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巻第1(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第1-25・26

訓読

25
み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)を
26
み吉野の 耳我(みみが)の山に 時じくそ 雪は降るといふ 間(ま)無くぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)を

意味

〈25〉
 吉野の耳我の山には、時となく雪は降っていた。絶え間なく雨は降っていた。その雪が定めのないように、雨の晴れ間がないように、曲がり角という曲がり角を不安に襲われながらやってきたのだ、この山道を。
〈26〉
 吉野の耳我山に、絶え間なく雪は降るという。晴れ間なく雨は降るという。その雪の絶え間がないように、雨の晴れ間がないように、曲がり角という曲がり角を不安に襲われながらやってきたのだ、この山道を。

鑑賞

 25は、壬申の乱直前の天智10年(671年)10月、大海人皇子(おおあまのおうじ:天武天皇)が皇太弟の地位を辞して近江朝を逃れ、出家のために吉野に入る時の歌とされます。この時、大海人皇子は40代の前半。『日本書紀』には大海人皇子の吉野入山以外のことは何も書かれていませんが、この歌は、その当時の、兄の天智方と争わなくてはならない運命への深刻な思いが詠われているとするのが有力です。21で額田王に和した歌で示した、開けっぴろげで大胆なさまとは全く別人の感のある歌となっています。

 「み吉野」の「み」は、美称の接頭語。広く普通名詞に用いられますが、地名では、越・熊野・吉野に限られています。地名に接頭語の「み」を冠するのは、古代では、「吉野・熊野・越」に限られています。「耳我の嶺」は吉野山中の高峰とされますが、どの峰かは不明。「時なくぞ」は、定まった時がなく。「降りける」の「ける」は、詠嘆的に過去を語る助動詞。「間無くぞ」は、時の区別なく、絶え間なく。「隅もおちず」の「隅」は道の曲がり角、「おちず」は、漏らさずで、絶えずの意。6句までが回想の実景で、吉野の嶺の雪や雨の間断のないことを言い、そのことばを尻取り風に受けながら、思いに沈みつつ山路をたどったことを言っています。その「思ひ」が何であるかには全く触れられていないものの、吉野の山道の寒く暗い情景と、陰鬱にとざされて山中を辿る皇子の姿が想像され、その重大さ、深刻さが感じられます。

 一方で、この歌とほとんど同一の歌が巻第13(3293)にあり、もともと恋人の家に通う気持ちを歌った民謡であるとする見方があります。けれども、これが大海人皇子の歌とされたのは、いかにも吉野入りの時の気持ちに合致するものだったからだろうといいます。

 『日本書紀』の記述には、大海人皇子は宇治まで左大臣・右大臣・大納言の見送りを受けたとあります。そこから飛鳥に入って島の宮に泊まり、吉野に向かい、吉野の宮滝にあった離宮に入ったもののようです。皇子を見送って帰る際、ある人が言った「虎に翼を着けて放てり」という、その後の壬申の乱の勃発を暗示するような記述もあります。なお、藤原氏の家史『藤氏家伝』に、次のような話が載っています。―― 668年、天智天皇の即位後に酒宴が開かれ、大海人が長槍で敷板を刺し貫くという暴挙を働いた。驚き怒った天智が大海人を殺そうとしたが、藤原鎌足がそれを諫めて止めた。その後、天智が亡くなり、皇位をめぐって天智の息子の大友皇子と争うことになった時、大海人は、「大臣(鎌足)が生きていれば、私はこのような苦しい目にあわずに済んだのに」と嘆いたという。 ―― もっとも、『藤原鎌足伝』の撰述者は藤原仲麻呂といわれ、この話の信憑性には大いに疑問があるとされています。

 
26は、25の「或る本の歌」とある歌です。「或る本」とは、本集の資料とは別の資料による歌で、詞句の類似の多い歌や、作者、作歌事情で伝えの異なっている歌を参考として載せているものです。25の歌は、耳我の嶺の雪と雨とを、目前にして扱っているのに、この歌は、それを話に聞いたものとしていっています。25の歌が愛唱されているうちに変化したものらしく、わかりやすく一般的になっています。巻第13-3293にも類似の歌があります。
 

壬申の乱

 天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継者の地位を争って、天武天皇元年(672年)6月、古代最大の争乱といわれる壬申の乱が起きました。当時は、父の後をその子が継ぐというルールが確立しておらず、兄弟相続も見られたことが戦いの一因となりました。

 天智天皇も当初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた弟の大海人を皇位継承者として認めていました。しかし、大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなったのでしょう、太政大臣につけ、側近の布陣を固めるなど、後継とする意思を見せ始め、しだいに大海人を遠ざけるようになりました。
 
 大友皇子は、たくましい風貌をもった美しい青年だったことが『懐風藻』の伝記から窺えます。唐から渡来した劉徳高(りゅうとくこう)は大友に会い、その風骨は世間並みではない、この国には珍しい人物だと称したほどです。百済の要人たちを師として博学多才、文武に秀でた皇子であり、そうした人物であったことも、歴史の狂いを惹起する一因となりました。

 天智天皇の意を察した大海人は強い衝撃を受け、また、自身の暗殺を恐れます。そして、先の人事から10か月後、大海人は、天智のもとに来るようにとの使者を受けました。その時、天智はすでに2か月の病床にありましたが、使者の蘇我安麻呂(そがのやすまろ)はこう言い残して帰って行きました。「心してのたまへ(用心してお話しください)」。
 
 不穏な影を感じ取った大海人が天智のもとにやって来ると、天智は「わたしの病気は重い。次代の天皇はお前がなってほしい」と告げました。しかし大海人はその真意をさとり、大友を皇太子に推挙し、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げ、大津宮から100kmも離れた吉野に引きこもりました。この時の大海人の本当の心境は分かりませんが、世間の人々は「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と、大海人を野放しにした怖さを噂しあったといいます。

 天智が亡くなると、大友皇子は弘文天皇として即位して新しい政治を開始、また、吉野攻めの準備を始めます。山稜造営の名目で東国から人夫を集め、それに武器を持たせ、主要道に斥候を置き、さらに吉野への食糧の移送をとめたのです。それを知った大海人はこのままでは自滅すると感じ、吉野を出ます。これに従う者は、男20余人、女10余人という僅かな人数でしたが、東進するに従って加勢する者が増えていきました。大海人への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人方についたのです。伊賀国で数百人の軍勢を得て、自軍を組織し、東国から近江への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎます。さらに美濃国では、尾張守の小子部連鉏鉤(ちひさこべのむらじさひち)が2万人の軍を率いて帰服。そして、不破関から近江に入り、大津宮を襲いました。

 戦いは1ヶ月で終わり、反乱者の立場である大海人が勝利、大友皇子は自殺に追い込まれました。大海人はただちに都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を造って即位し天武天皇となりました。なお、「壬申の乱」の名称の由来は、天武天皇元年が干支の壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによります。また、『日本書紀』では大友の即位を認めていませんが、後に明治政府はこれを認め、弘文天皇と諡号(おくりな)しました。 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。