伊勢物語
むかし、男、筑紫(つくし)まで行きたりけるに、「これは、色好むといふ好き者」と、簾(すだれ)のうちなる人の言ひけるを聞きて、
染川(そめがは)を渡らむ人のいかでかは 色になるてふことのなからむ
女、返し、
名にし負はばあだにぞあるべきたはれ島 浪の濡れ衣(ぎぬ)着るといふなり
【現代語訳】
昔、ある男が筑紫(今の福岡県)まで行ったところ、「この人は、色好みと評判の方ですよ」と、簾の内にいる女が男のことを言ったのを聞いて、男は、
九州には染川という川がありますが、その名の通り、染川を渡る人がどうして色に染まらないことがありましょうか。もともと色好みなのではなく、九州に来たからです。
女が、それに返して、
その名によるのなら、九州の「たはれ島」は、その名のとおり浮気者のはずですが、人々は、浪で濡れ衣を着せられているのだと言っています。地名のせいにしないでください。
(注)染川・・・福岡県筑紫郡、大宰府付近を流れる川。
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昔、年ごろ訪れざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人の言(こと)につきて、人の国なりける人に使はれて、もと見し人の前に出(い)で来て、もの食はせなどしけり。夜さり、「このありつる人たまへ」と、あるじに言ひければ、おこせたりけり。男、「われをば知らずや」とて、
いにしへのにほひはいづら桜花 こけるからともなりにけるかな
と言ふを、いと恥づかしと思ひて、いらへもせでゐたるを、「などいらへもせぬ」と言へば、「涙のこぼるるに、目も見えず、ものも言はれず」と言ふ。
これやこのわれにあふみをのがれつつ 年月(としつき)経(ふ)れどまさり顔なき
と言ひて、衣ぬぎて取らせけれど、捨てて逃げにけり。いづちいぬらむとも知らず。
【現代語訳】
昔、長い間、男の訪れが稀になっていた女がいたが、そう賢い女でなかったからだろうか、あてにもならない者の口車に乗せられて、田舎に住む人に使われていたが、ある時、偶然に元の夫がその家に立ち寄ったので、その前に出て来て、食事の給仕などをした。夜になって、男が「さっきの人を呼んでください」と家の主人に言うと、主人は女を呼んだ。男は「私のことがわからないか」と言って、
昔の美しさはどこへ行ったのか。まるで花をしごき落とした、見所もない幹のようにみじめな姿になってしまったなあ。
と歌を詠んだのを、女はたいそう恥ずかしく思い、返事もせずに座っていたが、「どうして返事をしないのか」と言うので、「涙がこぼれて目も見えず、物も言えません」と言う。そこで男は、
いったいお前は、私のもとを強いて逃れて年月が経ったけれど、少しも良くなった様子もないことよ。
と言って、衣を脱いで与えたが、女は衣を捨てて逃げていった。どこへ行ってしまったのか、その行方もわからない。
(注)まさり顔・・・「勝り顔」で、生活や愛情が豊かになり、より美しくなった容色の意。
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昔、世心(よごころ)つける女、いかで心なさけあらむ男にあひ得てしがなと思へど、言ひいでむも頼りなさに、まことならぬ夢語りをす。子三人を呼びて、語りけり。ふたりの子は、情けなくいらへてやみぬ。三郎(さぶらう)なりける子なむ、「よき御男ぞいで来(こ)む」とあはするに、この女、けしきいとよし。異人(ことひと)はいと情けなし。いかでこの在五(ざいご)中将に逢はせてしがなと思ふ心あり。狩(かり)し歩(あり)きけるに行き会ひて、道にて馬の口をとりて、「かうかうなむ思ふ」と言ひければ、あはれがりて、来て寝にけり。さてのち、男見えざりければ、女、男の家に行きてかいま見けるを、男ほのかに見て、
百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも髪 われを恋ふらし面影に見ゆ
とて、出(い)で立つけしきを見て、茨(むばら)、からたちにかかりて、家に来てうちふせり。男、かの女のせしやうに、忍びて立てりて見れば、女嘆きて、寝(ぬ)とて、
さむしろに衣(ころも)かたしき今宵(こよひ)もや 恋しき人にあはでのみ寝む
とよみけるを、男、あはれと思ひて、その夜は寝にけり、世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は思ふをも、思はぬをも、けぢめ見せぬ心なむありける。
【現代語訳】
昔、好色づいた女が、何とかして情愛の深い男と一緒になりたいと思っていたが、言い出すきっかけもなかったので、架空の夢語りをした。自分の息子三人を呼んで語ったのだった。上の二人の子はそっけなく答えたきりで終わった。が、三男の子だけが、「きっと、よい殿方があらわれるでしょう」と夢判断をしてくれたので、この女はたいそう上機嫌になった。三男は、他の男ではつまらないから、いっそのこと名高い在五中将(業平)と母を逢わせてやりたいと心に思っていた。すると、たまたま中将が狩をして廻っているのに行き会ったので、道で馬の口を引きとどめ、「これこれこういうふうに、貴方様をお慕いしています」と言ったところ、中将は心を動かされて、女の家に来て一夜を共にしたのだった。ところがその後、男の訪れも絶えてしまったので、女は男の家に行って物陰から覗いてみると、男がちらりと見て、
あと一歳で百歳というたつくも髪の老女が、私を恋い慕っているらしい。その姿が目に浮かぶ。
と言って、外へ出かける様子を見て、女は茨やからたちのとげに引っ掛かりながら、急いで家に帰って待っていた。男は先ほど女がしたように、こっそりと物の隙間から覗いて見ると、女は嘆き悲しんで一人で寝ようとして、
敷物に衣の片方の袖だけを敷いて、今夜も恋しい人に逢うこともなく、一人さびしく寝るのでしょうか。
と詠んだのを、男は哀れに思って、その夜は女と一緒に寝たのだった。男女の仲の常として、思う相手を思い、思わない相手は思わないものだが、この人は、思う相手も、思わない相手も、わけへだてなく扱う心があったのだった。
(注)在五中将・・・在原業平のこと。右近衛権中将だったことから。
(注)つくも髪・・・「つく藻」という海藻の短く乱れた様子が似ている、老女の髪。百年に一年足りないというので「白」、すなわち白髪とする説も。
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昔、男、みそかに語らふわざもせざりければ、いづくなりけむ、あやしさに詠める。
吹く風にわが身をなさば玉すだれ ひま求めつつ入るべきものを
返し、
取りとめぬ風にはありとも玉すだれ 誰(た)が許さばかひま求むべき
【現代語訳】
昔、ある男が、ひそかに情を交わすこともせずに、文ばかり交わしていた女がいて、女がどこに住んでいるのだろうかと不審がって詠んだ、
私の身を吹く風にすることができたなら、玉すだれの隙間でも探して入り込むこともできるのに。
女の返しの歌、
風を手でとらえてとどめることはできませんが、誰の許可を得て玉すだれのすきまに入ってくるのでしょう。
(注)語らふ・・・情を交わす。
(注)玉すだれ・・・「玉」は美称。
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昔、おほやけ思して使うたまふ女の、色許されたるありけり。大御息所(おほみやすむどころ)とていますかりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原(ありはら)なりける男の、まだいと若かりけるを、この女あひ知りたりけり。男、女方(をむながた)許されたりければ、女のある所に来てむかひをりければ、女、「いとかたはなり。身も亡びなむ、かくなせそ」と言ひければ、
思ふには忍ぶることぞ負けにける あふにしかへばさもあらばあれ
といひて曹司(ざうし)におりたまへれば、例の、この御曹司には、人の見るをも知らでのぼりゐければ、この女、思ひわびて里へ行く。されば、なにのよきことと思ひて、行き通ひければ、みな人聞きて笑ひけり。つとめて主殿司(とのもづかさ)の見るに、沓(くつ)は取りて、奥に投げ入れてのぼりぬ。
かくかたはにしつつありわたるに、身もいたづらになりぬべければ、つひに亡びぬべしとて、この男、「いかにせむ、わがかかる心やめたまへ」と、仏、神にも申しけれど、いやまさりにのみおぼえつつ、なほわりなく恋しうのみおぼえければ、陰陽師(おむやうじ)、神巫(かむなぎ)呼びて、恋せじといふ祓(はら)への具してなむ行きける。祓へけるままに、いとど悲しきこと数まさりて、ありしよりけに恋しくのみおぼえければ、
恋せじと御手洗河(みたらしがは)にせしみそぎ 神はうけずもなりにけるかな
と言ひてなむいにける。
この帝は、顔かたちよくおはしまして、仏の御名を御心に入れて、御声はいと尊くて申したまふを聞きて、女はいたう泣きけり。「かかる君に仕うまつらで、宿世(すくせ)つたなく、悲しきこと、この男にほだされて」とてなむ泣きける。かかるほどに、帝聞しめしつけて、この男をば流しつかはしてければ、この女のいとこの御息所、女をばまかでさせて、蔵にこめてしをりたまうければ、蔵にこもりて泣く。
海人(あま)の刈る藻にすむ虫のわれからと 音(ね)をこそ泣かめ世をば恨みじ
と泣きをれば、この男、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれにうたひける。かかれば、この女は、蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。
さりともと思ふらむこそ悲しけれ あるにもあらぬ身を知らずして
と思ひをり。男は、女しあはねば、かくし歩(あり)きつつ、人の国に歩きて、かくうたう、
いたづらに行きては来ぬるものゆゑに 見まくほしさにいざなはれつつ
水の尾の御時なるべし。大御息所も染殿(そめどの)の后(きさき)なり。五条の后とも。
【現代語訳】
昔、帝がご寵愛なさって召し使っておられる女で、禁色の着用を許されている女があった。帝の生母、大御息所としていらっしゃる方の従妹であった。宮中の殿上の間に仕えていた在原という、まだたいそう若い男と、この女は情を通じていた。男は、年少だったため女房たちの局への出入りを許されており、この女のいる所にやって来て向かい合わせに座ったところ、女は、「とても見苦しいことです。身の破滅を招きましょう。こんなことをするのはやめてください」と言ったので、
あなたを思う心に、人目を忍ぶ心は負けてしまいました。あなたに逢うためなら、どうなっても構いません。
と言い、女が部屋に下がっていても、この部屋に人目があるのも構わず上りこんで座っている。こんな調子だったので、女は思い余って里(実家)に行く。すると男は、むしろ好都合だと思い、女の里へ行き通ったので、人々はそれを聞いて嘲笑した。早朝に、宮中警護の主殿司が見ていると、こっそり宮中に帰ってきた男は沓を脱いで奥にしまい込み、そのまま殿上に上がるのだった。
男はこのように見苦しいことをしながら過ごしていたが、このままではいずれ官職も失い、最後には破滅してしまうに違いないと思って、「どうしたものでしょう、私のこのような心を直して下さい」と神仏にお祈りしたが、かえって恋心が募り、どうしようもなく女を恋しく思うばかりだったので、陰陽師や巫女を呼んで、恋をしないという祓の品々を持って出かけた。ところが、祓をしてもますます悲しい気持ちが高まり、以前よりもいっそう恋しく思われるだけだったので、
もう恋などすまいと御手洗川でみそぎをしたのに、神はその願いを聞き入れて下さらないようです。
と歌を詠んで帰っていった。
この帝(清和天皇)は御容貌がうるわしく、仏の御名をお心を籠めて、お声はたいそう尊くお唱えなさるのを聞いて、女はひどく泣くのだった。「このような素晴らしい君に十分なお仕えができず、前世からの因縁が悪く、本当に悲しいことです。あのような男に引きずられて」と言って泣く。こうしているうちに、帝が事の次第をお知りになり、この男を配流なさったので、この女の従妹の御息所が、女を宮中から退出させて、蔵に閉じ込めて折檻なさったので、女は蔵にこもって泣いている。
海女の刈る藻にすむ「われから」。その言葉のように何もかも私のせいだと思って泣きましょう。あのお方との仲を恨みには思いますまい。
と歌を詠んで泣いていると、この男は、流された地の国から毎夜訪ねて来ては、笛をたいそう面白く吹いて、美しい声で、あわれ深く歌うのだった。女は蔵に籠ったまま、あの人であるらしいと分かってはいるが、相逢うこともできずにいた。
あの方が、まだ私に逢えると思っているらしいのが悲しいのです。生きているともいえない私の身の上を知らないで。
と女は思っている。男は女に逢えないので、このように毎夜京にやって来て歩き回り、流された地に戻っては、このように歌う。
いつも空しく行っては帰ってきてしまうのに、逢いたい気持ちに誘われてまた出かけて行ってしまうのだ。
清和天皇の御時のことであろう。大御息所と申し上げる方も、染殿の后である。あるいは、五条の后とも伝えられる。
(注)禁色・・・法令によって着用を禁じられた衣服の色。
(注)染殿の后・・・藤原良房の娘、明子。
(注)五条の后・・・藤原冬嗣の娘、順子。
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昔、男、津の国にしる所ありけるに、兄、弟(おとと)、友だちひき率(ゐ)て、難波(なには)の方に行きけり。渚(なぎさ)を見れば、舟どものあるを見て、
難波津(なにはづ)を今朝こそみつの浦ごとに これやこの世をうみ渡る舟
これをあはれがりて、人々帰りにけり。
【現代語訳】
昔、男が、津の国に所領地があったので、兄や弟、友だちをひきつれて、難波の方面に行った。渚を見ると、たくさんの船が浮かんでいるのを見て、
難波津を今朝はじめて見たのだが、御津の浦の浦ごとに何艘もの舟が見え、これがあの、海を渡る(世の中を憂いつつ過ごす)舟なのだな。
この歌にしみじみと心を打たれ、人々は帰ってしまった。
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昔、男、逍遥(せうえう)しに、思ふどちかいつらねて、和泉(いづみ)の国へ如月(きさらぎ)ばかりに行きけり。河内(かふち)の国、生駒(いこま)の山を見れば、曇りみ晴れみ、立ちゐる雲やまず。朝(あした)より曇りて、昼晴れたり。雪いと白う木の末(すゑ)に降りたり。それを見て、かの行く人の中に、ただひとり詠みける、
昨日(きのふ)今日(けふ)雲の立ち舞ひかくろふは 花の林を憂(う)しとなりけり
【現代語訳】
昔、男が、気ままにそぞろ歩きをするために、気の合った仲間と連れ立って、和泉の国(今の大阪府南部)へ二月頃に出かけた。河内の国(今の大阪府東南部)の生駒山を見ると、曇ったり晴れたり、雲が高く上ったり低く垂れたりして動きがやまない。朝から曇っていて、昼には晴れた。雪はたいそう白く木々の梢に降り積もっている。それを見て、かの旅人たちの中で、ただ一人が詠んだ、
昨日、今日と雲が立ち上がって生駒山が隠れたりするのは、雪で花が咲いているように林を見られるのを嫌がってのことだったのだろうか。
(注)思ふどち・・・気の合った親しい者同士。
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昔、男、和泉(いづみ)の国へ行きけり。住吉(すみよし)の郡(こほり)、住吉の里、住吉の浜を行くに、いとおもしろければ、おりゐつつ行く。ある人、「住吉の浜と詠め」といふ。
雁(かり)鳴きて菊の花咲く秋はあれど 春の海辺にすみよしの浜
と詠めりければ、みな人々詠まずなりにけり。
【現代語訳】
昔、男が、和泉の国に出かけて行った。住吉(今の大阪市住吉区)の郡、住吉の里、住吉の浜を行ったところ、たいそう景色がいいので、馬から降りては景色を眺めながら行った。ある人が、「住吉の浜という言葉を入れて歌を詠みなさい」と言ったので、
雁が鳴いて菊の花が咲く秋はたしかによいが、飽きることもあろう。ここ住吉の浜は、その名の通り、長く住みよい所だ。
と詠んだので、ほかの人々は感心して詠まないでしまった。
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昔、男ありけり。その男、伊勢の国に狩(かり)の使(つかひ)に行きけるに、かの伊勢の斎宮(さいぐう)なりける人の親、「常(つね)の使よりは、この人よくいたはれ」と言ひやれりければ、親の言(こと)なりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝(あした)には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつ、そこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。
二日といふ夜、男、「われて逢はむ」と言ふ。女もはた、いと逢はじとも思へらず。されど、人目しげければ、え逢はず。使ざねとある人なれば、遠くも宿さず。女の閨(ねや)近くありければ、女、人をしづめて、子(ね)一つばかりに、男のもとに来たりけり。男はた、寝られざりければ、外(と)の方(かた)を見出(みい)だして臥(ふ)せるに、月のおぼろなるに、小さき童(わらは)を先に立てて、人立てり。男、いと嬉しくて、わが寝る所に率(ゐ)て入りて、子一つより丑三(うしみ)つまであるに、まだ何事も語らはぬに帰りにけり。男、いと悲しくて寝ずなりにけり。
つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより、詞(ことば)はなくて、
君や来(こ)し我や行きけむおもほえず 夢か現(うつつ)か寝てか醒(さ)めてか
男、いといたう泣きて詠める、
かきくらす心の闇(やみ)に迷(まど)ひにき 夢うつつとは今宵(こよひ)定めよ
と詠みてやりて、狩に出(い)でぬ。野にありけれど、心は空(そら)にて、今宵だに人しづめて、いととく逢はむと思ふに、国の守(かみ)、斎宮(いつきのみや)の頭(かみ)かけたる、狩の使ありと聞きて、夜一夜(よひとよ)酒飲みしければ、もはら逢ひごともえせで、明けば尾張(をはり)の国へ立ちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せど、え逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女方(をむながた)より出(い)だす杯(さかづき)の皿に、歌を書きて出(い)だしたり。取りて見れば、
かち人の渡れど濡れぬえにしあれば
と書きて、末(すゑ)はなし。その杯の皿に、続松(ついまつ)の炭(すみ)して、歌の末を書きつぐ。
また逢坂(あふさか)の関はこえなむ
とて、明くれば、尾張の国へ越えにけり。
斎宮は、水の尾の御時(おんとき)、文徳天皇の御むすめ、維喬(これたか)の親王(みこ)の妹。
【現代語訳】
昔、ある男がいた。その男が伊勢の国(今の三重県)に朝廷の狩りの使いとして行った折、伊勢神宮の斎宮だった人の親が、「いつもの勅使より、この人は特に大切におもてなししなさい」と言い送ってきたので、親の言いつけであることから、斎宮はとても丁寧に男のお世話をした。朝には、狩りの準備を十分にととのえて送り出し、夕方に帰ってくると、自分の御殿に来させた。このようにして、心を込めたお世話をした。
男が来て二日目の夜、男が「どうしてもお逢いしたい」と言う。女も断固として逢わないとは思っていない。しかし、周りにお付きの者などの人目が多いので、逢うことができない。男は勅使の中心となる正使だったので、斎宮の居所から離れた場所には泊めていない。女の寝所に近かったので、女は侍女たちが寝静まるのを待って、夜中の十一時ごろに男の泊まっている部屋にやって来た。男もまた、女のことを思い続けて寝られなかったので、部屋から外を眺めながら横になっていると、おぼろ月夜のなか、小柄な童女を前に立たせてその人が立っている。男はたいそう喜び、女を自分の寝室に引き入れて、夜中の十一時頃から午前二時頃まで一緒にいたが、まだ満足に語り合わないうちに女は帰ってしまった。男はずいぶん悲しみ、眠れずに夜を明かしてしまった。
翌朝早く、女のことが気にかかりつつも、自分の方から供の者を使いにやるわけにはいかないので、ずっと待ち遠しく思いながら女の文を待っていると、夜がすっかり明けてしばらくして、女の所から、手紙の言葉はなくて歌だけが届いた。
昨夜は、あなたがいらっしゃったのか、私が伺ったのか、よく覚えていません。夢だったのでしょうか現実でしょうか、寝ていたのでしょうか、起きていたのでしょうか、ちっともはっきりしません。
男はひどく泣きながら詠んだ。
何がなんだか分からなくなって取り乱してしまいました。昨夜のことが夢か現実かは、今夜もう一度いらしてはっきりさせてください。
と詠んで女におくって、狩りに出かけた。野原に出て狩り歩いていても心はうわの空で、せめて今夜は皆を寝静まらせて早く逢おうと思っていた。ところが、伊勢の国守で斎宮寮の長官を兼任していた人が、狩りの勅使が来ていると聞いて、一晩じゅう酒宴を催したので、もう逢うことができない。夜が明けると尾張の国(今の愛知県)へ出立する予定になっていたので、女は悲しみ、男もひそかにひどく嘆き悲しんだが、ついに逢えない。夜が次第に明けようかという頃に、女のほうから出す別れの杯の受け皿に歌を書いてよこした。受け取ってみると、
この斎宮寮のところの入り江は、徒歩で渡っても裾が濡れないほど浅いのです。だからこの度もほんとうに浅いご縁だったので・・・。
と、上の句だけ書いてあり、下の句がない。男はそこで、その受け皿に、たいまつの燃え残りの炭で、下の句を続けて書いた。
ここではあきらめてお別れしますが、また逢坂の関を越えて都に帰りましょう。そうして、きっとまたお逢いしましょう。
と書いて、夜明けとともに、尾張の国へ向かい、国境を越えて行ってしまった。
斎宮は、水尾の帝(清和天皇)の御代の斎宮で、文徳天皇の御娘、維喬親王の妹にあたる人(恬子内親王)である。
