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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

作者未詳歌(巻第12)~その2

巻第12-2961~2965

2961
現身(うつせみ)の常(つね)の辞(ことば)と思へども継(つ)ぎてし聞けば心(こころ)惑(まど)ひぬ
2962
白栲(しろたへ)の袖(そで)離(か)れて寝(ぬ)るぬばたまの今夜(こよひ)は早(はや)も明けば明けなむ
2963
白栲(しろたへ)の手本(たもと)ゆたけく人の寝(ぬ)る味寐(うまい)は寝(ね)ずや恋ひわたりなむ
2964
かくのみにありける君を衣(きぬ)にあらば下にも着むと我(あ)が思へりける
2965
橡(つるはみ)の袷(あはせ)の衣(ころも)裏にせば我れ強(し)ひめやも君が来まさぬ
 

【意味】
〈2961〉世間の通りいっぺんの言葉だとは思いますが、続けて何度も聞くと、心は乱れてしまいます。
 
〈2962〉あの子の袖から離れ、一人寝なければならないこんな夜なんか、明けるならさっさと明けてしまえばよいのに。

〈2963〉妻の手枕を交わして人並みにくつろいで寝ることができないで、この私はずっと恋続けるのだろうか。

〈2964〉こんなに薄情な人だったのに、もしあの人が着物だったら、じかに着る肌着にしたいとさえ思っていました。

〈2965〉橡の袷の着物を裏返すように、あなたが反対の態度をとるなら、もう無理強いはしません。あなたのいらっしゃらないことよ。

【説明】
 2961~2963は「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2961の「現身の常の辞」は、世間並みの通りいっぺんの言葉、ありきたりな言葉。「継ぎてし聞けば」は、続けて何度も聞くと。「心惑ひぬ」の原文「心遮焉」で、ココロハマドフと訓むものもあります。男が求愛してくるその言葉を、常に女に言い寄る決まり文句だとして警戒し、また冷笑もしていたのが、そうした「常の辞」でさえ繰り返し繰り返し語りかけられると、しだいに男に心が傾いていくという女心が歌われています。しかし、まだ若干の不安も残っています。

 2962の「白栲の」は「袖」の枕詞。「栲」は、こうぞ類の樹皮からとった繊維、またそれで織った布をいいます。「袖離れて」は、恋人の袖を離れて。原文「袖不數而」で「袖(そで)数(な)めずて」と訓み、袖を連ねずしてと解するものもあります。「ぬばたまの」は「今夜」の枕詞。「明けば明けなむ」の「なむ」は、願望の終助詞で、明けてしまうなら明けてほしい。独り寝の煩悶を詠んだものですが、類想の多い歌です。

 2963の「白栲の」は、ここは「手本」の枕詞。「手本」は、手首あるいは袖口のあたり。一説には肩から肘にかけての部分とも。「ゆたけく」は、くつろいで。「味寐」は、快い共寝の意。妻が無く、独り寝をしている男が、妻と共寝をしている世間の男たちの快い眠りを想像し、それと自身のさまとを比較して嘆いている歌です。窪田空穂が「妹という者に直接に触れず、他人の共寝のさまを羨むことによって暗示しているのは、そう呼ぶべき者がないからである」と言って、男の侘しさに駄目を押しています。

 2964~2965は「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、衣に寄せての歌。2964の「かくのみにありける君」は、こんなことだけであった君、こんなに薄情な人だったのに、の意。「衣にあらば」の原文「衣尓有者」で、キヌナラバと訓むものもあります。「下にも」の「も」は詠嘆で「さえも」の意を込めています。「思へりける」の「ける」は、詠嘆。真実のない男に失望し、自分が愚かだったと嘆いている女の歌で、衣ならば下に着ようというのは、人目をはばかる気持と、肌身をはなさぬ愛撫の情がこもっていて、佐佐木信綱は「譬喩が適切でよい」と評しています。

 2965の「橡の袷の衣」の「橡」は、クヌギの木。どんぐりを煮た汁で衣を黒く染めていたのもで、服制では、踐者の服色と定められていました。「袷の衣」は、裏地のついた衣。上2句は、袷の衣に裏のある意で「裏」を導く序詞。「裏にせば」の解釈は、軽く思う、粗末に思う、異心を抱くなど諸説あります。「強ひめやも」の「や」は反語で、無理強いをするだろうか、いやしない。「君が来まさぬ」と尊んで言い、自身を「橡の袷の衣」と踐者に擬しているのは、身分の差を念頭に置いての表現とされます。窪田空穂は、「ある程度年をした女の、分別心をまじえていっているものである。嘆きを包んで、さりげなくいっているものではあるが、本心を偽ってのものではない」と述べています。

巻第12-2966~2970

2966
紅(くれなゐ)の薄染め衣(ころも)浅らかに相(あひ)見し人に恋(こ)ふるころかも
2967
年の経(へ)ば見つつ偲(しの)へと妹(いも)が言ひし衣(ころも)の縫目(ぬひめ)見れば悲しも
2968
橡(つるはみ)の一重(ひとへ)の衣(ころも)裏もなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも
2969
解(と)き衣(きぬ)の思ひ乱れて恋(こ)ふれども何のゆゑぞと問ふ人もなし
2970
桃花(もも)染めの浅(あさ)らの衣(ころも)浅らかに思ひて妹に逢はむものかも
 

【意味】
〈2966〉紅に薄く染めた衣の色が薄いように、ほんの行きずりに見た人が、別れても恋しく思われる。
 
〈2967〉何年か経ったらこれ見て私を思い出してください、と妻が言った衣。その縫目を見ると、悲しくてたまらない。

〈2968〉橡の一重の衣に裏地がないように、あの娘の心も裏もなく純真だから、よけいに恋しい。
 
〈2969〉脱ぎ捨てた着物のように、思い乱れて恋い焦がれているけれども、何のせいなのかと問いかけてくれる人もいない。

〈2970〉桃の色に染めた薄い色の衣のような、そんな薄っぺらい気持ちであなたに逢っているのではありません。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、衣に寄せての歌。2966の「紅の薄染め衣」は、紅花(べにばな)で薄く染めた衣。上2句は「浅らかに」を導く譬喩式序詞。「浅らかに」は、染め色が薄いことと恋心が薄いことを掛けています。男女どちらの歌とも取れ、両説に分かれていますが、「紅の薄染め衣浅らかに」の表現の細やかさからは、女の歌のように思われます。

 2967の「年の経ば」は、年が経ったならば。妻を亡くした、あるいは妻を置いて遠隔地に赴任した男の歌でしょうか、妻が縫ってくれた衣の縫い目を見て、妻の仕草を思い出し、恋しがっています。「旅に出たのなら、年ノ経バとは言わない」とする意見や、大伴家持の亡妾挽歌にある「秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも」(巻第3-464)との類似性から、挽歌的な発想で詠んでいるとの見方がありますが、
佐佐木信綱は「綻びかかった旅衣の縫目に涙する遊子望郷の情、あまりに感傷に過ぎると見るのは、時代を解しないものである。行路の不安、宿舎の不便は、今日から到底想像も及ばなかったのである」と述べています。
 
 2968の「橡」は、クヌギの木で、どんぐりを煮た汁で衣を染めた橡染めは、庶民の着物に使われました。上2句は「一重の衣」が裏地のない意から、「うらもなく」を導く序詞。「うら」は着物の裏地と「心」の意味を掛けています。「あるらむ子ゆゑ」は、いるであろう子ゆえに。男の歌で、無心で物思いも知らないような乙女に恋をし、自身の一人相撲のじれったさを歌っています。

 2969の「解き衣の」は、縫い糸を解きほどいた着物が布切れになってばらばらになることから「思ひ乱る」にかかる枕詞。「問ふ人」は、気にして尋ねる人で、ここは作者の夫。女の歌で、君のせいで思い乱れているのに、どうして君は「われゆえか」といって尋ねてくれないのかと、恨んでいる歌です。

 2970の「桃花染め」は、桃色染めで、衛士、兵士など下級役人の服色。「浅らの衣」は、色薄く染めた衣。「浅ら」は、形容詞「浅し」の語幹アサに、その状態を表すラのついたもの。上2句は「浅らかに」を導く同音反復式序詞。「浅らかに」は、染め色が薄いことと恋心が薄いことを掛けています。「逢はむものかも」の「かも」は、ここは反語。逢うのだろうか、いや逢いはしない。

巻第12-2971~2975

2971
大君(おほきみ)の塩焼く海人(あま)の藤衣(ふぢごろも)なれはすれどもいやめづらしも
2972
赤絹(あかきぬ)の純裏(ひたうら)の衣(きぬ)長く欲(ほ)り我(あ)が思ふ君が見えぬころかも
2973
真玉(またま)つくをちこち兼(か)ねて結びつる我(わ)が下紐(したひも)の解くる日あらめや
2974
紫(むらさき)の帯(おび)の結びも解きもみずもとなや妹(いも)に恋ひわたりなむ
2975
高麗錦(こまにしき)紐(ひも)の結びも解き放(さ)けず斎(いは)ひて待てど験(しるし)なきかも
 

【意味】
〈2971〉天皇の御料の塩を焼く海女が着ている藤衣、その衣が萎(な)れて古びているようにすっかり馴れ親しんではいるが、ますます目新しく可愛い。
 
〈2972〉赤い絹の総裏の着物の裾が長いように、末長くありたいと思っているあの方が、なかなか来て下さらない頃であるよ。

〈2973〉今も将来も変わらぬ心でいようと誓って結びあった、私の下紐が解ける日があるだろうか、ありはしない。
 
〈2974〉紫染めの帯の結び目を解く機会もなく、ただわけもなくあの子に恋い焦がれ続けることになるのか。

〈2975〉高麗錦の紐の結びも解かずに、わが身を慎んでお待ちしているけれども、その甲斐がありません。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、2972まで衣に寄せての歌。2971の「大君の塩焼く海人」は、天皇の御料の塩を焼く海人。契沖による『代匠記』には、越前国敦賀の海人だとあります。「藤衣」は、藤や葛の繊維で作った粗末な衣。上3句は、藤衣を着古してよれよれになることを「穢(な)る」というところから「なれ」を導く序詞。「なれ」は「馴れ」を掛けています。「いやめづらしも」の「いや」は、ますます。「も」は、詠嘆の助詞。

