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巻第1(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第1-43・44

訓読

43
我(わ)が背子(せこ)はいづく行くらむ沖つ藻(も)の名張(なばり)の山を今日(けふ)か越ゆらむ
44
我妹子(わぎもこ)をいざ見(み)の山を高みかも大和(やまと)の見えぬ国遠みかも

意味

〈43〉
 今ごろ夫はどのあたりを旅しているのだろう。名張の山を今日にでも越えているのだろうか。
〈44〉
 妻を「いざ見よう」という名のいざみ山が高いせいか、妻のいる大和が見えない。それとも国を遠く隔てて来たせいだろうか。

鑑賞

 43は、持統天皇6年(692年)3月の伊勢行幸の折、従駕した当麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)の妻が、旅路にある夫を案じて作った歌。当麻真人麻呂は、その妻とも伝未詳。当麻氏は31代用明天皇の子、麻呂子(まろこ)王の子孫といわれます。44は、同じく従駕した石上大臣(いそのかみのだいじん)の歌。石上大臣は、慶雲元年(704年)に右大臣、和銅元年(708年)に左大臣となった石上朝臣麻呂。石上氏は、物部氏の支蔟。

 
43の「行くらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。「沖つ藻の」は、沖の藻が波に隠れていることから、隠れるの古語「隠(なばり)」に続け、地名の「名張」の枕詞としたもの。「名張」は、三重県名張市。「今日か越ゆらむ」の「か」は、疑問の係助詞。この歌について斎藤茂吉は、「一首中に『らむ』が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。・・・この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かりよく口調もよいからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあるといっていいであろうか。しかしそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持ってきたところ等に注意すべきである」と言っています。

 また、文学者の
犬養孝は、「夫の身の上を思って”今ごろどこを歩いているのだろう”と自ら問い、”今日あたりは沖つ藻の名張の山を越えているのだろうか”と自ら答えている趣きで、この枕詞と地名にも、待ちかねる者の不安な思いが託されており、『らむ』の語をくりかえして、留守をわびる妻の、夫への思慕の情を二回の波でうちあげている。往路か復路か不明だが、復路ではなかろうか」と述べています。なお、この歌は巻第4-511に重出しています。

 
44の「我妹子」は「いざ見」の枕詞。「いざ見の山」は、伊勢・大和の国境の高見山かといわれます。標高1250mの高見山は、もともと要路の山であり、東西方向から見ると尖った山頂が見え、伊勢側から見て大和国が遮られているように感じたもののようです。「山を高みかも」の「高み」は「高し」のミ語法で、「み」は、形容詞の語幹に付いて理由や原因を表す接尾語。「かも」の「か」は、疑問の係助詞で、山が高いせいか。江戸時代の僧で国学者の契沖はこの歌について、妻の家が見えないのを幼い子供のようにまどい、理屈の通らないことをあえて表現することによって、心の感動を深く表していると言い、そのように詠むのを「歌のならひ」であると説いています。また犬養孝は、「抑揚のある律動の中に、遠い山なみの起伏も思われ、思郷の気持ちの波動も朴直にうち出されている」と評しています。
 
 なお、左注には、この行幸の際のエピソードが記されており、中納言だった
三輪朝臣高市麻呂(みわのあそんたけちまろ)が冠位を脱いで天皇に捧げ、農繁期の行幸は民を苦しめるとして諫めたが、天皇はこれを聞き入れず伊勢へ行幸した、とあります。冠を脱いで天皇に捧げるのは職を辞する覚悟を示したもので、高市麻呂はこの後しばらく官職を解かれたといわれます。『日本書紀』にもこの顛末は書かれており、ただ、持統天皇は行幸を強行したというだけでなく、訪れた地域や随行した人々の税を免除し、大赦を行うなどもしたともあります。高市麻呂は壬申の乱の功臣だったため諫言を呈することができたようですが、持統天皇には、その功臣の諫言を退けても行幸を実行したい事情があったのかもしれません。

 これについては、信濃方面への遷都を企図したものではなかったかとする説があります。わが国は天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以来、大陸からの外圧が気がかりな情勢が続いており、天智天皇が都を飛鳥から大津宮に遷したのも、天武天皇が飛鳥に都を戻したのも、その影響が大きかったと見られています。さらに天武天皇は、天武13年(684年)に三野王らを信濃に遣わし地形の調査をさせています。藤原宮の造営は天武天皇の発案だったとされますが、持統天皇はさらに信濃遷都を真剣に考えており、そのための遠江、参河行幸だったのではないか、と。高市麻呂が冠位を脱いでまで天皇を諫めたのは、それに大反対したからだというのです。持統天皇は死の直前の大宝2年(702年)にも再度、参河行幸を決行しています。また、持統天皇が亡くなって後の和銅6年(713年)には美濃と信濃を結ぶ木曽路が開通しています。この時の天皇は元明天皇であり、持統の強い意志を受け継いでいたということでしょうか。
 

三重県(伊勢国ほか)について

 こんにちの三重県は、もとの伊勢国を中心に、伊賀国・志摩国それに紀伊国の南・北牟婁郡の地をあわせている。なによりも大和に東接するところであり、伊勢神宮の鎮座するところではあり、大和から東海・東国への通路にもあたっていたから、当時、大和との往還はしきりであった。壬申の乱(672年)のときには、伊賀から鈴鹿の山を経て桑名へと通路にあたっていたし、持統天皇6年(692年)には三輪高市麻呂の諫争をおしきっての伊勢巡幸、志摩への遊幸があり、大宝2年(702年)持統太上天皇の三河行幸、養老2年(718年)元正天皇の美濃行幸、天平12年(740年)聖武天皇の東国巡幸などがあり、また皇族、宮廷官人らの往還もたびたびにおよんでいた。

 したがって万葉の故地も、がいして、大和から伊賀の名張を経て伊勢神宮にいたる参宮路線、また志摩海浜、伊勢湾沿海を南から北へ東国に通ずる路線に沿うて、多くの抒情のあとをのこしている。『万葉集』中、歌・題詞・左註を延て所出の地名は60余を数え、そのうち「伊勢」の名だけでも26を数えるのは、この地との関係の深さを語っている。

 伊勢は、鈴鹿・布引・台高の諸山脈にへだてられ、ゆたかな海岸平野を擁して、波静かな伊勢湾にのぞんでいるから、海のない大和の宮廷人にとっては、山路を越える数日を要しても、明るい異国のあこがれのそそられるものがあった。こんにち、沿岸平野の万葉故地には所在の明らかでないところが多く、年々の工業地化も故地の姿をとどめがたくさせている。

~『万葉の旅・中』犬養孝著/平凡社から引用 

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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。