(注)狩の使・・・近衛府の役人のなかで、勅命によって各地に遣わされて鷹狩を行う役目の者。使節団のようなものだったらしく、少なくとも正使・副使があり、男は正使だった。
(注)最後の一文は後人の注と考えられ、斎宮が恬子(てんし)内親王だと明記している。さらにこの一夜の契りで業平の子(高階師尚:たかしなのもろひさ)を身ごもったとする伝えがある。
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昔、男、狩(かり)の使(つかひ)より帰り来けるに、大淀(おほよど)の渡りに宿りて、斎宮の童(わらは)べに言ひかけける、
みるめ刈るかたやいづこぞ棹(さを)さして われに教えよ海人(あま)のつり舟
【現代語訳】
昔、ある男が、狩の使から都へ帰ってくる途中、大淀の渡し場に泊まって、斎宮にお仕えする童女(わらわめ)に歌をよみやった、
人を見るという名を持つ海松布、それを刈るべき潟はどのあたりだろうか。舟に棹をさして私に教えてほしい、海人の釣り舟よ。(斎宮にお逢いするにはどうすればよいか、その手立てを教えてほしい、童女よ)
(注)大淀の渡り・・・三重県多気郡明和町の宮川の河口あたり。
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昔、男、伊勢の斎宮(さいぐう)に内裏(うち)の御使にて参れりければ、かの宮に、好きごと言ひける女、わたくしごとにて、
ちはやぶる神の斎垣(いがき)も越えぬべし 大宮人(おほみやびと)の見まくほしさに
男、
恋しくは来ても見よかしちはやぶる 神のいさむる道ならなくに
【現代語訳】
昔、ある男が、伊勢の斎宮の御殿に勅使として参上していたところ、その斎宮の御殿で色好みの話をした女が、女房の立場をはなれて個人的な気持ちを表して、
神聖な神様の場所を囲んでいる垣を越えてしまいそうです。宮廷からおいでになった方にお逢いしたくて。
と詠んでよこした。男は、こう答えた。
恋しいなら飛び越えておいでなさい。神様は恋を禁じたりなんかしませんよ。
(注)ちはやぶる・・・「神」の枕詞。
(注)神の斎垣・・・神社の神域と世俗の世界を分ける垣根。侵してはならない結界。
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昔、男、伊勢の国なりける女、またえあはで、となりの国へ行くとて、いみじう恨みければ、女、
大淀の松はつらくもあらなくに うらみてのみもかへる浪かな
【現代語訳】
昔、ある男が、伊勢の国に住んでいた女に、また逢うこともなく、隣の尾張国へ行くことになってしまったといって、逢う機会を作ってくれなかった女をひどく恨んだので、女は、
大淀の松はつれなくあたっているわけでもないのに、その松に打ちかかろうともせず、浦を見ただけで、ただ松の無情を恨んで帰っていく浪であることです。
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昔、そこにはありと聞けど、消息(せうそこ)をだに言ふべくもあらぬ女のあたりを思ひける。
目には見て手にはとられぬ月のうちの 桂(かつら)のごとき君にぞありける
【現代語訳】
昔、その場所にいるとは聞くものの、便りさえ書き送ることができない女のことを思って、男が詠んだ。
目には見えていながら手に取ることのできない、あの月にあるという桂のようなあなたです。
(注)月のうちの桂・・・中国の伝説で、月にあるといわれた桂の樹のこと。
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昔、男、女をいたう恨みて、
岩根(いはね)踏み重なる山にあらねども あはぬ日多く恋ひわたるかな
【現代語訳】
昔、男が女をたいそう恨んで、
私たちを隔てているのは、大きな岩を踏んで行くような、幾重にも重なった険しい山ではないけれど、あなたと何日も逢えないまま、私はずっと恋しがっています。
(注)岩根・・・どっしり根を張った大きな岩。
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昔、男、「伊勢の国に率(ゐ)て行きて、あらむ」と言ひければ、女、
大淀(おほよど)の浜に生(お)ふてふみるからに 心はなぎぬ語らはねども
と言ひて、ましてつれなかりければ、男、
袖ぬれて海人(あま)の刈りほすわたつうみの みるをあふにてやまむとやする
女、
岩間(いはま)より生ふるみるめしつれなくは 潮干(しほひ)潮満ちかひもありなむ
また男、
涙にぞ濡れつつしぼる世の人の つらき心は袖のしづくか
世にあふことかたき女になむ。
【現代語訳】
昔、ある男が女に「あなたを伊勢の国に連れて行って、いっしょに住みたい」と言ったところ、その女は、
伊勢の大淀に生える海松(みる=海藻)を見にいくと伺い、お目にかかっただけで、私の心はすっかり安らかになりました。ですから、これ以上親しく睦言を交わさなくても十分です。
と言って、以前よりいっそう冷淡だったので、男が、
袖を濡らしながら漁夫が刈って干す海松を思ってみるだけで、いっしょに浜辺に行こうともしない。袖を涙で濡らして切にたのむ私の顔をちょっと見るだけで、親しく契り一緒に暮らすことの代わりにすませようとするのですか、あなたは。
女は、
岩間から生える海松布(みるめ)がずっと生いのびていれば、海水が引いたり満ちたりして貝がつくこともありましょう。私は今はあなたに逢う気はありませんが、このまま変わらず過ごしていれば、長く知り合っていた甲斐もきっとあるでしょう。
また男が、
私は涙に濡れながら袖を絞っています。冷たい人の心は、私の袖にたまる涙を絞ってしたたり落ちる滴(しずく)なのでしょうか。私をこのように悲しませて、平然としている。
まったく逢うことの難しい女であった。
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昔、二条の后(きさき)の、まだ春宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、近衛府(このゑづかさ)にさぶらひける翁(おきな)、人々の禄(ろく)たまはるついでに、御車よりたまはりて、詠みて奉りける。
大原や小塩(をしほ)の山も今日こそは 神代のことも思ひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし。
【現代語訳】
昔、二条の后(藤原高子)が、まだ皇太子の御息所と申し上げていた頃、藤原氏の氏神である大原野神社に参詣なさったが、その時、近衛府に仕えていた老人が、お供の人々がめいめい褒美を頂くついでに、一人だけ御息所の御車から直接頂いて、詠み奉った歌、
この大原の小塩の山も、今日こそは、ご子孫である御息所のご参詣に当たって、神代の昔を思い出されていることだろう。
と詠んだのは、翁は心の中で悲しいと思ったのであろうか、それとも別の思いがあったのか、それは分からない。
(注)御息所・・・天皇の妃のなかで、皇子皇女の生母の尊称。
(注)氏神・・・ここでは藤原氏の氏神である大原野神社(京都市西京区)。奈良の春日大社から分祀した社で、藤原氏の女性が入内の栄を得るよう祈願したという。
(注)翁・・・業平を暗示する。
(注)小塩の山・・・大原野神社の西にそびえる山。
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昔、田邑(たむら)の帝(みかど)と申す帝おはしましけり。その時の女御、多賀幾子(たかきこ)と申す、みまそかりけり。それ失せ給ひて、安祥寺(あんしやうじ)にてみわざしけり。人々ささげ物奉りけり。奉り集めたる物、千(ち)ささげばかりあり。そこばくのささげ物を木の枝につけて、堂の前に立てたれば、山もさらに堂の前に動きいでたるやうになむ見えける。それを、右大将にいまそがりける藤原の常行(つねゆき)と申すいまそかりて、講の終るほどに、歌詠む人々を召し集めて、今日のみわざを題にて、春の心ばへある歌奉らせ給ふ。右の馬の頭(かみ)なりける翁(おきな)、目はたがひながら詠みける。
山のみな移りて今日にあふことは 春の別れをとふとなるべし
と詠みたりけるを、いま見ればよくもあらざりけり。そのかみは、これやまさりけむ、あはれがりけり。
【現代語訳】
昔、田邑の帝と呼ばれた天皇(文徳天皇)がいらっしゃった。その時の女御で多賀幾子と申し上げる方がいらっしゃった。その方がお亡くなりになって、山科の安祥寺で法要が行われた。人々がお供え物を奉った。奉って集まったお供え物は千捧げほどもあった。たくさんの捧げ物を木の枝に結びつけて堂の前に立てると、まるで山のようであり、堂の前に動いて現れたように見えた。それを、右大将でいらした藤原常行と申し上げる方がいらっしゃって、講(経文)の終わる頃に、参加者の中で歌を詠む人たちを呼び集めて、今日の法要を題にして春の気持ちを詠んだ歌を奉らせた。右馬頭であった老人(業平を指す)が、捧げ物の山を本物の山と見間違えたまま詠んだ、
山がみな場所を移してきたのは、女御との別れを惜しむためでしょう。
と詠んだが、今見ればそれほど良い歌でもない。その当時はこの歌が他に優っていたのだろうか、人々は深く感じ入ったのだった。
(注)多賀幾子・・・藤原良相の第一女で、二条の后や染殿の后のいとこにあたる。
(注)藤原常行・・・藤原良相の嫡男。
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昔、多賀幾子(たかきこ)と申す女御おはしましけり。失せ給ひて、七七日(なななぬか)のみわざ、安祥寺にてしけり。右大将藤原の常行といふ人いまそかりけり。そのみわざにまうで給ひて、かへさに、山科(やましな)の禅師(ぜんじ)の親王(みこ)おはします、その山科の宮に、滝落し、水走らせなどして、おもろしく造られたるにまうで給ひて、「年ごろよそには仕うまつれど、近くはいまだ仕うまつらず。こよひはここにさぶらはむ」と申し給ふ。親王喜び給うて、夜のおましの設けせさせ給ふ。さるに、かの大将、いでてたばかりたまふやう、「宮仕への初めに、ただなほやはあるべき。三条の大御幸(おほみゆき)せし時、紀の国の千里(ちさと)の浜にありける、いとおもしろき石奉れりき。大御幸の後奉りしかば、ある人の御曹司(みぞうし)の前の溝にすゑたりしを、島好み給ふ君なり、この石を奉らむ」とのたまひて、御随身(みずいじん)、舎人(とねり)して取りにつかはす。いくばくもなくて持て来ぬ。この石、聞きしよりは見るはまされり。「これをただに奉らばすずろなるべし」とて、人々に歌詠ませ給ふ。右の馬の頭(かみ)なりける人のをなむ、青き苔をきざみて、蒔絵(まきゑ)の形(かた)にこの歌をつけて奉りける。
あかねども岩にぞかふる色見えぬ 心を見せむよしのなければ
となむ詠めりける。
【現代語訳】
昔、多賀幾子と申し上げる女御がいらっしゃった。お亡くなりになって、四十九日の法要を安祥寺で行った。右大将の藤原常行という方がいらっしゃった。その法要に参会なさって、その帰り道、山科に住む禅師の親王がおいでになる、その山科の宮に、滝を落とし、遣水を走らせなどして、趣深く造っておられるのに伺って、「長年、よそながらお仕えしておりましたが、まだお側近くでお仕えしたことがありません。今宵はここでお仕えしましょう」と申し上げた。親王はお喜びになって、夜の御寝所の用意をおさせになる。その間、右大将が親王の御前から下がって思案なさるには、「これからお仕えしようというのに、ただ何もしないでいられようか。そういえば、父の三条邸に帝の行幸があった時、紀の国の千里の浜にあったたいそう見事な石を献上しようとしたことがある。行幸の日に間に合わず、ある人の部屋の前の溝に置いておいたのだが、親王は数寄を凝らした庭園を好んでおられるので、この石を差し上げよう」とおっしゃって、御随身や舎人に命じて取りにおつかわしになる。すぐに持って来た。この石は、かねて聞いていたより実際に見るほうが優れていた。これをそのまま差し上げるのではつまらないだろうと、供の人々に歌をお詠ませになった。右馬の頭であった人の歌を、石の青い苔を刻んで、蒔絵の模様のようにこの歌をつけて差し上げたのだった。
決して満足していませんが、岩にかえて私の志をお届けします。私の気持ちは色となってお見せするすべが無いのですから。
と詠んだのだった。
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昔、氏(うぢ)のなかに親王(みこ)生まれ給へりけり。御産屋(うぶや)に、人々、歌詠みけり。御祖父(おほぢ)方なりける翁(おきな)の詠める、
わが門に千尋(ちひろ)あるかげを植ゑつれば 夏冬たれか隠れざるべき
これは貞数(さだかず)の親王、時の人、中将の子となむ言ひける。兄の中納言行平のむすめの腹なり。
【現代語訳】
昔、在原氏の中に親王がお生まれになった。その出産後の祝いに、人々が歌を詠んだ。その中で、親王の外祖父側の老人(業平)が詠んだ、
我ら一門に千尋も影のある竹を植えたからには、夏も冬も誰が隠れることができないであろうか、みな恩恵をこうむらないものはいないだろう。
これは貞数親王(清和天皇の第八皇子)のことである。当時の人々は、業平の子だと噂した。業平の兄の中納言行平の娘からお生まれになった方である。
(注)御産屋・・・ここでは出産後の産養(うぶやしない)の祝い。三夜、五夜、七夜、九夜にする。
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昔、おとろえたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり。弥生(やよひ)のつごもりに、その日、雨そほ降るに、人のもとへ折りて奉らすとて詠める、
濡れつつぞしひて折りつる年のうちに 春はいく日(か)もあらじと思へば
【現代語訳】
昔、家運の衰えた家に、藤の花を植えていた人がいた。三月の終わりごろ、その日は雨がしとしとと降っていたが、ある人のもとに藤を折り取って差し上げようとして詠んだ、
雨に濡れるのも構わず、強いてあなたに差し上げる藤の花を折りました。今年の春はもう幾日もないと思いましたので。
(注)おとろへたる家・・・在原家のことか。「藤」は藤原氏を暗示するか。
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昔、左の大臣(おほいまうちぎみ)いまそかりけり。賀茂河(かもがは)のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて住みたまひけり。神無月(かむなづき)のつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、紅葉(もみぢ)のちくさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿(との)のおもしろきをほむる歌詠む。そこにありけるかたゐ翁(おきな)、板敷の下にはひ歩きて、人にみな詠ませはてて詠める。
塩竃(しほがま)にいつか来にけむ朝なぎに 釣りする船はここに寄らなむ
となむ詠みけるは、陸奥(みちのくに)に行きたりけるに、あやしくおもろしき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竃といふ所に似たる所なかりけり。さればなむ、かの翁、さらにここをめでて、「塩竃にいつか来にけむ」と詠めりける。
【現代語訳】
昔、左大臣がおいでになった。賀茂川のほとりの六条あたりに、たいそう趣向を凝らした邸を造って住んでおられた。十月の末ごろ、菊の花が色変わりして美しい盛りである上に、紅葉が色さまざまに見える折、親王がたをお招きして、一晩中、酒宴をもよおして管弦を奏し、夜が次第に明けゆく頃に、人々はこの邸の趣深いのをほめる歌を詠んだ。そこに居合わせた身分の賤しい老人が、縁の板敷の下をうろうろして、一同に歌を詠ませ終わってから、詠んだ、
いつの間に塩竃の浦に来たのでしょうか。朝なぎの海に釣りをする舟は、みなここに寄って来て趣を添えてほしいものです。
と詠んだのは、以前、この老人が陸奥に行ったことがあり、味わい深く趣深い所が多くあったのだった。わが朝廷が支配される六十余国の中に、塩竃という所に及ぶほどの景色はなかった。だからこそ、この老人はことさらこの邸をすばらしいと思い、「塩竃にいつの間に来たのだろうか」と詠んだのだった。
(注)左の大臣・・・左大臣。源融(みなもとのとおる)のこと。嵯峨天皇の第十二皇子で、臣籍に下った。
(注)塩竈・・・宮城県塩竈市。松島への玄関口で、塩竃神社があり、その門前町として栄えた景勝地。
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昔、惟喬親王(これたかのみこ)と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬(みなせ)といふ所に、宮ありけり。年ごとの桜の花盛りには、その宮へなむおはしましける。その時、右馬頭(みぎのむまのかみ)なりける人を、常に率(ゐ)ておはしましけり。時世(ときよ)経て久しくなりにければ、その人の名を忘れにけり。狩りはねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩りする交野(かたの)の渚(なぎさ)の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、上中下(かみなかしも)、みな歌よみけり。馬頭(むまのかみ)なりける人の詠める、
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
となむ詠みたりける。また人の歌、
散ればこそいとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき
とて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ。御供なる人、酒を持たせて、野より出で来たり。この酒を飲みてむとて、よき所を求め行くに、天の河といふ所にいたりぬ。親王に、馬の頭、大御酒(おほみき)まゐる。親王ののたまひける、「交野(かたの)を狩りて、天の河のほとりにいたるを題にて、歌よみて、盃(さかづき)はさせ」とのたまうければ、かの馬の頭詠みて、奉りける。
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ 天の河原にわれは来にけり
親王、歌をかへすがへす誦じたまうて、返しえしたまはず。紀の有常(ありつね)、御供に仕うまつれり。それが返し、
一年(ひととせ)にひとたび来ます君待てば 宿かす人もあらじとぞ思ふ
帰りて宮に入らせ給ひぬ。夜ふくるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔(ゑ)ひて入りたまひなむとす。十一日の月も隠れなむとすれば、かの馬の頭の詠める、
飽かなくにまだきも月の隠るるか 山の端(は)逃げて入れずもあらなむ
親王にかはり奉りて、紀の有常、
おしなべて峰も平らになりななむ 山の端(は)なくは月も入らじを
【現代語訳】
昔、惟喬親王とおっしゃる親王がおられた。山崎(今の京都府大山崎町)の向こうの水無瀬という所に離宮があった。毎年、桜の花盛りのころにその離宮にお出かけになった。その折には、右馬頭だった人(業平のこと)をいつも連れていらっしゃった。時を経てだいぶん昔になったので、その人の名を忘れてしまった。親王のご一行は狩りはあまり熱心にもせず、ただ酒ばかりを飲んで、和歌を詠むことに夢中になっていた。ちょうど今、狩りをしている交野の渚の院の桜が格別に趣深い。一行はその木の下に馬から下りて座り、枝を折って飾りとして髪に挿し、身分の上下にかかわりなく皆で歌を詠んだ。右馬頭だった人が詠んだ歌は、
この世の中に全く桜というものがなかったならば、咲くのを待ち、散るのを惜しむこともなく、春の人々の気持ちはゆったりしていただろうに。
と詠んだ。また別の人は、
散るからこそ、いっそう桜には風情がある。いったい辛いこの世で何が永遠であろうか。
と詠んで、その木の下から立ち上がって帰ろうとしたら、もう辺りは日暮れになっていた。そこへ、御供の人が従者に酒を持たせて、狩場の野から出てきた。この酒を飲もうというので、いい場所を探して行くと、天の河という所に至った。親王に、右馬頭がお酒を差し上げる。親王が、「交野で狩りして天の河のほとりに到ったというのを題にして、歌を詠んで盃を差しなさい」とおっしゃったので、かの右馬頭が詠んで献上した。
日が暮れるまで狩りをして、今夜は織女に宿を借りましょう。天の河原に私は来たのです。
親王は、歌を返す返す口ずさまれて、感嘆のあまり返歌がおできにならない。ちょうど紀有常が御供に仕えていて、その返し、
一年に一度だけおいでになるお方を待っているのですから、宿など貸してはくれないでしょう。
親王一行は帰って、水無瀬の離宮にお入りになった。一同は、夜が更けるまで酒を飲み、物語して、主人である親王が、酔って御寝所にお入りになろうとする。折から十一日の月も雲間に隠れようとしていたので、あの右馬頭が詠んだ、
まだ満ち足りたわけでもないのに、月はもう山の端に隠れてしまうのですか。いっそ山の端が逃げていき、月を隠れさせないでいてほしいことです。
親王にお代わり申し上げて、紀有常が、
峰をならして平らにしてほしいものだ。山の端がなくなれば月もそこに沈むこともないだろうから。
(注)惟喬親王・・・文徳天皇の第一皇子で、紀有常の妹静子を母とする。業平とは、義理のいとこ同士にあたる。
(注)右馬頭・・・天皇の乗馬と宮中行事に使う馬を管理する、左右の馬寮のうち右馬寮の長官。業平が務めていた。
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昔、水無瀬(みなせ)に通ひ給ひし惟喬(これたか)の親王(みこ)、例の狩しにおはします供に、馬(むま)の頭(かみ)なる翁(おきな)仕うまつれり。日ごろ経て、宮に帰り給うけり。御おくりして、とくいなむと思ふに、大御酒(おほみき)たまひ、禄(ろく)たまはむとて、つかはさざりけり。この馬の頭、心もとながりて、
枕とて草ひき結ぶこともせじ 秋の夜とだに頼まれなくに
