| 訓読 |
61
大丈夫(ますらを)のさつ矢(や)手挟(たばさ)み立ち向ひ射(い)る圓方(まとかた)は見るにさやけし
62
在(あ)り嶺(ね)よし対馬(つしま)の渡り海中(わたなか)に幣(ぬさ)取り向けて早(はや)帰り来ね
| 意味 |
〈61〉
ますらおが、矢を手挟んで立ち向かい射貫く的、その名の圓方の浜は見るからに清々しい。
〈62〉
対馬の海を渡るときに、海の神への幣をささげて、一日も早く無事に帰って来てほしい。
| 鑑賞 |
61は、舎人娘子(とねりのおとめ)の歌。大宝2年(702年)の持統天皇三河行幸に従駕したときの作であり、この歌から、舎人娘子は持統天皇に仕えた宮女だったのではないかともいわれます。「大丈夫」は、勇ましく立派な男。「さつ矢」は、神の加護がある幸多き矢の意で、矢のほめ言葉。「手挟み」は、矢を指の間に挟み持つことで、いつでも射られるよう構えている臨戦態勢を指します。「大丈夫の~射る」は、「的」の意味で「圓方」に続く序詞。立派な男子が的に向かって矢を放とうとする時の凛とした気配をそのまま景として、「圓方」の素晴らしい風景に繋げています。「圓方」は、伊勢の地名で、三重県松坂市東部。「さやけし」は、明るくはっきりしている、清々しい、濁りがない。対象の澄明感を主観的に表現し、従駕で訪れた地とともに王権をも賛美した歌となっています。
土地を讃える歌の場合、その土地を修飾する枕詞、あるいは序詞を用い、さらにその土地の愛でたさを言い添えるのが型になっています。ここでも3句以上の長い序詞を用いて「圓方」を言い、讃える語も添えられています。なお、『伊勢風土記』には、この歌に続いて、その圓方においての景行天皇の御製の歌というのを伝えています。その歌は、「ますらをの得物矢(さつや)手挿み向ひ立ち射るや円方浜のさやけさ」であり、よく似ているため、その場に応じて改変したものかもしれません。
62は、三野連(みののむらじ)が遣唐使として唐に渡るときに、春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)が作った歌。三野連の名は岡麻呂で、霊亀2年(716年)に従五位下を賜わった人。大宝2年(702年)に入唐し、この時には山上憶良も同行していたとされます。朝鮮半島に沿って進む航路(北路)は比較的安全とされましたが、後に新羅との関係が悪化してからは東シナ海(南路)を渡らざるを得なくなりました。この時とった航路も南路であり、出航の機をうかがい、1年あまりも筑紫にとどまっていたといいます。作者の春日蔵首老は、弁記という法名の僧だったのが、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。和銅7年(714年)正月に従五位下。『懐風藻』に詩1首、『万葉集』には8首の短歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。三野連との関係は、官人同士での漢詩文の教養を通しての繋がりと見られます。
「在り嶺よし」の「在り嶺」は、目立つ嶺の意。「よし」は、詠嘆。「対馬」の枕詞で、朝鮮との往来時の海上に目立って現れる対馬の山を、航路の目印として呼んだもののようです。「対馬の渡り」は、筑紫から対馬に渡る海路。「幣」は、航路の安全を祈って神に捧げる品。「早帰り来ね」の「ね」は、願望の助詞。ただし、三野連たちが南路を辿ったとすれば、「在り嶺よし対馬の渡り」と歌うのは事実に合いません。これは、春日蔵首老が、このたびも従来通り北路をとるものと決め込んでいたのだろうとされます。なお、当時の人たちが、願いが叶うようにと行った願掛けには、この歌にある「幣を捧げる」ほか、「領巾(ひれ)を振る」「松の枝を結ぶ」「標(しめ)を結う」などがありました。「領巾」は女性が肩にかけた細長い布のことで、「標」を結うというのは縄を張り巡らすことです。

さやけし
サヤケシは、対象から感じられる静謐さの中にたたえられている霊的なもののざわめきを意味する。霊威あるもののざわめきは、一方では畏怖すべきものともなる。また一方では、畏怖する力の大きさから、その対象を讃えるものともなる。この二面性をもとことばがサヤケシである。
サヤケシの語源を、澄みきった冷たさを表す「冴(さ)ゆ」に求める説もあるが、異界の霊威あるもののざわめきを意味するサヤに、「露けし」や「のどけし」と同じように形容詞をつくる接尾語ケシがついた言葉と考えるべきであろう。サヤケシの霊威が際立っている状態を讃えるときに、くっきりとしている、明るくはっきりとしている、清明だという意味も生まれた。そのため「冴ゆ」とも重なる部分が多いのだと思われる。
サヤケシは、川や波音などから聴覚的に感得された清明さを讃美するときにも用いられた。また、川を見ることを契機とし、視覚的に霊威を讃美したサヤケシもある。サヤケシは、原文では「清」と表記されることが多いが、「清」は『万葉集』では「きよし」にもあてられる字でもあり、両者が重なりを持つことを示している。対象の清浄な状態そのものを示すのがキヨシ、そこから受けた主体の清明な情意・感覚を表すのがサヤケシとなる。両者は重なりつつも区別できよう。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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