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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持の歌(巻第18)

巻第18-4048・4051

4048
垂姫(たるひめ)の浦を漕ぐ舟(ふね)楫間(かぢま)にも奈良の我家(わぎへ)を忘れて思へや
4051
多祜(たこ)の崎(さき)木(こ)の暗茂(くれしげ)に霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴き響(とよ)めばはだ恋ひめやも
 

【意味】
〈4048〉垂姫の浦を漕ぐ舟の、楫をほんのひと引きする合間にさえも、奈良の我が家を忘れることがあろうか。

〈4051〉多祜の崎の木陰の茂みに、ホトトギスが来て鳴き立ててくれたら、こうもひどく恋しがることはないのに。

【説明】
 天平20年(748年)3月、春の出挙が終わって後に、都から左大臣・橘諸兄の特使として田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が訪れました。橘諸兄はこの時すでに従一位・左大臣の位にあり、福麻呂は左大臣家に出向し、家事を兼任していたとされます。来訪した福麻呂は、23日に家持の館でもてなしを受け(巻第18-4032~4036)、26日の久米広縄(くめのひろつな)の館での集いに至るまで、家持らと連日にわたって交歓の場をもっています。福麻呂が越中国の家持を訪ねた目的ははっきりしていませんが、①橘氏の墾田地の獲得、②『万葉集』の編集、③中央の政治情勢の報告などの説が唱えられています。

 ここの歌は、3月25日、布勢(ふせ)の水海(みずうみ)に着いて遊覧したときに、思いを述べて作った歌です。「垂姫の浦」は、富山県氷見市南方にあった布勢の水海の浦。4048の上2句は「楫間」を導く序詞。「楫間」は、櫓を漕ぐ合間。「思へや」の「や」は反語。4051の「多祜」は、布勢の水海に面した地。「木の暗茂」は、木が茂って暗いところ。「はだ」は、ひどく、たいそう。この歌の前後に、遊覧に同席した人たちの歌が載っています。名前の見えない大伴池主は、これ以前に越前国の掾として転出していました。

田辺福麻呂の歌
〈4046〉神(かむ)さぶる垂姫(たるひめ)の崎(さき)漕ぎ廻(めぐ)り見れども飽かずいかに我れせむ
 ・・・神々しい垂姫の崎を漕ぎ回って、いくら見ても見飽きることがない。私はどうしたらよいのか。

遊行女婦の土師(はにし)の歌
〈4047〉垂姫(たるひめ)の浦を漕(こ)ぎつつ今日(けふ)の日は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ
 ・・・垂姫の浦を漕ぎ回って、今日という日は楽しく遊んで下さい。後の語りぐさにいたしましょう。

田辺福麻呂の歌
〈4049〉おろかにぞ我れは思ひし乎布(をふ)の浦の荒礒(ありそ)の廻(めぐ)り見れど飽かずけり
 ・・・私はいい加減に思っていました。実際に見てみると、乎布の浦の荒磯のあたりは、見ても見ても見飽きない所でした。

久米広縄の歌
〈4050〉めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山霍公鳥(やまほととぎす)何か来鳴かぬ
 ・・・珍しいお方がいらっしゃったら鳴け、と言っておいたのに、山ホトトギスよ、なぜ来て鳴かないのか。

 布勢の水海は、長年にわたる土砂の堆積と中世以降の干拓によって、現在は細長い十二町潟を残すのみになっていますが、当時は国庁に近かった上に、湖上の白波・水鳥・ホトトギス、わけて岸の藤波と景物が多く、家持ほか官人らのたびたびの遊覧社交の場となっていました。歌では、天平19年4月、同20年3月、天平勝宝2年4月6日と同12日の4回の遊覧が見られ、ここの歌は2回目の時のものです。『万葉集』中、布勢の水海一帯の地名が、布勢・垂姫・乎布・多祜の浦々崎々にわたって延べ33も集中している(題詞・左注を含む)ことからも、彼らの愛好賛美のほどが知られます。

巻第18-4054~4055

4054
霍公鳥(ほととぎす)こよ鳴き渡れ燈火(ともしび)を月夜(つくよ)に比(なそ)へその影も見む
4055
可敝流(かへる)みの道(みち)行(ゆ)かむ日は五幡(いつはた)の坂に袖(そで)振れ我(わ)れをし思はば
 

【意味】
〈4054〉ホトトギスよ、ここを鳴き渡っておくれ。燈火を月の光に見立てて掲げ、飛ぶその姿も見たいものだ。
 
〈4055〉都に帰るという可敝流(かへる)の山のあたりを通って行く日には、五幡(いつはた)の坂で袖を振って下さい。私どもの忘れ難さを思って下さるなら。

【説明】
 3月26日、掾(じょう:国司の三等官)久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の館で、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)をもてなして宴を催したときの歌。広縄の館は、前任者の大伴池主の館を受け継いだもので、高岡市伏木町一ノ宮大塚の地にあったとされます。国司の館は公舎であり、後任者に引き継ぐことが定められていました。福麻呂が越中に滞在した期間は不明ですが、この日の宴が、帰京する福麻呂の送別会だったとみられます。

 4054の「こよ」は、ここを通って。「燈火」は、菜種油の燈火で、当時は貴重なものだったとされます。「比へ」は、なぞらえて、見立てて。「影」は、姿。想像での歌であり、ホトトギスを暗に福麻呂に喩えています。4055の「可敝流み」の「可敝流」は、福井県南条郡南越前町今庄の地。「(都へ)帰る」を掛けています。「五幡の坂」は、敦賀市五幡付近の山坂で、「いつ、はた(また)」を掛けています。可敝流は山のこちら側、五幡は山の向こう側で、この山越えは当時、都と越路を隔てる最大の難関だったといいます。家持は、福麻呂との別れに際して、直接に惜別の語を使わず、婉曲に別れの嘆きをうたっています。なお、これらの歌の前に田辺福麻呂と久米広縄の歌が載っています。

田辺福麻呂の歌
〈4052〉霍公鳥(ほととぎす)今鳴かずして明日(あす)越えむ山に鳴くとも験(しるし)あらめやも
 ・・・ホトトギスよ、今鳴かないで、明日私が越えていく山で鳴いても、何の甲斐があるだろうか。

久米広縄の歌
〈4053〉木(こ)の暗(くれ)になりぬるものを霍公鳥(ほととぎす)何か来鳴かぬ君に逢へる時
 ・・・木がこんもりと茂る季節になったというのに、ホトトギスよ、どうして来て鳴いてくれないのか。めったに逢えないお方と逢っているこの時に。

巻第18-4066・4068

4066
卯(う)の花の咲く月立ちぬ霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴き響(とよ)めよ含(ふふ)みたりとも
4068
居(を)り明かしも今夜(こよひ)は飲まむほととぎす明けむ朝(あした)は鳴き渡らむそ〈二日は立夏の節にあたる。このゆゑに「明けむ朝に鳴かむ」と云ふ〉
 

【意味】
〈4066〉卯の花が咲く月がやってきた。ホトトギスよ、やって来て鳴き立てておくれ、花はまだ蕾みであっても。
 
〈4068〉このまま夜明かししてでも今夜は飲んでいよう。ホトトギスは、夜が明けた朝にはきっと鳴き声を立てて飛んで来るに違いない。

【説明】
 天平20年(748年)4月1日、掾(じょう)久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の館で酒宴を催したときの歌。「掾」は国司の三等官。4066の「卯の花」は、ユキノシタ科の落葉低木。4月に花が咲くとされ、ホトトギスと取り合わせの風物とされました。この年の4月1日は立夏の前日で、ホトトギスの初声を期待しての宴だったようです。「含みたりとも」は、花はつぼんでいようとも。4068の「居り明かしも」は、起きていて夜を明かしても、徹夜しても。宴歌の題材としても、ホトトギスの鳴き声がいかに興を添えるものであったかが窺える歌です。

 なお、宴に同席した遊行女婦の土師(はにし)と、羽咋郡(はくいのこおり)の擬主帳(ぎしゅちょう)能登臣乙美(のとのおみおとみ)の歌も載っています。「擬主帳」は、郡司の四等官の主張(本官)に準じる役で、帳簿や文書を司る役目。

土師の歌
〈4067〉二上(ふたがみ)の山に隠(こも)れる霍公鳥(ほととぎす)今も鳴かぬか君に聞かせむ
 ・・・二上山にこもっているホトトギスよ。今こそ鳴いてくれないか。わが君にお聞かせしたいから。

能登臣乙美の歌
〈4069〉明日(あす)よりは継ぎて聞こえむほととぎす一夜(ひとよ)のからに恋ひ渡るかも
 ・・・明日からはひっきりなしに聞こえるはずのホトトギスを、たった一晩鳴かないだけでこんなに焦がれていることだ。

