| 訓読 |
9
莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
| 意味 |
・・・・・・愛するあなたが立っていた、山麓の神聖な樫の木のもと。
| 鑑賞 |
額田王(ぬかだのおおきみ)の「(斉明天皇が)紀の温泉に幸せる時に、額田王の作る」歌。ただし、原文の「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」の部分は『万葉集』の中でもっとも難読とされ、未だに定訓がありません。従って意味も不明です。呈示されている幾つかの訓みは以下の通りです。
・紀の国の山越えて行け
・静まりし浦波さわく
・真土山見つつ飽かにかと
・夕暮の山八ついに行き
・夕月の仰ぎて問ひし
・夕月し覆ひなせそ雲
下3句に「我が背子」とあるのは中大兄皇子とされます。皇子がかつての行幸に従ってやって来て、ここで立派な樫の木の下にお立ちだったろうと推測し、皇子の立派さを褒め称えています。この歌を、斎藤茂吉は、「我が背子がい立たせりけむ厳橿が本」に執着があるというので、上半の句を「紀の国の山越えて行け」と仮置きして秀歌に選んでおり、後半の句を「厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集第一流の句の一つと謂っていい」とまで評しています。一方、「わが背子」を、この年に謀反の疑いで自殺させられた有馬皇子(巻第2-141~142参照)と見立て、またこの歌の上2句が故意としか思えないほど難訓であるのは、ひょっとしてこの事件と何か関りがあるのではないかとする考え方もあるようです。
有馬皇子は、斉明女帝にとっては同母弟・孝徳天皇の子であり、伊藤博は次のように述べています。「時の実権を握る中大兄皇子にとって孝徳天皇やその子有馬皇子がどうあろうと、斉明女帝においては別の深い感慨が秘められていただろう。斉明側近の御言持ち歌人であるが故に、額田王がその女帝の心中に成り代わって詠んだ歌と推測すれば、この『我が背子』は、斉明の、弟や甥に対する複雑な心情をこめた言葉として浮上することになる」、そして、「下三句はどこかしら荘重で、神秘で、強く人を魅了するものがある。尋常な背景を持つ歌でないことだけは確かであろう」。
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読めない『万葉集』
万葉仮名で書かれた『万葉集』の歌の解読は、天暦5年(951年)に村上天皇の詔により、清原元輔、紀時文、大中臣能宣、坂上望城、源順ら5人(後撰集の撰者)によって始められました。それ以後、研究史は1000年を優に超えていますが、未だに解読できない歌が19首あります。
その代表歌が、巻第1-9に「紀の温泉に幸せる時に、額田王の作る歌」とある「莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)」で、下三句は解読されていますが、上二句が訓義未詳となっています。これまで30通り以上の試訓がなされているようですが、どれも決め手を欠き、おそらく永遠に読めないであろうと考えられています。
額田王について
額田王の出自に関する記述は非常に少なく、『日本書紀』にみえる「鏡王の娘で大海人皇子に嫁し、十市皇女を生む」という一文がほぼその全てと言ってよいものです。父の鏡王も他史料にみえず、「王」とつくことから2~5世の皇族(王族)と推定され、一説には宣化天皇の曾孫ではないかといわれます。
また額田王の出生地に関しても、大和国平群郡額田郷(現在の奈良県大和郡山市付近)、出雲国意宇郡(現在の島根県東部)など、諸説あります。そうしたミステリアスな横顔とともに、『万葉集』の歌における対人関係の謎めいた経歴、またその歌柄の魅力などから、研究者や作家、歴史ファンの知的好奇心を大いにくすぐる存在となっています。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |