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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第12)~その1

巻第12-2864~2867

2864
我(わ)が背子(せこ)を今か今かと待ち居(を)るに夜(よ)の更けゆけば嘆きつるかも
2865
玉釧(たまくしろ)まき寝(ぬ)る妹もあらばこそ夜(よ)の長けくも嬉しくあるべき
2866
人妻に言ふは誰(た)が言(こと)さ衣(ごろも)のこの紐(ひも)解けと言ふは誰が言
2867
かくばかり恋ひむものぞと知らませばその夜はゆたにあらましものを
 

【意味】
〈2864〉あの方がお越しになるのを今か今かとお待ちしているうちに、どんどん夜が更けてきて、つい溜息をついてしまった。
 
〈2865〉手枕を交わして寝るいとしい子がいてくれたなら、夜が長いのも、かえって嬉しいことだろうに。

〈2866〉人妻である私に言い寄るのは誰のおことば? 下着の紐を解いて寝ようと言い寄るのは誰のおことば?

〈2867〉これほど恋しくなるのだと分かっていたなら、あの夜はもっとゆっくりしていればよかったのに。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」歌に対応する、相聞に属する歌の、表現形式による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。

 2864は、夫の訪れを待つ気分が失望に変わってしまったことを嘆く妻の歌。2865の「玉釧」は、玉を付けてある腕輪で、手に巻くところから「まき」の枕詞。「まき寝る」は、腕に抱いて寝る。「長けく」は「長し」の名詞形。秋の夜長に一人寝をしている男の嘆きの歌。

 2866の「さ衣」の「さ」は、接頭語。「紐」は、下着の紐。紐を結び合うのは、夫婦や恋人同士の愛の行為であり、「紐解け」は、共寝をしようという誘いかけになります。人妻である自分への夫以外の男からの誘いを拒みつつ、からかっている歌とされますが、それとも「嫌よ嫌よも好きのうち」でありましょうか。人妻とはいえ、夫婦同棲していず、その関係も秘密だったため、他の男から求められることはよくあったものとみられます。

 2867の「ゆたに」は、ゆっくりと。関係を結んだばかりの女と別れた後の男の歌で、人目を忍ぶがためにそそくさと帰ってきてしまったようで、そのことを後悔しています。

 

巻第12-2868~2872

2868
恋ひつつも後も逢はむと思へこそ己(おの)が命(いのち)を長く欲(ほ)りすれ
2869
今は我(あ)は死なむよ我妹(わぎも)逢はずして思ひわたれば安けくもなし
2870
我(わ)が背子(せこ)が来(こ)むと語りし夜(よ)は過ぎぬしゑやさらさらしこり来(こ)めやも
2871
人言(ひとごと)の讒(よこ)しを聞きて玉桙(たまほこ)の道にも逢はじと言へりし我妹(わぎも)
2872
逢はなくも憂(う)しと思へばいや増しに人言(ひとごと)繁(しげ)く聞こえ来るかも
 

【意味】
〈2868〉こうして恋い焦がれていれば後にはきっと逢えると思うからこそ、自分の命を長かれと思っている。
 
〈2869〉私は死んでしまいそうだ。愛しいお前に逢わないまま思い続けていると、心が安らぐ時がない。

〈2870〉あの人がやって来ると約束した夜は空しく過ぎてしまった。ええい、もう今さら、間違ってもやって来るものか。

〈2871〉誰かが言う私の悪口を真に受けてしまって、道で逢うことさえ嫌だと言ってるらしいな、あの子は。

〈2872〉逢えないでいるのは辛いと思っているのに、さらに人の悪口が激しく聞こえてくる。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2870の「しゑや」は、ちぇっ、今さらもう、のように吐き捨てる気持ちを表す感動詞。「さらさら」は、今さら。「しこる」は、間違う、やり損なう意。「やも」は、反語。2871の「讒し」は、事実を曲げての悪口。「玉桙の」は「道」の枕詞。2872は、噂を警戒して女が逢わなくなり、それを辛く思っていると、さらに噂が激しくなったと嘆いています。

巻第12-2873~2877

2873
里人(さとびと)も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰(た)が名ならめや
2874
確かなる使(つかひ)をなみと心をぞ使に遣(や)りし夢(いめ)に見えきや
2875
天地(あめつち)に少し至らぬ大夫(ますらを)と思ひし我(わ)れや雄心(をごころ)もなき
2876
里(さと)近く家や居(を)るべきこの我(わ)が目の人目をしつつ恋の繁(しげ)けく
2877
何時(いつ)はなも恋ひずありとはあらねどもうたてこのころ恋し繁(しげ)しも
  

【意味】
〈2873〉里人の語り継いでほしい。ええい、もうどうでもいい、私が恋に苦しんで死ねば、あなたが原因で死んだのだと語りぐさになるでしょう。

〈2874〉頼りになる使いがないので、この私の心を使いに立てました。夢に私の姿が見えたでしょうか。
 
〈2875〉天地の大きさに少し足りないほどのますらおと自負していた私は、今は恋のために、雄々しい心もなくなってしまった。

〈2876〉里に近い家に住むものではありませんね。人目をはばかって気にしながらでは、いっそう恋心が募るばかりです。

〈2877〉いつも恋しいと思わない時はありませんが、この頃ますます恋い焦がれています。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2873の「がね」は、希望、予想を表す語。「よしゑやし」は、ええ、ままよ、どうでもいい。作者の性別は不明ですが、自らの死をほのめかして相手を脅迫している、たぶん、女の歌です。2874は、相手を思うとその人の夢に見えるとされていたのを踏まえています。これも女の歌のようです。

 2875の「天地に少し至らぬ」は、天地の広大さに比べて少し足りない。「大夫」は、勇ましく立派な男子。「雄心」は、雄々しい心で、惚れた弱みから丈夫の誇りも失ってしまったと嘆いています。2876の「家や居るべき」の「や」は、反語。「人目をしつつ」は、人目を憚りつつの意か。2877の「なも」は、強意の助詞。「うたて」は、ますますひどく。

巻第12-2878~2882

2878
ぬばたまの寐(い)ねてし宵(よひ)の物思(ものも)ひに裂(さ)けにし胸(むね)はやむ時もなし
2879
み空行く名の惜(を)しけくも我(わ)れはなし逢はぬ日まねく年の経(へ)ぬれば
2880
うつつにも今も見てしか夢(いめ)のみに手本(たもと)まき寝(ぬ)と見るは苦しも [或本の歌の発句には『我妹子を』といふ]
2881
立ちて居(ゐ)てすべのたどきも今はなし妹(いも)に逢はずて月の経(へ)ゆけば [或本の歌には『君が目見ずて月の経ぬれば』といふ ]
2882
逢はずして恋ひわたるとも忘れめやいや日に異(け)には思ひ増すとも
 

【意味】
〈2878〉共寝した夜を思い出しては、張り裂けそうなこの胸の思いは、いっこうに休まる時もない。
 
〈2879〉空に広がるように世間に評判が立とうとも、私は惜しくはない。逢えない日が重なり年が経ってしまったので。

〈2880〉現実に今すぐにでも逢いたい。夢の中でばかり手枕を交わして寝ているのはつらい。(愛しいわが妻を)

〈2881〉立ったり座ったりして、どう手を付けていいか今は分からない。あなたに逢わないまま月が替わってしまうので。

〈2882〉逢わないままでいても、恋続けることはあっても忘れるなんてことがありましょうか。日増しに思いがつのることはあっても。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2878の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。2879の「まねく」は、多く。2880の「うつつに」は、現実に。「見てしか」の「てしか」は願望。2881の「立ちて居て」は、立ったり座ったりして。「すべ」は方法、「たどき」は手段。2882の「いや日に異に」は、いよいよ日増しに。

巻第12-2883~2887

2883
外目(よそめ)にも君が姿(すがた)を見てばこそ我(あ)が恋やまめ命(いのち)死なずは [一には『命に向ふ我が恋やまめ』といふ ]
2884
恋ひつつも今日(けふ)はあらめど玉櫛笥(たまくしげ)明けなむ明日(あす)をいかに暮らさむ
2885
さ夜(よ)更けて妹(いも)を思ひ出(い)でしきたへの枕(まくら)もそよに嘆きつるかも
2886
人言(ひとごと)はまこと言痛(こちた)くなりぬともそこに障(さは)らむ我(わ)れにあらなくに
2887
立ちて居(ゐ)てたどきも知らず我(あ)が心 天(あま)つ空なり地(つち)は踏めども
   

【意味】
〈2883〉遠目にもあなたのお姿を見ることができたなら、私の恋心は止むでしょう、命が絶えずにいたならば。(命がけの私の恋心もおさまるでしょう)

〈2884〉恋い焦がれつつも今日は何とか過ごせましょうが、一夜明けた明日はどうやって暮らしたらよいのでしょうか。
 
〈2885〉夜ふけにあの子を思い出して眠れず、枕がきしむほどに身もだえして嘆いている。

〈2886〉人の噂は確かにうるさくなってきたが、そんなことに妨げられる私ではないのに。

〈2887〉落ち着かなくて立ったりすわったりして、どうしてよいか分からず、私の心はまるで空にあるようです。地を踏んではいるのですけど。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2884の「玉櫛笥」は「明け」の枕詞。2885の「しきたへの」は「枕」の枕詞。「そよ」は、物が触れ合う音。2886の「言痛く」は、うるさく、わずらわしく。2887の「立ちて居て」は、立ったり座ったりして。「たどき」は手段。2888の「日を多み」は、日が多いので。

巻第12-2888~2892

2888
世の中の人のことばと思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日を多み
2889
いでなぞ我(あ)がここだく恋ふる我妹子(わぎもこ)が逢はじと言へることもあらなくに
2890
ぬばたまの夜(よ)を長みかも我(わ)が背子(せこ)が夢(いめ)にし見えかへるらむ
2891
あらたまの年の緒(を)長くかく恋ひばまことわが命(いのち)全(また)からめやも
2892
思ひ遣(や)るすべのたどきも我(わ)れはなし逢はずてまねく月の経(へ)ぬれば
   

【意味】
〈2888〉世間のありきたりの言葉と思わないでほしい。ほんとうに恋しくて仕方がなかったのです。逢えない日が多かったので。

〈2889〉いやはや、何でこんなに私はしきりに恋しく思うのか。別にあの子が逢わないなどと言ったこともないのに。
 
〈2890〉夜が長いせいでしょうか。愛しいあの人が、夢に幾度も見えては消えるのです。

〈2891〉長い年月、これほどに焦がれ続けていたならば、私の命はとても無事ではいられないでしょう。

〈2892〉思いを晴らす手段も手がかりも、私にはもうありません。逢えない日が重なり、月日が過ぎてゆくので。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2889の「いで」は、驚きや嘆きを表す語。「ここだく」は、これほどはなはだしく。2890の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。2891の「あらたまの」は「年」の枕詞。

巻第12-2893~2896

2893
朝(あした)去(い)にて夕(ゆふへ)は来ます君ゆゑにゆゆしくも吾(あ)は歎(なげ)きつるかも
2894
聞きしより物を思へば我が胸は破れて砕けて利心(とごころ)もなし
2895
人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み我妹子(わぎもこ)に去(い)にし月よりいまだ逢はぬかも
2896
うたがたも言ひつつもあるか我(わ)れならば地(つち)には落ちず空に消(け)なまし
   

【意味】
〈2893〉朝はお帰りになっても、夕方にはまたおいでになるあなたであるのに、自分でも忌々しくおもうほどにあなたが恋しいのです、待ちきれないのです。

〈2894〉噂に聞いて以来、その人に恋して物思いをしていますので、私の胸は破れて砕けて、理性で判断できる心もありません。

〈2895〉人の噂が激しくうるさいので、あの子に、先月以来いまだ逢いに行けずにいます。

〈2896〉何だってそんなにむきになって言いたてるのか。私なら地面に落ちて名を汚すことなく、空に消えるよ。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2893の「ゆゆし」は、忌まわしい。慎みも無く、憚らずという意味もあります。2894の「聞きしより」は、噂を聞いてからの意。「利心」はしっかりした気持ち、理性の意。なお、この歌の「破れて砕けて」を本歌取りとしたのが、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも」の有名な歌です。実朝は、藤原定家から『万葉集』を贈られ、和歌の指導を受けて作歌に励みました。といっても京と鎌倉に離れていましたから、今でいう通信教育による師弟関係でした。

 2896の「うたがたも」は語義未詳ながら、いちずに、むやみにの意ではないかとされます。「地に落つ」は、名を汚すこと。女から「二人の関係が噂になって、名を汚しそうだ」のように言ってきたのに対する返歌とみられます。

巻第12-2897~2900

2897
いかならむ日の時にかも我妹子(わぎもこ)が裳(も)引きの姿(すがた)朝に日(け)に見む
2898
ひとり居(ゐ)て恋ふるは苦し玉たすき懸(か)けず忘れむ事(こと)計(はか)りもが
2899
なかなかに黙(もだ)もあらましをあづきなく相(あひ)見そめても我(あ)れは恋ふるか
2900
我妹子(わぎもこ)が笑(ゑ)まひ眉引(まよび)き面影(おもかげ)にかかりてもとな思ほゆるかも
 

【意味】
〈2897〉いったいいつの日になったら、あの子が裳裾を引いて歩く姿を、朝も昼も絶えず見られるようになるのだろうか。

〈2898〉ひとりで離れ恋い焦がれているのは苦しくてたまらない。心にもかけず忘れる何かよい方法があればよいのに。

〈2899〉かえって黙っていればよかったものを、不甲斐なくも、見初めて言葉をかけたばっかりに、恋に落ち苦しんでいる。

〈2900〉あの子の笑顔や眉が目の前にちらついて、無性に恋しくて仕方がない。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2897の「朝に日に」は「常に」ということを具象的に言ったもので、同棲を意味します。2898の「玉たすき」は「懸け」の枕詞。「懸けず」は、心に懸けず。「事計り」は、計画。「もが」は、願望の助詞。2899の「なかなかに」は、かえって。「あづきなく」は、不甲斐なく。2900の「笑まひ」は、笑顔。「眉引き」は、黛(まゆずみ)で三日月形に描いた眉。「もとな」は、わけもなく、無性に。

巻第12-2901~2905

2901
あかねさす日の暮れゆけばすべをなみ千(ち)たび嘆きて恋ひつつぞ居(を)る
2902
我(あ)が恋は夜昼(よるひる)わかず百重(ももへ)なす心し思へばいたもすべなし
2903
いとのきて薄(うす)き眉根(まよね)をいたづらに掻(か)かしめつつも逢はぬ人かも
2904
恋ひ恋ひて後も逢はむと慰もる心しなくは生きてあらめやも
2905
いくばくも生けらじ命(いのち)を恋ひつつぞ我(あ)れは息づく人に知らえず
  

【意味】
〈2901〉日暮れの頃になると、どうしようもなく、何度もため息をついて、あなたのことを恋しく思っています。

〈2902〉私があなたを思う恋心は、夜昼のけじめもなく押し寄せてきてどうしようもありません。

〈2903〉とりわけ薄いこの眉をいたずらに掻かせるばかりで、いっこうに逢おうとしない人ですこと。
 
〈2904〉恋焦がれて、いつかまた逢えるだろうと、自分を慰める強い心を持っていないと、とても生きていけそうにありません。
 
〈2905〉いくらも生きられる命ではないのに、恋に苦しみながら溜息ばかりついている。思うあの人に知ってもらえずに。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2901の「あかねさす」は、茜(あかね)色に輝く昼の意で「日」にかかる枕詞。「すべをなみ」は、どうしようもなく。2902の「いたも」は非常に。「すべなし」は、どうしようもない。2903の「いとのきて」は「甚(いと)除(の)きて」の意で、取り分けて。眉が痒くなるのは恋人に逢える前兆とする信仰を踏まえています。

巻第12-2906~2909

2906
他国(ひとくに)によばひに行きて大刀(たち)が緒(を)もいまだ解かねばさ夜ぞ明けにける
2907
ますらをの聡(さと)き心も今はなし恋の奴(やつこ)に我(あ)れは死ぬべし
2908
常(つね)かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計(ことはか)りせよ
2909
おほろかに我(わ)れし思はば人妻(ひとづま)にありといふ妹(いも)に恋ひつつあらめや
 

