巻第12-3061~3065
3061 暁(あかとき)の目覚(めさ)まし草(くさ)とこれをだに見つついまして吾(われ)と偲はせ 3062 忘れ草 垣(かき)もしみみに植ゑたれど醜(しこ)の醜草(しこくさ)なほ恋ひにけり 3063 浅茅原(あさぢはら)小野に標(しめ)結(ゆ)ふ空言(むなこと)も逢はむと聞こせ恋のなぐさに 3064 人(ひと)皆(みな)の笠に縫(ぬ)ふといふ有間菅(ありますげ)ありて後にも逢はむとぞ思ふ 3065 み吉野の秋津(あきづ)の小野に刈る草(かや)の思ひ乱れて寝(ぬ)る夜(よ)しぞ多き |
【意味】
〈3061〉明け方のお目覚めに役立つ草として、こんな物でも覧になりながら、私を偲んでください。
〈3062〉憂いをを忘れさせるという忘れ草を垣根いっぱいに植えたけれど、何とも役立たずの草で、やはり恋い続けるばかりではないか。
〈3063〉浅茅原の野に標を張るというような空しい嘘でもいいから、逢いたいと言って下さい。恋の慰めのために。
〈3064〉人々がみんな笠に編むという有間菅の名のように、あり長らえて後も、今のように逢いたいと思っている。
〈3065〉吉野の秋津の野で刈ったる草が乱れるように、思い乱れて独り寝る夜が多くなっている。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、草に寄せての歌。3061の「目覚まし草」は、植物の草ではなく目を覚まさせる材料の意。何の品であるかは分かりません。「と」は、~として。「これをだに」の「だに」は、せめて~だけでもの意の助詞。「いまして」は「いる」の敬語。「吾と偲はせ」の原文「吾止偲為」で、ヤマズシノハセ、あるいは「止」を「少」の誤写だとして、ワレヲシノハセと訓むものもあります。「偲はせ」は「偲へ」の敬語。女が形見の品を贈り、それに添えた歌とされます。
3062の「忘れ草」は、ユリ科の宿根草ヤブカンゾウのこと。初夏に八重咲きのユリのような花が咲きます。「忘れ草」と呼ばれるのは、この花を眺めていると世の中の嫌なことを忘れていられるという中国の故事によります。「しみみに」は、ぎっしりと、いっぱいに、おびただしく。「醜の醜草」の「醜」は、醜いことで、罵る意。「醜」を重ねてヤブカンゾウを思いきり罵倒しており、役立たずの能無し草、何というろくでなし草、馬鹿の馬鹿草などと訳されています。
3063の「浅茅原」は、丈の低い茅がやの生えた野原。「標結ふ」は、自分の物であることを示すしるしの標縄を張ること。「小野」の「小」は接頭語。上2句は、浅茅原に標縄を張ったところで何の益もなく空しいところから「空言」を導く序詞。「空言」は、嘘。「恋のなぐさに」の「なぐさ」は、心を慰め、鎮めること。男から疎遠にされていることを悲しみ、嘘でもいいから逢おうと言って下さいと訴えている女の歌です。なお、「或る歌に曰く」として「来むと知らせし君をし待たむ」とあり、第4・5句の別伝とされますが、内容は全く異なっています。また「柿本朝臣人暦の歌集に見ゆ」として「浅茅原小野に標結ふ空言をいかなりと言ひて君をし待たむ」(巻第11-2466)の下2句のみが異なっていることが指摘されています。
3064の「有馬菅」の「有馬」は、摂津国の有馬(神戸市北区・三田市)あたりで、当時は菅の産地として有名でした。上3句は「あり」を導く同音反復式序詞。「ありて」は、過ごして、あり続けて。「後にも」の「も」は、せめて~だけでもの意を表しています。「逢はむとぞ思ふ」の「ぞ」は、強めの係助詞。男が女にその真実を誓った歌であり、「序詞は、男女が有間の者であることと、また女が人々から愛でられている者であることとを暗示している」と窪田空穂は言っています。
3065の「み吉野」の「み」は、接頭語。「秋津の小野」は、吉野の宮滝一帯。「草(かや)」は、壁や屋根を葺く材料としての草の称。上3句は、刈った草がばらばらに乱れる意で「乱れ」を導く序詞。「寝る夜しぞ多き」の「し」は、強意の副助詞。「ぞ」は強めの係助詞で、「多き」が結びの連体形。男の片恋の嘆きで、類想の多い歌です。
巻第12-3066~3069
3066 妹(いも)待つと御笠(みかさ)の山の山菅(やますげ)の止まずや恋ひむ命(いのち)死なずは 3067 谷(たに)狭(せば)み嶺辺(みねへ)に延(は)へる玉葛(たまかづら)延(は)へてしあらば年に来ずとも [一云 岩つなの延へてしあらば] 3068 水茎(みづくき)の岡の葛葉(くずは)を吹きかへし面(おも)知る子らが見えぬころかも 3069 赤駒(あかごま)のい行きはばかる真葛原(まくずはら)何の伝言(つてこと)直(ただ)にし良(よ)けむ |
【意味】
〈3066〉あの子のことを思って、三笠山の山菅ではないが、止まずに恋い続けるだろう、この命の絶えない限りは。
〈3067〉谷が狭くて峰に向かって伸びる玉葛のように、仲が絶えずに続くなら、一年にわたってお見えにならなくとも。(岩つなのように仲を続けるなら)
〈3068〉岡の葛葉が吹き返されて裏が白く見えるように、はっきりと顔を見知っているあの子が見えないこの頃だよ。
〈3069〉赤駒でさえ行くのをはばかる真葛原ではあるまいに、どうしてわざわざ伝言にするのか。直接に来て言えばよいのに。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、草に寄せての歌。3066の「妹待つと」は「御笠」の枕詞。ここは山野での逢引で、女の来るのを待っているとする見方があります。上3句は「止まず」を導く同音反復式序詞。「止まずや」の「や」は、詠嘆のこもった疑問の助詞。「命死なずは」、命が死なないならば。「は」は、仮定条件の接続助詞「ば」が清音になったもの。片恋をしている男の歌で、類想の多いものです。
3067の「谷狭み」の「狭み」は、形容詞「狭し」のミ語法で、谷が狭いので。「玉葛」の「玉」は美称で、「葛」はつる草の総称。上3句は、同音反復と譬喩で「延へて」を導く序詞。「延へてしあらば」の「し」は、強意の副助詞。「年に」は、一年中あるいは年に一度。窪田空穂は、「夫に疎遠にされ、ほとんど絶縁同様に扱われている女の、夫に訴えた歌である。恨みをいう余地もないとして、きわめて控え目に、せめて情だけは失いつくさないでくれと頼んでいる」と述べています。
3068の「水茎の」は「岡」の枕詞。水茎を植物名だとして、それが生えている岡の意でかかるか。上3句は「面知る」を導く序詞。葛葉の裏の白いのが、風に吹き返されて目立つことから掛かります。若い男の歌で、窪田空穂は「目についていた女が見えないことがあった時の歌であったろうと思われる」と述べています。また佐佐木信綱は「序がすぐれており、葛の葉の白く裏がえるさま、印象爽快」と評しています。
3069の「赤駒」は、栗毛の馬。「い行きはばかる」の「い」は動詞につく接頭語で、行き悩む、行くのをはばかる。「真葛原」の「真」は接頭語で、葛の生えている原。ここまで夫が訪ねて来ないことの譬喩。「何の伝言」は、何の伝言か、なんで伝言などするのか。「直にし」の「し」は、強意の副助詞。馬が歩き悩むほどに葛が茂っている野原があるように、人を介した伝言ではまわりくどくてじれったい、直に言ってほしいと諭している歌です。
巻第12-3070~3073
3070 木綿畳(ゆふたたみ)田上山(たなかみやま)のさな葛(かづら)ありさりてしも今ならずとも 3071 丹波道(たにはぢ)の大江の山の真玉葛(またまづら)絶えむの心我が思はなくに 3072 大崎の荒礒(ありそ)の渡り延(は)ふ葛(くず)の行く方も無くや恋ひ渡りなむ 3073 木綿包(ゆふづつ)み [一云 畳(たたみ)] 白月山(しらつきやま)のさな葛(かづら)後(のち)もかならず逢はむとそ思ふ |
【意味】
〈3070〉田上山のさね葛が延び続けるように、このまま無事に生き延びていつかきっと逢いたい。今でなくとも。
〈3071〉丹波へ行く道にある大江山に玉葛が生えている。その玉葛が絶えないように、あなたとの縁が絶えるなどとは私は思っていません。
〈3072〉大崎の荒磯の渡し場で延びている葛のように、どこへ行くべきかも分からずに恋し続けることか。
〈3073〉白月山のさね葛の、分かれて延びる蔓がその先でまた絡まり合うように、必ず再び逢いたいと私は思っています。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、草に寄せての歌。3070の「木綿畳」は、神に捧げる幣帛の一つで、木綿を折り畳んだものとされます。手向け、あるいは畳のタの同音で「田上山」にかかる枕詞。「田上山」は大津市南部の山。「さな葛」はサネカズラで、別名ビナンカズラ。ビナンは「美男」のことで、昔はこの植物から採れる粘液を男性の整髪料として利用していました。上3句は、葛が延び続けることから「ありさりて」を導く序詞。「ありさりてしも」の「ありさりて」は、あり続けて。「し」は、強意の副助詞。「も」は、詠嘆の助詞。女の歌で、身辺に妨げが起こっているのを男に訴えたものとされます。
3071の「丹波道」は、山城国から丹波国へ行く街道で、山陰道の要路。「大江山」は、山城と丹波の国境にある山で、『日本書紀』『天武紀』8年11月の条に、そこに関が置かれた記事がります。「真玉葛」の「真・玉」は美称で、つる性の植物の総称。上3句は、そのつるが容易には切れないことから「絶えむ」を導く序詞。「思はなくに」は、「思はず」のク語法「思はなく」に格助詞「に」が付いたもので、詠嘆の意を持ちます。窪田空穂は「男より女に答えた歌で、男の疎遠にするのを恨んで、関係を絶えようとするのかと嘆いたのに対して、それを否定していったもの」と言っています。
3072の「大崎」は、和歌山市の加太の岬。「渡り」は、渡し場。「葛」は秋の七草の一つで、根から良質の澱粉(くず粉)がとれます。上3句は、葛が這っていく先がない意で「行く方も無く」を導く譬喩式序詞。「行く方も無くや」の「や」は、疑問の係助詞。窪田空穂は「遂げられる見込みのない片恋を久しくもしている男の嘆き」の歌だとして、「心細かく、しみじみとしていて、文芸的な匂いがある」と言っています。
3073の「木綿包」は他に例のない語で、木綿で包んだ物、何かを木綿で包んで神に供えたものとされますが、実態は不明。木綿が白いことから「白月山(所在未詳)」の枕詞になっています。上3句は、さな葛のつるが分かれても後にまた逢う意で「後も逢ふ」を導く譬喩式序詞。なお、「或る本の歌に曰く」として「絶えなむ妹を我が思はなくに」とあります。
巻第12-3074~3077
3074 はねず色のうつろひやすき心あれば年をぞ来経(きふ)る言(こと)は絶えずて 3075 かくしてぞ人は死ぬといふ藤波(ふぢなみ)のただ一目のみ見し人ゆゑに 3076 住吉(すみのえ)の敷津(しきつ)の浦(うら)のなのりその名は告(の)りてしを逢はなくも怪(あや)し 3077 みさご居(ゐ)る荒礒(ありそ)に生(お)ふるなのりそのよし名は告(の)らじ親は知るとも |
【意味】
〈3074〉はねずの花の色のように移り気な心をお持ちなので、お逢いできないまま年月が経ってしまいました。音信だけは絶やさずに。
〈3075〉こうして人は死ぬというのですね。藤の花のような、ただ一度だけ見たあの人に恋をして。
〈3076〉住吉の敷津の浦のなのりそではないが、名のってはいけない大切な名をお教えしたのに、逢ってくださらないのは変だ。
〈3077〉みさごが棲む荒礒に生えるなのりその名のように、ええどうしたってあなたの名は申しません、たとえ二人の仲を親に知られても。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、3075まで草に寄せての歌。3074の「はねず色の」の「はねず」は、バラ科の庭梅ではないかといわれ、花色は、黄色がかった薄い赤色。色の褪せやすい意で「うつろひやすき」にかかる枕詞。「うつろひやすき心あれば」は、移り気なので。「年をぞ来経る」は、年が来て過ぎているで、逢わない期間の久しいことを言ったもの。「言は絶えずて」の「言」は、音信、便り。「絶えずて」は、絶えずして。女が男を恨んだ歌とされます。
3075の「かくしてぞ」は、このような状態で。ここは恋い焦がれてその果てに、の意。「ぞ」は、強めの係助詞。「藤波」は、藤の花房が風に揺れるのを波に見立てて言ったもの。「藤波の」は、藤の花のような、の意で「一目見し人」にかかる比喩的枕詞。一目見ただけの女に懸想して、悶々としている男の歌です。
3076の「住吉」は、大阪市住吉区。「敷津の浦」は、住吉大社の南西にあった海岸。「なのりそ」は海藻の名で、ホンダワラの古名。集中16例あり、同音で名を告るの序や枕詞に用いられています。上代の風習では女が男に自分の名を告げるのは結婚の承諾を意味しましたから、容易に名を告げてはなりませんでした。「な告りそ」の意とも通じるので、『万葉集』の歌には好んで詠まれています。ここの上3句は「名は告り」を導く同音反復式序詞。「逢はなく」は「逢はぬ」のク語法で名詞形。求婚に応じたのに逢おうとしない女を訝しく思っている男の歌とされます。以下5首は、藻に寄せての歌。
3077の「みさご」は、魚を獲る猛禽類。トビとほぼ同じ大きさで、海浜に生息し、海上から急降下して魚類を捕食します。上3句は「なのりそ」の同音で「名は告らじ」を導く序詞。「よし名は告らじ」の「よし」は、ええいままよ、ええどうしたって、で、決意のほどを示しているもの。「名は告らじ」は、君の名は言うまい。巻第3-362の山部赤人の歌の或本歌に「みさご居る荒磯に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも」(363)があり、本歌の少異歌となっています。
巻第12-3078~3081
3078 波の共(むた)靡(なび)く玉藻(たまも)の片思(かたもひ)に我(あ)が思ふ人の言(こと)の繁(しげ)けく 3079 わたつみの沖つ玉藻(たまも)の靡(なび)き寝む早(はや)来(き)ませ君待たば苦しも 3080 わたつみの沖に生(お)ひたる縄海苔(なはのり)の名はかつて告(の)らじ恋ひは死ぬとも 3081 玉の緒(を)を片緒(かたを)に縒(よ)りて緒(を)を弱み乱るる時に恋ひざらめやも |
【意味】
〈3078〉波の寄るがままに靡いて片寄っている藻のように、片思いに私が思っている人の、ほかの人との噂が激しくて。
〈3079〉大海原の沖でくねり靡く玉藻のように、あなたに寄り添って寝たい。早くいらっしゃって下さい、待っているのは辛くてなりません。
〈3080〉大海原の沖に生えている縄海苔のように、あなたの名を決してもらしません。たとえ恋に思い乱れて死ぬようなことがあっても。
〈3081〉玉の緒を片糸で縒ると弱いので切れて乱れるように、二人の仲が乱れている時だからといって、恋い焦れずにいられない。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3078の「波の共」の「共」は、~とともにの意で、波の寄せるままに。「玉藻」の「玉」は美称。上2句は、波が片寄る意で「片思」を導く序詞。「言の繁けく」の「言」は噂、「繁けく」は「繁し」のク語法で名詞形。男女どちらの歌とも取れ、窪田空穂は「片思いに思っている女が、ほかの男に関しての噂の多いという、男の焦燥と嫉妬を扱ったもの」と言い、佐佐木信綱は、女の歌だとして「思う男について、世間の評判が近来高くなってきた」と解しています。また、噂の内容について、相手と自分との関係についての噂とする見方もあります。
3079の「わたつみ」は「海の神」の意ですが、ここでは「海」。「沖つ玉藻」は、沖にある玉藻。上2句は、沖の玉藻が靡いている意で「靡き」を導く序詞。「靡き寝む」は、女が男に寄り添って共寝すること。「来ませ」は「来」の敬語「来ます」の命令形。「苦しも」の「も」は、詠嘆の助詞。妻として夫への訴えの歌であり、佐佐木信綱は「三、四、五句ことごとく切れ、更に第四句は小さく二つに切れて、切迫感が出ている」と評し、窪田空穂も「露骨な、強い詠み方である」と述べています。
3080の「わたつみ」は、海。「縄海苔」は未詳ながら、細長く縄のような海藻で、ウミソウメンの古称かといいます。上3句は、ナワノリと同音で「名は告らじ」を導く序詞。「名はかつて告らじ」は、名は決して言うまい。原文「名者曾不告」で、カツテでは字余りになるとして、ナハサネノラジと詠むものもあります。「恋ひは死ぬとも」は、恋て死のうとも。親に遮られて男に逢えなくなっている女の訴えの歌とされます。
3081の「玉の緒」は、玉を貫き通す紐。「片緒」は「片糸」と同じで、ただ一筋の糸。上3句は、一筋の緒が切れて玉が乱れる意で「乱るる」を導く序詞。「乱るる」の解釈は、上掲とは別に、自分の心が乱れる、あるいは自分の恋を忍ぶ心が弱って人に知られてしまうことなどと解するものもあります。「恋ひざらめやも」の「や」は反語、「も」は詠嘆。夫に疎遠にされている妻の訴えの歌とされます。以下3首は、玉の緒に寄せての歌。
巻第12-3082~3085
3082 君に逢はず久しくなりぬ玉の緒(を)の長き命の惜(を)しけくもなし 3083 恋ふること増(ま)される今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ 3084 海人娘子(あまをとめ)潜(かづ)き採(と)るといふ忘れ貝 世にも忘れじ妹(いも)が姿は 3085 朝影(あさかげ)に我(あ)が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに |
【意味】
〈3082〉あなたに逢えず、ずいぶん久しくなりました。このように切ない思いをするのなら、先の長い命であろうとも少しも惜しいと思いません。
〈3083〉恋い焦がれて苦しさがつのる今はもう、玉の緒が切れて玉が乱れ飛ぶように、死んでしまいそうです。
〈3084〉海女が海に潜って採るという忘れ貝。その忘れ貝のようには、決してあの子の姿を忘れたりしない。
〈3085〉朝日に映る影のように、私はやせ細ってしまった。玉がほのかにきらめくように、ほんの少し姿を見せて立ち去ってしまったあの子のために。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3082の「玉の緒の」は、玉を貫き通す紐のことで、その長いことから「長き」にかかる枕詞。「惜しけく」は「惜し」のク語法で名詞形。夫に疎遠にされている女の訴えの歌とされます。3083の「増される今は」の原文「益今者」で、マサレバイマハ、イマユマサラバなどと訓むものもあります。「玉の緒の絶えて」は「乱れ」を導く譬喩式序詞。「死ぬべく思ほゆ」は、死にそうに思われる。
3084は、貝に寄せての歌。「潜き」は、水に潜ること。「忘れ貝」は、二枚貝の貝殻の片方、または鮑などの一枚貝。ここは海人が潜って獲るので鮑のこと。「忘れ貝」は集中に6例、「恋忘れ貝」も6例あり、忘れ草(ヤブカンゾウ)を身につけると憂いや恋を忘れられると信じたように、忘れ貝も恋の苦しさを忘れられるという俗信があったと見られています。上3句は「忘れじ」を導く同音反復式序詞。女の美貌を称えている歌です。
3085の「朝影」は、朝日に照らされて映る細長い影。「玉かぎる」は、玉が光を反射してきらめき、自らが光を発するものではないところから「ほのかに」にかかる枕詞。「ほのかに」は、ぼんやりとしてはっきりしないさま。これと全く同じ歌が巻第11の人麻呂歌集歌にもあります(2394)。以下2首は、虫に寄せての歌としていますが、本歌は「玉かぎる」の原文「玉蜻」の「蜻」を「かぎろひ」という虫と見たようです。
巻第12-3086~3090
3086 なかなかに人とあらずは桑子(くはこ)にも成ならましものを玉の緒(を)ばかり 3087 真菅(ますげ)よし宗我(そが)の川原(かはら)に鳴く千鳥(ちどり)間(ま)無し我(わ)が背子(せこ)我(あ)が恋ふらくは 3088 恋衣(こひごろも)着奈良(きなら)の山に鳴く鳥の間(ま)無く時無し我(あ)が恋ふらくは 3089 遠(とほ)つ人(ひと)猟道(かりぢ)の池に住む鳥の立ちても居(ゐ)ても君をしぞ思ふ 3090 葦辺(あしへ)行く鴨(かも)の羽音(はおと)の音のみに聞きつつもとな恋ひ渡るかも |
【意味】
〈3086〉なまじっか人であるよりは、蚕(かいこ)にでもなったほうがいい。わずかばかりの命だとしても。
〈3087〉宗我の川原に鳴く千鳥の声のように、のべつまくなしです、あなた、私の恋心は。
〈3088〉恋の衣を着慣らすという奈良山で鳴く鳥の声が絶え間ないように、途切れる時がありません、私の恋は。
〈3089〉遠くにいる人、雁という名の猟道の池に住んでいる水鳥のように、立っても座っても、絶えずあなたを思っています。
〈3090〉芦辺を行く鴨の羽音のように、ほのかに噂を聞くばかりで、逢えないあなたをわけもなく恋い続けています。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3086の「なかなかに」は、なまじっか。「人とあらずは」は、人であるよりは。「桑子」は、桑を食う子、つまり蚕。「ずは~ましを」は、反実仮想。~なかったら・・・だろうに。「玉の緒ばかり」の「玉の緒」は、玉を貫き通す紐のことで、蚕の命の短さを喩えています。養蚕に携わっている女の歌と見られ、蚕になれば物思いをせずにいられ、命は短いが、それでも構わないと言っているのでしょう。それとも、蚕の作る繭から取れる糸は貴いもので、自身が用いられるのではなく貴人の物となったことから、蚕を羨む気持ちを起こしているのでしょうか。
3087の「真菅よし」の「真」は接頭語、「よし」は感動の助詞で、スゲの類音から「宗我」にかかる枕詞。「宗我の川原」は、御所市を発して大和川に合流する曾我川。上3句は、千鳥の鳴く声が絶えないことから「間なし」を導く序詞。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。妻から夫に贈った形の歌で、「間なし~恋ふらくは」の下2句は類型的表現であり、上3句の部分で土地や景物を変え、それぞれの土地に結びつけて愛唱されたもののようです。以下9首は、鳥に寄せての歌。
3088の「恋衣」はここにのみある語で、恋を常に身から離れぬ着物に喩えています。着馴らす意で奈良に続け、「恋衣着」までが「奈良」を導く序詞。「奈良の山」は、奈良市北部の丘陵地。上3句は、奈良山に鳴く鳥の声が絶え間ないところから「間なく時なし」を導く序詞。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。上の歌の「宗我川の千鳥」が「奈良山の鳥」となっているだけで、作意は同じです。
3089の「遠つ人」は、遠くから渡って来る雁を擬人化した語で「猟道」の枕詞としたもの。「猟道の池」は、巻第3-239に「長皇子の猟路池に遊(い)でましし時に柿本朝臣人麻呂の作る歌」があり、奈良県宇陀市の宇田川と芳野川が合流する付近の池かといいます。上3句は、水鳥が飛び立つ意で「立ち」を導く序詞。3090の上2句は「音」を導く同音反復式序詞。「音」は、噂。
「もとな」は、わけもなく、やたらに。窪田空穂は、序詞に特色があるとして、「同音でかかる上に、譬喩として『ほのかに』の意をも持たせてあるもので、そこに新味がある」と言っています。
巻第12-3091~3095
3091 鴨(かも)すらもおのが妻どちあさりして後(おく)るる間(あひだ)に恋ふといふものを 3092 白真弓(しらまゆみ)斐太(ひだ)の細江(ほそえ)の菅鳥(すがどり)の妹(いも)に恋ふれか寐(い)を寝(ね)かねつる 3093 小竹(しの)の上(うへ)に来居(きゐ)て鳴く鳥(とり)目を安(やす)み人妻ゆゑに我(あ)れ恋ひにけり 3094 物思(ものも)ふと寐(い)寝ねず起きたる朝明(あさけ)にはわびて鳴くなり庭つ鳥(とり)さへ 3095 朝烏(あさがらす)早くな鳴きそわが背子(せこ)が朝明(あさけ)の姿見れば悲しも |
【意味】
〈3091〉鴨でさえも、連れ合い同士で餌をあさっているうちに、片方が少しでも遅れると恋しがるというのに。
〈3092〉斐太の細江に棲む菅鳥が妻を求めて鳴くように、あの子に恋い焦がれているからか、なかなか寝つけない。
〈3093〉篠の枝葉に飛んで来て鳴く鳥のように、見た目が安らかなので、人妻だと分かっているのに恋してしまったことだ。
〈3094〉物思いをするとて、眠れないで起きていた夜明けには、庭の鳥さえ物悲しく鳴いている。
〈3095〉朝の烏よ、そんなに早くから鳴かないでおくれ。いとしいあのお方が朝帰りする姿を見るのが悲しいから。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、鳥に寄せての歌。3091の「鴨すらも」は、鴨でさえも。「妻どち」の「どち」は、同士、仲間、親しい間柄の人のこと。「あさり」はアサルの名詞形で、餌を探し求めること。「後るる間に」は、原文「所遺間尓」で、オクルルホドニと訓むものもあります。夫から冷たくされている妻が、夫婦で一緒に餌をあさっている鴨を見て、鴨は、連れ合いが少し離れただけでも恋しがるというのに、自分はその雌鳥にも及ばないと嘆いている歌、あるいは、官人である夫が地方官に任ぜられて、単身任地へ行った後の心をうたったものかもしれません。
3092の「白真弓」は、漆を塗っていない白木の弓のことで、弓を引く意から「斐太」のヒの一音にかけた枕詞。「斐太の細江」は、所在未詳。「菅鳥」は未詳ながら、たとえば「渚鳥(すどり)」が洲(渚)にいる鳥の意で特定の鳥の名を示さないように、「菅鳥」も「菅のところにいる鳥」くらいの意味だろうとされます。一方、結句の「寐を寝かねつる(熟睡できない意)」の原文「寐宿金鶴」に「鶴」の用字があることから、文末で鶴であることを示していると考える向きもあります。上3句は「妹に恋ふれか」を導く譬喩式序詞。「か」は疑問の係助詞で、文末の「つる」が結びの連体形。
3093の「小竹の上に来居て」は、篠の枝葉に来てとまって。上2句は「目を安み」を導く序詞。「目を安み」は、見た目が安らかなので、見るに快く美しく愛らしいので。かかり方は諸説あり、見るに美しいことからとする説、鳥は群れて飛ぶのでムレを約してメ(目)にかけるとする説、小竹の上に来て鳴く鳥が見やすいのでとする説、「目を安み」の「目」を鳥を獲る網の目と解し、網の目の危険がないのでという意味でかかるとする説などがあります。「人妻ゆゑに」は、人妻なのに。
3094の「物思ふと」の「と」は、~とての意。「寐寝ねず」の「寐」は眠ることの名詞で、寝る、横になる意の「寝」と複合した表現。「朝明」は、早朝。「わびて鳴くなり」は、物悲しく鳴いている。3095の「な鳴きそ」の「な~そ」は、禁止。「見れば悲しも」の「も」は、詠嘆。
3096 馬柵(うませ)越しに麦(むぎ)食(は)む駒(こま)の罵(の)らゆれど猶(なほ)し恋しく思ひかねつも 3097 さ桧隈(ひのくま)桧隈川(ひのくまかは)に馬(うま)留(とど)め馬に水(みづ)飼(か)へ我(わ)れ外(よそ)に見む 3098 おのれ故(ゆゑ)罵(の)らえて居(を)れば青馬(あおうま)の面高(おもたか)夫駄(ぶだ)に乗りて来(く)べしや 3099 紫草(むらさき)を草と別(わ)く別(わ)く伏(ふ)す鹿(しか)の野は異(こと)にして心は同じ 3100 思はぬを思ふと言はば真鳥(まとり)住む雲梯(うなて)の社(もり)の神(かみ)し知らさむ |
【意味】
〈3096〉柵越しに麦を食べる馬が怒鳴り散らされるように、どんなに罵られても、なおいっそう恋しくてならない。
〈3097〉桧隈を流れる桧隈川のほとりに馬をとめて、馬に水をお与え下さい。私はよそながらあなたのお姿を眺めましょう。
〈3098〉あんたのせいで叱られている折も折、人目につく白い面長の馬に乗って、よくも堂々と訪ねて来れますね。
〈3099〉紫草を他の草と区別してそこに寝る鹿のように、私たちは住む所こそは違うけれども、その心持ちは同じだ。
〈3100〉思ってもいないのに思っているなどと言うのなら、恐ろしい鷲の棲む雲梯の杜の神さまが成敗なさることだろう。
【説明】
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3096の上2句は、馬が飼料の麦を盗み食いして叱られる意で「罵らゆ」を導く序詞。「罵らゆれど」は、ののしられる、叱られる。「思ひかねつ」は。思うまいとしても、そのようにはできない。「なほし」の「し」は、強意の副助詞。関係を結んだ男が親から気にいられずに、逢うのを妨げられる歌は多くありますが、これは関係を絶てと激しく罵られているものです。それでもやはり恋しくて、思わずにいようとしても思わずにはいられないと言っています。以下4首は、獣に寄せての歌。
3097の「さ桧隈」の「さ」は接頭語で、「桧隈川」の位置を示すとともに、重ねて語調を整える修辞。「桧隈」は、奈良県明日香村檜前。「桧隈川」は、奈良県高市郡を通って曾我川に合流する川。「飼へ」は、食餌を与える意の語。「外に見む」は、よそながら君を見よう。村に住む女性が、思いを寄せる男または通りすがりの旅人に声をかけた歌、または、朝の別れに名残りを惜しんで、しばらくでも長く夫を見ようとしていっている歌とされます。なお、『古今集』にある「ささのくま檜の隈川に駒とめてしばし水かへ影をだに見む」は、この歌が流伝されたものとされます。
3098は、男との交際を保護者から叱責されている最中に、タイミング悪く男がやって来た。それも人目につく白い馬で堂々と。ふつう恋人のもとへそっと訪れる男は黒や栗毛の馬に乗るのに、なんという無神経さ。女の男に対する怒りはすさまじく、相手を「君」とか「わが背子」と言わずに「おのれ」と言っています。「面高」は、面長の意味とするほか、顔がごつごつしている、あるいは顔を高く上げたさまとする説があり、「夫駄」は、夫役に使う荷馬のことで、ののしっていうときに使われる言葉のようです。
なお左注には「この一首は、平群文屋朝臣益人が伝えて云わく、昔、紀皇女(天武天皇の皇女)がひそかに高安王と通じて叱られているときに、この歌を作ったと聞いている。ただし、高安王は左遷されて伊予の国守に任ぜられた」旨の記載があります。しかし、高安王は紀皇女より時代が新しく、二人を結びつけるのは年代的に無理があるため、多紀皇女(たきのひめみこ)ではないかとする見方があります。紀皇女は天武帝の皇女で、弓削皇子から恋歌を贈られる(巻第2-119~122)など、艶聞の多い女性であったことから、そうした記憶がいつしかこの歌と結びつき、紀皇女に比定されてしまったのかもしれません。
3099の「紫草」はムラサキ科の多年草草木で、根を乾かして染料をとるために重用され、全国で栽培されていました。「別く別く伏す」は、紫草を他の草とよけて伏す。「野」は、鹿の住まい。なお、この歌が何を比喩しているのか、また結句である「心は同じ」の、何の心と何の心が同じなのかの意味が分からないため、さまざまな解釈がなされています。中には、この歌の前後の歌がいずれも相手を非難する「憤り」の気持ちを詠んでいることから、この歌も同じような気持ちが込められているとして、「大切な紫草ばかりをかき分けて寝そべっている鹿に憤るのと同じで、私も紫草の栽培主の気持ちと同じように、あなたに憤っている」のように解するものもあります。
3100は、神に寄せての歌。「思はぬを」の「を」は逆接の接続助詞で、思っていないのに。「真鳥」の「真」は美称で、鳥の代表である鷲、鷹などとされます。「雲梯の杜」は、橿原市雲梯町、大和三山の一つ雲梯山の西北約900mに鎮座する河俣神社。壬申の乱のときに大海人皇子を守護する託宣をした神として知られています。「神し知らさむ」の「し」は強意の副助詞、「知らす」は統治なさる、お治めになる意で、ここは、神が処理なさろう。作者は、神かけて自分の思いが本物であると訴えています。大伴旅人が太宰帥であった時、太宰大監だった大伴百代の歌に「思はぬを思ふと言はば大野なる三笠の杜の神し知らさむ」(巻第4-561)とあるのは、本歌を取ったものと見られています。
巻第12-3101~3102
3101 紫(むらさき)は灰(はひ)さすものぞ海石榴市(つばきち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ 3102 たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰(た)れと知りてか |
【意味】
〈3101〉紫は灰をさして作るもの、その灰を作る椿にちなむ海石榴市の、道が八方に分かれている広場で出逢ったあなたは、どこのどなたですか。
〈3102〉母が呼ぶ私の名を申し上げてもいいのですが、行きずりの誰とも分からないあなたのことを、どなたと知った上で申しましょうか。
【説明】
問答歌(問いかけの歌と、それに答える歌によって構成される唱和形式の歌)。3101は男が女に贈った歌、3102はそれに返した女の歌。3101「紫は灰さすものぞ」は、紫染めには美しく発色させるための媒染剤として椿の灰汁(あく)を入れることを言ったもので、女を「紫」に、自分を「灰」に譬え、「紫色は灰汁をさして美しい色になるものだ。女だって男とふれてそうなるのだから、あなたも私と付き合えよ」と誘っています。この上2句は、椿の灰を意味するところから「海石榴市」を導く序詞となっています。「海石榴市」は、奈良県桜井市金屋の三輪山の山麓にあった市(いち)で、歌垣の場所としても知られています。ここの歌は、その折の恋の掛け合い、あるいは、謡い物として、古くから伝わった歌かもしれません。「八十の衢」は、道が四方八方に分かれている所。「逢へる子や誰」と名を訊ねるのは求婚を意味しました。
男の、貴い紫色も灰を混ぜて一体とすることで初めて成り立つものだという口説き文句について、詩人の大岡信は、「(紫と灰の)両者の混合、すなわち性交を暗示しているととれる。この歌には性的なほのめかしがあると考えていいだろう。少なくともこの歌のエロティシズムは、そこから来ている」と言っています。
3102の「たらちねの」は「母」の枕詞。「母が呼ぶ名」は、母が呼ぶ本名のことで、本名を明かすことは求婚を受け入れることを意味しました。「申さめど」は、申してもよいが。「道行く人」は、行きずりの人。「誰れと知りてか」は、下に「申さむ」が略されており、どなたと知って私の名を申しましょうか。相手が自分の名を名乗らずいきなり問うてきたのに対し不審げに問い返しており、気をもたせながら求婚を一応はねつける歌となっています。なお、歌垣の場で「誰と知りてか」などと応答することはあり得ないとして、ふつうの一組の贈答問答の歌とする見方があります。
巻第12-3103~3104
3103 逢はなくは然(しか)もありなむ玉梓(たまづさ)の使(つかひ)をだにも待ちやかねてむ 3104 逢はむとは千度(ちたび)思へどあり通(がよ)ふ人目(ひとめ)を多み恋つつぞ居(を)る |
【意味】
〈3103〉逢えないことがあるのは仕方ないでしょう。だけど、お便りを運ぶ使いさえも待ちわびなければならないのでしょうか。
〈3104〉逢いたいとは何度も思っていますが、ひっきりなしに往き来する人の目が多いので、ただ恋い続けていることです。
【説明】
問答歌。3103は、男の疎遠を恨んだ女の歌、3104はそれに返した男の歌。3103の「逢はなく」は「逢はぬ」のク語法で名詞形。「然もありなむ」は、それも仕方がない。「玉梓の」は「使」の枕詞。「使をだにも」は、使いさえも。「待ちやかねてむ」の「や」は、疑問、「かぬ」は、できない、「てむ」は、推量の強調。3104の「あり通ふ」は、続いて往き来している。「人目を多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、人目が多いので。「恋ひつつ」は、恋い続けている。
巻第12-3105~3106
3105 人目(ひとめ)多み直(ただ)に逢はずてけだしくも我(あ)が恋ひ死なば誰(た)が名ならむも 3106 相(あひ)見まく欲しきがためは君よりも我(わ)れぞまさりていふかしみする |
【意味】
〈3105〉人目が多いからといってじかに逢ってくれないで、もしも私が恋死にでもしたら、いったい誰の評判になるだろうか、だれでもない、あなたの評判になるだろうよ。
〈3106〉お逢いしたいと願う気持ちは、あなたより私の方がまさっているのに、どうしておいでにならないのか、変に思っています。
【説明】
問答歌。3105は、逢いに行きたいのに逢えないのは、あなたのせいだと威嚇するふりをして言い訳する男の歌。「人目多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、人目が多いので。「直に逢はずて」は、直接に逢わないでいて。ここは今直ぐにの意とする説もあります。「けだしくも」は、もしかして、万一。「誰が名ならむも」は、誰の評判になろうか、誰でもないあなたの評判になろう。
