| 訓読 |
飛ぶ鳥の明日香(あすか)の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ
| 意味 |
明日香の里をあとにして、奈良の都に行ってしまえば、あなたが住んでいたところは見えなくなってしまうのか。
| 鑑賞 |
和銅3年(710年)の2月に、藤原宮から寧楽宮(奈良の宮)に遷った時に、御輿を長屋原にとどめ、古都藤原京を振り返り見て作ったという歌です。作者名は記されていませんが、元明天皇とされます。「長屋原」は、現在の天理市南部にあり、ちょうど中つ道の中間点にあたります。中つ道とは、香具山からまっすぐ北に伸びた道で、大和国内には、上つ道、中つ道、下つ道という南北を平行して縦貫する3本の古道(大和三道)がありました。両京間の距離は、約20kmあり、藤原朝人にとって、長屋原を過ぎれば明日香・藤原の古京と完全に訣別するのだという強い思いがあったことでしょう。
「飛ぶ鳥の」は、鳥は朝明(あさけ)にとくに飛来することから、類音の「明日香」にかけた枕詞。「置きて去なば」は、捨て置いて離れて行ったならば、そのままにして立ち去ったならば。「君があたり」は、君のいらっしゃる場所。元明天皇の亡き夫、草壁皇子のお墓だとする説や草壁皇子の宮殿であった島宮とする説などがあります。「見えずかもあらむ」は、見えなくなってしまうのだろうか。「かも」は、詠嘆的疑問、「む」は、推量。遷都にあたって元明天皇は、もう一度、飛鳥の風景を目に焼きつけておきたかったのでしょう。飛鳥と藤原の地は、実に約100年以上にわたって都の置かれた土地です。かの地で生を受け、暮らした人間の感慨が、ここにあらわれています。
なお、現在、「飛鳥」と書いて「あすか」と読まれているのは、「飛ぶ鳥のアスカ」という枕詞があまりに有名になったために、「飛鳥」と書いても「あすか」と読まれるようになったものです。その明日香には、自分たちの祖先のお墓も、自分たちの祖先が営んできた都もあります。しかし、都を発展させるためには、どうしても奈良盆地の北方に遷都する必要があった・・・。実は、元明天皇は遷都には消極的だったといわれます。それを押し切ったのが藤原不比等で、その理由は、藤原の終わりごろから目立ち始めた政治や世情の行き詰まりを切り開くためといい、さらには遣唐使一行からの報告にあった唐の長安の有様などに大いに刺激を受けたことが考えられます。唐に張り合うための国威を示す必要があったということなのでしょう。
元明天皇の時代には、この平城京遷都をはじめとして、和同開珎(わどうかいちん)の発行(和銅元年:708年)、『古事記』の完成(和銅5年:712年)、さらに『日本書紀』『風土記』の編纂命令など、史上重要な事業や施策が多く行われています。元明天皇は、そうした時代と文化の移行期に生きた人でした。

平城京遷都
和銅3年(710年)、天智天皇の皇女である元明女帝は、藤原京の西端の下ツ道を真北に延長し、それを軸に平城京を建設しました。東西4.3km、南北4.8kmの大きさで、中央を南北を走る朱雀大路は72mもの幅がありました。ただ、現地の地形にかまわず藤原京を平行移動させたので、西の京(右京)は山がちとなり住みづらかったようで、そこで外京(げきょう)とよばれる東側に張り出した区域を作りました。東大寺や興福寺、そして現在の奈良市の中心ははここにあります。
平城京遷都の審議は、文武天皇在世中の慶雲4年(707年)に始まり、和銅元年(708年)には元明天皇により遷都の詔が出されました。ただし、同3年(710年)3月 に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅などは、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられています。この時代は、仏教の力によって国を守る「鎮護国家」思想が盛んで、聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺を建て、東大寺に大仏を作って仏の加護を祈りました。また、唐から来日した鑑真に戒壇を作らせて僧侶を厳しく統制しました。
なお、聖武天皇の恭仁京や難波京への遷都によって、平城京は一時的に放棄されますが、天平17年(745年)には、再び平城京に戻され、その後、延暦3年(784年)に桓武天皇によって長岡京に遷都されるまで政治の中心地であり続けました。
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大和三道
「大和三道」は大和の古道ともよばれ、「山の辺の道」とは別に、奈良盆地の中央から東寄りを南北に平行、等間隔に並んだ縦貫道です。東から順に「上つ道」「中つ道」「下つ道」とよばれ、長さはおよそ4里あります。『日本書紀』の壬申の乱に関する記事で、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前に完成していたとみられています。
利用目的についてはよく分かっていませんが、当時は飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われたため、その資材の運搬のための道路であるとも考えらます。また、壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないかとも推測されています。現在でも、主要な交通路としての役割を果たしており、昔の面影が残っている所が多く存在しています。
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古典に親しむ
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