巻第12-2864~2867
2864 我(わ)が背子(せこ)を今か今かと待ち居(を)るに夜(よ)の更けゆけば嘆きつるかも 2865 玉釧(たまくしろ)まき寝(ぬ)る妹もあらばこそ夜(よ)の長けくも嬉しかるべき 2866 人妻に言ふは誰(た)が言(こと)さ衣(ごろも)のこの紐(ひも)解けと言ふは誰が言(こと) 2867 かくばかり恋ひむものぞと知らませばその夜はゆたにあらましものを |
【意味】
〈2864〉あの方がお越しになるのを今か今かとお待ちしているうちに、どんどん夜が更けてきて、つい溜息をついてしまった。
〈2865〉手枕を交わして寝るいとしい子がいてくれたなら、夜が長いのも、かえって嬉しいことだろうに。
〈2866〉人妻である私に言い寄るのは誰のおことば? 下着の紐を解いて寝ようと言い寄るのは誰のおことば?
〈2867〉これほど恋しくなるのだと分かっていたなら、あの夜はもっとゆっくりしていればよかったのに。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」で、先に『人麻呂歌集』出典の歌が並び、それに続いて作者不明の歌を同じ部を立てて集めたもの。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」歌に対応する、相聞に属する歌の、表現形式による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。
2864は、夫の訪れを待つ気分が失望に変わってしまったことを嘆く妻の歌で、そのまま分かる平明な歌です。「今か今かと」は、もう来るかもう来るかと、もどかしく待つさま。「更けゆけば」の原文「夜更深去者」で、ヨノフケヌレバと訓むものもあります。2865の「玉釧」は、玉を付けてある腕輪で、手に巻くところから「まき」の枕詞。「まき寝る」は、腕に抱いて寝る。「長けく」は「長し」のク語法で名詞形。「嬉しかるべき」の「べき」は、上の「こそ」の係り結びで連体形。秋の夜長に一人寝をしている男の嘆きの歌です。
2866の「誰が言」は、どういう人の言葉なのか、との詰問。「さ衣」の「さ」は、接頭語。「紐」は、下着の紐。紐を結び合うのは、夫婦や恋人同士の愛の行為であり、「紐解け」は、共寝をしようという誘いかけになります。人妻である自分への夫以外の男からの誘いを拒みつつ、からかっている歌とされますが、それとも「嫌よ嫌よも好きのうち」でありましょうか。人妻とはいえ、夫婦同棲していず、その関係も秘密だったため、このように他の男から求められることはよくあったものとみられます。「言ふは誰が言」の第2句と第5句の繰り返しが民謡的であることから、宴などの場で演じられた作かもしれないとの見方があります。
2867の「知らませば・・・あらましものを」の「ませば・・・まし」は反実仮想で、もし~だったら・・・だろうに、の意。「ゆたに」は、ゆっくりと。「ものを」は、逆接の終助詞で「~のに」の意。関係を結んだばかりの女と別れた後の男の歌で、人目を忍ぶがためにそそくさと帰ってきてしまったようで、そのことを後悔しています。
巻第12-2868~2872
2868 恋ひつつも後も逢はむと思へこそ己(おの)が命(いのち)を長く欲(ほ)りすれ 2869 今は我(あ)は死なむよ我妹(わぎも)逢はずして思ひわたれば安けくもなし 2870 我(わ)が背子(せこ)が来(こ)むと語りし夜(よ)は過ぎぬしゑやさらさらしこり来(こ)めやも 2871 人言(ひとごと)の讒(よこ)しを聞きて玉桙(たまほこ)の道にも逢はじと言へりし我妹(わぎも) 2872 逢はなくも憂(う)しと思へばいや増しに人言(ひとごと)繁(しげ)く聞こえ来るかも |
【意味】
〈2868〉こうして恋い焦がれていれば後にはきっと逢えると思うからこそ、自分の命を長かれと思っている。
〈2869〉私は死んでしまいそうだ。愛しいお前に逢わないまま思い続けていると、心が安らぐ時がない。
〈2870〉あの人がやって来ると約束した夜は空しく過ぎてしまった。ええい、もう今さら、間違ってもやって来るものか。
〈2871〉誰かが言う私の悪口を真に受けてしまって、道で逢うことさえ嫌だと言っていたあの子よ。
〈2872〉逢えないでいるのは辛いと思っているのに、さらに人の悪口が激しく聞こえてくる。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2868の「恋ひつつも」は、片恋をしながらも。「後も逢はむと」の原文「後將相跡」で、ノチニアハムトと訓むものもあります。「思へこそ」は「思へばこそ」の意。「欲りすれ」は、上の「こそ」の係り結びで已然形。佐佐木信綱はこの歌について、「未来に恋の成就の望みをかけて、悩みの中にもおのれの身をいたわりつつ生きる人の声である」と述べています。
2869の「今は我は」は、句中に単独母音を含む場合はなるべく字余り句にすべしという説に従えば、イマハアレハと訓みます。「安けく」は「安し」のク語法で名詞形。安らかなこと。恋い焦がれて死にそうだというのは、恋の苦しみを強調するのに、相聞歌に多く見られ、相手の反応を窺うために言う常套表現だとされます。
2870の「しゑや」は、ちぇっ、今さらもう、のように吐き捨てる気持ちを表す感動詞。「さらさら」は、今さら。「しこる」の語義は諸説あるものの、ここは、間違う、やり損なう意としています。「やも」は、反語。国文学者の小野寛はこの歌について、次のように述べています。「3句目までは男の約束を信じて待っていた、その夜が明けてゆく。その待ちあぐんでいる気持が坦々と歌われて、句切れ。句切れから調子は一変して、男の不実を面罵する激しい調子が、その俗語めいた表現からよく感じられる。女の歌とすれば異色の作だろう」。
2871の「人言」は、他人の言葉。「讒し」は、動詞「讒す」の名詞形で、事実を曲げての悪口。「玉桙の」は「道」の枕詞。2872の「逢はなく」は「逢はず」のク語法で名詞形。「いや増しに」は、いよいよ激しさを増して。噂を警戒して女が逢わなくなり、それを辛く思っていると、さらに噂が激しくなったと嘆いています。
巻第12-2873~2877
2873 里人(さとびと)も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰(た)が名ならめや 2874 確かなる使(つか)ひをなみと心をぞ使ひに遣(や)りし夢(いめ)に見えきや 2875 天地(あめつち)に少し至らぬ大夫(ますらを)と思ひし我(わ)れや雄心(をごころ)もなき 2876 里(さと)近く家や居(を)るべきこの我(わ)が目の人目をしつつ恋の繁(しげ)けく 2877 何時(いつ)はなも恋ひずありとはあらねどもうたてこのころ恋し繁(しげ)しも |
【意味】
〈2873〉里の人も語り継いでほしい。ええい、もうどうでもいい、私が恋に苦しんで死ねば、あなたが原因で死んだのだと語りぐさになるでしょう。
〈2874〉頼りになる使いがないので、この私の心を使いに立てました。夢に私の姿が見えたでしょうか。
〈2875〉天地の大きさに少し足りないほどのますらおと自負していた私は、今は恋のために、雄々しい心もなくなってしまった。
〈2876〉里に近い家に住むものではありませんね。人目をはばかって気にしながらでは、いっそう恋心が募るばかりです。
〈2877〉いつといって恋しく思わない時はありませんが、この頃ますます恋い焦がれています。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2873の「里人」は、作者とその相手が住む里の人。「語り継ぐがね」の「がね」は、希望、予想を表す語。「よしゑやし」は、ええ、ままよ、どうでもいい。「誰が名ならめや」の「誰が名」は、あなた以外の誰の評判、「や」は反語で、評判に立つのは誰の名か、あなたの名だろう。作者の性別は不明ですが、片恋に悩み、噂を気にしてなかなか逢ってくれない相手に、自らの死をほのめかして脅迫している歌です。
2874の「確かなる使ひをなみと」は、頼りになる確かな使いがないゆえに。「心をぞ使ひに遣りし」の「ぞ」は係助詞で、「遣りし」はその結びの連体形。相手を思うとその人の夢に見えるとされていた俗信を踏まえています。男女どちらの歌とも取れますが、伊藤博は「使いもよこさないと文句を言ってきた女に対する男の弁解のように思われる」と言っています。
2875の「天地に少し至らぬ」は、天地の広大さに比べて少し足りない。「大夫」は、勇ましく立派な男子。「思ひし」のシは過去の助動詞で、今まではそう思ってきた。「我れや」の「や」は、疑問。「雄心」は、雄々しい心で、惚れた弱みから丈夫の誇りも失ってしまったと嘆いています。折口信夫が「男性の悲哀を直叙している。傑作」と評する一方、窪田空穂は「語の大きさに匹敵するだけの調べの強さがない」「内蔵する響きがない」と言っています。
2876の「家や居るべき」の「や」は、反語。「家居る」は、住まいする。「人目をしつつ」は他に例のない表現で、人目を憚りつつの意か。2877の「何時はなも」の「なも」は強意の助詞で、いつといって、いつの時でも。「恋ひずありとはあらねども」は、「アリを繰り返して、ないことを強調しています。「うたて」は、ますますひどく。
巻第12-2878~2882
2878 ぬばたまの寐(い)ねてし宵(よひ)の物思(ものも)ひに裂(さ)けにし胸(むね)はやむ時もなし 2879 み空行く名の惜(を)しけくも我(わ)れはなし逢はぬ日まねく年の経(へ)ぬれば 2880 うつつにも今も見てしか夢(いめ)のみに手本(たもと)まき寝(ぬ)と見るは苦しも [或本の歌の発句には『我妹子を』といふ] 2881 立ちて居(ゐ)てすべのたどきも今はなし妹(いも)に逢はずて月の経(へ)ゆけば [或本の歌には『君が目見ずて月の経ぬれば』といふ ] 2882 逢はずして恋ひわたるとも忘れめやいや日に異(け)には思ひ増すとも |
【意味】
〈2878〉共寝した夜を思い出しては、張り裂けてしまったこの胸の思いは、いっこうに休まる時もない。
〈2879〉空に広がるように世間に評判が立とうとも、我が名は惜しくはない。逢えない日が重なり年が経ってしまったので。
〈2880〉現実に今すぐにでも逢いたい。夢の中でばかり手枕を交わして寝るところを見るのはつらい。(愛しいわが妻を)
〈2881〉立ったり座ったりして、どう手を付けていいか今は分からない。あなたに逢わないまま月が替わってしまうので。
〈2882〉逢わないままで恋続けることはあっても、どうして忘れるなんてことがありましょうか。日増しに思いがつのることはあっても。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2878の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「寐ねてし宵の」の原文「宿而之晩乃」で、ネテノユフヘノ、ネテシユフヘノなどと訓むものもあります。「物思ひ」は、共寝の後なので物思いをすることはないはずですが、共寝をした夜のはげしい感動を言っているのか、あるいは、すぐにまた逢いたいと願う切なる物思いか。「やむ時もなし」は、休まる時もない。女に逢った翌朝、男から贈った、いわゆる後朝の歌です。
2879の「み空行く」の「み」は、接頭語。「名の惜しけく」の「惜しけく」は「惜し」のク語法で、名の惜しいこと。「まねく」は、多く。窪田空穂は、「独詠ともみえるが、妻に贈った歌であろう」とし、「名を重んじる心から、妻の許に通うことを憚り、年を越えるまでの久しい間を逢わずにいたが、さすがに恋情の切なるものを感じ、逢おうかという心を起こした歌」と述べています。
2880の「うつつに」は、現実に。「見てしか」の「てしか」は、願望。「手本まき寝」は、腕枕を交わして共寝する意。「見るは苦しも」は、見るのは苦しい。原文「見者辛苦毛」で、ミレバクルシモと訓むものもあります。窪田空穂は、「女に訴えた歌である。心としては類想の多いものであるが、この歌はそれを思わせない切実味をもっている」と評しており、伊藤博は、「現実と夢とを対照して、夢の逢いを苦しいとする歌は多いが、この歌はその中でも卓越している」と言っています。
2881の「立ちて居て」は、立ったり座ったりして。「すべ」は方法、「たどき」は手段で、どちらも打消しを伴って重複させて多く用いられています。「月の経ゆけば」の原文「月之經去者」で、ツキノヘヌレバと訓むものもあります。ヘヌレバだと、月が経過してしまった、の意になります。2882の「逢はずして恋ひわたるとも」の「とも」は、まだ起こっていない、成立していない条件を逆説的に仮定する接続助詞。「忘れめや」の「や」は、反語。「いや日に異に」は、いよいよ日増しに。「思ひ増すとも」の「とも」は、第2句の「とも」の繰り返し。疎遠にしている女から恨まれて、男が答えた歌かとされます。
巻第12-2883~2887
2883 外目(よそめ)にも君が姿(すがた)を見てばこそ我(あ)が恋やまめ命(いのち)死なずは [一には『命に向ふ我が恋やまめ』といふ ] 2884 恋ひつつも今日(けふ)はあらめど玉櫛笥(たまくしげ)明けなむ明日(あす)をいかに暮らさむ 2885 さ夜(よ)更けて妹(いも)を思ひ出(い)で敷(しき)たへの枕(まくら)もそよに嘆きつるかも 2886 人言(ひとごと)はまこと言痛(こちた)くなりぬともそこに障(さは)らむ我(わ)れにあらなくに 2887 立ちて居(ゐ)てたどきも知らず我(あ)が心(こころ)天(あま)つ空なり地(つち)は踏めども |
【意味】
〈2883〉遠目にもあなたのお姿を見ることができたなら、私の恋心は止むでしょう、命が絶えずにいたならば。(命がけの私の恋心もおさまるでしょう)
〈2884〉恋い焦がれつつも今日は何とか過ごせましょうが、一夜明けた明日はどうやって暮らしたらよいのでしょうか。
〈2885〉夜ふけにあの子を思い出して眠れず、枕がきしむほどに身もだえして嘆いている。
〈2886〉人の噂は確かにうるさくなってきたが、そんなことに妨げられる私ではないのに。
〈2887〉落ち着かなくて立ったりすわったりして、どうしてよいか分からず、私の心はまるで空にあるようです。地を踏んではいるのですけど。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2883の「外目」は、遠く離れて自分とは縁のないもののように見ること。「君が姿を見てばこそ」の「姿」の原文「光儀」で『文選』や『遊仙窟』などに見える、容光儀態の意の語。「儀」は立派な様子。「こそ」は、強めの係助詞。「我が恋やまめ」の「め」は「こそ」の結びで已然形。わが恋は止もう。「命死なずは」は、命が絶えずにいたならば。「は」は仮定条件を示す接続助詞バで、打消の助動詞ズに続くときは清音になります。夫に疎遠にされている女の歌とされます。
2884の「今日はあらめど」は、今日はいるだろうが、今日は過ごせようが。「玉櫛笥」は、蓋を開ける意で「明け」の枕詞。「明けなむ明日を」は、明けていくだろう明日を。これも夫に疎遠にされている女の訴えの歌で、類歌に「恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかに暮らさむ」(巻第10-1914)があります。
2885の「さ夜」の「さ」は、接頭語。「妹を思ひ出で」の原文「妹乎念出」で、イモヲオモヒデと訓むものもあります。オモヒイデと訓むのは、イの単独母音があれば字余りにすべきで、窮屈なオモヒデよりよいとの考えによるようです。「敷たへの」は「枕」の枕詞。「そよ」は、物が触れ合う音。男の歌で、夜更けに目を覚まし、愛しい妻を思って嘆息している歌です。
2886の「人言」は、人の噂。「言痛く」は、うるさく、わずらわしく。「そこに障らむ」の「そこ」は、上3句の内容のこと。「障らむ」は、妨げられるであろうところの。「あらなく」は「あらず」のク語法で名詞形。男が女に、将来を誓う心をもって贈った歌とされます。2887の「立ちて居て」は、立ったり座ったりして。「たどき」は、手段、手がかり。「空なり」は、ソラニアリの約。上2句も下3句も、それぞれ恋の歌の慣用句となっているもので、それら2つを繋ぎ合わせて一首としています。
巻第12-2888~2892
2888 世の中の人のことばと思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日を多み 2889 いでなぞ吾(あ)がここだく恋ふる我妹子(わぎもこ)が逢はじと言へることもあらなくに 2890 ぬばたまの夜(よ)を長みかも我(わ)が背子(せこ)が夢(いめ)に夢(いめ)にし見え還(かへ)るらむ 2891 あらたまの年の緒(を)長くかく恋ひばまこと我が命(いのち)全(また)からめやも 2892 思ひ遣(や)るすべのたどきも我(わ)れは無し逢はずてまねく月の経(へ)ぬれば |
【意味】
〈2888〉世間のありきたりの言葉と思わないでほしい。ほんとうに恋しくて仕方がなかったのです。逢えない日が多かったので。
〈2889〉さあ、何でこんなに私はひどく恋しく思うのか。別にあの子が逢わないなどと言ったこともないのに。
〈2890〉夜が長いせいでしょうか。愛しいあの人が、夢に幾度も見えては消えるのです。
〈2891〉長い年月、これほどに焦がれ続けていたならば、私の命はとても無事ではいられないでしょう。
〈2892〉思いを晴らす手段も手がかりも、私にはもうありません。逢えない日が重なり、月日が過ぎてゆくので。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2888の「思ほす」は「思う」の敬語。「まことぞ恋ひし」の「し」は係助詞「ぞ」の結びで連体形。まことに恋しいことだ。「多み」は「多し」のミ語法で、多いので。国文学者の小野寛は、「自分の恋心の真実一途であることを相手に説明している。説明せねばならない状況があわれである。恋していることの説明はしないでありたい」と述べています。
2889の「いで」は、驚きや嘆きを表す語。さあ、さてさて、いやはや。「ここだく」は、これほど甚だしく。「あらなく」は「あらず」のク語法で名詞形。自分のこのごろの恋心の激しさに、これはどうしたことかと、自らを顧みている歌です。2890の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜を長みかも」の「長み」は「長し」のミ語法で、夜が長いからだろうか。「夢に夢にし」は、「夢に」を重ねて幾度も夢に見ることを表現したもの。「し」は、強意の副助詞。「還るらむ」の「らむ」は、現在推量。独り寝の女性の嘆きの歌です。
2891の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒」は、年の続く意で添えた語。「全からめやも」の「全し」は、無事である、完全である。「めやも」の「め」は推量、「やも」は反語。男に疎遠にされている女の訴えですが、独泳とも取れます。2892の「思ひ遣る」は、心を晴らすこと。「すべ」は方法、「たどき」は、手段で、どちらも打消しを伴って重複させて多く用いられています。「まねく」は、多く。類例の多い歌であり、また2881歌の異伝だろうとも言われます。
巻第12-2893~2896
2893 朝(あした)去(ゆ)きて夕(ゆふへ)は来ます君ゆゑにゆゆしくも吾(あ)は嘆(なげ)きつるかも 2894 聞きしより物を思へば我が胸は破(わ)れて砕けて利心(とごころ)もなし 2895 人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み我妹子(わぎもこ)に去(い)にし月よりいまだ逢はぬかも 2896 うたがたも言ひつつもあるか我(わ)れならば地(つち)には落ちず空に消(け)なまし |
【意味】
〈2893〉朝はお帰りになっても、夕方にはまたおいでになるあなたであるのに、不吉なほどに私は嘆いています、待ちきれないのです。
〈2894〉噂に聞いて以来、その人に恋して物思いをしていますので、私の胸は破れて砕けて、理性で判断できる心もありません。
〈2895〉人の噂が激しくうるさいので、あの子に、先月以来いまだ逢いに行けずにいます。
〈2896〉何だってそんなにむきになって言いたてるのか。私なら地面に落ちて名を汚すことなく、空に消えるよ。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2893の「朝去きて」の原文「朝去而」で、アシタイニテと訓むものもあります。単独母音イを含む字余り句としてこちらがよいとする考え方です。「夕は来ます」の「来ます」は「来る」の敬語で、通い婚であることを示しています。夕に来て朝に去くと言わないのは、女が男の去った昼の時間帯に歌っているからです。「ゆゑに」は、にもかかわらず、なのに。「ゆゆし」は、忌まわしい、恐れ多い。「嘆きつるかも」の「かも」は、詠嘆の助詞。昼に男を思うのは禁忌とされたことからこのように言っています。しかし、このように歌えば禁忌を犯した災いから救われる、これが歌の呪力です。ただ、違う解釈もあって、夫を送り出す時にひどく嘆いたことを悔いているとする見方もあります。たとえば、もう二度と逢えないかのようなため息をついたことを縁起でもないと悔いている、のように。
2894の「聞きしより」は、相手の噂を聞いてからの意。ここの相手は、愛しい人とか恋人というのではなく、まだ見ぬ人のこと。「我が胸は破れて砕けて」は、心が千々に乱れることを誇張して言ったもの。「利心」は、しっかりした気持ち、理性の意。なお、この歌の「破れて砕けて」を本歌取りとしたのが、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも」の有名な歌です。実朝は、藤原定家から『万葉集』を贈られ、和歌の指導を受けて作歌に励みました。といっても京と鎌倉に離れていましたから、今でいう通信教育による師弟関係でした。
2895の「人言を繁み」の「繁み」は「繁し」のミ語法で、人の噂が激しくうるさいので。「言痛み」は「言痛し」のミ語法で、わずらわしいので。「人言を繁み言痛み」は慣用句となっており、集中に4例見られます。「去にし月」は、過ぎ去った月、先月、前の月。2896の「うたがたも」は語義未詳ながら、いちずに、むやみにの意ではないかとされます。「地に落つ」は、名を汚すこと。「消なまし」の「まし」は、反実仮想。これだけでは分かりにくい歌ですが、女から「二人の関係が噂になって、名を汚しそうだ」のように言ってきたのに対する返歌と見られています。
巻第12-2897~2900
2897 いかならむ日の時にかも我妹子(わぎもこ)が裳(も)引きの姿(すがた)朝に日(け)に見む 2898 ひとり居(ゐ)て恋ふるは苦し玉たすき懸(か)けず忘れむ事(こと)計(はか)りもが 2899 なかなかに黙(もだ)もあらましをあづきなく相(あひ)見そめても我(あ)れは恋ふるか 2900 我妹子(わぎもこ)が笑(ゑ)まひ眉引(まよび)き面影(おもかげ)にかかりてもとな思ほゆるかも |
【意味】
〈2897〉いったいいつの日になったら、あの子が裳裾を引いて歩く姿を、朝も昼も絶えず見られるようになるのだろうか。
〈2898〉ひとりで離れ恋い焦がれているのは苦しくてたまらない。心にもかけず忘れる何かよい方法があればよいのに。
〈2899〉かえって黙っていればよかったものを、不甲斐なくも、見初めて言葉をかけたばっかりに、恋に落ち苦しんでいる。
〈2900〉あの子の笑顔や眉が目の前にちらついて、無性に恋しくて仕方がないことよ。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2897の「いかならむ日の時にかも」の「かも」は疑問で、どういう日のどういう時にか。「裳引きの姿」は、女性が裳の裾を長く引いて歩む姿のことで、優美で魅力的なものとして言っています。「朝に日に」は「常に」ということを具象的に言ったもので、同棲することを意味しています。日をケと訓む場合は複数の日を表します。妻との同棲の日を心待ちに思う男の歌で、国文学者の小野寛は、「綿々たる思慕の情が上品に優美に表現されている」と評しています。
2898の「恋ふるは苦し」の原文「恋者辛苦」で、コフレバクルシと訓むものもあります。「玉たすき」は、美しいたすきの意で「懸け」の枕詞。「懸けず」は、相手のことを心にも懸けず。「事計り」は、計画。「もが」は、願望の助詞。2899の「なかなかに」は、かえって、いっそのこと。「黙もあらましを」は、黙っていればよかったのに。「あづきなく」は、不甲斐なく、どうにも仕方なく。「恋ふるか」の「か」は、感動の助詞。2900の「笑まひ」は、笑顔。「眉引き」は、黛(まゆずみ)で三日月形に描いた眉。「もとな」は、わけもなく、無性に。「思ほゆるかも」の「かも」は、詠嘆。
巻第12-2901~2905
2901 あかねさす日の暮れぬればすべをなみ千(ち)たび嘆きて恋ひつつぞ居(を)る 2902 吾(あ)が恋は夜昼(よるひる)別(わ)かず百重(ももへ)なす心し思へばいたもすべなし 2903 いとのきて薄(うす)き眉根(まよね)をいたづらに掻(か)かしめつつも逢はぬ人かも 2904 恋ひ恋ひて後も逢はむと慰(なぐさ)もる心し無くは生きてあらめやも 2905 いくばくも生けらじ命(いのち)を恋ひつつぞ我(あ)れは息づく人に知らえず |
【意味】
〈2901〉日暮れの頃になると、どうしようもなく、何度もため息をついて、あなたのことを恋しく思っています。
〈2902〉私があなたを思う恋心は、夜昼のけじめもなく幾重にも押し寄せてきてどうしようもありません。
〈2903〉とりわけ薄いこの眉をいたずらに掻かせるばかりで、いっこうに逢おうとしない人ですこと。
〈2904〉恋焦がれ続けていて、いつかまた逢えるだろうと、自分を慰める強い心を持っていないと、とても生きていけそうにありません。
