| 訓読 |
霰(あられ)打つ安良礼(あられ)松原(まつばら)住吉(すみのゑ)の弟日娘(おとひをとめ)と見れど飽かぬかも
| 意味 |
安良礼の浜の松原は、住吉の愛らしい弟日娘と同じに、いくら見ても見飽きることがない。
| 鑑賞 |
長皇子(ながのみこ)の歌。文武天皇の慶雲3年(706年)9月から10月にかけて難波宮への行幸があり、その折のもの。摂津の住吉で、自らの旅情を慰めるため、この地にいた弟日娘(おとひをとめ)を侍らせ、一緒に安良礼松原を眺めて詠んだ歌です。長皇子は天武天皇の第4皇子で、母は天智天皇の娘の大江皇女。また弓削皇子の異母兄にあたります。軽皇子(文武天皇)擁立の時、有力な対立候補とされながら、葛野王の発言によって敗れた人です。『万葉集』には5首の短歌が載っています。子女には栗栖王・長田王・智努王・邑知王・智努女王・広瀬女王らがおり、また『小倉百人一首』の歌人の文屋康秀とその子の文屋朝康は、それぞれ5代、6代目の子孫にあたります。
「あられうつ」は、同音で「安良礼」に掛かる枕詞。実際にあられが降っていたというのではなく、「安良礼」を引き出すための、皇子による造語ともいわれます。「安良礼松原」は、大阪市住吉区にあった松原。文学者の犬養孝は、「神功皇后紀にも『烏智箇多能 阿羅々麻莬麼邏(をちかたの あららまつばら)』の語もあって、疎々(あらあら)松原の意で『あらら松原』といわれたものが地名化して『あられ松原』と転じたものであろう」と言っています。「弟日娘」は未詳ながら、住吉の港の遊行女婦で、また長皇子に歌を贈った清江娘子(巻第1-69)と同一人物ではないかとも考えられています。もしそうだとしたら、二人はすでに相当の交情があったようです。「見れど飽かぬ」は、見ても見ても見飽きない意の慣用成句。当時の貴族や宮廷歌人にとって、旅先での「見飽きぬ」という賛辞は、その土地の霊力(地霊)を褒め称える「国褒め」の定型でもありました。
上句の「あられ打つ あられ松原」というリフレインが非常に効果的であり、「ア」音の連続が、実際に霰が松の葉に弾けるような軽快で鋭い響きを生んでいます。犬養孝はこの歌を評し、「”あられ打つ あられ松原”の調子のよさといい、下三句の単純率直な表現といい、佳人をいだいてあられ松原の壮観を見る有頂天の陶酔感にあふれている」と述べ、斎藤茂吉は、「不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、むしろ勁健(けいけん)とも謂うべき歌調である」と言っています。なお、同じ時に志貴皇子が詠んだ歌が巻第1-64にあり、志貴皇子が詠んだ「霜」に応じて「霰」を持ちだしたという事情もあるようです。

天武天皇の子女
皇子
高市皇子/草壁皇子/大津皇子/忍壁皇子/穂積皇子/舎人皇子/長皇子/弓削皇子/新田部 皇子(生年未詳)/磯城皇子(生没年未詳)
皇女
十市皇女/大伯皇女/但馬皇女/田形皇女/託基皇女/泊瀬部皇女(生年未詳)/紀皇女(生没年未詳)
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斎藤茂吉について
斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。
子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。

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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |