巻第15-3578~3579
3578 武庫(むこ)の浦の入江(いりえ)の渚鳥(すどり)羽(は)ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし 3579 大船(おほふね)に妹(いも)乗るものにあらませば羽(は)ぐくみ持ちて行かましものを |
【意味】
〈3578〉武庫川の河口付近の入江に巣くう水鳥が羽で包むように私を愛してくれたあなた、そのあなたと離れては、私は恋い焦がれて死んでしまいそうです。
〈3579〉大きな船にお前を乗せて行けるものであったなら、羽で包んでそっと抱えて行きたいものを。
【説明】
巻第15の前半は、天平8年(736年)に新羅国(朝鮮半島南部にあった国)に外交使節として派遣された使人たちの歌が145首収められており、その総題として「遣新羅使人ら、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情をいたみ思を陳べ、併せて所に当りて誦ふ古歌」とあります。一行が難波を出航したのは6月だったとされます。なお、遣新羅使は、571年から882年まで約3世紀にわたって派遣されましたが、『万葉集』に出てくるのは天平8年に派遣された遣新羅使たちの歌のみです。
この時の遣新羅大使に任命されたのは阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)、副使は大伴三中(おおとものみなか:三中とも)、使節団の人数は総勢200人前後だったとみられ、遣唐使は4隻で船団を組みましたが、遣新羅使は何隻だったかは分かりません。歌が詠まれた場所をたどっていくと、難波を出航後、瀬戸内の岸辺伝いに各港や九州の能古島、対馬などを経て新羅に向かったことが窺えます。しかしながら、これらの歌が詠まれた時の新羅国と日本の関係は必ずしも良好ではなかったため、使節の目的は果たせなかったばかりか、往路ですでに死者を出し、帰途には大使が病死するなど、払った犠牲に対し成果が全く得られなかった悲劇的な使節でした。
副使の大伴三中は大伴家持の同族であり、同人が作った歌も2首含まれています。遣新羅使人らの歌は、往路で詠まれた140首、帰路で詠まれた5首からなり、三中がそれらを記録して、後に家持らに伝わったものとみられています。ただ、作者名が明記された歌と作者名が記されていない歌があります。
3578は遣新羅使として旅立つ夫を送る妻の歌。「武庫の浦」は、兵庫県の武庫川の河口付近の海。 難波を出た使人たちの最初の宿泊地だったとされます。当時の船旅は、夜になると陸に上がって宿泊するのが普通でした。「渚鳥」は、洲にいる水鳥。「羽ぐくむ」は「育む」の語源となった言葉で、親鳥が羽で包んでひなを育てる意。「恋に死ぬべし」の「べし」は、推量。3579は、夫が答えた歌。「・・・せば・・・まし(もの)を」の表現は『万葉集』にしばしば見られ、ありえないことを空想し、それを願望する心を表しています。
巻第15-3580~3581
3580 君が行く海辺(うみへ)の宿(やど)に霧(きり)立たば我(あ)が立ち嘆く息(いき)と知りませ 3581 秋さらば相見(あひみ)むものを何(なに)しかも霧(きり)に立つべく嘆きしまさむ |
【意味】
〈3580〉旅の途上の海辺の宿に霧が立ち込めたなら、私が門に立ち出てはため息をついていると気づいて下さい。
〈3581〉秋になったら必ず逢えるのに、どうして霧となって立ち込めるほどに嘆くのか。
【説明】
3580は、遣新羅使として旅立つ夫を送り出す妻の歌、3581は、それに答えた夫の歌。3580の「宿」は、夜は船を海岸に繋ぎ、上陸して宿るときに建てる仮小屋。「知りませ」の「ませ」は、敬語の助動詞「ます」の命令形。3581の「秋さらば」は、秋になったら。「何しかも」の「し」は強意、「かも」は疑問の係助詞で、どうして~か。「嘆きしまさむ」の「しまさむ」は「せむ」の敬語。
当時の船旅は現代とは違い、たいへん危険なものでしたから、海上に霧が立ち込めると、視界が悪くなり安全を保てなくなります。夫を待つ妻の心の不安が霧という形で表現されていますが、一方で、古代の人たちは、吐息には魂が宿り、霧になると考えていました。妻は、自分の魂の込もった霧によって夫の身の安全を守りたいとも言っているように感じられます。そんな妻に対して夫は、事なげに言って妻を安心させようとしており、窪田空穂は、「この軽く言い去っていることがすなわち温情なのである。陰影を持った歌である」と述べています。この時の使節は、夏の4月に出発し秋に戻ってくる予定でしたが、気候の影響からか、出航は6月にずれ込んでしまったのでした。
巻第15-3582~3583
3582 大船(おほふね)を荒海(あるみ)に出(い)だしいます君(きみ)障(つつ)むことなく早(はや)帰りませ 3583 真幸(まさき)くて妹(いも)が斎(いは)はば沖つ波(なみ)千重(ちへ)に立つとも障(さは)りあらめやも |
【意味】
〈3582〉大船を荒海に出して旅行きなさろうするあなた。どうか何の禍もなく、早くお帰りなさいませ。
〈3583〉あなたが無事でいてくれて、身を清めて神に祈っていてくれれば、沖の波がどれほど激しく立とうとも、旅の支障は何もない。
【説明】
3582は、妻が夫の道中の無事を祈った歌、3583は、夫がそれに答えた歌。3582の「荒海(あるみ)」は「あらうみ」の約。「います」は「行く」の敬語。「障む」は、障害があること。「帰りませ」の「ませ」は、敬語の助動詞の命令形。3583の「真幸くて」は、無事で。「斎ふ」は、身を清めて神に祈ること。「沖つ波」は、沖の波。「あらめやも」の「や」は反語、「も」は詠嘆。
なお、『万葉集』には、防人歌以外には、父母が旅の無事を祈る歌はなく、都人の旅の歌は、恋人や妻と離れる辛さを詠むという共通性をもっています。父母にとってもその辛さや嘆きは同じであったはずなのに、不自然にもそれが見当たらないのは、旅の歌にあっては妻や恋人への思いを詠むものであるという共通の了解が成立していたことが分かります。それが旅の歌における美意識とされたようなのです。
巻第15-3584~3585
3584 別れなばうら悲(がな)しけむ我(あ)が衣(ころも)下(した)にを着(き)ませ直(ただ)に逢ふまでに 3585 我妹子(わぎもこ)が下(した)にも着よと贈りたる衣の紐(ひも)を我(あ)れ解(と)かめやも |
【意味】
〈3584〉お別れしたら、さぞもの悲しいことでしょう。私のこの着物を肌身に着ていらしてください、直接お逢い出来る日が来るまで。
〈3585〉愛しいお前が、肌身離さずといって贈ってくれたこの着物の紐、それを解くことなどということがあろうか。
【説明】
3584が妻の歌。3585が夫の歌。3584の「うら悲しけむ」の「うら」は、心、すなわち人間の内面を示し、しばしば心情を示す形容詞や動詞と複合語をなします。「うら泣く」「うら悲し」「うら恋ひ」など。「下にを」は、夫の肌に直接添わせる意と、人目に目立たないようにとの意を含んでいます。妻がその身に着けている衣を夫に着せようとするのは、自身の霊を夫の身に添わせようとする、上代の信仰によるものでした。「直に」は、直接に。3585では、夫は「衣の紐を我れ解かめやも」と言って、妻の霊を身から離すことはない、また、貞操を守ることを誓っています。「やも」の「や」は反語、「も」は詠嘆。
巻第15-3586~3588
3586 我(わ)が故(ゆゑ)に思ひな痩(や)せそ秋風の吹かむその月(つき)逢はむもの故(ゆゑ) 3587 栲衾(たくぶすま)新羅(しらき)へいます君が目を今日(けふ)か明日(あす)かと斎(いは)ひて待たむ 3588 はろはろに思ほゆるかも然(しか)れども異(け)しき心を我(あ)が思はなくに |
【意味】
〈3586〉私のために思い悩んで痩せたりなどしないでおくれ。秋風が吹き始めるその月には、きっと逢えるのだから。
〈3587〉はるばる新羅の国へお出かけになるあなたにお逢いできる日を、今日か明日かと、身を清めてはずっとお待ちしています。
〈3588〉遙か遠くにいらっしゃると思われるけれども、移り心などを抱こうなどとは、私は決して思いません。
【説明】
3586は、妻を慰めて安んじさせようとする夫の歌。「な痩せそ」の「な~そ」は、禁止。「秋風の」とあるのは、帰朝は秋になると予定していたことによります。夫は、旅の性質には触れず、ただ速やかに帰ってくることだけを言っています。窪田空穂は、「男性的な心からの柔らかい歌であり、『故』という語が二回まで用いられているが、よくこなれて、むしろ調子を助けるものとなっている」と述べています。
3587・3588は、それに妻が答えた歌。3587の「栲衾」の「栲」は楮(こうぞ)で、その繊維で織った衾が白いところから、色が白い意で「新羅」の枕詞としたもの。「います」は「行く」の敬語。「斎ふ」は、吉事を祈って禁忌を守る。3588の「はろはろ」は、遥かに遠いさま。「異しき心」は、あだし心、夫に背く心。当時の夫婦は別居で、関係も秘密にしている場合が多かったため、しばしばこうした誓いの歌が詠まれています。もっとも、この夫妻は相応の身分があり、秘密の間柄にある夫婦ではなかったはずですが、場合が場合なだけに、あえて誓いの歌を詠んで、夫の心を慰めたものとみられます。
巻第15-3589~3590
3589 夕(ゆふ)さればひぐらし来(き)鳴く生駒山(いこまやま)越えてぞ我(あ)が来る妹(いも)が目を欲(ほ)り 3590 妹(いも)に逢はずあらばすべなみ岩根(いはね)踏む生駒(いこま)の山を越えてぞ我(あ)が来る |
【意味】
〈3589〉夕方になるとひぐらしがやって来て鳴く生駒山を越え、私はやってきた。妻の顔が見たくて。
〈3590〉妻に逢わないでいるとどうにもやるせなくて、険しい生駒の山を越え、私は妻のもとにやって来たのだ。
【説明】
難波で出航待ちをしている間に暇ができたので、妻に逢うため、はるばる奈良に帰った時の歌。現代なら「役人がそんなことをして」と責められるところでしょう。左注に、秦間満(はたのはしまろ)の歌とあり、渡来系の人ながら伝未詳。3589の「夕されば」は夕方になると。「生駒山」は、奈良県生駒市と大阪府東大阪市の県境にある山。「目を欲り」は、逢いたくて。3590の「すべなみ」は、どうしようもなく辛いので。「石根踏む」の「石根」は岩で、生駒山が険しいことの形容。
当時の奈良・難波間の交通路は、生駒山脈南部の龍田山(たつたやま)を越える「龍田越え」の道が多く利用され、生駒山を越える道(直越え:ただごえ)は急峻ながら、最短ルートとして使われていたようです。夕暮れの生駒山を越えて行くというのは、少しでも早く愛する妻に逢いたかったためでしょう。おそらく暗峠(くらがりとうげ)を越えたと思われます。
巻第15-3591~3594
3591 妹(いも)とありし時はあれども別れては衣手(ころもで)寒きものにそありける 3592 海原(うなはら)に浮寝(うきね)せむ夜(よ)は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに 3593 大伴(おほとも)の御津(みつ)に船乗(ふなの)り漕ぎ出(で)てはいづれの島に廬(いほ)りせむ我(わ)れ 3594 潮(しほ)待つとありける船を知らずして悔(くや)しく妹(いも)を別れ来(き)にけり |
【意味】
〈3591〉妻と一緒に寝ていたときでも寒いときはあったけれど、別れて来てみると、衣の袖口がこんなに寒いものとは、今まで気づかなかった。
〈3592〉海原に船を浮かべて仮寝をする夜には、沖の風よ、あまりひどくは吹かないでくれ、いとしい妻も傍にいないのだから。
〈3593〉難波の港で船に乗り込み、沖へ漕ぎ出てしまったら、どこのどんな島で仮の宿りをすることになるのだろうか、我らは。
〈3594〉船は潮を待って停泊していると知らないで、あわてて妻と別れてきてしまったのが悔しい。
【説明】
難波の港からの出航に臨んで作った歌。3591の「衣手」は、袖。「衣手寒き」は、実際の出立は夏でしたから、ここでは独り寝の寂しさを表す歌語となっています。3592の「浮寝」は、港に停泊せず海上の船中で寝ること。「な吹きそ」の「な~そ」は、禁止。3593の「大伴の御津」は、難波の港のこと。「大伴」は、大阪市住吉区を中心とした地域。「廬り」は、旅先などで仮小屋に泊まること。3594の「潮待つ」は、船出に適した潮の加減を待つことで、ひと月の間では新月または満月の時が最適とされました。
これら遣新羅使人らの歌に特徴的なことの一つが、望郷の念、すなわち妻への思慕が基調となっており、外交使節団としての使命感や、前途を思って勇躍しているといった性質の歌がまったく見られないことです。
巻第15-3595~3599
3595 朝開(あさびら)き漕ぎ出(で)て来れば武庫(むこ)の浦の潮干(しほひ)の潟(かた)に鶴(たづ)が声すも 3596 我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)に見むを印南都麻(いなみつま)白波(しらなみ)高み外(よそ)にかも見む 3597 わたつみの沖つ白波立ち来(く)らし海人娘子(あまをとめ)ども島隠(しまがく)る見ゆ 3598 ぬばたまの夜(よ)は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり 3599 月読(つくよみ)の光を清み神島(かみしま)の磯廻(いそみ)の浦ゆ船出(ふなで)す我(わ)れは |
【意味】
〈3595〉朝早くに船を漕ぎ出してきたら、武庫川の河口あたりの干潟に、鶴の鳴く声がしていた。
〈3596〉妻を偲ぶよすがと思って印南都麻の方向を見ようとしたが、白波が高くて、遠くからではよく見えない。
〈3597〉海の神が沖に白波を立てている。折しも、海人乙女らの舟が島陰へと消えて行くのが見える。
〈3598〉夜がようやく明けていくようだ。玉の浦で餌をあさる鶴が鳴き渡っていく声が聞こえる。
〈3599〉月の光が清らかなので、それを頼りに、神島の磯の入江の港から船出をするのだ、我々は。
【説明】
ここからは船に乗り海路に入って作った歌。3595の「朝開き」は、船出を表す語。「鶴が声すも」は、妻を呼ぶ鶴の声として歌っています。「武庫の浦」は、兵庫県を流れる武庫川の河口付近の海。早朝に武庫の浦を出発した一行は今の西宮、芦屋の海岸沿いを西に進みました。3596の「印南都麻」は、加古川河口付近の地名。この地は景行天皇の印南別嬢(いなみのわきのいらつめ)への求婚話(『播磨国風土記』)に出ており、その伝説を知っていたのでしょう。3597の「わたつみ」は、海の神。「立ち来らし」の「らし」は、根拠に基づく推量。3598の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「玉の浦」は、岡山県玉野市の玉、あるいは倉敷市玉島あたりか。3599の「月読」は、月を神と見立てた語。「清み」は、清いので。「神島」は、岡山県笠岡市神島(こうのしま)あるいは広島県福山市神島町(かしまちょう)のいずれかと考えられています。
巻第15-3600~3604
3600 離(はな)れ礒(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも 3601 しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木(き)離(はな)れてあるらむ 3602 あをによし奈良の都にたなびける天(あま)の白雲(しらくも)見れど飽(あ)かぬかも 3603 青楊(あをやぎ)の枝(えだ)伐(き)り下ろし斎種(ゆだね)蒔(ま)きゆゆしき君に恋ひわたるかも 3604 妹(いも)が袖(そで)別れて久(ひさ)になりぬれど一日(ひとひ)も妹(いも)を忘れて思へや |
【意味】
〈3600〉離れ島の磯に立っているあのむろの木は、きっと途方もなく長い歳月を経てきたのだろうな。
〈3601〉ほんのしばらくの間でも、独りっきりでいられるものではないのに、離れ島のあのむろの木は、どうしてあんなに離れて独りでいられるのだろう。
〈3602〉奈良の都にたなびいているあの白雲は、見ても見ても見飽きることがない。
〈3603〉青柳の枝を神に捧げ、浄めた種籾をまくように、恐れつつしむべき君、そんなあなたさまに焦がれ続けています。
〈3604〉妻の袖と別れてからずいぶん月日が経つが、一日たりと彼女のことを忘れることができない。
【説明】
3600・3601は同じ人が詠んだ連作で、3600の「むろの木」は、鞆の浦(福山市鞆町)のむろの木、ネズの古名。「うたがたも」は、ひとえに、きっと、の意か。3601の「しましく」は、しばらく。「あれや」は、反語。「らむ」は、現在推量の助動詞。3602は、左注に「雲を詠める」とある歌。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「見れど飽かぬかも」は、景色を褒める成句。空に浮かぶ白雲を眺め、奈良の都の空を思慕しています。窪田空穂は、「心の拡がりの広い、形のおおらかに美しい、すぐれた歌」と評しています。
3603は、女が男を恋うている歌。上3句は同音反復で「ゆゆしき」を導く序詞。「青楊の枝伐り下ろし」は、青柳の枝を苗代に挿して稲の発育を祈る神事のことを言っています。柳は、枝を湿地にさし立てるだけで根をおろすことがあるほど生命力の旺盛な樹木であるため、呪力をもつ神木と考えられていました。「斎種」は、忌み浄めた種籾。「ゆゆしき」は、恐れつつしむべき。「恋ひわたるかも」は、恋い続けていることであるよ、との詠歎。
なお、3602~3611の10首には「所にありて誦詠(しょうえい)する古歌」との題詞が付されており、難波津を出航して、長井浦(広島県三原市糸崎の海岸)までの間に、旅愁を慰めるために誦われた古歌という形になっています。古歌といっても、柿本人麻呂の歌が多く、この時代とそれほど隔たりのあるものではありません。
巻第15-3605~3609
3605 わたつみの海に出(い)でたる飾磨川(しかまがは)絶えむ日にこそ我(あ)が恋やまめ 3606 玉藻(たまも)刈る処女(をとめ)を過ぎて夏草の野島(のしま)が崎に廬(いほ)りす我(わ)れは 3607 白たへの藤江(ふぢゑ)の浦に漁(いざ)りする海人(あま)とや見らむ旅行く我(わ)れを 3608 天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)を恋ひ来れば明石(あかし)の門(と)より家のあたり見ゆ 3609 武庫(むこ)の海の庭(には)よくあらし漁(いざ)りする海人(あま)の釣舟(つりぶね)波の上ゆ見ゆ |
【意味】
〈3605〉大海に流れ出るあの飾磨川の流れが、もし絶えることでもあれば、わが恋心も止むだろうが。
〈3606〉美しい藻を刈る乙女の名の浜を通り過ぎ、夏草が生い茂る野島の崎で仮の宿りをしている、私は。
〈3607〉藤江の浦で漁をする海人だと人は見ているだろうか。そうではなく、都を離れてはるばる船旅を続けている我らであるのに。
〈3608〉都から遠く離れた長旅を、ずっと恋しい思いで明石海峡までやってきたら、その先にふるさとの家のあたりが見える。
〈3609〉武庫の海の漁場は好天で波も穏やかであるらしい。釣りをしている海人の釣舟が波の彼方に浮かんで見える。
【説明】
題詞に「所にありて誦詠(しょうえい)する古歌」とある歌群のなかの5首。3605の「飾磨川」は、姫路市を流れる船場川。3606の「玉藻刈る」は「処女」の枕詞。「処女」は、芦屋市から神戸市東部にかけての、菟原処女(うないおとめ)の伝説がある地で、「処女塚」があります。この歌は柿本人麻呂の「玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ」(巻第3-250)を変化させており、作者は人麻呂の歌に非常な敬意を抱いていたらしく、3607~3609も同様に人麻呂の歌を変化させています。当時の人たちが、どのような形で有名な古人の歌を愛誦してきたかが窺えるところです。
3607の「白たへの」は「藤江」の枕詞。「藤江」は、明石市西部。3608、3609は、帰路の旅情を詠ったもので、帰心の思いを人麻呂歌に託しています。3608の「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は、都から遠い地方。「明石の門」は、明石海峡。3609の「武庫の海」は、尼崎市から西宮市にかけての海。なお、人麻呂の元歌は、3607が巻第3-252、3608が巻第3-255、3609が巻第3-256です。
巻第15-3610~3614
3610 安胡(あご)の浦に舟乗りすらむ娘子(をとめ)らが赤裳(あかも)の裾(すそ)に潮(しほ)満つらむか 3611 大船(おほぶね)に真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き海原(うなはら)を漕ぎ出て渡る月人壮士(つきひとをとこ) 3612 あをによし奈良の都に行く人もがも 草枕(くさまくら)旅行く船の泊(とま)り告(つ)げむに 3613 海原(うなはら)を八十島(やそしま)隠(がく)り来(き)ぬれども奈良の都は忘れかねつも 3614 帰るさに妹(いも)に見せむにわたつみの沖つ白玉(しらたま)拾(ひり)ひて行かな |
【意味】
〈3610〉安胡の浦で舟遊びをしている乙女たちの赤裳の裾が濡れているが、今しも潮が満ちてきたようだ。
〈3611〉大船に多くの櫂を取りつけて、海原を漕ぎ出して夜空を渡っていく月の若者よ。
〈3612〉あの懐かしい奈良の都へ行く人がいてほしい。そしたら、苦しい船旅の泊まりどころを知らせることができるのに。
〈3613〉海原を、多くの島々の間を縫いながらはるばるやってきたけれど、奈良の都は忘れようにも忘れられない。
〈3614〉帰った時に愛しい妻に見せたいから、海の沖で取れる真珠を拾っていきたい。
【説明】
3610~3611は、前に続き、題詞に「所にありて誦詠(しょうえい)する古歌」とある歌群のなかの2首。3610は、3606~3609と同様に人麻呂の歌(巻第1-40)を変化させて作っています。「安胡の浦」は、所在未詳。3611は、左注に七夕を詠んだ人麻呂の歌とあるものの、巻第10にある『人麻呂歌集』の七夕の歌38首の中には見えません。「真楫」の「真」は接頭語で、船を漕ぐための道具の総称。「しじ貫き」は、たくさん取り付けて。「月人壮士」は、月を擬人化した語。
3612~3614は、備後国の水調郡(みつきのこおり)長井の浦(広島県三原市糸崎の海岸)に停泊した夜に作った歌。3612は、大判官(副使の次の位)壬生使主宇太麻呂(みぶのおみうだまろ)が作った旋頭歌(5・7・7・5・7・7)。「あをによし」「草枕」はそれぞれ「奈良」「旅」の枕詞。「もがも」は、願望。3613の「八十島隠り」は、多くの島の陰に隠れながら。3614の「帰るさ」は、帰る時。「わたつみ」は、海の神で、海を神格化した表現。「拾ひ(ひりひ)」は「ひろう」の古語。「行かな」の「な」は、願望。
巻第15-3615~3619
3615 我(わ)がゆゑに妹(いも)嘆くらし風早(かざはや)の浦の沖辺(おきへ)に霧(きり)たなびけり 3616 沖つ風いたく吹きせば我妹子(わぎもこ)が嘆きの霧に飽(あ)かましものを 3617 石走(いはばし)る滝(たき)もとどろに鳴く蝉(せみ)の声をし聞けば都し思ほゆ 3618 山川(やまがは)の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも 3619 礒(いそ)の間ゆたぎつ山川(やまがは)絶えずあらばまたも相(あひ)見む秋かたまけて |
【意味】
〈3615〉私のために彼女が溜息をついているらしい。ここ風早の浦の沖に霧が一面に立ち込めているのを見ると。
〈3616〉沖からの風が激しく吹いてくれたなら、彼女の嘆きの霧がただよってきて、心ゆくまで包まれていられるものを。
〈3617〉岩にとどろく激しい流れのように、しきりに鳴き立てる蝉の声を聞くと、都が恋しく思われる。
〈3618〉山あいの清らかな川瀬で遊んでみたけれど、奈良の都はどうしても忘れることができない。
〈3619〉岸辺の岩の間を激しく流れる谷川が絶えないように無事でいられたら、また重ねて相見えよう、秋になって。
【説明】
3615・3616は、風早の浦に停泊した夜に作った歌で、同じ作者の連作とされます。「風早」は、東広島市安芸津町の西部あたりの海岸。3615の「嘆くらし」の「らし」は強い推量で、妻のつく溜息を霧に見立てています。3616の「沖つ風」は、沖の風。「いたく」は、激しく。「嘆きの霧」は、嘆きの息が化した霧のこと。当時、激しい嘆きの息は霧となって渡っていくと信じられていました。「飽く」は、堪能する意。「まし」は「せば」の帰結。この歌の作者は、3580で出発前に「君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ」と詠んだ妻の夫であり、その歌を思い出したのかもしれません。
3617~3619は、安芸国の長門の島の磯辺に停泊して作った歌。「長門の島」は、呉市の南の倉橋島。3617の「とどろに」は、高く鳴る意の副詞。「声をし」「都し」の「し」は、強意。「思ほゆ」は、思われる。3618の「山川」は山にある川で、上の歌の「石走る滝」と同じ流れと見られます。「遊べども」とあるので、酒宴を設けたものかもしれません。3619の「間ゆ」の「ゆ」は、~を通って。「かたまく」は、季節や時期を待ち望む意。この時は秋に帰朝できるとの予定でした。
巻第15-3620~3624
3620 恋(こひ)繁(しげ)み慰(なぐさ)めかねてひぐらしの鳴く島蔭(しまかげ)に廬(いほ)りするかも 3621 我(わ)が命を長門(ながと)の島の小松原(こまつばら)幾代(いくよ)を経てか神(かむ)さびわたる 3622 月読(つくよ)みの光りを清(きよ)み夕なぎに水手(かこ)の声呼び浦廻(うらみ)漕(こ)ぐかも 3623 山の端(は)に月(つき)傾(かたぶ)けば漁(いざ)りする海人(あま)の燈火(ともしび)沖になづさふ 3624 我(わ)れのみや夜船(よふね)は漕(こ)ぐと思へれば沖辺(おきへ)の方(かた)に楫(かぢ)の音(おと)すなり |
【意味】
〈3620〉故郷の妻恋しさに気が晴らせないまま、ひぐらしが鳴くこの島陰で仮の宿りをしている。
〈3621〉我が命よ長かれと願う、長門の島の松原は、いったい幾代を経てあのように神々しくあり続けているのだろう。
〈3622〉月の光が清らかなので、夕なぎの中、舟乗りたちが声を掛け合って入江伝いに漕いでいく。
〈3623〉山の端に月が傾くと、漁をする海人の漁火が、沖の波間にただよっている。
〈3624〉我らだけがこの夜船を漕いでいるのかと思っていたら、沖の方でも櫓を漕ぐ音がしている。
【説明】
3620、3621は、安芸国の長門の島の磯辺に停泊して作った歌。「長門の島」は、呉市の南の倉橋島。3620の「廬りするかも」の「かも」は、詠嘆。3621の「我が命を」は「長門」の枕詞。「神さびわたる」は、年を経て神々しくなる。3622~3624は、長門の浦より船出する夜に、月の光を仰ぎ観て作った歌。海上が安全であれば、夜間でも月の光を頼りに出発したようです。3622の「月読」は、月のこと。「水手の声呼び」は、水手が声をかけ合って。「浦廻」は、海岸が湾曲して入り組んだところ。3623の「なづさふ」は、浮き漂う。3624の「楫」は、舟を漕ぐための道具の総称。「音すなり」の「なり」は、詠嘆の助動詞。夜の海を航行する孤独のなかで、沖の方から聞こえてきた楫の音に、親愛と安らぎを感じています。
巻第15-3625~3626
3625 夕(ゆふ)されば 葦辺(あしへ)に騒(さわ)き 明け来れば 沖になづさふ 鴨(かも)すらも 妻とたぐひて 我(わ)が尾には 霜(しも)な降りそと 白たへの 羽(はね)さし交(か)へて うち払ひ さ寝(ぬ)とふものを 行く水の 帰らぬごとく 吹く風の 見えぬがごとく 跡もなき 世の人にして 別れにし 妹(いも)が着せてし なれ衣(ごろも) 袖(そで)片敷(かたし)きて ひとりかも寝(ね)む 3626 鶴(たづ)が鳴き葦辺(あしへ)をさして飛び渡るあなたづたづしひとりさ寝(ぬ)れば |
【意味】
〈3625〉夕方になると葦辺にやってきて鳴き騒ぎ、夜明けになると沖の波間に漂う鴨たちでさえ、妻と連れ立ち、自分たちの尾羽に霜よ降るなと、互いに羽をさしかわして霜をうち払って共寝するというのに、この私は、流れゆく水が帰らぬように、吹く風が見えないように、跡形も残らないこの世の人の定めとして、離れ離れになった妻が着せてくれた、すっかり着慣れた着物を一つだけ敷いて、ひとりで寝なければならないのか。
〈3626〉鶴が鳴きながら葦辺に向かって飛んで行く。ああ、言いようもなく心細い、ひとりきりで寝ていると。
【説明】
題詞に「古挽歌一首」とあり、一行の中に記憶している者があって、旅愁を慰めるために誦詠した歌とされます。また、左注に、丹比大夫(たじひだいぶ:伝未詳)が亡き妻を悲しみ痛んで作った歌とありますが、歌の内容はそうしたものではなく、官命によって海岸地帯に旅した丹比大夫が、長い滞在のなか、霜の降りるような寒い夜、京の家にいる妻のことを思い、独り寝の侘びしさを嘆いている歌です。
3625の「夕されば」は、夕方になると。「なづさふ」は、浮き漂う。「たぐひて」は、伴って、連れ立って。「霜な降りそ」の「な~そ」は、禁止。「白たへの」は「羽」の枕詞。「なれ衣」は、着慣れた衣服。「袖片敷きて」は、共寝しないで、の意。「ひとりかも寝む」の「かも」は、詠嘆的疑問。3626の上3句は「たづたづし」を導く序詞。「たづたづし」は、心細い。「さ寝れば」の「さ」は、接頭語。
巻第15-3627~3628
3627 朝されば 妹(いも)が手にまく 鏡なす 御津(みつ)の浜(はま)びに 大船(おほぶね)に 真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き 韓国(からくに)に 渡り行かむと 直(ただ)向かふ 敏馬(みぬめ)をさして 潮(しほ)待ちて 水脈引(みをび)き行けば 沖辺(おきへ)には 白波高み 浦廻(うらみ)より 漕(こ)ぎて渡れば 我妹子(わぎもこ)に 淡路(あはぢ)の島は 夕(ゆふ)されば 雲居(くもゐ)隠(かく)りぬ さ夜(よ)ふけて 行くへを知らに 我(あ)が心 明石(あかし)の浦に 船 泊(と)めて 浮き寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば 漁(いざ)りする 海人(あま)の娘子(をとめ)は 小舟(をぶね)乗り つららに浮けり 暁(あかとき)の 潮(しほ)満ち来(く)れば 葦辺(あしべ)には 鶴(たづ)鳴き渡る 朝なぎに 船出(ふなで)をせむと 船人(ふなびと)も 水手(かこ)も声呼び にほ鳥(どり)の なづさひ行けば 家島(いへしま)は 雲居(くもゐ)に見えぬ 我(あ)が思(も)へる 心 和(な)ぐやと 早く来て 見むと思ひて 大船を 漕ぎ我(わ)が行けば 沖つ波 高く立ち来(き)ぬ 外(よそ)のみに 見つつ過ぎ行き 玉(たま)の浦に 船をとどめて 浜びより 浦磯(うらいそ)を見つつ 泣く子なす 音(ね)のみし泣かゆ わたつみの 手巻(たまき)の玉を 家(いへ)づとに 妹(いも)に遣(や)らむと 拾(ひり)ひ取り 袖(そで)には入れて 帰し遣(や)る 使ひなければ 持てれども 験(しるし)をなみと また置きつるかも 3628 玉の浦の沖つ白玉(しらたま)拾(ひり)へれどまたぞ置きつる見る人をなみ 3629 秋さらば我(わ)が船(ふね)泊(は)てむ忘れ貝寄せ来て置けれ沖つ白波 |
【意味】
〈3627〉朝になると、妻が手に持つ鏡のように、その鏡を見るという御津の浜辺で、大船に多くの櫂を取り付け、遠い韓国(からくに)に渡っていこうと、真向かいの敏馬を目指し潮目を待って航路を進んでいく。沖の方には白波が高く立っているので、浦伝いに漕ぎ進んでいくと、愛しい彼女に逢うという淡路の島は、夕方になって雲の彼方に隠れてしまった。夜も更けてきて行く先も分からなくなったので、我が心は明るいという名の明石の浦に船を停めて、波の上に浮き寝をしながら沖の方を見ると、漁をする海人娘子たちが小舟に乗り、連なって浮かんでいた。そのうちに明け方の潮が満ちてくると、葦辺に鶴が鳴き渡っていく。朝なぎの内に船出をしようと、船長(ふなおさ)も水手(かこ)たちも声を掛け合わせ、かいつぶりのように波にもまれて行くと、なつかしげな名の家島が雲の彼方に見えてきた。この家恋しい心もなごむかと、早く行ってみたいと我らは大船を漕ぎ進めたが、あいにく沖から高波がやってきて、やむなく遠くから見るしかなかった。玉の浦に船を停めてその浜辺から家島の浦や磯をはるかに見ていると、泣く子供のようにおいおいと泣けてくる。せめて海神が腕飾りにするという玉を家のみやげに彼女に届けようと、玉の浦で拾って袖に入れてみたものの、都に届ける使いもないので、持っている甲斐がないとまた元通りに置いてきてしまった
。
〈3628〉玉の浦の海底の真珠をせっかく拾ったが、また戻して置いた。それを見てくれる人もいないので。
〈3629〉秋になれば、我らの乗る船がまたこの浦にやってきて停泊するだろう。その時は忘れ貝を寄せてきてほしい、沖の白波よ。
【説明】
3627の「妹が手にまく鏡なす」は「御津」を導く序詞。「御津」は、難波の港。「韓国」は、新羅。「直向かふ」は、真正面に向き合う。「敏馬」は、神戸市灘区岩屋付近。「水脈引き」は、航跡を残して。「我が心」は「明石」の枕詞。「我妹子に」は「淡路」の枕詞。「漁り」は、漁をすること。「つららに」は、連なって。「船人」は、船頭。「水手も声呼び」は、船乗りたちが声をそろえて漕ぐ様子。「にほ鳥の」は「なづさふ」の枕詞。「なづさふ」は、水に浮かんで漂う。「家島」は、姫路沖の家島群島。「外のみに」は、遠くからのみ。「玉の浦」は、岡山県玉野市玉または倉敷市玉島。「泣く子なす」は「音」の枕詞。「音のみ泣く」は、声を出して泣く。「家づと」は、家へのみやげ。「験をなみと」は、甲斐がないと思って。
3628の「白玉」は、真珠。「見る人をなみ」は、見る人がいないので。拾った真珠を見せるべき妻がいないので、また元に戻したと言っています。お土産にしようとしなかったのは、無事に帰れないかもしれないとの覚悟があったのかもしれません。3629は、約束の秋の帰途を詠んだ歌。「忘れ貝」は、二枚貝の片方、またはそれと似た一枚貝。恋しい思いを忘れさせてくれるという貝。「置けれ」は「置けり」の命令形。
ここの長歌について窪田空穂は、「この集にあっても長歌の作者は、さして多くはなく、それも時代が降るに従って次第に数が減って、この歌の詠まれた奈良朝時代には、数えるほどの人しかなかったのである。その間にあって、遣新羅国使の随行の人の中に、長歌形式をもってこれだけの量のある歌を詠む人のあったのは、異とするに足りることである」と述べています。
巻第15-3630~3633
3630 真楫(まかぢ)貫(ぬ)き船し行かずは見れど飽(あ)かぬ麻里布(まりふ)の浦に宿(やど)りせましを 3631 いつしかも見むと思ひし安波島(あはしま)を外(よそ)にや恋ひむ行くよしをなみ 3632 大船(おほぶね)にかし振り立てて浜(はま)清(ぎよ)き麻里布(まりふ)の浦に宿(やど)りかせまし 3633 安波島(あはしま)の逢(あ)はじと思(おも)ふ妹(いも)にあれや安寐(やすい)も寝(ね)ずて我(あ)が恋ひわたる |
【意味】
〈3630〉左右の楫をいっぱいに取り付けた船が進まなければ、いくら見てても見飽きない、ここ麻里布の浦に泊まることもできたのに。
〈3631〉早く見たいと思ってきた安波島を、よそ目に見ながら恋うばかりなのか、そこへ行く方法がないので。
〈3632〉大船にかしを振り立てて、浜の清らかな麻里布の浦に船宿りすることができないものだろうか。
〈3633〉逢いたくないと思う妻であれば、どうしてこんなに私は安らかに眠ることもできず、恋い続けるばかりでいるだろう。
【説明】
周防国(山口県東南部)玖珂郡(くがのこおり)麻里布(まりふ)の浦を行くときに作った歌。「麻里布の浦」は、山口県岩国市または田布施町付近の海。岩国市内に麻里布という地名がありますが、新しい地名なので、「麻里布の浦」とは決められません。3630の「真楫貫き」は、船の左右に楫を取り付けて。「楫」は、船を漕ぐ道具の総称。「ずは~ましを」は、反実仮想。3631の「いつしかも」は、いつになったら、早く。「安波島」は、山口県大島郡の大島(屋代島)か。3632の「かし」は、船を繋ぐために水中に立てる棒杭。3633の「安波島の」は「逢は」の枕詞。「恋ひわたる」の「わたる」は、ずっと~し続ける。
巻第15-3634~3637
3634 筑紫道(つくしぢ)の可太(かだ)の大島(おほしま)しましくも見ねば恋しき妹(いも)を置きて来(き)ぬ 3635 妹(いも)が家路(いへぢ)近くありせば見れど飽かぬ麻里布(まりふ)の浦を見せましものを 3636 家人(いへびと)は帰り早(はや)来(こ)と伊波比島(いはひしま)斎(いは)ひ待つらむ旅行く我(わ)れを 3637 草枕(くさまくら)旅行く人を伊波比島(いはひしま)幾代(いくよ)経(ふ)るまで斎(いは)ひ来にけむ |
【意味】
〈3634〉筑紫へ至る道にある可太の大島、その島ではないが、ほんのしばらくの間も見ずにはいられない恋しい妻を残して来てしまった。
〈3635〉彼女の家への道がもし近ければ、見ても見飽きることのない麻里布の浦を見せてやりたいものを。
〈3636〉家にいる妻は、早く帰ってきてねと、伊波比島の名のように、神にお祈りしつつ待っていることだろう、旅を続けているこの私を。
〈3637〉旅人の無事を守り続ける、この伊波比島は、幾代にわたって旅人の無事を守り続けてきたのだろう。
【説明】
周防国(山口県東南部)玖珂郡(くがのこおり)麻里布(まりふ)の浦を行くときに作った歌。「麻里布の浦」は、山口県岩国市または田布施町付近の海。3630・3632・3634の3首に歌われているので、それほどに彼らが興味をもった景色だったと見えます。3634の上2句は「しましく」を導く序詞。「しましく」は、ちょっとの間、の意。3635の「せば~まし」は、反実仮想。3636の「伊波比島」は、上関町の祝島、ここでは「斎ひ」の枕詞。「斎ふ」は、心身を清めて神に祈ること。3637の「草枕」は「旅」の枕詞。「斎ひ来にけむ」の「斎ひ」は、3636の「斎ひ」とは異なり、神が主語で加護を垂れる意。
遣新羅使人たちの歌には、多くの地名が出てきます。遣新羅使人に限らず、旅人は地名を口にし、歌に詠み込むことによって、知らない土地に挨拶をします。そして、その土地を讃えることによって、土地の神の加護受け、旅の前途の安全を願うのです。
巻第15-3638~3639
3638 これやこの名に負(お)ふ鳴門(なると)のうづ潮(しほ)に玉藻(たまも)刈るとふ海人娘子(あまをとめ)ども 3639 波の上に浮寝(うきね)せし宵(よひ)あど思(も)へか心悲(こころがな)しく夢(いめ)に見えつる |
【意味】
〈3638〉これがあの有名な鳴門のうず潮と、玉藻を刈っているという海人娘子たちなのだな。
〈3639〉波の上で浮寝をした夜、何と思って、妻がうらがなしくも夢に出てきたのだろうか。
【説明】
大島の鳴門を過ぎて二晩経った後に、回想して作った歌2首。「大島の鳴門」は、山口県柳井市大畠と大島(屋代島)の間の海峡。3638の「これやこの」は、話に聞いて知っていたものを実際に見たときの感動の表現。「名に負ふ」は、有名な、の意。大和では決して見ることのできない潮の激しい流れ、海辺に住む海人、その娘子の景に興じています。3639の「あど思へか」の「あど」は、どのように、「か」は疑問。「見えつる」の「つる」は「か」の結で、完了の助動詞。
巻第15-3640~3643
3640 都辺(みやこへ)に行かむ船もが刈(か)り薦(こも)の乱れて思ふ言(こと)告(つ)げやらむ 3641 暁(あかとき)の家恋しきに浦廻(うらみ)より楫(かぢ)の音(おと)するは海人娘子(あまをとめ)かも 3642 沖辺(おきへ)より潮(しほ)満ち来(く)らし可良(から)の浦にあさりする鶴(たづ)鳴きて騒(さは)きぬ 3643 沖辺(おきへ)より船人(ふなびと)上(のぼ)る呼び寄せていざ告げ遣(や)らむ旅の宿(やど)りを |
【意味】
〈3640〉都の方向に向かう船があったらなあ。そしたら、刈り取った薦のように乱れたこの思いを妻に知らせてやるものを。
〈3641〉明け方前の、故郷の家が恋しくてならぬとき、浦の辺りから梶の音が聞こえてきた。あれは海人娘子たちだろうか。
〈3642〉沖の方から潮が満ちてきたらしい。可良の浦で餌をあさっている鶴が、さかんに鳴き騒いでいる。
〈3643〉沖の彼方を都に向かってのぼって行く船がある。その船人を呼び寄せて、妻に言付けをしたい。この旅の宿りのわびしさを。
【説明】
熊毛(くまげ)の浦に停泊した夜に作った歌。「熊毛の浦」は、山口県熊毛郡にある浦で、今の小郡(おごおり)あたりの浦かといわれます。3640の「もが」は、願望。「刈り薦の」は「乱る」の枕詞。「言告げやらむ」は、言葉として告げてやりたい。3641の「暁」は、夜明け前、未明。「浦廻」は、海岸が湾曲して入り組んだところ。「楫」は、舟を漕ぐ道具の総称。家に残した妻を思い出しているのは、「暁」が男が女の許を立ち去る時間であり、それゆえ、妻への思いが増す時間だったのでしょう。3642の「満ち来らし」の「らし」は、根拠に基づく推定。「可良の浦」は、未詳。「あさり」は、魚貝や海藻をとること。3643の「船人上る」は、一行とは反対方向へ向かっていくという船というだけで、京へ上る船だと見て詠っています。
巻第15-3644~3647
3644 大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み大船(おほぶね)の行きのまにまに宿りするかも 3645 我妹子(わぎもこ)は早も来(こ)ぬかと待つらむを沖にや住まむ家つかずして 3646 浦廻(うらみ)より漕ぎ来(こ)し船を風(かぜ)早(はや)み沖つ御浦(みうら)に宿りするかも 3647 我妹子(わぎもこ)がいかに思へかぬばたまの一夜(ひとよ)もおちず夢(いめ)にし見ゆる |
【意味】
〈3644〉帝の仰せを恐れ畏み、大船の漂い行くのにまかせ、旅の宿りをしていることだ。
〈3645〉愛しい妻は、早く帰ってこないかと待っているだろうに、長く沖合にとどまり続けなければならないのか、家から遠く離れたまま。
〈3646〉浦伝い漕いで来た船であるのに、風が激しくて、遠く離れた沖合で夜を過ごすというのか。
〈3647〉愛しい妻が、どう思ってか、毎晩毎晩夢に現れる。
【説明】
佐婆(さば)の海でにわかに暴風にあい、南方に流されて豊前国(大分県)の沖合に流れ着いた時の歌。「佐婆の海」は、周防灘。本来なら本州の海岸沿いに西へ行くのですが、九州の大分県の中津まで流されたのでした。3644の「大君の命畏み」は、天皇の仰せを承って。国民が国事に服するときに強くその身を意識して用いた成句。「行きのまにまに」は、行くがままに。「かも」は、詠嘆。3645の「早も来ぬか」の「も~ぬか」は、願望。「沖にや住まむ」の「や~む」は、こんなにも~していることか。「家つかずして」は、家に近づかないで。3646の「浦廻」は、海岸が湾曲して入り組んだところ。「沖つ御浦」は他に例のない難解な語ながら、続きから見て、漂流して夜を明かした海上のことか。3647の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「おちず」は、漏れずに。相手がこちらを思っていると夢に見えるという信仰の上に立っての歌です。
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