〈2905〉いくらも生きられる命ではないのに、恋に苦しみながら溜息ばかりついている。思うあの人に知ってもらえずに。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2901の「あかねさす」は、茜(あかね)色に輝く昼の意で「日」にかかる枕詞。茜は「赤根」と表記される根の赤い植物で、これを緋色の染料と死、また薬にも用いられますが、植物として歌われた例はありません。「日の暮れぬれば」の原文「日之暮去者」で、ヒノクレユケバと訓むものもあります。「すべをなみ」は、どうしようもなく。男の訪れを待つやるせない気持を歌った女の歌で、佐佐木信綱は「内容は類型的であるが、淡々たる歌い方に類を見ないよい味がある」と評しています。
2902の「夜昼別かず」は、夜昼のけじめもなく。「心し」の「し」は、強意の副助詞。「百重なす」の「なす」は、~のように、~のような。「いたも」は、非常に。「すべなし」は、どうしようもない。窪田空穂は「説明の歌なので感味は少ない」としつつ、「この形を踏襲して、初句を『吾が恋は』とした歌は後世にも多い。基本的な形だからであろう」と言っています。
2903の「いとのきて」は「甚(いと)除(の)きて」の意で、取り分けて、特別に。「かも」は、詠嘆。眉が痒くなるのは恋人に逢える前兆とする信仰を踏まえています。「薄き眉根」と言っているのは、単に美しく描いた眉のことか、あるいは掻けば擦り切れてますます薄くなると自嘲的に言っているのでしょうか。窪田空穂は、これは老いということを具象的に言ったもので、もう年配の女性が疎遠にしている夫に訴える心かとも言っています。
2904の「恋ひ恋ひて」は、長い間恋い焦がれ続けて、の意。「心し無くは」の「し」は、強意の副助詞。「あらめやも」の「やも」は、反語。男女どちらの歌とも取れますが、国文学者の小野寛は「『恋ひ恋ひて』後に逢うことに命をかけるのは女の歌かと思われる」と言っています。2905の「いくばくも」は、下に否定の表現を伴い、いくらも~ない、の意。「生けらいじ命を」の「を」は逆接の接続助詞で、~なのにの意。「人に知らえず」は、相手に知られずに。片恋に苦しむ男の歌とされます。
巻第12-2906~2909
2906 他国(ひとくに)に結婚(よばひ)に行きて大刀(たち)が緒(を)もいまだ解かねばさ夜ぞ明けにける 2907 大夫(ますらを)の聡(さと)き心も今は無し恋の奴(やつこ)に我(あ)れは死ぬべし 2908 常(つね)かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計(ことはか)りせよ 2909 おほろかに我(わ)れし思はば人妻(ひとづま)にありといふ妹(いも)に恋ひつつあらめや |
【意味】
〈2906〉遠い他国まで妻どいに出かけて行ったが、腰に差した大刀の紐も解かぬうちに夜が明けてしまった。
〈2907〉立派な男子としての分別も今はなくしてしまった。恋の奴(やつこ)の手にかかって、私は死にそうだ。
〈2908〉いつもこんなに恋焦がれているのは苦しくてたまらない。暫くの間でも心が安まる手だてを教えてほしい。
〈2909〉いい加減に私が思いを寄せているのなら、人妻だというあなたに、こんなにも恋続けていようか、いはしない。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2906の「他国」は、自分の郷里よりやや離れた土地、異郷。「結婚(よばひ)」は、妻どい、求婚。妻問い婚の社会では男が女の家へ行って相手の名を呼ぶことから、一般に求婚することをヨバヒというようになったと言われています。「大刀が緒もいまだ解かねば」というのは、腰に吊っている太刀の緒を、家に入るとまずその緒を解くのを、それすらせずに、の意。「さ夜」の「さ」は、接頭語。『古事記』にある八千矛神(大国主神)の求婚の歌に、出雲から越の国に「よばひ」に行って「太刀が緒も未だ解かずて」その乙女の寝ている部屋の板戸を押したり引いたりしているうちに、雉や鶏が鳴いて夜が明けてしまったことが歌われており、この歌はそれを要約したものと見られています。
2907の「大夫」は、勇ましく立派な男子。「聡き心」は、理知分別のある心。「恋の奴」は、恋を貶めて擬人化したもの。「奴」は「家(や)つ子」で、ツは連体修飾の格助詞で、家に仕える最下層身分の奴婢のこと。大夫たる者が恋の虜になったことを自嘲している歌で、「恋の奴」という言い方は当時の人々に好まれたらしく、他の歌にもいくつか見られます(巻第11-2574、巻第16-3816)。
2908の「常かくし」の「し」は、強意の副助詞。いつもこのように、の意。「恋ふれば苦し」の原文「恋者辛苦」で、コフルハクルシと訓むものもあります。「しましく」は、暫くの間、少しの間。「事計り」は、計画。2909の「おほろかに」は、いい加減に、うわべだけで。「我れし思はば」の「し」は、強意の副助詞。「あらめや」の「や」は、反語。禁忌とされた人妻への張りつめた恋心と、自らを律する心の間で揺れる切ない心情が窺える歌です。
巻第12-2910~2914
2910 心には千重(ちへ)に百重(ももへ)に思へれど人目を多み妹に逢はぬかも 2911 人目(ひとめ)多み目こそ忍(しの)ぶれ少なくも心のうちに我(わ)が思はなくに 2912 人の見て言(こと)とがめせぬ夢(いめ)に我(わ)れ今夜(こよひ)至らむ宿(やど)閉(さ)すなゆめ 2913 いつまでに生(い)かむ命(いのち)ぞおほかたは恋ひつつあらずは死ぬるまされり 2914 愛(うつく)しと思ふ我妹(わぎも)を夢(いめ)に見て起きて探(さぐ)るに無きが寂(さぶ)しさ |
【意味】
〈2910〉心では幾重にも幾重にも恋しく思っているのに、人目が多くてあの娘に逢うことができない。
〈2911〉人目が多いので、直接逢うことはこらえているが、心の中ではちょっとやそっとの思いでいるわけではない。
〈2912〉人がうるさく咎め立てしない夢の中で、私は今夜あなたの所に行きます。決して戸を閉ざすことのないように。
〈2913〉いったいいつまで生きられる命だというのか。およそ恋い焦がれて生きているよりも、死んだ方がましだろう。
〈2914〉いとしいと思っている子の姿を夢に見て、起きて探っても、何も触れないのがつまらない。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2910の「千重に百重に」は、幾重にも重なる意の語を重ねて程度の甚だしいことを表現したもの。「人目を多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、人の目が多いので。「妹に逢はぬかも」の「かも」は、詠嘆。2911の「目こそ忍ぶれ」の「目」は「見え」の約で、逢うこと。「少なくも」は、下に打消を伴う強い否定。「思はなくに」は「思はず」のク語法の名詞形に「に」を添えたもの。ナクニ止めは詠嘆の意を表します。
2912の「人の見て」は、他人が見つけて。「言とがめ」は、咎め立て、詰問の意。「宿閉すなゆめ」は、戸を閉ざすな、決して。自分から夢の中に逢いに行くというのは、唐代の伝奇小説『游仙窟』にある「今宵戸ヲ閉ザスコトナカレ、夢ノ裏ニ渠(きみ)ガ辺リニ向ハム」の文章が背景にあるようです。大伴家持が坂上大嬢に贈る歌に「夕さらば屋戸開け設けて我待たむ夢に相見に来むといふ人を」(巻第4-744)があり、この歌に学んだのではないかとも言われます。
2913の「いつまでに」の「まで」の原文「左右」は「左右手」の略で、両手を「真手(まで)」と言ったのでそのマデの音を借りたもの。「おほかたは」は、大体は、ふつう、およそ。原文「凡者」で、オホヨソハと訓むものもあります。「恋ひつつあらずは」は、恋い続けているよりは。「死ぬるまされり」は、死ぬことの方がまさっている。原文「死上有」で、シナムマサレリと訓むものもあります。
2914の「愛しと」の原文「愛等」で、ウルハシトと訓むものもありますが、ウルハシは、男性、上司、貴人にを称える場合に用いられるのに対し、ウツクシは妻や子をいつくしみ思う心の場合に用いられることから、ここはウツクシトと訓む立場に従っています。「寂し」は、楽しくない、つまらない。『游仙窟』に「少時にして坐睡すれば、即ち夢に十娘を見る。驚き覚めて之をとれば、忽然として手を空しくす」とあるのに拠っているとされ、家持の歌にも「夢の逢ひは苦しかりけり覚きて掻き探れども手に触れねば」(巻第4-741)の類歌があります。
巻第12-2915~2919
