| 訓読 |
いづくにか船(ふね)泊(はて)すらむ安礼(あれ)の埼(さき)漕(こ)ぎたみ行きし棚(たな)無し小舟(をぶね)
| 意味 |
今ごろいったい何処で舟どまりしているのだろう、安礼の崎を先ほど漕ぎめぐっていった、船棚のない小さな舟は。
| 鑑賞 |
高市黒人(たけちのくろひと)の歌。大宝2年(702年)10月、持統太上天皇の三河国(今の愛知県東部)行幸に従駕しての作。「太上天皇」は、退位した天皇のこと。高市黒人は柿本人麻呂とほぼ同時代の下級官人。大和国6県の一つである高市県の統率者の家筋で、その氏人の一人だと見られています。『万葉集』に収められている18首の歌はすべて大和以外の旅先のもので、とくに舟を素材とし、漠とした旅愁を漂わせる作品に特色があります。
「船泊て」は、船どまりする意の熟語。「安礼の崎」は、今の愛知県宝飯郡御馬の南にある岬ではないかとされます。「こぎ回み」は、船を漕いで海岸線に沿って巡る意。この時代の舟行きは、風の危険を防ぐため、岸に近接して漕ぐのがふつうでした。「棚無し小舟」は、船棚(ふなだな)のない小さな舟で、原始的な丸木舟に近い形の舟。この「棚無し小舟」の語で舟を歌ったのは黒人が最初で、『万葉集』では3回出ているうち2回は黒人が歌っているので、彼の造語かもしれません。決して強い調べではないものの、体言止めが余韻を長く残す効果と相俟って、しっとりとした情感を漂わせている歌であり、黒人の歌の特色となっています。
文学者の犬養孝は、この歌について次のように述べています。「船の行方を追いもとめる主観をはじめにうち出して、それを三句目の地名”安礼の崎”で具体の場に定着させ、ついで漕ぎ・廻み・行きし、と、こきざみに水脈を残すようにして消えていった、網膜に残る小船を点出する。標々と小さく一点となって消え去った船の姿は、そのまま漂泊寂寥の作者の心の姿ともなっている」。
またこの歌は、行幸従駕歌でありながら、その異質な表現性が指摘されています。本来、行幸従駕歌は集団の共感を前提とするものであって、たとえば旅の不安が歌われる際でも、家郷で待つ妹(妻)への思いを歌うことでその不安は鎮められます。そのような思いは異郷にある者すべてに共通し、集団の共感を得らえるものです。ところが黒人はそうした共感を排除し、自らの心の内に思いを収束するかのようなあり方を示しています。黒人の眼差しは家郷にも向かず、土地の風光を賞でる方向にも向かわず、ひたすら岬の向こうに消え去る姿に焦点を合わせているのです。
なお、この時の行幸は10月10日に出立、11月13日に尾張国到着、11月25日に帰朝とあり、実に46日間にわたる長旅でした。その約1ヵ月後の12月22日に持統女帝はこの世を去っていますから、生涯最後の大旅行だったことになります。旅好きだった女帝自身に旅を詠んだ歌はありませんが、さまざまな旅の場を提供してきたことから、人麻呂や黒人などによる数多くの名歌を生んだことになります。

東海(愛知県・静岡県)について
むかしの国名でいって、尾張・三河はこんにちの愛知県であり、遠江・駿河・伊豆は静岡県である。こんにち東国という言葉はあまり使われないが、いっぱんには関東地方をさしていうようである。東国の範囲は時代により変遷があるが、古くは不破の関(美濃)・鈴鹿の関(伊勢)以東、すなわち近畿以東の諸国はすべて東国であった。万葉におさめられている東歌や防人歌では遠江・信濃以東になっている。愛知・静岡両県も東国のうちにはいるわけだが、両県とも東海道の道筋にあたり東海に沿う地方だから、両県をあわせてわかりやすく東海とした。
もともと東国の地方は、中央大和人にとって、未開の地として異郷感にみちた一種のあこがれがいだかれていたようである。官命で東海地方を旅ゆく人の心情にもその姿勢が見られる。それに北国の雪国と異なって黒潮に面して気候も温暖で比較的明るい風土である。中央から東国諸国への交通路として、主として東海道の道筋に沿うての往還の中央官人らによる抒情がここに展開している。その上、おおむね土着の人々のあいだでうたわれていた歌と考えられる東歌が点在し、遠江以東には防人出身地として、防人らの歌も見られる。土着の歌と中央人の歌とが交錯しているのがこの地方である。
この地方の万葉に出てくる地名を歌・題詞・左註すべて延てみれば、概数で、愛知県に約20、静岡県に約75となる。ことに静岡県には東歌関係のもの約25、防人関係の10余を数えて、近畿には見られない特色をしめしている。
~『万葉の旅・中』犬養孝著/平凡社から引用
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