| 訓読 |
84
秋さらば今も見る如(ごと)妻ごひに鹿(か)鳴かむ山ぞ高野原(たかのはら)の上
| 意味 |
〈84〉
秋になると、ご覧のように、妻恋の鹿の声が聞こえてくる山です、この高野原の上は。
| 鑑賞 |
長皇子(ながのみこ)が、自身の邸宅(佐紀宮)で従兄弟の志貴皇子と宴(うたげ)した時の歌で、歓待の挨拶代わりに詠んだものとされます。時期は不明。「秋さらば」は、秋になると。「今も見る如」は、今も見ている如くに。「高野原」は、奈良市佐紀町の佐紀丘陵から西南の一帯で、「高野原の上」は、佐紀山。「鹿鳴かむ」と詠んでいるのは、中国の詩集『詩経』に載っている、賓客を遇するときに詠じる『鹿鳴』の知識を取り込んでいるとされます。『鹿鳴』は、明治期に建てられた鹿鳴館の名の由来となった漢詩です。また、長皇子と志貴皇子は、ともに天皇の血を引きながら、華々しい政治の舞台に立つことはありませんでした。長皇子は狩りや旅の歌を残し、志貴皇子は四季の移ろいを繊細な目で見つめました。年齢は志貴皇子の方がかなり年上でしたが、共に文人であり、お互いの気持ちは、言葉にせずとも通じ合っていたのでしょう。
斉藤茂吉は、「この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が濃(こま)やかに動いているにも拘らず、そういう主観の言葉というものが無い。それが、『鳴かむ』といい、『山ぞ』で代表せしめられている観があるのも、また重厚な『高野原の上』という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している」と評しています。なお、こうした場合は、和え歌のあるのが普通であり、元暦校本、冷泉本、神田本の目録には、この次に、「志貴皇子御歌」とあるので、本来は和え歌のあったのを、逸したのであろうといわれています。
長皇子は天武天皇の第4皇子で、母は天智天皇の娘の大江皇女。また弓削皇子の異母兄にあたります。『万葉集』には5首の歌が載っています。子女には栗栖王・長田王・智努王・邑知王・智努女王・広瀬女王らがおり、また『小倉百人一首』の歌人の文屋康秀とその子の文屋朝康は、それぞれ5代、6代目の子孫にあたります。

『詩経』と日本人との関り
『詩経』と日本人の関わりは、1300年以上の歴史を持つ非常に深く精神的なものです。日本の文学や言語、さらには元号にいたるまで、『詩経』は日本人の教養と思索の根底に静かに息づいてきました。『詩経』が日本に伝来したのは、遅くとも大化の改新(7世紀)より前、仏教や漢字の伝来とほぼ同時期とされています。
最初期にその洗礼を受けたのが、日本最古の和歌集である『万葉集』です。『詩経』の最大の特色である、自然の景物をきっかけに己の感情を詠み出す「興」の技法は、万葉歌人が用いた「序詞(じょことば)」の構造に大きな影響を与えた、あるいは元々日本人が持っていた感性と深く共鳴したとされています。
万葉歌人の中でも特に儒教的教養の深かった山上憶良は、『詩経』の精神を強く意識していました。彼の代表作「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも」という家族愛・児童愛の視点は、『詩経』国風(民謡)に流れる素朴で切実な人間愛の系譜と地続きであると言えます。
平安時代になると、漢学(文章道)を学ぶ貴族たちにとって、『詩経』(当時は注釈書を伴って『毛詩(もうし)』と呼ばれた)は必須の教科書となりました。『詩経』の序文(大序)にある「詩は志のゆく所なり、心に在るを志と為し、言葉に発するを詩と為す(情動が言葉となったものが詩である)」という定義は、紀貫之が『古今和歌集』の仮名序で述べた「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」という有名な和歌論の決定的なモデルとなりました。
また、『源氏物語』や『枕草子』を読めば、当時の貴族たちが会話や手紙のやり取りの中で、当然の前提として『詩経』のフレーズを引用し合っていたことが分かります。単なる外国の文献ではなく、自らの感情を上品に表現するための「雅(みやび)」なツールでもあったのです。
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おもな万葉学者(故人)

(佐佐木信綱)
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |