(た)が見むとかもぬばたまの我(わ)が黒髪を靡(なび)けて居(を)らむ 2533 面(おも)忘れいかなる人のするものぞ我(わ)れはしかねつ継(つ)ぎてし思へば 2534 相(あひ)思はぬ人のゆゑにかあらたまの年の緒(を)長く我(あ)が恋ひ居(を)らむ 2535 おほろかのこころは思はじ我(わ)がゆゑに人に言痛(こちた)く言はれしものを 2536 息(いき)の緒(を)に妹(いも)をし思へば年月(としつき)の行くらむわきも思ほえぬかも |
【意味】
〈2532〉通り一遍に思うなら、誰が見るだろうと思って、私の黒髪を靡かせていましょうか。
〈2533〉顔を忘れるなんてどんな人がすることでしょう、私にはできません、ずっと恋してばかりいるので。
〈2534〉私のことを思ってもくれない人のために、幾年も長く、私は恋い焦がれていなければならないのか。
〈2535〉あの人に対していい加減な気持ちは持つまい。私のせいで他人からひどく噂されたのだもの。
〈2536〉命がけであの子のことばかり思っているので、年月が過ぎて行くけじめもわからないことだ。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2532の「おほならば」は、通り一遍に思うなら。原文「凡者」で、オホヨソハと訓んで、大体は、と解するものもあります。「見むとかも」の「かも」は、疑問。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「黒髪を靡けて」は、寝床に横たわっているさま。女性が黒髪を敷き靡かせて独り寝するのは、男性を待つ気持の表現。窪田空穂は、「夫の来訪を婉曲に、上品に、しかし媚態をもって促している歌である」と述べています。
2533の「継ぎてし思へば」の「し」は、強意の副助詞。絶えず思い続けてばかりいるので。夫から疎遠にされている女が、夫に訴えて贈った歌とされます。2534の「あらたまの」は「年」の枕詞。「あらたま」は、宝石・貴石の原石を指すものと見られますが、掛かり方は未詳。一説に年月が改まる意からとも。「年の緒」は、長い年月を緒に譬えた語。男女どちらの歌とも取れます。
2535の「おほろか」は、いい加減。原文「凡乃」で、オホヨソノ、オホカタノなどと訓むものもあります。「こころは思はじ」の原文「行者不念」で、ワザハオモハジ、ワザトハモハジなどと訓むものもあります。「言痛く」は、うるさく、ひどく。窪田空穂は、「夫である男が、その事に対してある時思ったことである。その時男は、女の何らかの振舞について不満を感じ、腹立たしく咎めようと思ったのだが、思い返して、女の所行のすべてにわたっては気にしまい。とにかく一時はわがために、人に甚しく非難された女なので、それに免じて勘弁しようと思った心である」と述べていますが、女の歌とも取れます。
2536の「息の緒に」は、命がけで。呼吸の続く限り絶え間なく。「妹をし思へば」の「し」は、強意の副助詞。「わき」は、けじめ、区別。片思いの苦しみを言っている男の歌です。
巻第11-2537~2540
2537 たらちねの母に知らえず吾(わ)が持てる心はよしゑ君がまにまに 2538 ひとり寝(ぬ)と薦(こも)朽ちめやも綾席(あやむしろ)緒(を)になるまでに君をし待たむ 2539 相(あひ)見ては千年(ちとせ)や去(い)ぬる否(いな)をかも我(わ)れや然(しか)思ふ君待ちかてに 2540 振分(ふりわけ)の髪を短(みじか)み春草(はるくさ)を髪に束(た)くらむ妹(いも)をしぞ思ふ |
【意味】
〈2537〉母に知られないように密かにずっとあなたを思っています。どうなろうと構わない、あなたの思うままにしてください。
〈2538〉一人で寝ているだけでは、床の敷物が傷むこともありません。その綾席を敷いて、紐になるまであなたをお待ちします。
〈2539〉あなたとお逢いしてからもう千年が過ぎたのでしょうか。そうではなく、私だけがそう思っているだけなのかな。あなたを待ちかねて。
〈2540〉あの娘は短い振分髪で、まだ結えないので、春草を足して髪に束ねてでもいるだろうか、可愛くてあどけないあの娘のことが恋しくしのばれる。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2537の「たらちねの」は「母」の枕詞。「知らえず」の「え」は、受身。「よしゑ」は、どうなろうとも、「君がまにまに」は、君が思うままに、の意。窪田空穂は、「娘からいえば、世に母ほど頼もしい者はないのであるが、その母をもさしおいてというのは、最大な誓いなのである」と述べています。
2538は、女が、最近ご無沙汰で訪れなくなった男に不満を言っている歌です。「薦」は、寝床としている薦。「綾席」は、綾織りの筵。今の畳表のような物で、薦の上に上敷として敷いたもの。「緒になるまでに」は、それが編み糸だけになってしまうまで。「君をし待たむ」の「し」は、強意の副助詞。二人が抱き合って寝れば綾席は擦り切れて傷むのに、一人寝では傷まない。だから一人で転がりながら、それが紐になるまで待つと言っています。意味深長で、またずいぶん誇張した表現であり、やんわりと言っているようで、男をチクリと刺しています。
2539の「相見ては」は、相逢って以来。「千歳や去ぬる」の「や」は疑問で、千年が過ぎたのであろうか。「否をかも」は、いや、そうではないのか。「君待ちかてに」は、君を待つに堪えずして。女性の立場の歌ですが、巻第14-3470にも同じ形で載っており、そちらでは『柿本人麻呂歌集』に出ているとあります。詩人の大岡信は、疑問の呈し方も、それへの答えも、なみなみならぬ抒情詩人の力量を感じさせ、人麻呂の歌としても十分通る歌だろうと述べています。
2540の「振分の髪」は、髪を肩のあたりまで垂らして切り、まだ髪を結べない童女の髪型。「髪を短み」は、髪が短いので。「・・・を~み」は、「・・・が~ので」という意味のミ語法。「春草を髪に束くらむ」の「束く」は、髪を束ねあげる、髪を結い上げる。娘が髪を結い上げるのは一人前の大人の女になることを意味し、もう結婚してもよいという証しにもなります。「春草を」とあるのは、まだ短い髪に春草を加えて長さを補っていることを言っています。「妹をしぞ思ふ」の「し」も「ぞ」も、共に強意の助詞。「ぞ思ふ」は係り結びで、「思ふ」は連体形。あの娘が大人になったら結婚したいという心の告白とみられますが、斎藤茂吉は、「あの時代には随分小さくて男女の関係を結んだこともあったと見做(みな)してこの歌を解釈することもできる」と言っています。
巻第11-2541~2544
2541 た廻(もとほ)り行箕(ゆきみ)の里に妹(いも)を置きて心(こころ)空(そら)なり地は踏めども 2542 若草の新手枕(にひたまくら)を巻きそめて夜(よ)をや隔てむ憎くあらなくに 2543 吾(あ)が恋ひし事(こと)も語らひ慰(なぐさ)めむ君が使ひを待ちやかねてむ 2544 うつつには逢ふよしもなし夢(いめ)にだに間なく見え君恋ひに死ぬべし |
【意味】
〈2541〉わざわざ回り道をして行箕(ゆきみ)の里に彼女を置いて旅に出たが、彼女のことが心配で心は上の空である。土は踏んでいるものの。
〈2542〉新妻の手枕をまき始めて、これから幾夜も逢わずにいられようか、可愛くて仕方ないのに。
〈2543〉恋しかったこともお話して、心を慰めたいと思うあの方のお使いなのに、そのお使いすら待っていても来ないのか。
〈2544〉現実にはお逢いする機会もありません。せめて夢にだけでも絶えず出てきて下さいあなた。もう恋しくて死んでしまいそうです。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2541の「た廻り」の「た」は接頭語。めぐって行き廻る、行きつ戻りつする意で、「行箕」の枕詞。「行箕」は所在未詳ですが、明日香西北方の甘樫丘付近の地とする説があります。「妹を置きて」は、妹を残して。「心空なり」は、心はうわの空になっている。