巻第18-4070~4072

4070
一本(ひともと)のなでしこ植ゑしその心(こころ)誰(た)れに見せむと思ひそめけむ
4071
しなざかる越(こし)の君らとかくしこそ柳(やなぎ)かづらき楽しく遊ばめ
4072
ぬばたまの夜(よ)渡る月を幾夜(いくよ)経(ふ)と数(よ)みつつ妹(いも)は我(わ)れ待つらむぞ
  

【意味】
〈4070〉一株のなでしこを庭に植えたその心は、いったい誰に見せようと思いついてのことだったのでしょう。

〈4071〉都から遠く離れた越の国のあなたがたと、これからもこのように柳を縵(かずら)にして遊ぼうではありませんか。

〈4072〉夜空を渡っていく月を眺めながら、もう幾夜を経たかと数えながら、妻は私を待っていることだろう。

【説明】
 前任の国師(こくし)の従僧(じゅうそう)清見(せいけん)が上京するに際し、送別の酒宴を設けた時の歌。「国師」は、中央から派遣され、その国の寺院僧尼を監督する僧で、ここの国師が誰かは不明。「従僧」は、その従者である僧で、いずれも僧侶であるものの官人の身分にありました。「清見」の伝未詳。国師の交替に伴って京に帰ることになったもののようです。

 4070は、庭の中のなでしこの花を詠んだ歌。「誰に見せむと思ひそめけむ」は、誰に見せようと思い始めたことであったろうか。あなた以外の誰でもない、あなたに見せようと思い始めたのだった、の意。芽吹きつつあるナデシコの株を何処からか移し植えたのでしょう。清見への送別の辞で、その花が咲くのに先立って上京する相手を惜しむ気持ちをうたっています。家持と清見は親しかったようです。

 4071は、この会に集まった郡司以下、その子弟らに向けて詠んだ歌。郡司本人だけでなくその子弟も招待していることは注目すべきで、郡司と良好な関係を築くために必要だったと見えます。「しなざかる」は「越」の枕詞。「かくしこそ」は、このように。「柳かづらき」の「かづらく」は「かづら」から派生した動詞。4072の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「数みつつ」の「数む」は、指折り数える意。左注に「この夜、月光がゆるやかに流れ、穏やかな春の風が少しずつ吹いてくる。そこで、目に触れた月を題材に、とりあえずこの歌を作った」とあり、遠方から集まった人たちの旅愁の気持ちを慮って、自身のことのようにして詠んだもののようです。

 なお、ここの歌が詠まれたのは天平20年(748年)4月とされ、その次にある4073の歌(越前国の掾、大伴池主が家持に贈ってきた歌)の日付が天平21年3月15日となっており、この間約1年の空白が生じています。巻第18の合計の歌数107首というのは、巻第1、巻第16に次いで少なく、何らかの理由で約1年間の作が脱落したものと考えられています。この巻第18は、早くから破損が甚だしかったらしく、平安期になってから補修作業が大規模に行われたらしいことも現在では分かっています。

 一方、天平20年4月21日に元正太上天皇が亡くなっており、家持にとって、天平18年正月に橘諸兄に諸王臣らと共に随行し、太上天皇の御在所で雪かきの奉仕を行い、さらに宴で「雪を賦す」歌を作った思い出が大きかったはずです。約1年間の歌作の空白は、あるいは他界した太上天皇に対する服喪の期間を示しているのかもしれません。

巻第18-4085~4086

4085
焼太刀(やきたち)を砺波(となみ)の関(せき)に明日(あす)よりは守部(もりへ)遣(や)り添へ君を留(とど)めむ
4086
油火(あぶらひ)の光りに見ゆる我(わ)が縵(かづら)さ百合(ゆり)の花の笑(ゑ)まはしきかも
 

【意味】
〈4085〉焼いて鍛えた太刀、その太刀を研ぐという砺波の関に、明日からは番人を増やして、あなたにゆっくり留まっていただきましょう。

〈4086〉灯火の光に揺れて見える我らのかづら、このかづらの百合の花の、何とほほえましいことよ。

【説明】
 4085は、天平勝宝元年(749年)5月5日、東大寺の占墾地使(せんこんじし)の僧(そう)平栄(へいえい)らをもてなした時、家持が酒を僧に贈った歌。「占墾地使」は、寺院に認められた開墾地(荘園)の所属を確認する使者で、この時期、平栄らは越中に入って活動していました。東大寺や中央貴族の墾田地(荘園)を占有するため、国守の家持にもその行政力が期待されていました。家持が在任中に成立した越中国内の東大寺荘園は、天平21年(749年)4月1日詔書の「寺院墾田地許可令」にもとづき、射水郡4か所、砺波郡1か所、新川郡2か所の合計7か所から始まっています。「平栄」は、後に東大寺の寺主(三綱の次席)となり、天平勝宝の末年から天平宝字初年にかけて、上座(しょうざ:三綱の主席)になった人。「焼太刀を」は、焼太刀を研ぐ意で「砺波」にかかる枕詞。「砺波の関」は、越中と越前の国境にあった関。「守部」は番人、ここでは関所の役人。

 4086は、「同じ月の9日に、国府の庁の役人たちが少目(しょうさかん)秦伊美吉石竹(はだのいみきいわたけ)の館に集まって宴会を開いた。そのとき、主人が百合の花縵(はなかずら)を3枚作って高坏(たかつき)の器に重ねて載せ、客人たちに贈った。各々がその縵を詠んで作った3首」とあるうちの家持が詠んだ1首。「少目」は国司の四等官。「油火」は、油に灯心を浸して灯す明かり。「さ百合」の「さ」は接頭語で、ここでは「小さい、細い」の意味で使われているようです。「ゆり」には、未来、後(のち)とかの意味もあります。「笑まはし」は、ほほえましく感じられるさま。残りの2首は以下の通り。

介(すけ:次官)の内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の歌
〈4087〉灯火(ともしび)の光りに見ゆるさ百合花(ゆりばな)ゆりも逢はむと思ひそめてき
 ・・・灯火の光に揺れて見える百合の花、そのゆりではないが、将来もきっとこうして逢おうと思い始めました。

家持が唱和した歌
〈4088〉さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ
 ・・・百合の花、その花のように、将来もきっと逢おうと思うからこそ、今の今もこうして親しませていただいているのです。

 主人の石竹の歌がないので、どのような性質の人物だったかは分かりませんが、宴席でのもてなしの内容から、下僚役人とはいえ、風流を解する真率な人柄が窺えます。これらの歌からは、仕事をこえた男の友情が感じられ、家持にとってもお気に入りの下僚だったかもしれません。
 
 なお、家持の4086について斎藤茂吉は、「結句の『笑まはしきかも』は、美しくて楽しくて微笑せしめられる趣である。美しい花をあらわすのに、感覚的にいうのも家持の一特徴だが、『あぶら火の光に見ゆる』と言ったのは、流石に家持の物を捉える力量を示すものである」と評しています。また、作家の田辺聖子は、「百合の花は花弁に厚みがあるので、『あぶら火』につややかに映えたことであろう。『笑まはしきかも』は百合を見るからに笑みがこぼれるというような感じで、男同士の気どらぬ宴のたのしさに満悦する心持も含まれているかもしれない。彼らは酒神(バッカス」のように、花の冠をかぶって盃を挙げたのであろうか」と述べています。

巻第18-4089~4092

4089
高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥(ももとり)の 来居(きゐ)て鳴く声 春されば 聞きの愛(かな)しも いづれをか 別(わ)きて偲(しの)はむ 卯(う)の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととぎす あやめ草 玉 貫(ぬ)くまでに 昼暮らし 夜(よ)渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし
4090
ゆくへなくありわたるとも霍公鳥(ほととぎす)鳴きし渡らばかくや偲(しの)はむ
4091
卯(う)の花のともにし鳴けば霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしも名告(なの)り鳴くなへ
4092
霍公鳥(ほととぎす)いとねたけくは橘(たちばな)の花散る時に来鳴き響(とよ)むる
  

【意味】
〈4089〉高い御位にいます、日の神の後継ぎとして、代々の天皇がお治めになるこの国のすぐれた所に、山々は多く、さまざまな鳥がやってきて鳴く、その声は春になるとひとしお愛しい。いずれの鳥の声が愛しいというわけではないが、とくに卯の花の咲く季節がやってくると、懐かしく鳴くホトトギス。その声は、菖蒲(あやめ)を薬玉に通す五月まで、昼は終日、夜は夜どおし聞くけれど、そのたびに心が激しく動き、ため息をつき、ああ何と趣きの深い鳥と言わない時はない。