【意味】
〈2906〉遠い他国まで妻どいに出かけて行ったが、腰に差した大刀の紐も解かぬうちに夜が明けてしまった。

〈2907〉立派な男子としての分別も今はなくしてしまった。恋の奴(やっこ)の手にかかって、私は死にそうだ。

〈2908〉いつもこんなに恋焦がれているのは苦しくてたまらない。暫くの間でも心が安まる手だてを教えてほしい。
 
〈2909〉いい加減に私が思いを寄せているのなら、人妻だというあなたに、こんなにも恋続けるものでしょうか。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2906の「他国」は、自分の郷里よりやや離れた土地。「よばひ」は、妻どい、求婚。「大刀が緒もいまだ解かねば」というのは、腰に吊っている太刀の緒を、家に入るとまずその緒を解くのを、それすらせずに、の意。2907の「ますらを」は、勇ましく立派な男子。「恋の奴」は、恋を貶めて擬人化したもの。この言い方は当時の人々に好まれたらしく、他の歌にもいくつか見られます。2908の「しましく」は、暫くの間。2909の「おほろかに」は、いい加減に。

巻第12-2910~2914

2910
心には千重(ちへ)に百重(ももへ)に思へれど人目を多み妹に逢はぬかも
2911
人目(ひとめ)多み目こそ忍(しの)ぶれすくなくも心のうちに我(わ)が思はなくに
2912
人の見て言(こと)とがめせぬ夢(いめ)に我(わ)れ今夜(こよひ)至らむ宿(やど)閉(さ)すなゆめ
2913
いつまでに生(い)かむ命(いのち)ぞおほかたは恋ひつつあらずは死ぬるまされり
2914
愛(うつく)しと思ふ我妹(わぎも)を夢(いめ)に見て起きて探(さぐ)るになきが寂(さぶ)しさ
  

【意味】
〈2910〉心では幾重にも幾重にも恋しく思っているのに、人目が多くてあの娘に逢うことができない。
 
〈2911〉人目が多いので、直接逢うことはこらえているが、心の中ではちょっとやそっとの思いでいるわけではない。
 
〈2912〉人がうるさく咎め立てしない夢の中で、私は今夜あなたの所に行きます。決して戸を閉ざすことのないように。
 
〈2913〉いったいいつまで生きられる命だというのか。およそ恋い焦がれて生きているよりも、死んだ方がましだろう。

〈2914〉いとしいと思っている子の姿を夢に見て、起きて探っても、何も触れないのがつまらない。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2910・2911の「人目を多み」は、人の目が多いので。2912の「言とがめ」は、咎め立て、詰問の意。「ゆめ」は、決して。自分から夢の中に逢いに行くというのは、唐代の伝奇小説『游仙窟』にある「今宵戸ヲ閉ザスコトナカレ、夢ノ裏ニ渠(きみ)ガ辺リニ向ハム」の文章が背景にあるようです。2913の「おほかたは」は、大体は、ふつう、およそ。「寂し」は、楽しくない、つまらない。

巻第12-2915~2919

2915
妹(いも)と言はばなめし畏(かしこ)ししかすがに懸(か)けまく欲しき言(こと)にあるかも
2916
玉勝間(たまかつま)逢はむといふは誰(たれ)なるか逢へる時さへ面隠(おもかく)しする
2917
うつつにか妹(いも)が来ませる夢(いめ)にかも我(わ)れか惑(まど)へる恋の繁(しげ)きに
2918
おほかたは何(なに)かも恋ひむ言挙(ことあ)げせず妹(いも)に寄り寝(ね)む年は近きを
2919
ふたりして結びし紐(ひも)をひとりして我(あ)れは解きみじ直(ただ)に逢ふまでは
  

【意味】
〈2915〉妹(いも)と呼んだら無礼だし恐れ多いけれど、そうは言ってもはっきり口に出して言ってみたい言葉だ。

〈2916〉私に逢おうといったのは一体誰なのだろう、それなのに、せっかく逢ったのに顔を隠したりなんかして。

〈2917〉実際に彼女がやってきたのか、それとも夢なのか、あるいは私が取り乱しているのか、恋の激しさのために。

〈2918〉普通ならなぜこんなに恋い焦がれることがあろう。あれこれ言わずとも、あの子と寄り添って寝る年は近いのに。

〈2919〉二人で結んだ衣の紐を、一人で私は解いたりなんかしない、じかに逢うまでは。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2915について、「妹(いも)」は『万葉集』の歌では概ね男性から親愛の情を込めて女性を呼ぶ、特に恋歌において一般化していた呼称に見えますが、この歌からは、やはり男性が女性を「妹」と呼ぶことには、特別な意味合いが込められていたことが分かります。「なめし」は、無礼だ。「畏し」は、恐れ多い。「しかすがに」は、しかしながら、そうはいうものの。「懸けまく」は、口に出して言うこと。身分の高い女性への片想いの歌でしょうか。

 2916の「玉勝間」の「玉」は美称で「勝間」は籠のこと。その蓋がしっくり合うことから「逢ふ」に掛かる枕詞。「面隠し」は、恥じらいから顔を隠すこと。この歌について斎藤茂吉は、「男女間の微妙な会話をまのあたり聞くような気持ちのする歌である。これは男が女に向かって言っているのだが、言われている女の甘い行為までが、ありありと目に見えるような表現である」と言っています。

 2917の「うつつ」は、現実。この歌について作家の大嶽洋子は、「後世の伊勢物語の下地ではないかと思われるような物語性のある歌である。妹に対して『来ませる』などと敬語を使っているところは、伊勢物語第69段の斎宮と昔男との月夜の出来事を思わせる。夢に私が迷ったのか、それとも現実に恋人がやって来たのだろうかと複雑な現実と夢の世界の織りなす幻覚を詠っている。迷う男にとってどちらも真実の世界なのだろう」と述べています。

 2918の「おほかたは」は、普通は、一般に。「何かも~む」は、反語。「言挙げ」は、思うことを言葉に出して言うこと。2919について、夫婦が離れる時には互いに下紐を結び交わし、逢った時に解き交わすことが風習になっていました。

