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巻第2(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第2-101・102

訓読

101
玉葛(たまかづら)実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
102
玉葛(たまかづら)花のみ咲きてならずあるは誰(た)が恋にあらめ我(あ)は恋ひ思(も)ふを

意味

〈101〉
 玉葛のように実の成らない木には、恐ろしい神が取り憑くと世間ではいいます。実の成らない木ごとに。
102〉
 玉葛のように花だけが咲いて実が成らないというのは、誰の恋のことでしょう(あなたの恋にほかなりません)。私の方はひたすら恋い慕っていますのに。

鑑賞

 101は、「大伴宿祢(おほとものすくね)、巨勢郎女(こせのいらつめ)を娉(よば)ふ時」、つまり結婚しようと言い寄った時の歌、102は、巨勢郎女が答えて贈った歌です。大伴宿祢は、諱(いみな)を安麻呂(やすまろ)といい、右大臣・長徳(ながとこ)の第6子、旅人田主宿奈麻呂坂上郎女らの父にあたります。672年の壬申の乱では、叔父の馬来田(まぐた)、吹負(ふけい)や兄の御行(みゆき)とともに天武側について従軍して功をあげました。天武政権になって後は功臣として重んぜられ、新都のための適地を調査したり、新羅の使者接待のため筑紫に派遣されたりしました。和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍・正三位の地位にあり、佐保に居宅があったため、「佐保大納言卿」と呼ばれました。ここの歌を詠んだ時の安麻呂は、まだ20歳過ぎだったとされます。巨勢郎女は、近江朝の大納言巨勢臣人の娘で、安麻呂の妻となり、後に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子を生んでいます。『万葉集』にはこの1首のみです。

 
101の「玉葛」の「玉」は美称、「葛」は、ビナンカヅラ、ゴトウヅルなどがあげられていますが、特定するのは困難で、蔓性植物の総称とするのが穏当のようです。実のならない例として歌ったものとされ、枕詞とする説もありますが、ここは玉葛のようにという修飾語の働きをしています。「実ならぬ木」は、靡こうとしない女の譬え。「ちはやぶる」は、荒々しい、たけだけしい意で、荒々しい神ということから「神」に掛かる枕詞。宿祢の求婚は、言葉では優しく応じながら、実際になかなか相逢おうとしない郎女に対し、当時の言い伝えを持ち出して威嚇し、自分に靡くように誘いかけています。実のならない木に神仏が取り憑く話は、今昔物語などにも見えます。

 
102の「玉葛」は、大伴宿祢の歌の冒頭の語を受けたもので、「花」の枕詞とする説もありますが、ここも玉葛そのものを指すと解されます。「花のみ咲きてならずあるは」は、花が咲くだけで実がならないのは、の意で、相手に誠意のないことの譬え。宿祢の歌に反撃しながらも、末句では自身の愛情をよりいっそう表出しています。なお4・5句の原文は「誰恋尓有目 吾孤悲念乎」となっており、はじめの「恋」は一般的な「恋」の字で表記しているのに対し、あとの方の「恋」は「孤悲」と表記しています。『万葉集』では多くが正訓の「恋」の文字で記されており、なかには「孤悲」の音仮名も使われていますが、ここでは同じ歌の中で使い分けがされています。同じ恋でも、あなたの不誠実な恋と、私の孤独な悲しみを伴う一途な恋とは違うということを表現しようとしたのでしょうか。とすれば、和歌にあっても、文字の視覚による情報がとても重要であるのが理解できます。
 


大伴家の人々

  • 大伴安麻呂
    壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。
  • 巨勢郎女
    安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『 万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。
  • 石川郎女(石川内命婦)
    安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。
  • 旅人
    安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。
  • 稲公(稲君)
    安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。
  • 田主
    安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。
  • 古麻呂
    父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『 万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。
  • 坂上郎女
    安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。
  • 書持
    旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。
  • 池主
    出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。

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