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平安貴族のトイレ

 トイレの歴史も、なかなか興味深いものです。縄文時代にはすでにトイレが存在し、川に板を張り出して用便し、陶器のかけらを紙代わりに使用していたそうです(痛そう)。飛鳥時代になると川を屋内に引き込むようになり、木片を紙代わりに使用するようになったとか(それでもまだ痛そう)。トイレを「厠(かわや)」と呼ぶようになったのは、こうした川を引き入れた「川屋」、あるいは家屋の側にある「側屋(かわや)」が語源になったといいます。

 それから時代は下り、たとえば平安時代の貴族たちが使用していたトイレがどんなものだったか。実は彼ら彼女らは、今でいう「オマル」を使っていたんですね。ただオマルといっても、「樋筥(ひばこ)」とか「虎子(おおつぼ)」「清筥(しのはこ)」とよばれるデラックスな木製の箱で、多くは象牙の縁取りの蓋があり、漆が塗られ、なかには金銀の蒔絵が施されたり紫檀地に螺鈿(らでん)をちりばめたようなものもあったとか。さすがに貴族はトイレからして高貴であったようです。

 貴族たちは、用を足したくなったら「オマル」担当の女官を呼びつけます。彼女らは樋洗(ひすまし)とか須麻志(すまし)女官とよばれ、彼女らがオマルを持って現れると、御簾(みす)で周りを取り囲み、その中で用便をしたのです。十二単のお姫様などはその準備に大変だったようです。また、このころ、用便後には紙を使うようになりました。終わったら樋殿(ひどの)とよばれる場所に運んで中身を捨て、オマルをきれいに洗いました。

 外出のときもオマルを持った女官が付き従い、いつどこでも用を足すことができました。貴族の生活では、人間がトイレに行っていたのではなく、トイレのほうが人間のところにやってきていたのです。まことに便利で有難い話ですが、でも、かなり恥ずかしい・・・。なお、色好みで有名な平貞文(たいらのさだふみ)という男が、恋してもつれない女を諦めるために、その女の樋洗から樋筥を奪い、中を見たという話があります。いやはや何とも・・・。

 一方、庶民はどうだったかというと、樋箱や虎子などあるわけもなく、かといって個室トイレが整っていたわけでもありません。当時の絵巻には、路上の隅っこに穴を掘って、しゃがんで用を足す様子が描かれています。

『源氏物語』は怨霊信仰の産物?

 『源氏物語』の作者・紫式部のパトロンは、かの大権力者・藤原道長であり、もっといえば二人は愛人関係にあった可能性が高いともいわれています。しかし、そういう関係にありながら、紫式部が、藤原氏のライバルだった源氏を主役とし、明らかに藤原氏を悪者に仕立てたような物語を、なぜ書くことができたのでしょうか。フィクションだったら何でも構わないという「言論の自由」が認められていた時代だったとは思えません。それとも道長が、紫式部をあまりに可愛がっていたから、特別に大目に見たのでしょうか。

 ある説によれば、それは藤原氏の台頭によって落ちぶれてしまった源氏への慰めであるといいます。「怨霊信仰」というそうですが、要は蹴落とした相手の祟りをおさえるために、わざとそういう物語を書かせたというのです。その時期、醍醐天皇や藤原一族に厄災が生じたのを大宰府に左遷された菅原道真の祟りだとして、道長はそのことを大変に恐れたようです。「怨霊信仰」など馬鹿馬鹿しいと思うのは現代人の感覚であって、当時はそういうのが最新の科学とされ、強く信じられていたわけです。
 
 もっと言えば、『竹取物語』や『伊勢物語』、後に著された『平家物語』『太平記(後半)』なども、すべて怨霊信仰が原点になっているといわれます。
 

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