〈4090〉途方に暮れた日々を送ることがあっても、ホトトギスが鳴きながら飛び渡って行けば、今と同じように聞き惚れることだろう。

〈4091〉卯の花が咲くとともにホトトギスが鳴くのには、いよいよ心が引かれる。ちょうど自分はホトトギスだよと名告るように鳴くので。

〈4092〉ホトトギスがやたら小憎らしいのは、橘の花が散る時にやって来て鳴き立てるせいだ。

【説明】
 天平勝宝元年(749年)5月10日、「独り幄(とばり)の裏(うち)に居て、遙かに霍公鳥の喧(な)くを聞きて作れる」歌。「独り」の語を題詞・左注に用いるのは家持の作に目立ち、全18例中9例あります。「独詠歌」、つまり、聞き手や相手の存在を前提としない歌、何らかの要請があって作ったものではない歌、自身が詠みたいから詠んだ歌とも言えますが、多くの上代の歌人の中でも、とりわけ尖鋭な孤独感を抱いた家持の本性の現れと見られています。

 4089の「高御座」は、天皇の地位を象徴する八角造りの御座で、「天の日継」を修飾する枕詞。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「と」は、として。「皇祖の神の命」は、歴代の天皇を神話的に呼んだもの。「聞こし食す」は、お治めになる。「まほら」は、秀でた所。「山をしも」の「しも」は、強調の助詞。「さはに」は、数多く。「多みと」は、多いので。「百鳥」は、多くの鳥。「春されば」は、春が来ると。「別きて」は、区別して。「玉貫く」は、端午の節句に薬玉を飾ること。「心つごく」は、心が激しく動く。「うち嘆き」の「うち」は、接頭語。

 4090の「ゆくへなく」は、なすすべもなく途方に暮れて。「ありわたる」は、そのままの状態が続く。4091の「ともにし」の「し」は、強意の副助詞。「名告り鳴く」は、ホトトギスの名が鳴き声に由来するとしての表現。「なへ」は、二つの動作が併行して行われることをいう助詞。4092の「ねたけく」は「嫉(ねた)し」のク語法で名詞形。嫉ましいこと。
 
 ここの4首は10日に作ったとありますが、太陽暦では5月29日にあたり、その時期は卯の花は満開でも、橘の花は散ってしまう頃なので、ホトトギスの鳴き響もす時期とちぐはぐになります。そうした相容れぬ心の嘆きの心情を、後の2首は詠んでいます。むしろ長歌の方が単純率直で、時の家持の気持ちが出ているとされますが、窪田空穂は、「本来長歌は、叙事によって抒情を遂げるもので、さらにいえば、叙事を伴わせなければ抒情が貫徹されない場合に用いるべき形式である。しかるにこの歌には、叙事を必要とする方面が全くない。対象は霍公鳥の鳴き声だけで、その他には何ものもないのである」と述べ、「彼の意図を裏切っているもので、失敗に終わったといわざるを得ない」と評しています。

巻第18-4093

英遠(あを)の浦に寄する白波(しらなみ)いや増しに立ち重(し)き寄せ来(く)東風(あゆ)をいたみかも

【意味】
 英遠の浦に寄せる白波は、ますます大きくなって重なるように寄せてくる。東風(あゆ)が激しいからであろうか。

【説明】
 英遠(あお)の浦に行った日に作った歌。「英遠の浦」は、氷見市の北方の阿尾の海岸で、今、阿尾川の注ぐあたり。「いや増しに」は、いっそう、ますます。「立ち重き寄せ来」は、立ち重なって寄せて来る。「東風をいたみ」は、東風が激しいので。「あゆ」は、北陸地方の方言。「いたみかも」の「いたみ」は、程度の激しさを表す形容詞「いたし」のミ語法、「かも」は詠嘆。どのような事情で家持が英遠の浦に出向いたのか分かりませんが、覚えた土地の言葉をあえて使っているところにも、異郷の海景を見ての新鮮な感動が窺えます。

巻第18-4094~4097

4094
葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国を 天下(あまくだ)り 知らしめしける すめろきの 神の命(みこと)の 御代(みよ)重ね 天(あま)の日継(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代(みよ)御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川(やまかは)を 広み厚みと 奉(たてまつ)る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君(おほきみ)の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひたまひ よきことを 始めたまひて 金(くがね)かも 確(たし)けくあらむと 思ほして 下(した)悩ますに 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ 御心(みこころ)を 明(あき)らめたまひ 天地の 神(かみ)相(あひ)うづなひ すめろきの 御霊(みたま)助けて 遠き代(よ)に かかりしことを 我が御代に 顕(あら)はしてあれば 食(を)す国は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして もののふの 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいひと)も 女童(をみなわらは)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草 生(む)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだ)て 大夫(ますらを)の 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖(おや)の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言(こと)の官(ゆかさ)ぞ 梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門(みかど)の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)の幸(さき)の 聞けば貴(たふと)み
4095
大夫(ますらを)の心思ほゆ大君(おほきみ)の御言(みこと)の幸(さき)を聞けば貴(たふと)み
4096
大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥城(おくつき)はしるく標(しめ)立て人の知るべく
4097
天皇(すめろき)の御代(みよ)栄えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く
 

【意味】
〈4094〉葦原の瑞穂の国、この国を、高天原(たかまがはら)から下って治められた代々の天皇の、その神の御代を幾代も重ね、天つ神の御代を次々と継いでお治めになってきた。どの御代にも、治められている四方の国々には山や川があり、国土は広く豊かなので、献上申し上げる御宝は数えきれず、尽くしきれない。けれども、わが大君は多くの人々を導かれ、(大仏建立という)立派な事業をお始めになり、はたして黄金は確かにあるだろうとお思いになり、心配なさっていたところ、東国の道の果ての陸奥の小田というところの山に黄金ありという奏上をお受けになったので、お心を安んじられ、天地の神々ともども喜び合われた。代々の天皇の御霊の助けにより、遠い御代からの懸案だったことをこの御代に顕わしてくださったので、これで、わが国土はますます栄えるであろうと神の御心のままにお思いになった。官人たちを心から仕えさせられるとともに、老人も女子供も、その願いが満たされるまでに慈しみ治められるので、このことを我らは何とも言えないほど尊く思い、ますます嬉しく思う。大伴の遠い祖先の神、その名も大久米主という誉れを背にお仕えしてきた役目柄、海を行くなら水に沈む屍、山を行くなら草に埋もれる屍となっても、大君の近くで死ぬのは本望、決して我が身を省みることはしないと誓ってきた、この大夫の潔い名を昔から今の今まで伝えてきた子孫なのだ。 大伴と佐伯の氏族は、祖先が立てた誓いのままに、子孫はその名を絶やさず、大君にお仕えするのだと言い継がれてきた誓いの家なのだ。梓弓を手に持ち、剣大刀を腰に帯び、大君の御門を朝も夕も守るのは、我らをおいて他に人はあるまいと、いよいよその思いはつのるばかり。大君の御言葉のありがたさが、承るとただ貴くて。

〈4095〉雄々しい大夫の心が湧き起こる。大君の御言葉のありがたさを聞くと貴くて。
 
〈4096〉大伴の遠い祖先の神の墓所には、標(しめ)を立ててはっきり分かるようにせよ。世の人々が見て分かるように。
 
〈4097〉すめろき(天皇)の御代が栄えるしるしと、東の国の陸奥山に黄金の花が咲いた。

【説明】
 題詞に「陸奥国に金(くがね)を出だす詔書を賀(ほ)ぐ歌」とある長歌と反歌です。聖武天皇の発願により進められていた大仏の建立が完成に近づいていたものの、像に鍍金する金の調達に苦慮していました。そうした天平21年(749年)の2月21日、陸奥の国で金が産出したとの知らせがあり、陸奥国の国守、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)から黄金900両が献上されました。天皇は大いに喜び、4月1日、東大寺に行幸して発せられた詔には、陸奥での金産出を喜ぶことばとともに、大伴・佐伯両氏の忠節をたたえることばがあり、加えて家持は従五位上を授かりました。そこで家持がこの歌を詠んだとされ、家の名誉と自身の昇進に感激しつつ、天皇の治世を讃え、長久の栄を祈願しています。長歌は107句にも及び、『万葉集』の中では、人麻呂の作(巻第2-199)と作者未詳の竹取翁を詠んだ作(巻第16-3791)に次ぐ、3番目の長さをもつ大作です。

 4094の「葦原の瑞穂の国」は、葦の生い茂るみずみずしい稲穂の国。天つ神統治の立場から見た日本国の呼称。「天下り」は、高天原から地上界に降って来て。「すめろきの神の命」は、歴代の天皇を神話的に呼んだもの。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「広み厚みと」の「広み」「厚み」は、それぞれ「広し」「厚し」のミ語法。「御調宝」は、各国から中央に納める特産物。「よきこと」は、大仏建立の事業を指します。「下悩ます」の「下」は、心。「鶏が鳴く」は「東」の枕詞。「御心を明らめたまひ」は、お心を安んじられ。「神相うづなひ」の「うづなふ」は、良しとする、嘉する意。「かかりしことを」は「かくありしことを」の約。「食す国」は、お治めになる国。「もののふの八十伴の男」の「もものふ」は「物の部」で、朝廷に仕える文武百官。「八十」は、数の多いこと。「伴の男」は、朝廷に仕える部族。「まつろへの向けのまにまに」は、心から奉仕させるとともに。「心足らひ」は、「心足るの継続態「心足らふ」の名詞形。「嬉しけく」は「嬉し」のク語法で名詞形。「大久米主」は、大伴氏の祖。「言立て」は、とくに言葉に出して誓って。「今のをつつ」の「をつつ」は「うつつ」と同じく、現在・現実の意。「佐伯の氏」は、雄略天皇の時代に大伴氏から分家したとされる同族。「人の子は祖の名絶たず」は、人の子たる者は、祖の職名を絶たずに、大君に奉仕する者であると。「いや立て」は、さらに言い立て。「御言の幸」は、詔のありがたさ。

 4095の「大夫の心思ほゆ」は、今こそ大夫たる者の奮い立つ心を思い知った、の意。4096の「大伴の遠つ神祖」は、大伴氏の遠い祖先の神。「奥城」は、墓所。「しるく」は、はっきりと。「標」は、他人の入ることを禁ずる目印。4097の「金花咲く」は、黄金が花として咲いた、の意で、金が産出されたことを美化した表現。左注に「天平感宝元年(749年)5月12日に、越中の国の守が館にして作る」とあります。

 4096の反歌について斎藤茂吉は、「あまり細かく気を配らずに一息にいい、言葉の技法もまた順直だから荘重に響くのであって、賀歌としてすぐれた態をなしている。結句に『かも』とか『けり』とか『やも』とかが無く、ただ『咲く』と止めたのも、この場合甚だ適切である。これらの力作をなすに当たり、家持は知らず識らず人麻呂、赤人ら先輩の作を学んでいる」と言っています。

 金を産出した「小田なる山」とされる宮城県遠田郡湧谷町黄金迫には、黄金山(こがねやま)神社があります。この時に陸奥国守だった百済王敬福は、百済に儀慈王4世の孫ですが、この勲功により、従五位上から従三位に飛び級で昇進し、以後も各地の国守を歴任、さらに宮内卿ほかの高い位について、69歳で没したとされます。ただ、これほどの慶事であり、大事業であったにも関わらず、大仏の開眼供養を詠んだ歌は『万葉集』には1首も残されていません。同時代の正史である『続日本紀』には詳細に述べられているにも関わらず、『万葉集』には全く痕跡をとどめておらず、大きな謎の一つとされます。
 
 なお、大正・昭和時代の作曲家、信時潔(のぶとききよし)が作曲して戦時中に歌われた『海行かば』の歌詞は、4094の「海行かば水漬く屍・・・」の部分から採られています。ここには、非業の死をとげても顧みないという、「不惜身命」の仏教思想が織り込められているともいわれます。もっとも、長歌は詔書の内容を忠実にたどったものであり、「海行かば・・・」の部分も、家持の創作ではなく詔書にある言葉です。

巻第18-4098~4100

4098
高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 天(あめ)の下(した) 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 畏(かしこ)くも 始めたまひて 貴(たふと)くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通(がよ)ひ 見(め)し給(たま)ふらし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)も 己(おの)が負(お)へる 己(おの)が名(な)負ひて 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに この川の 絶(た)ゆることなく この山の いや継(つ)ぎ継ぎに かくしこそ 仕(つか)へ奉(まつ)らめ いや遠長(とほなが)に
4099
いにしへを思ほすらしも我(わ)ご大君(おほきみ)吉野の宮をあり通(がよ)ひ見(め)す
4100
もののふの八十氏人(やそうぢびと)も吉野川(よしのがは)絶ゆることなく仕(つか)へつつ見(み)む
 

【意味】
〈4098〉高い御位にいます、日の神の後継ぎとして、天下を治めてこられた古の天皇、その神の命が、恐れ多くもお始めになり、尊くもお定めになられた、吉野のこの大宮、そんな大宮だと、我が大君はここに通い続けられ、風景をご覧になられる。もろもろの官人たちも、自分たちが負っている家名を背に、大君の仰せのままに、この川の絶えることがないように、この山が幾重にも重なり続いているように、次々とお仕え申し上げよう。いつまでもずっと。

〈4099〉遠い昔を思っておいでのことだろうか。わが大君は吉野の宮に通っておいでになっては、ここの風景をご覧になっていらっしゃる。
 
〈4100〉もろもろの氏の名を負い持つわれら官人も、吉野川が絶えることがないように、いつまでもお仕えしつつ見ようではないか。

【説明】
 題詞に、天皇が吉野の離宮に行幸されるときのために、あらかじめ用意して作った歌とあります。天皇は聖武天皇。吉野の離宮は、奈良県吉野の宮滝付近にあった離宮。吉野は古くから大和朝廷の聖地とされ、第40代天武天皇(大海人皇子)が吉野に拠って壬申の乱(672年)に勝利して以来、とくにその度が増し、天武皇統にとって、この地の霊魂を我が身に附着させることが充足と繁栄に繋がるとされました。

 4098のの「高御座」は、天皇の地位を象徴する八角造りの御座。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「知らしめす」は、お治めになる。「皇祖の神の命」は、天皇。「皇祖の神の命」は、歴代の天皇を神話的に呼んだもの。「み吉野」の「み」は、美称。「もののふの八十伴の男」の「もものふ」は「物の部」で、朝廷に仕える文武百官。「八十」は、数の多いこと。「伴の男」は、朝廷に仕える部族。「任け」は、任命。「まにまに」は、~のままに。「いや遠長に」は、よいよ永遠に。

 4099の「いにしへ」は、天武天皇や持統天皇がたびたび吉野を訪れていた時代のこと。「見す」は「見る」の尊敬語。4100の「八十氏人」は、多くの氏の人で、長歌で「八十伴の男」と言ったのを変えたもの。

巻第18-4101~4105

4101
珠洲(すす)の海人(あま)の 沖つ御神(みかみ)に い渡りて 潜(かづ)き取るといふ 鮑玉(あはびたま) 五百箇(いほち)もがも はしきよし 妻の命(みこと)の 衣手(ころもで)の 別れし時よ ぬばたまの 夜床(よとこ)片去(かたさ)り 朝寝髪(あさねがみ) 掻(か)きも梳(けづ)らず 出でて来(こ)し 月日(つきひ)数(よ)みつつ 嘆(なげ)くらむ 心なぐさに ほととぎす 来(き)鳴く五月(さつき)の あやめぐさ 花橘(はなたちばな)に 貫(ぬ)き交(まじ)へ 縵(かづら)にせよと 包みて遣(や)らむ
4102
白玉(しらたま)を包みて遣(や)らばあやめぐさ花橘(はなたちばな)に合(あ)へも貫(ぬ)くがね
4103
沖つ島い行(ゆ)き渡りて潜(かづ)くちふ鰒玉(あはびたま)もが包みて遣(や)らむ
4104
我妹子(わぎもこ)が心なぐさに遣(や)らむため沖つ島なる白玉(しらたま)もがも
4105
白玉(しらたま)の五百(いほ)つ集(つど)ひを手にむすびおこせむ海人(あま)はむがしくもあるか [一云 我家牟伎波母]
  

【意味】
〈4101〉珠洲の海女が、沖の神の島に渡り、水底に潜って採るという真珠、その真珠がどっさり欲しいものだ。いとしい妻のお方と袖を分かって別れて以来、夜床の片側をあけて寝て、朝の乱れ髪をくしけずりもしないで、私が旅に出てからの月日を指折り数えて嘆いていることだろう。そんな彼女のせめてもの慰めに、ホトトギスが来て鳴く五月のあやめ草や橘の花に交えて緒に通して髪飾りにしなさいと、その真珠を包んで贈ってやりたい。

〈4102〉真珠を包んで贈ってやれば、あやめ草や橘の花に交えて緒に通してくれるだろうに。
 
〈4103〉沖の島に渡って水底深く潜って採るという鮑の玉がほしい。包んで贈ろう。
 
〈4104〉わが妻が心の慰めに送ってやるために、沖の島にある真珠がほしい。

〈4105〉真珠をどっさり両手にすくってよこしてくれる海女がいたら、どんなありがたいことか。

【説明】
 奈良の家にいる妻(坂上大嬢)に贈るために、真珠を得ようと願った歌。4101の「珠洲」は、能登半島の先端の珠洲市。「沖つ御神」は、沖にいます海神の意で、ここでは輪島市北方の奥津比咩(おくつひめ)神社のある舳倉(へぐら)島。「鮑玉」は、鮑の貝にできる真珠。「五百箇」は、たくさんの意を具象的に言ったもの。「もが」は、願望の助詞。「はしきよし」は、愛すべき、愛しい。「妻の命」は、妻を敬って言った語。「衣手の別れし時」は、共寝する時に交わした袖を解き放して別れること。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜床片去り」は、二人で寝ていた寝床の片側をあけて寝ること。「嘆くらむ」の「らむ」は、現在推量。「心なぐさに」は、心の慰めに、気晴らしに。