巻第12-2920~2924

2920
死なむ命(いのち)此(ここ)は思はずただしくも妹(いも)に逢はざる事をしぞ思ふ
2921
幼婦(をとめご)は同じ情(こころ)にしましくも止(や)む時も無く見むとぞ思ふ
2922
夕(ゆふ)さらば君に逢(あ)はむと思へこそ日の暮るらくも嬉(うれ)しくありけれ
2923
ただ今日(けふ)も君には逢はめど人言(ひとごと)を繁(しげ)み逢はずて恋ひわたるかも
2924
世の中に恋(こひ)繁(しげ)けむと思はねば君が手本(たもと)をまかぬ夜(よ)もありき
 

【意味】
〈2920〉愛するために死ぬかもしれないなどと今は思わない。ただ愛する人に逢えないことを辛く思う。

〈2921〉幼婦の私だって、あなたと同じで、しばらくも休むことなく、絶えずあなたとお逢いしたいと思っています。
 
〈2922〉夕方になるとあなたにお逢いできると思えばこそ、日が暮れるのも嬉しく思います。

〈2923〉今日すぐにでもあなたにお逢いしたいと思うけれど、人の噂がうるさいので、お逢いせずにいつまでも焦がれ続けているのです

〈2924〉人の世で、恋の苦しみがこんなに募るものだとは思わなかったので、あなたと共寝をしない夜もあった。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2920の「ただしくも」は、ただしかし。2921の「幼婦」について斎藤茂吉は、これは「わたくしは」というのと同じだが、客観的に「幼婦は」というのにかえって親しみがあるようであり、「幼婦」というからこの歌がおもしろい、と言っています。「しましくも」は、しばらくの間も。2923の「ただ」は、ただちに。2924は、女が旅にある男を思う歌、あるいは故人を対象にした歌のようです。

巻第12-2925~2926

2925
みどり子のためこそ乳母(おも)は求むと言へ乳(ち)飲めや君が乳母求むらむ
2926
悔(くや)しくも老いにけるかも我(わ)が背子(せこ)が求むる乳母(おも)に行かましものを
  

【意味】
〈2925〉幼い子に乳をあたえるために乳母を求めるといいます。なのに、あなたは乳を飲むような幼児なのでしょうか。そうではないのに、私を乳母として求められるのですか。

〈2926〉残念なことに私はもう老いてしまいました。もっと若ければあなたの求める乳母として参りますのに、それもできません。

【説明】
 年下の若い男の求愛を受けた女の歌です。男の歌はありませんが、どれほど年齢が離れていたのか、あるいは親子ほどの違いがあったのでしょうか。ひょっとして、男は女に対し「あなたのおっぱいが飲みたい」とでも言ったのかもしれません。女は「乳母」と言って、はぐらかしながら男の求めを断っていますが、一方では女としての嬉しさが滲み出ているようでもあります。「みどり子」は、3歳くらいまでの幼児のこと。『大宝令』の戸令では、3歳以下を「緑(男は緑児、女は緑女)」とせよと規定されていました。

巻第12-2927~2931

2927
うらぶれて離(か)れにし袖(そで)をまたまかば過ぎにし恋い乱れ来むかも
2928
おのがじし人(ひと)死にすらし妹(いも)に恋ひ日(ひ)に異(け)に痩(や)せぬ人に知らえず
2929
宵々(よひよひ)に我(あ)が立ち待つにけだしくも君(きみ)来(き)まさずは苦しかるべし
2930
生ける世に恋といふものを相(あひ)見ねば恋のうちにも我(あ)れぞ苦しき
2931
思ひつつ居(を)れば苦しもぬばたまの夜(よる)に至らば我(わ)れこそ行かめ
   

【意味】
〈2927〉思いわびて離れてしまったあの人の袖を、また枕としたなら、過ぎてしまった恋がまた乱れて起こってくるだろうか。

〈2928〉人はそれぞれ死んでいくらしい。私はあの女に恋し、そのため日に日に痩せていく。相手には恋していることも知られない。それで恋のために死んでいくだろう。

〈2929〉毎夜毎夜、戸口に立ってお待ちしていますが、もしあなたがおいでにならなければさぞかし苦しいでしょう。

〈2930〉生まれてからこれまで、恋というものを知らないので、実際に恋のさなかにいると、苦しくてたまらない。

〈2931〉あなたを思い続けていると苦しくてなりません。夜になったら私のほうから行きましょう。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2927の「うらぶれて」は、悲しみに心がしおれて、思いわびて。2928の「おのがじし」は、各々、銘々。「日に異に」は、日増しに。2929の「けだしくも」は、もしかして。2930の「相見ねば」は、知らないので。2931の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。

巻第12-2932~2936

2932
心には燃えて思へどうつせみの人目を繁(しげ)み妹(いも)に逢はぬかも
2933
相(あひ)思はず君はいませど片恋(かたこひ)に我(あ)れはぞ恋ふる君が姿に
2934
あぢさはふ目は飽(あ)かざらね携(たづさは)り言(こと)とはなくも苦しくありけり
2935
あらたまの年の緒(を)長くいつまでか我(あ)が恋ひ居(を)らむ命(いのち)知らずて
2936
今は吾(あ)は死なむよわが背(せ)恋すれば一夜(ひとよ)一日(ひとひ)も安けくもなし
  

【意味】
〈2932〉心が燃えるほど、あの娘のことを思っているのに、人の目がうるさくて逢えないでいる。

〈2933〉私のことなど思って下さらないでしょうが、片恋に苦しみながら私は恋い焦がれています、あなたのお姿に。

〈2934〉近くでいつもお見かけしていながら、手を取り合ってお話できないのは苦しいことです。

〈2935〉長い年月、いつまで私は恋い焦がれていなければならないのか。命のほども知らないで。

〈2936〉もう私は死んでしまうほうがましです。あなたを恋すれば昼は昼じゅう、夜は夜じゅう心の休まることがありません。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2932の「うつせみの」は「人」の枕詞。2933の「相思ふ」は、お互いに思い合うこと。2934は女の歌で、いつも近くで見慣れていて憎からず思っている男が、自分に対してまったく懸想の気配を見せないのを、心寂しく思っています。「あぢさはふ」は語義未詳ながら「目」にかかる枕詞。「目は飽かあらね」は、見る目には飽いているが、の意。

 2935の「あらたまの」は「年」の枕詞。2936を秀歌の一つにあげた斎藤茂吉は、「女が男にうったえる言葉としては、甘くて女の声そのままを聞くようなところがある。そういう直接性が私の心を牽いたためであるが、後世の恋歌になると、文学的に間接に堕ち却って悪くなった」と言っています。

巻第12-2937~2941

2937
白栲(しろたへ)の袖(そで)折り返し恋ふればか妹(いも)が姿の夢(いめ)にし見ゆる
2938
人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み我(わ)が背子(せこ)を目には見れども逢ふよしもなし
2939
恋と言へば薄(うす)きことなり然(しか)れども我(わ)れは忘れじ恋ひは死ぬとも
2940
なかなかに死なば安(やす)けむ出づる日の入(い)る別(わき)知らぬ我(わ)れし苦しも
2941
思ひ遣(や)るたどきも我(わ)れは今はなし妹(いも)に逢はずて年の経(へ)ぬれば
 

【意味】
〈2937〉白栲の袖を折り返して恋い焦がれて寝たせいか、あの子の姿が夢に出てきた。

〈2938〉人の噂がうるさくて煩わしいので、あの方を目には見ているけれど、直接逢う手立てがない。

〈2939〉「恋」と言葉に出してしまえば、薄っぺらなものに聞こえます。けれども、私は恋に焦がれて死ぬことがあっても、あなたのことを忘れません。

〈2940〉いっそのこと死んでしまえば気楽だろう。太陽がいつ出てきていつ沈んだのか分からずに暮らす私は、苦しくてたまらない。

〈2941〉憂いの気持ちを晴らす手だては今の私にはない。あの子に逢えないまま年月がどんどん経っていくので。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2937の「白栲の」は「袖」の枕詞。「袖折返し」は、袖口を折り返して寝ると、思う人を夢に見ることができるという信仰をいっています。2938の「人言を繁み」は、人の噂が激しいので。「こちたみ」は、煩わしいので。2940の「なかなかに」は、かえって、むしろ。「別」は区別、けじめ。2941の「思ひ遣る」は、憂いを晴らす。「たどき」は、方法、手段。

巻第12-2942~2946

2942
我(わ)が背子(せこ)に恋ふとにしあらしみどり子の夜泣きをしつつ寐(い)ねかてなくは
2943
我(わ)が命(いのち)し長く欲(ほ)しけく偽(いつは)りをよくする人を捕(とら)ふばかりを
2944
人言(ひとごと)を繁(しげ)みと妹(いも)に逢はずして心のうちに恋ふるこのころ
2945
玉梓(たまづさ)の君が使(つかひ)を待ちし夜(よ)のなごりぞ今も寐(い)ねぬ夜(よ)の多き
2946
玉桙(たまほこ)の道に行き逢ひて外目(よそめ)にも見ればよき子をいつとか待たむ
  

【意味】
〈2942〉あの人に心底恋い焦がれているらしい。まるで赤子のように夜泣きして寝られないのは。

〈2943〉私の命は長くあって欲しい。嘘をついてだましたあの男をいつか掴まえて懲らしめるために。

〈2944〉人の噂がうるさいので、あの子には逢わないようにし、心の中で恋い焦がれているばかりのこのごろだ。

〈2945〉あなたからのお使いを、いつもお待ちしていた夜の名残に違いありません。今でもなお寝られない夜が多いのは。

〈2946〉道で行き逢って、外目ながら見てもきれいな子を、いつわが物になるかと思って待とう。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2942の「あらし」は「あるらし」の転で、「らし」は、根拠に基づく推定。「みどり子」は、3歳くらいまでの子供、赤子。「寐ねかてなくは」の「かてなく」は「かてぬ」の名詞形で、~できない、~しにくい。2943の「欲しけく」は、形容詞「欲し」の名詞形。

 2945の「玉梓の」は「使」の枕詞。梓の木などに手紙を結びつけて使者が相手に届けたことから用いられるようになった枕詞。恋人と別れた後もなお残る生活習慣というのは、なかなかに切ないものです。この歌は、巻第11-2588の「夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりぞ今も寐寝かてにする」が変化した歌とみられています。窪田空穂は、本歌の庶民的なものを、貴族的な生活様式に合わせようとしたものだろうと言っています。

 2946の「玉桙の」は「道」の枕詞。掛かる理由は未詳。「外目」は、無関係として見ること、それとなく見ること。

巻第12-2947~2950

2947
思ふにし余りにしかば術(すべ)を無み我(われ)は言ひてき忌(い)むべきものを
2948
明日の日はその門(かど)行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまた著(しる)けむ
2949
うたて異(け)に心いぶせし事計(ことはか)りよくせ我(わ)が背子(せこ)逢へる時だに
2950
我妹子(わぎもこ)が夜戸出(よとで)の姿見てしより心(こころ)空(そら)なり地(つち)は踏めども
  

【意味】
〈2947〉思いに堪えかねて、どうしようもなくて私は言ってしまいました。口にしてはならない相手の名を。

〈2948〉明日はあなたの門の前を通りましょうから、出て見てください。恋いやつれている姿がはっきり分かるでしょう。
 
〈2949〉いつもと違ってますますうっとうしい気分です。あなた、何か心が晴れるように工夫してください。せめてこうして逢っているときくらい。

〈2950〉いとしいあの子が、夜、戸を開けて外に出てくる姿を見てからというもの、心は上の空だ、土は踏んでいるけれども。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2947の「術を無み」は、どうしようもないので。「忌むべきもの」は、言ってはならないことで、ここでは相手の名を言うこと。上代の人々にとって、名前は実体そのものであり、軽々しく恋人の名を口にすればその恋人に災難が及ぶかもしれない、と恐れていたのだといいます。2948の「あまた」は、甚だ。「著けむ」は、著しかろう、はっきりしていよう。
 
 2949の「うたて異に」は、妙なことにいつもと違って、「いぶせし」は、気分が晴れない、「事計り」は、ここでは配慮、はからい。2950の「夜戸出の姿」は、夜に戸を開けて外に出てくる女、つまり男を待っている女の姿のこと。思いをかけている女の、大変ショッキングな場面に出くわした時の男の歌でしょうか。頭が真っ白になって心が上の空になったと言っています。

巻第12-2951~2955

2951
海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し結びし紐(ひも)を解(と)かまく惜しも
2952
吾が齢(よはひ)し衰(おとろ)へぬれば白細布(しろたへ)の袖のなれにし君をしぞ思ふ
2953
君に恋ひ我(あ)が泣く涙 白栲(しろたへ)の袖さへ漬(ひ)ちてせむすべもなし
2954
今よりは逢はじとすれや白栲(しろたへ)の我(わ)が衣手(ころもで)の干(ふ)る時もなき
2955
夢(いめ)かと心惑ひぬ月まねく離(か)れにし君が言(こと)の通へば
 

【意味】
〈2951〉あの海石榴市の里の道のたくさん交わる辻で、あちこち歩き回り出逢ったあの人が、結んでくれた紐を解くのは、あまりに惜しいことだ。

〈2952〉おれも年を取って体も衰えてしまったが、今しげしげと通わなくても、長年なれ親しんだお前のことが思い出されてならない。
 
〈2953〉あなたを恋しく思うあまり、泣きこぼれる私の涙は着物の袖までも濡らし、どうしようもありません。

〈2954〉もうこれからは逢わないというのですか。そう思うわけではないのに、私の着物の袖は乾く時がありません。

〈2955〉夢でないかと心が戸惑いました。幾月も通ってこなかったあなたの便りがあったので。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2951の「海石榴市」は、奈良県桜井市金屋にあったとされます。古代の市場は樹木との関係が深く、海石榴(つばき)は山茶花(さざんか)のことです。市は山人がやって来て鎮魂していく所でもあり、その山人が携えてきた杖が、おそらく山茶花の杖だったのでしょう。また、市は歌垣(かがい)が行われる所でもありました。つまり、ここに集まった男女が、好む相手を見つけて乱交したわけです。できあがったカップルは他国や別の村の男女どうしであり、別れるときに相手が結んでくれた紐は、それぞれの血筋で独特の結び方があって、それを解くのが惜しいという気持ちを歌っています。「八十の」は、多くの。「衢」は、道が分かれる所。「立ち平し」は、平らにし。大勢の男女が踏みつけて平らにしたことを言っています。

 2952の「白細布の」は「袖」の枕詞。「白細布の袖の」は、「なれ」を導く序詞。「なれにし」は「馴れ」と「萎(な)れ」の掛詞になっており、馴れ親しんだ意と、使用して馴染んで皺くちゃになる有様を言っています。年衰えた男が長年連れ添った妻を有り難く思っている歌と解しましたが、「君」とあるので女が男を思う歌とも取れます。2954の「白栲の」は「衣」の枕詞。2955の「まねく」は、数が多く。関係が終わったとばかり思っていた相手から、突然連絡が来て当惑しています。

巻第12-2956~2960

2956
あらたまの年月(としつき)かねてぬばたまの夢(いめ)に見えけり君が姿は
2957
今よりは恋ふとも妹(いも)に逢はめやも床(とこ)の辺(へ)去らず夢(いめ)に見えこそ
2958
人の見て言(こと)とがめせぬ夢(いめ)にだにやまず見えこそ我(あ)が恋やまむ
2959
うつつには言(こと)も絶えたり夢(いめ)にだに継ぎて見えこそ直(ただ)に逢ふまでに
2960
うつせみの現(うつ)し心(ごころ)も我(わ)れはなし妹(いも)を相(あひ)見ずて年の経(へ)ゆけば
  

【意味】
〈2956〉長い年月の間ずっと、夜ごとの夢に見えていました、あなたのお姿は。

〈2957〉今から先はいくら焦がれてもあなたにじかに逢えようか。せめてわが夜の床のあたりを離れず、いつも夢に出てきてほしい。

〈2958〉人が見て、とがめない夢の中だけでも見えてほしい。そうすれば、私の恋の苦しみも休まるだろう。

〈2959〉現実には連絡も途絶えてしまった。せめて夢にだけでも続けて見えてほしい、じかに逢うまで。

〈2960〉この世に生きている身としての正気も、もう私にはない。あの子に逢えないまま年月が経ってしまったので。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2956の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年月かねて」は年月にわたって。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。2957の「逢はめやも」は反語。「床の辺」は床のほとり。「こそ」は、願望の助詞。旅立つ男が、その妻に訴えた歌のようです。2958の「言とがめ」は、言い咎めること。「夢にだに」は、夢にだけでも。「継ぎて」は、続けて。2960の「現し心」は、正気な心。