 2972の「赤絹」は、赤く染めた絹織物。「純裏の衣」は、表と同じ裏を付けた衣。原文「純裏衣」で、ヒツラノコロモ、ヒタウラゴロモなどと訓むものもあります。上等の服であり、長く仕立ててあるところから、ここまでの2句が「長く」を導く序詞。男の衣服を捉えてのものと見られます。「長く欲り我が思ふ君が」は、二人の関係が長くあってほしいと私が思う君が、の意。

 2973から5首は紐に寄せての歌。「真玉つく」の「真」は美称で、玉を付ける緒と続け、「をちこち」の「を」にかかる枕詞。「をちこち」は、遠くと近く、または将来と現在の意で、ここは後者。「兼ねて」は、わたって。「解くる日あらめや」の「や」は反語で、解ける日があるだろうか、いやない。女が男に貞節を誓った歌とされます。窪田空穂は、「夫婦約束を、下紐を結ぶことによってあらわしているのは、男と初めて逢って別れる時、男が女の下紐を結んだのに対していったとすれば、自然なものに聞こえる」と言っています。

 2974の「紫の帯」は、紫色に染めた帯。作者(男)がしている帯とする見方がありますが、相手の女性の帯とする説が有力です。最上の色とされる紫の帯をしているのは高貴な女性であると考えられます。「解きもみず」は、解きもせず。「もとなや」の「もとな」は、わけもなく、どうしようもなく。「や」は、詠嘆を込めた疑問の助詞。何らかの事情で逢い難くなっている男が、独り寝の床で妻を思っている心とされます。

 2975の「高麗錦」は、高麗から渡来した錦で、高級品。集中に7例ある「高麗錦」は他のいずれも「紐」の枕詞になっていますが、ここは枕詞とせずに文字通りに解したほうがいいという意見があります。「解き放けず」は、紐の結び目を解き放さない、すなわち操を守ること。この歌からは、結び合った下紐を解かないことが「斎ひて待つ」こと、すなわち男の身の無事を保証し、また自分のもとへ戻るようにさせる呪術の一つだったと知られます。「験なきかも」は、夫の訪れがなく、その効験、甲斐がないこと。

巻第12-2976~2980

2976
紫(むらさき)の我(わ)が下紐(したひも)の色に出(い)でず恋ひかも痩(や)せむ逢ふよしを無(な)なみ
2977
何ゆゑか思はずあらむ紐(ひも)の緒(を)の心に入りて恋しきものを
2978
まそ鏡(かがみ)見ませ我が背子(せこ)我が形見(かたみ)持てらむ時に逢はざらめやも
2979
まそ鏡(かがみ)直目(ただめ)に君を見てばこそ命(いのち)に向(むか)ふ我(あ)が恋やまめ
2980
まそ鏡(かがみ)見飽(みあ)かぬ妹(いも)に逢はずして月の経(へ)ゆけば生けりともなし
  

【意味】
〈2976〉紫染めの私の下紐が外から見えないように、顔色には出さずに恋い焦がれて痩せ細るのだろうか。逢う手立てがないので。

〈2977〉どうして思わずにいられようか。紐の緒が心にしっかり入り込むように、あの人が恋しくてならないのに。

〈2978〉この鏡をいつもごらん下さい、あなた。これを私の形見だと思って持っていらっしゃるかぎり、逢えないなんてことがありましょうか。

〈2979〉鏡に向かうように、じかにあなたのお顔が見られてこそ、命がけの私の恋心も鎮まることでしょう。
 
〈2980〉鏡を見るように、見ても見ても見飽きないあの子に逢わないまま月が経ってゆくので、生きている心地がしない。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、2977まで紐に寄せての歌。2976の上2句は、紫染めの下紐が高級品でありながら外から見えない意で「色に出でず」を導く序詞。「色に出でず」は、表面、顔色に表さず。「恋ひかも」の「か」は疑問の係助詞、「も」は詠嘆。「痩せむ」は「か」の結びの連体形で、痩せるのだろうか。「逢ふよしを無み」の「無み」は「無し」のミ語法で、逢う方法がないので。ここは倒置で、上の「恋ひかも痩せむ」の原因を言っています。

 2977の「何ゆゑか」の「か」は、疑問の係助詞。「思はずあらむ」の「あらむ」はその結びの連体形で、思わずにいられようか。「紐の緒の」は、紐を結ぶには、一方の端を輪にして、他方の端をそれに差し入れて結びますが、その輪を心と呼んだことから「心」にかかる枕詞。「心に入りて」は、心の中に深くしみ入って。窪田空穂は、「女の歌で、きわめて単純な歌である。『紐の緒の心に入りて』が、いかにも適切なために、若い心の全体を思わせ、『恋しきものを』の慣用句を生かし切っている。愛すべき歌である」と評しています。

 2978から4首は鏡に寄せての歌。2978の「まそ鏡」は、よく映る白銅製の鏡のことで、「見」の枕詞。「形見」は、自身の身代わりとして贈る物。旅の別れに鏡を贈るのは、中国から伝わった風習だといい、ここも夫の旅立ちに際してのものだろうとする見方があります。「持てらむ時」の「持てらむ」は、モテリに推量の助動詞ムが付いたもので、持っていたならその時。「逢はざらめやも」の「やも」は反語で、逢わないということがあるだろうか、いやない。歌の別の解釈として、形見を持っていれば共にいるのと同じだから、常に逢っていることだとするものもあります。

 2979の「まそ鏡」は「見」の枕詞。「直目」は、直接に見る目。「命に向ふ」は、命に値する、命がけの。「我が恋やまめ」の「め」は、上の「こそ」の係り結び。私の恋心も鎮まるだろう。妻が夫に贈った歌とされます。2980の「まそ鏡」は「見」の枕詞。「月の経ゆけば」の原文「月之経去者」で、ツキノヘヌレバと訓むものもあります。「生けりともなし」は、生きているとも思われない。

巻第12-2981~2985

2981
祝部(はふり)らが斎(いは)ふ三諸(みもろ)のまそ鏡(かがみ)懸(か)けて偲ひつ逢ふ人ごとに
2982
針はあれど妹(いも)し無ければ付けめやと我(わ)れを悩まし絶ゆる紐(ひも)の緒(を)
2983
高麗剣(こまつるぎ)我(わ)が心から外(よそ)のみに見つつや君を恋ひわたりなむ
2984
剣大刀(つるぎたち)名の惜しけくも我(わ)れはなしこのころの間(ま)の恋の繁(しげ)きに
2985
梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)はし知らず然(しか)れどもまさかは吾(われ)に寄りにしものを
 

【意味】
〈2981〉神主たちが祭壇にかけて大切に祀っているまそ鏡のように、心に懸けてあの人を偲んだことだ。出会う人ごとに。

〈2982〉針はあるけれど愛しい妻がいないので付けることができようか、付けられまいと、私を困らせるように紐の緒が切れてしまった。

〈2983〉私の心のゆえに、ただ遠目に見ているだけで、ずっとあなたを恋い続けるしかないのでしょうか。
 
〈2984〉私の名など惜しいという気持ちはない。この頃の恋が繁くあるので。

〈2985〉梓弓の末ではないが、行く末のことはわかりません。ですが、今は私に身も心も寄せてくれていることです。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、2981は、鏡に寄せての歌。「祝部」は、神に奉仕する職で、神主・禰宜(ねぎ)に告ぐ神官。歌では多く神職にある人を指して言われています。「斎ふ」は、呪術を行うこと、けがれを清めて忌み慎むこと。「三諸」は、神社や神坐。「まそ鏡」は、そこに供えてある澄んだ鏡。上3句は、鏡を懸けるところから「懸けて」を導く序詞。「懸けて偲ひつ」は、心に懸けて偲んだことだ。原文「懸而偲」で、カケテゾシノフと訓むものもあります。男女いずれの歌か分かりませんが、窪田空穂は、「祭礼の夜、社に参拝した女が、そこに集まっている男を見るごとに、自分の夫を連想して、思慕を募らせている心」と解しています。

 2982は、針に寄せての歌。「妹し無ければ」の「し」は、強意の副助詞。「付けめやと」の「や」は、反語の助詞。付けられようか、付けられまいと。「絶ゆる」は、切れる。旅の途中に切れてしまった衣の紐を手にして、針はあっても妻が傍にいないからお前には付けられまいと困らせるこの意地悪な紐よ、と紐を擬人化しています。旅先での歌でしょうか、あるいはふだんなかなか逢えない恋人を思っての歌でしょうか。「女性の母性本能をそそるような歌である」との評があります。

 2983・2984は、剣に寄せての歌。2983の「高麗剣」は、高麗から伝来した剣で、柄頭に環状の飾りが付いているところから「我(わ)」にかかる枕詞。「心」の原文「景迹」で、ココロではなく行状の意のワザと訓み、第2句を「おのが行(わざ)から」とするものもあります。「外のみに見つつや」の「や」は、疑問の係助詞。「恋ひわたりなむ」は結びの連体形で、恋い続けていくのだろうか。私の心のゆえにというのは、自分の弱い性分のせいでと言っているのでしょうか、それとも何か男を腹立たせるようなことがあったのでしょうか。

 2984の「剣太刀」は「名」の枕詞。「名」に続けるのは、太刀には刀鍛冶が名を刻むことから、あるいは刀の刃を奈(な)と言ったところからとも言われます。「惜しけく」は「惜し」のク語法で名詞形。恋の激しさのあまり名を重んじる心を捨てようという、類想の多い歌で、巻第4-616にある山口女王の「剣大刀名の惜しけくも我れはなし君に逢はずて年の経ぬれば」に倣ってのものとみえます。

 2985から5首は、弓に寄せての歌。「梓弓」は梓の木で作った弓で、その下方を本、上方を末というところから、「末」の枕詞。「末」は、行く末、将来。「末はし」の「し」は、強意の副助詞。「まさか」は「末」に対して、現在の意。「寄りにしものを」の「寄りにし」は、好意や思いを寄せた状態の表現。「ものを」は、逆接の気持を表した詠嘆。左注に、ある本に「梓弓末のたづきは知らねども心は君に寄りにしものを」という、とありますが、本歌が男の歌と見られるのに対しこちらは女の歌であり、別伝というより独立した別の歌だろうとされます。

巻第12-2986~2990

2986
梓弓(あづさゆみ)引きみ緩(ゆる)へみ思ひみてすでに心は寄りにしものを
2987
梓弓(あづさゆみ)引きて緩(ゆる)へぬ大夫(ますらを)や恋といふものを忍(しの)びかねてむ
2988
梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)の中ごろ淀(よど)めりし君には逢ひぬ嘆きは止まむ
2989
今さらに何をか思はむ梓弓(あづさゆみ)引きみ緩(ゆる)へみ寄りにしものを
2990
娘子(をとめ)らが績(う)み麻(を)のたたり打ち麻(そ)懸(か)け績(う)む時なしに恋ひわたるかも
 

【意味】
〈2986〉梓弓を引いたり緩めたりするように、よく考えてみて、私の心はすっかりあなたに寄り添っています。
 
〈2987〉梓弓を引き絞ったまま緩めないでいるような、張り詰めた心の男子たるものも、恋にかかってはこんなに耐えきれないものなのか。

〈2988〉梓弓の先から手元を、引き絞ったまま静止するように、しばらく逢えなかったあなたにやっと逢えたので、私の嘆きはおさまるでしょう。
 
〈2989〉今さら何を思い悩みましょうか。弓を引いたり緩めたりして弓の本末が寄るように、私の心はあなたに寄ってしまいましたのに。

〈2990〉娘子らが麻紡ぎをするたたりに、打った麻を懸けて糸を績むように、倦(う)む時もなく恋い続けています。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、2989まで弓に寄せての歌。2986の「梓弓」は、梓の木で作った弓。梓は神聖な木とされ、狩猟用の弓のほか、祭祀などにも用いられました。「引きみ緩へみ」は、引き絞ったり緩めたりで、弓を試してみる意。「思ひみて」は、よく考えてみて。「寄りにしものを」の「寄りにし」は、好意や思いを寄せた状態の表現。「ものを」は、逆接の気持を表した詠嘆。窪田空穂は、「女が男の求婚を承諾して、その男と初めて逢った夜、改めて心を告げたもの」と解しています。

 2987の「引きて緩へぬ」は、引き絞って緩めないでいる。「大夫や」の「や」は、疑問の係助詞。「忍びかねてむ」の「かね」は不可能・困難の意を表す動詞、「て」は完了の助動詞、「む」は推量の助動詞で、耐えることができない意。

 2988の「梓弓」は「末」の枕詞。「末」は、弓の上方。「梓弓末の」は、梓弓の末に「中」と称する部分があって「中」を導く序詞で、「中ごろ」は中途を意味するとされますが、ここの掛かり方を含む解釈は諸説あるところです。「淀めりし」は、途絶えていた。「嘆きは止まむ」の原文「嗟羽將息」で、ナゲキハヤメムと訓み、嘆くことは止めよう、と、自分の意志を述べたものと解する説もあります。

 2989の「梓弓引きみ緩へみ」は、梓弓を引き絞ったり緩めたり。この2句は、弓の本と末が寄る意で「寄り」を導く序詞。上の2986の歌の異伝かともいわれます。

 2990は、麻に寄せての歌。「娘子ら」の「ら」は、接尾語。「績み麻」は績んだ麻糸で、「績む」とは麻を細く裂いてつむいで糸にすること。「たたり」は、台の上に棒を立てた道具で、そこに糸を巻きつけるもの。「打ち麻」は、麻の茎を打ってやわらかくした麻のこと。上3句は、そのようにして績むところから「績む」を導く序詞。「績む」を、飽きて嫌になることがない意の「倦む」に転じ、倦む時もなく恋い続けていることよと嘆いています。男の歌。

巻第12-2991~2995

2991
たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)りいぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして
2992
玉たすき懸(か)けねば苦し懸けたれば継(つ)ぎて見まくの欲しき君かも
2993
紫のまだらの縵(かづら)花やかに今日(けふ)見し人に後(のち)恋ひむかも
2994
玉縵(たまかづら)懸(か)けぬ時なく恋ふれども何しか妹(いも)に逢ふ時もなき
2995
逢ふよしの出(い)で来るまでは畳薦(たたみこも)重(かさ)ね編(あ)む数(かず)夢(いめ)にし見えむ
   

【意味】
〈2991〉母親が飼っている蚕(かいこ)が繭にこもっているように、あの子を閉じ込めているから、気持ちが晴れない、あの子に逢えないので。

〈2992〉声をかけねば苦しくてたまらない。声をかけたらかけたで続けてお逢いしたくなるあなたです。

〈2993〉紫色にまだらに染めた縵(かずら)のように、花やかに美しいと今日見かけたあの人に、後になって恋い焦がれるだろうな。

〈2994〉心に懸けて思わない時はなく恋い焦がれているけれど、どうしてあの子に逢う時もないのだろうか。

〈2995〉逢える手がかりが出てくるまでは、畳薦を幾枚も重ねて編む数ほどに、夜の夢に見ることだろう。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2991は、繭(まゆ)に寄せての歌。「たらちねの」は「母」の枕詞。「蚕」は、カイコ。桑の葉で飼うので「桑子」とも。上3句は、蚕が繭にこもって身動きのできない状態から、鬱陶しい意の「いぶせく」を導く序詞。「妹に逢はずして」の原文「異母二不相而」で、イモニアハズテと訓むものもありますが、単独母音アがあるので字余りに訓むのがよいとされます。『柿本人麻呂歌集』所収の歌に「たらちねの母が養ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも」(巻第11-2495)があり、本歌の元歌と見られています。

 この時代の母親の地位は高く、とくに娘の結婚に母親が口出しし、婿選びをするなど、結婚決定権は父親ではなく母親にあったようです。この歌のほかにも、母親が娘の交際相手を管理し、時には恋の障害となる歌が数多く見られます。ここでは、愛しい恋人に逢うことができない腹立たしい気持ちを、蚕が繭に籠る様子に喩えています。養蚕は古くから日本で行われており、『魏志倭人伝』にもその記述がみられます。古代中国の養蚕は皇后が務める重要な職掌とされ、日本でも女性が担っていました。そのため『万葉集』でも、蚕を飼うのは母となっています。

 2992は、たすきに寄せての歌。「玉たすき」の「玉」は美称で、意味で「懸く」にかかる枕詞。「懸く」は、ここは口に出して呼ぶ意とする説に従いましたが、「懸けねば」「懸けたれば」はそれぞれ、心に懸けなければ、心に懸けて思えば、と解し、心に思うまいと努力するのは苦しいと歌っているとする説もあります。「見まくの欲しき」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。お逢いしたいということ。「かも」は、詠嘆。女の歌とされます。

 2993・2994は、縵(かづら)に寄せての歌。「縵」は、蔓性植物で作った髪飾りとされます。2993の「紫」は、ここでは染め色のこと。「まだらの縵」の原文「綵色之蘰」で、シミイロノカヅラ、シミノカヅラノなどと訓むものもあります。シミは「染(し)み」の名詞形。上2句は「花やかに」を導く譬喩式序詞。「今日見し人に」の原文「今日見人尓」で、ケフミルヒトニと訓んで、今日見ている人に、と解するものもあります。「後恋ひむかも」は、後になって恋うることだろうか。男女どちらの歌とも取れます。

 2994の「玉縵」の「玉」は美称、頭に懸ける意で「懸く」にかかる枕詞。「懸く」は、心に懸ける。「いかにか」は、どうしてであろうか。男の歌。2995は、畳薦に寄せての歌。「逢ふよしの」の「よし」は、方法、手だて。「畳薦」は、畳に編むマコモの類。「重ね編む数」は、それを編む目数で、数の多いことの譬喩。「夢にし見えむ」の「し」は、強意の副助詞。原文「夢西將見」で、イメニシミテムと訓み、見ていようと解するものもあります。男の歌とされます。

巻第12-2996~3000

2996
白香(しらか)つく木綿(ゆふ)は花物(はなもの)言(こと)こそは何時(いつ)のまさかも常(つね)忘らえね
2997
石上(いそのかみ)布留(ふる)の高橋(たかはし)高々に妹が待つらむ夜(よ)ぞ更けにける
2998
湊(みなと)入りの葦(あし)別(わ)け小舟(をぶね)障(さは)り多み今来む我れを淀むと思ふな
2999
水を多み上田(あげ)に種(たね)蒔(ま)き稗(ひえ)を多み選(え)らえし業(なり)ぞ我(あ)がひとり寝(ぬ)る
3000
魂(たま)合へば相寝(あひぬ)るものを小山田(をやまだ)の鹿猪田(ししだ)守(も)るごと母し守(も)らすも [一云 母が守らしし]
 

【意味】
〈2996〉白香として付ける木綿はうわべだけのもの。あの人の美しい言葉こそは、いつどんな時も忘れることができません。

〈2997〉愛しい人が住む、あの石上の布留川にかかった高い橋ではないが、高々と、愛しい人が待ち焦がれているだろう、ああ夜が更けてきた。

〈2998〉湊へ入る葦わけ小舟に故障が起こることが多いように、差し障りが多くて、今やっとそちらへ行こうとする私を、もう来なくなったと思わないでください。

〈2999〉水が多いので高い所にある田に稲の種をまき、稗が多いのでそれを選り分ける仕事をしている。そのようにして抜き取られた稗のように、私も独り寝をしている。
 
〈3000〉心が通じ合ったのだから共に寝られるというのに、まるで鹿や猪から大切な田を守るように、あの子の母親が見張りをしておいでだ。[一云 母親が見張りをしておいでだった]

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2996は、木綿に寄せての歌。「白香つく」は、語義・かかり方未詳ながら「木綿」の枕詞。「木綿」は、楮の繊維。「花物」は、うわべだけではかないもの。「何時のまさかも」は、現在の意で、いついかなる時でも。「まさか」の原文「真枝」をマエダと訓んで、消息を結びつける木の枝とし、あなたの言葉は真枝のように立派で忘れられない、のように解するものもあります。女の歌とされます。

 2997は、橋に寄せての歌。「石上」は、いまの奈良県天理市の石上神社のあたりから西の一帯。「布留」は、石上神社周辺の布町。「高橋」は、その地を流れる布留川に架かっていた高い橋。以上2句は「高々に」を導く同音反復式序詞。「高々に」は、人を待つ形容で、今か今かと爪先立つ思いを表す副詞。「待つらむ」の「らむ」は、現在推量。男が女の所へ急ぐ折の心を詠んだ歌、あるいは支障があって行けなくなり独り夜を過ごす辛さを詠んだ歌とされます。

 2998は、舟に寄せての歌。「湊入り」は、船を港に着ける意。「葦別け小舟」は、海岸に生えている葦を分けて入っていく小舟。「障り多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、支障が多いので。「今来む我れを」は、今やっと行こうとする我を。他に、今そのうちに行くはずの我を、今ごろになって来る我を、のように解するものもあります。「淀む」は、絶える、停滞する。左注に「或る本に曰く」として「湊入りに蘆別小船障り多み君に逢はずて年ぞ経にける」とありますが、上3句が同じのみで、本歌が男の歌、こちらは女の歌であり、別の歌とされます。

 2999・3000は、田に寄せて歌。2999の「水を多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、水が多いので。「上田」は、土地の高い所にある田。「選らえし」は、選んで抜き取る意。原文「択擢之」で、エラレシ、エラユルなどと訓むものもあります。「業」は、ここは農事のこと。ワザと訓むものもあります。上4句が結句の「我がひとり寝る」にかかる譬喩となっていて、愛しい人に捨てられた嘆きの歌、男女どちらの歌とも取れますが、持てない男のひがみ歌との見方もあります。。

 3000の「魂合へば」は、心が通じたのだから、心が通じ合っているので。「相寝るものを」の原文「相宿物乎」で、アヒネムモノヲと訓み、共に寝ようものを、のように解するものもあります。「小山田」の「小」は、接頭語。「鹿猪田」は、鹿や猪が荒らす田。「守らす」は「守る」の敬語。娘の母親の反対で逢うことができないことを嘆く男の歌とされますが、自分の母親の妨害をからかう女の歌との見方もあります。男が女のもとに通う「通い婚」にあっては、実際に逢う(=性交渉を持つ)許可を下す決定権の多くは、女の母親が握っていたのです。

巻第12-3001~3005

3001
春日野(かすがの)に照れる夕日の外(よそ)のみに君を相(あひ)見て今ぞ悔(くや)しき
3002
あしひきの山より出(い)づる月待つと人には言ひて妹(いも)待つ吾(われ)を
3003
夕月夜(ゆふづくよ)暁闇(あかときやみ)のおほほしく見し人ゆゑに恋ひ渡るかも
3004
ひさかたの天(あま)つみ空に照る月の失(う)せむ日にこそ吾(あ)が恋止まめ
3005
十五日(もちのひ)に出でにし月の高々(たかだか)に君を坐(いま)せて何をか思はむ
  

【意味】
〈3001〉春日野に照っている夕日を見るように、自分に関係ないとばかり思って見ていたのが、今になって悔やまれる。

〈3002〉山から出てくる月を待っていると人には告げながら、実はあの子を待っている私であるよ。

〈3003〉夕月の夜の、明け方の闇のように、ほのかに見かけたお人であるのに、恋い続けていることだ。

〈3004〉空高く照る月がこの世から無くなってしまう日が来るならば、私の恋も止むだろうけど。
 
〈3005〉十五夜の月を待っていたように、高々と爪先立ってお待ちしていたあなたがいらっしゃって、もう何も思い残すことはありません。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3001は、日に寄せての歌。「春日野」は、奈良市東方の春日山地西麓一帯の野。上2句は、照っている夕日を遠く見る意で「外のみに」を導く序詞。「外のみに」は、自分には関係ないとばかり思って。「今ぞ悔しき」は、今になって悔やまれる。窪田空穂は、「女の歌で、男から求婚された時、冷淡に扱って、関係を結ぶまでに至らなかったのを、後悔している心である」と説明しています。

 3002~3005は、月に寄せての歌。3002の「あしひきの」は「山」の枕詞。末尾の「を」は、詠嘆。戸外で恋人と逢う約束をして待っているのに、相手の女性がなかなか現れず、通る人に見咎められるたびに、「月を見ようと思って」と言い訳しています。どこまで本気にしてもらえたか、自分でも疑わしいのでしょう。巻第13-3276の長歌の末尾5句がこの短歌にそっくりで、「妹」が「君」になっているだけの違いです。広く愛誦された歌なのでしょう。

 3003の「夕月夜」は、月の前半の夕方に月が出る頃は、明け方が闇になるところから「暁闇」にかかる枕詞。上2句は「おほほしく」を導く譬喩式序詞。「おほほしく」は、ほのかに、おぼろげに。「見し人ゆゑに」の「人」は、女。「ゆゑに」は、原因・理由を示すというより、~であるのに、の意。類歌の多いものです。

 3004の「ひさかたの」は「天」の枕詞。集中50例ある枕詞で、天・雨・月などにかかりますが、語義・掛かり方とも未詳。「照る月の」の原文「照月之」は、本によっては「照日之」となっており、テレルヒノ、テラスヒノとするものがあります。失せるのは月と日のどちらでしょうか。男が女に対して自分の真実の恋を誓った歌とされ、月(日)が消える日などあり得ないことから、何があっても私の思いは決して止むことはない、と言っています。

 3005の「十五日に出でにし月」は、十五夜に出てきた月。上2句は、月が空高く上っている意で「高々に」を導く序詞。「高々に」は集中に8例あり、多くは「待つ」にかかり、爪先だって待ち望むさまを言いますが、ここは、貴いさまに、の意とする説もあります。「坐せて」は、いさせての敬語。「何をか」の「か」は、疑問。思う人をようやく迎えることのできた女の喜びの歌、あるいは賓客を招いた時の歌とされます。

巻第12-3006~3010

3006
月夜(つくよ)よみ門(かど)に出で立ち足占(あしうら)して行く時さへや妹(いも)に逢はざらむ
3007
ぬばたまの夜(よ)渡(わた)る月の清(さや)けくはよく見てましを君が姿を
3008
あしひきの山を木高(こだか)み夕月(ゆふづき)をいつかと君を待つが苦しさ
3009
橡(つるはみ)の衣(きぬ)解(と)き洗ひ真土山(まつちやま)本(もと)つ人にはなほ及(し)かずけり
3010
佐保川(さほがは)の川波(かはなみ)立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも
  

【意味】
〈3006〉よい月夜なので門口に出て足占いをして、あなたに逢えると出たから来たのに、やはり逢えないのでしょうか。

〈3007〉夜空を渡っていく月が清らかに照っていれば、心ゆくまで見ることができただろうに、あの人のお姿を。

〈3008〉山の木々が高いので、いつになったら夕月が見られるだろうかと待つように、あなたを待っている心の苦しさよ。

〈3009〉橡の衣を解いて洗ってまた打つという、真土山の名のような本つ人(古馴染みの女)には、やはり及ばないことであった。

〈3010〉佐保川に波が立たず静かなように、私もあなたに心静かに寄り添っていたい、明日の日も。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、3006~3008は、月に寄せての歌。3006の「月夜よみ」の「よみ」は「よし」のミ語法で、月夜が好いので。「足占」は、一歩一歩吉凶の言葉を交互に唱えながら進み、目標に達したときの言葉によって判断した占い。「行く時さへや」の「や」は、疑問。「妹に逢はざらむ」は、妹に逢わないのであろうか。月夜に占いをして女に逢いに行く歌は、大伴家持の歌に「月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をそせし行かまくを欲り」(巻第4-736)があり、家持は本歌の影響を受けていると見られています。

 3007の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「清けくは」は、清く明るく照っていたならば。「よく見てましを」は、反実仮想の助動詞、「を」は逆接の助詞で、~のに、の意。よく見ることができただろうに。女の歌で、月の無い夜に逢った心残りを詠んだ、あるいは男に逢った翌日あたりに男に贈った歌とされます。3008の「あしひきの」は「山」の枕詞。「木高み」「木高し」のミ語法で、木が高いので、高く茂っているので。上3句は「いつかと君を待つ」を導く譬喩式序詞。夕方に夫の来訪を待つ女の歌です。

 3009は、山に寄せての歌。「橡の衣」は、どんぐりの実を染料として染めた庶民の衣服。「解き洗ひ」は、解いて洗う。上2句は、衣の材料である麻は、洗うと硬ばるところから、砧でまた打つ意で、その約音の「まつち」に続け「真土」を導く序詞。上3句は「まつち」の類音で「本つ人」を導く序詞。序詞の中に序詞を含む形になっています。「本つ人」は、古くから関係していた女、古女房のことで、やはりどの女も及ばなかったと言っています。窪田空穂は、「多妻時代とて、男は新しい妻をもったが、もって見ると、やはり古妻のほうがまさっていたと感じた心である」と述べています。

 3010は、川に寄せての歌。「佐保川」は、奈良市・大和郡山市を流れる川。上2句は「静けくも」を導く譬喩式序詞。「静けくも」は、形容詞「静けし」の連用形に詠嘆の助詞「も」。「たぐひて」は、寄り添って。「もがも」は、願望の終助詞。佐佐木信綱は、「灼熱の恋がおさまって、しみじみとした愛情の中に静かに満足している虔ましやかな女性の姿が浮んで来る」と述べ、窪田空穂は、「物静かに、柔らかく、品位をもっていっている歌」と評しています。

巻第12-3011~3015

3011
我妹子(わぎもこ)に衣(ころも)春日(かすが)の宜寸川(よしきがは)よしもあらぬか妹(いも)が目を見む
3012
との曇(ぐも)り雨(あめ)布留川(ふるかは)のさざれ波(なみ)間(ま)なくも君は思ほゆるかも
3013
我妹子(わぎもこ)や我(あ)を忘らすな石上(いそのかみ)袖布留川(そでふるかは)の絶えむと思へや
3014
三輪山(みわやま)の山下(やました)響(とよ)み行く水の水脈(みを)し絶えずは後(のち)も我が妻
3015
雷(かみ)のごと聞こゆる滝(たき)の白波の面(おも)知る君が見えぬこのころ
  

