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巻第1(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第1-71~73

訓読

71
大和(やまと)恋ひ寐(い)の寝(ね)らえぬに心なくこの洲崎廻(すさきみ)に鶴(たづ)鳴くべしや
72
玉藻(たまも)刈る沖辺(おきへ)は漕(こ)がじ敷栲(しきたへ)の枕のあたり忘れかねつも
73
我妹子(わぎもこ)を早見(はやみ)浜風(はまかぜ)大和なる我まつ椿(つばき)吹かざるなゆめ

意味

〈71〉
 大和が恋しくて寝るに寝られないのに、思いやりもなく、この洲崎あたりで鶴が鳴いてよいものだろうか。
〈72〉
 大和が恋しくて寝るに寝られないのに、思いやりもなく、この洲崎あたりで鶴が鳴いてよいものだろうか。
〈73〉
 早く愛しい妻に逢いたいと、浜に吹く早風よ、大和で私を待つ松や椿に、この思いを伝えてくれないなんてことがないように。

鑑賞

 題詞に「大行天皇、難波宮に幸しし時の歌」とある3首。「大行天皇」とは、本来天皇崩御後、御謚号を奉らない間の称であったのが、この頃には、先帝の意味で用いるようになっており、『万葉集』の例ではすべて文武天皇を指しています。行幸の時期は、文武3年(699年)正月と慶雲3年(706年)9月で、71・72と73とに別れます。

 
71は、忍坂部乙麻呂(おさかべのおとまろ:伝未詳)の歌。『万葉集』にはこの1首のみ。「寐の寝らえぬに」は、寝ても眠れないのに。「心なく」は、思いやりなく。「洲崎」は、海上に長く突き出た渚の崎。「廻」は、~の辺り。「鳴くべしや」の「や」は、反語。鳴いてよいものか、鳴くべきではない。同じ難波の「鶴」でも、その妻呼ぶ声にあやかって旅愁を慰めたいという歌がある(巻第1-67)一方、ここでは、妻が思われてならないから鳴くべきでないと訴えています。窪田空穂はこの歌に関して次のように述べています。「旅愁を、我と慰めるための歌であるが、調べに迫るものがあって、その平淡なのを救っている。この歌に限らず、この種の歌のすべてに通じてのことであるが、旅愁の大半は旅の侘びしさより起こるものである。行幸の供奉としての旅は、侘びしさにも限度があって、その家居の時とさして異なったものではなかろうと思われる。異なるのは、妹の添っていないことだけである。すなわち旅愁は、いわゆる旅愁とは異なって、妹と別れていることによって起こってくるものなのである。ここに当時の人の、いかに善意に富んでいたかを思わせるものがある」

 
72は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)の歌。藤原宇合は不比等の3男で、藤原4家の一つである「式家」の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、後に「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守 (たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥の蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥 (だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。正三位参議で終わりましたが、長く生きていれば当然、納言・大臣になれたはずの人です。『万葉集』には6首の歌が載っています。この歌を詠んだ時の宇合は、まだ13歳です。旅の宿であてがわれた女(遊行女婦)への情愛の気持ちを初々しく詠んでいます。「玉藻刈る」は「沖」の枕詞。「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕」は、昨夜共にした女の枕をいっています。「忘れかねつも」の「も」は詠嘆で、忘れることができない。独詠というより、翌朝に舟遊びをしていて、親しい部下あたりから沖の方へ漕ぎ出しましょうかと問われ、答えた歌のようです。

 
73は、長皇子(ながのみこ)の歌。「早見」は、地名(住吉あたりか)または形容詞の連体形「早み」。妻を早く見たい意との掛詞になっています。「大和なる」は、大和にある。「まつ」は「松」と「待つ」の掛詞になっています。「吹かざるなゆめ」の「な」は禁止、「ゆめ」は、決して。『万葉集』にはこのように、旅先にあって家の妻を思う歌が数多くみられますが、妻との心のつながりを歌うことによって、旅先での厄災から身を守ろうとする意図が込められているとされます。
 

藤原宇合の略年譜

694年
藤原不比等の三男として生まれる。初名は「馬養」
716年8月
遣唐副使に任ぜられ、717年に入唐、翌年10月に帰国。
このころ「宇合」に改名。
719年正月
遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙。
719年7月
常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命される。
721年
正四位上に昇叙。
724年4月
式部卿の官職にあったが、蝦夷反乱の平定のため持節大将軍に任命され出兵、11月帰還。
725年
従三位に昇叙。
726年
式部卿のまま、難波宮再建工事の最高責任者である知造難波宮事に任ぜられる。
732年
参議・式部卿として西海道節度使に任ぜられる。
737年8月
平城京に疫病が蔓延、藤原四兄弟(※)の最後に死去。最終官位は参議式部卿兼太宰帥正三位。

※藤原四兄弟
 藤原武智麻呂(680~737年)・・・藤原南家の開祖
 藤原房前(681~737年)・・・藤原北家の開祖
 藤原宇合(694~737年)・・・藤原式家の開祖
 藤原麻呂(695~737年)・・・藤原京家の開祖

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