3106は、それはおかしいと女がやり返した歌。「見まく」は「見む」のク語法で名詞形、逢いたいと思っていること。「欲しきがためは」の原文「欲為者」で、ホシケクスレバ、ホシミシスレバなどと訓むものもあります。「いふかしみする」は、形容詞「いふかし」のミ語法「いふかしみ」に動詞「す」の付いたもので、心が晴れない、不審に思う、気がかりである意。窪田空穂は、「男の威嚇をさりげなく聞き流し、静かになだめている歌である。女のほうが地歩を占め得ている」と言っています。
巻第12-3107~3108
3107 うつせみの人目(ひとめ)を繁(しげ)み逢はずして年の経(へ)ぬれば生けりともなし 3108 うつせみの人目(ひとめ)繁(しげ)くはぬばたまの夜(よる)の夢(いめ)にを継(つ)ぎて見えこそ |
【意味】
〈3107〉世間の人の目が激しいので、逢えないまま年が過ぎてしまい、苦しくて生きている心地もしない。
〈3108〉世間の人の目が激しくて逢えないというのなら、せめて毎夜の夢に姿を見せてください。
【説明】
問答歌。3107は男の歌、3108はそれに返した女の歌。3107の「うつせみの」は「人」の枕詞。枕詞ではなく、この現世の人の目が多いことを言っているとする見方もあります。「繁み」は「繁し」のミ語法。3108の「人目繁くは」は、人目がうるさいならば。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夢にを」の「を」は間投助詞で、意味はありません。「継ぎて」は、続いて。「こそ」は、願望の助詞。ここも前の歌と同じく、「女のほうが落ちついていて、静かになだめているものである」と、窪田空穂は言っています。
巻第12-3109~3110
3109 ねもころに思ふ我妹(わぎも)を人言(ひとごと)の繁き(しげ)によりて淀(よど)む頃かも 3110 人言の繁くしあらば君も我(あ)れも絶えむと言ひて逢(あ)ひしものかも |
【意味】
〈3109〉心からねんごろに思うあなたなのに、何しろ世間の噂が激しいものだから、逢わずにいるこの頃であるよ。
〈3110〉世間の口がうるさくなったら、あなたと私の仲はお終わりにしようなどと言って逢い始めたのでしょうか、そんなはずはありません。
【説明】
問答歌。3109は男の歌、3110はそれに返した女の歌。3109の「ねもころに」は、心を尽くして、心の底からの意。「我妹を」の「を」は、詠嘆・逆接。「人言の繁き」は、世間の噂がうるさいこと。「淀む頃かも」の「淀む」は、男女が逢わないこと、行き来が絶えること。「かも」は、詠嘆で、逢わずにいるこの頃であるよ。3110の「逢ひしものかも」の「ものかも」は、反語の詠嘆表現。逢い始めたのか、そんなはずはない。男の弁解がましい態度を厳しくやりこめた歌であり、佐佐木信綱は「条理も明快であり、熱と力とに満ちている」と評しています。
巻第12-3111~3112
3111 すべもなき片恋(かたこひ)をすとこのころに我(あ)が死ぬべきは夢(いめ)に見えきや 3112 夢(いめ)に見て衣(ころも)を取り着(き)装(よそ)ふ間(ま)に妹(いも)が使ひそ先立ちにける |
【意味】
〈3111〉どうすることもできない片恋をするとて、今にも死んでしまいそうな私の姿は、あなたの夢に見えたでしょうか。
〈3112〉あなたの姿を夢に見て、すぐに着物を着て出かける身仕度をしていたら、あなたの言葉を伝える使いの方が先に来てしまいました。
【説明】
問答歌。3111は女の歌、3112はそれに返した男の歌。3111の「すべもなき」は、どうすることもできない。「片恋をすと」は、片恋をするとて。「死ぬべきは」の「べき」は確かな未来を表し、死ぬべきことは、死にそうなのは。「夢に見えきや」の「や」は、疑問。思うと相手の夢に見えるという俗信から、自分の死ぬほどの思いが夢に見えたでしょうか、と言っています。3112の「装ふ」は、準備する、身支度する。「先立ちにける」は、先になった。あなたからの歌を届ける使いが先に来てしまったという意。女の鋭く迫る歌に応答も弁解もしにくいところを、見事に機知に富んだ返歌となっています。
ただし、なすすべもない片恋の相手に歌を贈って、夢に自分が見えたかと尋ねるはずもなく、男の返歌にも一段と誇張が見られることなどから、詩人の大岡信は、この2首は、多分に一人の人物(男性知識人)による創作めいていて、文学的な遊びの雰囲気があるように感じられると言っています。そういう目で見てみれば、「問答歌」全体にそのような雰囲気がある、とも。
巻第12-3113~3114
3113 ありありて後(のち)も逢はむと言(こと)のみを堅(かた)く言ひつつ逢ふとはなしに 3114 極(きは)まりて我(わ)れも逢はむと思へども人の言(こと)こそ繁(しげ)き君にあれ |
【意味】
〈3113〉ずっとこのままの気持ちでいて、後に逢おうと堅く約束しながら、一向に逢ってくれませんね。
〈3114〉この上なく私もお逢いしたいと思っているのですが、世間の噂が多いあなたですから。
【説明】
問答歌。3113は女の歌、3114はそれに返した男の歌。3113の「ありありて」の「あり」は、同じ状態が存在している、または存続している意で、ここは、変わらぬ気持ちを持ち続けて、生き続けて。「堅く言ひつつ」の「つつ」は、逆接の接続助詞。堅く約束をしながら。「逢ふとはなしに」は、逢うということはなくても、ちっとも逢おうとはなさらないで。
3114の「極まりて」は、甚だ、この上なく。他の解釈として、いずれ最後には、の意とする説があります。「繁き君にあれ」の「あれ」は、上の「こそ」の結びで已然形。女の恨みに対して、男が恨み返した歌です。窪田空穂は、「恨みではあるが、語少なく、余意のある、しかるべき男を思わせる歌である。調べも強く、さっぱりしている」と述べています。なお、3113を男の歌、3114を女の歌と見る説もあります。
巻第12-3115~3116
3115 息の緒(を)に我(あ)が息づきし妹(いも)すらを人妻なりと聞けば悲しも 3116 我(わ)が故(ゆゑ)にいたくなわびそ後(のち)つひに逢はじと言ひしこともあらなくに |