【意味】
〈3011〉愛しい人に着物を貸すではないが、その春日の吉城川で、愛しい人の顔を見る手掛かりがないだろうか。

〈3012〉一面にかき曇って雨が降る、その布留川のさざ波のように、絶え間なくあなたのことを思っています。

〈3013〉私のいとしい妻よ、私を忘れないでくれ。石上の、袖を振るという布留川の水のように、私の思いが絶えることなどあろうか。

〈3014〉三輪山の山すそを響かせて流れる水、その水が絶えないかぎり、いついつまでもあなたは私の妻だ。

〈3015〉まるで雷に聞こえる激流の白波のように、お顔をはっきりと知るあなたは、いっこうに姿を見せない、このごろは。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、川に寄せての歌。3011の「我妹子に衣」までの8音は、いとしい女に衣を「貸す」を転じて、同音の地名の「春日」を導く序詞。上3句は「宜寸川」の同音で「よし」を導く序詞で、序詞の中に序詞を含んでいます。「宜寸川」は、春日山に発し佐保川に合流する吉城川。「よしもあらぬか」の「よし」は、手立て、手がかり。「あらぬか」は、ないのか、あってくれよで、願望。「妹が目を見む」は、妹の顔を見よう。

 3012の「との曇り雨」の7音は、雨が「降る」を転じて、同音の「布留川」を導く序詞。「布留川」は天理市布留町付近を流れ、大和川に合流する川ですが、「雨降る川」として、雨の降っている川と解する説もあります。上3句は「間なくも」を導く譬喩式序詞で、こちらも序詞の中に序詞を含んでいます。「間なく」は、絶え間なく。「思ほゆるかも」の「かも」は、詠嘆。

 3013の「我妹子や」の「や」は、呼びかけの意。「忘らすな」の「忘らす」は「忘る」の敬語。「石上」は、奈良県天理市の石上神宮西方一帯の地。「石上袖布留川の」は、石上布留川の水のようにで、「袖」は「袖振る」から「布留川」にかけた一語の序詞。そして全体が、絶えない意で「絶えむと思へや」を導く序詞。「絶えむと思へや」の「や」は反語で、絶えようと思おうか思いやしない。

 3014の「三輪山の」の原文「神山之」で、大和の人々は三輪山に鎮座する大神(大物主神:おおものぬしのかみ)を特に崇拝していたことから「神山」をミワヤマと訓むものです。今も三輪神社を大神神社と書いておおみわ神社と言っています。「響み」は、響かせて。「行く水の」の原文「逝水之」は、「水」をカハと訓む例があることから、ユクカハノと訓むものもあります。「水脈」は、水の流れる筋。「し」は、強意の副助詞。「後も」は、将来も。

 3015の「雷のごと聞こゆる」は、雷のように聞こえる。「滝」は、漢語として急流、激流を表し、タギルと同根の語。現在の滝に相当する語は「垂水」。上3句は「面知る」を導く序詞。かかり方については、白波の様子が面白いところからとする説、白波が顕著に目立つものの譬喩としてかかるとする説、「白波」と「面知る」の類音でかかるとする説に分かれています。「面知る」は、顔を見知っている。女の歌で、顔だけはよく見知っている人にひそかに懸想している嘆きをほのめかしているものと見えます。

巻第12-3016~3020

3016
山川(やまがは)の滝(たき)にまされる恋すとぞ人知りにける間(ま)無くし思へば
3017
あしひきの山川水(やまがはみづ)の音(おと)に出(い)でず人の子ゆゑに恋ひ渡るかも
3018
高瀬(たかせ)なる能登瀬(のとせ)の川の後も逢はむ妹(いも)には我(わ)れは今にあらずとも
3019
洗ひ衣(ぎぬ)取替川(とりかひがは)の川淀(かはよど)の淀(よど)まむ心思ひかねつも
3020
斑鳩(いかるが)の因可(よるか)の池の宣(よろ)しくも君を言はねば思ひぞ我(あ)がする
  

【意味】
〈3016〉山川を下る激流にもまさる激しい恋をしていたら、人が知ってしまった。絶え間なく思っているので。

〈3017〉山を下る川の水が音も立てずに流れるように、声には出さずに、人の大事にするあの子のせいで、私は恋い続けていることだ。
 
〈3018〉愛しいお前に、今は逢えないが、今ではなくても、巨勢の能登瀬川で後に逢おう。

〈3019〉洗った衣に取り替えて着るという名の取替川の淀みのように、淀んだ心を持つことなど到底できないことだ。

〈3020〉斑鳩(いかるが)の因可(よるか)の池の名前のように「よろしい人、好ましい人だ」と誰もあなたのことを言わないので、物思いを私はすることです。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3016~3019は、川に寄せての歌。3016の「山川」は、山の中を流れる谷川。「滝」は激流で、恋心の激しさの譬喩。「恋すとぞ」の「ぞ」は強めの係助詞、「人知りにける」の「ける」は結びの連体形。人が知ってしまった。「間無くし思へば」の「し」は強意の副助詞で、絶え間なく思っているので。

 3017の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山川水」は、山の谷川を流れる水。上2句は「音」を導く譬喩式序詞。「音に出でず」は、声に出さずに。「人の子」は、他人のように自分の思いどおりにならない、人妻とか親の監視下にある若い女性のこと。「恋ひ渡る」の「渡る」は、~し続ける。「かも」は、詠嘆。片恋をしている男の嘆きの歌です。

 3018の「高瀬なる」は、高瀬にある。高瀬は、所在未詳。原文「高湍尓有」で、タカセニアル、コセニアルなどと訓むものもあります。「能登瀬の川」は、所在未詳。上2句は、能登の類音で「後」を導く序詞。3019の「洗ひ衣」は、洗った衣。汚れた衣を洗った衣に取り替える意で「取替」にかかる枕詞。「取替川」は、所在未詳。上3句は「淀まむ」を導く同音反復式序詞。「思ひかねつも」の「かね」は、~することができない、~するに耐えられない意の補助動詞「かぬ」の連用形。

 3020は、池に寄せての歌。「斑鳩」は、奈良県生駒郡の南部。法隆寺ほか聖徳太子ゆかりの古刹の多い地ですが、『万葉集』にその地名が歌われるのはこの1首のみです。地名の由来ははっきりしませんが、昔この地方に多くいた斑鳩(まだらばと:一般にはイカルと呼ばれ、雀と鳩の中間くらいの大きさ)に因むといわれます。「因可の池」は所在未詳ながら、法隆寺の一般公開されていない境内の一角に、昔から「因可の池」と語り継がれてきた場所があるといいます。上2句が「因可」の類音で「宜し」を導く序詞。「思ひぞ我がする」は「ぞ~する(連体形)」の係り結びで、物思いを我はすることである。窪田空穂は、「女が夫である男に贈った形の歌である。男が他に女をもっていると聞いて、気を揉んでいる訴えであるが、それを『宜しくも君を言はねば』と婉曲にいっているのは、そのためと取れる」と言っています。

巻第12-3021~3025

3021
隠(こも)り沼(ぬ)の下(した)ゆは恋ひむいちしろく人の知るべく嘆きせめやも
3022
行く方(へ)無み隠(こも)れる小沼(をぬ)の下思(したも)ひに我(わ)れぞ物思(ものも)ふこのころの間(あひだ)
3023
隠(こも)り沼(ぬ)の下(した)ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出(い)でぬ人の知るべく
3024
妹(いも)が目を見まく堀江(ほりえ)のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ
3025
石走(いはばし)る垂水(たる)の水のはしきやし君に恋ふらく吾(わ)が心から
 

【意味】
〈3021〉隠り沼のように心の奥底で密かに恋い焦がれていよう。はっきりと人に知られてしまうように嘆いたりなどするものか。

〈3022〉水の行く先がなくてひっそりと隠っている小沼のように、心密かに私は恋に沈んでいる。このごろずっと。
 
〈3023〉隠り沼のように心密かに恋い焦がれていた思いが溢れ出て、白い波のようにはっきりと顔に出てしまった。世間の人が知ってしまうほどに。

〈3024〉妻に逢いたいと欲り願う、その堀江に立つさざ波のように、しきりに恋い続けていると伝えてくれよ。

〈3025〉岩の上を走る滝の水のように、愛しいあなたを恋い焦がれて苦しいのは、他でもない自分の心のせいです。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3021~3023は、沼に寄せての歌。3021の「隠り沼」は、水の流れて行く出口のない淀んだ沼。「隠り沼の」は、下を通って流れ出す意で「下」にかかる枕詞。「下ゆ」の「下」は心の中、「ゆ」は起点・経由点を示す格助詞で、心の奥底から。「いちしろく」は「いと白く」で、はっきりと。「嘆きせめやも」の「や」は反語、「も」は詠嘆。嘆いたりするだろうか、いやしない。表面に現れそうな自分の恋心を抑制しているもので、類想の多い歌です。

 3022の「行く方無み」の「無み」は「無し」のミ語法で、行き先がないので。「小沼」の「小」は、接頭語。上2句は隠れる小沼が下を通って流れ出す意で「下思」を導く序詞。「下思」は、心の中で思うことで、名詞。男が女に片恋の悩みを訴えた歌とされます。3023の「下ゆ恋ひあまり」の「下」は心の中、「ゆ」は起点・経由点を示す格助詞。「恋ひあまり」は、恋い焦がれていた思いが溢れ出て。「白波の」は、白波が目にはっきり見えることから「いちしろく」にかかる枕詞。「いちしろく」は、はっきりと。

 3024は、堀江に寄せての歌。「目を見まく」は「見む」のク語法で名詞形。じかに顔を見る、直接逢うこと。「見まく」までの8音は「欲り」を「堀江」の「掘」に転じて、その序詞としたもの。「堀江」は、舟などを通すために人工的に掘って作った運河で、難波の堀江か。上3句は、堀江の波がしきりに立つことから「しきて」を導く序詞。「しきて」は、たび重なって。「こそ」は、希望の助動詞「こす」の命令形。妻への伝言を頼んでいる歌です。

 3025は、垂水に寄せての歌。「石走る」は、川の水が岩の上を激しく流れること。「垂水」は、滝。上2句は「はしきやし」を導く譬喩式序詞。「はしきやし」は、ああ愛しい。「恋ふらく」は「恋うる」のク語法で名詞形。窪田空穂は、「女のひそかに男に心を寄せている歌である。『石走る垂水の水の』は、女がその男に対しての感じで、さわやかに、流動的で、粗野ではない感じをあらわし得ている。含蓄のあるものである。『吾が情から』は、相手に関係なく、自身の心だけで働きかけていることをあらわしているものである。教養あり、洗練された心から生まれている歌」と評しています。

巻第12-3026~3030

3026
君は来(こ)ず吾(われ)は故(ゆゑ)無(な)み立つ波のしくしくわびしかくて来(こ)じとや
3027
近江(あふみ)の海(うみ)辺(へた)は人知る沖つ波(なみ)君をおきては知る人も無し
3028
大海(おほうみ)の底を深めて結びてし妹(いも)が心は疑(うたが)ひもなし
3029
貞(さだ)の浦に寄する白波(しらなみ)間(あひだ)無く思ふを何か妹(いも)に逢ひかたき
3030
思ひ出(い)でてすべ無き時は天雲(あまくも)の奥処(おくか)も知らず恋ひつつぞ居(を)る
 

【意味】
〈3026〉あなたは来てくださらない。私には思い当たる節がなく、立つ波のように、しきりにわびしい思いでいます。もういらっしゃらないというのでしょうか。

〈3027〉近江の海の岸辺のことは誰でも知っています。けれども、沖の波の方は、あなた以外に知る人はいません。
 
〈3028〉大海の底が深いように、心の奥底まで深く思って結ばれたあの子の心には、何の疑いも持っていない。

〈3029〉貞の浦に寄せてくる白波のように、これほど絶え間なく思い続けているのに、どうしてあの子に逢えないのだろう。

〈3030〉妻のことを思い出してどうしようもない時は、天雲のように、果てがどこか分からないように恋い続けている。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3026は、波に寄せての歌。「吾は故無み」の「無み」は「無し」のミ語法で、理由が分からず。原文「吾者故無」で、ワレハユヱナクと訓み、わけもなく立つ波のように、と解するものもあります。「立つ波の」は「しくしく」の枕詞。「しくしく」は、しきりに。「かくて来じとや」は、このようにして結局来ようとしないのだろうか。武田祐吉は、「ひとりで気をもむさまが、口をついて調子よく出ている感じである」と述べています。

 3027の「近江の海」は、琵琶湖。「辺」は、岸寄りの方で、自分自身の表面を譬えています。「沖つ波」は「辺」の対で、沖の波。自分の深い心を譬えています。「君をおきては」は、あなた以外には。女が男に対して、その真実を誓った歌であり、佐佐木信綱は、「内容は何の奇もないが、技巧のすぐれた歌である」と評し、武田祐吉は「譬喩が巧妙」と述べています。以下3首は、海に寄せての歌。

 3028の「大海の底を」の8音は、「深めて」を導く譬喩式序詞。「大海の底を深めて」は、大海の深い底のように心を深くして、の意。窪田空穂は、「男女関係の成り立った時、女が真実を誓うことをいったのに対して、男がそれを喜んで答えた形の歌である。当時の夫婦関係は、不安と動揺の伴いやすい状態であったから、『疑もなし』という語は、深い信頼をあらわしたものだったのである」と述べています。

 3029の「貞の浦」は、所在未詳。上2句は「間無く」を導く譬喩式序詞。「間無く」は、絶え間なく。「思ふを何か」の「を」は逆接の接続助詞で、思っているのに。原文「思乎如何」で、「思ふをいかに」と訓むものもあります。3030の「天雲の」は、空に広がる雲が果てなく続くところから「奥処も知らず」にかかる枕詞。「奥処」は、果て、奥まった所。逢い難い妻を思う男の歌であり、伊藤博は「『天雲の奥処も知らず』の表現が、我が心の奥底に深い思いを沈めて、いつ晴れるとも知れぬ実感が迫ってくる」と評しています。以下3首は、雲に寄せての歌。

巻第12-3031~3034

3031
天雲(あまぐも)のたゆたひやすき心あらば吾(あ)をな頼(たの)めそ待たば苦しも
3032
君があたり見つつも居(を)らむ生駒山(いこまやま)雲なたなびき雨は降るとも
3033
なかなかに何か知りけむ我が山に燃ゆる煙(けぶり)の外(よそ)に見ましを
3034
吾妹子(わぎもこ)に恋ひすべ無かり胸を熱み朝戸(あさと)開くれば見ゆる霧(きり)かも
  

【意味】
〈3031〉漂う雲のように揺れ動く心でいるなら、私に気を持たせるようなことはしないで下さい。待っているのは辛いから。

〈3032〉愛しい人が住んでいるのはあの辺りだと眺めながら待っていましょう。どうかあの生駒山に雲は懸かからないでほしい、雨が降っても。

〈3033〉なまじっか、何で私はあの人と知り合ってしまったのでしょうか。地元の山焼きの煙なら遠くから見ているだけでよかったのに。

〈3034〉愛しいあの子が恋しくてどうしようもなく胸が熱いので、苦しさのまま朝の戸を開けると、ああ、辺り一面に霧が立ち込めている。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3031の「天雲の」は「たゆたひ」の比喩的枕詞。「たゆたふ」は、揺れ動く、ためらう。「吾をな頼めそ」の「な~そ」は、禁止。原文「吾乎莫慿」で、ワレヲナタノメと訓むものもあります。「待たば苦しも」の「も」は、詠嘆。原文「待者苦毛」で、マテバクルシモ、マツハクルシモなどと訓むものもあります。来るのを約束しながら、気が変わってしまったのか、来なかった男を恨む女の歌です。

 3032の「生駒山」は、奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある標高642mの山で、生駒山地の主峰。「居らむ」は、じっと座っていよう。「雲なたなびき」の「な」は禁止で、「そ」を略しています。この歌と同類の歌が、『伊勢物語』の23段にあります。在原業平の訪れが絶えたのを悲しみ、河内の国の高安の女が詠んだ歌で、「君があたり見つつを居らむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも」。あるいは本歌の作者も、河内に住んでいたのでしょうか。窪田空穂は、「雨が降ってもというのは無理である。男を思う気分がいわせる希望で、情痴に近いものである。それがこの歌の魅力になっている」と述べています。

 3033は、煙に寄せての歌。「なかなかに」は、下に疑問の表現を伴い、なまじっか、かえって、の意。「我が山」は、私が住んでいる所の山。「我が山」という表現が何となく落ちつかないというので、「吾」は「春」の誤字ではないかとする見方もあるようです。「何か知りけむ」の「何か~けむ」は、どうして~ただろうか。「外に見ましを」は、無関係なものに見ていようものを。男女どちらの歌とも取れ、恋しさの悩みから、関係したことを悔いている心の歌です。

 3034の「恋ひすべ無かり」は、恋しくてどうしようもない。原文「恋為便名鴈」で、コヒスベナガリと訓むものもあります。「がり」とすれば、「悲しがる」「あさましがる」のように用い、そのように感じる・行動する意を表す語。「胸を熱み」は「胸熱し」の「~を~み」のミ語法の形。胸が熱いので。「かも」は、詠嘆の終助詞。夜中続いた独り寝の嘆きが、朝、戸の外一面に霧となって立っていたという歌で、嘆きの長さと深さを、霧のさまに喩えています。あるいは、霧を、自分が吐いた嘆きの息かと見ているとの解釈もあります。以下3首は、霧に寄せての歌。

巻第12-3035~3038

3035
暁(あかとき)の朝霧隠(あさぎりごも)りかへらばに何しか恋の色に出(い)でにける
3036
思ひ出(い)づる時はすべなみ佐保山(さほやま)に立つ雨霧(あまぎり)の消(け)ぬべく思ほゆ
3037
殺目山(きりめやま)行きかふ道の朝霞(あさがすみ)ほのかにだにや妹(いも)に逢はざらむ
3038
かく恋ひむものと知りせば夕(ゆふへ)置きて朝(あした)は消(け)ぬる露(つゆ)ならましを
 

【意味】
〈3035〉明け方の朝霧に隠れるように、ひそかに恋をしていたのに、反対に、どうして私の恋心が表に出てしまったのだろうか。

〈3036〉思い出すとどうしようもなく、佐保山に立つ雨霧が消えてゆくように、この身も消えて死にそうな思いになる。
 
〈3037〉殺目山を往き来する道にかかる朝霞のように、ちょっとだけでもあの子に逢えないだろうか。

〈3038〉こんなに恋い焦がれるものと知っていたら、いっそのこと、夕方には降りて朝方には消えてしまう露であればよかったのに。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3035・3036は、霧に寄せての歌。3035の「暁の朝霧隠り」は、暁の朝霧に隠れて。「かへらばに」は、逆に、かえって。原文「反羽二」で、カヘリシニと訓んで、帰る時に、の意とする説もあります。「何しか」は、どうして~か。「恋の色に出づ」は、恋が表面に表れる。人に知られるはずのない恋が、訝かしくも知られたという嘆きの歌。

 3036の「思ひ出づる時は」は、恋しい人のことを思い出すときには、の意。「すべなみ」のなみ」は「無し」のミ語法で、どうしようもないので。「佐保山」は、奈良市北部の丘陵。「雨霧」は他に例のない語で、雨が降る時の霧の意か。「佐保山に立つ雨霧の」は、その霧がやがて消えることから「消ぬ」を導く序詞。「消ぬべく思ほゆ」は、今にも消えそうに思われる、今にも死にそうに思われる。類想の多い、女の歌です。

 3037は、霞に寄せての歌。「殺目山」は、和歌山県印南町の山とされます。「行きかふ道」の原文「徃反道之」で、ユキカヘリヂと訓むものもあります。「朝霞」は、その道にかかる朝霞。上3句は、その朝霞のようにぼんやりと見える意で「ほのかに」を導く序詞。「ほのかにだにや」は、ちょっとだけでも。「や」は、疑問。3038は、露に寄せての歌。「せば~まし」は、反実仮想。もし~ならば~だっただろうに。「を」は逆接の接続助詞で、文末に置いて詠嘆の意を表します。類歌の多い歌です。

巻第12-3039~3042

3039
夕(ゆふへ)置きて朝は消(け)ぬる白露(しらつゆ)の消(け)ぬべき恋も吾(あれ)はするかも
3040
後(のち)つひに妹(いも)に逢はむと朝露の命は生(い)けり恋は繁(しげ)けど
3041
朝(あさ)な朝(さ)な草の上(うえ)白く置く露の消(け)なば共にと言ひし君はも
3042
朝日さす春日(かすが)の小野に置く露の消(け)ぬべき吾(あ)が身惜しけくもなし
  

【意味】
〈3039〉夕べに置いて翌朝は消えてしまう白露のように、はかなく消えてしまいそうな恋を、私はしていることです。

〈3040〉将来はきっとあの子に逢えると信じて、朝露のようにはかない命だが今も私は生きている。逢えない苦しさはつのるけれど。
 
〈3041〉朝が来るたびに、白々と草の上に置く露がはかなく消えて行くように「死ぬなら一緒に死のう」と言ったあなたでしたのに。

〈3042〉朝日が差し込む春日の野に降りていた露が消えるように、今にも消え入りそうな我が身は、もう惜しいことはありません。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、露に寄せての歌。3039の上3句は「消ぬる」を導く譬喩式序詞。「吾はするかも」の「かも」は、詠嘆の助詞。類歌に「朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも」(巻第10-2291)があります。露ははかないものの象徴であり、身も心も消えてしまいそうな切ない恋を歌っています。3040の「後つひに」は、将来はきっと、最後にはきっと。「朝露の」は「命」にかかる比喩的枕詞。「生けり」は、生きている。「恋は繁けど」は「恋は繁けれど」の古格。

 3041の「朝な朝な」は、朝ごとに。「な」は「朝な夕な」「「夜な夜な」のような時間を表す語の並列形に付いて副詞的用法を作る接尾語。上3句は「消なば」を導く譬喩式序詞。「君はも」の「はも」は、今はもう無いもの、もう逢えない人に愛惜の思いを込めた痛切な詠嘆を表す語。女の歌とされます。3042の「春日の小野」の「小」は、接頭語。春日野のことで、平城京の東の春日山西麓一帯、現在の奈良公園がある地。朝日は春日山から上ってきます。上3句は「消ぬ」を導く譬喩式序詞。「惜しけく」は「惜し」のク語法で名詞形。女の歌とされます。

巻第12-3043~3047

3043
露霜(つゆしも)の消(け)やすき我(あ)が身(み)老いぬともまたをちかへり君をし待たむ
3044
君待つと庭のみ居(を)ればうち靡(なび)く我(わ)が黒髪に霜ぞ置きにける
3045
朝霜(あさしも)の消(け)ぬべくのみや時なしに思ひわたらむ息(いき)の緒(を)にして
3046
ささ波の波越す安蹔(あざ)に降る小雨(こさめ)間(あひだ)も置きて我(わ)が思はなくに
3047
神(かむ)さびて巌(いはほ)に生(お)ふる松が根の君が心は忘れかねつも
 

【意味】
〈3043〉露や霜のように消えやすいわが身ですが、たとえ年老いてもまた若返り、あなたのおいでをお待ちしようと思います。

〈3044〉あなたをおいでを待って庭にばかり出ていると、私の黒髪に霜が降りてしまいました。
 
〈3045〉朝霜が消え入るように、今にも死にそうなほどにずっと思い続けるのだろうか、命の限りを。

〈3046〉さざ波が越えてくる安蹔に間をおいて降る小雨のように、間をおいて私はあなたを思っているわけではないのだ。

〈3047〉神々しく巌の上に生える松の根のような、しっかりしたあなたの心は忘れようにも忘れられません。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3043は、露霜に寄せての歌。「露霜の」は「消やすき」の比喩的枕詞。「露霜」は、露と霜、または露が凍って霜のようになったもので、冷え冷えとした露を表現する歌語。「老いぬとも」は、もし年老いようとも。「をちかへり」の「をつ」は、若返ること、元に戻ること。「君をし待たむ」の「し」は、強意の副助詞。この歌は、巻第11-2689の初句が「朝露の」となっている以外は全く同じで、その別伝と見られます。

 3044以下2首は、霜に寄せての歌。3044の「庭のみ居れば」の原文「庭耳居者」で、ニハニシヲレバと訓むものもあります。「うち靡く」は「黒髪」の枕詞。左注に「或る本の尾句に云ふ」として「白たへの吾が衣手に露ぞ置きにける」とあります。男の訪れを待ち得なかった女の嘆きの歌です。3045の「朝霜の」は「消ぬべく」の比喩的枕詞。「消ぬべくのみや」の「や」は、疑問。「時なし」は時の区別なしに、絶え間ない。「息の緒」は、命。男女どちらの歌とも取れます。

 3046は、雨に寄せての歌。「ささ波」は、琵琶湖西南岸の地名、あるいは枕詞と解する説も。「安蹔」は、語義未詳で、田の畔(あぜ)、洞穴、断崖、背の低い葦、葦の刈り根の意とするなど、さまざまな説があります。上3句は「間も置きて」を導く譬喩式序詞。「思はなくに」は「思はず」のク語法オモハナクに「に」が付いたもの。なお、上掲の歌の解釈とは別に、小雨は絶え間なく降っていると見て、「さざ波が越えてくる安蹔に絶え間なく降る小雨のように、私は間をおいてあなたを思っているわけではないのだ」のように訳するものもあります。

 3047の「神さびて」は、古びて神々しくなったこと。「松が根」は、松の根または松樹そのもの。ここは松樹そのものの意とされます。上3句は、松のように永遠に変わることがない意で「君が心」を導く序詞。「忘れかねつ」は、忘れることができないことの強い表現。「も」は、詠嘆の終助詞。堅実な夫に感謝している妻の歌です。以下2首は、樹に寄せての歌。

巻第12-3048~3052

3048
み狩(か)りする雁羽(かりは)の小野の櫟柴(ならしば)の馴(な)れはまさらず恋こそまされ
3049
桜麻(さくらを)の麻生(をふ)の下草(したくさ)早く生(お)ひば妹(いも)が下紐(したびも)解かざらましを
3050
春日野(かすがの)に浅茅(あさぢ)標結(しめゆ)ひ絶(た)えめやと我(あ)が思ふ人はいや遠長(とほなが)に
3051
あしひきの山菅(やますげ)の根のねもころに我(あ)れはぞ恋(こ)ふる君が姿に
3052
かきつはた佐紀沢(さきさは)に生(お)ふる菅(すが)の根の絶ゆとや君が見えぬこのころ
 

【意味】
〈3048〉狩りをなさる雁羽のならの雑木ではありませんが、あなたと馴れ親しむことは少なくて、恋しさが募るばかりです。

〈3049〉桜麻の麻原の下草が早く生えるように、私がもっと早く生まれていたら、あなたの下紐を解かずにすんだであろうに。
 
〈3050〉春日野で、浅茅に標を張ってずっと自分のものとするように、仲が絶えるものかと私が思い定めたあの人は、いつまでも変わらずにいてほしい。

〈3051〉山菅の長い根のように、ねんごろに私は恋い焦がれています、あなたのお姿を。

〈3052〉佐紀沼に生えている菅の根が、引けば切れるように、私と絶えてしまおうと思っているのか、あの人がお見えにならない今日このごろよ。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。3048の「み狩りする」は、天皇が狩りをなさる。カリの同音で「雁羽」の枕詞とする説もありますが、集中ほかに例がありません。「雁羽の小野」は、所在未詳。「櫟柴」は、ナラの木の小樹。上3句は、ナラの類音で「馴れ」を導く序詞。「馴れ」は、馴れ親しむこと。窪田空穂は、「結婚後ほどもなく、足を遠くしている夫に対して、妻の嘆いて訴えた歌」と言っています。

 3049の「桜麻」は、麻の一種ながら詳細不明。サクラアサと訓むものもあります。「麻生」は、麻の生えているところ。上2句は「早く生ひ」を導く譬喩式序詞。「早く生ひば」は、早く生まれたならば。伊藤博は、「生まれ合わせを持ち出すことで幸福の思いを述べるのは、ほかに例がない。記憶に値する歌といってよい」と述べています。ただし他の解釈もあり、他人より早く妹に言い寄ったので彼女が我が物になったと喜んでいる、あるいは、妹がもっと以前に一人前に成長していたら他人の物になっていただろう、などと訳するものもあります。以下27首は、草に寄せての歌。

 3050の「春日野」は、平城京の東に広がる野。「浅茅」は、丈の低い茅がや。「標結ふ」は、占有を示すために標縄を張ったり、しるしを付けたりすること。上2句は「絶えめや」を導く譬喩式序詞。「絶えめや」の「や」は反語で、絶えるだろうか、いや絶えはしない。「いや遠長に」の「いや」は、いよいよ、ますます。「遠長に」は、遠く長く。下に「あれ」が省かれています。

 3051の「あしひきの」は「山菅」の枕詞。「山菅」は山中に生える菅で、ヤマスガと訓むものもあります。上2句は、根を「ね」に続け「ねもころに」を導く序詞。「ねもころに」は、心の底から思う、の意。妻である女が、夫に来訪を求めて贈った歌とされます。左注に「或る本の曰く」として、第4、5句の異伝「我が思ふ人を見むよしもがも」とあります。なお、『万葉集』に多く歌われる「菅」ですが、古代には菅や葛といった植物が「みそぎ」に関係があったのか、人々の生活に相当深い関係を持っていたようです。

 3052の「かきつはた」は、咲きの意で「佐紀」にかかる枕詞。「佐紀沢」は、奈良市佐紀町一帯の沼沢地で、平城京の北の外れにある水上池(みずがみいけ)だとする説もあります。『日本書紀』には、同じ読み方をする「狭城池」をつくったという話が出てきます。上3句は、菅の根が引けば切れるところから「絶ゆ」を導く序詞。「絶ゆとや」の「や」は疑問の係助詞で、したに「する」が省かれています。

巻第12-3053~3056

3053
あしひきの山菅(やますが)の根のねもころに止(や)まず思はば妹(いも)に逢はむかも
3054
相(あひ)思はずあるものをかも菅(すが)の根のねもころごろに我(あ)が思へるらむ
3055
山菅(やますげ)の止まずて君を思へかも我(あ)が心どのこの頃は無き
3056
妹(いも)が門(かど)行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解(と)くなまたかへり見む
  

【意味】
〈3053〉山菅の長い根のように、ねんごろに心をこめて止むことなく思い続けていたなら、あの子に逢えるだろうかな。

〈3054〉両想いをしているのではないのに、私の方は山菅の根のように、ねんごろに心を込めて思っているのだろうか。

〈3055〉山菅の根のように、ねんごろにやむこともなくあなたに恋い焦がれているせいか、この頃は正気の心もありません。

〈3056〉愛しい妻の家の門を行き過ぎかねて、せめてもと草を結んでおく。風よ、吹いて解かないでくれ、また戻って見ようから。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、草に寄せての歌。3053の「あしひきの」は「山」の枕詞。「ねもころに」は、心を込めて。3054の「相思はず」は、自分は思っているのに相手は思ってくれないこと。「ものを」は、逆接の接続助詞。「かも」は、疑問詠嘆。「菅の根の」は「ね」の枕詞。「ねもころごろに」は、「ねもころに」の強調で、心を尽くして。「思へるらむ」の「らむ」は、現在推量。自分の行為について、その原因理由を疑う気持を表しています。

 3055の「山菅の」は、ヤマの同音で「止まず」にかかる枕詞。「心ど」は、心の働き、しっかりした心の状態。夫に疎遠にされている女の嘆きの歌とされます。3056の「妹が門」は、妹の家の門。「草結ぶ」は、事の成就を祈り再会を願う呪的行為とされ、しばらく逢えなくなるであろう妻の家を去り難い気持ちからひそかに行ったものらしく、旅に出ようとする男の歌の歌とされます。なお、「一に云ふ」として結句の別伝として「直に逢ふまでに」とあります。伊藤博は、「珍重すべき題材の歌で、興趣が深い」と言っています。

巻第12-3056~3060

3057
浅茅原(あさぢはら)茅生(ちふ)に足踏み心ぐみ我(あ)が思ふ児(こ)らが家のあたり見つ [一云 妹が家のあたり見つ]
3058
うちひさす宮にはあれど月草(つきくさ)のうつろふ心(こころ)我(わ)が思はなくに
3059

百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草(つきくさ)のうつろふ心 我(わ)れ持ためやも
3060
忘れ草(ぐさ)我(わ)が紐(ひも)に付く時と無く思ひ渡れば生けりともなし
  

【意味】
〈3057〉浅茅原のチガヤに足を強く踏み入れて傷ついたように、心が傷つきながらも、いとしく思う子の住んでいる家のあたりをじっと見たことだ。

〈3058〉華やかな宮仕えをしていますが、色のさめやすい露草のような移り気な心を、私は持っておりません。

〈3059〉あれこれと人は噂をまき散らしますが、露草のように移り気な心など、決して持つものですか。

〈3060〉忘れ草を私の紐につけた。こんなに絶え間なく恋をしていると生きている気もしないので。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、草に寄せての歌。3057の「浅茅原」は、丈の低いチガヤが生えている野原。「茅生」は「茅原」で「浅茅原」を繰り返したもの。上2句は「心ぐみ」を導く序詞。「足踏み」の類音の関係で続くものとする説、浅茅原に裸足で踏み入れて足を痛めるように心が痛く苦しくての意で続くものとする説があります。「心ぐみ」は、形容詞「心ぐし」のミ語法で、心が晴れないので、の意。「我が思ふ児ら」の「ら」は、女の愛称の接尾語。

 3058の「うちひさす」は「宮」の枕詞。語義・かかり方とも未詳ながら、日がいっぱいにさす意か。「月草の」は「うつろふ」の枕詞。「月草」は、露草(ツユクサ)の古名。露草で染めた布はすぐに色褪せるため、移ろう恋心に例えられました。「我が思はなくに」の「なくに」は、詠嘆の文末用法。思わぬことよ。この歌は、宮中に女官として仕えている女が、夫に対して貞節を誓っているものとされます。多くの男性がいる宮中に女官が立ち混じっていると、色々と男女の問題が生じていたようです。

 3059も、妻である女が、その夫に貞節を誓っています。この時代の夫婦は別居していましたから、夫のいる女とは知らずに、言い寄ってくる男は少なくなかったとみえます。「百に千に」は、あれこれと、なんだかんだと。「月草の」は「うつろふ」の枕詞。「我れ持ためやも」の「やも」は、反語。原文「吾將持八方」で、ワガモタメヤモと訓むものもあります。

 3060の「忘れ草」は、中国原産のユリ科の宿根草ヤブカンゾウのことで、初夏から夏にかけて濃いオレンジ色の花を咲かせます。身に着けていると、恋の悩みを忘れられるものとして中国の詩文を通して伝えられました。「忘れ草」をうたった歌は、奈良朝の時代に多く見られます。「時と無く」は、時を定めず、絶え間なく。「生けりともなし」は、生きているとも思えない。

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作者未詳歌

『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
 
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。

枕詞あれこれ

あかねさす
「日」「昼」に掛かる枕詞。「赤く輝く」もの、」すなわち太陽を意味する。また、茜(あかね)色に近い「紫」の枕詞にも転用されている。

秋津島/蜻蛉島(あきづしま)
「大和」にかかる枕詞。「秋津島」は、日本の本州の古代の呼称で、『古事記』には「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)、『日本書紀』には「大日本豊秋津洲」(おおやまととよあきつしま)と、表記している。また「蜻蛉島」は、神武天皇が国土を一望してトンボのようだと言ったことが由来とされている。

朝露の
「消」に掛かる枕詞。朝露は消えやすいところから。

あしひきの
「山」に掛かる枕詞。語義未詳ながら、足を引きずってあえぎながら登る意、山すそを稜線が長く引く意など諸説がある。

あぢむらの
「あぢむら」は、アジガモ(味鴨)。アジガモが群がって騒ぐことから、「騒く」にかかる枕詞。

梓弓(あづさゆみ)
梓弓は、梓の丸木で作られた弓。弓を射る動作から「はる」「ひく」「いる」などに掛かる。また弓に付いている弦(つる)から同音の地名「敦賀」に、弓の部分の名から「末」などにも掛かる。
 
天伝ふ
「日」に掛かる枕詞。「天(大空)を伝い渡っていく」もの、すなわち太陽を意味し、「日」の修飾ではなく、同格の関係にある。「天知るや」「高照らす」「高光る」なども同様。

天飛ぶや
「鳥」「鴨」に掛かる枕詞。空高く飛ぶことから。また、「雁」を転用して「軽(かる」にも掛かる。

あらたまの
「年」に掛かる枕詞。語義未詳で、一説に年月が改まる意からとも。ほかに「月」「春」「枕」などに掛かる。

あをによし
「奈良」に掛かる枕詞。奈良坂の付近で青丹(あおに)を産したところから。青は寺院や講堂などの、窓のようになっている部分の青い色、丹は建物の柱などの、朱色のこと。

鯨(いさな)取り
「海」に掛かる枕詞。鯨(いさな=クジラ)のような巨大な獲物がとれる所として海を賛美する語。ほかに「浜」にも掛かる。

石上(いそのかみ)
「石上」は、今の奈良県天理市石上付近で、ここに布留(ふる)の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「降る」などに掛かる枕詞。

うちなびく
「春」に掛かる枕詞。春は草木が打ち靡く季節であるから。

打ち日さす
「宮」「都」に掛かる枕詞。日の光が輝く意から。

うつそみの
「人」「世」に掛かる枕詞。語源は「現(うつ)し臣(おみ)」で、この世の人、現世の人の意。「臣」は「君」に対する語で、神に従う存在をいう。ウツシオミがウツソミと縮まり、さらにウツセミに転じた。

味酒(うまさけ)
「三輪」に掛かる枕詞。うまさけ(味酒:味のよい上等な酒)を神酒(みわ)として神に捧げることから、同音の地名「三輪」に掛かる。また、三輪山のある地名「三室(みむろ)」「三諸(みもろ)」などにも掛かる。

押し照る
地名の「難波」にかかる枕詞。上町台地からながめた大阪湾が夕陽で一面に光り輝く様をあらわす。かつては上町台地が大阪湾に面する海岸だった。

沖つ藻(も)の
「靡く」に掛かる枕詞。海藻は波に靡くところから。

各巻の概要

【巻第一】
 雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
【巻第二】
 仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様に部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
【巻第三】
 巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。
 
【巻第四】
 巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
【巻第五】
 巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
【巻第六】
 巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
【巻第七】
 雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいるため、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
【巻第八】
 四季に分類された雑歌と相聞歌。舒明朝~天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
【巻第九】
 おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立て。
 
【巻第十】
 巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
【巻第十一】
 『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十ニ】
 「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十三】
 作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
【巻第十四】
 主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
【巻第十五】
 物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
【巻第十六】
 巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
【巻第十七~二十】
 巻第十七~二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。

古典文法

係助詞
助詞の一種で、いろいろな語に付いて強調や疑問などの意を添え、下の術語の働きに影響を与える(係り結び)。「は・も」の場合は、文節の末尾の活用形は変化しない。
〔例〕か・こそ・ぞ・なむ・や

格助詞
助詞の一種で、体言やそれに準じる語に付いて、その語とほかの語の関係を示す。
〔例〕が・に・にて・の

間投助詞
助詞の一種で、文中や文末の文節に付いて調子を整えたり、余情や強調などの意味を添える。
〔例〕や・を

接続助詞
助詞の一種で、用言や助動詞に付いて前後の語句の意味上の関係を表す。
〔例〕して・つつ・に・ば・ものから

終助詞
助詞の一種で、文末に付いて、疑問・詠嘆・願望などを表す。
〔例〕かし・かな・な・なむ・ばや・もがな

副助詞
助詞の一種で、さまざまな語に付いて、下の語の意味を限定する。
〔例〕さへ・し・だに・

助動詞
用言や体言に付いて、打消しや推量などのいろいろな意味を示す。

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