と詠みける、時は弥生(やよひ)のつごもりなりけり。親王、おほとのごもらであかし給うてけり。
かくしつつまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪(みぐし)おろし給うてけり。睦月(むつき)に、をがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡(ひえ)の山の麓(ふもと)なれば、雪いと高し。しひて御室(みむろ)にまうでてをがみ奉つるに、つれづれといと物がなしくておはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞こえけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、公事(おほやけごと)どもありければ、えさぶらはで、夕暮にかへるとて、
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや 雪みわけて君を見むとは
となむ、泣く泣く来にける。
【現代語訳】
昔、水無瀬の離宮に都からよく通っていらっしゃった惟喬親王が、いつもの鷹狩りをしにおいでになる御供として、馬寮の長官である老人(業平のこと)がお供した。何日か過ごして親王は都の宮にお帰りになった。馬寮の長官は都の宮までお送りして、すぐに自分の邸に戻ろうと思ったが、親王が御酒を下さり、ご褒美も下さるといって、なかなか帰そうとなさらなかった。馬寮の長官は帰宅のお許しを待ち遠しく思って、
今夜は旅先の仮寝の草枕をつくるために草を結ぶつもりはありません。秋の夜長のように頼みにできないはかない一夜ですから。
と詠んだ。時節は(陰暦)三月の末頃であった。しかし、親王は寝所にはお入りにならず、ともに夜を明かしてしまわれた。
このようなことを繰り返しながら、いつも親しくお仕えしていたのに、全く思いがけず、親王は剃髪してしまわれた。正月に、老人がお目にかかろうと小野に参上したが、比叡山のふもとなので、雪がたいそう深く積もっている。難儀を極めて親王の僧房に参上してお顔を拝見すると、親王は所在なげにたいそう物悲しげな様子でいらしたので、かなり長くお側にいて、昔話などを思い出してお聞かせした。このままお仕えしたいと思ったが、いろいろと公務などがあるので、伺候できずに夕暮れに都へ帰ることになり、
現実を忘れると、今のことを私は夢かと思います。訪れる人のない山里の深い雪を踏み分けて、このようなわび住まいをしていらっしゃるあなた様にお目にかかろうとは思いもしませんでした。
と詠んで、泣く泣く都に帰ってきた。
(注)翁・・・老人。40歳を初老とし、老いの始まりとした。惟喬親王が出家して小野に隠棲したのは貞観14年(872年)で、この時29歳。業平は46歳だった。親王はこの後25年にわたって隠棲される。
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昔、男ありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮仕へしければ、詣(まう)づとしけれど、しばしばえ詣でず。一つ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、師走(しはす)ばかりに、とみのこととて御文あり。おどろきて見れば、歌あり。
老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよみまくほしき君かな
かの子、いたううち泣きて詠める、
世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代(ちよ)もと祈る人の子のため
【現代語訳】
昔、ある男がいた。本人の官位は低かったが、母親は内親王であった。その母親は長岡という所に住んでおられた。その子である男は都で宮仕えしていたので、母親のもとに赴こうとしてもたびたびは参上できない。その子は一人っ子でもあったので、母親はたいそう愛しがっていらっしゃった。ところが十二月ごろに、急用といって母親の手紙が届いた。驚いて開けてみると歌が書かれていた。
年老いてしまえば、避けることのできない死別があり、ますます逢いたいあなたです。
その子がたいそう泣いて詠んだ歌、
この世に避けられない死別などなければよいのに。親に千年も生きてほしいと祈る人の子のために。
(注)業平の母は桓武天皇の皇女、伊都(いと)内親王。
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昔、男ありけり。童(わらは)より仕うまつりける君、御髪(みぐし)おろし給うてけり。睦月(むつき)にはかならずまうでけり。おほやけの宮仕へしければ、常にはえまうでず。されど、もとの心うしなはでまうでけるになむありける。昔仕うまつりし人、俗なる、禅師(ぜんじ)なる、あまた参り集まりて、睦月(むつき)なればことだつとて、大御酒(おほみき)たまひけり。雪こぼすがごと降りて、ひねもすにやまず。みな人酔(ゑ)ひて「雪に降りこめられたり」といふを題にて、歌ありけり。
思へども身をしわけねば目かれせぬ 雪の積もるぞわが心なる
と詠めりければ、親王、いといたうあはれがり給うて、御衣(おほんぞ)ぬぎてたまへりけり。
【現代語訳】
昔、ある男がいた。子どもの頃からお仕えしていた御主君(惟喬親王)が出家しておしまいになった。その後も男は、正月には必ず参上した。男は宮仕えしていたので、いつもは参上できないが、それまでの忠誠心を失うことなく、正月には必ず参上したのだった。昔お仕えした者のうち、僧でない在俗の人も出家して法師になっている人も大勢がやって来て集まり、正月なのであらたまって祝儀をするというので御酒をくださった。雪がまるで空の器をかたむけてこぼしたように激しく降り、一日中やまない。人々はみな酔って、「雪にひどく降られて外に出られなくなった」ことを題にして歌を詠んだ。男が、
いつも大切にお慕いしていても、身体を二つに分けられませんので平素はご無沙汰ばかりで、この雪のように思いは積もり積もっていましたが、見る見る降りつもる雪で帰れなくなり、私の思いが通じたのでしょう。
と詠んだので、親王はとても感動なされ、御召し物を脱いでごほうびに下さった。
(注)童より仕うまつりける君・・・惟喬親王と業平の関係を暗示するが、実際は業平が19歳年長。
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昔、いと若き男、若き女をあひ言へりけり。おのおの親ありければ、つつみて言ひさしてやみにけり。年ごろ経て、女のもとに、なほ心ざし果たさむとや思ひけむ、男、歌を詠みてやれりけり。
今までに忘れぬ人は世にもあらじ おのがさまざま年の経ぬれば
とてやみにけり。男も女も、あひ離れぬ宮仕へになむいでにける。
【現代語訳】
昔、たいそう若い男が、若い女と情を通わせ合っていた。それぞれに親があったので、気兼ねして、中途で付き合いをやめてしまった。何年か経って、女のもとに、やはり思いを果たそうと思ったのだろうか、男が歌を詠んでおくった。
今まで忘れるずにいる人なんてまさかいないだろう。お互いに別の時を過ごしてきたのだから。
と詠んで、それきりになってしまった。男も女も、離れることのできない宮仕えに出ていたのだった。