【意味】
〈3115〉命のかぎり恋い焦がれて苦しく溜め息ついていたあなたなのに、人妻であったと聞くと、たまらなく悲しい。
〈3116〉私のためにそんなに嘆かないでください。これからずっと逢わないつもりだと言った覚えはありませんのに。
【説明】
問答歌。3115は男の歌、3116はそれに返した女の歌。3115の「息の緒に」は、命のかぎりに、命懸けで。「息づく」は、苦しそうにため息をつく。「すらを」は、~なのに。「すら」は、意外なこと、当然の予測に反することが下に起こる意を示す助詞で、人妻であるはずがないのに、その女がすでに人妻だというのが分かったことを示します。
3116の「我が故に」は、私のせいで、私のために。「なわびそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「わぶ」は、気落ちする、嘆く。「後つひに」は、この後最後まで、後々どこまでも。「こともあらなくに」「あらなく」は「あらず」のク語法で名詞形で、そのように言ったことなどありませんのに。女はそれまで人妻ということはいわず、男の求婚に対して生返事ばかりしていたのでしょう。人妻と分かってもなお、この男に気をもたせています。悪い女です。
巻第12-3117~3118
3117 門(かど)立てて戸も閉(さ)したるを何処(いづく)ゆか妹(いも)が入(い)り来て夢(いめ)に見えつる 3118 門(かど)立てて戸は閉(さ)したれど盗人(ぬすびと)の穿(ほ)れる穴より入(い)りて見えけむ |
【意味】
〈3117〉門を閉じて戸も閉めておいたのに、どこを通って彼女は入ってきて、夢に現れたのだろう。
〈3118〉門を閉じて戸も閉めてあったけれど、盗人があけた穴から入って行って、あなたの夢に見えたのでしょう。
【説明】
問答歌。3117は男の歌、3118はそれに返した女の歌。3117の「門立てて」は、門を閉ざして。「戸も閉したるを」は、戸も閉ざしてあるのに。「を」は逆接の接続助詞で、~のに、と訳します。「いづくゆか」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。どこを通って。3118の「けむ」は、過去推量。女の夢を見た男が、翌日に戯れて女に贈ったのに対し、女も戯れに答えています。夢に見えるのは、その相手がこちらを思っているからという俗信を踏まえています。また、中国の小説『游仙窟』に「今宵戸ヲ閉ザスコトナカレ。夢ノ裏ニ渠(キミ)ガ辺ニ向ハム」とあるのを踏まえているとされます。
こうした滑稽趣味横溢の歌をはじめとする問答歌のかなりの部分は、男性知識人による、遊戯的側面を伴った創作であった可能性が高いと、詩人の大岡信は言っています。「問答」という形式に着目することそのものが、きわめて創作的な心の動きを示していると言ってよい、と。
巻第12-3119~3120
3119 明日(あす)よりは恋ひつつ行かむ今夜(こよひ)だに早く宵(よひ)より紐(ひも)解け我妹(わぎも) 3120 今さらに寝(ね)めや我(わ)が背子(せこ)新夜(あらたよ)の一夜(ひとよ)もおちず夢(いめ)に見えこそ |
【意味】
〈3119〉明日からは、お前を恋い焦がれながら旅行くことになるだろう。せめて今夜くらいは宵のうちから早く紐を解け、妻よ。
〈3120〉今さら共寝したって仕方ないでしょう。あなた、そんなことより明日からの毎晩毎晩、一夜も欠かさず夢に現れて下さいな。
【説明】
問答歌。3119は、旅立ち前夜の男の歌。3120はそれに返した女の歌。3119の「恋ひつつ行かむ」は、妹を恋い慕いながら旅行くのだろう。原文「恋乍将去」は、本によっては「恋乍将在」とあり、コヒツツアラムと訓むものもあります。「今夜だに」の「だに」は、せめて~だけでもの意。3120の「今さらに寝めや」の「や」は反語で、今さら寝られましょうか寝るべきではない。「新夜」は、新しく来る夜で、これから先の夜。「おちず」は、欠かさず。「見えこそ」の「こそ」は、願望の助詞。
男が興奮して言い寄ってきているのに対し、女は反対に思いを深め、今夜限りなのに、今さら宵から寝ても同じこと、それより別れてから浮気をしないように、と言っています。といっても、これは拒絶というわけではなく、「この夜は新鮮な緊張した心での二人の逢瀬が思われる」と、国文学者の小野寛は言っています。
巻第12-3121~3122
3121 我(わ)が背子(せこ)が使(つかひ)を待つと笠(かさ)も着ず出でつつぞ見し雨の降らくに 3122 心なき雨にもあるか人目(ひとめ)守(も)り乏(とも)しき妹(いも)に今日(けふ)だに逢はむを |
【意味】
〈3121〉あなたからの使いが来るのを待って、笠もつけないで幾度も門に出て見ました。雨が降っているというのに。
〈3122〉何と無情な雨であることか。いつもは人目を憚ってなかなか逢ってくれないあなたに、今日こそは逢おうと思ったのに。
【説明】
問答歌。3121は女の歌、3122はそれに返した男の歌。3121の「使ひを待つと」は、使いを待つとて。「出でつつぞ見し」は「ぞ+連体形」の係り結び。「降らく」は「降る」のク語法で名詞形。「に」は、逆接の意。この歌は巻第11-2681の重出歌です。3122の「雨にもあるか」の「か」は、詠嘆。「人目守り」は、人目を憚る意。「乏しき」は、心を惹かれる意。「今日だに」の「だに」は、最小限の願望を示す語。雨に妨げられて外出できない嘆きをうたっており、雨には天の強い呪力が宿っているとされ、雨に濡れることは禁忌とされました。そのため、男女の恋愛生活においても、雨の降る夜に男が女の許を訪れることは基本的に避けられていました。
ただ、この問答歌は、女の歌では人目を憚る必要のないふつうの夫婦関係のように見えるのに、男の歌は「人目守り乏しき妹」とあって状況が異なっています。関係のない別々の歌を組み合わせたものではないかと見られます。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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