2542の「若草の」は、意味で「新」にかかる枕詞。「新手枕」は、新妻の手枕。「夜をや隔てむ」の「や」は、反語。なお、結句の「憎くあらなくに」の原文は「二八十一不在國」と書かれており、「二八十一」の「八十一」を、九九=八十一であることから「くく」と読ませています。それで「に・くく」。まるでとんちクイズのようですが、このように本来の意味とは異なる意味の漢字をあてて読ませることを「戯書(ぎしょ)」といいます。また、この時代から掛け算の九九があったことにも驚かされますが、すでに奈良時代以前に中国から伝わっていたといいます。そして、平安時代には貴族の教養の一つとされていたようです。九九を練習した跡が残る木簡が各地で出土しており、中には「八九、七十四」と間違えているものもあり、懸命に練習した様子が窺えるそうです。
2543の「語らひ」は「語る」の連続。「待ちやかねてむ」の「や」は詠嘆的疑問、「む」は推量で、待っても来ないのだろうか。窪田空穂は、「夫を相応に遠い旅にやっている妻の心である。夫と直接逢う望みは全然ないので、それは諦め、せめて夫からの使が来ればと待ち、来れば夫のこちらを恋うていることも聞き、わが恋うていることも話して心やりにしたいと思うが、その使も駄目だろうというのである」と述べています。
2544の「うつつには」は、現実には。「逢ふよしもなし」は、逢う方法がない。「夢にだに」は、夢にだけでも。「間なく」は、絶えず。「見え」は「見ゆ」の命令形で、見えよ。万葉の人々は、夢に人を見るのは相手がこちらを思うせいだと考え、また、こちらが人を思うと、その人の夢に自分が見えると考えました。夢に出てきて下さいと言っているのは、こちらを思ってほしいと願っています。この歌も、旅先の夫を思う女の歌とされます。
巻第11-2545~2549
2545 誰(た)そ彼と問はば答へむ術(すべ)をなみ君が使(つかひ)を帰しつるかも 2546 念(おも)はぬに到らば妹が歓(うれ)しみと笑(ゑ)まむ眉引(まよびき)思ほゆるかも 2547 斯(か)くばかり恋ひむものぞと念(おも)はねば妹(いも)が手本(たもと)をまかぬ夜(よ)もありき 2548 かくだにも吾(あれ)は恋ひなむ玉梓(たまづさ)の君が使(つかひ)を待ちやかねてむ 2549 妹に恋ひ吾(あ)が泣く涙(なみだ)敷栲(しきたへ)の木枕(こまくら)通り袖(そで)さへ濡れぬ [或本歌曰 枕通りてまけば寒しも] |
【意味】
〈2545〉あの人は誰かと問われても、答えようがないので、あなたからの使いをそのまま帰してしまいました。
〈2546〉突然にあの娘のところに行ったら、嬉しいといってにこにこする様子が想像されて、言いようがなく楽しい。
〈2547〉こんなに恋しくなるとは思わなかったから、一緒にいても、お前と寝ない夜もあった。
〈2548〉こんなにも私は恋い焦がれている。あの方のお使いを待ち迎えることはできないのだろうか。
〈2549〉彼女が恋しくて流す涙は木枕を通り、袖までも濡らしてしまう。(枕を通って、当てると冷たい)
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2545の「誰そ彼」は、あの人は誰かで、「たそがれどき(人の顔が見分けにくい時刻)」の語源になった言葉。「問はば」の主体を、不特定の人と見るか、母親などの家族と見るかに分かれますが、後句との関係では作者(女)の母親と見るのが自然です。「答へむ術をなみ」は、返事のしようがないので。この歌からは、逢引の約束は使いがとりつけたことが分かります。そして、使いが来ることは恋仲の相手がいることを示し、逆に使いが来ないのは、関係が停滞していることを暗示するものでした。ここは切ない後悔の歌ですが、母親の監視の目をかいくぐって相手と通じ合うことの苦労が窺えます。
2546の「念はぬに」は、思いがけずいるところへ。「眉引」は、眉墨で三日月形に描いた眉。斎藤茂吉は、昔も今もかわりない人情の機微が出ていて、にこにこと匂うような顔容を「笑まむ眉引」といっているのは実に旨く、古語の優れている点であると言っています。2526の「待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む」と同想の歌であり、2526が初句「待つらむに」を承けて「笑まむ姿を行きて早見む」と詠んでいるのに対し、本歌は初句「念はぬに」を承け「笑まむ眉引思ほゆるかも」と結んでいます。
2547の「かくばかり」は、こんなに」。「手本をまかぬ夜」は、妻の手枕をしないで寝る夜。共寝ではさし交わした手を枕にしたことの表現。一緒にいた時はそっけなくしたこともあったけれど、旅に出て逢えなくなり、しみじみと妻が恋しくなったことを噛みしめている歌です。2548の「かくだにも」は、こんなにも。「玉梓の」は「使ひ」の枕詞。「待ちやかねてむ」の「や」は詠嘆的疑問、「む」は推量で、待っても来ないのだろうか、待ち得ないのだろうか。2543とよく似ている歌です。
2549の「敷栲の」は「木枕」の枕詞。「木枕」は、薦枕とともに普通に用いられたもの。片思いの男性の作とされますが、窪田空穂はこの歌を評し、「ただ涙の多さだけで、それによって恋の深さをあらわそうとしているもので、言いかえると気分を出そうとしたのだが、気分とはならず、語の誇張に終わった感のある歌である。気分本位の詠風の弱所を示した歌といえる」と言っています。
巻第11-2550~2554
2550 立ちて思ひ居(ゐ)てもぞ思ふ紅(くれなゐ)の赤裳(あかも)裾(すそ)引(ひ)き去(い)にし姿を 2551 思ひにし余りにしかばすべをなみ出(い)でてそ行きしその門(かど)を見に 2552 情(こころ)には千重(ちへ)しくしくに思へども使(つかひ)を遣(や)らむすべの知らなく 2553 夢(いめ)のみに見てすらここだ恋ふる吾(あれ)はうつつに見てばまして如何(いか)にあらむ 2554 相(あひ)見ては面(おも)隠さるるものからに継(つ)ぎて見まくの欲(ほ)しき君かも |
【意味】
〈2550〉立っていても座っていても思われてならない。紅の赤裳の裾を引きながら歩み去っていったあの娘の姿が。
〈2551〉恋の思いのあまり、どうにもならなくなって、つい出かけてしまった。愛しいあの子の家の門を見るために。
〈2552〉心の中では幾度も幾度も繰り返し思い焦がれているのだけれど、文の使いをやる手だても分からない。
〈2553〉夢の中で逢ってすら、こんなにもあの子に恋い焦がれるのに、まして現実に逢ったなら、いったいどんなことになるのだろう。
〈2554〉顔を合わせると、恥ずかしくなり決まって顔を隠したくなるのですが、それなのに、すぐにまた見たいと思う、あなたなのです。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2550の「裳」は、女性が腰から下に着た衣。「赤裳裾引き」の語は、山上憶良の歌(巻第5-804)や高橋虫麻呂の歌(巻第9-1742)にも見え、女性の優美な姿の常套表現であったようです。若い男の作と見られ、道をほのかに歩み去っていった女の姿が忘れられない、と言っています。
2551の「思ひにし」の「し」は、強意の副助詞。原文「念之」で、オモフニシと訓むものもあります。「思ひにし余りにしかば」は、思案にあまったので、思い余ってしまったので。「すべをなみ」は、どうしようもないので、の意。片思い、あるいは関係を結んで後に女に妨げが起こって逢えなくなったことを嘆く男性の歌です。2552の「千重にしくしく」は、極めて頻繁に、重ね重ね、の意。「すべの知らなく」は、手だても分からないことよ。結句は女らしい調べながら男の立場の歌と見られ、娘との関係が、その家の者には秘密にしているので、逢引の約束を取り持つ使いをやる方法がないのを嘆いています。
2553の「ここだ」は、こんなにはなはだしく。女に懸想している男が、明るい気持ちで空想して詠んだ歌で、窪田空穂は、「独詠に似ているが、それだと、このようにくわしくいう必要はないから、訴えの心をもって女に贈ったものと思われる。『うつつに見てはまして如何にあらむ』は、恋の成立を信じられた場合の訴えとしては、相手を動かす効果の上からは、相応に有力なもので、最も巧みな訴えと言いうるものである。その意味で上手な歌である」と述べています。
2554は、結婚後間もない女の歌。「面隠さるる」の「るる」は、自発「る」の連体形で、自然に顔を隠してしまう意。「ものからに」は、そういうものと決まっているのに、決まって自然に。「継ぎて」は、引き続いて。「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。作家の田辺聖子はこの歌について、「可憐な新妻の風情であるが、それにしても『万葉集』の歌いぶりは古今独歩のもの、こんなに率直で飾り気のない言葉を並べながら、その奥にわくわくする心はずみ、美しい羞恥が揺曳(ようえい)し、たいそうデリケートな、清らかなエロスとなって発散している」と評しています。
巻第11-2555~2559
2555 朝戸(あさと)を早くな開(あ)けそあぢさはふ目が欲(ほ)る君が今夜(こよひ)来ませる 2556 玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の垂簾(たれす)を行きかちに寐(い)はなさずとも君は通(かよ)はせ 2557 たらちねの母に申(まを)さば君も我(あ)れも逢ふとはなしに年ぞ経(へ)ぬべき 2558 愛(うつく)しと思へりけらしな忘れと結びし紐(ひも)の解(と)くらく思へば 2559 昨日(きのふ)見て今日(けふ)こそ隔(へだ)て我妹子(わぎもこ)がここだく継(つ)ぎて見まく欲(ほ)しきも |
【意味】
〈2555〉朝の戸を早く開けないで。逢いたかったあの方が、今夜はいらっしゃっているるから。
〈2556〉玉を垂らした簾(すだれ)を通れずに共寝することができなくても、どうかあなたは通ってきていらっしゃいませ。
〈2557〉二人の仲を母に打ち明けてしまえば、あなたも私も、逢うことはできずに、何年も過ぎていくでしょう。
〈2558〉あの方は私のことを可愛いと思って下さっているらしい。忘れるなよと言って結んでくださった紐がほどけてしまうのを思うと。
〈2559〉昨日逢って今日一日離れているだけなのに、これほどにあの子に続けて逢いたい思うのか。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2555は、夫婦関係が公になっている女が、夫を迎え入れている夜に、家人に命じている歌。「朝戸を」は4音の字足らずとなるためアサノトヲと訓むものもありますが、『万葉集』にアサノトは無いとされます。「あぢさはふ」の語義・掛かり方とも未詳ながら「目」の枕詞。「目が欲る」は、見たい。
2556の「玉垂の」は、緒と続き「小簾」の枕詞。「玉垂」は、玉を緒に貫いて簾(すだれ)に垂らしたものかといいます。「小簾」の「小」は接頭語。上代には、家の出入り口にかけてあったとされます。「行きかちに」の原文「往褐」で、訓義は諸説あります。「寐はなさずとも」の「寐」は眠る意の名詞、「なす」は「寝(ぬ)」の尊敬語。「君は通はせ」は、どうかあなたは通ってきていらっしゃい。
2557の「たらちねの」は「母」の枕詞。「母に申さば」は、母に二人の関係を打ち明けたならば。「年も経ぬべき」の原文「年可経」で、トシハヘヌベシと訓むものもあります。男が「お母さんの許しを得よう」と言ったのに対し、娘が、「母は決して私たちのことを許しはしないでしょう。だから、黙っていましょう」と答えたもののようです。
2558の「愛しと」は、可愛いと。「思へりけらし」の「けらし」は、根拠に基づく推定。「な忘れ」の「な」は、禁止。「解くらく」は名詞で、解けること。下紐の解けるのは、人に思われているしるしだとする俗信によっています。2559の「ここだく」は、こんなに甚だしく。「継ぎて」は、続けて、いつも。「見まくし」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。「見まく欲しきも」の「見巻欲毛」で、ミマクホリカモ、ミマクホシカモ、ミマクシホシモなどと訓むものもあります。
巻第11-2560~2564
2560 人も無き古(ふ)りにし郷(さと)にある人を慰(めぐ)くや君が恋に死なする 2561 人言(ひとごと)の繁(しげ)き間(ま)守(も)りて逢ふともやなほ吾(わ)が上(うへ)に言(こと)の繁けむ 2562 里人(さとびと)の言縁妻(ことよせづま)を荒垣(あらかき)の外(よそ)にや吾(あ)が見む憎くあらなくに 2563 人目(ひとめ)守(も)る君がまにまに我(われ)さへに早く起きつつ裳(も)の裾(すそ)濡れぬ 2564 ぬばたまの妹(いも)が黒髪(くろかみ)今夜(こよひ)もか我(あ)がなき床(とこ)になびけて寝(ぬ)らむ |
【意味】
〈2560〉人もあまりいなくなったこの寂しい旧都に残っている私に、哀れにも恋死をさせるおつもりですか。
〈2561〉人の噂のうるさい隙間を見はからって逢ったとしても、やはり私の上には噂が絶えないのだろうか。
〈2562〉里人たちが私の妻だと噂するその人を、私はよそながら見ていなければならないのか、憎からず思っているのに。
〈2563〉人目を気にして早出するあなたに従って、私まで早起きしてきたので、裳の裾が露に濡れてしまいました。
〈2564〉妻の黒髪、ああ今夜も、私がいない床に靡(なび)かせて寝ているんだろう。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2560の「人も無き」は、住む人も無い。「古りにし郷」は旧都で、奈良遷都後の藤原京の称とされます。ここは相手の男性の訪れのない自分の里を戯れて言ったものか。「ある人」は、自分自身のこと。「慰くや」は、かわいそうに、哀れにも。「や」は疑問の係助詞で、「死なする」がその結び。官人の夫は新都に移り、旧都に残った妻が、疎遠になる寂しさを訴えた歌とされます。
2561の「人言」は、世間の噂、「繁き間守りて」は、噂のうるさい隙間をねらって。「逢ふともや」の「や」は、肯定的な疑問。「なほ」は、やはり、いっそう。女の歌で、人の噂がうるさいのをを気にしながらも、隙をねらって逢い、それがさらに噂を招くのではと恐れています。
2562の「言縁妻」は、里人たちの噂によって自分に寄せられる女性(恋人)。「荒垣の」は「外」の枕詞。「外に」は、無関係に。「や」は、疑問の係助詞。「憎くあらなくに」は、憎からず思っているのに。直接触れ合いを持ったわけではないのに、人々が根拠もなく、あの男はあの女が好きなのだとか、あの二人はできているのではないかとの噂を立てられ、その女が気になって憎からず思うようになった。なのに垣の外から、つまり離れて見ているだけだと嘆いている歌です。
2563の「人目守る」は、人目を憚る、気にする。「君がまにまに」は、君に従い。「吾さへに」は、私までも。早朝に帰って行く夫を見送ってきた妻の歌です。2564の「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「今夜もか」の「も」は詠嘆、「か」は疑問の係助詞。「なびけて」は、靡かせて。妻の許へ行けなかった男が、その夜の妻のさまを想像している、あるいは旅に出た時の歌とされます。
巻第11-2565~2569
2565 花ぐはし葦垣(あしかき)越(ご)しにただ一目(ひとめ)相(あひ)見し子ゆゑ千(ち)たび嘆きつ 2566 色に出でて恋ひば人見て知りぬべし情(こころ)のうちの隠(こも)り妻はも 2567 相(あひ)見ては恋ひ慰(なぐさ)むと人は言へど見て後(のち)にぞも恋ひまさりける 2568 おほろかに吾(われ)し思はばかくばかり難(かた)き御門(みかど)を罷(まか)り出(で)めやも 2569 思ふらむその人なれやぬばたまの夜(よ)ごとに君が夢(いめ)にし見ゆる [或る本の歌に曰く 夜昼と言はず我(あ)が恋ひわたる] |
【意味】
〈2565〉葦の垣根越しに、たった一目見ただけのあの子なのに、繰り返し繰り返し溜息ばかりついている。
〈2566〉顔色に出して恋い慕ったなら、人が見咎めて知るだろう、心のうちの隠し妻のことを。
〈2567〉お互いに逢うと、人恋しさは紛れると他人は言うけれど、逢って別れた後にこそ愛情がいっそう増してくるものです。
〈2568〉いい加減に私があなたのことを思っているのなら、これほど厳しい宮中の御門を抜け出てやって来るものか。
〈2569〉私のことを思って下さるからでしょうか。夜ごとにあなたが夢に現れます。(夜となく昼となく私は恋い続けています)
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2565の「花ぐはし」は、花がうるわしいの意で「葦垣」にかかる枕詞もしくは枕詞的修飾語。集中ではこの一例のみ。「ただ一目相見し」は、たった一目見かけた。原文「直一目相視之」で、「視」は注意してよく見る意の文字で、じっと見つめ合ったことを表すともいいます。
2566の「色に出でて」は、顔色に出して。「知りぬべし」は、知ってしまうだろうの意で、「知るべし」の強調。「隠り妻」は、まだ公表できず人目を避けて隠れている妻。「隠り」は隠れて見えないものを示すことばで、葦などが茂って水面がよく見えない入江は「隠江(こもりえ)」、草木に隠れて見えない沼は「隠沼(こもりぬ)」などといいます。「はも」は、文末に用いて、強い詠嘆の意を表す語。
万葉時代の恋愛は自由で奔放だったと思われがちですが、今も昔もプロセスが大事であることに変わりはなく、ある段階が来てはじめて公表するものでした。恋愛といえども社会生活の一部ですから、その当時なりのルールがあったわけです。忍ぶ恋をうたう歌や、噂が立つのを極度に恐れる歌が多くみられるのはそのためで、結婚に至るまでの各段階の心情を伝えてくれる『万葉集』は、古代の結婚制度を研究する上で第一級の史料ともなっています。
2567の「相見て」は、対面する、男女が関係を結ぶ。「見て後にぞも」の「ぞも」は、係助詞「ぞ」に感動の終助詞「も」が添ったもの。「まさりける」の「ける」は「ぞ」の結びで連体形。「けり」は、~であることを改めて知った、の意。
2568の「おほろかに」は、いい加減に。「吾し思はば」の「し」は、強意の副助詞。「かくばかり」は、これほどに。「難き御門」は、出入りが厳重な宮廷の門。「罷り」は、貴人のもとから退出する意。勤務中に宮廷をそっと抜け出して逢引している下級官吏の歌のようです。2569の「思ふらむ」は、私のことを思っているだろう。「その人なれや」は、その人なのだろうか。「や」は、疑問の係助詞。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夢にし見ゆる」の「し」は、強意の副助詞。「見ゆる」は「や」の係り結びで連体形。
巻第11-2570~2574
2570 かくのみし恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げず止(や)まず通(かよ)はせ 2571 ますらをは友の騒(さわ)きに慰(なぐさ)もる心もあらむ我(われ)そ苦しき 2572 偽(いつはり)も似つきてぞする何時(いつ)よりか見ぬ人恋ふに人の死(しに)せし 2573 情(こころ)さへ奉(まつ)れる君に何をかも言はずて言ひしと我(わ)が窃(ぬすま)はむ 2574 面(おも)忘れだにも得為(えす)やと手(た)握(にぎ)りて打てども懲(こ)りず恋といふ奴(やつこ) |
【意味】
〈2570〉こんなに恋い焦がれてばかりいると死んでしまいそうなので、母に打ち明けました。あなた、絶えず通って来て下さい。
〈2571〉男の人は友だちと騒いで憂さを晴らすこともできるでしょう。けれど、女の私はそれもできなくて苦しくてなりません。
〈2572〉嘘をおっしゃるのもいい加減になさいまし。まだ一度もお逢いしたことなどないのに焦がれ死にするなんて。何時の世の中に、そんな人がいましたか?
〈2573〉私の心まで捧げているあなたに、何だって、言わないことを言ったなどと嘘をついたりしましょうか。
〈2574〉せめて顔だけでも忘れられることができようかと、こぶしを握り、打てども打てども懲りもしない、恋という奴(やっこ)は。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2570の「かくのみし」は、このようにばかり。「し」は、強意の副助詞。「死ぬべみ」は、死んでしまいそうなので。原文「可死」でシヌベシと訓み、死んでしまうでしょう、と解するものもあります。「たらちねの」は「母」の枕詞。「母にも」の「も」は、詠嘆。「告げつ」は、打ち明けた、で、言外に許しを得たと言っています。
2571の「ますらを」は、勇ましく立派な男子。暗に相手の男を指しています。「友の騒き」は、友との和気あいあいとした付き合い。「心もあらむ」は、こともあろうの意。「苦しき」は「ぞ」の係り結びで連体形。疎遠がちな夫に対する訴えとともに、社会的な生活をする男に比べ、家庭的生活ばかりしている女の嘆きでもあります。
2572は、男が恋を訴えてきたのに対し、女が答えた歌。「偽も似つきてぞする」は、嘘を言うにも、もっともらしく言うものだ、という意味です。逢ってもいないのに、好きで好きで死にそうだ、という手紙でも寄こしてきたのでしょうか。お互いの顔を見たことがないというのは、身分ある階級の者同士なのかもしれません。気丈と聡明さの感じられる歌であり、斎藤茂吉は次のように評しています。「一首の意。嘘をおっしゃるのも、いい加減になさいまし。まだ一度もお逢いしたことがないのに、こがれ死するなどとおっしゃる筈はないでしょう。何時の世の中にまだ見ぬ恋に死んだ人が居りますか、というような意味のことを、こういう簡潔な古語でいいあらわしているのは実に驚くべきである。『偽も似つきてぞする』は、偽をいうにも幾らか事実に似ているようにすべきだ、あまり出鱈目の偽では困る、というようなことを、こう簡潔にいうので日本語のよいところが遺憾なく出ている」。
2573の「情さへ」は、身はもとより心までも。「奉れる」は、捧げている、差し上げている。「何をかも」の「か」は、疑問の係助詞で、反語となっているもの。「言はずて言ひしと」は、言わないことを言ったと。原文「不云言此跡」で、イハズテイヒシトと訓むものもあります。何某か不快なことを言ったと咎められたのに対し、そのようなことは言っていない、の意。「窃ふ」は、ごまかし続ける、ぬすみ続ける意。前歌と同じく女の立場の歌。
2574の「面忘れだにも得為やと」は、顔だけでも忘れることができようかと。「得」は、可能を表す副詞、「や」は疑問。「手握りて」は、こぶしを握り。「打てども懲りず」は、自分の体を打つけれども懲りないで。「奴」は、人の家に仕える奴婢のこと。恋を激しく罵倒しており、「恋の奴」という言い方は当時の人々に好まれたとみえ、他のいくつかの歌にも見られます。第5句は、単独母音イを含む許容される8音の字余り句。
巻第11-2575~2579
2575 めづらしき君を見むとぞ左手(ひだりて)の弓(ゆみ)取る方(かた)の眉根(まよね)掻(か)きつれ 2576 人間(ひとま)守(も)り葦垣越(あしがきご)しに我妹子(わぎもこ)を相(あひ)見しからに言(こと)ぞさだ多き 2577 今だにも目な乏(とも)しめそ相(あひ)見ずて恋ひむ年月(としつき)久(ひさ)しけまくに 2578 朝寝髪(あさねがみ)われは梳(けづ)らじ愛(うるは)しき君が手枕(たまくら)触れてしものを 2579 早行きて何時(いつ)しか君を相(あひ)見むと念(おも)ひし情(こころ)今ぞ和(な)ぎぬる |
【意味】
〈2575〉なかなかやって来ないあなたに逢えないかと、左手の弓を取る方の眉を掻いたことでした。
〈2576〉人目のない隙を窺って、葦垣越しにあの子を見ただけなのに、世間の噂がやたらとうるさい。
〈2577〉せめて今だけでも、存分にお顔を見せてください。お逢いできずに恋い焦がれる年月が、これから久しく続くでしょうから。
〈2578〉朝の寝乱れた髪を梳るまい、愛しいあなたの手枕が触れた髪だから。
〈2579〉急いで行って、一時も早くお前に逢いたいと思っていたけど、こうしてお前を見ると、やっと心が落ち着いたよ。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2575の「君を見むとぞ」の原文「君乎見常衣」で、キミヲミムトコソと訓むものもあります。「眉根」は、眉。眉がかゆくなるのは恋人に逢える前兆とされた俗信を踏まえています。また、左のほうの眉だけかゆいのは、珍しい人に逢う前兆だともされていたようです。この歌は、珍しく来訪した夫を迎えての妻の喜びの歌と見えます。
2576の「人間」は、人のいない時。「守る」は、窺う。「葦垣越しに」は、外から葦垣越しに邸内を見る意。「さだ」は、甚だ。あるいは、実に、確かに。「多き」は「ぞ」の係り結びで連体形。2577の「今だにも」の「目な乏しめそ」の「な~そ」は、禁止。「乏しむ」は、物足りなく思わせる。せめて今だけでも十分に顔を見せてほしいとの気持を言ったもの。「久しけ」は、形容詞の未然形で、それに推量の「む」と「く」が添って名詞形となったもの。男の旅立ち前夜に女の詠んだ歌と見えます。
2578は、夫が去って行った朝の歌。「朝寝髪」は、朝起きた時の寝乱れ髪。「愛しき」の原文「愛」で、ウツクシキと訓むものもあります。「君が手枕触れ」は、夫の腕を枕にして寝る意。愛しい夫が愛撫してくれたと思うと、自分の体のそれぞれの部分がいとおしく思える女心・・・。『万葉集』ではめずらしく直接的な性愛表現の歌です。当時の女性は一般的に髪を長く伸ばしており、夜寝る時は髪を解き、昼間は結い上げたようです。結い上げる前に、朝、寝乱れた髪を櫛梳るのです。「触れてし」の「てし」は、過去完了の助動詞。原文「義之」は戯書となっており、王義之が書家(手師)であることからテシに宛てているものです。窪田空穂はこの歌を、「夫の名残りを惜しむ心を、朝々の習いとしている朝寝髪を梳ることに集中させているもので、美しい歌である」と評し、作家の田辺聖子は、「『朝寝髪』という言葉、男性は知らず、女性がよむと、毒気に中(あ)てられたように、その言葉だけでまず、もうたくさん、あとは読みたくない・・・と拒否したいところであるのに、終わりまで続けると、その毒がかえって何とも、『いとおしい』色気に転じている。男と女は古代から千何百年、こうして愛し合ってきたんだなあ、と思われる。愛は続いたけれど、しかし、それを声高く歌えたのは『万葉集』が最初で最後だったのではないか」と述べています。
2579の「早行きて」は、早く行き着いて。「何時しか」は、いつであろうか早く。「和ぐ」は、心が穏やかになる、鎮まる。「今ぞ和ぎぬる」は、ゾ+連体形の係り結び。久しく妻に逢えなかった男の、逢えた喜びと安堵の歌です。
巻第11-2580~2584
2580 面形(おもがた)の忘るとあらばあづきなく男(をのこ)じものや恋ひつつ居(を)らむ 2581 言(こと)に言へば耳にたやすし少なくも心のうちに我(わ)が思はなくに 2582 あぢき無く何の狂言(たはこと)いま更(さら)に小童言(わらはごと)する老人(おいびと)にして 2583 相(あひ)見ては幾久(いくびさ)さにもあらなくに年月(としつき)のごと思ほゆるかも 2584 ますらをと思へる吾(われ)をかくばかり恋せしむるは悪(あ)しくはありけり |
【意味】
〈2580〉彼女の面影が忘れられるものなら、男子たるものがこのように不甲斐なく恋い焦がれていようか。
〈2581〉言葉に出して言うと軽々しく聞こえるだろう。心の底で私は真剣に思っているけれど。
〈2582〉何という愚かなことを言ったものか、今さら何で子供じみたことを言うのか、いい年をして。
〈2583〉逢ってからそんなに長くはないのに、幾年月も経ったように思われる。
〈2584〉立派な男子と思っているその私を、こんなにも恋しがらせるとは、よくないことです。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2580の「面形」は、顔の形。「忘るとあらば」の原文「忘戸在者」で、ワスルトナラバと訓むものもあります。「あづきなく」は、ふがいなく。「男じもの」は、男子たるものが。「や」は、疑問の係助詞で反語となっています。片恋に悩みながら、男子としての自尊心を奮い起こして恋から放たれようとしながら、それができない男心を歌っています。一方、私の顔を忘れたのかという詰問に対し弁明している歌と見る立場もあります。
2581は、女に告白した男の歌。「言に言へば」は、言葉に出して言えば。「耳にたやすし」は、耳に何事もなく聞こえる。「少なくも」は、下に打消・反語を伴い、少しだけどころではない、甚だの意。2582の「あぢき無く」は、自分でうんざりする意。「何の狂言」の「狂言」は狂った言で、いったい何を口走っているのか。「小童言」は、子供じみた言。「老人」は、早い年齢から老を言った時代なので、さしたる年齢ではなく、熟年の男が若者のような愛の言葉を発して自分を咎めている歌です。2583の「幾久さにも」は、どれほど久しくも。ヒササは、久シの名詞形。
2584の「かくばかり」は、こんなにも。「恋せしむるは」は、恋をさせるのは。「悪しくはありけり」は、よくないことだ。「悪しく」の原文「小可」でアシクと訓むのも確定的ではなく、「苛」の誤字だとして、カラクと訓むものもあります。「けり」は、過去の出来事に対して感動や発見を表す助動詞。男の歌で、自身の長らくの恋心の責任を女に転嫁しています。
巻第11-2585~2589
2585 かくしつつ吾(わ)が待つ験(しるし)あらぬかも世の人(ひと)皆(みな)の常(つね)にあらなくに 2586 人言(ひとごと)を繁(しげ)みと君に玉梓(たまづさ)の使(つか)ひも遣(や)らず忘ると思ふな 2587 大原(おほはら)の古(ふ)りにし里に妹(いも)を置きて吾(われ)寐(い)ねかねつ夢(いめ)に見えこそ 2588 夕(ゆふ)されば君(きみ)来(き)まさむと待ちし夜(よ)のなごりぞ今も寐寝(いね)かてにする 2589 相(あひ)思はず君はあるらしぬばたまの夢(いめ)にも見えずうけひて寝(ぬ)れど |
【意味】
〈2585〉このようにして私が待っている、その甲斐がないものか。世の人の誰もがずっと生き続けてはいられないのだから。
〈2586〉人の噂がうるさいので、あなたに使いもやらずにいますが、あなたを忘れているとは思わないでください。
〈2587〉大原のさびれた里に妻を置いてきて、私は眠ることができない。せめて夢に見えてほしい。
〈2588〉夕方になると、あなたがいらっしゃるだろうとお待ちしていた夜の名残なのですね、今もなかなか寝つかれないのは。
〈2589〉私のことを思わずにあの方はいるらしく、夢にも出ていらっしゃらない。誓いを立てて神様にお祈りして寝ても。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2585の「かくしつつ」は、このようにし続けて。「験」は、甲斐、効果。「ぬかも」は、願望。「常にあらなくに」は、常住不変ではないのだから。原文「常不在國」で、ツネナラナクニと訓むものもあります。2586の「人言」は、人の噂。「繁みと君に」の原文「茂君」で、シゲクテキミニ、シゲシトキミニ、シゲケキキミニなどと訓むものもあります。「玉桙の」は「使ひ」の枕詞。「使ひ」は、手紙を運ぶ人。女性が弁解している歌で、二人の関係を知られないために、周囲には使いの存在も秘密にしなくてはならなかったようです。
2587の「大原」は、奈良県明日香村の小原。「古りにし里」は、故京の里で、奈良遷都後の飛鳥地方を広くさして言っています。「妹を置きて」は、妹を残して置いて。奈良京にあって歌ったものとみられ、遷都の直後にはこうしたことはありがちだったと思われます。「夢に見えこそ」の「こそ」は願望の助詞で、夢に見えてくれよ。
2588は、何らかの事情で夫と別れた女の歌。「夕されば」は、夕方になると。「今も寐寝かてにする」は、今も寝つかれないでいる。「する」は「ぞ」の係り結びで連体形。もう終わってしまった恋なのに、彼が足しげく通ってきた頃の習慣が身に沁みついてしまっているという、独り言のような、寂しいつぶやきのような歌です。「理で押しているだけで、心情に乏しい」との評もありますが、窪田空穂は「鋭敏な感性と、婉曲に物をいう教養とが相俟っている」と述べています。
2589の「ぬばたまの」は、ここでは夜のものという関係から「夢」の枕詞としているもの。「らし」は、根拠に基づく推定。「うけひて」は、神に祈って。男から疎遠にされている女の嘆きの歌で、先方がこちらを思えば夢に見えるという俗信によっています。
巻第11-2590~2594
2590 石根(いはね)踏み夜道(よみち)行かじと思へれど妹(いも)によりては忍(しの)びかねつも 2591 人言(ひとごと)の繁(しげ)き間(ま)守(も)ると逢はずあらばつひにや子らが面(おも)忘れなむ 2592 恋死なむ後(のち)は何せむ吾(わ)が命(いのち)の生ける日にこそ見まく欲(ほ)りすれ 2593 敷栲(しきたへ)の枕(まくら)響(とよ)みて寐寝(いね)らえず物思(ものおも)ふ今夜(こよひ)早(はや)も明けぬかも 2594 行かぬ吾(あれ)を来(こ)むとか夜(よる)も門(かど)閉(さ)さずあはれ我妹子(わぎもこ)待ちつつあるらむ |
