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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

東歌(巻第14)~その1

巻第14-3348~3349

3348
夏麻(なつそ)引く海上潟(うなかみがた)の沖つ洲(す)に船は留(とど)めむさ夜ふけにけり
3349
葛飾(かづしか)の真間(まま)の浦廻(うらみ)を漕(こ)ぐ船の船人(ふなびと)騒(さわ)く波立つらしも
 

【意味】
〈3348〉海上潟の沖の砂州に、この舟を留めて休もうか、夜もとっぷり更けてきた。

〈3349〉葛飾の真間の入江を漕いで進む船の船人がせわしく動き回っている。波が立ってきたらしい。

【説明】
 巻第14は「東国(あづまのくに)」で詠まれた作者名不詳の歌238首(うち8首が或本歌)が収められており、巻第13の長歌集と対をなしています。当時の都びとが考えていた東国とは、おおよそ富士川と信濃川を結んだ以東、すなわち、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥の国々をさしています。国名のわかる歌とわからない歌(未勘国歌)に大別し、それぞれを雑歌・相聞歌・譬喩歌などの部立ごとに分類しています。国名のわかる歌は、それぞれの部立ごとに、まず東海道諸国を都から近い順に配列し、そのあとに東山道諸国を同様の順に配列するという構成になっています。『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。
 
 もっともこれらの歌は東国の民衆の生の声と見ることには疑問が持たれており、すべての歌が完全な短歌形式(5・7・5・7・7)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。また、東歌を集めた巻第14があえて独立しているのも、朝廷の威力が東国にまで及んでいることを示す意図によるものだったとされます。もともとの作者は、国司など都の官人たちと繋がりのあった豪族階級の人たちで、都の人たちが歌を作っているのを模倣したのが始まりだろうとされます。
 
 3348は上総の国(千葉県中部)の歌。「夏麻引く」の「夏麻」は、夏の土用のころに畑から引き抜く麻。夏麻は「績(う)む(つむぐ)」ものであることから、同音で「海上(うなかみ)」にかかる枕詞。「海上潟」は、千葉県市原市付近の干潟。「沖つ洲」は、沖の方にある洲。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。この歌は、とくに身分のある舟行者の歌ではないものの、詠み方は京風で、歌作に長けた人の作とみられています。最初から京の人の作であったか、あるいは地方の歌がたまたま京で謡われて洗練されたものかは分かりません。国文学者の佐佐木幸綱は、東国人が都人の口ぶりを真似てつくった歌なのではないかとも言っています。また、この歌がなぜ巻第14の巻頭に置かれたのかについての議論もあるようですが、ここでは割愛します。

 3349は下総の国(千葉県北部から茨城県南部)の歌。「葛飾の真間の浦廻」は、千葉県市川市真間町付近の海。当時は入江になっていたようです。「葛飾」という地名は、東京都葛飾区、埼玉県北葛飾郡、またかつて千葉県東葛飾郡とあったように、江戸川流域の広大な地域を言い、東歌では「かづしか」とにごっています。なお、現在は江戸川が千葉県と東京都の境になっていますが、古代には東京都の葛飾区も下総国の葛飾郡に属していました。東京都の隅田川にかかる橋を今も両国橋といっていますが、これは下総国と武蔵国の境にかかることからついた名です。「騒く」は、せわしなく動き回っている。「波立つらしも」の「らし」は、根拠に基づく推定。「も」は、詠嘆。この歌も、地名のほか、地方色は皆無です。類歌が数首あり、地名を変えて詠い継がれてきたようです。

 

巻第14-3350~3352

3350
筑波嶺(つくはね)の新桑繭(にひぐはまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲(きほ)しも
3351
筑波嶺に雪かも降らる否(いな)をかも愛(かな)しき児(こ)ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
3352
信濃(しなの)なる須我(すが)の荒野(あらの)にほととぎす鳴く声聞けは時(とき)過ぎにけり
 

【意味】
〈3350〉筑波山の新桑で飼った繭でつくった上等の着物もいいけれど、やっぱりあなたのお召し物を無性に着てみたい。

〈3351〉筑波山に雪が降っているのだろうか いや、違うかな。いとしいあの娘(こ)が洗った布を乾かしているのかな。
 
〈3352〉信濃の須我の寂しい野原で、ホトトギスの鳴く声が聞こえる。時はずいぶん過ぎ去っていったのだな。

【説明】
 3350・3351は常陸の国(茨城県の大部分と福島県の一部))の歌。常州ともよばれる常陸国は11郡153郷を擁する大国で、国府は石岡市に置かれていました。3350の「筑波嶺」は、筑波山で、男岳・女岳の2峰を持つ名山として著名です。「桑繭」は、桑で飼育した蚕の繭(まゆ)のことで、「新桑繭」は、桑の新葉で養った上質の繭。「あやに」は、甚だしく。「あやに着欲しも」には、無性に着たい。娘からの求愛の歌であり、相手の着物を敷いて共寝したいとの気持ちを表しているともいわれます。絹の着物を持っているのは、裕福な家の娘とみられ、相手の男は都から下ってきた若い官吏あたりだったのでしょうか。

 3351の「雪かも降らる」の「かも」は、詠嘆をこめた疑問、「降らる」は「降れる」の東国形。「否をかも」は「否かも、然も」が融合した形で、判断に迷う気持ち。違うのかな、やはりそうかな。「児ろ」の「ろ」は、接尾語。「布(にの)」は「ぬの」の訛り。「乾さる」は「乾せる」の東国形。この歌について斎藤茂吉は、「かも」という序詞を3つも繰り返して調子を取り、流動性進行性の声調を形成しているので、一種の快感をもって労働とともにうたうことのできる性質のものであるといい、この歌はなかなか愛すべきもので、東歌の中でも優れている、と評しています。

 ただ、実際の風景はどうだったのかについて、雪が降って筑波山が白くなっているという説と、筑波山に白布が乾されているという説に分かれます。前者は契沖以来ずっと支持されてきたもので、後者は土屋文明が言い出した説です。次第に後者を支持する研究者が増えているといい、やはり労働をうたった歌と解する方が「東歌」らしいという見方のようです。しかし、「雪かも降らる」と見まがうほどに布を広げて干すことが可能だったかの疑問が残ります。国文学者の佐佐木幸綱は、雪が降ったと解する方がよいとして、「ただ、雪を貴族的風雅として見ているのではない。労働に明け暮れる『かなしき児』の日常と重ね合わせて見ているのである。働く者なりの風雅がここにはあり、それこそが『東歌』らしさなのである」と述べています。

 3352は信濃の国(長野県)の歌。国府は上田市のちに松本市に移りました。「信濃なる」は、信濃にある。「須我」は、上田市菅平あたりとされます。「荒野」は、雑草などが茂って荒れている野。そして、東歌の中で、風雅の鳥とされるホトトギスを詠んでいるのはこの1首のみで、また「時過ぎにけり」と旅の時間の経過を言っているところから、国司など都人の歌ではないかともいわれます。ただ、この時が過ぎたとはどんな時が過ぎたのか、について諸説あり、京に帰るべき時や、ホトトギスがやって来て農作業を始める時、人と会う約束をしていてその時、などと説明されます。また、「時過ぎにけり」は、ホトトギスの声を「トキスギニケリ」と聞きなしたものと捉える説もあります。

巻第14-3353~3357

3353
麁玉(あらたま)の伎倍(きへ)の林に汝(な)を立てて行きかつましじ寐(い)を先立(さきだ)たね
3354
伎倍人(きへひと)の斑衾(まだらぶすま)に綿(わた)さはだ入りなましもの妹(いも)が小床(をどこ)に
3355
天(あま)の原(はら)富士の柴山(しばやま)木(こ)の暗(くれ)の時(とき)ゆつりなば逢はずかもあらむ
3356
富士の嶺(ね)のいや遠長(とほなが)き山道(やまぢ)をも妹許(いもがり)とへば気(け)によばず来(き)ぬ
3357
霞(かすみ)ゐる富士の山びに我(わ)が来(き)なばいづち向きてか妹(いも)が嘆(なげ)かむ
  

【意味】
〈3353〉麁玉のこの伎倍の林に見送るお前さんを立たせたまま行くことなどできない。まずはその前に共寝をしようではないか。
 
〈3354〉伎倍人のまだら模様の布団には、綿がいっぱい入っている。その綿のように、私も彼女の床の中に入ることができたらなあ。
 
〈3355〉空に向かって聳え立つ富士の柴山(雑木林)に日暮れ時がやってきた。この約束の時を逃したら、もう彼女に二度と逢えなくなるのではなかろうか。
 
〈3356〉富士の嶺のはるばる遠く長い山道も、愛しいお前さんの許へと思えば、少しも苦しいとは思わずに来られるよ。
 
〈3357〉霞のかかる富士の山裾に私が入ってしまったら、妻はどちらの方に向かって嘆き悲しむことだろうか。

【説明】
 3353・3354は遠江(とおつおうみ)の国(静岡県西部)の歌。古代、浜名湖を「遠つ淡海」、琵琶湖を「近つ淡海」と呼んでいました。「遠つ」「近つ」は都から遠い、近いの意で、その後それぞれ国名になったものです。

 3353の「麁玉」は、静岡県浜松市北部から浜北市にかけての地。「伎倍」の所在は未詳ながら、古代帰化人の機織り職人が住む集落「伎戸(きへ)」を意味したともいわれます。「汝を立てて」は、おまえを立たせて。「行きかつましじ」は、とても行くことには堪えられない。「寐を先立たね」は、寝ることをまず先にしよう。旅立つ男を妻が見送り、伎倍の林まで来たところで男が言った歌、あるいは、元々歌垣で詠われたものが山野の下草刈りなどの作業歌になったのではないかとされます。しかし、上掲の解釈ではどうも釈然としないところがあり、伎倍の林まで送って来て、別れ際に「寝ることを先にしよう」とはどういうことなのか。林の中で共寝をすることは有り得るものの、むしろ林の中に女がいた、男はそのまま素通りなどできない、何はともあれ一緒に寝たいと思い、それを女に言ったというふうな解釈もできます。ずいぶん乱暴な言い方ではあるものの、一応の納得感はあるように感じられます。

 3354の「斑衾」は、種々の色をまだら模様に染めた掛け布団。この時代に敷布団はなく、蓆(むしろ)などを敷いて寝ていました。「綿さはだ」は、綿がたくさん入っている。ここまでの上3句は「入り」を導く譬喩式序詞。「入りなましもの」は、入ることができたらなあ。「小床」の「小」は、親しみの気持ちを込め、併せて語調を整える接頭語。伎倍人の斑衾は、当時のわが国にはない珍しい物だったとみえ、その暖かそうなのを見て、恋しい女の床を連想しています。

 3355~3357は駿河の国(静岡県中央部)の歌。「駿河」の名の由来は、流れが速く鋭い富士川にちなんだという説があります。3355の「天の原」は、富士山の所在の形容で「富士」の枕詞。「富士の柴山」は、富士山麓の樹林地帯のこと。上2句は「暗(夕暮れ)」を導く序詞。「ゆつりなば」は、移ってしまうと。「逢はずかもあらむ」は、もう逢うことができなくなるのではなかろうか。文芸評論家の山本憲吉はこの歌について、「嘱目のものを手当たり次第に取り入れていって、のんびりと歌の主題に行き当たった感じである。それが急転して、下二句のすっきりした抒情になっている。上下渾然と融け合わないで、不器用につながって、かえって断載面の面白さを見せている」と言っています。

 3356の「富士の嶺」は、山麓の丘陵をも含めて言ったもの。「妹許」は、妹の許。「とへば」は「と言へば」の約。「気によばず」は、呻き声も立てず、少しも苦しいとは思わず。まさに「惚れて通えば千里も一里」を言い表した歌です。3357の「霞ゐる」は、霞がかかっている。「霞立つ」の対語で、霞がかかって動かずにいる状態を言ったもの。「山び」は、山の周り。「向きてか」の「か」は、疑問。「嘆かむ」の「む」は推量の助動詞「む」の連体形で、「か」の係り結び。富士の裾を通って遠くへ旅をしようとする男が、その妻と別れる際に、妻を隣れんで詠んだ歌ですが、「旅に出る人の吟詠ではなく、むしろ後朝の述懐と見るべきである」との見方もあります。

 なお、東歌に詠まれる富士山について、文学者の犬養孝は次のように述べています。「赤人の富士の歌は天下にきこえているし、富士は誰が見ても崇高・雄大・清浄のすばらしい山と思われがちだが、それはあくまで旅の人の心情か、遠く離れて生活する人の、ながめられた心情であって、富士とともに生活する人にとっては、すばらしいと思うより前に、朝夕に親しい山、何よりも生活の場となる貴重な山である。富士の山麓に生活する人にとっては、山の秀麗な姿よりも、山麓の樹林帯やラバの崩れの裾野や噴火や雪の降り方こそ関心の中心であって、赤人のように崇高美をたたえたり、富士を美の対象とした歌は一首もない」。まさに土着の人々の営みを見つめる山、土地に息づく人々の思いとともにある山であったことが分かります。

巻第14-3358~3362

3358
さ寝(ぬ)らくは玉の緒(を)ばかり恋ふらくは富士の高嶺(たかね)の鳴沢(なるさは)のごと
[或る本の歌に曰く] ま愛(かな)しみ寝らく重(し)けらくさ鳴らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
[一本の歌に曰く] 逢へらくは玉の緒(を)及(し)けや恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢なすも
3359
駿河(するが)の海おし辺(へ)に生(お)ふる浜つづら汝(いまし)を頼み母に違(たが)ひぬ [一云 親に違ひぬ]
3360
伊豆(いづ)の海に立つ白波(しらなみ)のありつつも継(つ)ぎなむものを乱れしめめや
[或本の歌には「白雲の絶えつつも継がむと思へや乱れそめけむ」といふ]
3361
足柄(あしがら)の彼面此面(をてもこのも)に刺す罠(わな)のかなるましづみ子ろ我(あ)れ紐(ひも)解く
3362
相模嶺(さがむね)の小峰(をみね)見退(みそ)くし忘れ来る妹(いも)が名呼びて我(あ)を音(ね)し泣くな
  

【意味】
〈3358〉共寝をするのは玉の緒ほどに短く、逢えずに恋しく思う心は、富士の高嶺の鳴沢のように深く激しい。
[愛しく思って共寝をすれば、たび重なる噂は伊豆の高嶺の鳴沢のように激しくうるさいことだ。]
[逢っているのは玉の緒も及ばないほど短いが、恋い焦がれる思いは富士の高嶺に降る雪のように多いことだ。]
 
〈3359〉駿河の海の磯辺に生えて延び続ける浜のつる草のように、末長くあなたを頼りにしようと、母に逆らったのです。[親に逆らったのです。]

〈3360〉伊豆の海に立つ白波のように、二人の仲はこのまま続けていこうと思っているのに、私があなたの心を乱れさせることがありましょうか。
[伊豆の海に湧き立つ白雲のように、途絶えがちであっても二人の仲を続けようという気持ちから、私の心が乱れ始めたのでしょうか、そんなはずはない。]

〈3361〉足柄山のあちらにもこちらに仕掛けた罠に獲物がかかって鳴り響く、それを待つ間の静けさの中で、あの子と私はこっそりと着物のひもを解く。

〈3362〉相模嶺の懐かしい峰に背を向け見捨てるように、忘れようとしてやって来たのに、今さら妻の名を呼び覚まして私を泣かせることだ。

【説明】
 3358・3359は、駿河の国(静岡県中央部)の歌。3358の「さ寝らく」は、共寝をすること。「さ」は、接頭語。「玉の緒ばかり」は、玉の緒ほど(の短い時間なのに)。「恋ふらくは」は「恋ふ」のク語法で名詞形。「鳴沢」は、噴火口または大沢など岩石が音を立てて崩れ落ちる沢。逢瀬の時間が短く感じられるのは、心理的な要因もあったでしょうが、短い間しか女性と一緒にいられないのは、女性の親の監視が厳しかったのでしょう。

 3359の「駿河の海」は、現在の駿河湾に臨む海。「おし辺」は「磯辺(いそへ)」の東語。「浜つづら」は、浜に生えるつる草、または海岸の砂地に多く生える落葉灌木。上3句は「汝を頼み」を導く序詞。「汝(いまし)」は人称代名詞で、「な・なれ」とは異なり、多少の敬意が込められています。母親に逆らってでも「汝を頼み(あなたを頼りにして)」とする娘の恋心は、切なくも一途ですが、相手の男は、弱気になって遠慮しがちになっているのでしょうか。娘は男に確認しながらも、どこか不安に思っているようなニュアンスもある歌です。

 3360は、伊豆の国の歌。「伊豆」は、静岡県東部と伊豆諸島を含む旧国名。上2句は「ありつつも継ぐ」を導く序詞。「ありつつも」は、この世に長らえ続けつつも。「継ぎなむものを」は、続けていこうと思っているのに。「乱れしめめや」の「乱れ」は、夫婦関係の乱れ、「しめ」は「そめ」の東語、「や」は反語で、この関係を乱れ始めさせようか、させはしない。なお、律令法において、伊豆国は遠流の対象地とされていましたが、これは伊豆諸島が隠岐・佐渡と並ぶ辺境の島であると考えられ、伊豆半島はその入り口とされたことが背景にあると言われています。

 3361・3362は相模の国(神奈川県)の歌。3361の「足柄」は、相模国の西部、静岡県と神奈川県の県境に立つ足柄山。原文では「安思我良」と表記されています。特定の山頂を指した名称ではなく、足柄峠を中心に、古くは金時山(標高1213m)を含めた連山の総称。「をてもこのも」は、山の向こう側やこちらの面、あちらこちら。「刺す罠」の「刺す」は、罠を仕掛ける。「かなるましづみ」は語義未詳ながら、「か鳴る間静み」として上記のように解していますが、「鹿鳴る間」として、鹿が鳴いてくるまでと解するのもあります。「子ろ」の「ろ」は接尾語で、女の愛称。「紐解く」は、着物の紐を解き交わして共寝する。

 3362の「相模嶺」は、未詳。「さがむ」は「さがみ」の古名。「小峰」の「小」は接頭語で、ここでは妻の比喩。「見そくし」は、背を向け見捨てるようにして。あるいは、見て見ぬふりをする意だとして、「いつも見える相模の嶺の小峯を見て見ないふりをするように、つとめて忘れてきた妻の名を、つい口に出して呼んで私は泣いてしまった」のように解する説もあります。「音し泣く」は、泣くの意の慣用語「音泣く」に、「し」の強意の助詞の添えたもの。「な」は、感動の助詞。歌の解釈に諸説あるなか、ここでは、国境の峠で他人の呼んだ言葉が、偶然妻の名と一致した時の嘆きを詠ったものとしています。

巻第14-3363~3367

3363
わが背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)りてまつしだす足柄山(あしがらやま)の杉の木(こ)の間(ま)か
3364
足柄(あしがら)の箱根の山に粟(あは)蒔(ま)きて実(み)とはなれるを逢はなくも怪(あや)し
3365
鎌倉の見越(みごし)の崎の岩(いは)崩(く)えの君が悔(く)ゆべき心は持たじ
3366
ま愛(かな)しみさ寝(ね)に我(わ)は行く鎌倉の美奈(みな)の瀬川(せがは)に潮(しほ)満つなむか
3367
百(もも)つ島 足柄小舟(あしがらをぶね)歩(ある)き多(おほ)み目こそ離(か)るらめ心は思(も)へど
  

【意味】
〈3363〉愛する人を大和の国へ行かせてしまい、その無事の帰りを私が立って待っている足柄山の杉木立よ。

〈3364〉足柄の箱根の山の畑に粟を蒔いて、無事に実がなったというのに、粟がない、逢わないなんておかしいな。

〈3365〉鎌倉の水越の崎は岩が崩れているけれど、あなたが悔いて仲を崩してしまうような心は、決して持ちません。

〈3366〉あの子が愛しくてならないので共寝しに行こうと思うが、鎌倉のあの水無瀬川は、今ごろ潮が満ちていることだろうか。

〈3367〉多くの島々をめぐる足柄小舟のように、あの方は立ち寄る女が多いので、私の所には、思っていても来て下さらない。

【説明】
 相模の国(神奈川県)の歌。3363の「遣りて」は、行かせて。大和に出向いたのは、調・庸の運搬、または成人男子に課される衛士や仕丁などの力役負担のための出張だったと見られます。「まつしだす」は難解で、上掲の解釈のほか、旅立った夫の無事を祈るための、松を立てるという呪法とする説もあります(「し」は強意、「だす」は「立つ」の東語と見る)。「足柄山」は、具体的な一つの山の名前ではなく、神奈川県と静岡県の県境にある足柄峠を中心に、古くは金時山(標高1213m)を含めた連山の総称。

 3364の「足柄の箱根の山」は、神奈川県箱根町の山。箱根は、『万葉集』ではすべて「足柄の箱根」と詠われており、地名の由来は、「足柄」が足柄山の杉材で造った船の足が軽くて速いことから足軽、それが足柄に転化した、また「箱根」の「根」は嶺や山を意味し、山の形が箱型であるためなどといわれています。「実とはなれるを」は、実となったのに、すなわち、男女が結ばれたことを意味しており、「逢わなく」は「粟無く」との掛詞になっています。「怪し」は、不思議だ。つまり、「2人の仲はしっかり結ばれたのに、逢わないなんておかしいじゃないの!」と、男を責めている女の歌です(男の歌とする説もあります)。

 一方、譬喩ではなく実際に粟を蒔いたと解する説もあります。国文学者の佐佐木幸綱は、「恋人は、防人などに徴発されて不在なのかもしれぬ。あるいは、片思いの、あこがれの君が相手なのかもしれない。ただ一人で、原生林に通ってゆき、粟の成長を確かめる娘(がふさわしいだろう。男ではなく)。鳥獣に荒らされることもなく、日光不足も耐えぬいて、ついに粟は実った。逢はなく(粟無く)はおかしいじゃないか、と解するのだ。こうとった方がずっといい歌になる」と言っています。

 粟は日本人に馴染み深い古い食べ物です。粟は、『古事記』では大宜津比売神(おおげつひめのかみ)の耳に、『日本書紀』では保食神(うけもちのかみ)の額に生じ、同時に生じた稲・稗(ひえ)・麦・豆とともに五穀といわれ、神産巣日神(かむむすひのかみ)・天照大神(あまてらすおおかみ)に見出されて、人間が食べて生きる食料とされました(五穀の起源神話)。今でこそ殆ど栽培されない粟ですが、かつては重要な食用作物であり、「粟の三日生え」と言われるように、早く実ることから大事にされました。

 また、箱根が交通路として開かれるのは平安時代に入ってからであり、古くは碓氷道(御殿場-乙女峠-仙石原-碓氷峠-明神峠-関本)、足柄道(御殿場-竹の下-足柄峠-関本)が利用されていました。しかし、延暦21年(802年)の富士山大噴火によって足柄道がふさがれたため、湯坂道とよばれる最初の箱根路(三島-箱根町-鷹巣山-浅間山-湯坂山-湯本-小田原)が開かれました。「東歌」がうたわれた時代の箱根の山々は、まだしかるべき道もなく、全くの原生林に覆われていたと考えられています。箱根の歌が2首しかないのは、近くに住む人々以外に馴染みのない山だったからでしょう。

 3365の「見越の崎」は、諸説あるものの所在未詳。「岩崩え」は、岩石が露出して崩れているように見える所。上3句が「悔ゆ」を導く序詞で、「岩崩え」の「くえ」が類音の「くゆ」を導き出しています。恋の先行きに不安を持ちながら、見越の崎を毎日の生活の中に見ている女は、愛の誓いの言葉もまた日常の生活の場に求めています。なお、巻第3-437に「妹もわれも清(きよみ)の河の河岸の妹が悔ゆべき心は持たじ」という、下句がほとんど同じ歌が別にあります。

 3366の「ま愛しみ」の「ま」は接頭語、「愛しみ」は「愛し」のミ語法で、可愛さゆえに。「さ寝」は、共寝の慣用語。「美奈の瀬川」は、鎌倉市の由比ヶ浜に注ぐ稲瀬川。「満つなむか」の「なむ」は、「らむ」の東語。「か」は、疑問。満潮時にもかかわらずなお訪れたいという突然の慕情(ないしは欲情)を歌ったものです。3367の「百つ島」は、百と多くある島。「足柄小舟」の「小」は接頭語で、足柄山の杉材などで造られた舟。上2句は「歩き多み」を導く序詞。「歩き多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、行く先が多いので、つまり女の多いので意。「目離る」は、疎遠になる意。「心」は、作者である女自身の心とも取れますが、ここは相手の男の心とされます。

 『万葉集』には、共寝を意味する「寝」という表現は多く見られますが、東歌とそれ以外の巻との間には違いがあります。中央文化圏の歌では、二人で寝るとはいうものの、その姿態までを想像させるということはありませんが、「東歌」では、3366や後出の3404の歌のように、男女の性行為を直接に意味する「寝」の語が多く用いられている点が指摘されています(230首中28首)。それら風雅を気取らないストレートな表現は、むしろ自分の感情に正直な東国人の精神がなせるわざであり、明るく堂々と歌うからこそ、そこには卑猥さも陰湿さも感じられないものとなっています。

巻第14-3368~3372

3368
足柄(あしがり)の土肥(とひ)の河内(かふち)に出(い)づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに
3369
足柄(あしがり)の麻万(まま)の小菅(こすげ)の菅枕(すがまくら)あぜか枕(ま)かさむ児ろせ手枕(たまくら)
3370
足柄(あしがり)の箱根(はこね)の嶺(ね)ろのにこ草の花妻(はなづま)なれや紐(ひも)解かず寝(ね)む
3371
足柄(あしがり)の御坂(みさか)畏(かしこ)み曇(くも)り夜(よ)の我(あ)が下(した)ばへをこち出つるかも
3372
相模道(さがむぢ)の余呂伎(よろぎ)の浜の真砂(まなご)なす児(こ)らは愛(かな)しく思はるるかも
  

【意味】
〈3368〉足柄の土肥の河内に湧いてゆらぐ湯のように、あの娘は、愛情がゆらぐ気持ちを少しも洩らしたわけではないのだ。
 
〈3369〉足柄の麻万の小菅で作った菅枕、どうしてそんなものを枕にしているのか。愛しい子よ、私の手を枕にしなさい。

〈3370〉足柄の箱根の山のにこ草のような柔らかい花(新婚の妻)なのか、そうではないのに下紐を解かずに寝ようとするのか。

〈3371〉足柄の神の御坂の恐れ多さに、曇り夜のような私の秘めた思いを、とうとう言葉に出してしまった。

〈3372〉相模の余呂伎の浜の美しい真砂のように、あの子が愛しく思われてならない。

【説明】
 相模の国(神奈川県の大部分)の歌。3368の「足柄(あしがり)」は、足柄の方言的発音。ただし東歌に8例ある「足柄」のうち5例が「あしがり」、3例が「あしがら」であり、防人歌にある3例はすべて「あしがら」であることから、当時は両方通用していたとみられます。「土肥」は、湯河原谷。後に鎌倉幕府で重きをなした土肥一族の出身地です。「河内」は、水流をはさんだ一帯の地のことで、「土肥の河内」は、今の湯河原温泉の地にあたります。「出づる湯の」は、湧き出る湯のように。上3句は「たよらに」を導く序詞。「世にも」は、決して、断じての意で、下の「言はなく」にかかります。「たよらに」は、揺れ動いて定まらないさま。「児ろ」の「ろ」は、接尾語。相手の愛情の確かさを喜んでいるようでいて、実は不安の心が歌われています。また、温泉の湧き出る様子を歌った珍しい歌です。

 3369の「麻万」は、地名とする説と「崖」の意とする説があります。「足柄」というかなり広い地名のすぐあとに「崖」と続くのもどうかと思われるので、「葛飾の真間」のように地名とすべきかとも考えられます。「あぜ」は、なぜ、どうしての東国方言。「枕かさむ」は「枕かむ」の敬語。「児ろせ」の「ろ」は接尾語、「せ」は動詞「す」の命令形。「愛しい子よ、しなさい、私の手枕を」。

 3370の「箱根の嶺ろ」の「ろ」は、接尾語。上3句は「花妻」を導く序詞。「にこ草」は、生え始めたばかりの柔らかい草、またはハコネシダ。「花妻」の原文は「波奈都豆麻」で「花つ妻」となりますが、字余りにする必要のない場合であり、誤って入った不要の文字だとする見方があります。花だけで実のない妻で、新婚初夜の初々しく恥らっている妻、あるいは月の障りや神を祀る期間にある妻の意などと説明されます。閨中で男が女に言っている歌で、下紐を解かず情事に応じようとしない女をなだめています。
 