 4102の「白玉」は、真珠。「合へも貫くがね」の「合へも」は、交えて。「がね」は、希望的推測を表す終助詞。4103の「い行き渡りて」の「い」は、強意の接頭語。「潜くちふ」の「ちふ」は「といふ」の約。「もが」は、願望。4104の「沖つ島なる」は、沖の島にある。「もがも」は、願望。4105の「おこせむ」は、寄こしてくれるだろう。「むがし」は、喜ばしい、ありがたい。一云の「我家牟伎波母」は、語義未詳。

巻第18-4111~4112

4111
かけまくも あやに畏(かしこ)し 天皇(すめろき)の 神の大御代(おほみよ)に 田道間守(たぢまもり) 常世(とこよ)に渡り 八矛(やほこ)持ち 参(ま)ゐ出(で)来(こ)し時 時じくの 香久(かく)の菓(このみ)を 畏(かしこ)くも 残したまへれ 国も狭(せ)に 生(お)ひ立ち栄(さか)え 春されば 孫枝(ひこえ)萌(も)いつつ ほととぎす 鳴く五月(さつき)には 初花(はつはな)を 枝(えだ)に手折(たを)りて 娘子(をとめ)らに つとにも遣(や)りみ 白栲(しろたへ)の 袖(そで)にも扱入(こき)れ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実(み)は 玉に貫(ぬ)きつつ 手に巻きて 見れども飽(あ)かず 秋づけば しぐれの雨降り あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅(くれなゐ)に にほひ散れども 橘(たちばな)の 成れるその実(み)は ひた照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐(ときは)なす いやさかばえに 然(しか)れこそ 神の御代(みよ)より 宜(よろ)しなへ この橘を 時じくの 香久(かく)の菓(このみ)と 名付けけらしも
4112
橘(たちばな)は花にも実にも見つれどもいや時じくに猶(なほ)し見が欲(ほ)し
 

【意味】
〈4111〉言葉に出すのも恐れ多いこと、古の天皇の大御代に、田道間守が常世の国に渡って、幾本かの苗を持って帰朝した時、その季節ならず実る香りある木の実を、ありがたくも世に残してくださったので、その木は、国も狭しと生い立って栄え、春が来ると新たに枝が次々と芽生え、ほととぎすが鳴く五月には、その初咲きの花を枝ごと折って、娘子に贈り物としたり、枝からしごいて袖の中にも入れたり、香りがよいので、枝に置いたまま枯らしてしまったりもし、こぼれ落ちる実は、薬玉として緒に通して、腕に巻きつけていくら見でも見飽きない。秋が深まり、時雨が降って、山の木々の梢は、紅に色美しくなって散るけれども、橘の木になっているその実は、照りに照っていっそう目が引きつけられ、雪の降る冬になると、霜が置いてもその葉も枯れずに、岩石のようにいよいよ栄えに栄えている。それであればこそ、いみじくもこの橘を、時じくのかくの実と名づけたに違いない。
 
〈4112〉橘は、花の咲く時も実になる時も見ているけれど、その上にも、いつの季節ということもなく、もっと目にしたい。

【説明】
 橘の歌。橘は、食用蜜柑類に対する古称。『日本書紀』によれば、第11代垂仁天皇の御代に、非時香菓(ときじくのかくのみ)、すなわち、時を定めずいつも黄金に輝く木の実を求めよとの命を受けた田道間守(たじまもり)が、常世(仙境)に赴き、10年を経て、労苦の末に持ち帰ったと伝えられる植物です。しかしその時、垂仁天皇はすでに崩御しており、それを聞いた田道間守は、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺しました。次代の景行天皇が田道間守の忠を哀しみ、垂仁天皇陵近くに葬ったとされています。田道間守は、日本に帰化した新羅の王子、天日槍(あまのひほこ)の子孫で、『日本書紀』では4代目の孫となっています。橘は集中65首に歌われ、うち25首が家持の歌です。

 4111の「かけまくもあやに畏し」は、言葉に出すのも恐れ多い。「天皇の神の大御代」は、ここは垂仁天皇の御代。「常世」は、不老不死の国。「八矛」の「八」は多数、「矛」は棒状の物で、ここでは何本かの苗木。「時じくの香久の菓」は橘の実の古名で、時に関係なくかぐわしい実の意。「春されば」は、春になると。「孫枝」は、枝からさらに萌え出た細い枝。「つとにも遣りみ」の「つと」は、大切な包み物。「白栲の」は「袖」の枕詞。「扱入る」は、しごき取って入れる。「あゆる実」は、こぼれ落ちた実。「しぐれの雨」は、晩秋から初冬にかけて降る小雨。「あしひきの」は「山」の枕詞。「木末」は、木の枝の先。「いや見が欲しく」は、いっそう目が引きつけられ、ますます見たくなるほど美しく。「常磐なす」は、大きな岩のようにいつまでも変わらず。「いやさかばえに」は、いよいよ栄えに栄え。「宜しなへ」は、よい具合に、ふさわしく。「名付けけらしも」は、名づけたに違いない。

 4112の「花にも実にも」は、花の時にも実の時にも。「いや時じくに」は、その上にもいつの季節ということもなく。「猶し」の「し」は、強意の副助詞。ここの歌は、橘を賛美するとともに、橘氏と橘諸兄を讃える歌とされます。

巻第18-4113~4115

4113
大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と 任(ま)きたまふ 官(つかさ)のまにま み雪降る 越(こし)に下(くだ)り来(き) あらたまの 年の五年(いつとせ) しきたへの 手枕(たまくら)まかず 紐(ひも)解(と)かず 丸寝(まろね)をすれば いぶせみと 心なぐさに なでしこを やどに蒔(ま)き生(お)ほし 夏の野の さ百合(ゆり)引き植ゑて 咲く花を 出で見るごとに なでしこが その花妻(はなづま)に さ百合花(ゆりばな) ゆりも逢はむと 慰(なぐさ)むる 心しなくは 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に一日(ひとひ)も あるべくもあれや
4114
なでしこが花見るごとに娘子(をとめ)らが笑(ゑ)まひのにほひ思ほゆるかも
4115
さ百合花(ゆりばな)ゆりも逢はむと下延(したは)ふる心しなくは今日(けふ)も経(へ)めやも
  

【意味】
〈4113〉大君の遠方の朝廷として、ご任命の役目のままに、雪の降る越の国に下ってきて、以来五年もの間、妻の手枕もまかず、着物の紐も解かずに独り寝をして心が晴れないので、その心の慰めに、なでしこをわが庭に蒔いて育て、夏の野の百合を引いてきて植え、花が咲くのを庭に出て見るごとに、なでしこのその花のように美しい妻に、百合の花の後(ゆり)には逢おうと慰める心でもなければ、都から遠い田舎の地に一日たりともいられない。
 
〈4114〉なでしこの花を見るたびに、妻のほほえむ顔のあでやかさが思われてならない。

〈4115〉百合の花の名のように、ゆり(後)にきっと逢おうと、心中ひそかに思う心がなければ、今日の一日たりとも過ごせようか。

【説明】
 天平勝宝元年(749年)閏5月26日、「庭中の花を見て作る」歌。4113の「遠の朝廷」は、都から遠く離れた役所。「任く」は、任命して派遣する。「み雪降る」は、ここは「越」の枕詞。「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の五年」は、国司の任期として言ったもの。「しきたへの」は「手枕」の枕詞。「丸寝」は、帯も解かず衣服もまま寝ること。「いぶせみ」は、心が晴れない。「心なぐさ」は、心の慰め。「やど」は、家の敷地、庭先。「蒔き生ほし」は、蒔いて育てて。「なでしこがその花妻に」は、なでしこのその花のような美しい妻に。「さ百合花」は、同音の「ゆり」にかかる枕詞。「ゆり」は「後」の古語。「鄙」は、都から遠い地。「あるべくもあれや」の「や」は反語。いられるはずがない。

 家持の若き日には、なでしこの開花を大嬢の成長に重ね合わせた歌(巻第8-1448)をも贈っています。秋の七草の一つであるまでしこは、夏にピンク色の可憐な花を咲かせます。『万葉集』では「石竹」「瞿麦」などと表記されますが、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。そのため、他の植物に比べて擬人化や感情移入の度合いが強いようです。ただ、『万葉集』では27首になでしこが歌われていますが、万葉前期の歌には見られず、なでしこを殊更に愛した家持(12首)とその周辺に偏って現れています。

 4114の「娘子」は、妻の大嬢のこと。「ら」は、接尾語。「笑まひ」は、ほほえみ。「にほひ」は、色美しく映えること。4115の「さ百合花」は「後(ゆり)」の枕詞。「下延ふ」は、心中ひそかに思う。「やも」は、反語。長歌では、なでしこと百合とに、同じ4句ずつが割り当てられ、第一反歌が長歌の「なでしこがその花妻に」を承け、第二反歌が長歌の「さ百合花ゆりも逢はむと」を承けている点など、構成に腐心したあとが窺える歌となっています。窪田空穂も、長歌について、「気分の純粋を保ちつつも、ほどよい物言いをしてあって、誇張もしつこさもなく、しみじみした味わいのあるものである。家持の長所の出ている作」と評しています。

 この時期は、家持が越中に赴任してきて3年目にあたります。国司の任期は4年と定められていましたが、人事の裁量によって、5年に延びる場合もあれば、6年に延びる場合もあります。しかし3年を過ぎれば、都への帰任を意識しだすのは当然のことです。都には、将来を頼む橘諸兄がおり、懐かしい家族や同胞、知己がおり、中でも思いが募るのが、妻・大嬢であったようです。

巻第18-4116~4118

4116
大君(おほきみ)の 任(ま)きのまにまに 取り持ちて 仕(つか)ふる国の 年の内の 事(こと)かたね持ち 玉桙(たまほこ)の 道に出で立ち 岩根(いはね)踏み 山越え野(の)行き 都辺(みやこへ)に 参(ま)ゐし我(わ)が背(せ)) あらたまの 年行き反(がへ)り 月 重(かさ)ね 見ぬ日さまねみ 恋ふるそら 安くしあらねば ほととぎす 来(き)鳴く五月(さつき)の 菖蒲草(あやめぐさ) 蓬(よもぎ)かづらき 酒(さか)みづき 遊び和(な)ぐれど 射水川(いみづがは) 雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて 行く水の いや増しにのみ 鶴(たづ)が鳴く 奈呉江(なごえ)の菅(すげ)の ねもころに 思ひ結ぼれ 嘆きつつ 我(あ)が待つ君が 事(こと)終はり 帰り罷(まか)りて 夏の野の さ百合(ゆり)の花の 花 笑(ゑ)みに にふぶに笑みて 逢はしたる 今日(けふ)を始めて 鏡なす かくし常(つね)見む 面変(おもがは)りせず
4117
去年(こぞ)の秋 相(あひ)見しまにま今日(けふ)見れば面(おも)やめづらし都方人(みやこかたひと)
4118
かくしても相(あひ)見るものを少なくも年月(としつき)経(ふ)れば恋ひしけれやも
 

【意味】
〈4116〉大君の御任命のままに、政務を背負ってお仕えしている国の年内の事柄をすべてとりまとめ、長い旅路に出立し、岩を踏み、山を越え、野を通って都に上って行ったあなた。そのあなたに、年が改まり、月を重ねて逢わない日が続き、恋しさに落ち着かなかったので、ホトトギスが来て鳴く五月の菖蒲や蓬をかづらにして飾り、酒盛りなどして心を慰めようとした。けれども、射水川に雪解け水があふれるばかりに流れゆく水かさのように、恋しさはつのるばかりで、鶴が鳴く奈呉江の菅草のように心の根から塞ぎこんで、嘆きながら待っていた。そのあなたが役目を無事終えて帰ってきて、夏の野に咲く百合の花のようににっこり笑って逢って下さった。この今日の日からは、鏡を見るようにいつもいつもお逢いしましょう。そのにこやかなお顔のままで。

〈4117〉去年の秋にお逢いしたままで、今日お逢いしたら、お顔がすっかり変わっていて、まったく都のお方みたいですね。

〈4118〉こうしてまたお逢いできるのに、お逢いできずに年月ばかりが経っていくものだから、恋しくてなりませんでした。

【説明】
 題詞に次のようにあります。「国の掾(じょう)久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)が、天平20年(748年)に朝集使となって上京した。その役目を終えて天平勝宝元年(749年)の閏5月27日に帰任した。そこで、長官の館で詩酒の宴をもうけて楽しく飲んだ。そのときに主人の家持が作った歌」。「掾」は国司の三等官で、「朝集使」は一年間の政情を記した朝集帳を太政官に提出する使者。その時期は、畿内の国は10月1日、七道の国は11月1日と決められていました。広縄が出発したのは前年の10月半ばだったとみられ、半年以上を経て帰国したようです。
 
 4116の「任き」は、任命して派遣すること。「まにまに」は、従って、承って。「取り持ちて」は、重大な物や事柄を担い持つこと。「年の内の事」は、1年間の国政一般の状況。「かたね」は、束ね、総集して。「玉桙の」は「道」の枕詞。「都辺」は、都の方。「参ゐし」は、貴人のもとに行く意。「我が背」は、ここは久米広縄を親しんで呼んだ語。「あらたまの」は「年」の枕詞。「年行き返り」は、古い年が去り新しい年が巡って来て。「さまねみ」は、重なるので。「恋ふるそら」の「そら」は、拠り所の無い上の空の心情を表す語。「かづらく」は、草木の枝を髪飾りとして着ける。「酒みづく」は、酒宴をする。「遊び和ぐれど」の「和ぐれ」は、心が静まる意。「射水川」は、富山湾に注ぐ現在の小矢部川。「奈呉江」は、射水市にある入江。「ねもころに」は、心を込めて、ねんごろに。「帰り罷りて」の「罷る」は、貴人のもとから退出する意。「にふぶに」は、にこやかに。「鏡なす」は「見」の枕詞。「面変はり」は、容貌が変わること。

 4117の「去年の秋」は、広縄が発足した時。「まにま」は、その時以来。「都方人」は、都人。4118の「かくしても」は、このような状態であっても。「少なくも」は、反語の形をとる結句に続き、大いにある意を示す副詞。「恋しけれやも」の「やも」は反語。恋しかろうか、恋しくはないで、それが「少くも」を受けて、甚しく恋しかった意となっているもの。

巻第18-4119~4121

4119
いにしへよ偲(しの)ひにければ霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞きて恋しきものを
4120
見まく欲(ほ)り思ひしなへにかづらかけかぐはし君を相(あひ)見つるかも
4121
朝参(てうさん)の君が姿を見ず久(ひさ)に鄙(ひな)にし住めば我(あ)れ恋ひにけり [一云 はしきよし妹(いも)が姿を]
 

【意味】
〈4119〉遠い昔から人々が愛してきたものだから、ホトトギスの鳴き声を聞くと、懐かしくて仕方がない。

〈4120〉お逢いしたいと思っていた、ちょうどその折りに、かづらをつけたお姿のすばらしいあなたにお逢いすることができました。

〈4121〉朝廷に出仕しているあなたの姿をお見かけせず、長らく鄙の地に住んでいたので、恋しくてなりませんでした。

【説明】
 4119は、翌28日に、ホトトギスが鳴くのを聞いて作った歌。上の広縄歓迎の席上での歌かともいわれ、その折の長反歌(4116~4118)に対する別種の反歌とも言える内容になっています。「いにしへよ」の「よ」は「より」の意で、遠い昔より。「偲ふ」は、恋い慕う、賛美する。
 
 4120・4121は、京に向かう時に貴人にお目にかかり、また、美人に逢って飲宴する日に備えて、思いを述べ、あらかじめ作った歌。4120の「見まく」は「見む」のク語法で、見ること、見るだろうこと。「なへに」は、ちょうどその時。「かづら」は、縵の冠、髪飾り。「かぐはし」は、懐かしい。「君」は、貴人である男。4121の「朝参」は、朝廷に官人として出仕すること。その日の政務の開始に先立ち、天皇の御前に列立して行う礼。「鄙」は、都から遠い地方。ここでは越中。一云の「はしきよし」は、ああ愛しい。一云にある「妹」は、前記の「美人」を指します。家持がどのような任務で上京しようとしていたのかについては、久米広縄の帰任に触発され、今年の大帳使として自ら上京しようと計画していたのかもしれないと推察されています。

巻第18-4122~4124

4122
天皇(すめろき)の 敷きます国の 天(あめ)の下(した) 四方(よも)の道には 馬の爪(つめ) い尽(つく)す極(きは)み 舟舳(ふなのへ)の い泊(は)つるまでに 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 万調(よろづつき) 奉(まつ)るつかさと 作りたる その生業(なりはひ)を 雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔(ま)きし畑(はたけ)も 朝ごとに 凋(しぼ)み枯れ行く そを見れば 心を痛み みどり子の 乳(ち)乞(こ)ふがごとく 天(あま)つ水 仰(あふ)ぎてぞ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天(あま)の白雲(しらくも) 海神(わたつみ)の 沖つ宮辺(みやへ)に 立ち渡り との曇(ぐも)りあひて 雨も賜(たま)はね
4123
この見ゆる雲(くも)ほびこりてとの曇(ぐも)り雨も降らぬか心(こころ)足(だ)らひに
4124
我(わ)が欲(ほ)りし雨は降り来(き)ぬかくしあらば言挙(ことあ)げせずとも年は栄(さか)えむ
 

