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巻第1(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第1-38・39

訓読

38
やすみしし わが大君(おほきみ) 神(かむ)ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内(かふち)に 高殿(たかどの)を 高(たか)知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳(たたな)はる 青垣山(あをかきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり 逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川(やまかは)も 依(よ)りて仕ふる 神の御代(みよ)かも
39
山川も寄りて奉(つか)ふる神ながらたぎつ河内(かふち)に船出するかも

意味

〈38〉
 安らかに天下を治められるわが大君は、神であるままに神のお振る舞いをされ、吉野川が激しく流れる河内に、高殿を高々とお建てになり、そこに登り立たれて国見をなさると、幾重にも重なる青々とした山々、その山の神は献上品として、春には花を髪に飾りさし、秋には黄葉をかざしている。沿って流れる川の神も、御食事にと、上の瀬では鵜川を設け、下の瀬では小網を張り巡らしている。これほどに、山の神も川の神も心から服従してお仕えする神の御代なのだ。
〈39〉
 山の神も川の神も諸共に寄ってきて仕え奉る、現人神として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の滝の河内に、群臣と共に船出したまう。

鑑賞

 巻第1-36・37の歌と同じく、持統天皇の吉野行幸に従駕した柿本人麻呂が、詔に応じて奉ったもので、土地ぼめを通して天皇を讃える儀礼歌となっています。ただ、この歌の左注に、「右、日本紀に曰く、『三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月、吉野宮に幸す。四年庚寅の二月、吉野宮に幸す。五月、吉野宮に幸す。五年辛卯正月、吉野宮に幸す。四月、吉野宮に幸す』といふ。未だ詳らかに何れの月の従駕にして作れる歌なるかに知らず」とあります。吉野宮へは何回も行幸したので、編者もこの歌がいずれの行幸のときに詠まれたのか分からないと言っています。

 「やすみしし」は、安らかに天下を支配される意で、「わが大君」の枕詞。「神ながら」の「ながら」は「~のままに」の意の接続助詞で、神であるままに。「神さびせすと」の「さび」は、それらしく振舞う、それらしく見える。「河内」は、川を中心として山々に囲まれた場所。「国見」は、高所から国の状態を見ること。「畳はる」は、重なる。「青垣山」は、垣根のように周囲を取り巻いている青々とした山。「御調」は、天皇に奉る品物。「春へ」は、春のころ。「大御食」の「大御」は美称で、「食」は食物。「鵜川」は、川での漁法の一種で、鵜を川に放って魚を追い込んで網で獲る漁法。「小網」は、すくい網。聖地を流れる吉野川は、大和平野にはない大きな川であり、その激流は都人(みやこびと)にとって畏敬すべき光景だったと想像できます。
山部赤人も天皇の行幸につき従って歌っていますし、ほかにも吉野川を歌った歌が多くみられます。

 天皇家にとって聖地とされた吉野ですが、たび重なる持統天皇の吉野行幸は、一説には吉野に産する水銀が目的だったともいわれます。夫(天武天皇)の死と、世継ぎの草壁皇子の早世という相次ぐ不幸に、自身の子孫の権力を確保するためにも長命の必要があった天皇は、中国の神仙思想で不老不死の妙薬とされた水銀をひそかに入手しようとしたのではないかというのです。

 山と川を対にして吉野を賛美するのは人麻呂を端緒とするといわれ、その後の宮廷歌人も倣っています。また、こうした表現が取り入れられた背景には、中国の王者らによる「山川望祀」の風習や、『論語』にある「知者は水を楽(この)み、仁者は山を楽(この)む」という思想の影響があるとも考えられています。
 

人麻呂の任務

 持統天皇は、称制・在位していた11年余りの期間に、吉野へ31回行幸したのをはじめ、伊勢、紀伊ほか、高安城、腋上陂、初瀬、高宮、多武峯、吉隠、二槻宮など、数多く行幸しました。これに対して、人麻呂の行幸従駕歌は、2組の吉野賛歌と、雷丘行幸のときの短歌1首にすぎません。このことから、人麻呂の任務は、持統天皇に直属して天皇賛歌を詠ずることが主要だったのではなく、学識と歌才によって官人の任務に就き、ときに歌作を行っていたのではないかとの見方があります。
 

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長歌と短歌

 長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。

 長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。

 『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。

 人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。