 3371の「足柄の御坂」は、相模国から駿河国へ越える足柄峠。急峻な坂として恐れられ、そのため神のいます坂とされたようです。その神を憚って「御坂」と言っています。この時代、東国から西の方に行くには、東山道なら碓氷の坂(碓氷峠)、東海道なら足柄の坂(足柄峠)のいずれかを越えて行かねばならず、箱根路が開かれるのは後の時代のことです。「曇り夜の」は「下ばへ」の枕詞。「下ばへ」は、心の中の秘密。「我が下ばへ」は、心の底に隠したる人すなわち恋人あるいは妻の名前だろうとされます。「こち出つる」は、言葉に出す。古代、名は人そのものと等しいと考えられて大切にされ、恋人の心身を他人に奪われてはならないのと同様、恋人の名前も他人に打ち明けてはならないのでした。作者がその名を口にしたのは、恋しさのためではなく、恐ろしい坂を無事に通してもらうための神への贖祈(あがこい)だったのでしょう。

 3372の「相模道」は、相模国の意または相模国を通っている道。「余呂伎の浜」は、神奈川県の大礒町・二宮町あたりの相模湾沿いの海浜。「真砂」は、砂の美称。「真砂なす児」は、上掲の解釈のほか、「まなご」を「真砂(まなご)」と「愛子(まなご)」の掛詞と見る、あるいは、「まなご」は、細かい砂ではなく「小石(さざれ石)」を意味する方言と見て、色とりどりの小石のように美しい彼女と見る、また、「児ら」の「ら」は、接尾語でなく複数として、砂のようにたくさんの女性たちと解するものなどがあります。愛しい女性に喩えるなら、それは美しいもの、可憐なものでなければならず、それにふさわしいものとすれば、やはり細かい砂よりも色とりどりの小石の方が優っているように思えますが、定説には至っていません。
 
 東歌には、大きな地名に小さな地名を重ねた言い方をしているものが数多く見られます。ここの「足柄の」で始まる歌もそうですし、他にも「上つ毛野伊香保の沼」「葛飾の真間」「信濃なる千曲の川」「足柄の刀比」「鎌倉の見越の崎」など、くどいとも言える地名表現が多々あります。地元の人たちが詠む歌の物言いとしてはかなり不自然であり、いかにも説明的であるところから、中央の関係者によって手が加えられたものと想像できます。

巻第14-3373~3377

3373
多摩川に晒(さら)す手作(てづく)りさらさらに何(なに)そこの児(こ)のここだ愛(かな)しき
3374
武蔵野(むざしの)に占部(うらへ)肩焼きまさでにも告(の)らぬ君が名(な)占(うら)に出(で)にけり
3375
武蔵野(むざしの)のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ去(い)にし宵(よひ)より背(せ)ろに逢(あ)はなふよ
3376
恋しけば袖(そで)も振らむを武蔵野(むざしの)のうけらが花の色に出(づ)なゆめ
[或る本の歌に曰く いかにして恋ひばか妹に武蔵野のうけらが花の色に出(で)ずにあらむ]
3377
武蔵野(むざしの)の草(くさ)はもろ向(む)きかもかくも君がまにまに我(あ)は寄りにしを
  

【意味】
〈3373〉多摩川の水にさらさらとさらして仕上げる手織りの布のように、さらにさらにどうしてこの娘(こ)をこんなに愛しく思うのか。
 
〈3374〉武蔵野で占いをして、骨を焼いたら、実際にあなたの名前など口に出さなかったのに、その占いに出てきてしまいました。
 
〈3375〉武蔵野の窪地に巣食う雉のように、飛び立つように行ってしまったたあの夜から、あの人に逢っていません。

〈3376〉恋しければ袖も振るものですが、私たちの恋は人に知られては困るので、武蔵野のおけらの花のように、ほんのかすかでも目立つような素振りはしないようにしましょう、決して。
(どのように恋したら、あの子に対して、武蔵野のおけらの花の色のように、目立たずにすますことができるのだろうか)

〈3377〉武蔵野の草葉が風にいっせいに靡くように、どんな場合でもあなたの意のままになってきたのですよ。

【説明】
 武蔵の国(東京都・神奈川県・埼玉県にまたがる地域)の歌。3373について、作者の恋人は、毎日手織りの布を織ってはさらす仕事をする娘なのでしょう、せっせと働いているその娘の姿を見て愛しくてたまらないと言っています。「晒す」は、布を水洗いしたり、日に干したりして、白く仕上げる工程のこと。「手作り」は、手織りの布のことで、多くは麻布。上2句は「晒す」の同音反復で「さらさらに」を導く序詞。「さらさらに」は、さらにさらに。「何そ」は、どうして。「ここだ」は、こんなにもひどく、甚だしく、の意の副詞。「愛しき」は「愛し」の連体形で、「何そ」の係り結び。

 この歌はきわめて音楽的でリズミカルであり、「多摩川」「手作り」というタ行が響き合い、「さらす」「さらさら」というサ行が呼応し、また「この児」「ここだ」に見られる同音の繰り返しによる強調など、実に爽快で巧みな歌となっています。さらに序詞には、都の貴人らの詠む歌の、雅ばかりの序詞とは違い、生活という確かな実体があります。この時代、多摩川河畔の地域では布生産が盛んに行われており、手織りの麻布を、税の一種である「調」として納めていました。今もその名残である「調布」「砧(きぬた)」「布田」などの地名が残っています。この歌は、布を川でさらすときに、みんなで歌い合った労働歌だったのかもしれません。

 3374の「武蔵野」は、荒川と多摩川の間の平野。この時代には「むざしの」とにごって発音したようです。「象焼き」は、鹿などの動物の骨を焼き、ひびの具合で吉凶を占うこと。「象焼き」による卜占は、東国地方に限らず広く行われたものらしく、『古事記』にも登場します。「まさでに」は、まざまざ、はっきりの意。この歌は、母親が娘の関係している男の名を知りたがって厳しく問い詰め、娘はとうとう白状してしまったため、相手の男に嘘の言い訳をしている歌とみられています。

 3375の「をぐき」は、窪地、洞穴、山峡または山のふところ。「雉(きざし)」は、キジの古名。上2句は、雉が飛び立つ意から「立ち別れ」を導く序詞。「去にし宵より」は、行ってしまった夜から。「背ろ」の「ろ」は「ら」と同意の東語の接尾語。「逢はなふよ」の「なふ」も東国特有語で、逢わないことであるよ。夫は、雑徭か兵士として。雉が飛び立つように旅に出て行ったのでしょうか。夫を慕う妻の悲しみが身に染みて感じられる歌です。

 3376の「恋しけば」は、恋しければ。「うけら」は、山野に自生するキク科多年草のオケラ。秋に白または淡紅色のアザミに似た地味な花が咲き、根は漢方薬に用いられ、正月用の屠蘇散の原料にもなります。「袖も振らむを」は、袖を振ろうものを。袖を振るのは、衣服の袖には魂が宿っていると信じられており、離れた者との間で相手の魂を呼び招く呪術的行為でした。「色に出なゆめ」の「色に出」は「色に出(い)づ」の約で、恋心が表情や素振りに出る意。「な」は、禁止。「ゆめ」は、決して。この歌の解釈はふつう「恋しいなら私が袖を振りもしよう。でも決してお前(あるいはあなた)は恋心を顔色にあらわしてはいけません」とされますが、相手にそぶりを見せるなと言っていながら、自分は恋しくなったら袖を振ろうというのは勝手すぎてしっくり来ないため、上述の解釈に従います。「或る本の歌に曰く」の歌は別伝とされていますが、明らかに女の歌に対する男の返歌です。

 3377の「草は」は、原文「久佐波」で、「草葉」とするものもあります。「もろ向き」は、いっしょに同じ方向を向くこと。「かもかくも」は、どのようにも。「まにまに」は、~のままに。「寄りにしを」は、従ってきたのに、靡き寄ってきたのに。下に「それなのにあなたは・・・」の気持ちが込められており、男に身も心も投げ出した女の悲しみの歌と見えます。

巻第14-3378~3383

3378
入間道(いりまぢ)の於保屋(おほや)が原(はら)のいはゐつら引かばぬるぬる我(わ)にな絶(た)えそね
3379
我(わ)が背子(せこ)を何(あ)どかも言はむ武蔵野(むさしの)のうけらが花の時なきものを
3380
埼玉(さきたま)の津に居(を)る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言(こと)な絶えそね
3381
夏麻(なつそ)引く宇奈比(うなひ)をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我(あ)が下延(したは)へし
3382
馬来田(うまぐた)の嶺(ね)ろの笹葉(ささは)の露霜(つゆしも)の濡(ぬ)れて我(わ)来(き)なば汝(な)は恋(こ)ふばぞも
3383
馬来田(うまぐた)の嶺(ね)ろに隠(かく)り居(ゐ)かくだにも国の遠かば汝(な)が目(め)欲(ほ)りせむ
  

【意味】
〈3378〉入間の於保屋が原に生える蔓のように、引いたら滑らかに靡いて、私との関係を絶やさないようにしておくれ。
 
〈3379〉あの人に何と言ったらよいのか、武蔵野のおけらの花が時を選ばず咲くように思い続けているのに。
 
〈3380〉風がひどいので、埼玉の船着き場につながれている船の綱が切れるようなことがあっても、あなたの言葉(便り)は絶やさないでください。

〈3381〉宇奈比に向かって飛んでいく鳥のように、あなたのもとへ行こうと、心の中で思いを巡らしています。

〈3382〉馬来田の山々の笹葉に置く露霜に、濡れながら私が行ってしまったら、お前はひとり寂しく恋しがるのだろう。

〈3383〉馬来田の山々に遮られただけでもこんなに寂しいのに、さらに故郷が遠く隔たったならば、ますますお前に逢いたくて仕方がない。

【説明】
 3378~3381は、武蔵の国(東京都・神奈川県・埼玉県にまたがる地域)の歌。3382~3383は上総の国(千葉県南部)の歌。

 3378の「入間」は、埼玉県入間郡、入間市、川越市、所沢市などの一帯。「於保屋が原」は、入間郡越生町大谷あたりか。「いはゐつら」は、スベリヒユ、ミズギンバイ、ジュンサイなど諸説あるものの未詳。上3句は「引かばぬるぬる」を導く序詞。「ぬるぬる」は、滑らかに靡いて、ほぐれてずるずると繋がり絶えない様。「な絶えそね」の「な~そね」は、禁止。3379の「何(あ)ど」は「など」の訛り、どのように、何と。「かも」は、詠嘆を含んだ疑問の係助詞。「うけら」は、キク科多年草のオケラ。「時なき」は、時を選ばず、いつという時がなく常に。「ものを」は、逆接の意を込めた詠嘆。~のになあ、~のだがなあ。
 
 3380の「埼玉の津」は、埼玉県熊谷市・行田市あたりにあったとされる利根川または荒川の渡し場。「風をいたみ」の「いたみ」は「いたし」のミ語法で、風がひどいので。「綱は絶ゆとも」は、綱が切れることはあっても。たとえどんなことがあってもという気持ち。「言な絶えそね」の「な~そね」は、禁止。男の歌とする見方もあるようですが、風がひどくなって(つまり世間の批判が激しくなって)私のもとへ通ってこられなくなっても、せめて便りだけは絶やさないでくださいと待ちわびている女の歌であると解します。港の遊行女婦たちが歌ったものとの見方もあるようです。

 3381の「夏麻引く」の「夏麻」は、夏の土用のころに畑から引き抜く麻。夏麻は「績(う)む(つむぐ)」ものであることから、同音で「宇奈比」に掛かる枕詞。「宇奈比」は未詳で、「海辺」の意の一般名詞ととる説、地名であり世田谷区の宇奈根町かもしれないといった説などがあります。「飛ぶ鳥の」は、飛ぶ鳥のように。上3句は「至らむ」を導く譬喩式序詞。「至らむとぞよ」は、あなたの所へ行こうと。「ぞ」は強意の係助詞、「よ」は整調のための間投助詞。「下延へ」は、心の中で思いめぐらすこと。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形で、上の「ぞ」の係り結び。
 
 3382・3383の「馬来田」は、千葉県君津市から木更津市にかけての一帯。「嶺ろ」は、その周辺の山ながら、所在不詳。「ろ」は、接尾語。3382の上3句は「濡れて」を導く序詞とする見方がありますが、ここでは実叙として解しています。序詞と見るなら、「露霜に濡れているように、私が涙に濡れて」のような解釈になります。「来なば」の原文「伎奈婆」で、「来れば」と解せますが、万葉学者の伊藤博によれば「行先を起点にして言った方言」とのことで、ここでは「行ってしまったら」と解しています。「別きなば」として、別れて行ったならばと解するものもあります。「恋ふば」は「恋ひむ」の訛り。「ぞも」は、強調・感動の終助詞。

 3383の「隠り居」は、山々に遮られて妻の家が見えない意。「かくだにも」は、これほどまでに。「だに」は、せめて~だけでも、~までも、~でさえ、などの意を表す副助詞。「国」は、故郷。「遠かば」は「遠けば」の東語。山の向こうに妻を置く男の嘆きの歌であり、おそらく防人などとして妻と別れて馬来田の嶺の彼方の行く折の感慨なのでしょう。

巻第14-3384~3387

3384
葛飾(かづしか)の真間(まま)の手児奈(てごな)をまことかも我(われ)に寄(よ)すとふ真間の手児奈を
3385
葛飾(かづしか)の真間(まま)の手児奈(てごな)がありしかば真間のおすひに波もとどろに
3386
にほ鳥の葛飾(かづしか)早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも
3387
足(あ)の音せず行かむ駒(こま)もが葛飾(かづしか)の真間(まま)の継橋(つぎはし)やまず通はむ
  

【意味】
〈3384〉葛飾の真間の手児奈、あの美少女がこの私に寄っているという、本当かな、あの真間の手児奈が。
 
〈3385〉葛飾の真間のあの美少女がいたものだから、この真間の磯辺に寄せる波がとどろきわたるように、人々が大騒ぎしたことだろう。
 
〈3386〉葛飾の早稲を神に捧げる新嘗祭の夜であっても、愛しいあの人を外に立たせておくことなどできない。

〈3387〉足音を立てずに行く、そんな馬がいたらなあ。葛飾の真間の継橋を渡って、いつも彼女のもとへ通うことができるのに。

【説明】
 下総の国(千葉県北部と茨城県南西部)の歌。3384・3385の「葛飾の真間の手児奈」は、伝説上の美女(巻第9-1807~1808を参照)。「葛飾」の地名は、東京都葛飾区、埼玉県北葛飾郡、またかつて千葉県東葛飾郡とあったように、江戸川流域の広大な地域を言い、東歌では「かづしか」とにごっています。「真間」は、市川市に真間町がありますが、そこも含めた国府台(こうのだい)一帯を指した地名。3384の「まことかも」は、本当なのか。「寄す」は、関係があるといって他人が噂すること。「とふ」は「と言ふ」の約。上の「かも」の「か」を受けた係り結びで連体形。3385の「ありしかば」は、いたものだから。「おすひ」は「磯辺」の東語。「波もとどろに」の「とどろ」は、鳴り響く音を形容する副詞。なお、「波も」とあることから、上掲の解釈とは別に、人ばかりでなく波までもが大騒ぎした、のように解するものもあります。

 3386の「にほ鳥の」の「にほ鳥」はカイツブリで、魚を獲るために水に潜(かず)くことから同音の「葛飾」にかかる枕詞。「葛飾早稲」とあるのは、当時葛飾の新米が良品とされたのでしょう。「饗す」は、神に新物を捧げることで、ここでは秋の新嘗祭。神を祭るのは選ばれた未婚の娘の役目とされ、家を清浄にし、家族でも家の内に入れるのを禁じたといいます。そこへ恋人が忍んでやって来たので、禁忌を犯すことになっても、空しく外に立たしておかれようか、と言っています。「愛しき」は、愛しい人。「やも」は、反語。斎藤茂吉は、自分の恋しいあのお方というのを「その愛しきを」といっているのは、簡潔でぞくぞくさせる程の情味もこもりいる、まことに旨い言葉であると評しており、作家の田辺聖子は、「放胆で無邪気な歌である。長い世々の男たちはそういう女の放胆な、むきだしの本音を愛してきたにちがいない。いったい『万葉集』の女人は、それ以後の女人が失ってしまったような強烈な自己主張を発揮していて、それもこの歌集を魅力的にしている理由の一つである」と言っています。

 なお、新嘗祭とは、宮中で行われる祭祀の一つで、農業国の宗教的首長としての天皇が、その年に収穫された新穀を天神・地祇にに供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式のことです。古くからの行事であり、『日本書紀』の中にも何度も記されています。現在の「勤労感謝の日」(11月23日)は、昭和23年7月の「国民の祝日に関する法律」公布以前は「新嘗祭」と呼ばれていました。ただし、ここの歌でうたわれている新嘗祭は、こうした宮廷行事とは無関係で、東国農民の間で行われていた民間行事としての新嘗の祭りです。具体的にどのようなことが行われていたのかの詳細は不明ですが、男性は家の外に出され、女性だけが残って神をもてなす儀式を行ったようです。3460にも、新嘗祭の歌があり、そこでも夫も家を出されたことがうたわれています。
 
 3387も「真間の手児名」の伝説にかかわって歌われた歌といわれ、秘密の恋人のもとへひそかに通って行きたいと願う歌、あるいは、しばらく女性を訪ねなかった言い訳とも読めます。東歌らしいのは後者の方でしょう。「駒もが」の「もが」は、願望。~あったらなあ。「継橋」は、川幅の広い中に何本かの柱を立てて板を渡し、複数の橋を継いだように見える橋。続いて通う意を含んでいます。川の増水時には取り外すために釘などを打ちつけていないため、馬が渡るとガタガタと大きな音を立てたとみえます。

巻第14-3388~3392

3388
筑波嶺(つくはね)の嶺(ね)ろに霞(かすみ)居(ゐ)過ぎかてに息づく君を率寝(ゐね)て遣(や)らさね
3389
妹(いも)が門(かど)いや遠(とほ)そきぬ筑波山(つくはやま)隠れぬ程(ほど)に袖(そで)は振りてな
3390
筑波嶺(つくはね)にかか鳴く鷲(わし)の音(ね)のみをか泣きわたりなむ逢(あ)ふとはなしに
3391
筑波嶺(つくはね)に背向(そがひ)に見ゆる葦穂山(あしほやま)悪(あ)しかる咎(とが)もさね見えなくに
3392
筑波嶺(つくはね)の岩もとどろに落つる水(みづ)世にもたゆらに我(わ)が思はなくに
   

【意味】
〈3388〉筑波嶺の嶺にかかった霞が動かないように門前を立ち去れず、ため息をついているあの人を、さあ連れて来て一緒に寝て帰してやりなさいよ。
 
〈3389〉彼女の家がますます遠ざかっていく。あの筑波山に隠れないうちに、この袖を振っていたいものだ。
 
〈3390〉筑波山で「かか」と鳴き立てる鷲のように、私はただ泣き続けることでしょう。あなたに逢うこともなく。

〈3391〉筑波山の後ろに見えるのは足尾山、その名のように悪しと思える欠点など、あの子にはちっともありはしないのに。

〈3392〉筑波嶺の岩もとどろくばかりに流れ落ちる水のように、私たちの仲が絶えるなどとは思わない。

【説明】
 常陸の国(茨城県)の歌。3388の「筑波嶺」は、筑波山。「嶺ろ」の「ろ」は、接尾語。上2句は、霞がいつまでもかかっている様から「過ぎかてに」を導く譬喩式序詞。「過ぎかてに」は、過ぎ難くして。通り過ぎることができないで。「率寝て遣らさね」の「率寝」は、連れ込んで寝る意の複合動詞。「遣る」は、行かせる。「ね」は、希求の終助詞で、一緒に寝て帰してやりなさいよ。筑波山の麓あたりに住んでいる女の家の辺りへ、関係のある男が来て、家の中に入り難くしているのを、女の傍らにいる年長の女が見て言った形の歌です。あたかも年少の女に情事の指導をしているかのようで、なかなか露骨な表現ですが、不思議と嫌味は感じられません。歌人で文学者の森本治吉は、「『あれほど惚れてんだから、満足させてやんなさい』という歌意は、どうも日本和歌史に類例の見出せぬ題材で、内容にも表現にも野性が満ち溢れていて、さすが東歌である」と評しています。