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作者未詳歌

『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
 
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。

各巻の概要

【巻第一】
 雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
【巻第二】
 仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様に部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
【巻第三】
 巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。
 
【巻第四】
 巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
【巻第五】
 巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
【巻第六】
 巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
【巻第七】
 雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいるため、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
【巻第八】
 四季に分類された雑歌と相聞歌。舒明朝~天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
【巻第九】
 おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立て。
 
【巻第十】
 巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
【巻第十一】
 『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十ニ】
 「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十三】
 作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
【巻第十四】
 主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
【巻第十五】
 物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
【巻第十六】
 巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
【巻第十七~二十】
 巻第十七~二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。

枕詞あれこれ

神風(かむかぜ)の
「伊勢」に掛かる枕詞。日本神話においては、伊勢は古来暴風が多く、天照大神の鎮座する地であるところからその風を神風と称して神風の吹く地の意からとする説や、「神風の息吹」のイと同音であるからとする説などがある。

草枕
「旅」に掛かる枕詞。旅にあっては、草を結んで枕とし、夜露にぬれて仮寝をしたことから。

韓衣(からごろも)
「着る」「袖」「裾」など、衣服に関する語に掛かる枕詞。「韓衣」は、中国風の衣服で、広袖で裾が長く、上前と下前を深く合わせて着る。「唐衣」とも書く。

高麗錦(こまにしき)
「紐」に掛かる枕詞。「高麗錦」は、高麗から伝わった錦または高麗風の錦で、高麗錦で紐や袋を作ったところから。

隠(こも)りくの
大和国の地名「泊瀬(初瀬)」に掛かる枕詞。泊瀬の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから。

さねかづら
「後も逢ふ」に掛かる枕詞。「さねかづら」は、つる性の植物で、つるが分かれてはい回り、末にはまた会うということから。

敷島の/磯城島の
「大和」に掛かる枕詞。「敷島」は、崇神天皇・欽明天皇が都を置いた、大和国磯城 (しき) 郡の地名で、磯城島の宮のある大和の意から。

敷妙(しきたへ)の
「枕」に掛かる枕詞。「敷妙」は、寝床に敷く布団の一種。寝具であるところから、他に「床」「衣」「袖」「袂」「黒髪」などにも掛かる。

白妙(しろたへ)の
白妙で衣服を作るところから、「衣」「袖」「紐」など衣服に関する語に掛かる枕詞。また、白妙は白いことから「月」「雲」「雪」「波」など、白いものを表す語にも掛かる。

高砂の
「松」「尾上(をのへ)」に掛かる枕詞。高砂(兵庫県)の地が尾上神社の松で有名なところから。同音の「待つ」にも掛かる。

玉櫛笥(たまくしげ)
玉櫛笥の「玉」は接頭語で、「櫛笥」は櫛などの化粧道具を入れる箱。櫛笥を開けるところから「あく」に、櫛笥には蓋があるところから「二(ふた)」「二上山」に、身があるところから「三諸(みもろ)」などに掛かる枕詞。

玉梓(たまづさ)の
「使ひ」に掛かる枕詞。古く便りを伝える使者は、梓(あずさ)の枝を持ち、これに手紙を結びつけて運んでいたことから。また、妹のもとへやる意味から「妹」にも掛かる。

玉鉾(たまほこ)の
「道」「里」に掛かる枕詞。「玉桙」は立派な桙の意ながら、掛かる理由は未詳。

たらちねの
「母」に掛かる枕詞。語義、掛かる理由未詳。

ちはやぶる
「ちはやぶる」は荒々しい、たけだけしい意。荒々しい「氏」ということから、地名の「宇治」に、また荒々しい神ということから「神」および「神」を含む語や神の名に掛かる枕詞。

夏麻(なつそ)引く
「夏麻」は、夏に畑から引き抜く麻で、夏麻は「績(う)む」ものであるところから、同音で「海上(うなかみ)」「宇奈比(うなひ)」などの「う」に掛かる枕詞。また、夏麻から糸をつむぐので、同音の「命(いのち)」の「い」に掛かる。

久方(ひさかた)の
天空に関係のある「天(あま・あめ)」「雨」「空」「月」「日」「昼」「雲」「光」などにかかる枕詞。語義、掛かる理由は未詳。

もののふの
もののふ(文武の官)の氏(うぢ)の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。

百敷(ももしき)の
「大宮」に掛かる枕詞。「ももしき」は「ももいしき(百石木」が変化した語で、多くの石や木で造ってあるの意から。

八雲(やくも)立つ
地名の「出雲」にかかる枕詞。多くの雲が立ちのぼる意。

若草の
若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などに掛かる枕詞。

古典文法

係助詞
助詞の一種で、いろいろな語に付いて強調や疑問などの意を添え、下の術語の働きに影響を与える(係り結び)。「は・も」の場合は、文節の末尾の活用形は変化しない。
〔例〕か・こそ・ぞ・なむ・や

格助詞
助詞の一種で、体言やそれに準じる語に付いて、その語とほかの語の関係を示す。
〔例〕が・に・にて・の

間投助詞
助詞の一種で、文中や文末の文節に付いて調子を整えたり、余情や強調などの意味を添える。
〔例〕や・を

接続助詞
助詞の一種で、用言や助動詞に付いて前後の語句の意味上の関係を表す。
〔例〕して・つつ・に・ば・ものから

終助詞
助詞の一種で、文末に付いて、疑問・詠嘆・願望などを表す。
〔例〕かし・かな・な・なむ・ばや・もがな

副助詞
助詞の一種で、さまざまな語に付いて、下の語の意味を限定する。
〔例〕さへ・し・だに・

助動詞
用言や体言に付いて、打消しや推量などのいろいろな意味を示す。

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