【意味】
〈4122〉天皇のお治めになるこの国の、天下の四方に広がる道は、馬の蹄がすり減ってなくなる地の果てまでも、海上では舟の舳先が行き着く最後の港までも、古から今現在に至るまで、ありとあらゆる貢ぎ物の第一のものとして作っている農作物であるのに、雨が降らない日が続き、苗を植えた田も、種を蒔いた畑も、日ごとに凋んで枯れてゆく。それを見ると心が痛み、赤子が乳を求めるように、天を仰いで雨を待っている。今、山あいに見える白雲よ、海神が治めたまう海の沖の方まで伸びて広がって行き、どうか雨を賜らせてください。

〈4123〉あの見えている雲が広がって、空一面にかき曇り、雨が降ってくれないだろうか、心ゆくまで。

〈4124〉我らが待ち望んだ雨はとうとう降ってきてくれた。これなら仰々しく言い立てなくとも、今年も五穀の実りは豊かになろう。

【説明】
 4122・4123は、題詞に「天平勝宝元年(749年)閏5月6日以来、干ばつが続き、百姓の田畑は次第に凋んできた。6月1日になってたちまちに雨雲が現れた。そこで作った歌」とあり、一国の国守の立場として詠んだ「雨乞い」の歌。4124は、その3日後の6月4日に雨が降って喜び、作った歌。
 
 4122の「古よ」は、古から。「い尽す」「い泊つる」の「い」は、強意の接頭語。「万調」は、民から天皇へのあらゆる調、貢物。「つかさ」は、最上の物。「生業」は、ここでは農業による農作物。「心を痛み」は、心が痛み。「みどり子」は、3歳までの幼児、赤子。「天つ水」は、天からの賜り物としての雨。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山のたをり」は、山の窪んでたわんだようになっている所。「沖つ宮辺」は、沖の宮辺(竜神の宮)。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「との曇りあひて」の「との」はすっかりの意で、一面に曇って。「雨も賜はね」の「ね」は、他に対しての希求の助詞。

 4123の「ほびこりて」は、勢いよく広がって。「雨も降らぬか」の「も~ぬか」は、願望。「心足らひに」は、心が満足するように。4124は「雨降るを賀(ほ)く」歌。「かくしあらば」の「かく」は、雨が降ってきたこと。「言挙げ」は、言葉に出して言うこと。なお、4123の反歌について斎藤茂吉は、「一首は大きく揺らぐ波動的声調を持ち、また海神にも迫るほどの強さがあって、家持の人麻呂から学んだ結果は、期せずしてこの辺にあらわれている」と言っています。

巻第18-4125~4127

4125
天照(あまで)らす 神の御代(みよ)より 安(やす)の川 中に隔(へだ)てて 向かひ立ち 袖(そで)振り交(かは)し 息の緒(を)に 嘆(なげ)かす児(こ)ら 渡り守(もり) 舟も設(まう)けず 橋だにも 渡してあらば その上(へ)ゆも い行(ゆ)き渡らし 携(たずさ)はり うながけり居(ゐ)て 思ほしき 言(こと)も語らひ 慰(なぐさ)むる 心はあらむを 何しかも 秋にしあらねば 言問(ことど)ひの 乏(とも)しき児(こ)ら うつせみの 世の人 我(わ)れも ここをしも あやに奇(くす)しみ 行(ゆ)き変はる 年のはごとに 天(あま)の原 振り放(さ)け見つつ 言ひ継(つ)ぎにすれ
4126
天(あま)の川(がは)橋渡せらばその上(へ)ゆもい渡らさむを秋にあらずとも
4127
安(やす)の川こ向ひ立ちて年の恋 日(け)長き子らが妻どひの夜(よ)ぞ

【意味】
〈4125〉天照大御神の遙か遠い御代から、安の川を挟んで両岸に向かい合って立ち、互いに袖を振り合って、息も絶え絶えに恋い焦がれているお二人。渡し守はこの川に舟も設けない。せめて橋でも渡してあれば、その上を渡ってお行きになり、手を携え、肩に手を掛け合っては、仲睦まじく思いのたけを語り合い、慰め合おうものを。どういう訳で秋がやってこなければ、言葉を交わすこともできないお二人なのだろう。現世の地上にいる私にはこのことがとても不思議でならず、毎年、年が改まるごとに天の原を振り仰ぎ、言い継いでいることだ。

〈4126〉天の川にもし橋が渡してあったなら、その上を渡っていくことができるのに、秋でなくとも。

〈4127〉安の川を挟んで向い合って立ち、恋い焦がれながら、一年という長い月日を待ちに待ったお二人が、仲睦まじく逢える夜だ、今夜は。

【説明】
 天平勝宝元年(749年)7月7日、七夕の歌。この伝説を背景とする歌は天武朝の中期に見え始め、家持の天平時代まで好んで歌材とされ、集中あわせて132首詠まれています。4125の「安の川」は、天の川を高天原にあるとされた安の川と見立てたもの。「息の緒に」は、命がけで、命の限りに。「嘆かす」は「嘆く」の尊敬語。「子ら」は、織女を主体にして二星を呼んだもの。「渡り守」は、渡し場の番人。「うながけり」は、互いに項(うなじ)に手をかけ合って。「何しかも」は、どうして~か。「言問ひ」は言葉を交わすこと。「うつせみの」は「世」の枕詞。「世の人我れも」は、男女の世俗にいる我らも。「ここをしも」は、このことが。「あやに」は、何とも言いようがないほど。「奇しみ」は「奇し」のミ語法で、不思議なので。「年のは」は、毎年。

 4126の「渡せらば」は「渡しあらば」の約。「い渡らさむを」の「い」は強調の接頭語。「を」は逆説的詠嘆。4127の「い向ひ立ちて」の「い」は強調の接頭語。「年の恋」は、一年間逢えないという、やるせない恋心。

 この歌のあと、11月12日に越前掾の大伴池主から歌(巻第18-4128~4131)を贈られるまで、家持の動静を伝える記録はありません。おそらくこの時期に、家持が大帳使として上京し、その帰任の際に妻の坂上大嬢を帯同したのではないかとみられています。この歌は、間もなく越中を出立する折しも七夕の夜を迎え、久しぶりに妻に逢えることを思いつつ、二星の身の上に思いを寄せたものとされます。

巻第18-4134~4135

4134
雪の上(うへ)に照れる月夜(つくよ)に梅の花折りて送らむはしき子もがも
4135
我(わ)が背子(せこ)が琴取るなへに常人(つねひと)の言ふ嘆きしもいやしき増すも
  

【意味】
〈4134〉雪の上に照っている月の美しいこんな夜に、梅の花を折って贈ってやれる、いとしい娘でもいたらなあ。
 
〈4135〉あなたが琴を手にされるや否や、世間の人たちの嘆き声がますます強く聞こえてきます。

【説明】
 4134は、宴席で雪、月、梅の花を詠んだ歌。「照れる月夜に」は、照っている月の美しい夜に。「はしき子」の「はし」は「愛(は)し」の意。「もがも」は、願望。4135は、少目(しょうさかん)秦伊美吉石竹(はだのいみきいわたけ)の館で宴をしたときに守大伴宿祢家持が作った歌。「少目」は、国司の四等官。主人の石竹が興を添えようとして弾いた琴に対し、客の家持が、挨拶として詠んだ歌です。よい音楽を聴いて憂愁を感ずるというのは、大陸の文学思想によって開かれた情趣だといいます。「我が背子」は、主人の石竹のこと。「なへに」は、とともに、につれて。「常人」は、世の常の人。「いやしき増すも」の「いや」は、ますます、「しき」は、重なって。
 
 4134は、1首の中に雪・月・花を配合した画期的な例であり、高岡市万葉歴史館総括研究員の新谷秀夫氏は、和歌において3つの素材を同時に詠むのは早くても平安時代中期以降であることから、和歌史の流れのなかで逸脱していると指摘しています。さらに、四季の代表的風物をあらわす「雪月花」の語の典拠とされる唐代の白居易の漢詩『寄殷協律』は、家持のこの歌よりずっと後に作られた詩であり、先駆者家持は、まるで文学史という庭で狂い咲きのように花開いているといって過言ではない、と述べています。まさに日本人の美意識の一原点をなす作品であり、月と雪の取り合わせも『万葉集』ではこの歌だけだといいます。

巻第18-4136~4138

4136
あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りて挿頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ
4137
正月(むつき)立つ春の初めにかくしつつ相(あひ)し笑(ゑ)みてば時じけめやも
4138
薮波(やぶなみ)の里に宿(やど)借り春雨(はるさめ)に隠(こも)りつつむと妹(いも)に告げつや
   