2915 妹(いも)と言はば無礼(なめ)し畏(かしこ)ししかすがに懸(か)けまく欲しき言(こと)にあるかも 2916 玉勝間(たまかつま)逢はむといふは誰(たれ)なるか逢へる時さへ面隠(おもかく)しする 2917 うつつにか妹(いも)が来ませる夢(いめ)にかも我(わ)れか惑(まど)へる恋の繁(しげ)きに 2918 おほかたは何(なに)かも恋ひむ言挙(ことあ)げせず妹(いも)に寄り寝(ね)む年は近きを 2919 ふたりして結びし紐(ひも)をひとりして我(あ)れは解き見じ直(ただ)に逢ふまでは |
【意味】
〈2915〉妹(いも)と呼んだら無礼だし恐れ多いけれど、そうは言ってもはっきり口に出して言ってみたい言葉だ。
〈2916〉私に逢おうといったのは一体誰なのだろう、それなのに、せっかく逢ったのに顔を隠したりなんかして。
〈2917〉実際に彼女がやってきたのか、それとも夢なのか、あるいは私が取り乱しているのか、恋の激しさのために。
〈2918〉普通ならなぜこんなに恋い焦がれることがあろう。あれこれ言わずとも、あの子と寄り添って寝る年は近いのに。
〈2919〉二人で結んだ衣の紐を、一人で私は解いたりなんかしない、じかに逢うまでは。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2915の「無礼し」は、無礼だ。「畏し」は、恐れ多い。「しかすがに」は、しかしながら、そうはいうものの。「懸けまく」は「懸けむ」のク語法で名詞形。口に出して言うこと。「言にあるかも」の「言」は言葉、「かも」は詠嘆の助詞。身分の高い女性への片想いの歌と見られます。「妹(いも)」は『万葉集』の歌では概ね男性から親愛の情を込めて女性を呼ぶ、特に恋歌において一般化していた呼称に見えますが、この歌からは、やはり男性が女性を「妹」と呼ぶことには、特別な意味合いが込められていたことが分かります。
2916の「玉勝間」の「玉」は美称の接頭語で「勝間」は竹籠のこと。その蓋がしっくり合うことから「逢ふ」にかかる枕詞。「逢はむ」は、逢おうという自らの意志を表します。「誰なるか」は、他の誰でもなく相手であるのを、戯れてわざと疑いの形で言っているもの。「面隠し」は、恥じらいから顔を隠すこと。「面隠しする」と連体形で止めているのは、することよと余意を込めた言い方。この歌について斎藤茂吉は、「男女間の微妙な会話をまのあたり聞くような気持ちのする歌である。これは男が女に向かって言っているのだが、言われている女の甘い行為までが、ありありと目に見えるような表現である」と言っています。上の句と下の句を「逢ふ」で合わせて調子を整えており、窪田空穂は「明るく楽しい歌である。上流の教義ある階級から生まれた歌である」と言っています。
2917の「うつつ」は、現実。「来ませる」は「来る」の敬語で、男から女に敬語を用いている珍しい例。「夢にかも我れか惑へる」は上の「かも」と下の「か」の疑問が2つ重なっており、破格とされます。夢で妹に逢い、覚めた瞬間の半信半疑の心を言ったものとされますが、愛人である女性の意外な来訪を夢かとばかり驚喜した男の激情との見方もあるようです。この歌について作家の大嶽洋子は、「後世の伊勢物語の下地ではないかと思われるような物語性のある歌である。妹に対して『来ませる』などと敬語を使っているところは、伊勢物語第69段の斎宮と昔男との月夜の出来事を思わせる。夢に私が迷ったのか、それとも現実に恋人がやって来たのだろうかと複雑な現実と夢の世界の織りなす幻覚を詠っている。迷う男にとってどちらも真実の世界なのだろう」と述べています。
2918の「おほかたは」は、普通は、大体は。「何かも~む」は、反語。「言挙げ」は、思うことを言葉に出して言うこと。「妹に寄り寝む年は近きを」の解釈については、父母の許しを得て結婚できる日も近いこと、あるいは、地方官などの任期が満ちて都にいる妻に逢える日が近いことを言っているとも言われます。2919の「ふたりして結びし紐を」とあるのは、夫婦が離れる時には互いに下紐を結び交わし、逢った時に解き交わすという風習を背景にしての表現。一人で解くのは他人と関係することを意味します。「解きみじ」の「みじ」は、~してみる、ためしに~する意の補助動詞ミルの打消。
巻第12-2920~2924
2920 死なむ命(いのち)此(ここ)は思はずただしくも妹(いも)に逢はざる事をしぞ思ふ 2921 幼婦(をとめご)は同じ情(こころ)にしましくも止(や)む時も無く見むとぞ思ふ 2922 夕(ゆふ)さらば君に逢(あ)はむと思へこそ日の暮るらくも嬉(うれ)しかりけれ 2923 ただ今日(けふ)も君には逢はめど人言(ひとごと)を繁(しげ)み逢はずて恋ひわたるかも 2924 世の中に恋(こひ)繁(しげ)けむと思はねば君が手本(たもと)をまかぬ夜(よ)もありき |
【意味】
〈2920〉死ぬべき命だが、それは何とも思わない。ただ愛する人に逢えないことを辛く思う。
〈2921〉幼婦の私だって、あなたと同じで、しばらくも休むことなく、絶えずあなたとお逢いしたいと思っています。
〈2922〉夕方になるとあなたにお逢いできると思えばこそ、日が暮れるのも嬉しく思います。
〈2923〉今日すぐにでもあなたにお逢いしたいと思うけれど、人の噂がうるさいので、お逢いせずにいつまでも焦がれ続けていることです。
〈2924〉この人の世に、恋の苦しみがこんなに募るものだとは思わなかったので、あなたと共寝をしない夜もあった。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2920の「死なむ命」は、生命の本質としての死ぬべき命。「此は思はず」の原文「此者不念」で、コレハオモハズ、コレハオモハジなどと訓むものもあります。「ただしくも」は、ただしかし。原文「唯毛」で、タダニシモと訓むものもあります。妹に逢えないことだけが心を占めていて、ほかは何事も問題とならないと言っています。
2921の「幼婦は」について斎藤茂吉は、これは「わたくしは」というのと同じだが、客観的に「幼婦は」というのにかえって親しみがあるようであり、「幼婦」というからこの歌がおもしろい、と言っています。原文「幼婦者」で、タワヤメハと訓むものもあります。「同じ情」は、変わらない心と解するものもあります。「しましくも」は、しばらくの間も。前の歌に対する女の返歌とする見方がある一方、上掲の歌全体の解釈とは全く違い、男が幼い女の子を持つ女に贈った歌であり、幼い女の子をばあなたと同じ心で見よう(世話をしよう)のように解する説もあります。
2922の「夕さらば」は、夕方になると。「思へこそ」は、思えばこそ。「暮るらく」は「暮る」のク語法で名詞化したもの。「嬉しかりけれ」は、上の「こそ」の係り結びで已然形。窪田空穂は、期待通りにやって来た夫を妻が喜んで迎えた挨拶の歌で、明るい気分が流れていると評しています。2923の「ただ」は「今日」を強調する副詞で、すぐに今日でも、の意。「逢はめど」は、逢いたいけれども。「人言を繁み」は「人言繁し」のミ語法で、人の噂がうるさいので。「恋ひわたるかも」の「かも」は詠嘆で、恋い続けていることであるよ。
2924の「恋繁けむと」は、恋の苦しみがこんなに募るものだとは、恋というものがこんなに激しいものだとは。「君が手本をまかぬ夜もありき」は、あなたと共寝をしない夜もあった、の意。女が旅にある男を思う歌、あるいは故人を対象にした歌のようですが、窪田空穂は、「死ということには直接触れていないが、『世の中に』『君』『夜もありき』などの語は、明らかに故人を対象としてのものである」と述べています。
巻第12-2925~2926
2925 みどり子のためこそ乳母(おも)は求むと言へ乳(ち)飲めや君が乳母求むらむ 2926 悔(くや)しくも老いにけるかも我(わ)が背子(せこ)が求むる乳母(おも)に行かましものを |
【意味】
〈2925〉幼い子に乳をあたえるために乳母を求めるといいます。なのに、あなたは乳を飲むような幼児なのでしょうか。そうではないのに、私を乳母として求められるのですか。
〈2926〉残念なことに私はもう老いてしまいました。もっと若ければあなたの求める乳母として参りますのに、それもできません。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2925の「みどり子」は、3歳くらいまでの幼児のこと。『大宝令』の戸令では、3歳以下を「緑(男は緑児、女は緑女)」とせよと規定されていました。「求むと言へ」は、上の「こそ」の係り結びで已然形。求めると言います。「乳飲めや」は「乳飲めばや」の意で、疑問のヤは「乳求むらむ」にかかります。乳を飲むから乳母を求めるのであろうか。
2926の「悔しくも」の「も」は、詠嘆の助詞。「老いにけるかも」の「かも」も詠嘆で、上の「も」と呼応して詠嘆の意を強めています。「行かましものを」の「まし」は反実仮想で、「もし若かったならば」という仮説を補って解釈します。2首連作で、年下の若い男の求愛を受けた女の歌とされ、男の歌はありませんが、巧みに男の求婚を断っているものです。乳飲み子と乳母というほどに年の差をつけたところが面白くあります。
窪田空穂は、2925について、「歌としては、口頭語のような気やすさをもっているが、おのずから哀愁がある」と述べ、2926を「明らさまな嘆きと訴え」と述べていますが、自分が年を取っていることを悔しがることで相手の男を立てているようでもあります。ともあれ、実際にどれほど年が離れていたのか気になるところです。
巻第12-2927~2931
2927 うらぶれて離(か)れにし袖(そで)をまたまかば過ぎにし恋(こひ)い乱れ来(こ)むかも 2928 おのがじし人(ひと)死にすらし妹(いも)に恋ひ日(ひ)に異(け)に痩(や)せぬ人に知らえず 2929 宵々(よひよひ)に我(あ)が立ち待つにけだしくも君(きみ)来(き)まさずは苦しかるべし 2930 生ける世に恋といふものを相(あひ)見ねば恋のうちにも我(あ)れぞ苦しき 2931 思ひつつ居(を)れば苦しもぬばたまの夜(よる)に至らば我(わ)れこそ行かめ |
【意味】
〈2927〉思いわびて離れてしまったあの人の袖を、また枕としたなら、過ぎてしまった恋がまた乱れて起こってくるだろうか。
〈2928〉人はそれぞれ死んでいくらしい。私はあの女に恋し、そのため日に日に痩せていく。相手には恋していることも知られない。それで恋のために死んでいくだろう。
〈2929〉毎夜毎夜、戸口に立ってお待ちしていますが、もしあなたがおいでにならなければさぞかし苦しいでしょう。
〈2930〉生まれてからこれまで、恋というものを知らないので、実際に恋のさなかにいると、苦しくてたまらない。
〈2931〉あなたを思い続けていると苦しくてなりません。夜になったら私のほうから行きましょう。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2927の「うらぶれて」の「うら」は心で、悲しみに心がしおれて、思いわびての意。「離れにし袖」は、別れてしまった人の袖。袖をマクは、相手の袖を枕にする、すなわち男女共寝をすること。「過ぎにし恋い」の「い」は接尾語で、主格の体言について「それが」と強く示す助詞。「乱れ来むかも」の「かも」は、詠嘆。別れた男から再び関係を結ぼうといわれて思い悩んでいる女の歌、あるいはかつての恋人と再会してとまどっている歌とされます。
2928の「おのがじし」は集中ほかに例のない語で、各々、銘々の意とされます。「日に異に」の「異に」は程度が次第に強まっていく意を表し、日増しにの意。「人に知らえず」は、相手に知られず。男の歌で、相手に打ち明けない片恋の悩みに、衰えて死にそうだと嘆いています。笠女郎が家持に贈った「恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に」(巻第4-598)の歌は、この歌によったものと見られています。
2929の「宵々に」は、毎日日が暮れる頃に。「立ち待つ」は、戸口に立って待つ。「けだしくも」は、もし、もしかして。窪田空穂は、類想の多い歌としながら、「『苦しかるべし』というだけで、恨みに触れてゆかないところに特色がある。・・・女の心弱くなって来ていることが思われる」と述べています。2930の「生ける世」は、生きているこの世。「相見ねば」は、逢わないので、知らないので。「我れぞ苦しき」は、ゾ+連体形の係り結び。初めて恋を知った感慨で、女の歌かとされます。
2931の「思ひつつ」は、相手を思い続けていると。「苦しも」の「も」は、詠嘆の助詞。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜に至らば」は、夜になったなら。「我れこそ行かめ」は、コソ+已然形の係り結び。コソは、あなたが来ないなら、あるいはあなたが来なくても、いっそのこと私が、と「私」を強めています。男の来訪を待ちかねている女の歌で、恋しい相手を思いながらじっと待つ心情が、やがて「夜が来たら自分から行く」という積極的な思いへと転じる過程が歌われています。
巻第12-2932~2936
2932 心には燃えて思へどうつせみの人目を繁(しげ)み妹(いも)に逢はぬかも 2933 相(あひ)思はず君はいませど片恋(かたこひ)に我(あ)れはぞ恋ふる君が姿に 2934 あぢさはふ目は飽(あ)かざらね携(たづさは)り言問(ことと)はなくも苦しかりけり 2935 あらたまの年の緒(を)長くいつまでか我(あ)が恋ひ居(を)らむ命(いのち)知らずて 2936 今は吾(あ)は死なむよ我が背(せ)恋すれば一夜(ひとよ)一日(ひとひ)も安けくもなし |
【意味】
〈2932〉心が燃えるほど、あの娘のことを思っているのに、人の目がうるさくて逢えないでいる。
〈2933〉私のことなど思って下さらないでしょうが、片恋に苦しみながら私は恋い焦がれています、あなたのお姿に。
〈2934〉近くでいつもお見かけして見ていながら、手を取り合ってお話できないのは苦しいことです。
〈2935〉長い年月、いつまで私は恋い焦がれていなければならないのか。命の限りも知らないで。
〈2936〉もう私は死んでしまうほうがましです。あなたを恋すれば、夜は夜じゅう、昼は昼じゅう、心の休まることがありません。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2932の「うつせみの」は、元は現世の人という意味で「人」の枕詞。「人目を繁み」の「繁み」は「繁し」のミ語法で、人目が多いので。2933の「相思はず」は、お互いに愛し合っていないこと、片思い。「君はいませど」の原文「公者雖座」で、キミハマサメドと訓むものもあります。「我れはぞ恋ふる」の「我れはぞ」は、係助詞のハとゾを重ね、主格を提示し更に強く指示する言い方。「姿」の原文「光儀」で、『文選』や『遊仙窟』などに見える、容光儀態の意の語。
2934の「あぢさはふ」は語義未詳ながら「目」にかかる枕詞。「目は飽かざらね」は「目は飽かずあらねど」の約で、見る目には飽いているが、十分に見ているが、の意。「携り」は、手を取り合って。「言問はなくも」は、言葉を交わせないのも。原文「不問事毛」で、トハレヌコトモと訓んで、言い寄られないことも、と解する説があります。「苦しかりけり」の「けり」は、詠嘆。男女どちらの歌とも取れ、いつも近くで見慣れていて憎からず思っている相手と親しく言葉を交わせないのを悲しんでいる男の歌、あるいは自分に対して全く懸想の気配を見せないのを心寂しく思っている女の歌などとされます。
2935の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒」は、年の長く続くことを緒に見立てていう語。「命知らずて」は、命の限りあることも知らないで、限りある命の終わりがいつ来るとも知らないで。2936の「一夜一日」は、集中唯一の表現。夜を先に言っているのは、日没から新しい一日が始まるという考え方によると見られます。「安けく」は「安し」のク語法で名詞形。安らかなこと。この歌を秀歌の一つにあげた斎藤茂吉は、「女が男にうったえる言葉としては、甘くて女の声そのままを聞くようなところがある。そういう直接性が私の心を牽いたためであるが、後世の恋歌になると、文学的に間接に堕ち却って悪くなった」と言っています。
巻第12-2937~2941
2937 白栲(しろたへ)の袖(そで)折り返し恋ふればか妹(いも)が姿の夢(いめ)にし見ゆる 2938 人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み我(わ)が背子(せこ)を目には見れども逢ふよしもなし 2939 恋ふと言へば薄(うす)きことなり然(しか)れども我(わ)れは忘れじ恋ひは死ぬとも 2940 なかなかに死なば安(やす)けむ出づる日の入(い)る別(わき)知らぬ我(わ)れし苦しも 2941 思ひ遣(や)るたどきも我(わ)れは今は無し妹(いも)に逢はずて年の経(へ)ぬれば |
【意味】
〈2937〉白栲の袖を折り返して恋い焦がれて寝たせいか、あの子の姿が夢に出てきた。
〈2938〉人の噂がうるさくて煩わしいので、あの方を目には見ているけれど、直接逢う手立てがない。
〈2939〉「恋う」と言うと、薄っぺらで通りいっぺんの言葉に聞こえます。けれども、私は恋に焦がれて死ぬことがあっても、あなたのことを忘れません。
〈2940〉いっそのこと死んでしまえば気楽だろう。太陽がいつ出てきていつ沈んだのか分からずに暮らす私は、苦しくてたまらない。
〈2941〉憂いの気持ちを晴らす手だては今の私にはない。あの子に逢えないまま年月がどんどん経っていくので。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2937の「白栲の」は「袖」の枕詞。「袖折返し」は、袖口を折り返して寝ると、思う人を夢に見ることができるという俗信をいっています。「恋ふればか」の「か」は疑問で、恋ふるからかの意。「夢にし見ゆる」の「し」は、強意の副助詞。
2938の「人言を繁み」は、人の噂が激しいので。「言痛み」は、煩わしいので。原文は「毛人髪三」となっており、毛人は蝦夷を指し、その髭が濃くて、見た目にうるさいゆえの当て字(戯訓)だといいます。この上2句は慣用句になっているものです。「逢ふよしもなし」は、逢う方法もない意で、二人だけで逢う、共寝をすることを言っています。
2939の「恋ふと言へば」の原文「恋云者」で、コヒトイヘバと詠むものもあります。コヒではなくコフとする立場からは、「恋」を名詞にすると抽象的な表現になり、ここはあなたを思うという意味で「恋ふ」という動詞にした方が適切だと説かれます。「恋ひは死ぬ」は「恋ひ死ぬ」に係助詞の「は」が挿入された形で、「恋ひ」を強く提示しているものです。武田祐吉は、「表現に屈折があって、一ふしある歌になっている」と、その文芸性を評しています。
2940の「なかなかに」は、かえって、むしろ。「別」は、区別、けじめ。「我れし」の「し」は、強意の副助詞。窪田空穂はこの歌を評し、「片恋の苦しさに、昼夜の差別もわからないというのである。『出づる日の入る別知らぬ』には新しさがあるが、同時に知性的な匂いがあって、悩みの表現にはふさわしくない」と述べています。2941の「思ひ遣る」は、憂いを晴らす。「たどき」は、方法、手段。類想の多い歌です。
巻第12-2942~2946
2942 我(わ)が背子(せこ)に恋ふとにしあらしみどり子の夜泣きをしつつ寐(い)ねかてなくは 2943 我(わ)が命(いのち)し長く欲(ほ)しけく偽(いつは)りをよくする人を捕(とら)ふばかりを 2944 人言(ひとごと)を繁(しげ)みと妹(いも)に逢はずして心のうちに恋ふるこのころ 2945 玉梓(たまづさ)の君が使(つかひ)を待ちし夜(よ)の名残(なごり)ぞ今も寐(い)ねぬ夜(よ)の多き 2946 玉桙(たまほこ)の道に行き逢ひて外目(よそめ)にも見ればよき子をいつとか待たむ |
【意味】
〈2942〉あの人に心底恋い焦がれているらしい。まるで赤子のように夜泣きして寝られないのは。
〈2943〉私の命は長くあって欲しい。嘘をついてだましたあの男をいつか捕えて懲らしめるために。
〈2944〉人の噂がうるさいので、あの子には逢わないようにし、心の中で恋い焦がれているばかりのこのごろだ。
〈2945〉あなたからのお使いを、いつもお待ちしていた夜の名残に違いありません。今でもなお寝られない夜が多いのは。
〈2946〉道で行き逢って、外目に見だけでもよい子なのを、いつわが物になるかと思って待てばいいのだろうか。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2942の「恋ふとにし」の「し」は、強意の副助詞。「あらし」は「あるらし」の転で、「らし」は根拠に基づく推定。「みどり子」は、3歳くらいまでの子供、赤子。「寐ねかてなくは」の「かてなく」は、不可能の意の動詞「かてぬ」のク語法による名詞形。なお上掲の解釈とは別に、子を抱える妻が、その父である夫に贈った歌であるとし、子が夜泣きをして寝られずにいるのは、きっとあなたを恋しがっているのでしょうと、足遠くなった夫の来訪を求めているものとの解釈があります。この立場をとる窪田空穂は、「婉曲に訴えようとしての思いつきとすれば、甚だ巧みなものである。あるいは緑児の夜泣きは、人を恋しがってのことだというような俗信があってのものかもしれぬ。それとしても巧みだといえる。淡くして心ある歌である」と述べています。
2943の「欲しけく」は、形容詞「欲し」のク語法で名詞形。「偽りをよくする人」は、嘘を上手に言う人。「捕ふばかりを」は、上掲の解釈とは別に、捕えて放さないようにしたいとするものもあります。「を」は、感動の助詞。佐佐木信綱は、「男に捨てられた女が、男に執りついてやる為に生きていたいというのであるが、凄味よりも辛辣な皮肉に聞こえるので、受取った男はその意味で悚然たるものがあったろう」と言い、伊藤博は「作者は才気ある女であろう」と言っています。
2944の「人言を繁み」は、人の噂がうるさいので、の意のミ語法。類想の多い一般的な歌です。なお、この歌の原文は、わずか12文字で「人言繁跡妹不相情裏恋比日」と書かれ、助辞を全く用いていないことから、『柿本人麻呂歌集』の略体の歌だとする見方もあるようです。
2945の「玉梓の」は「使」の枕詞。梓の木などに手紙を結びつけて使者が相手に届けたことから用いられるようになった枕詞とされます。「名残ぞ今も寐ねぬ夜の多き」の「ぞ」は係助詞で、「多き」はその結びの連体形。結句は、単独母音オを含む許容される8音の字余り句。恋人と別れた後もなお残る生活習慣というのは、なかなかに切ないものであり、佐佐木信綱は、「楽しかった当時の追憶に生きている女心があわれである」と述べています。この歌は、巻第11-2588の「夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりぞ今も寐寝かてにする」が変化した歌とみられており、窪田空穂は、本歌の庶民的なものを、貴族的な生活様式に合わせようとしたものだろうと言っています。
2946の「玉桙の」は「道」の枕詞。玉桙は、里の入り口や辻に立てられた陽石とする説、玉桙のちぶりの神、すなわち旅の安全を守る石神とする説があり、集中には「道」にかかるものが36例、「里」にかかるものが1例あります。「外目」は、無関係として見ること、それとなく見ること。「いつとか待たむ」の「か」は、疑問の係助詞。「待たむ」は、その結びの連体形。いつまた逢えると思って待てばいいのか、のように解するものもあります。道行く美しい少女を見初めた歌であり、明るく安らかな歌です。
巻第12-2947~2950
2947 思ふにし余りにしかば術(すべ)を無み我(われ)は言ひてき忌(い)むべきものを [或本の歌に曰く 門に出でて我が臥い伏すを人見けむかも] 2948 明日の日はその門(かど)行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまた著(しる)けむ 2949 うたて異(け)に心いぶせし事計(ことはか)りよくせ我(わ)が背子(せこ)逢へる時だに 2950 我妹子(わぎもこ)が夜戸出(よとで)の姿見てしより心(こころ)空(そら)なり地(つち)は踏めども |
【意味】
〈2947〉思いに堪えかねて、どうしようもなくて私は言ってしまいました。口にしてはならない相手の名を。
〈2948〉明日はあなたの門の前を通りましょうから、出て見てください。恋いやつれている姿がはっきり分かるでしょう。
〈2949〉ますますひどく、いつもと違ってうっとうしい気分です。あなた、何か心が晴れるように工夫してください、せめてこうして逢っている時くらいは。
〈2950〉いとしいあの子が、夜、戸を開けて外に出てくる姿を見てからというもの、心は上の空だ、土は踏んでいるけれども。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2947の「思ふにし」の原文「念西」で、オモヒニシと訓むものもあります。「思ふにし余りにしかば」は、思いに堪えかねて、思案に余ったので。「術を無み」の「無み」は「無し」のミ語法で、どうしようもないので。「忌むべきもの」は、言ってはならないことで、ここでは相手の名を言うこと。上代の人々にとって、名前は実体そのものであり、軽々しく恋人の名を口にすればその恋人に災難が及ぶかもしれない、と恐れていたのだといいます。「思ふにし余りにしかば」の句は慣用されていたらしく、この2句を頭に置く類歌が少なくありません。
2948の「その門行かむ」は、あなたの門を通ろう。「恋ひたる姿」は、恋に苦しんでいる姿、恋にやつれた姿。「あまた」は、甚だ。「著けむ」は、著しかろう、はっきりしていよう。男が女に贈った歌で、窪田空穂は、「女の身辺に妨害が起こって、男は逢えずに悩んでいるおりから、何らかの事情で、明日は女の門の道を通る都合になったので、悩みにやつれているわが姿を見よといってやったのである。心としては逢い難い悩みの訴えであるが、それとしては珍しい歌である」と述べています。
