| 訓読 |
やすみしし わご大君(おほきみ)の 恐(かしこ)きや 御陵(みはか)仕(つか)ふる 山科(やましな)の 鏡の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 音(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ
| 意味 |
恐れ多くも我が大君の御陵にお仕えする、その山科の鏡の山で、夜は夜どおし、昼は日中ずっと、声をあげて泣き続けてばかりいた大宮人たちは、今はもう散り散りに去っていく。
| 鑑賞 |
天智天皇の挽歌として9首並んでいるうちの最後、山科の御陵に奉仕していた大宮人たちが、葬儀の期間を終えて退散するときに、額田王が作った歌。もっとも山科陵の造営は翌年の壬申の乱で遅れたため、これは仮の埋葬だったかもしれません。額田王も、その奉仕の中に加わり、最後まで残っていたものとみえます。「やすみしし」は、原文の「八隅知之」の表記から、八方を領有し治めていらっしゃる意。「恐きや」は、申すも恐れ多い。「鏡の山」は、京都市山科区にある御陵の北側の山。「ことごと」は、ことごとく。「ももしきの」は、原文「百敷城乃」で、多くの石や材木で築く意から「大宮」に掛かる枕詞。「大宮人」は、宮中に仕える役人。
公的な儀礼の節目における歌であるため、事柄を述べることが主になり、ここでは「大宮人は去き別れなむ」だけが必要な事柄になっています。とはいえ、それまで天智、天武両帝の間にあって複雑な事情が身辺に錯綜した額田王にとって、一段落がついて、かえって様々な回想が胸中に去来したことでしょう。かつて若き天智と行動を共にし、軍令のままに出帆の歌(巻第1-8)を高らかに歌い上げたにもかかわらず、その挽歌を詠むことの無常感も大きかったのではないでしょうか。この歌からは、悲しみと虚脱感に打ちひしがれている様が浮かび上がってきます。また、9首の締めくくりとして、天智のいちばんよき理解者だったかもしれない彼女の歌が置かれていることにも、何か深い意味合いがあると感じざるを得ません。
窪田空穂はこの歌について、「語がきわめて少なく、また間(ま)がきわめて静かなのは、その悲哀の情をあらわすに適切なものである。この時宜に適させているところに手腕がうかがわれる」と述べています。

中大兄皇子(天智天皇)の略年譜
645年 中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)
叔父の孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子に
異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで自害に追い込む
646年 孝徳天皇が難波に遷都
改新の詔
653年 孝徳天皇を置き去りにし、群臣らを率いて大和に戻る
654年 孝徳天皇が崩御、母の斉明天皇(皇極)が重祚して即位
658年 有間皇子を謀反の罪で処刑(有間皇子の変)
660年 百済が滅亡
661年 百済救援に派兵しようとするも、筑紫で斉明天皇が崩御
663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗
667年 近江大津宮に遷都
668年 天智天皇として即位し、弟の大海人皇子が東宮となる(1月)
668年 蒲生野で、宮廷をあげての薬狩りが行われる(5月)
669年 中臣鎌足が死去、前日に藤原姓を与える(10月)
670年 日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成
671年 大友皇子を太政大臣に任命(1月)
671年 発病(9月)
671年 大海人皇子を病床に呼び寄せる(10月)
大海人皇子はその日のうちに出家、吉野に下る
大友皇子を皇太子とする
672年 崩御(1月)

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