【意味】
〈4136〉山の木々の梢から、ほよを取って挿頭にしているのは、千年の寿命を祝ってのことだという。

〈4137〉正月が来た春の初めに、このように互いに笑みを交わしているのならば、まことに時宜を得たことではないか。

〈4138〉薮波の里で宿を借りたところに、春雨に降りこめられている。このことを誰か妻に告げてくれただろうか。

【説明】
 4136は、天平勝宝2年(750年)正月2日に、国庁で諸郡司らを饗応した宴で作った歌。律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきいて朝拝することとされており、越中国でもその儀を実施し、その翌日に宴が催されたようです。「あしひきの」は「山」の枕詞。「木末」は、梢。「ほよ」は、落葉高木に寄生するヤドリギ。挿頭にして身に着けると長寿が得られるとされていました。「挿頭しつらくは」の「つらく」は、完了の助動詞「つ」のク語法で名詞形。挿頭にしているのは。「千年寿くとぞ」は、千年の命を願い、予祝する意。
 
 4137は、同月5日、判官(はんがん)久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の館で宴をしたときに作った歌。「判官」は「掾(じょう)」と同じで、は国司の三等官。「かくしつつ」は、このようにして。「相し笑みてば」は、互いに笑みを交わしているのならば。「時じく」は、時宜にかなう。「めやも」は、反語。

 4138は、墾田地を検察するために、礪波郡(となみのこおり)の主帳(しゅちょう)多治比部北里(たじひべのきたさと)の家に宿泊し、にわかに風雨が起こって帰れなくなったときに、京から越中に来ていた妻・大嬢に向けて作った歌。多治比部北里は、礪波郡東部に拠点をおく地方豪族の一員。「墾田地」は、東大寺や橘奈良麻呂のものを指すとみられます。「主帳」は、郡の四等官。「薮波の里」は、礪波郡の地ながら所在未詳。「妹」は、越中国府の家持館に留守を守る妻坂上大嬢と見られます。家持はこれより前に大帳使として上京し、妻を伴って帰任したとみられ、この年の3月以降の歌に大嬢がしばしば登場します。

国司について
 国司(こくし、くにのつかさ)は、令制により、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏のことです。四等官からなる守(かみ:長官)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指し、その下に書記や雑務を担う史生(ししょう)がいました。国を大・上・中・下の4等級として、それに応じた一定数の国司をおいたとされます。大国、上国の守は、中央では中級貴族に位置しました。

 任期は6年(のちに4年)で、国衙(政庁)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられました。国司たちは、その国内の各郡の官吏(郡司)へ指示を行ないました。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧豪族が任命されました。その郡司の業務監査や、農民への勧農などの業務を果たすため、責任者である守は、毎年1回国内の各郡を視察する義務がありました。これを部内巡行といいます。

 国司は、家族を連れて任国に赴くことが認められていました。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかったわけではありません。

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巻第17~20について
 巻第17~20は、大伴家持の歌日誌ともいうべき巻で、家持の歌を中心に、彼をとりまく人々の作を収め、それらを年代順に配列しています。巻第17には、天平2年11月から同19年2月までの歌、途中から越中の国守時代の歌となっています。
 巻第18には、天平20年から同21年までの、越中での歌が、巻第19には天平勝宝2年3月から同5年2月までの歌を収めています。家持が越中国守の任を終えて帰京したのは、同3年のことです。なお、巻第19の家持の歌の評価がもっとも高く、彼の会心作を集めたのだろうとされています。
 巻第20に収められているのは、天平勝宝5年5月から天平宝字3年(759年)1月までの歌ですが、家持以外の作も多くあり、特に防人関係の歌が120首にもおよんでいます。

 当初は勅撰集を企図したとされる『万葉集』ですが、その5分の1を編集者の歌日誌が占めるというバランスの悪さは否めません。編集途中に、何らかの理由で家持の歌日誌が資料のまま放出されたと考えられますが、そこにはどのような事情があったのでしょうか。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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大伴家持の略年譜

718
家持生まれる(在京)
724
聖武天皇即位

728
父の旅人が 大宰帥に
731
父の旅人が死去(14歳)
738
内舎人となる(21歳)
橘諸兄との出会い
739
妾と死別(22歳)
坂上大嬢との出会い
741
恭仁京の日々(24歳)
744
安積親王が死去

745
従五位下に叙せられる(28歳)
746
越中守となる(29歳)
749
従五位上に昇叙(32歳)
751
少納言となる(34歳)
754
兵部少輔を拝命(37歳)
755
難波で防人を検校、防人歌を収集(38歳)
756
聖武太上天皇が崩御

757
橘諸兄が死去

兵部大輔に昇進(40歳)
橘奈良麻呂の乱

758
因幡守となる(41歳)
淳仁天皇即位

759
万葉集巻末の歌を詠む(42歳)
764
薩摩守となる(48歳)
恵美押勝の乱

766
称徳天皇が重祚

道鏡が法王となる

767
大宰少弐となる(50歳)
770
道鏡が下野国に配流

正五位下に昇叙(53歳)
771
光仁天皇即位

従四位下に昇叙(54歳)
774
相模守となる(57歳)
776
伊勢守となる(59歳)
777
従四位上に昇叙(60歳)
778
正四位下に昇叙(61歳)
780
参議となり、右大弁を兼ねる(63歳)
781
桓武天皇即位

正四位上に昇叙(64歳)
従三位に叙せられ公卿に列する
783
中納言となる(66歳)
784
持節征東将軍となる(67歳)
長岡京遷都

785
死去(68歳)

律令下の中央官制

二官八省を基本とする体制で、天皇の下に、朝廷の祭祀を担当する神祇官と国政を統括する太政官が置かれ、太政官の下に実務を分担する八省が置かれました。二官八省のほかにも、行政組織を監察する弾正台、宮中を護衛する衛府がありました。
 
太政官の長官は太政大臣ですが、通常はこれに次ぐ左大臣右大臣が実質的な長官の役割を担いました。この下に事務局として少納言局と左右の弁官局がありました。

[八省]
中務省
式部省
治部省
民部省
(以上は左弁官局が管轄)
兵部省
刑部省
大蔵省
宮内省
(以上は右弁官局が管轄)

国の等級

大国
大和/河内/伊勢/武蔵/上総/下総/常陸/近江/上野/陸奥/越前/播磨/肥後

上国
山城/摂津/尾張/三河/遠江/駿河/甲斐/相模/美濃/信濃/下野/出羽/加賀/越中/越後/丹波/但馬/因幡/伯耆/出雲/美作/備前/備中/備後/安芸/周防/紀伊/阿波/讃岐/伊予/筑前/筑後/豊前/豊後/肥前

中国
安房/若狭/能登/佐渡/丹後/石見/長門/土佐/大隅/薩摩/日向

下国
和泉/伊賀/志摩/伊豆/飛騨/隠岐/淡路/壱岐/対馬
 

越中時代の大伴家持

天平18年(746年)
7月 国守として越中に赴任
8月 国守の館で歓迎の宴
9月 弟・書持の訃報に接し哀傷歌を作る
12月 この頃から病に臥す

天平19年(747年)
2月 越中掾の大伴池主と歌の贈答
3月 月半ばまでに回復か
3月 妻への恋情歌を作る
4月 3~4月にかけて「越中三賦」を作る
5月  このころ税帳使として入京
5月以降、池主が越前国の掾に転任
8月 このころ越中に戻る
8月 このころ飼っていた自慢の鷹が逃げる

天平20年(748年)
2月 翌月にかけて出挙のため越中国内を巡行
3月 橘諸兄の使者として田辺福麻呂が来訪
4月? 入京する僧・清見を送別する宴
10月 このころ掾の久米広縄が朝集使として入京

天平勝宝1年(749年)
3月 越前の池主と書簡を贈答
4月 従五位上に昇叙される
5月 東大寺占墾地使の僧・平栄が来訪
5月 「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」を作る
6月 干ばつが続き、雨を祈る歌と、雨が降って喜ぶ歌を作る
7月 このころ大帳使として入京
冬に越中に戻るが、この時、妻の大嬢を越中に伴ったとみられる
11月 越前の池主と書簡を贈答

天平勝宝2年(750年)
1月 国庁で諸郡司らを饗応する宴
3月 「春苑桃李の歌」を作る
3月 出挙のため古江村に出張
3月 妻の大嬢が母の坂上郎女に贈る歌を代作
4月 布勢の湖を遊覧
6月 京の坂上郎女が越中の大嬢に歌を贈る
10月 河辺東人が来訪
12月「雪日作歌」を作る

天平勝宝3年(751年)
2月 正税帳使として入京する掾の久米広縄を送別する宴
7月 少納言に任じられる
8月 帰京のため越中を離れる。途中、越前の池主宅に寄り、京から帰還途上の広縄に会う

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