【意味】
〈2590〉岩を踏み越えて行くような夜道は行くまいと思うけれど、妹のことを思うと、とても辛抱しきれなかった。
〈2591〉うるさい噂の隙を見つけてと思って逢わずにいると、あの子の顔を忘れてしまうのではないだろうか。
〈2592〉恋い焦がれて死んだ後では何の意味があろう。生きている日のうちにこそ逢いたく思うのに。
〈2593〉寝床の枕がしきりに騒ぐので、落ち着いて寝られない。心が晴れないこんな夜は早く明けてくれないだろうか。
〈2594〉行こうにも行けない私が来ると思って、夜になっても門を閉めずに、愛しいあの子は待ち続けているのだろう。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2590の「石根」は、台地に根を張ったような大きな岩。「石踏む(石根踏む)」は、岩がごつごつ出た険しい山道を通るのが危険だという定型的な言い方。「夜道行かじと」の原文「夜道不行」で、ヨミチハユカジトと字余りに訓むものもあります。窪田空穂は、「女に逢った時の挨拶の歌」としています。2591の「人言」は、世間の噂。「間守る」は、隙を窺って。「つひにや」の「や」は、疑問の係助詞。「子ら」の「ら」は、接尾語。「面忘れなむ」の「なむ」は、推量の助動詞で「や」の結びの連体形。忘れてしまうだろう。
2592の「何せむ」は、何になろうか。「吾が命の」の原文「吾命」で、ワガイノチと訓むものもあります。2593の「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕響みて」の原文「枕動而」で、マクラウゴキテと訓むものもあります。「早も明けぬかも」の「も~かも」は、願望。2594の「行かぬ吾を」の原文「不徃吾」で、ユカヌワヲ、ユカヌワレ、ユカヌワレヲと訓むものもありますが、ここは許容される字余りの例外となるのを避けるためユカヌアレヲと訓んでいます。「来むとか」は、来ると思って~か。「閉さず」は、閉ざさずに。「あはれ」は、感動を表す語。
巻第11-2595~2598
2595 夢(いめ)にだに何かも見えぬ見ゆれども吾我(われ)かも迷(まと)ふ恋の繁(しげ)きに 2596 慰(なぐさ)もる心はなしにかくのみし恋ひや渡らむ月(つき)に日(ひ)に異(け)に [或る本の歌にいふ 沖つ波しきてのみやも恋ひわたりなむ] 2597 いかにして忘るるものぞ我妹子(わぎもこ)に恋はまされど忘らえなくに 2598 遠くあれど君にぞ恋ふる玉桙(たまほこ)の里人(さとびと)皆(みな)に吾(あれ)恋ひめやも |
【意味】
〈2595〉どうして夢にさえ見えないのだろう、いや見えているのに分からないのだろうか、恋の苦しさのために。
〈2596〉心の慰むことはなく、こんなにも恋続けなければならないのか、月に日にますます。(絶える間なしに、ひたすら恋い続けているのかな)
〈2597〉どうしたら忘れられるだろう。あの子への恋心は増しこそすれ、とうてい忘れられないことだ。
〈2598〉遠く離れていますが、私はあなただけに恋い焦がれています。この里のどの人にも恋い焦がれるなどありましょうか。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2595の「夢にだに」は、夢にだけでも。「何かも見えぬ」の「かも」は疑問の係助詞で、どうして見えないのだろう。「迷ふ」は、混乱して見定めかねている意。男の歌で、相手がこちらを思えば夢になって見えるという俗信が背後にあります。2596の「慰もる」は「慰むる」と同じ。「かくのみし」の「し」は強意の副助詞で、このようにばかり。「異に」は、いよいよ、ますます。男の片恋の苦しさを嘆いた歌とされます。
2597の「いかにして忘るるものぞ」は、どうしたら忘れられるだろう。「忘らえなくに」の「え」は可能の意の助動詞で、忘れられないことだ。2598の「玉桙の」は、本来「道」の枕詞ながら、ここでは道に関係する「里」の枕詞。「里人」は、作者と同じ村里に住む男のこと。「恋ひめやも」の「やも」は、反語。いつも顔を合わせる里の男皆に自分は恋などしない、めったに逢えないあなただけを思っている、と言っています。
巻第11-2599~2603
2599 験(しるし)なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝(ぬ)らむ子ゆゑに 2600 百代(ももよ)しも千代(ちよ)しも生きてあらめやも我(あ)が思(おも)ふ妹(いも)を置きて嘆くも 2601 現(うつつ)にも夢(いめ)にも吾(われ)は思はずき古(ふ)りたる君にここに逢はむとは 2602 黒髪(くろかみ)の白髪(しろかみ)までと結びてし心ひとつを今(いま)解(と)かめやも 2603 心をし君に奉(まつ)ると思へればよしこのころは恋ひつつをあらむ |
【意味】
〈2599〉甲斐もない恋をしたものさ。夜になると、ほかの男の手枕で寝るであろうあの娘のために。
〈2600〉人間は百年間も千年も生きていられるだろうか、生きられはしない。だから私の愛する妹と離れた旅先で悲しくて泣いている。
〈2601〉この世ではもちろんのこと、夢の中ですら思いませんでした。仲が絶えた昔のあなたとここで再びお逢いするなんて。
〈2602〉黒髪が白髪になるまでずっと変わるまいと、しっかり結び固めた心であるのに、どうして今になって解くことがありましょうか。
〈2603〉この心まであなたに差し上げたのですから、たとえお逢いできなくとも、今しばらくは恋い焦がれているだけで我慢しています。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2599の「験なき」は、甲斐がない。「恋をもするか」の「か」は、詠嘆。「夕されば」は、夕方になるといつも。「手まきて」は、腕を枕にしてで、共寝をする意。「寝らむ」の原文「将寐」でネナムと訓むものもあります。「らむ」は現在推量ですが、ネナムだと「寝ているに違いない」のような意になります。相手のいる人妻に恋してしまった男の嘆きの歌で、この時代の夫婦は同棲せず、しかも関係を秘密にしている場合が多かったため、人妻であるのを知らずに懸想してしまうことが起こりやすかったのです。
2600の「百代しも千代しも」の「しも」は、共に強意の助詞。「生きてあらめやも」の「やも」は、反語。生きていられようか、生きられはしない。「置きて」は、あとに残して。「置きて嘆くも」の原文「置嘆」で、オキテナゲカフ、オキテナゲカムなどと訓むものもあります。地方に赴任した男が、家に置いてきた妻を思っての歌とされます。2601の「古りたる」は、年を経た、の意。「思はずき」の原文「不思寸」で、モハザリキと訓むものもあります。いわゆる元カレに偶然逢った驚きと喜びの歌。
2602の「黒髪の白髪までと」は、黒髪が白髪になるまで。生涯変わるまいの意の譬喩。「解かめやも」の「やも」は反語で、解こうか、解きはしない。夫から不信の疑いを受けた妻が弁明しようとして詠んだ歌、あるいは、他の男性から言い寄られた時の歌とされます。2603の「心をし」の「し」は、強意の副助詞。「よし」は、許容・放任を表す副詞。仕方がない。「恋ひつつを」の「を」は、間投助詞。足遠くなった夫を恨めしく思っている妻の歌です。
巻第11-2604~2608
2604 思ひ出(い)でて哭(ね)には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ 2605 玉桙(たまほこ)の道行きぶりに思はぬに妹(いも)を相(あひ)見て恋ふるころかも 2606 人目(ひとめ)多み常(つね)かくのみし候(さも)らはばいづれの時か我(あ)が恋ひずあらむ 2607 しきたへの衣手(ころもで)離(か)れて吾(あ)を待つとあるらむ児らは面影(おもかげ)に見ゆ 2608 妹(いも)が袖(そで)別れし日より白たへの衣(ころも)片敷(かたし)き恋ひつつぞ寝(ぬ)る |
【意味】
〈2604〉私を思い出して一人で声を出して泣くことはあっても、はっきりと人に分かるほどお嘆きにならないでください、決して。
〈2605〉通りすがりに偶然にあの子に逢っただけで、恋しくてならないこのごろだ。
〈2606〉人目が多いのでいつもこんなふうに機会を窺ってばかりいたら、いつどんな時に、私は恋い焦がれないでいられるようになるのか。
〈2607〉ほかの誰とも添い寝せず私を待ってくれているあの子。その幻影が目先にちらついて仕方がない。
〈2608〉この袖と交わしたあの子の袖、別れたその日から、ずっと自分の衣だけを敷いて、恋しく思いながら一人寂しく寝ている。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2604の「哭には泣くとも」は、声を出して泣くことはあっても。「いちしろく」は、はっきりと。「嘆かす」は「嘆く」の尊敬語。「な」は禁止、「ゆめ」は、決して。窪田空穂は、男より世馴れた女が、男の「思ひ出でて哭に泣く」意の贈歌に答えた歌か、としています。
2605の「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。「道行きぶりに」は、行きずりに、通りすがりに。そのようにして逢った女性に片思いをする類想の歌は多くあり、実際によくあったことのようです。ただこの歌の場合、初めて見た女ではない感じがするとの見方があります。
2606の「人目多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、人目が多いので。「常かくのみし」の「し」は、強意の副助詞。いつもこうして。「候らはば」は、様子を窺っていたならば、よい機会を窺っていたら。「いづれの時か」は、いったい何時になったら。「恋ひずあらむ」は、恋い焦がれずにいられるのか。秘密の関係であるがゆえの嘆きの男の歌とされます。
2607の「しきたへの」は「衣」の枕詞。「衣手離れて」は、共寝の床を離れて。「児ら」の「ら」は接尾語で、妻の愛称。旅先にあって逢えない妻を思う男の歌です。2608の「衣片敷き」は、独り寝をいう慣用句。本来は二人で互いのものを重ねて共寝する衣を、自分の衣だけ敷いて寝ること。「恋ひつつぞ寝る」の「ぞ」は係助詞で、「寝る」は結びの連体形。「こちらの歌も、旅の途中の男が妻に贈った歌のようです。
巻第11-2609~2613
2609 白栲(しろたへ)の袖(そで)はまゆひぬ我妹子(わぎもこ)が家のあたりをやまず振りしに 2610 ぬばたまの吾(わ)が黒髪(くろかみ)を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも 2611 今さらに君が手枕(たまくら)まき寝(ね)めや吾(わ)が紐(ひも)の緒(を)の解けつつもとな 2612 白栲(しろたへ)の袖(そで)触れにしよ吾(わ)が背子(せこ)に我(あ)が恋ふらくは止む時もなし 2613 夕占(ゆふけ)にも占(うら)にも告(の)れる今夜(こよひ)だに来まさぬ君を何時(いつ)とか待たむ |
【意味】
〈2609〉わが袖はすっかりほつれてしまった。彼女の家のあたりに向かっては、止むことなく振り続けてきたので。
〈2610〉黒髪を引きほどいて、身も心も取り乱し、さらにいっそうあなたを恋い焦がれてやまない私です。
〈2611〉今さらあなたの手枕で寝ることがありましょうか。それなのに私の着物の紐はわけもなくほどけてしまいます。
〈2612〉お互いに袖を交わして以来、あなたが恋しくて止むときがありません。
〈2613〉夕占いにも他の占いにもいらっしゃるとお告げがあった今夜、こんな今夜さえおいでにならないあなたを、いったいいつと思ってお待ちすればよいのでしょう。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2609の「白栲の」は「袖」の枕詞。「まゆひぬ」は、ほつれる、織り糸が片寄る。「家のあたりを」は、家のあたりに向って。旅先にある男の歌でしょうか、わざとらしさが目立ち過ぎるとの評もありますが、妹との名残を甚だしく惜しんだ心を伝えています。「白栲の袖」を、我妹子の手作りとする説もあります。
2610は、女の歌。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「引きぬらし」の「引き」は接頭語、「ぬらし」は、ほどいて。この時代、相手が思えば自分の髪が自然に解けるという俗信がありました。そこで、それを逆手にとり、自分で髪をほどくことによって相手の思いを呼ぼうとしています。上3句を「乱れて」を導く譬喩式序詞とする見方もあります。「乱れてさらに」の原文「乱而反」で、ミダレテナホモと訓むものもあります。
2611の「寝めや」の「や」は、反語。「紐の緒」は、紐を強めて言った畳語で、下紐のこと。「解けつつ」の「つつ」は、継続。「もとな」は、わけもなく。固い決心をもって夫と絶縁しながらも、紐の解ける状態に対して、昂奮を新たにしている女の歌です。窪田空穂は、「極度に強いことをいいつつ、一脈心弱さがまじっていて、それが、陰影をなしている歌である」と述べています。
2612の「白栲の」は「袖」の枕詞。「袖触れにしよ」の「よ」は「ゆ」と同じく、動作の起点を表す語。原文「袖觸而夜」で、ソデヲフレテヨ、ソデニフレテヨなどと訓むものもあります。ヨに「夜」の字を用いているのは、袖を触れ合わせた夜から、の意を持たせているのではないかとする見方があります。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。夫婦関係を結んだばかりの若い女が、その夫に衷情を訴えたものです。
2613の「夕占」は、夕方にする辻占(つじうら)のことで、夕方道端に立って、一定の範囲の場所を定め、米をまいて呪文を唱えるなどして、その場所を通る通行人のことばを聞いて吉凶や禍福を占ったといいます。辻は、人だけでなく神も通る場所であると考えられ、偶然そこを通った人々の言葉を神の託宣と考えたようです。作者の女は、他の占いもやって確かめたようです。そうしたら、それも今夜訪れると出た。それなのに男はやって来ない。これではもう来ることを期待できない、と男を恨んでいます。
なお、時代が下った江戸時代には「辻占売り」というものが現れて、吉凶の文句などを書いた紙片を、道行く人に呼びかけて売るようになったといいます。「占」の語源は裏表(うらおもて)の「裏」で、裏に隠れている神意を表に現わすことを占(うら)と呼んだものです。また「告(の)る」の原意は、呪力ある言葉を発することであることから、占いの判断を「告る」と表現しています。
巻第11-2614~2618
2614 眉根(まよね)掻(か)き下(した)いふかしみ思へるにいにしへ人を相(あひ)見つるかも [或る本の歌に曰く 眉根掻き誰をか見むと思ひつつけ長く恋ひし妹に逢へるかも] 2615 敷栲(しきたへ)の枕(まくら)を巻きて妹(いも)と吾(あれ)と寝(ぬ)る夜(よ)はなくて年ぞ経(へ)にける 2616 奥山の真木(まき)の板戸(いたど)を音(おと)速(はや)み妹があたりの霜の上(うへ)に宿(ね)ぬ 2617 あしひきの山桜戸(やまさくらと)を開け置きて吾(あ)が待つ君を誰(た)れか留(とど)むる 2618 月夜(つくよ)よみ妹(いも)に逢はむと直道(ただぢ)から吾(われ)は来(き)つれど夜ぞ更けにける |
【意味】
〈2614〉眉根を掻きながら、内心訝しく思っていたところ、昔馴染みのあの人に逢ったことです。
〈2615〉手枕を交わしてあの子と共寝する機会がちっともないまま、いたずらに年を経ってしまった。
〈2616〉真木の板戸の鳴る音が激しくて入れないので、彼女の家のそばの霜の上で寝てしまった。
〈2617〉山桜の戸を開けたままにしてあの方を待っているのに、なかなかやってこないのは、いったい誰が引き留めているのでしょう。
〈2618〉月が好いので、急いで彼女に逢おうと真っ直ぐの道をやってきたのだが、それでも夜が更けてしまった。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2614の「下いふかしみ」の「下」は心の中で、の意。「いふかしみ」は、形容詞「いふかし」の動詞になった語で、不思議に思っていると、の意。眉がかゆくなると、思う人に逢えるとの俗信を踏まえています。「いにしへ人」は、昔馴染みの人、昔の夫。なお、或る本の歌に曰くとある歌は、別伝扱いとなっていますが、男の歌であり、類歌というべきものです。
2615の「敷栲の」は「枕」の枕詞。「妹と吾と」は、単独母音を含む許容される字余り句。イモトワレト、イモトワレと訓むものもあります。2616の「奥山の」は「真木」の枕詞。「真木の板戸」は、檜などの良質の木材で作られた板戸。「音速み」は、音が激しいので。そのため母などが目を覚ますのを恐れて開けることができないと言っています。一方では、霜の上で共寝をしたと解するものもあります。2617の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山桜戸」は、山桜の板で作った戸。来ない男を遠まわしに恨んだ女の歌であり、上の歌と対をなしているかのようです。
2618の「月夜よみ」は、月が好いので。「直道」は、道なき所も構わずまっすぐに来る道、山を越えるような近道。「直道」の用例はこの1首のみですが、他に「直越え」という言い方があります(巻第12-3195)。「吾は来つれど」の原文「吾者雖来」で、ワレハクレドモと訓むものもあります。夜は外出を控えるべき禁忌の時間帯でしたが、男女の逢引の時でもありました。そこで男は、月夜に照らされその呪力を身に浴び、自らが神的存在となることで、女の許に通ったのです。
巻第11-2619~2622
2619 朝影(あさかげ)に吾(わ)が身はなりぬ韓衣(からころも)裾(すそ)のあはずて久しくなれば 2620 解(と)き衣(きぬ)の思ひ乱れて恋ふれどもなぞ汝(な)がゆゑと問ふ人も無(な)き 2621 摺(す)り衣(ころも)着(け)りと夢(いめ)に見つうつつにはいづれの人の言(こと)か繁けむ 2622 志賀(しか)の海人(あま)の塩焼き衣(ころも)穢(な)れぬれど恋といふものは忘れかねつも |
【意味】
〈2619〉朝影のように私はやせ細ってしまった。なかなか裾の合わない韓衣のように、あなたに逢わない日々が続いているので。
〈2620〉ほどいた着物の乱れのように、思い乱れて恋い焦がれているのに、なぜお前のせいで苦しんでいるのだと訊いてくれる人もいないのか。
〈2621〉色とりどりの摺り染めの着物を着ている夢を見た。実際にはどこのどなたとの噂が立つというのか。
〈2622〉志賀の海人の塩焼きの作業衣が汚れているように、慣れ親しんだ仲でも、恋の苦しみからはいつまで経っても逃れられない。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2619は、恋やつれをした人で、男の歌と見られます。朝影になっている我が身というのは、朝の影に映る自分のように細く、長く、つまりそのくらい痩せてしまったということ。「韓衣」は、中国風の衣服。大和風の衣服のようには前あわせの部分が重ならないため、裾の左右を合わせず、そのように逢わない日が久しく続いたとして、「あはず」を引き出す序詞となっています。「あはずて」は、女と逢わずして。詩人の大岡信は、「恋の嘆きを歌っているものの、歌そのものの感じはむしろ軽快。それも「物に寄せて」という形式が生む一つの効果だろう。直接の恋心の訴えという要素よりは、他の物が介在する分だけ、いわば美的要素がまさるから」と言っています。以下8首は、衣に寄せての歌。
2620の「解き衣の」は「思ひ乱れて」の枕詞。「汝」は、相手の男性。「なぞ」は、どうしてか。窪田空穂は、「女の歌で、男に恋の悩みを訴えたものである。君のためにこのように悩んでいるのであるが、君は、われゆえにする悩みかといって尋ねてもくれないと恨んでいるのである」と述べています。巻第12に「解衣の念ひ乱れて恋ふれども何の故ぞと問ふ人もなき」(2969)という類歌があります。
2621の「摺り衣」は、花や葉で摺染めにした着物。「摺り衣着り」は、さまざまな人との関係を暗示するもの。あるいは、摺衣を着るという夢は人に言い寄られる前兆だとする俗信があり、それを踏まえているとも言われます。「着り」は、「着あり」の転で、着ている。「いづれの人」とあるのは、どういう人から言い寄られるのかと気がかりなようで、窪田空穂は、「若い、女の気分にふさわしく美しく安らかに詠まれている歌である」と述べています。
2622の「志賀」は、福岡市志賀町の志賀島。「海人」の原文「白水郎」は、中国の揚子江付近に住み漁撈を生業とした男子の称で、これをアマにあてたもの。「塩焼き衣」は、塩を焼く時の衣。その汚れやすいところから「穢れ」と続け、同音の「馴れ」に転じたもので、上2句が序詞。「なれぬれど」は、馴れたけれどもで、夫婦関係の久しくなった意。長年連れ添った妻と離れている時の男の歌とされます。
巻第11-2623~2626
2623 紅(くれなゐ)の八(や)しほの衣(ころも)朝(あさ)な朝(さ)な馴(な)れはすれどもいやめづらしも 2624 紅(くれなゐ)の濃染(こぞ)めの衣(ころも)色深く染(し)みにしかばか忘れかねつる 2625 逢はなくに夕占(ゆふけ)を問ふと幣(ぬさ)に置くに吾(わ)が衣手(ころもで)はまたぞ継(つ)ぐべき 2626 古衣(ふるころも)打棄(うちつ)る人は秋風の立ち来る時に物思(ものおも)ふものぞ |
【意味】
〈2623〉幾度も染めた紅の衣が、朝ごとに汚れてよれよれになるように慣れ親しんでいるけれど、それでもあなたはますます可愛いことだ。
〈2624〉紅の色濃く染めた着物のように、心に深く染みついたせいか、忘れようにも忘れられない。
〈2625〉逢ってくれないので、夕占してを問おうと私がお供えした袖の切れ端は、また継ぎ足すようになったことだ。
〈2626〉着慣れた古着をうち捨ててしまうような人は、秋風が吹きだすころには、侘しい思いをするものです。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2623の「紅」は、もとキク科の多年草の紅花で、その花を摘んで強い赤色の染料を製しました。「八しほの衣」は、その染料で何度も繰り返し染めた衣。上2句は「朝な朝な馴れ」を導く序詞。「朝な朝な」は、朝ごとに、毎朝。朝ごとに穢れてよれよれになる意と馴れ親しむ意とを掛けているとされますが、窪田空穂は不自然な続きであるとし、「妻の美しい譬喩とするときわめて適切なもので、それを主にしたものである」と述べ、譬喩を序詞の形にしたものと見ています。「いや」は、ますます。「めづらし」は、可愛い。多くのものは見慣れるとつまらなくなるが、わが妻はその反対で、ますます新鮮で可愛いと言っています。
2624の「紅の濃染めの衣」は、紅に濃く染めた衣。「濃染めの衣」の原文「深染衣」で、フカゾメノキヌと訓むものもあります。以上2句は「色深く」を導く譬喩式序詞。「しかばか」の「か」は、疑問。「忘れかねつる」は、忘れることのできないことであった。染料が衣に染み込むように相手のことが心の奥深くまで入り込み、見捨てられないと、この歌も馴れ親しんだ妻を讃えています。
2625の「逢はなくに」の「逢はなく」は「逢はず」のク語法で名詞形。逢わないことであるのに。「夕占」は、夕方に道に立ち、往来する人の言葉を聞いて吉凶を判断する占い。「幣」は、神に祈る時に供える物。来ない夫に対して、幾度も占いをして待つ妻の嘆きですが、この歌からは、幣には袖を切って供えていたらしいことが知られます。自分の着ている衣には魂が付着しているという信仰があったものの、他に同じ例がないので確実ではなく、あるいは特別なことだったかもしれません。「継ぐべき」は、切った袖をまた継ぎ足すようになったこと。
2626の「古衣打棄つる」の「古衣」は、着古した衣で、古女房を打ち棄てて顧みない比喩。「秋風の立ち来る時」は、秋風が吹いて肌寒く衣を必要とする時で、老いを迎えるころの比喩。古いものを疎み、新しいものを愛するのが人情ではあるものの、世故に通じた第三者が警告している歌とされ、男性にとっては戒め、女性からは恨みの歌となります。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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