 3389の「妹が門」は、別れて来た妻の家。「門」は家の入口ですが、家全体をも言います。「いや遠そきぬ」は、ますます遠ざかったので。「隠れぬ程に」は、隠れないうちに。「袖は振りてな」の「な」は、願望、決意の終助詞。3390の「かか」は擬声語。上2句は「音のみをか泣きわたり」を導く譬喩式序詞。「鷲」について、東光治『続万葉動物考』は、この鷲はたぶんイヌワシだろうと推定し、次のように記しています。「猛禽類は群棲することなく、殊に鷲は大抵一羽だけでいつまでも一ヵ所に静止し、時々寂しさうな声で、カッ、カッと鳴くものであるから、思ふ人に会はれず一人して悲しみ泣くといふ歌には誠に相応しい序詞である。この歌を解するには是非この点までも考慮して戴きたいものである」。「音のみ泣く」は、泣きに泣く、大声で鳴き散らす意の熟語。「逢ふとはなしに」は、逢うことはなく。

 3391の「背向に見ゆる」は、後ろの方に見える。「葦穂山」は、筑波山の北北東にある足尾山。上3句は、同音反復で「悪し」を導く序詞。「悪しかる咎」は、悪いと思われるところ。「さね」は下に打消の語を伴い、ちっとも、決して。「なくに」の「に」は、逆説的意味を込めた詠嘆。自分の恋人のことを他人が悪く言ったのを聞いて反発した歌、あるいは世話好きの媒介役の人が、「いい娘でしょう。思い切って声をかけてみたら」と口利きしている歌でしょうか。そうだとしたら、「背向に見ゆる」の描写に、どことなく地味な人柄が暗示されます。

 3392の「岩もとどろに」は、岩もとどろくばかりに。「落つる水」は、男体・女体二峰から流れ出る男女(みなの)川を指しているかもしれません。上3句は「たゆらに」を導く譬喩式序詞。「世にも・・・なくに」は、決して・・・ないことだ。「たゆらに」は、ここでは「絶えるように」の意としましたが、物や気持ちがゆれ動いて定まらないさまの意とする説もあり(3368の「たよらに」と同じ)、それによると「揺れる思いなど決して私は持っていない」との解釈になります。いずれの場合も、相手に疑われたのに答えた誓約の歌とされます。

 筑波山が出てくる「東歌」は全部で11首あります。「東歌」の山と言えば、富士山、榛名山、箱根山、磐梯山、安達太良山、子持山、赤城山などがありますが、そのどれよりも筑波山は多く登場します。

巻第14-3393~3397

3393
筑波嶺(つくはね)の彼面此面(をてもこのも)に守部(もりへ)据(す)ゑ母(はは)い守(も)れども魂(たま)ぞ合ひにける
3394
さ衣(ごろも)の小筑波嶺(をづくはね)ろの山の崎(さき)忘(わす)ら来(こ)ばこそ汝(な)を懸(か)けなはめ
3395
小筑波(をづくは)の嶺(ね)ろに月立(つくた)し間夜(あひだよ)はさはだなりのをまた寝(ね)てむかも
3396
小筑波(をづくは)の茂(しげ)き木(こ)の間(ま)よ立つ鳥の目ゆか汝(な)を見むさ寝(ね)ざらなくに
3397
常陸(ひたち)なる浪逆(なさか)の海の玉藻(たまも)こそ引けば絶(た)えすれあどか絶えせむ
   

【意味】
〈3393〉筑波嶺のあちらこちらに番人を置いて森を監視するように、母は私を見張っているけれど、私たちの魂は通じ合ってしまいましたよ。
 
〈3394〉小筑波山の山の崎よ、そこを忘れられる時が来たなら、お前のことを心に懸けずにいられよう。
 
〈3395〉小筑波山のてっぺんに新しい月が立つように、あの子に月が経ち、逢えない夜が多く重なったけれど、また共寝ができようかな。

〈3396〉小筑波山の茂った木の間から飛び立つ鳥を見るように、遠くからお前を目で見るだけでいなければならないのか、共寝をしなかった仲でもないのに。

〈3397〉常陸にある浪逆の海の玉藻は引けば切れるだろうが、二人の仲はどうして切れることがあろうか。

【説明】
 常陸の国の歌。3393の「彼面此面」は、「をちおもこのおも」の略で、あちらこちら。「守部」は、山守部の略で、山の番人のこと。聖なる山とされていた筑波山では盗伐が禁止されており、それを厳しく監視する番人があちこちに配置されていたといいます。上3句は「母い守る」を導く譬喩式序詞。「母い守れども」の「い」は、強意の間投助詞。「魂ぞ合ひにける」は、霊魂が一緒になる。夢の中での出逢いを意味するとも言われ、夢は身体から遊離した魂が見るものであり、魂の次元で逢うことができれば、やがて共寝ができる、そう考えられていたようです。

 恋人たちに対する娘の母親の監視・干渉がかなり一般的だったことは、他にある幾つかの歌からも窺えます。また、「正倉院文書」の中に、養老5年(721年)の下総国葛飾郡大島郷の73戸分の戸籍が残っており、奈良時代の東国地方の家庭を想像させる貴重な文献となっています。これを見ると、父64歳、長男36歳で、2歳の孫2人(双子)がいながら、長男の妻が見当たらない戸籍がある一方、30歳以上の独身女性が何人もいる戸籍が多く見られます。別居結婚の一つの型を示しており、こうなった理由は、戸主が娘を戸籍から除かれるのを極力嫌ったからだと想像されます。班田収受法で貸与される耕地面積を減らしたくない、兵役や徭役を課せられない貴重な労働力を手離したくない等の理由があったと考えられています。娘の立場からうたったこの歌も、母親の監視を、盗伐を厳しく監視する番人のイメージに重ね、「筑波嶺の彼面此面に守部据ゑ」との序詞が使われています。

 3394の「さ衣の」は、衣の「緒」と続き、同音の「小」にかかる枕詞。「小筑波嶺ろ」の「小」は接頭語で、平素見慣れている筑波山に親しみを込めたものか。「ろ」は、接尾語。「山の崎」は、山の端が突き出た所で、別れ行く妻と見立てて呼びかけています。「忘ら」は「忘れ」の東語。「懸けなはめ」の「懸け」は、心に懸けて思う、または口に出して言う。「なは」は、打消の助動詞「なふ」の未然形、「め」は、推量の助動詞「む」の已然形で「こそ」の係り結び。心に懸けて思わずにいられよう。ただ、その解釈の裏返しとして、忘れられないから心に懸けて思うというのはくどい感じがするという理由から、「忘れられる時が来たならお前の名を口に出したりはしないだろう」と解するものもあります。

 3395の「月立し」の「立し」は「立ち」の東語。新月が出る意で、月が改まる、新しい月になる。また、女に月経が来た意にも用いられるため、ここは女性の月経が始まった意を込めているとされます。「間夜」は、逢わない間の夜。「さはだなりのを」の「さはだ」は、たくさん、いっぱいの意の副詞。「なりのを」は、正しくは「なりぬるを」とあるべきもの。「また寝てむかも」は、また共寝ができようかな。

 3396の「木の間よ」の「よ」は、動作の起点・通過点を表す格助詞。「立つ鳥の」は、飛び立つ鳥を見るように。上3句は「目」を導く譬喩式序詞。「目ゆか汝を見む」の「ゆ」は「木の間よ」の「よ」と同じ、「か」は、疑問の係助詞。目を通して汝を見るだけでいなければならないのか。「さ寝ざらなくに」の「さ」は、接頭語で、共寝をしなかった仲でもないのに。

 3397の「常陸なる」は、常陸の国にある。「浪逆の海」は、茨城県の南東部、霞ヶ浦から利根川河口までの湖沼といわれますが、地名ではなく、浪が逆方向に立つ入海をいう一般名詞だとする見方もあります。この時代はまだ、利根川が東京湾に注いでおり、北浦、霞ヶ浦は深い入海だったため、満潮時に浪が逆流したためこの名があるとされます。「玉藻」は、美しい藻。「玉」は、美称。「引けば絶えすれ」は、引くと切れるが。「あどか絶えせむ」の「あどか」は、どうして~かの意の東国語。「か」は、疑問の係助詞で、反語をなしているもの。二人の仲はどうして絶えようか、絶えはしない。

 3394~3396を、筑波山の嬥歌(かがい)の会に関係ある歌と見る向きもあります。3394などは、「筑波嶺の嬥歌における契りを忘れない」と言っているのだろう、と。そして、嬥歌(歌垣)が歌の掛け合いによって婚姻成立に結びつくものであれば、男女ともに歌の習熟に務めたに相違ない。『常陸風土記』にも誦詠された歌の数が非常に多かったことが記されており、相聞歌の始原の一つが、この嬥歌の場にあったと見ることができる。巻第14の東歌や巻第20をはじめとする防人歌など、東人(あづまびと)が歌作できるのも、嬥歌の経験が基になっていると見られる、と。