2949の「うたて異に」は、ますますひどくいつもと違って。「心いぶせし」は、気分が晴れない。原文「心欝悒」で、ココロオホホシ、ココロオボホシなどと訓むものもあります。「事計り」は、ここでは配慮、はからい。「よくせ」は、好くせよで、命令形。今夜逢った女はいつになくいらだっており、せめて今夜だけでも、うまく扱ってください、いい具合にしてください、工夫してくださいというようなことを言っており、甲斐性のない男の態度にいらだって詠んだ歌なのか、伊藤博は、「集中、これほどきわどい歌はない」と言っています。
2950の「夜戸出の姿」は、夜に戸を開けて外に出てくる女の姿。どういう場合のことか分かりませんが、一説には男を待っている女の姿のことかといわれます。思いをかけている女の、大変ショッキングな場面に出くわした時の男の歌でしょうか。頭が真っ白になって心が上の空になったと言っています。それとも、単に自分の恋人の夜目の美しさを言っているのでしょうか。
巻第12-2951~2955
2951 海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し結びし紐(ひも)を解(と)かまく惜しも 2952 吾が齢(よはひ)し衰(おとろ)へぬれば白細布(しろたへ)の袖のなれにし君をしぞ思ふ 2953 君に恋ひ我(あ)が泣く涙(なみだ)白栲(しろたへ)の袖さへ漬(ひ)ちてせむすべもなし 2954 今よりは逢はじとすれや白栲(しろたへ)の我(わ)が衣手(ころもで)の干(ふ)る時もなき 2955 夢(いめ)かと心惑ひぬ月まねく離(か)れにし君が言(こと)の通へば |
【意味】
〈2951〉あの海石榴市の里の道のたくさん交わる辻で、あちこち歩き回り出逢ったあの人が、結んでくれた紐を解くのは、あまりに惜しいことだ。
〈2952〉おれも年を取って体も衰えてしまったが、今しげしげと通わなくても、長年なれ親しんだお前のことが思い出されてならない。
〈2953〉あなたを恋しく思うあまり、泣きこぼれる私の涙は着物の袖までも濡らし、どうしようもありません。
〈2954〉もうこれからは逢わないというのですか。そう思うわけではないのに、私の着物の袖は涙の乾く時がありません。
〈2955〉夢でないかと心が戸惑いました。幾月も通ってこなかったあなたの便りがあったので。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2951の「海石榴市」は、椿を街路樹に植えた市(いち)の意で、奈良県桜井市金屋にあったとされます。『枕草子』にも「市はつば市・・・」とあるほどに、平安時代から明治の初めまで初瀬詣でや伊勢参りの旅人で賑わっていたといいます。なお、海石榴(つばき)は山茶花(さざんか)のことであるとも言われます。また、市は歌垣(かがい)が行われる所でもあり、この歌も歌垣を背景にしたものとされます。つまり、ここに集まった男女が、好む相手を見つけて乱交したわけです。できあがったカップルは他国や別の村の男女どうしであり、別れるときに相手が結んでくれた紐は、それぞれの血筋で独特の結び方があって、それを解くのが惜しいという気持ちを歌っています。
「八十の」は、多くの。「衢」は、幾筋もの道が分かれる所。チ(道)マタ(股)の意。「立ち平し」は、平らにし。大勢の男女が地を踏みつけて平らにしたことを言っています。「結びし」の「し」は、過去の助動詞。「解かまく」は「解かむ」のク語法で名詞形。解くだろうこと。「惜しも」の「も」は詠嘆の助詞で、、惜しいことよ。
2952の「吾が齢し」の原文「吾齒之」で、ワガイノチシ、ワガイノチノなどと訓むものもあります。「衰へぬれば」は、衰えてしまったので。「白細布の」は「袖」の枕詞。「白細布の袖の」は「なれ」を導く序詞。「なれにし」は「馴れ」と「萎(な)れ」の掛詞になっており、馴れ親しんだ意と、使用して馴染んで皺くちゃになる有様を言っています。「君をしぞ思ふ」のシもソも強意の助詞。年衰えた男が長年連れ添った妻を有り難く思っている歌と解しましたが、「君」とあるので女が男を思う歌とも取れます。窪田空穂は、「老境に入って新たに拓けて来た心を、しみじみといったものである。落ちついた、品位のある歌である」と言っています。
2953の「白栲の」は「袖」の枕詞。「栲」はこうぞ類の樹皮からとった繊維、またそれで織った布をいいます。「袖さへ漬ちて」の原文「袖兼所漬」で、ソデサヘヌレテと訓むものもあります。「せむすべもなし」は、どうしようもない。夫に訴えている女の歌です。2954の「白栲の」は「衣」の枕詞。「逢はじとすれや」は「逢はじとすればや」の意で、「や」は反語の意を含む疑問の係助詞。「干る時もなき」の「なき」は「や」の結びで連体形。これも疎遠にされている夫に訴えている女の歌です。
2955の「夢かと」の原文「夢可登」で、イメカトモ、イメニカトなどと訓むものもありますが、イメカトと4音句で訓むのが定訓となっています。「心惑ひぬ」の原文「情班」で、ココロハマドフと訓むものもあります。「まねく」は、数が多く。「離れにし君」は、関係が間遠になった君。「言の通へば」は、君からの便りがあったので。関係が終わったとばかり思っていた相手から、突然連絡が来て当惑している女の歌です。
巻第12-2956~2960
2956 あらたまの年月(としつき)兼ねてぬばたまの夢(いめ)に見えけり君が姿は 2957 今よりは恋ふとも妹(いも)に逢はめやも床(とこ)の辺(へ)去らず夢(いめ)に見えこそ 2958 人の見て言(こと)とがめせぬ夢(いめ)にだに止(や)まず見えこそ我(あ)が恋止まむ 2959 うつつには言(こと)も絶えたり夢(いめ)にだに継ぎて見えこそ直(ただ)に逢ふまでに 2960 うつせみの現(うつ)し心(ごころ)も我(わ)れは無し妹(いも)を相(あひ)見ずて年の経(へ)ぬれば |
【意味】
〈2956〉長い年月の間ずっと、夜ごとの夢に見えていました、あなたのお姿は。
〈2957〉今から先はいくら焦がれてもあなたにじかに逢えようか。せめてわが夜の床のあたりを離れず、いつも夢に出てきてほしい。
〈2958〉人が見て、とがめない夢の中だけでも見えてほしい。そうすれば、私の恋の苦しみも休まるだろう。
〈2959〉現実には連絡も途絶えてしまった。せめて夢にだけでも続けて見えてほしい、じかに逢うまで。
〈2960〉この世に生きている身としての正気も、もう私にはない。あの子に逢えないまま年月が経ってしまったので。
【説明】
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2956の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年月かねて」は、年月にわたって。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞であるのが、夜の意味になったもの。「夢に見えけり」の原文「夢尓所見」で、イメニゾミエシ、イメニゾミユルなどと訓むものもあります。女の歌で、窪田空穂は、「『夢にぞ見ゆる』は、夫がこちらを思っていると信じての心で、夫は旅にいるものとみえる。一首の落ちついた調べも、そのことを思わせる」と述べています。
2957の「逢はめやも」は、反語。「床の辺」は、作者の寝る床のほとり。「こそ」は、願望の助動詞「こす」の命令形。旅立つ男が、その妻に訴えた歌のようです。柿本人麻呂歌集歌に「里遠み恋ひうらぶれぬまそ鏡床の辺去らず夢に見えこそ」(巻第11-2501)とあり、斎藤茂吉は「床のへ去らず」の句におもしろ味があるといい、ここの歌は恐らく人麻呂歌集のこの歌が流伝の際に変化したものだろうかといいます。
2958の「人の見て」は、他人が見て。「言とがめ」は、言葉で言い咎めること。「夢にだに」は、夢にだけでも。女の歌で、何らかの事情で逢えなくなった男に贈った歌とされます。2959の「うつつには」は、現実には。「言も絶えたり」の「言」は、消息、連絡。原文「言絶有」で、コトハタエタリ、コトタエニケリ、コトモタエテアリなどと訓むものもあります。「継ぎて」は、続けて。前の歌と同じく、女が男に贈った歌。
2960の「うつせみ」は、現実に生きている身。「現し心」は、正気な心、平常心。「年の経ぬれば」の原文「年之経去者」で、トシノヘユケバと訓むものもあります。窪田空穂は、「心としては、妨げが続いていて、妹に逢えずに年を過ごした悩みから、生きている心地もしないという嘆きであるが、調べは明るく暢びやかで、その心にふさわしくもないものである」と述べています。
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