伊勢物語
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昔、男、梅壷より雨に濡れて、人のまかりいづるを見て、
うぐひすの花を縫(ぬ)ふてふ笠もがな 濡るめる人に着せてかへさむ
返し、
うぐひすの花を縫ふてふ笠はいな 思ひをつけよほしてかへさむ
【現代語訳】
昔、ある男が、宮中の梅壷から雨に濡れて女が退出するのを見て、
うぐいすが花を縫いつけるという花笠があればいいのに。濡れているあの人に着せて帰してやりたいから。
返し、
うぐいすが花を縫いつけるという花笠はいりません。それよりあなたの思いの火をつけてください。その火で衣を乾かしてお返ししましょう。
(注)梅壷・・・宮中の局の一つ。
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昔、男、契れることあやまれる人に、
山城(やましろ)の井出(ゐで)の玉水(たまみづ)手に結び 頼みしかひもなき世なりけり
と言ひやれど、いらへもせず。
【現代語訳】
昔、ある男が、結婚の約束を違えた女に、
山城の井出の玉水を手ですくって約束し頼みにしていたのに、その甲斐もない二人の関係だったのですね。
と言いやったが、女は返事もしなかった。
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昔、男ありけり。深草(ふかくさ)に住みける女を、やうやう飽き方(がた)にや思ひけむ、かかる歌を詠みけり。
年を経て住みこし里を出(い)ででいなば いとど深草野とやなりなむ
女、返し、
野とならば鶉(うづら)となりて鳴きをらむ 狩(かり)にだにやは君は来(こ)ざらむ
と詠めりけるに愛(め)でて、行かむと思ふ心なくなりにけり。
【現代語訳】
昔、ある男がいた。山城国(今の京都府南部)の深草の里に住んでいた女を、しだいに飽きてしまったのか、このような歌を詠んだ。
長年住んだこの里を出て行けば、今も草深い深草の里は、ますます草が深い野になってしまうのだろうか。
女が返し、
ここが荒れた草深い野になってしまうならば、私は鶉になって悲しく鳴いているでしょう。あなたはせめて、かりそめの狩りにでもおいでにならないでしょうか、いやきっと来てくださいますね。
と詠んだのに心を打たれ、男は去ろうとする気持ちがなくなったのだった。
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昔、男、いかなりけることを思ひけるをりにか、詠める。
思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ
【現代語訳】
昔、ある男が、どんなことを思った折であろうか、詠んだ歌は、
心に思うことがあっても、口に出して言わないでいるのがよい。どうせこの世には自分と同じ考えの人などいないのだから。
(注)「人しなければ」の「し」は強意の助詞。
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昔、男、わづらひて、心地(ここち)死ぬべく覚えければ、
つひにゆく道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを
【現代語訳】
昔、ある男が病気になり、今にも死んでしまいそうな気持ちになって、
死出の道のことはかねて聞いてはいたが、昨日今日にやってくるとは思わなかった。
(注)業平の死は、元慶4年(880年)。従四位上、56歳だった。この歌は『古今和歌集』にも収められ、病で心身が弱ったときに詠んだとの詞書がある。
(注)藤原定家の筆写本では第125段で終わるが、他に伝わる本では、第126段以降を伝えるものがある。
●業平の死
『大和物語』の第165段には、業平の死について次のように書かれている。
水の尾の帝(清和天皇)の御代に、左大弁の娘、弁の御息所と呼ばれて後宮にいらっしゃったが、帝がご出家なさったあとは独り身でいらっしゃったのを、在中将・在原業平が密かに通っていた。中将は病が重くなり苦しんでいたが、本妻たちの目もあって、御息所はお見舞いに行くこともできず、こっそり手紙を送っては安否を問うのを、日ごとに行っていた。ところが、手紙を送らぬ日があり、その日がいよいよ最期という日になってしまい、中将から「つれづれと いとど心のわびしきに 今日はとはずて 暮らしてむとや(一人寂しくて、ますます心が辛く悲しいのに、今日、あなたは手紙も下さらずに過ごしてしまわれるのですか)」という和歌を寄こした。「すっかり弱ってしまわれた」と泣き騒いで返事をしようとする時に、「亡くなった」と聞いて、もう本当にやるせない思いで辛かった。今際(いまわ)の際(きわ)に中将は、「つひにゆく道とは・・・」と詠じて、とうとう息絶えてしまったということである。
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
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