巻第14-3398~3401

3398
人皆(ひとみな)の言(こと)は絶ゆとも埴科(はにしな)の石井の手児(てご)が言な絶えそね
3399
信濃道(しなぬぢ)は今の墾(は)り道(みち)刈(か)りばねに足踏ましなむ沓(くつ)履(は)け我(わ)が背
3400
信濃(しなぬ)なる筑摩(ちぐま)の川の細石(さざれいし)も君し踏みてば玉と拾はむ
3401
中麻奈(なかまな)に浮き居(を)る船の漕ぎ出なば逢ふこと難(かた)し今日(けふ)にしあらずは
  

【意味】
〈3398〉たとい世間の人との交際が絶えようとも、埴科の石井の乙女との関係だけは絶えないでほしいものだ。
 
〈3399〉信濃道(しなのぢ)は切り拓いたばかりの道です。きっと切り株をお踏みになるでしょう。靴を履いてお越しになって下さい、あなた。

〈3400〉信濃を流れる千曲川の小石でも、あの方が踏んだ石なら玉と思って拾いましょう。

〈3401〉中麻奈に漂っている船を漕ぎ出してしまえば、逢うことが難しい。今日のこの時でなければ。

【説明】
 信濃の国(長野県)の歌。3398の「人皆の」は、世間の人すべてとの。ここは里のすべての人を指します。「言は絶ゆとも」は、交際が絶えようとも。「埴科」は、信濃の郡名で、今の千曲市あたり。「石井」は、湧き水を石で囲んだ井。いわゆる掘り抜き井戸だけでなく、川や池に設けられた水場や水が湧き出る場所なども「井」と呼ばれました。ここは、この石井に基づく里の名と見られます。「手児」は、かわいい乙女の意で、「石井の手児」は「真間の手児名」と同様に、地域の伝説の美女ではないかとされます。「な絶えそね」の「な~そ」は、禁止。「ね」は、願望。作者は、里で評判の女を伝説の美女になぞらえ、たとい村八分にされてもいいから我が物にしたいと言っています。
 
 3399の「信濃道」は、信濃の国府へ行く道。「今の墾り道」は、新しく切り開いた道。『続日本紀』に、美濃と信濃を結ぶ道が、大宝2年(702年)から12年かかって開通したという記録があり、その道が完成して間もないころの歌とみられます。「刈りばね」は、刈り払った後の木の切り株。「踏むまし」の「し」は 尊敬の助動詞。お踏みになるでしょう。このころの一般庶民は裸足で、沓(くつ)は正式なものは革製でしたが、ふつうは布や藁(わら)などで作られました。「沓履け」の「履け」は使役形とも考えられ、「馬が切り株を踏まないように靴を履かせよ」とする解釈も成り立ちます。この歌は、女の許へ通ってきた男が帰ろうとする時に女が言ったものですが、親愛をこめたからかいのようでもあります。一方、歌があまりに整いすぎていることから、都から信濃へ下る官人の妻の作ではないかとも言われます。また、「信濃路」という呼称は、地元民の命名ではありえないようにも感じられるところです。

 3400の「信濃なる」は、信濃国にある。「筑摩の川」は、現在の千曲川。原文では「知具麻能河」と表記されており、「ちぐま」と濁って発音されたようです。長野県南佐久郡に流れを発し、長野市の犀川で合流し、新潟県に入ると信濃川と呼ばれます。「細石」は、川原の砂利石のこと。「玉と拾はむ」は、玉と思って拾おう。恋人を偲ぶよすがとなるものだったら、小石でさえ愛しく思う女性のいじらしい心理が歌われています。作家の田辺聖子は、この「君し踏みてば玉と拾はむ」の句について、「どうしてこういう詩が古代びとの唇から、いともやすやすとこぼれおちるのか。その言葉こそ、片言節句、珠ではないか」との評を寄せています。また、この歌も非常に洗練されていて、訛りや方言もないことから、都の官人が信濃へ下ったもので、その妻の詠んだ歌ではないかとも言われています。

 3401の「中麻奈」は語義未詳ながら、信濃の川はすべて渓流の趣きがあり、流れの幅も狭く、「中」の名を冠していることから、中流あるいは中州の意とする説や、「ちぐまな」と訓み「千曲川」とみる説などがあります。「浮き居る船」は、係留している船。「今日にしあらずば」の「し」は、強意の副助詞で、今日でなければ。川船で遠い旅へ出ようとする男を見送りに来た女が、船を眼前に見ながら、出発までのしばらくの時を惜しんでいる歌です。

巻第14-3402~3405

3402
日の暮(ぐれ)に碓氷(うすひ)の山を越ゆる日は背(せ)なのが袖(そで)もさやに振らしつ
3403
我(あ)が恋はまさかも悲(かな)し草枕(くさまくら)多胡(たご)の入野(いりの)の奥(おく)も悲(かな)しも
3404
上つ毛野(かみつけの)安蘇(あそ)の真麻群(まそむら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れど飽(あ)かぬをあどか我(あ)がせむ
3405
上つ毛野(かみつけの)乎度(をど)の多杼里(たどり)が川路(かはぢ)にも子らは逢はなも一人のみして
  

【意味】
〈3402〉あの方が碓氷の山を越えて行かれたあの日には、遠くからお振りになった袖までがはっきり見えました。

〈3403〉私は今も恋しくて切ないけれど、多胡の入野の奥ほど、将来もずっと切ないことだろう。

〈3404〉上野の安蘇の群れ立つ麻、その麻を束ねてかかえるようにしっかりと抱いて寝るけれど、それでもまだ満たされない、私はどうしたらいいのか。
 
〈3405〉上野の乎度(おど)の多杼里(たどり)の川辺で、あの子は逢ってくれないかな、ただ一人で。

【説明】
 上野(かみつけの)の国(群馬県)の歌。古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる地域と、それぞれを拠点とする政治勢力が存在し、前者の毛野が上・下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」に分かれ、奈良時代に上野(こうづけ)、下野(しもつけ)になったといわれます。

 3402の「碓氷の山」は、群馬県と長野県の境界にある碓氷峠付近の山。原文では「宇須比乃夜麻」と表記されています。国境の碓氷の山を越える旅は容易ならぬ旅であり、防人か京の衛士として赴くためだったかもしれません。冒頭の「日の暮に」は、賀茂真淵は、日暮れの薄日が同音で「碓氷」にかかる枕詞であるとし、他が実景であると解しています。当時は、早朝に旅立つのが習いでしたから、「日の暮れ」どきとは無関係ということになります。「背なの」の「な」も「の」も、夫に対する親愛の意の接尾語。「さやに」は、はっきりと、明瞭に。旅行く夫の振る袖が、妻の心に焼きついて離れなかったようです。
 
 3403の「まさか」は、現在、今。「草枕」は「旅」の枕詞であるのを「多」の一音にかけたもので異例。夫が旅に出行くというような、旅のイメージがあるのかもしれません。「多胡」は、上野の郡名。「入野」は、山間に入り込んだ野原。「草枕多胡の入野の」は「奥」を導く同音反復式序詞。「奥」は、まさか(現在)に対して将来の意。上からの空間的「奥」を、時間的「奥」に転換させて下に続けています。そして、将来は向こうにあるのではなく、現在の奥にあるのだ、と考えた古代日本人のリアリズムです。

 この歌は、「東歌」中で秀歌の評判が高く、斎藤茂吉は、「『まさかも』、それから『おくも』と続いており、『かなし』を繰り返しているが、このカナシという音は何ともいえぬ響きを伝えている。民謡的に誰がうたってもいい。多胡郡に働く人々の口から口へと伝わったものと見えるが、甘美でもあり切実の悲哀もあり、不思議にも身に沁みるいい歌である」、窪田空穂は、「さわやかな歌で、特色のあるものである」、土屋文明は、「調子の調った清々しい一首である」などと評しています。また、文学者の中西進は、「恋の心を語る表現はきわめて多いだろうが、この東国の人間は、恋を切ないとしかいっていない。それでいて、これほどに恋の心を雄弁に物語ることばは、ほかにあるだろうか。『万葉集』の歌は、凝った技巧を使ったり、複雑な表現はけっしてしないかわりに、このように単純・率直に表現される。飾りはないかわりに偽りのない、この純粋さは、人間の真実の一点だけを言いあらわしていて、気高くも美しい」と述べています。
 
 3404の「安蘇」は、下毛野の郡名。「真麻群」は、麻の群生または刈り取った麻の束。上2句は「かき抱き」を導く譬喩式序詞。高さが2メートルにも及ぶ麻を収穫するときは、一抱えを両手で胸に抱き、後ろに反り返るようにして引き抜きます。そのようすを女性を抱擁する姿にたとえ、いくら抱いても満たされないとノロけている歌ですが、実際は、麻の収穫時に題材をとった労働歌とみられています。「あどか」は、いかが、どうしたら、の意の東国なまり。いずれにしても、「寝」という直接的な描写を用い、性愛の歓びをここまであけすけに表現した例は、中央の歌には見られません。このような歌は東歌の中には少なくなく、東国の異なる風俗(性風俗)を一種のエキゾチシズムとして都人に伝えようとする意図があったのかもしれません。言い換えると、中央の人々から見た東国理解のあり方が察せられるようでもあります。

 窪田空穂はこの歌を、「言いやすいようで言い難い感情を、素朴に、健康に、厭味なくあらわしている」と評しており、田辺聖子は、「こうずばっと歌いきってしまわれると、近代人は、しんそこ『まいった』と思う」とも述べています。ところでこの歌は、ひらがなで書くとよくわかりますが、「かみつけの あそのまそむら かきむだき ぬれどあかぬを あどかあがせむ」と、似た音が繰り返し使われていて、流れるようなリズムを醸す上に、一種の言葉遊びのようにもなっています。まさに『万葉集』のユーモア精神ここにあり!というような歌であります。

 3405の「乎度」「多杼里」は地名と見られますが、未詳。「川路」は、川へ行く道、川沿いの道。「子ら」は、男性が女性を親しんで呼ぶ接尾語。「逢はなも」の「なも」は「なむ」の東語で、願望の終助詞。「一人のみして」は、たった一人で、一人だけで来てくれて。

巻第14-3406~3409

3406
上(かみ)つ毛野(けの)佐野(さの)の茎立(くくた)ち折りはやし我(あ)れは待たむゑ来(こ)とし来(こ)ずとも
3407
上(かみ)つ毛野(けの)まぐはしまとに朝日(あさひ)さしまぎらはしもなありつつ見れば
3408
新田山(にひたやま)嶺(ね)にはつかなな我(わ)に寄そり間(はし)なる子らしあやに愛(かな)しも
3409
伊香保(いかほ)ろに天雲(あまくも)い継(つ)ぎかぬまづく人とおたはふいざ寝(ね)しめとら
  

【意味】
〈3406〉上野の佐野の青菜の茎を折り取って調理し、私はあなたをお待ちしましょう、たとえ今年はお帰りにならなくとも。

〈3407〉上野の地のまぐはしまとに朝日が差してくるように、まぶしくてならない、あなたとこうしてじっと向き合っていると。

〈3408〉新田山が他の峰に寄り付かずに一人で立っているように、寝てもいない私との関係を噂されて孤立しているあの子が、無性に愛しく思われる。

〈3409〉伊香保の峰に天雲が次々にかかるように、いつも騒ぎ立てている連中のおせっかいも収まった。さあ共寝をしようか、かわいい女よ。

【説明】
 上野(かみつけの)の国の歌。3406の「佐野」は、群馬県高崎市の東南一帯。「茎立」は、蕪(かぶら)・青菜の苗。「折りはやし」は、折り取って調理して食べられるようにする。「はやす」の意は他に、生やして、ほめそやす、切る、などとする説があります。「待たむゑ」の「ゑ」は、詠嘆の終助詞。「今年来ずとも」は、今年帰って来なくとも。「調理して待つ」の続きとしては飛躍に過ぎるとする見方がありますが、都の衛士などに徴されているとすれば、理解できないではありません。

 3407の「まぐはしまと」の語義未詳で、地名、美しい窓(目妙し間戸)、とする説があります。上3句は「まぎらはし」を導く譬喩式序詞。「まぎらはしもな」の「まぎらはし」は、まぶしい意の形容詞。「もな」は、詠嘆の終助詞。「ありつつ見れば」は、続けてじっと見ていると。男の歌か、女の歌か、定かではなく、両説が拮抗しています。

 3408の「新田山」は、太田市北方の金山(かなやま)。標高236mながら、他から独立しているためよく目立ち、神聖な山とされていたらしいことが、東歌にもう1首ある新田山が出てくる歌(3436)から推測されます。「嶺には着かなな」の「なな」は打消しで、他の嶺に着かないように。同音の「寝」との掛詞になっています。上2句は「我に寄そり」を導く譬喩式序詞。「寄そる」は、関係があると噂になる。「間なる」は、孤立していて。中途半端などちらつかずの気持ちでいる、と解する本が多くありますが、佐佐木幸綱は、それだと「孤立する新田山のイメージが生きない」と言っています。また、素朴な味わいの中にも「この歌にはある華やかさがある。その源泉は何か。私は微塵も退廃の臭いがない、そんな愛の姿がここにあるからだと思う」と。「あやに」は、無性に。「愛しも」の「も」は、詠嘆の終助詞。

 3409の「伊香保ろ」は、伊香保の山、ここでは、群馬県のほぼ中央部に位置する榛名山。「ろ」は、接尾語。「天雲い継ぎ」の「い」は接尾語で、雲が次々にかかり。「かぬまづく」「おたはふ」は、いずれも語義未詳ながら、かまびすしく人が騒ぎ立てる意ではないかとされます。「とら」は「児ら」とも人名とも。ただでさえ難解な東歌の中にあって、語義を決定できないものが3語もあるため、最も難解な歌とされます。

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旧国名比較

【南海道】
紀伊(和歌山・三重)
淡路(兵庫)
阿波(徳島)
讃岐(香川)
土佐(高知)
伊予(愛媛)
 
【西海道】
豊前(福岡・大分)
豊後(大分)
日向(宮崎)
筑前(福岡)
筑後(福岡)
肥前(佐賀・長崎)
肥後(熊本)
薩摩(鹿児島)
大隅(鹿児島)
壱岐(長崎)
対馬(長崎)
 
【山陰道】
丹波(京都・兵庫)
丹後(京都)
但馬(兵庫)
因幡(鳥取)
伯耆(鳥取)
出雲(島根)
隠岐(島根)
石見(島根)
 
【機内】
山城(京都)
大和(奈良)
河内(大阪)
和泉(大阪)
摂津(大阪・兵庫)
 
【東海道】
伊賀(三重)
伊勢(三重)
志摩(三重)
尾張(愛知)
三河(愛知)
遠江(静岡)
駿河(静岡)
伊豆(静岡・東京)
甲斐(山梨)
相模(神奈川)
武蔵(埼玉・東京・神奈川)
安房(千葉)
上総(千葉)
下総(千葉・茨城・埼玉・東京)
常陸(茨城)
 
【北陸道】
若狭(福井)
越前(福井)
加賀(石川)
能登(石川)
越中(富山)
越後(新潟)
佐渡(新潟)
 
【東山道】
近江(滋賀)
美濃(岐阜)
飛騨(岐阜)
信濃(長野)
上野(群馬)
下野(栃木)
岩代(福島)
磐城(福島・宮城)
陸前(宮城・岩手)
陸中(岩手)
羽前(山形)
羽後(秋田・山形)
陸奥(青森・秋田・岩手)

東歌の国別集計

東海 >>>
遠江 3
駿河 6
伊豆 1

中部 >>>
信濃 15

関東 >>>
相模 15
上野 25
武蔵 9
下野 2
上総 3
下総 5
常陸 12

東北 >>>
陸奥 4

不明 140

(合計 230)

東国方言の例

あしき
 →あしけ
逢ふ(あふ)
 →あほ
天地(あめつち)
 →あめつし
青雲(あをくも)
 →あをくむ
磯辺(いそへ)
 →おすひ
暇(いとま)
 →いづま
家(いへ)
 →いは/いひ
妹(いも)
 →いむ
兎(うさぎ)
 →をさぎ
うつくしき
 →うつくしけ
海原(うなはら)
 →うのはら
うらがなしき
 →うらがなしけ
帯(おび)
 →えひ
面変り(おもかはり)
 →おめかはり
思へど(おもへど)
 →おめほど
影(かげ)
 →かご
徒歩(かち)
 →かし
門(かど)
 →かつ
かなしき
 →かなしけ
帰り(かへり)
 →かひり
上(かみ)
 →かむ
鴨(かも)
 →こも
かも〈助詞〉
 →かむ
韓衣(からころも)
 →からころむ
木(き)
 →け
悔しき(くやしき)
 →くやしけ
けり〈助動詞〉
 →かり
小枝(こえだ)
 →こやで
数多(ここだ)
 →こごと
越す(こす)
 →こそ
言葉(ことば)
 →けとば
恋し(こひし)
 →こふし
子持ち(こもち)
 →こめち
幸く(さきく)
 →さく/さけく
防人(さきもり)
 →さきむり
捧げ(ささげ)
 →ささご
島陰(しまかげ)
 →しまかぎ
清水(しみづ)
 →せみど
後方(しりへ)
 →しるへ
住む(すむ)
 →すも
畳薦(たたみこも)
 →たたみけめ
立ち(たち)
 →たし
たどき
 →たづき
たなびく
 →とのびく
賜ふ(たまふ)
 →たまほ
月(つき)
 →つく
つつ〈助詞〉
 →とと
時(とき)
 →しだ
遠江(とほたふみ)
 →とへたほみ
なむ〈助詞〉
 →なも
なやましき
 →なやましけ
布(ぬの)
 →にの
野(の)
 →ぬ
放ち(はなち)
 →はなし
母(はは)
 →あも/おも/も
延ふ(はふ)
 →はほ
針(はり)
 →はる
引く(ひく)
 →ひこ
降る(ふる)
 →ふろ
真木柱(まきはしら)
 →まけはしら
待つ(まつ)
 →まと
向ける(むける)
 →むかる
共(むた)
 →みた
妻(め)
 →み
持ち(もち)
 →もし/もぢ/めち
やすき
 →やすけ
雪(ゆき)
 →よき
行く(ゆく)
 →ゆこ
百合(ゆり)
 →ゆる
寄す(よす)
 →えす
夜床(よとこ)
 →ゆとこ
より〈助詞〉
 →ゆり
我妹子(わぎもこ)
 →わぎめこ
我(われ)
 →わろ

東歌の作者

『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。全体が恋の歌であり、素朴で親しみやすい歌が多いことなどから、かつてこれらの歌は東国の民衆の生の声と見られていましたが、現在では疑問が持たれています。

そもそも土地に密着したものであれば、民謡的要素に富む歌が多かったはずで、形式も多用な歌があったはずなのに、そうした歌は1首も採られていません。『万葉集』の東歌はすべての歌が完全な短歌形式(五七五七七)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。

従って、もともとの作者は土着の豪族階級の人たちで、都の官人たちが歌を作っているのを模倣した、また彼らから手ほどきを受けたのが始まりだろうとされます。すなわち、郡司となった豪族たちと、中央から派遣された国司らとの交流の中で作られ、それらを中央に持ち帰ったのが東歌だと考えられています。

なお、「都」と「鄙」という言葉があり、「都」は「宮処」すなわち皇宮の置かれる場所であり、畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を指します。「鄙」は畿外を意味しましたが、東国は含まれていません。『万葉集』でも東国は決して「鄙」とは呼ばれておらず、東国すなわち「東(あづま)」は、「都・鄙」の秩序から除外された、いわば第三の地域として認識されていたのです。東歌が特立した巻として存在する理由はそこにあります。

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