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昔、男、津の国、菟原(むばら)の郡(こほり)、蘆屋(あしや)の里に、しるよしして、行きてすみけり。昔の歌に、
蘆の屋の灘(なだ)の塩焼きいとまなみ 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)もささず来にけり
と詠みけるぞ、この里を詠みける。ここをなむ蘆屋の灘とはいひける。この男、なま宮づかへしければ、それを頼りにて、衛府(ゑう)の佐(すけ)ども集り来にけり。この男の兄(このかみ)も衛府の督(かみ)なりけり。その家の前の海のほとりに遊び歩(あり)きて、「いざ、この山の上(かみ)にありといふ布引(ぬのびき)の滝、見にのぼらむ」と言ひて、のぼりて見るに、その滝、ものよりことなり。長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹(しらぎぬ)に岩をつつめらむやうになむありける。さる滝の上(かみ)に、藁座(わらうだ)の大きさして、さしいでたる石あり。その石の上に走りかかる水は、小柑子(せうかうじ)、栗の大きさにてこぼれ落つ。そこなる人にみな滝の歌詠ます。かの衛府の督、まづ詠む、
わが世をば今日(けふ)か明日(あす)かと待つかひの 涙の滝といづれ高けむ
あるじ、次に詠む、
ぬき乱る人かそあるらし白玉(しらたま)の まなくも散るか袖(そで)のせばきに
と詠めりければ、かたへの人、笑ふことにやありけむ、この歌にめでてやみにけり。
帰り来る道遠くて、うせにし宮内卿(くないきやう)もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。宿りの方(かた)を見やれば、海人(あま)の漁火(いさりび)多く見ゆるに、かのあるじの男、詠む、
晴るる夜の星か河辺の蛍(ほたる)かも わが住むかたの海人のたく火か
と詠みて、家に帰り来ぬ。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、その家の女(め)の子どもいでて、浮き海松(みる)の浪に寄せられたるひろひて、家の内に持て来ぬ。女方(をむながた)より、その海松を高杯(たかつき)にもりて、柏(かしは)をおほひていだしたる、柏に書けり。
わたつみのかざしにさすといはふ藻(も)も 君がためにはをしまざりけり
ゐなかの人の歌にては、あまれりや、たらずや。
【現代語訳】
昔、ある男が、津の国の菟原の郡、蘆屋の里に領地があったので、そこへ行って住んでいた。昔の歌に、
蘆屋の灘の塩焼きに忙しい海女は、黄楊の櫛もささずにあわてて来たことだ。
と詠まれたのは、この里のことだった。ここを蘆屋の灘と言ったのだ。この男は、そう高い身分ではなかったが、宮仕えをしていたので、その縁で衛府の佐(次官)などが遊びにやってきた。この男の兄(行平)も衛府の督(長官)であった。一行はその家の前の海辺を見てまわって、「さあ、この山の上にあるという布引の滝を見に登ろう」と言って、登ってみると、その滝は並の滝とは大いに様子が違っていた。長さは二十丈(60m)、広さは五丈(15m)ほどの岩の上に滝が打ちつけて、まるで白絹で岩を包んだように見える。そのような滝の上に、藁座ほどの大きさで、突き出た石がある。その石の上を走る水は、小さな蜜柑や栗の大きさほどの滴となってこぼれ落ちている。男は、そこにいた人皆に滝の歌を詠ませた。かの衛府の督がまず詠んだ。
私の世がときめくのは今日か明日かと待つ甲斐もなく流れる涙と、この滝とどちらが高いだろう。
主人である男が次に詠んだ。
滝の上で、玉の緒を引き抜いて乱れ飛ばしている人があるらしい。それを受ける私の袖はこんなに狭いのに。
と詠んだところ、傍らにいた人は妙な気分になってきたらしく、この歌に感心したことにして、歌を詠むことをやめてしまった。
そこから帰りの道のりは遠くて、亡くなった宮内卿(宮内省の長官)もちよしの家の前を通りかかった頃、日が暮れてしまった。我が家の方を眺めると、海人のたく漁火が多く見えるので、主人の男が詠んだ。
あれは晴れた夜空の星だろうか、それとも川辺の蛍だろうか、それとも我が家のあたりの海人の漁火だろうか。
と詠んで、一行は家に帰ってきた。その夜、南風が吹いて波がたいそう高かった。翌朝早く、その家の召使の女たちが、海岸へ出て、浮き海松が波で寄せられたのを拾って家に持って来た。奥方の居所の方から、その海松を高杯に盛って、柏の葉をかぶせて客前に差し出したが、その柏には、
海の神が冠の飾りに挿すために大切になさるという藻を、あなたのために惜しみなく流れ寄せてくれたのでしょう。
と書いてあった。田舎の女の歌としては、出来はよいのだろうか、それとも今一つであろうか。
(注)蘆屋・・・現在の兵庫県芦屋市付近。
(注)藁座・・・藁製の円形の敷物。
(注)浮き海松・・・根が切れて海面にただよっている海松。
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昔、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集まりて、月を見て、それが中にひとり、
おほかたは月をもめでじこれぞこの 積もれば人の老いとなるもの
【現代語訳】
昔、それほど若くない年頃の、誰かれと友人たちが集まって、月を眺め、その中の一人が詠んだ、
世間の人たちのように、月を賞美するのはやめよう。月が重なれば、老いていくものだから。
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昔、いやしからぬ男、われよりはまさりたる人を思ひかけて、年経ける。
人知れず我(われ)恋ひ死なばあぢきなく いづれの神になき名負ほせむ
【現代語訳】
昔、そう身分が低くもない男が、自分より身分の高い女に思いをかけて、何年も過ぎた。
私が人知れず恋のために死んだなら、どんな祟りで死んだのかと、世間の人はどの神のせいにして噂するのだろうか。
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昔、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、あはれとや思ひけむ、「さらば、明日、物越しにても」と言へりけるを、限りなくうれしく、又うたがはしかりければ、おもしろかりける桜につけて、
桜花けふこそかくもにほふとも あな頼みがた明日の夜のこと
といふ心ばへもあるべし。
【現代語訳】
昔、ある男が、つれなくて少しも相手にしてくれない女を、何とかして自分のほうに気持ちを向かせたいと思い続けていたところ、女がその気持ちに心が動いたのか、「では、明日、几帳か簾(すだれ)を隔ててでもお逢いしましょう」と言ったので、男はとても嬉しく思い、また一方で女の言葉が本心かどうか疑いの気持ちを抱かずにいられなかったので、美しく咲いた桜の枝につけて、
桜の花が今日はこんなに美しく咲いていても、明日の夜にも同じかどうかはあてにできません。
という歌をおくったが、長い間つれなくされてきただけに、このような気持ちになるのも当然だろう。
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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