| 訓読 |
66
大伴(おほとも)の高石(たかし)の浜の松が根を枕(まくら)き寝(ぬ)れど家し偲(しの)はゆ
67
旅にしてもの恋(こほ)しきに鶴(たづ)が音(ね)も聞こえざりせば恋ひて死なまし
68
大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜なる忘れ貝(がひ)家なる妹(いも)を忘れて思へや
69
草枕(くさまくら)旅行く君と知らませば岸の埴生(はにふ)ににほはさましを
| 意味 |
〈66〉
美しい大伴の高石の浜に立つ松の根、その根を枕にして寝ていても、やはり大和の家が偲ばれてならない。
〈67〉
旅先でただでさえもの恋しいのに、鶴の鳴き声すら聞こえなかったら、家恋しさのあまり死んでしまうだろう。
〈68〉
大伴の御津の浜にある忘れ貝だが、家に残っている妻のことをどうして忘れたりしよう。
〈69〉
旅のお方だと存じ上げていたら、岸の黄色い土であなたの衣を染めて差し上げましたのに。
| 鑑賞 |
題詞に「太上天皇、難波の宮に幸す時の歌」とある歌。太上天皇は、持統天皇。持統天皇の難波宮行幸の記録は史書には見えないので、『続日本紀』にある、文武天皇3年(699年)正月の難波宮幸に同行したのではないかとされます。難波宮は、天武天皇の御代に築かれ、今の大阪市東区法円坂町あたりにあった副都。難波は、古くは仁徳天皇、近くは孝徳天皇の都だった地であり、交通、対外関係において重要であると同時に、禊(みそ)ぎの地として信仰されたところでもありました。そのため、天皇の行幸も頻繁に行われました。
66は、置始東人(おきそめのあずまひと)の歌。置始東人は、文武期の宮廷歌人で、弓削皇子が亡くなった時に長短歌3首の挽歌(巻第3-204~206)を詠んでいます。この歌も、弓削の同母兄長皇子を首座に置く場での詠作とされます。「大伴」は、難波あたり一帯の地。「高石の浜」は、大阪府堺市南部から高石市にかけて続く浜寺あたりの海岸。古来、景勝の地だったといいます。「松が根を」は、美しい松の根であるのに、その松の根を。「枕き寝れど」の「枕き」は「枕」を動詞化した語で、枕にして寝るけれど。土地の景をほめつつも、それに土地の美女をにおわせ、その美女と共寝する意をも込めているようです。「家し偲はゆ」の「し」は、強意の副助詞。「偲はゆ」は、慕い思われる。
67は、高安大島(たかやすのおおしま:伝未詳)の歌。「旅にして」は、旅先にあって。「もの恋しきに鶴が音も」の原文は「物恋之鳴毛」で解読困難なため、伝来していくうちに脱落改変があったものとみて、文字を補い「物恋之伎尓鶴之鳴毛」とする案が提示されています。「聞こえざりせば」の「せば」は、事実に反することの仮定で、もし聞こえなかったならば。「恋ひて死なまし」の「恋ひ」の原文「孤悲」は、独りでいる悲しみを表す用字。「まし」は、仮設の推量の助動詞。なお、「鶴」が詠まれている歌は『万葉集』全体では47首あり、難波の鶴だけでも11首あります。詠まれた季節も、遣新羅使が真夏の瀬戸内海を航行した折の歌が3首あるなど、こんにちのような越冬期だけの棲息ではなかったことが分かります。当時は各地の河川の出口のいたるところに鶴の好む湿原が広がっていたらしく、万葉歌の鶴が全国に及んでいるのはそのためだったと見られています。
68は、身人部王(むとべのおおきみ)の歌。身人部王は、奈良朝風流侍従の一人で、養老5年(721年)正月に従四位上を授けられています。「御津の浜なる」「家なる」の「なる」は、~にある。「忘れ貝」は、二枚貝の殻の片方だけになった貝または鮑などの一枚貝。「忘れ貝」は集中に6例、「恋忘れ貝」も6例あり、忘れ草(ヤブカンゾウ)を身につけると憂いや恋を忘れられると信じたように、忘れ貝も恋の苦しさを忘れられるという俗信があったと見られています。「忘れて思へや」の「忘れて思ふ」は、後世の「思ひ忘る」と同じ意味で、忘れることも思い方の一つと見なした表現。「や」は、反語。
69は、難波の遊行女婦(あそびめ)とされる清江娘子(すみのえのをとめ)が長皇子(天武天皇の第4皇子)にさしあげた歌。文武天皇3年(699年)、長皇子が、難波行幸に従駕した際のやり取りとみられ、行幸とはいえ旅という立場からか、軽くはなやいだ歌がほかにも多く残っています。「草枕」は、草を枕に寝る意で「旅」に掛かる枕詞。「知らませば」の「ませば」は、事実に反する仮定を表し、したの「まし」と呼応します。「埴生」の「埴」は、黄色または赤色の粘土で、布の染料として使われました。この時代、上町台地の西側は埴生の崖になっており、住吉は埴の産地として知られていました。「にほはさましを」の「にほふ」は色うるわしい意で、色うるわしくさせる。この歌には、単に衣を染めようというのではなく、神が住む神聖な土地の黄土を身につけることによって、神のご加護を得ましょうという意味が込められています。
なお、長皇子が、巻第11-65で歌った弟日娘(おとひをとめ)と、ここの清江娘子が同一人物ではないかとの説があり、もしそうだとしたら、二人の間には相当の交情があったと思われます。遊行女婦は「うかれめ」とも訓(よ)み、彼女たちは、官人たちの宴席で接待役として周旋し、華やぎを添えました。ことに任期を終え都へ戻る官人のために催された餞筵(せんえん)で、彼女たちのうたった別離の歌には、秀歌が多くあります。その生業として官人たちの枕辺にもあって、無聊をかこつ彼らの慰みにもなりました。しかし、そうした一面だけで遊行女婦を語ることはできません。彼女たちは、「言ひ継ぎ」うたい継いでいく芸謡の人たちでもありました。

難波宮(なにわのみや)について
難波宮は、7世紀中~8世紀末に、現在の大阪市中央区法円坂一帯に所在した宮殿です。上町台地を中心とするこの地には,古くは応神天皇の大隅(おおすみ)宮、仁徳天皇の高津宮、欽明天皇の祝津(はふりつ)宮などの宮室が置かれたと記紀は伝えています。
大化元年(645年)6月、飛鳥板蓋(いたぶき)宮における蘇我入鹿暗殺事件を発端として大化改新が開始されると、同年12月、孝徳天皇は都を飛鳥から難波長柄豊碕(ながらとよさき)に移しました。654年に天皇が没すると、都は再び飛鳥に遷りました。壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は、難波宮の整備にも力を注ぎ、天武6年(677年)に丹比(たじひ)麻呂を摂津職大夫とし、難波に羅城を築きました。しかし、朱鳥元年(686年)1月、難波の大蔵省から失火して宮室はことごとく焼けたと『日本書紀』に記されています。焼失後の難波宮については明らかでないものの、文武・元正・聖武の各天皇の難波宮行幸の記事が残されています。
神亀3年(726年)、聖武天皇は藤原宇合を知造難波宮事に任じて、難波宮の大規模な再建に着手しました。工事は天平4年(732年)ごろに一段落しましたが、740年に藤原広嗣の乱が起こると、天皇は伊勢に難を避け、その後、都を平城京から山背の恭仁(くに)京,近江の紫香楽(しがらき)宮と転々と移し、次いで744年難波宮を皇都と定めました。しかし翌年には再び平城京に還都することになります。その後も難波宮は維持されていましたが、延暦12年(793年)の太政官符に「難波大宮はすでに停止されたので、摂津職を摂津国に改めよ」との記載があり、このころ廃絶したものとみられます。
難波津を中心とする古代の交通・外交・経済・軍事の要所に設けられた難波宮は、孝徳朝の長柄豊碕宮以来、聖武朝の難波宮に至るまで約150年の間、日本の首都としてまた副都として古代史上に大きな役割を演じました。
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